BOOKS 東方同人誌

肥溜め落ち太郎 / 水田アマガエル のアバター画像
[ クリエイター ]
肥溜め落ち太郎 / 水田アマガエル

最果ての向こうへ。黎明 

2017年03月11日更新

カテゴリー
東方同人誌, 小説
発行イベント
紅楼夢9
ページ数
282
版型
新書
発売日
2013/10/13
価格
500円


 『いや、ここって地下世界だろう? なんで雪が降ってるのかと思って……』
 『あん? まあ冬だから雪が降るのは当然だね』
 東方地霊殿 ~ Subterranean Animism.より


 地獄。その言葉を聞いた時にあなたはどんな光景を思い浮かべるだろう?
 醜悪な極卒鬼と痩せっぽちの罪人ばかりが住む叫喚の楽園。大抵の人はそんな光景(イメージ)を思い浮かべるんじゃないだろうか。
 当然それは間違いじゃない。実際、地獄として現在も正規に運用されている施設ではその様な光景も日夜繰り広げられている。運用するのは『是非曲直庁(ぜひきょくちょくちょう)』だ。仏教世界の中枢機関であり、『仏教世界の存続』と『輪廻の清浄』の二つを保つ事を至上目的として掲げている。彼らはその目的を達成するために世界のあちこちに適当な空間を見つけては、地獄道や天道――仏教世界を構成する六道の内、善人と悪人が向かう二種の土地の事――を作っている。逆説、彼らが地獄と呼ぶ物理的な土地は、元がどうあれ地獄となるんだ。
 おっと、話が逸れてしまったね。つまり、僕が言いたいのは、地獄といってもそこに住む生物が罪人と鬼だけとは限らないという事なんだ。たとえば、『幻想郷』の真下、奥深くに存在する巨大な地下空洞は良い例だと思う。
 僕が生まれた時には既にあった場所だから、その成り立ちは予め頭の中に記録された情報(データベース)に頼って推測するしか無い。だけど、おそらくはマグマ溜まりが何らかの拍子に噴出した跡地か何かだと思う。常識で考えれば生命が居るはずがない。だからこそ僕はただただ、『遺伝子』と言うヤツの強欲さに呆れるんだ。だって、地下空洞における生物の存在証明は何よりも僕自身に依って果たされているのだから。そいつが徹底した利己主義者でなければ僕も生まれていなかったかと思うと、口から出かかった溜息を飲み込む他に無いね。
 何はともあれ、芽胞(がほう)――細菌に極めて高い熱性耐性を与える細胞構造――か何かを形成する能力を持った菌の侵入を皮切りに、地下には独自の生態系が生まれた。とは言っても地下と地上じゃありとあらゆる前提条件が違いすぎる。あたり前みたいに、ベルクマンの法則――恒温動物は、同じ種でも寒冷な地域に生息するものほど体重が大きく、近縁な種間では大型の種ほど寒冷な地域に生息する傾向が見られる事――なんて小難しい物は無視している。よくわからない? そうだね、つまりはこんな極度の高温地帯では積極的な放熱が不可欠だから体重が小さくなる傾向が見られないとおかしい、と言う事だよ。
 岩、埃、僅かばかりの苔、そして膨大な熱が支配する赤黒い世界、それがこの地獄だ。生命の息吹なんて存在する筈が無い。誰もがそう考えていた。だって、タンパクの高次構造が保持される温度限界を軽く超えているんだ。赤熱した岩に苔が生えていたり、それを踏みつぶして強大な獅子が駆けたりなんて冗談みたいな話だろう。でも、それが現実だ。ここでは駆けるべき空の無い空間を切り裂く雄大な翼を持った鴉が、烏天狗に匹敵する風を引き連れている。捉えるべき灯りの無い空間を見通す眼を持った猫が闇に溶ける。それは一見、合理性を冒涜した様にも解釈できる。だけど、彼らの『過剰適応』は全て行き過ぎた過酷さに起因するのだと、僕の知識は教えてくれた。ほんの僅かな水を争って牙と爪を交わし、どちらかが倒れる事を強いられる。数千年の時を生きる烏天狗に匹敵する力を持った地獄の鴉が、いとも容易く獅子の餌食となる。そんな過剰な生存競争によって、彼らは地上では辿り着つかない領域へと押しやられてしまった。その結果が、地上における法則の超越であると言うことさ。
 それ程にとんでもない場所を、地獄へと作り変えようとした是非曲直庁(ぜひきょくちょくちょう)が何を考えていたのか僕は知らない。ただ、必死に生きる彼らの居場所を散々に弄った挙句、瓦礫を残して去っていった彼らが碌でもない存在だというのは確かだね。
 そんなこんなで地底世界を支配する物質には岩、埃、熱の三つに、倒壊した建造物が追加されるに至ったんだ。そう言えば、地底世界全体を指す名前として『旧地獄跡』、瓦礫の山を指して『旧都』と言う物も貰ったね。まぁ、正直キャラメルに付いて来るチープな玩具くらいにはどうでも良いよね。僕もそう思うし。小難しい話をして御免。正直僕も意味は良く分かっていないんだ。何せ、『知識』として持っているだけで『経験』は無い物が多いからね。でも、ここからは大事だからしっかり聞いて欲しい。

 彼女が死にかかっている。

 おはよう。何処にでも居る『僕』。あなたは確かに生まれては消える有象無象の一つかもしれないけど、彼女に選ばれたのはあなたなんだ。何故自分なのかって? 数千年を刻む地下の歴史の中、僅か数分に満たないタイミングで生まれた事、そこが彼女から半径一キロの距離であった事。それ以上の理由は必要無いだろう。『器』と『魂』の狭間に生じる『悲鳴の具現』である君には最高の環境じゃないか。ふむ。難し過ぎたか。眠気を払うには不適切だったみたいだね。じゃ、同義語反復(トートロジー)的でも良ければ別の言い方で教えてあげる。

 『彼女は君の伴侶だ』

 改めておはよう。あなたがまだ眠いのはよく分かっている。だけど急がないと間に合わなくなるんだ。さぁ、早くその曖昧な体で飛び立つんだ。今回だけは行く先も何をすれば良いかも全て教えてあげる。だから飛ぶんだ。あなたの大切な彼女のために。――あぁ、それで良い。じゃ、あなたが『異邦人(フォーリーナー)』に接触するまでの間に状況を説明してあげるよ。
 『地獄鴉』を知っているかい? あぁ、御免御免。知らない訳が無いよね。冗談だから、睨まないで欲しい。でも、君は知っているだけだから。もう一度聞いて理解して欲しいんだ。地獄鴉は腐肉食性者(スカベンジャー)としてポピュラーな種の一つだ。腐肉食性者(スカベンジャー)は、老い衰え傷を負った半死半生の獣や、地上から投棄される死体をついばんで細々と生きる力弱き生命体を指す。地下では少数派と言える飛行能力は、天敵からいち早く逃げる力を与え勢力拡大を助けた。だけど、直接戦闘能力の低さから、地下世界における生態系ピラミッドの最底辺は脱し切れていない。殆どの生物に捕食され得る彼らは、強い繋がりを持ったコロニーを形成してその生存率を向上させる。コロニー内で頭目を務めるのは大抵、最も年を重ね妖獣と化した個体だ。
 だから、あなたの大切な人は『特異個体』と言って良い存在だ。破格とも言える身体能力と妖力を内包した彼女は生を受けて数年で妖獣と化した。当然の成り行きとして群れを率いる事になった彼女は、火焔猫を始めとした本来天敵となる種にすら単騎で挑み、討ち取る等多大な戦果を上げた。もしも彼女がもう少し賢く、そして遥かに強かったなら。生態系の構成要素に変更を加えることも可能だったかもしれないね。我が物顔で旧地獄を闊歩する彼女は、少なくともそう願っていたと思うよ。
 だけどここは地獄だから。当然の如く願いは崩れ去る。僅かに慎重で無かった彼女のコロニーは鷹と狼の襲撃を受けて鬼と獅子の領域に追い込まれ、彼らの餌食となったんだ。驚くことじゃない。別にありふれた事だよ。彼女は無能だった訳じゃないし、むしろ全てにおいてこの上なく正しい選択をしていた。ただ運が悪かったんだ。ここはそう言う世界だから。
 そんなこんなで、虐殺の嵐を飛び、ほんの数匹の若い鴉を逃がした彼女は当然の対価として瀕死の重症を負った。それがつい数十分前の出来事だよ。手負いの獣を狩るのに必要なコストは、健康な者に必要なそれよりも圧倒的に少ない。千切れた手足を妖力で繋ぎ止め、溢れる小腸を手で受けながら飛ぶ彼女を怨霊が付け狙うのは、そんな単純過ぎる地下世界の法則だろうね。そして今。彼女は、廃墟群の郊外で強力な怨霊に囲まれて膨大な鳴き声を上げている。

 ――死にたくない((死なせたくない))。

 でも、そんなのは当たり前過ぎる願いだ。九割九分の獣はそうやって神への願いを掻き抱き頚椎を噛み砕かれる。そして死へと向かう道程で願いは恨みへと変じ、怨霊に成り果てるのだ。地底という世界に暮らす以上、どんな意志が介入する余地もなく同じ事態は発生する。故にそれは、何の変哲もない平和な日常と言う事が最も相応しいだろう。
 だから、あなたは急ぐんだ。
 地下世界の法則が彼女を殺すなら、そうでない場所で生きる『異邦人(フォーリーナー)』は彼女を生かすことができる筈だ。丁度都合よく、彼女の近くを適任な者が彷徨っている。
 こんな体じゃ何にも干渉できない? いいや。十分さ。そうやって思いを発する事ができるのならね。あなたはその思いで持って、『異邦人(フォーリーナー)』を彼女の下までおびき寄せれば良い。その『異邦人(フォーリーナー)』は都合良くも思いを読み取る能力に長けている様だからね。――あぁ、完璧な仕事だ。やるじゃないか。
 良かったね。これであなたの大切な人は取り敢えずの死を免れた。まずは、お疲れ様と言っておこうか。でも本当のお仕事はこれからだよ。
 何故って? だって、捕食行動は全ての生命に約束された権利じゃないか。死すべき定めの者が死なず、代わりに生きるはずの者が死んだ。法則の適応を拒んだのが第三者のエゴであったとしても、それは紛れも無い彼女の罪だよ。罪を犯すことを強制された『地獄鴉の少女』が受ける罰は地底世界の法則からの逸脱さ。全てを失い空虚になった彼女が、それまでと同じか少し酷い畦道(あぜみち)を歩いて無事で済むと思うかい? だから、これからはあなたが、彼女を見守ってあげるんだ。僕が誰かだって? 僕が話しかけているのは僕自身さ。ノードとエッジだけに囚われない僕たちは本質的には時間の流れから取り残されているからね。こうやって短い時間ならお話もできるのさ。だけど、僕があなたに連絡を取るのはこれが最後だよ。これ以上エネルギーを私用に回したら皆に迷惑だし、何より僕は僕自信を信用しているからね。大丈夫。あなたは暫く歯がゆい思いをするかもしれないし、辛い思いをするかもしれない。それでも、きっとあなたは彼女と添い遂げられる。ははっ、僕自信が保証するんだ。こんなに心強い物はないだろう?
 さて、そろそろ時間も来たようだし。退散させてもらおうかな。え? こんな体で何をすれば良いのかだって? 決まっているじゃないか。『指を咥えて見守っていろ』。耐えられなくなった時が、つまりはあなたが動くべき時だろうさ。酷いと思ったでしょ。だけど、痛みのない教訓に意味は無い。『あなた』が『僕』になる過程、そして『僕』が乗り越えないといけない道程は誰かに支えられて進める程になだらかじゃ無いんだよ。だから、もっと苦しむんだ。今あなたの胸を満たしている感情が遠い先、掛け替えの無い資源となってあなたを動かす事になるんだ――。
 おや、今度こそ限界だね、通信が乱れ始めた。さようなら。生まれたばかりの僕。そして、頑張って彼女が生を終える瞬間まで付き添ってあげるんだよ。大丈夫。あなたならできる。だってあなたは――
















 ――神様なんだから。

























 第一章


 その火焔猫は腹が減っていた。
 既に二ヶ月は何の食料も口にしていない。別に火焔猫が無能であった訳ではない。ただ単に旧地獄跡とはそう言う世界だというだけの至極単純な理由である。
 最後に口にしたのは鬼に食い散らかされた地獄鴉の内蔵である。群れ丸ごとが餌食になったらしく、発生した大量の食い残しは小食な火焔猫の腹を満たすには十分な量だった。しかし、火焔猫が仮にも恒温動物である限り、生きるだけでエネルギーは消費する。運悪く獲物を逃し続けた火焔猫は死の瀬戸際に立っていた。
 「あー……。柔らかいお肉。生まれたての赤ん坊のふともも……」
 からからに乾いた口をぽかんと開き、ぐるぐると腹を鳴らす。痩せこけた火焔猫が虚ろな眼で天蓋を見上げていた。
 「細い手首の骨。ぽっきり折ったら、ジューシーな髄がこぼれてくるから、落ちないようにごくりと飲んで……」
 幻覚の向こう側では赤子の足が手に握られている。切断面から垂れ下がる筋繊維は鮮やかなピンク色だ。後硬直も始まっていない新鮮な肉片は、よく見れば未だ痙攣(けいれん)に近い収縮運動を繰り返している。数ヶ月に一度のご馳走に喉が鳴る。火焔猫は居ても立っても居られずに大きく口を開け、一息にかぶり付いた。
 「――※△■!?」
 つつりと口元から一筋の鮮血が流れ落ちる。誤って噛んでしまった舌の痛みに、『彼女』は声にならない叫びを上げる。その声に、彼女の顔の横二十センチの距離に潜んでいた『苔鼠(シーダー)』が大慌てで逃げる。それは焦げた苔のこびり着く岩への極めて巧妙な擬態。見抜けなかった事に気がついた時には既に遅く、その緑の背中は視界の彼方に消えていた。
 「あぁ……、私のご飯……。二ヶ月ぶりのお肉……」
 落胆が彼女の全身に伸し掛かる。鼠のような小動物は、獲物として人の子程の巨体を持つ彼女には粗末過ぎる。だが、今の彼女はそんな粗食がこの上ないご馳走に見える程度には追い詰められていた。
 「うー。お腹すいたよぉ! ごーはーんー!! だーれーかー」
 その声に答えるものは居ない。火焔猫は単独行動を主とする生物だ。繁殖期を除いて、自分以外の個体はライバルに過ぎない。そして、彼女は突然に発情を迎えたという訳でも無かった。遠い昔に聞いた、『カミサマ』とやらが現れて、程よく腐った死体の山をプレゼントしてくれる。そんな都合の良い奇跡が起こらないかと、不毛な試みをしただけだ。
 「はぁ……。叫んだって、お腹空くだけだ……。ねよ……」
 大岩の上に彼女のしなやかな肢体が広がる。全てを飲み込むかの様に黒い毛並みはその艶に霞が掛かったかのようにくすんでいる。肋の浮いた腹が、そのみすぼらしさに拍車を掛けていた。肝心なときに役に立たない『カミサマ』に恨み節をぶつけながら、彼女はふてくされて眼を閉じる。
 しかし、彼女が柄にもなく『カミサマ』に感謝の言を述べたのはその僅か数分後だった。
 遠方から二人分の足音がする。驚くほど警戒心のない足音だった。その足音からは重量を感じない。おそらくどちらも子供の個体だろうと、彼女は検討を付ける。僅かな期待が小さな体を駆け抜けた。気配を極限まで殺して岩陰から下をそっと覗き込む。

 「――だから、帰――。この辺には火焔――」
 「そんなこ――、私はまだ――、無い――」

 彼女の燃え盛る紅の瞳はその桃色髪の少女に釘付けになった。童女と見紛うばかりの小柄な体。傷一つ無い真っ白で透き通った腕。柔らかそうな頬。適度にゆるんだふくらはぎ。未知故の期待なのか、その容貌がもたらす印象なのかは分からない。ただただその身にかぶりつきたいと言う強い衝動が彼女を突き動かした。
 「だからって、探索なんてさとり様がやらなくたって良いでしょう?」
 「それは……、一理あるわね。でも人手が無いんだから私がやらなきゃ仕方ないでしょう? 全く……、猫の手も借りたい位だわ」
 近づく姿に比例して、彼女の瞳が縦に細く収縮する。全身から気配が消える。二つに裂けた尾を軽く垂らしカウンターウェイトとして地面に着けた。身を縮め前傾姿勢を取る、彼女の巨体が闇に溶けた。
 対象との垂直距離は七メートル五十センチ。平行距離は二十メートル。故に、直線距離にして約二十一メートル三十センチ、時間距離は零コンマ三秒。その身に刻み込まれた本能が獲物との間にある距離を正確に弾き出す。
 この距離なら気が付かれる前にその頸動脈を噛み切れる。そう本能が告げた事を切っ掛けに、彼女は筋肉の中に残っていた全てのグリコーゲンを爆発的に燃焼させた。大四腿頭筋がATPの供給を受け限界まで収縮する。ばねのように押し縮められた背骨が一気に伸びきり、重心を一気に前方へとスライドさせた。
 「さとりさまっ! 危ない」
 音に迫る速さで、黒い猫が風を切る。白夜の様に白く輝く爪が、真っ黒い夜の闇を切り裂いた。
 「――ぐぅっ」
 地獄のように黒い血液が宙を舞う。鉄の香りが鼻孔を満たす。彼女の爪は確かに何かの皮膚を切り裂いた。同時に、獲物の背後で追撃を狙う彼女は強い違和感を覚える。
 その香りには覚えがあった。ぺろり、と爪にこびりついた肉の破片を口に運んでみる。淡白でつまらない味。空腹故に鋭敏になった味覚はそれもまた覚えのある物だと伝える。だが、それらは違うと彼女は思う。何故ならば、目の前に立ちふさがる黒い翼など見飽きてすらいるからだ。
 非力で死体を啄んで辛うじて生きるだけの取るに足らない生命体。彼女の爪が捉えた者の正体が地獄鴉であることなんて肉を切り裂いただけで理解できた。故に、彼女の覚える違和感は全く異質なもの。獲物に過ぎない地獄の鴉如きが自分の前に立ち塞がっているという事実そのものに、彼女は強い疑念を抱かずには居られなかった。
 「随分親切だね。わざわざ空腹のあたいを助けに来てくれたんだ?」
 「生憎だけど、慈善活動をしてやる趣味も義理も無い。私はただ、さとり様の――っ?! ったぁぁぁ!!」
 「あらら、ひどい怪我。『空(うつほ)』、無茶しないの。この位じゃ私は死なないですから」
 「あっ……、駄目っ、さとり様! そこっ、見た目より傷深いから!」
 「だから、下がってなさいと言っているでしょう?」
 「口で言って下さい!!」
 それ程背丈の変わらない二人の少女が姉妹のように戯れる。緊張感の欠片もないそんな様子に彼女は胸の奥から湧き上がる怒りを押さえ込めなかった。
 「おいっ、お前ら私を無視すんな!!」
 しばらく呆けた顔で彼女を見つめた後に、空と呼ばれた少女がもう一人を制して足を踏み出す。
 「あぁ。ごめんごめん。それで、貴女の用事はなんだっけ? ――あぁ、思い出した。おなか空いたんだっけ? 馬鹿だね、喧嘩を売る相手ぐらい考えなよ」
 「お空」
 「はっ、地獄鴉のガキなんかが調子に乗るな! お前の仲間なんて飽きるくらい食ったことあるんだぞ!」
 「でも、『私』は食べたこと無いよね? 何事もやってみなけりゃ分からないよ」
 「お空」
 「あー、言ったな! もう怒った。あたい決めたからね。あんたでこの空腹は満たしてやる。絶対だからね!!」
 「望むところよ。何処からでも――、ふんぎゃっ?!」
 まるで地面の方から空へと向かう様に、顔面を強かに打ち付けた空は数度痙攣(けいれん)すると動かなくなった。感情のこもらない声で何者かが手を差し伸べる。それは足首を掴み、空を転倒させた本人だった。
 助け起こされた空は立ち上がる気力も無いように地面にぺたんとお尻を付ける。涙目で鼻を押さえた空は恨めしげな目線を犯人へと向けた。
 「だから、言ったでしょう。止めなさいって」
 「頼むから口で言って下さいよぅ……」
 歯を食い縛る様に口をへの字に曲げて痛みと涙に耐える空。その頭を転倒させた本人であるさとりが子供をあやす様に撫でさすった。
 まるで親子の様だ。眼の前で続くあまりに馬鹿げた茶番に彼女は思わずそんな事を考える。そんな彼女の思考を読み取ったかの様に、少女は首だけを彼女に向けるとにこりと不気味な笑みを浮かべた。
 「さて……。改めてこんにちは。私の名前は古明地さとり。『覚り』妖怪の『さとり』です。こっちはペットの、『霊烏路空(れいうじうつほ)』面倒なので率直に聞きますが、私を狙ったのは、私を食料と認識したからですね?」
 「……そうだよ。良く分かってるじゃん」
 他人の全てを見通している様な余裕のある表情。直感のレベルで彼女は違和感を覚える。身に纏う妖気は決して大きく無いと言うのに、その威圧感(プレッシャー)だけが増幅されて伝えられているみたいだった。彼女は思わず一歩あとじさり、警戒を最大まで高める。
 「残念ですが私の体は食料には適さないと思います。これでも一応は『仏教世界の中枢機関』に所属する身。地獄の生物には少し刺激が強いかと」
 「わざわざ親切にどーも。親切ついでにそこに蹲っている奴の手羽先の一つでも置いて行ってくれたら、あたいはもっと嬉しいな」
 「だ、そうですが。どうしますか、空?」
 「ちょ……、さとり様? そこはハッキリ断って下さいよぅ……」
 「冗談よ。そう言う訳ですから。大人しく退いてもらえますか? 荒事は好きではないもので」
 「言われなくても。『是非曲直庁』に手を出す程あたいは馬鹿じゃないよ」
 「あら、『是非曲直庁』をご存知ですか?」
 しまった、と彼女は心の中で舌を打つ。隠している事実ではないにしろ、得体の知れない存在に情報を明かしたくなかった。
 「……一応ね。見ていたからさ。見た目より長生きなんだよね……。あたい達って」
 それ以上の詮索を恐れて彼女は二人に背を向ける。ぐるると、胃袋が一際大きく蠕動(ぜんどう)運動を始めた。
 「随分お腹を減らしているんですね。軽食程度なら持ち合わせがありますが、如何ですか?」
 「じょーだん。彼岸の食い物なんてお腹壊すだけさね」
 彼女の強がりとは正反対にぐるぐると胃袋は歓喜の雄叫びを上げる。しかし、彼女は一刻も早くその場を去ろうと足を速めた。
 「空、指一本だけ頂戴って言ったら……、怒る?」
 「……いいえ。それをさとり様が本当に望むなら」
 ぐるる、ぐるると再び大きく胃袋が鳴る。足を一歩踏み出す度に、腹の虫は頻度を増し不毛なエネルギーを消費した。
 「冗談よ。ですが、そうなると――」
 高まるばかりで降りる気配のない腹の虫。それが肉体からの警告音であると気が付くのに遅れたのが彼女の不運であった。ぶつんという音が頭の中一杯に響く。次に訪れたのは完全な静寂だった。
 「……れ?」
 横転する視界。空転する足首。衝撃に驚いた彼女は潰れた蛙のような声を残してその場で行動を停止した。
 「極端な栄養不足から来る筋肉の痙攣(ケイレン)。……もう動けないわね」
 「でしょうね。……さぁ、行きましょう。さとり様。余計な時間を食いました」
 彼女の耳元に近づいた気配が無感情な声で検分する。見下すような空の視線が屈辱的であると感じる意識とは裏腹に、彼女は一本の指さえも動かすことができなかった。
 空の気配が遠ざかる。しかし、もう一人は依然として動かない。彼女の霞が掛かった視界の向こうには、さとりが不気味な笑顔を浮かべて立っていた。
 「どうしました? 行きましょう。さとり様」
 「……ねぇ。お空。この子、この後どうなると思う?」
 「この後って……。そりゃ怨霊か四つ足にでも食い殺されるか、死体になった後に私らみたいなのが群がるかのどっちかじゃないですかね」
 「そう……」
 「さとり……、さま? まさかとは思いますが……」
 「言ったでしょう。私は今、猫の手も借りたい位だ――、って」
 「さとり様、お言葉ですがギャグセンスの無さ位は自覚したほうが――、いっだぁ!!」
 糖分の欠乏した彼女の頭では二人の会話は理解できない。ただ一つだけはっきりしているのは、意識を失う前に彼女が感じたのが、優しい人肌の温もりであったと言う単純な事実であった。







 ◇◇◇


 『地底世界とは何か』
 彼女はよく夢を見る。勿論、大抵は映像としての体を成さない印象的なドラマに過ぎない。覚醒と共に泡となって消える儚い存在。では、そんな混沌の渦中にあって鮮明に映し出される映像にはどんな意味があるのだろうか。
 『地獄だ』
 彼女はその答えを考えた事がない。すべての行動を生存と繁殖に回さねば生きる事も叶わない世界で、そんな無駄な思考に貴重なグルコースを費やすことは自殺にも等しい。
 『ならばやはりこの世界で暮らすのは辛いのか』
 『辛い』
 しかし、彼女の意志とは関係なく。寸暇を抱いた脳は、人格を飽きさせまいと適当な映像を流す。そんな事に対し、呆れ以外のどんな感情を抱けば良いのか。彼女は知らなかった。
 『ならばあんたは逃げておきな。ここはこれから本物の地獄に作り変える予定なんだ』
 それは分厚いハードカバーの栞紐(スピン)が読みかけのページを開くように。紐付けられた記憶が鮮明さを増して行く。記憶の中で、燃え盛る様な紅蓮の髪が彼女の瞳をちりちりと焼き上げた。
 『嫌だ』
 『どうしてだい? 外へと通づる移送門は既に開かれているよ。上の世界の方が暮らしやすいさ。きっと』
 『お前には関係ない』
 『困ったやつだねぇ。死神は休業中なんだ。無駄な所で死なれても困るんだよねぇ』
 『何言ってるんだお前? 死にたい訳あるか。ばーか』
 『……あんまり人をからかう物じゃないよ。だったら何でこの場所から逃げない』
 『私が、私だからだ』
 『……よく分かんないけど、精々長生きするんだよ。可愛い猫さん』
 それは大昔の記憶。地底世界に降り立った彼岸の住人と戯れに交わした問答の断片。
 そんな他愛もない記憶をどうして何度も夢に見るのか。その理由を彼女は求めない。ただ、その夢を見た後の胸元は決まって燃え盛る程に熱い。だから、きっとその理由は碌でもない事なのだろう。そう彼女は思っていた。


 「……生きてる」
 「あ、生きてた」
 静寂に満ちた世界が、埃に塗れていく。覚醒状態へと移行した彼女の視覚野が最初に処理したのは漆黒の瞳だった。
 「気分はどう? 体の調子は?」間抜けな顔が彼女を覗き込む。しかし、未だ十分に働いていない言語野は黒い瞳の言葉を理解しなかった。
 「ここは……?」
 「『地霊殿』。さとり様のお屋敷だよ」
 辛うじて機能する長期記憶(LTM)を頼りに、大脳新皮質から情報を引っ張りだす。『地霊殿』はるか昔、彼女が妖獣と成って間もない頃に建てられた是非曲直庁の建築物。現在は大量の怨霊と鬼に囲まれる、旧地獄跡でも屈指の危険地帯。
 「……ぇ」
 『危険地帯』浮かんできた単語が意味する所が、とっさに浮かんでこない。ただ、この上なく重要である事だけがイメージとして頭に浮かぶ。未だ鈍重な働きを見せる頭に、彼女は恨み事を呟いた。
 「あぁ。安心して良いよ。今の地霊殿は安全だからさ。さとり様のおかげでね」
 そんな様子を察したのか、漆黒の瞳を持った少女が言葉を付け加えた。彼女は安心すると同時に、少女の顔をまじまじと見詰めた。その呆けた顔。小柄な体に似合わなない、黒く大きな翼。その何れもが短期記憶(STM)に残った情報断片と閾値(いきち)以上の一致が見られる。だが、鈍いままの海馬はそれ以上の情報を排出しなかった。
 「おま、えは……?」
 「はぁ? 自己紹介なら済ませたでしょ? 記憶障害でも出てんの? 私の名前は『空(うつほ)』、『霊烏路(れいうじ)・空(うつほ)』種族としては地獄鴉の妖獣になるのかな。一応だけど」
 鮮烈な音声刺激を受けて脳の機能がまた一部分戻る。連結された情報は『霊烏路空』に関する付加情報――すなはち、遭遇した当時の状況――を排出した。
 連結した記憶が加速度的に神経回路(シナプスネットワーク)を活性化して行く。八割程の機能を取り戻した脳は、ようやく『霊烏路空』が何者であるのかを認識した。
 ――霊烏路空は敵対生物(ストレッサー)である。
 敵対する異物に対する応答はたった二つに限られる。すなはち、『逃走か闘争か(fight-or-flight)』である。だが、その判断を行うのは彼女であり、脳はその両方に備え副腎皮質にアドレナリンの放出指令を与えた。
 「どうしたの?」
 地底を生き抜くため幾重にも設けられた耐飢渇機構。アドレナリンの与えるストレス指令はその全てを抑制した。その結果として、彼女の痛覚神経は遮断され、瞳孔は散大し、血中にはグルコースが溢れ出る。身体の全てを戦闘に特化させ、彼女は空に対する『闘争』を選択した。
 体はベッドに沈めたままで。しかし瞳は無防備に迫る鴉の喉元を捉える。直線距離一メートル。何の問題もなく捉えられる必殺の距離。彼女は布団の下に隠した爪を空に向けて振りぬいた。「――れ?」つもりだった。
 彼女の全精力を込めたエネルギーは手首に結わえ付けられた縄に寄って全てが浪費される。上半身を僅かに持ち上げたに過ぎない不毛な運動の果て、ベッドに突っ伏した彼女は間抜けな姿勢で空に恨みの眼を向けた。
 「あぁ、無駄無駄。どうせ暴れるだろうからって、さとり様が縛り付けていたよ。残念だけど、今日一日はそこで寝て過ごしな」「おまっ、何すんだ!! 解け!」「それを私に言われてもねぇ……」
 どうにか呪縛から逃れようと必死で四肢に指令を出すも、芋虫の様に体を捩らせる以上の成果は産まない。
 「あー。駄目だって。まーた倒れるよ」
 「触んな!! このっ……、ヘンタイッ!!」
 暴れる彼女を押さえつけようとする空を、噛み付くような視線で威嚇する。暫くの睨み合いは、空の大きな溜息で終了した。
 「あぁ、めんどくさ……。なんでこんなのの相手しなきゃ……。さとりさまぁ……。早く帰ってきて下さいよぉ……」
 ぼりぼりと頭を掻き毟りながら空はぼそりと呟く。窓の外に向けられた瞳は何処か遠い物だった。それは素っ気なく、彼女からすれば軽んじられているとも取れる態度。しかし、空の意識が彼女から離れた事が、皮肉にも現状を再認識する余裕を与える事に繋がった。
 脳の排出する情報はどれも最悪の結果を示している。『現在地は相手のテリトリー内部』『身動きは取れない』『敵対する相手に発見されている』詰みとしか思えない状況に彼女の思考は冷めていく。骨伝導によって頭蓋(ずがい)に奥歯が触れ合う音が響く。その時始めて彼女は自信が震えていることに気がついた。
 「お前ら、さてはあたいを『保存食』にするつもりだな……?」全身から引いていく血の気を覆い隠し。表情だけを取り繕って彼女は空に凄んでみせる。
 「……はぁ? 何のこと?」
 「惚けるな。あたいは知っているぞ。毒蜘蛛の真似毎をするつもりだろう? 動けなくしといて、生きたまま巣に閉じ込めるんだ。新鮮な餌を子供に与えるためにな」
 「誰の子供さ。つか。あんたが動けないのは、あんたの責任でしょうに。飯位ちゃんと食えよ……」
 「うるさい! 違うって言うなら早く縄を解け!!」それは、精一杯の強がりだった。交渉により命以外の何かを差し出せないか模索する。それが最も適切な回答だ。しかし、彼女はその答えに行き着く程に賢くは無かった。
 「まぁ、どうしてもって言うなら解いたって良いけどさ」
 渋々と言った様子で伸ばされた空の指が、彼女の縄を切る。一連の動作があまりにもあっさりと行われたので、彼女は一瞬理解が遅れてしまう。二度、三度自らの腕と間抜けな鴉の顔を数度往復し現状を把握する。恐らくこれが最後の機会だ。そう判断した脳に従い彼女はにやりと笑った。
 「馬鹿め!!」自由になった体で、彼女は再び鴉に襲い掛かる。しかし、渾身の力を込めた運動はまたしてもベッドに顔を打ち付ける不毛な物に終わった。
 「だーかーらー。言ったのに。無駄だって」
 「か、体……、体が動かなひぃ!! お、お前、やっぱり毒を!!」ぎりぎりと歯を軋ませた彼女が、顔だけを空に向ける。
 「いや。だから、それだけ消耗すりゃ誰だって動けなくなるって。……ん?」
 何かに気がついたように、空の手が彼女に伸びる。無防備に突っ伏す彼女は必死の思いで体を捩り、ベッドの端へ這いずった。
 「おっ、おい。なんだよ」「いいから。じっとして」
 これまでに無く真剣な様子で、空の瞳が彼女を真っ直ぐに見つめる。彼女よりも一回りは小さく、幼い顔立ちをした空がどこか大人びて見えた。
 「や……、やめろって」
 彼女にとってそれは死刑宣告に等しい。先程までの敵意の無い様子が空の戯れによる物ならば、現在が空のあるべき態度だ。地底世界の法則に従って彼女は無残に殺される。抗いようの無い力。体の割に大きな黒い翼が、彼女には悪魔の恣意行為に映った。
 「や……」「駄目。ジッとして」
 まな板に載せられた魚の様に、彼女の体の主権が空に奪われる。迫る掌を前に逃げる事も許されず、彼女はただ眼を瞑ることしかできなかった。
 首筋がちりちりと燃えるような錯覚を覚える。抵抗を止めた獲物を仕留めるのには頚椎を折るのが最も効率的だ。そんな常識に乗っ取り、彼女はまもなく訪れるだろう首筋への衝撃に怯え身を固くした。
 「あ……、ぅ……。ごめんなさい。ごめんなさい」
 「静かに」不毛な祈りは空の指に阻止される。そして、間髪を入れずに伸ばされた指が首筋に触れる。瞬間。彼女の全身に雷撃が走った。
 「――ひうっ?!」
 情けない断末魔を最期に彼女の全身から力が抜ける。それは、せめて苦しまずに死ねる様にと脳が指令した防衛反応だった。一秒、二秒、三秒。何時まで経っても、意識は途切れない。命を刈り取る凶器は、何かを探るように幾度も接触を繰り返すだけだった。
 「や、やめ……、ころしゃな……、で」
 恐怖に震える声でりんが懇願する。しかし、その言葉を聞いても空は手を止めない。それどころか、きょとんとした表情を浮かべ、彼女の後頭部に手を添えた。
 「……髪の毛。首に絡まってる」
 彼女はそう指摘され始めて、自らの紅く長い髪が首に巻き付いている事に気がついた。ベッドの上で突っ伏した拍子に絡まったのだろう。燃える様な髪は複雑に絡み合っていた。それを空がほぐしている。「……ふぇ?」予想を超える事態に、思考を停止した彼女はただ行為を受け入れることしかできなかった。
 一分、二分、三分。小器用に髪を梳く空の手は不気味な程に淀みがない。結果的に空の奉仕は、彼女が忘我状態の内に終わってしまった。
 「はい、できたっ……、と。ちょっと待ってね。ご飯持ってきてあげるから」
 空は最後に彼女の頭をひと撫でして部屋の端へと離れていく。そこには、食料らしき物が載せられた盆が予め置かれていた。
 「ほら。暖かい内に食べな。お腹。空いているんでしょ」
 彼女の前に盆が差し出される。得体の知れない食物。地底世界において知らないことは死を意味する。自衛のために毒を持った生物は珍しくない。
 しかし、眼の前に存在する謎の物体は、彼女の本能に記録された膨大なライブラリの何処にも合致しなかった。食べるべきではない。彼女の脳はそう指令を出す。だが、食料を摂取しなければ餓死を免れないとの警告を発し続けるのも、また彼女の脳に他ならなかった。リスクとリターン。彼女はその間で頭を抱える。実に数分後、彼女は差し出された食物の一つを恐る恐る口に運んだ。
 ぶよぶよとした食感。それは、柔らかいと言うよりは脆いといった方が正しいだろう。噛む前に自壊を始める物を気合と共に一噛みして喉の奥へと放り込んだ。
 味蕾が受け取った化学物質を単純な電気信号へと変換する。その一連の現象、いわゆる『味覚』は食料に含まれる成分を分析するための物だ。苦味は毒性を、酸味は腐敗を、塩味はイオン量、と言ったように味にはそれぞれ明確な意味がある。それを踏まえた上で彼女は大きく顔をしかめた。
 「……なんぞこれ」
 舌の発生する強い収斂(しゅうれん)反応――いわゆるエグ味の原因――。恐らくは苦味も酸味も感応強度限界近くまで存在するだろう。しかし、得体の知れない成分の物理的なマスキングがその知覚を阻んでいた。
 毒ではない。だがしかし食料とも合致しない。悪食に類する彼女ですら、遭遇した経験の無い味覚だった。視界の端に、机に腰掛ける意地の悪い笑みが映り込んだ。
 「へっへー。ちょぉ不味いでしょ。なんてったって、あのさとり様の手作りだからね。まぁ、我慢して食べなよ。大丈夫。死にゃしないさ」
 夏の日にカブトムシの相撲を眺める少年のそれが彼女に向けられている。だがしかし、彼女にそれを不快と感じるだけの余裕は無かった。毒ではない。ただそれだけの単純な情報が、餓死に怯える彼女にとっては何よりも重要だった。
 盆の上に残った大量の食物。仮に『物体X(アンノウンエックス)』とでも呼ぶべき冒涜的な存在を彼女は夢中で腹に詰め込む。鼻を摘み、咀嚼(そしゃく)を放棄して喉に直接放り込む。その全てをものの数分で平らげた。
 数カ月ぶりの満腹感。重くなった胃を抱え彼女はそのままベッドに横になった。油断ではない。消化器の活動促進のために副交感神経が支配的になる『生理現象』だ。口を半開きにしただらしない姿で、彼女はモルタルの天井を見上げる。視界を手が横切ったかと思うと、その口に何かが突っ込まれた。
 「お口直しにどうぞ。私の手作りのクッキーなんだけど」
 口一杯に広がる濃厚な甘味。それは、低分子の炭水化物(モノサッカロイド)等の高い熱変換効率を持つ物質を示す情報だ。地下において極めて貴重な感覚に彼女の頬が思わず緩む。糖類――甘みを発生させ得る程低分子の炭水化物――など旧地獄跡に置いては、ごく限られた区域でのみ育つ地衣類が僅かに合成するのみである。そんな物は大抵、強大な力を持つ鬼か、獅子に独占され火焔猫の口には入らない。だから、彼女にとってのそれは実に数十年ぶりの甘露だった。口の中に残った塊を夢中で咀嚼する。最後の一塊を嚥下しても尚、口内に残る甘い残り香に彼女は酔いしれる。ほんの僅かな時間でも長く甘みを感じたいと言わんばかりに、彼女は口を固く閉じだ。
 唇に触れる硬い感触。唾液を介して伝わって来る甘み。唇に押し付けられたクッキーを彼女は無言で咥えた。「おいしい?」掛けられた質問に、彼女の顔は自然に傾けられていた。
 「あぁ、思えばさとり様のせいで色々器用になってしまったなぁ……。髪の毛も自分で結えるようになったし。料理は作れるし……。ふっ……。どっちがお世話されているんだか……」
 自嘲気味に笑う空を意図的に無視する。屈辱的ではあるが、空のクッキーは地下で手に入るどんな甘露よりも突出して美味であったからだ。
 「ま。満足したんならそれで良いよ。ふわぁっ……」
 大理石の床を打ち鳴らす音が世界から浮き上がる。耳に突き刺さる音に導かれる様に、彼女は顔を上げた。白いブラウスの隙間から伸びる真っ黒い翼。彼女より一回り小さなシルエットが二重にブレていた。
 忘れていた現実が彼女の脳に鮮明に蘇る。ぞくり、とそれまでとは全く異質な怖気が彼女を襲った。内臓が宙に浮く様な気持ちの悪さを覚える。
 ――どうして、こいつは自分を殺さない。
 気がついた時には、彼女の体は空の背後にあった
 「どうしたの? 眠いから仮眠したいんだけど。あんたの看病で昨日寝てないんだよね」
 本当に何でもない様に空は言う。その様子が、彼女の吐き気を倍加させて行く。彼女の回答は旧地獄跡で生きる生物にあってはならない。そんな生物が妖獣の地位に居るはずがない。彼女には、眼の前の鴉が『異邦人(フォーリナー)』の様に感じられて仕方がなかった。
 「あたいを置いてか?」「そうだけど。……貴女、構ってちゃんだったの?」
 アドレナリンの残光が、筋繊維内に残っていたグリコーゲンを全て燃焼させる。発生したアデノシン三リン酸(ATP)は筋節(サルコメア)欲求の閾値を突破した。指令に従う腕部の筋肉が芸術的な連携を持って伸縮を実行し、彼女を空へと掴みかからせる。
 「そうじゃない! あたいを助けて。食事まで与えて。その上に体の自由も奪わずに放置すると来た。お前は一体どういうつもりだ?! あたいを助けることで、お前には一体どんなメリットが有る!!」「んー、めんどくさい奴だなぁ……。ほら、もひとつクッキーどうぞ」「ん……、おいひぃ……」「でしょー。それ、私の分だったんだからしっかり味わってよね」「……うん。じゃ、無く、て! 気持ち悪いから、無駄にあたいに構うんじゃねぇって事だよ!!」
 「さとり様が助けるって言ったんだから仕方ないでしょー。私は言われた通りにお世話してやっているだけだもん」
 「おおお、お世話って『お前』が『あたい』をか?! や、止めろ! 寒気が止まらん!! それに、言われた通りって何だよ!!! お前とあのチビガキとはどんな関係だ」
 「ん? さとり様は私の飼い主だけど。それが何か」
 「『何か?』 じゃ、ねえよ!! キチガイかよ。何かされたんじゃないのか? お前だって知っているだろ。旧都の中には寄生性の妖怪もわんさか居るぞ。あいつの本体が、あのチビである保証は何処にある?」
 「……さとり様は変な人かもしれないけど、でも、そんな言い方をされるのは悲しいな」
 「ちょ、お前それ答えになってないから。洒落になんない位に気持ち悪いんだけど、マジで……」
 「あんたにどう思われたって構わないし。まぁ、また夜位に見に来るから。それまで、大人しくしてなさいよ」
 「気持ち悪いからもう来んな!! あたいまで寄生されたらどうする」
 「だぁーいじょぉぶだって言ってんのに……。あんたは黙って寝てりゃ良いのよ……」
 立て付けの悪い扉が大きな音を立てて閉まる。二度、三度の反響する音が次第に減衰して行く。ゼンマイ仕掛けの時計が規則的なリズムを残し部屋には静寂が戻った。
 「……何なんだよあいつ」
 誰も居ない扉の前。先程まで空が居た空間には、未だしこりの様な違和感が纏わり付いていた。


 「まっず……」
 彼女は口の中に広がる名状し難い味に顔をしかめる。オーク材で作られた棚の中には、空の言った通りに『物体X(アンノウンエックス)』が収められていた。相対的なメリットの為に先程は腹に収めた。だが、今になって不安になった彼女は検分をせずに居られなかったのだ。
 「腐った生肉に劣る食い物なんて初めてだよ……」
 鼻で臭いを嗅ぎ、触って感触を確かめ、口で味を確かめる。大気中に飛散する物質。唾液に溶ける物質。それぞれを分解し、一つずつ理解しようという試みは『不明(アンノウン)』と言う残酷なまでの処理結果の前に脆くも崩れ去った。
 「ま、まぁ。毒じゃないなら良いか。……滋養はありそうだし」
 不毛を悟り、彼女は皿を棚に戻す。大きく息を吐いた彼女は、そのままベッドに体を投げ出した。部屋の中には誰も居ない。唯一の出入り口である扉の前には部屋に転がっていた本棚が立て掛けられていた。
 敵の訪れない安心感。彼女は張り詰めていた緊張を一気に開放した。全身を鉛で包まれる様な感触が押し寄せる。磔(はりつけ)にされたように四肢をベッド一杯に伸ばした。
 「全く……、あの地獄鴉の所為で余計な体力使っちゃった……」
 単独生活を営む火焔猫にとって、自分以外の生物は基本的に異物(ストレッサー)とみなされる。それは、何者かと空間を同じくする事が不利益である可能性が限りなく高い故に生み出された習性だ。孤独への依存。そう言い換えられる事もある、交流忌避感の発生原因はたった三種の脳内物質による物だ。つまり、伝達物質の連鎖増幅(カスケード)反応によって構成される『孤独回路』である。
 「やれやれ。生理中じゃなくて良かったよ」
 その抑制が唯一解除されるのが繁殖期だ。数ヶ月周期で訪れる一週間に満たない期間。その時にだけ放出される性ホルモンの一種はカスケードの中間体と拮抗的(きっこうてき)に作用し回路を遮断する。その結果が、普段の習性が反転したかの如く訪れる人肌の渇望だ。それが、彼女はたまらなく苦手だった。
 「ただでさえ体が弱っているんだ。こんな時に妖獣としてのあたいを揺らす奴に関わったらマジで死にかねん」
 彼女は以前、妖蟲の男と懇ろになった時の事を思い出し苦い顔をする。染色体数の違い等から着床は免れたが、男の所属していた群れとの三日三晩に及ぶ逃走劇は苦い記憶として未だ強く残っていた。
 「あー。あの時は良く死ななかったなぁ。蜘蛛があんなしつこいとは思わなかったよ。……後は何だっけなぁ。獅子の子供に、地獄鴉も二度三度あるか」
 そういった場合、繁殖期を抜けた後に決まって待っているのは鮮血の雨だ。『孤独回路』の抑制解除により放出される脳内麻薬(アドレナリン)は機械的に『逃走か闘争か(fight-or-flight)』の判断を提示する。極度のストレスによってパニック状態に陥った彼女には『闘争』以外の選択を選ぶことが困難だった。
 殺す事に忌避感がある訳でも、貞操が守れない事を悔やむ訳でもない。
 「誰でも良いだなんて、認めたくは無いけど。否定もできないしなぁ。やれやれ……」
 肌を求める対象が他種族にまで及んでしまう事が、彼女の悩みの種だった。酷く不合理なその現象が、彼女に特有の事であるのは言うまでもない。
 「そう言えば、次は何時だったかな。前に来たのが四ヶ月位前だから……、うわっ。そろそろ来てもおかしくないや。まいったなぁ……」
 「逃げよう」そう小さく呟いた彼女は天井に右手を真っすぐ伸ばす。その手はまるで何かをねだる子供のように、開いては閉じるを繰り返した。そんなことを数分も繰り返した後、彼女は大きく溜息を吐いてぱたりと腕を落とした。
 「駄目か……。まぁ、こっちの体で動くのがギリギリなんだから。そりゃそうか……」
 人型への变化は主に知能レベルの向上、発音能力の向上、妖術行使等の向上をもたらす。一方で、純粋な身体能力は多くの場合低下する。故に、原型に戻れば相対的な運動能力の向上が期待できる。そして、逃走ならば原型を取ることが望ましい。その筈なのだが、彼女の肉体は原型への回帰を拒否した。
 それは彼女の人型が、熱量の温存に適した姿でもある事を意味する。余分な筋肉の無い少女の姿は生命維持に必要なコストを極限まで下げることに成功していた。
 「分かってるよ。休めば良いんでしょう。休めばさぁ」
 脳内に充満した疲労物質アデノシンは、過剰なまでにP1A2A受容体――アデノシンレセプターの一種――を刺激していた。受容体が変換した信号はまた幾つかの伝達物質を介してGABAやカラギナンと言った抑制性神経伝達物質の放出を腹外側視索前野(VLPO)――睡眠中枢を構成し、睡眠を司る部位。結節乳頭(TM)核と共役し、睡眠を調節する――に対して促す。
 「ま。一応入り口は塞いであるし。ふぁ……。なんだか眠くなってきたなぁ……」
 抑制された結節乳頭(TM)核により睡眠中枢の支配権は腹外側視索前野(VLPO)に移る。麻痺にも似た心地の良い脱力感が末端から体の機能を奪っていった。
 「何年ぶりだろ……、ゆっくり……、寝る……、の……」
 外界に対する不安感を象徴するように、僅かに抵抗する瞼が閉じられたと同時。彼女の意識も途切れていた。


 ごうごう、ごうごうと地鳴りが窓枠を揺らす。それは、旧地獄跡の更に地下を流れるマントルの対流による物だ。一日の内、必ず決まった時間に地下中に響く音は、旧地獄跡に住む生物にとっての時計のような役割を果たしていた。
 当然、彼女も例外ではない。聞き慣れた子守唄であり目覚まし時計でもある重低音に包まれ、瞼をインフラレッドに刺された猫はベッドの上で身をよじった。
 「ぅ……。ん……」
 眩しさに耐え切れず瞼を開く。寝起きで未だ焦点の合わぬ瞳を窓へと向けた。天蓋へと届こうかというマグマの間欠泉。付き添って舞い上がる火山灰が暗い地底の空を何時にも増して暗くしていた。
 「ふぁ……、お昼かぁ」
 地鳴りが起こるのは一日四回。どれも等間隔で訪れるが、決まった位置で吹き上がるマグマを見れば仮想的な昼と夜を判定することはできる。彼女が窓の外に見たマグマが意味する所は主観的な昼である。
 「あ、前のマグマの位置見て無かったや……。まぁ、三時間は寝たかなぁ」
 疲労の回復度合いから大雑把に検討を着ける。大きく伸びをするとしなやかな背骨がぽきぽきと音を立てた。
 「ん~っ……。三割……」
 とても十分とは言えないが、普通に動く分には問題ない。原型に戻ることも可能だろうが、それは熱の残量と効率の面から却下した。身の振り方を考えてから動いても罰は当たらない。彼女はそう思ったのだ。
 体のバネを使ってベッドから跳ね起きる。手近な窓枠に手を掛けると、それはすんなりと開いた。「ふむ……、窓は……、空いてるね」そこまで呟いて彼女は言葉を切り、口元に手を当てる。寝起きの頭が油の切れ掛かった歯車程度の速度で回転し彼女の疑問に答える。それ程聡明な訳ではない彼女が真剣に悩むのは唯一つの事項であった。
 残るべきか。逃げるべきか。
 数日前の彼女であれば数瞬の迷いもなく後者を選んでいただろう。だがしかし、現在の彼女はらしくも無く迷っていた。
 野生動物の判断基準は本来単純明快だ。その単純明快さ故に、彼女のような頭の足りぬ獣でも機敏に動くことが可能となり、円滑な生命現象の連鎖が続く。つまりは、己の生存に利か不利か、である。
 「分かっている。分かっているよ。今この窓を突き破って外に出るのが『安牌』だ。だけどさぁ。なーんか胸騒ぎがするんだよね。それも、割と洒落になんない類のさ」
 自身の思考を整理する為の言葉が壁に反響して消えていく。根拠あっての事とはいえ、表面上理に適わない行動をする事は彼女にとってストレス以外の何物でもなかった。
 極限まで単純化された方程式を決まったパターンで組み合わせ、一つの反応が起こる。その全体を指す抽象的な表現が『行動』であり、表面だけを削りとった薄っぺらな言葉が『意志』だ。
 「いや、別に、たかが地獄鴉の妖獣が一匹誰に懐こうが、手篭めにされようがどうでも良いんだ。別にあたいはあんなヘンテコリンの事が気になる訳じゃない。訳じゃないけどさ……」
 だから、彼女が行おうとしているのは本能の『監視』を掻い潜り規定外を想定内と騙す詐欺的行為だ。確率が無いと言い切れない例外処理(イレギュラー)に対処するため、意図的に残された器の脆弱性(セキュリテイホール)を悪用し、彼女は『意志』を本来の意味で彼女の物とする。
 「だけど……、次の対象があたいに及ぶ可能性は? 例えば、あのチビが本当に寄生妖怪で、あたいが既に何かされていたとしたら?」
 寄生(パラサイト)に精神感応(ドレープ)。搦め手を得意とする妖怪は旧都において少なくない。その手の妖怪と出会ってしまった時は先手必勝、見敵必殺(サーチ&デストロイ)。それが地獄の常識である。
 「頭から芽が出て、生き餌にされるのも癪だ。さとり妖怪……、やっぱ、今ころしとこ」
 そうやって大脳新皮質を利用して脳幹部の制御を騙す。視界のブレが収まった事を確認し、彼女は大きく伸びをした。暗殺は彼女の十八番(おはこ)だ。その実行事態は大した苦もなく行えるだろう。だが、一つだけ重要な問題があった。
 「そういや、あいつは何処に居るんだろうな。この館の中……、か?」
 彼女の疑問は館内に漂う気配に起因する。伽藍(がらん)の堂としか思えない空間には数百メートル先で下品な寝息を立てる鴉以外にどんな生命の気配も感じ取ることはできなかったからだ。
 「ただの留守か。それともあたいですら発見できないほどの隠密術の使い手か。……って、どっちにしろ碌でもないじゃん。サイアク……」ぴしゃりと窓を閉め、戸棚で塞がれた出入り口を見やる。また外から、ごぉと火柱の上がる音がした。「本当。あいつらに会ってから碌でもない事ばかりだ」突然にくるりと空中に身を翻したかと思うと、彼女の姿が小さな猫のものに変わる。
 黒く艶のある尾が二つに別れていること以外、全くもってイエネコと見分けがつかない。それは彼女の原型とも、人型とも似つかぬ奇妙な形態だった。
 「ふぅ。この体。ダサいし。遅いし。ちみっこいし。弱いし。遅いし、好きじゃないんだけど」
 妖狐や化狸は別として、普通の妖獣が『原型』と『人型』以外に姿を持つことは少ない。実際、火焔猫の妖獣であっても型を三つ以上持つのは彼女を置いて他には居なかった。
 「ま、今のあたいには好都合だし。丁度良いか」
 肉体が発生させる運動エネルギーは、概ね筋肉の断面積に比例する。だから、子猫同然の小柄な体に備わった筋肉が、極めて貧弱な能力しか発揮しないのは極々自然なことだ。しかし、軽い体重と少ない体積は隠密には極めて有利であった。『偵察特化型』とでも言うべき姿は、闘争と逃走が意味を成さない相手――主に鬼や、獅子の群れ等が該当する――のテリトリーを通らなければならない時にのみ利用されていた。
 「さて、何処から出るか」
 彼女は自らが塞いだ扉をちらりと見る。失敗した。彼女は少し後悔する。動かすには元の姿に戻る必要があるだろう。
 「いや、めんどいな。上で良いか」
 モルタルの天井を二つに分ける鉄の箱。かつて地霊殿内部の排熱を一手に担っていた角ダクトには、錆による穴があちこちに空いてしまっていた。丁度子猫が一匹くぐり抜けられる大きな穴を見つめ、彼女は身を屈める。音も無く、風も起こさず。筋肉を媒介として化学エネルギーを位置エネルギーへと変換し、彼女はダクトに脚を掛けた。


 「……ここにも誰も居ないか」
 十二回目の空振りに黒猫が溜息を吐く。視界に広がる脚の無い椅子に、くの字に折れたベッド。壁が崩れ半分が木片と轢(れき)に埋まった部屋は最初に彼女の目覚めた部屋とは似ても似つかない。
 「残りの部屋は一つなんだが……」
 聞き耳を立てずとも、間抜けなイビキが無事な方の壁を突き抜けて聞こえてくる。
 「これ以上、この辺を探しても無駄だな」
 廊下に戻った彼女が、これまでの成果を振り返る。向かい合うように七対。半開きの扉が十三。隠す気もない寝息の聞こえる部屋が一つ。それが彼女の目覚めた居住区の全てだった。
 彼女は現在廊下の突き当りに立っている。石作の床は嘗ての輝きを失い、只々汚らしい亀裂を晒す。曲がり角の向こう側には、相変わらず暗い闇が広がっていた。極端に発達した体毛が、彼女の知覚を体外へと延長する。髭の伝える情報は、淀んだ空気が闇の向こうへと流れていることを示していた。
 ぞくり。血液が凍り付くと共に全身が総毛立つ。
 嗅上皮が大気に混じる異物を検知していた。電気信号に変換された情報は、大脳新皮質の六層に及ぶ知覚層を突き抜け、視床下部に刻まれた本能を刺激した。
 本能。生得的にプログラムされるモジュール化された行動の総称。その刺激に対する応答を本能に刻まれていると言う事実が意味するのは、生存への直結だ。死と苦痛が支配する世界における最大級の脅威。つまりは『怨霊』である。
 「いやいや、待って待って。おかしいでしょ。気配も感じなけりゃ、物音も、怨嗟の声の一つも聞こえなかったぞ。こんな静かな怨霊が居てたまるかよ」
 魂は本来、死神などの手により輪廻の輪に戻り転生を果たす。しかし、無念等の精神的要因に依って現世に留まってしまう魂が一定数存在する。勿論、殆どは唯の地縛霊だ。明確な形も持たず、やがては消滅の運命を辿る。だがしかし、あまりに強い感情――主には怨念、恨み、怒り等の負の感情――を持ってしまった魂は、魂という形状を維持したまま怨霊と言う存在に成り果てる。
 そう言う訳で、彼らは総じて非常にやかましい。怨嗟の言葉を常時発している彼らの接近に気が付かないなど、彼女に限っては有り得ない話だった。
 「残香? ……まぁ、何方にしろ、さとり妖怪が居るとすれば向こうだし。行かない訳にもいかないんだけどさ」
 恐る恐ると言った様子で、調べてきた部屋の前を通り過ぎ、廊下を引き返す。
 廊下を照らす燭台は丁度曲がり角で途切れている。広がる冥闇。普段の彼女ならいざしらず、光源の元で闇の中を見る力の持ち合わせは無かった。
 だからと言って、彼女が闇に対し無力な訳ではない。そも、闇を見る能力は何も『視力』だけではない。一部の爬虫類型の獣は熱源(赤外線)を探知する『ピット器官』を持っているし、蝙蝠の類は超音波の発信による『反響定位(エコーロケーション)』で障害物を特定する。彼女が持つ第二の眼は、その後者に該当するものだ。
 かつり、かつり。小さな爪が僅かに石の床を掻く。
 「少なくとも、物理的な障害は無し、と」首を傾げ、ぴくぴくと黒い耳を震わせた彼女は爪をしまい、自然な動作で闇の中に入っていった。
 「匂いは……、げっ、近づいてる……。気配ないんだけど」
 匂いの正体が化学物質の粒子なら、音の正体は振動だ。主には大気を媒介にして伝わり、壁などに反響して耳に届く。この波の伝達速度は温度や圧力などの条件が一定であれば等速だ。つまり、爪音が耳に帰ってくるまでの時間は物体までの距離を表している。彼女は左右の耳の角度を変える事で生まれる距離差を利用し、冥闇内部の三次元的なマップを作り上げていた。
 「……先にあるのはエントランスか」
 何処までも続くかに思える真っ直ぐな廊下。しかし、二十メートル程先でぷっつりと途絶える反響音は大きな空間の広がりを意味していた。
 かつり。かつり。
 闇の切れ目が目前に迫る。オプシン-レチナール複合タンパク合成が完了した視細胞に、若干の眩しさを覚えながら彼女は闇を抜けた。
 「……は?」
 広大な広間には、壁一面のステンドグラス越しにインフラレッドが差し込んでいる。吹き抜けとなった正面階段を見ると、この建造物が三階建てであることが分かった。数十メートル上空に存在するのは、歪な硝子の隙間に埃と灰を蓄えたシャンデリア。崩壊していない事が奇跡に近い程に老朽化した装飾がそれ以外にも至る所に施されていた。
 だがそんな旧時代の遺産が放つ威光は、彼女の意識を動かさない。本能がその二者よりも優先度を高く設定したのは、床と虚空だった。
 「なんだこれ。怨霊……、か?」
 その髑髏(どくろ)は、ただただ空中に浮遊していた。恨み事を呟くことも、飢餓感から襲い掛かってくる事もない。一切の語弊なく、その怨霊は何もしていなかった。
 「擬態……、にしちゃ、よく出来すぎだよね」
 怨霊は何者からも忌避される。だから、本能にプログラムされた、その情報を逆手に取って守る生命は少なくない。最高レベルの擬態能力を持つ鋼殻蟲の類はその香り――主には腐臭――までをも再現する。だが、彼女の眼の前にある、『それ』は擬態と処理するにはあまりにも精巧だった。
 「擬態した蟲だったら威嚇の一つ位しても良いと思うんだけど……」
 間脳視床下部と大脳新皮質がまるで咬み合わない。それが危険であると分かっているのにも関わらず、危険と認識できなかった。抑制が外れたように、腕がその髑髏に伸びる。爪の先で青い炎に触れる寸前。背後に何かかが降り立った。
 「ああ、こらこら。流石に触っちゃ危ないよ」
 突然の声に慌ててて振り向く。視界いっぱいに広がるのは巨大なシルエット。見覚えのある黒い翼が寝癖のついた髪を掻きあげていた。
 「何処から入ってきたのかなぁ? 戸締りはしたつもりだったんだけど」相対的に見て巨大な影が、彼女の前にしゃがみ込む。その手が体に伸びる光景を目の当たりにして、彼女は心の中で舌打つ。空の接近を許したのは完全なる彼女の迂闊だった。逃げようにも子猫の体で何ができる筈もない。見た目相応の貧相な胸に抱かれ、彼女は不満気な鳴き声を上げた。
 「良かったねー。私が通りかかって。あなたは子供だから大丈夫だと思うけど。少しでも妖力を持っていたら危ないものねー」
 生命エネルギーの波が本体である怨霊は、性質上多くの妖力を持つ程に脅威となり得る。彼らによる妖力の汚染はどんな物理的損傷よりも致命的となり得るからだ。
 「ありゃ、あなた火焔猫なのね。あいつと一緒なのに、子供の頃はこんなに可愛いんだぁ。ほら、こんにちはーって」
 前足を弄ばれる気持ちの悪さに身を捩る。そんな彼女にはおかまいなく、眼を細めた空は子供あやすような甘い声で彼女に語りかけた。
 「あいつって言うのは、今頃部屋で寝てるタダ飯喰らいの恩知らずの事なんだー。助けてやったのに、礼の一つも言わないんだよー。ダメな奴だよねー?」「フシャー」
 「あらら。怒った? ごめんね。まさか、あのヘンタイ猫の子供なの? お母さんを探しに来たとか? だったら、連れて行ってあげるけど……」「フッ、フシャー」
 「ありゃりゃ、違うのね。そうよね。あんな憎ったらしい奴と、こんなに可愛いあなたが親子な訳が無いよねぇ」「フッシャーッ!!」
 馬鹿にされた怒りやら、甘い声を出す態度の気持ち悪さやらで、滅茶苦茶に四肢を振り回す。しかし短い彼女の腕では、空の肌に触れることさえも叶わなかった。
 「あーごめんね。ごめんねぇ。どうしたら機嫌直してくれるかなぁ……? あ、そうだ、お腹、空いてない? 実は私もおやつを食べに行く所だったんだ。せっかくだから一緒においでよ。この間『さとり様』に教えてもらっ――、いや、解読したロイヤルミルクティーとドーナッツを作ってあげるよ」
 おやつ。その甘美な響きが彼女の接触中枢に直接突き刺さる。思わず止まった脚を肯定と受け止めたのか、空は鼻歌交じりに食堂へと歩きはじめた。
 かつり。かつり。かちり。
 空の足音がエントランスの中央付近で突然に変わる。ガラス張りになった床の上を躊躇いなく空は歩く。
 その下を改めて覗く。竦み上がりそうになる体は、しっかりと抱き直すお節介のお陰で押さえつけることができた。この館には未だ不可解な事が多い。しかし、少なくともこの鴉は疑問を持つ様子もなくそこを通り過ぎている。疑問の答えはやはりこの鴉が持っている。確信。そして、小さな決意。共に彼女はそこからゆっくりと眼を外した。
 かつり。かつり。
 誰も居ないエントランスを空と彼女は後にする。
 かつり。――。かつり。
 エントランスと廊下の境界。防音機能を持つ結界が一瞬足音を消し去り、再び静寂が館に戻った。彼女の背後に残されたのは広大な空間。床下から立ち上るのは莫大な『熱』。反響するのは『怨嗟の声』。
 ごうごう。ごうごう。静かな館に、嘆きの声が響く。


 「へへ。どうかな。美味しい?」
 清潔な皿の上に載せられた円形の食物。砂糖の焦げる香ばしい香りに誘われるまま、彼女は夢中でドーナッツを頬張っていた。
 「ふふ、良かった。実はねぇ。『さとり様』がね。あぁ、『さとり様』って言うのは私のご主人様の事なんだけどね。すぅぅっごい、料理下手でさぁ。ううん。料理って言うか、全般的に不器用な人なんだけどね。なのにお節介焼きだからさー、自分でやらなきゃエライ目に会うのよ。このドーナッツだって。最初に出されたのは真っ黒い炭だったんだから」
 相手が猫であることを良い事に、一方的に語り続ける。そんな、鴉の戯言を八割以上聞き流し、彼女は口内の甘みを堪能していた。
 「何を見て作ったのか問い詰めて、練習して。やっと最近美味しく作れる用になったの。それでさ、これ。さとり様に出したら何て言ったと思う? ――あら、私のには劣るけど美味しいわね。だって。料理下手だけは認めたがらないんだから、全く」
 ドーナツの上に掛けられたチョコレートを舐める。刺激的な甘さが中枢神経を揺さぶり、彼女の鼓動が一段階上にシフトした。
 「ご飯だってさ。材料さえ用意してくれたら私が作るって言ってるのに。『交代制ですから』――って。おかげで毎週三日間は『第三種接近遭遇』なのよ。あっ、第三種って言うのはさとり様が見せてくれた本に乗ってた、」
 アレイスター・クロウリーの絵画に見られる異種族のテンプレートについて語る彼女を無視して、彼女はチョコをもう一舐めする。視界がぼやける程の快感が再び彼女を襲った。
 尚も続く、グレイの解説を聞き流し彼女は周囲を見る。そこは彼女が最初に眼を覚ました部屋と同じ、手入れの行き届いた廃墟だった。壁にはあちこち亀裂が入っているし、損傷の無い家具を見つける方が難しい。そんな様子にも関わらず、そこは未だ稼働を続ける厨房だ。そのチグハグさまでもが同じだった。「結局そんなのは、人間の脳が描きだす未知へのイメージに一定の方向性があるだけだって、さとり様が言ってたなぁ。恐怖って言うのは思ったよりも単純な感情なのかもね」厨房の中央、作業用に置かれたステンの台を机代わりに一人と一匹は甘味を食む。彼女の上空にあるダクトは、先程まで火の入っていたコンロが発する熱を何処かへと運んでいた。「まぁ、私。人間なんてそもそも見たこと無いんだけどさ。そも地上にも言ったこと無いしね」そこにある設備のどれもが、地下の物では無い。それどころか明らかに自然物ですら無かった。これまでに見たことのない光景。食べたこと無い甘味。あまりに多くの情報が頭を駆け巡った為かは分からないが、彼女の視界は徐々に回転を始めていた。
 ぐるぐる。ぐるぐる。ダクトが生えているのが地面か天井か。ドーナツには穴が開いているのか、いないのか。そんな事も理解できない。「――って、あなた、大丈夫?」小脳が完全に麻痺してしまった様な感覚。気がついた時には、彼女の体は空の胸にすっぽりと収まっていた。
 「チョコ――、しまった、除け忘れてた……!! あなた、これを食べちゃったのね!!」
 痙攣した横隔膜が彼女の体を好き勝手に弄ぶ。背中に添えられた空の手が、くの字に曲がった彼女を優しく撫でさすっていた。
 「ごめんね、ごめんね。大丈夫? えーっと、……えーっと……。あっ、そうだ。この間さとり様に教えて貰った……」
 酸素不足で霞む視界の向こう側で、空が懐からペンを取り出し何かを紙に書き込んでいる。間も無くして腹に紙片が乗る感触を覚えた。妙な気配をそれから感じ、彼女は辛うじて薄眼で確認する。それには幾らかの図形と単純な式が書きこまれていた。それが何かと疑問が浮かぶ前に、朧気な光が彼女の網膜を透過した。
 唄声が耳に届く。朗々と何かが紡がれる。彼女の知る言語ではない。ただ、聞き覚えはある。体の芯から熱が立ち上る。身体のあらゆる熱発生器官が狂ったように熱エネルギーを生み出す。それにも関わらず、彼女の心はこの上なく穏やかだった。
 「……どう、……かな?」
 天使のようなほほ笑みを浮かべるのは悪魔の如き黒い翼。気がつけば確かに横隔膜の痙攣は収まっている。そんな苦痛からの逃避が彼女の警戒を解いていたのかもしれない。自身も気が付かない内に、彼女の模倣回路(ミラーニューロン)が空の行った表情筋の動きを再現していた。
 「ああ……、良かった。さとり様から習った一番基本的な治癒術だったんだけど、誰かに使うのは始めてだったから……。何でも『代謝を高めて、肝臓による解毒を促す』らしいけど、私には良く分かんないんだ」
 膨大な熱により血液が彼女の腹腔内で帰化と凝集を繰り返す。熱の発生を伴う肝機能強化は、チョコレート――より正確にはカカオ――の有毒成分テオブロミンを猛烈な速度で分解していった。
 「もうそろそろ大丈夫かな? さとり様の説明があってればもう毒素は分解できた筈なんだけど」
 腹を撫でる指の動きにようやく彼女は我に返る。肺機能、三半規管、視覚。どんな機能もエラーは返してこない。驚くべき事に、僅か五分にも満たない治療は彼女の体を全くもって平時の状態へと復帰させていた。そこで彼女はようやく、空の行使したものが紛れもなく妖術の類であった事に気がついた。
 「あぁ、良かったよ。本当に……、良かった」
 間抜けなその笑顔は、最初に会った時と同じ頭の足りない鴉としか思えない。そんな存在が妖術と言う妖獣の中でも扱えるものは殆ど居ない技術を行使する。俄には信じ難い事実だ。そして、それ以上に他人である彼女の生還を我が事の様に喜んでいる事が信じられなかった。
 「お詫びに私の分もお食べ。あんだけの熱を出したんだから、お腹空いたでしょ?」
 ぐぅとお腹が鳴る。空への嫌悪にも似た感情は未だ消えない。それでも、熱量獲得に対する欲求に抗う事は難しかった。上目遣いに威嚇しながら、空の差し出したドーナッツを掠め取る。先程までよりほんの少し離れた場所で、甘い生地を口に含んだ。
 「……あなたは本当に美味しそうに食べてくれるね」
 がつがつ。がつがつと眼の前のドーナッツを片付ける事に全力を注ぐ。「さとり様だって、私の料理は食べて下さるよ。だけど、あの方は味音痴だから。今ひとつ腕の振るい甲斐が無くってさぁ……」そうでもしなければ、心のざわつきを抑えきれる自信が無かったからだ。
 この僅かな期間でさえ、彼女はこの鴉についての違和感の正体に気が付きつつあった。この鴉には驚く程自分が無い。会話が、行動が、その全ての主体が他者、ひいてはさとり妖怪の為にあるとしか思えなかった。
 「聞いてくれる? さとり様って本当に酷いんだよ」
 利他的な生命がこの世界を生き残れる筈が無い。殺さなければ殺され、情けを掛ければ自らが飢え死ぬ。それが、彼女にとっての旧地獄跡の全てだった。「お掃除しておきましたって、言うもんだから私の部屋に入ったらお布団は破れているし」無理矢理に耳に入ってくるさとり妖怪の情報が彼女を苛立たせる。「かと言って指摘すると、すぐに拗ねるし」無関係の妖怪に奉仕する妖獣など居て良い筈がない。「でも、私を思ってくれる気持ちだけは伝わるんだ。悔しいけどね」ぶつり、彼女の頭蓋に鈍い音が反響した。
 ――お前は何者だ?
 ぎりぎりの一線で踏みとどまっていた精神が、不可逆的(エピジェネティック)に転がり落ちる。二つに別れた尻尾を振りながら、彼女は空へと近づいた。彼女を動かすのは未知への恐怖。つい先程空が高説を述べた感情が、空の命を刈り取る。
 「でも、そのさとり様が今日は戻らないんだ。何でも、『旧施設』の調査をするそうで。いつもだったら私も着いて行くんだけど、今回はあいつのお世話があるからってお留守番ってワケ」
 旧地獄跡におけるありとあらゆる命の重さとはその程度だ。寧ろ、一次的な欲求――生理的な欲求。つまりは、食欲――で無いだけ上等とすら言えるだろう。
 「今日だけじゃない。昨日だって忙しそうだったからあまり構って貰えなかったし。もう何日も禄にお喋りもできてない……」
 見た目は可愛らしい容姿を利用し空の懐に潜り込む。「なぐさめてくれるの?」彼女の思惑通りに空は子猫の背に手を這わす。上目を使うフリをして、白い爪を静かに出した。
 「あの人……、約束だけは絶対守るんだ。だから、何時もは聞いた通りの時間に帰ってくるんだけど……。今朝は帰ってくる時間を聞き忘れちゃってさ。だから、私――」
 何が約束だ。野生動物が倫理を語るなど片腹痛い。怒りを倍加させ、彼女は空の胸に飛び込む。狙うのは気道。喉を切り開かれた獲物は呼吸ができずに苦しみながら死ぬ。酸素を求めて足掻く『死の輪舞曲』は地底の者なら誰もが嗜む教養だ。皮膚、そして首筋の筋を断つのに必要な運動エネルギーは如何程か。ルーチン化された行動プログラムを呼び出し、貧弱になった筋力を代数に入れ込んで脳は指令を発する。遠心性神経からのアセチルコリン放出を受け、白爪が空へと伸びた。
 「――寂しくて仕方がなかったんだ」
 空の言葉が爪を大気に縫い付ける。結果として握手を求めるようなマヌケな格好で静止する彼女の右手。ふと気がついたようにその手を空が握る。人形のように弄ばれながらも、彼女は未だ硬直を解けずに居た。
 「ふふ。そうだった。あなたは私の相手をしてくれるのよね」
 寂しい。それは単独生活を送る火焔猫にとってあまりにも縁近い概念だ。『孤独回路』が正常に動作しなければ、彼女とてこの鴉と似た行動を取ることだろう。
 「今館に居るのはあの変な奴だけなんだ。なのに、あいつ……、私の事嫌いみたいだしさ」
 だからこそ共感――つまり、ミラーニューロンの作用により生じた感情の変動――が彼女の爪を止めた。
 「今日だけじゃない。昨日だって忙しそうだったからあまり構って貰えなかったし。今日は朝からお出かけになられるし。禄にお喋りもできない……。だからさ、ちょっと自分勝手に踏み込み過ぎたのかも」
 まるで、僵尸(きょうし)に魂が宿ったようではないか。そんな形容すら浮かんでくる。実の所、彼女の眼に空という『人格』が映り込んだのは初めての事だった。
 「あいつの言いたいことは分かるんだ。捕食関係にある二者が馴れ合うなんておかしい。うん。その通りだと私も思っていた。だけどさ、ここは違うんだ。さとり様の居る地霊殿(コロニー)では食べ物に気を使う必要なんて無いの。だからかな。あいつとも普通に仲良くなれると思っちゃったのかも」
 利他的行動が死に直結する火焔猫にとって、地獄鴉の精神性とは非常に理解し難い物だ。だから、これまで空の行動は彼女にとって混乱以外の感情を産まなかった。
 「……聞いてくれてありがと。話したらちょっとすっきりしたよ。暫くあいつを困らせるような事は止めておくよ。私だって、最初は抵抗が大きかったもんね」
 寂しさ。そんなちっぽけな感情の共有が、目前の鴉を伽藍堂の箱から一個の生命体へと格上げする。塵にも等しい小さな感慨が、彼女に耳を押される感触を静かに受け入れさせていた。
 そんな状態が数分も続いただろうか。空の愛撫が収まった頃合いを見計らって、彼女は腕の中からそっと抜けだした。そのまま振り返らずに出口を目指す。彼女の黒い脚が廊下の石畳をかつりと鳴らした。
 「……私、本当に迂闊者でさ。いっつも下らない事でミスをして。取り返しの付かない結果を出しちゃうんだ」
 厨房の中に独り言が反響した。彼女の脚は止まらない。背後の反響を無視して、体を廊下へと滑り込ませる。
 「私のコロニーが鬼の領域(ドミニオン)に迷い込んだのも偶然じゃない。私の無能の結果。そうやって私は色んな物を失って生きてきた。今日だって同じ。私はうっかりであなたを危ない目に合わせた」
 隙間の空いた壁が空の声を廊下に届ける。「ごめんなさい。……いえ、ありがとう」肌のざわめきが耳に届いた。そこはまだ、彼女にとって行き過ぎた地点だ。模倣回路(ミラーニューロン)の産んだ作用が掻き消すのは無意味な殺意だ。それ以上の物ではありえない。
 「あなたが今元気で居ることが。私が今ここに居て良いんだって言ってくれてる様な気がするんだ。だから……、あなたはずっと元気でいてね」
 おそらくこの『はぐれ鴉』は群れを失った事で代償行動を必要としているのだろう。だが、そんな存在は魂の宿った僵尸に他ならない。哀れ。そう彼女は理解した。
 だから彼女は返事をすることも尻尾を降ることもしない。ただ静かにその場を後にした。数十メートル先にはエントランスの灯りが見える。石畳のヒビを避ける遊びを一時中断し彼女は二つの道を見る。片方はエントランスに入って左手、玄関へと続く道。もう片方はエントランスの向こう側。自らが最初に目覚めた部屋に続く廊下。たっぷり数秒間、彼女はその二つの道を見比べた。


 「どう? 少しは休めた?」
 「まぁまぁ……。かな」
 ベッドの前には最初に会った時と変わらず、間抜け面が不器用な笑みを浮かべて立っていた。彼女の小さな冒険は本来の成果を出せないが一方で思った以上の成果を上げた。
 「あっそ。玄関の鍵、開けといたから。帰りたきゃ返っても良いよ。さとり様からは、体が癒えるまでは絶対に返すなって言われているけど」
 命を取らず、自由を奪わず。見返りを求めずに食料の補給すら行うのは、地獄鴉の『代償行動』だ。群れを失い、器の意味を失った鴉が本来の目的を見失い、手段だけを求める『自慰行為』に他ならない。だからこそ、この鴉は妖獣である事と利他的な行動を両立させる事ができる。つまり、この鴉が彼女の妖獣を脅かす可能性は低い。
 「うっさいばーか」
 彼女の大脳新皮質と脳幹による協議結果は、地霊殿への逗留を提案した。だから、今彼女がベッドで横になって不機嫌な笑みを浮かべているのは判断に従った結果に過ぎない。
 「おまえなぁ……」
 そこで行われたのは慣れ合い等と言う空想的(イマジナリー)な事ではなくもっと事務的(ビジネスライク)な行為だ。事務的な判断である以上、彼女の行動は自らが得る利益を最大化する方向に向けられなければならない。
 「おまえじゃない」
 故に、その行動は今の彼女が出せる最大限の駒だ。僅かなコストでより多くの利益を得られるのなら、多少のリスクを犯す事も許容される。
 「は?」
 「りんだ。あたいの名前。あたいは『りん』で『おまえ』じゃない」
 恐らくは脳の処理が追いついていないのだろう。メモリの少ない脳では予想外への対応にどうしても遅延が生じる。たっぷり数分後、再起動した空は不器用な笑みを更に引きつらせて『りん』を見た。
 「……そっか。『りん』よろしく。後、私は空だから。お前じゃなくてね」
 「馴れ馴れしいんだよ。『おりん』と呼べ、馬鹿鴉」
 「おう、喧嘩売っているんだね。私買うよ、幾らだい?」
 「高いぞ、お前の手羽先だ」
 「たっか!! わ、割引!!」
 「ならこの話は無かったことに」
 「しょ、しょうがないなぁ……」
 悔し気な表情を浮かべた空が部屋を出て行く。その背中を『おりん』は呆れた顔で見ていた。
 「本当に帰ったよ。どんだけ馬鹿だよ」
 りんに届けるはずだった夕食の盆を持ったまま空は部屋を出て行った。一旦は離れた廊下の足音が、リズムの破綻と共に接近を始める。まるで頼りない宿主の様子に改めて溜息を吐いた。その口角の端が上がっている事に気がついた者はおりんを含めて、誰も居ない。


 ◇◇◇


 小さな廃墟の一室には、何かを打ち鳴らす乾いた音が繰り返し響いている。大理石の床の上で何枚もの折れ曲がった紙と、和綴じの古めかしい書籍が折り重なる。人間味に溢れるエントロピーの増大。その主犯である二頭の獣は、机を挟んで向かい合っていた。
 「……何やってんの?」
 「んー。さとり様の書類仕事のお手伝い……」
 芝居と見紛うほどの不器用な手つきで、空が机の上で紙の束を整えている。そして、もう一体の妖獣は、あくびすらしながら――心底興味無さそうに――話しかけていた。
 「書類って何?」
 「んー。是非曲直庁へ送る稟議書(りんぎしょ)がどうとか……」
 いまのりんは人の姿をとっている。より正しくは地霊殿を訪れて以来、りんは人型以外を空に見せていない。人型は原型を隠す隠れ蓑としての役割も兼ねる。必要以上の情報を空達に与える事は避けなければならなかった。
 「りんごしょ? あぁ、この間食べた『りんご』はおいしかったねぇ」
 「……稟議書ね。『上』にお話を通す書類のこと」
 「へー。じゃ、『りんご』をもっと送ってもらえるのかい?」
 「あーはいはい。そうだよ……」
 「あー楽しみだねぇ。何てったって食うことは大事だからねぇ……」
 「そうそう。その通りですよ……」
 表面上は平穏な会話が続く。心の篭らない声で空に話しかけるりんは、こめかみに浮かび上がった僅かな青筋を見逃さない。わずかに開いた口元から、ふふりと息が漏れた。
 「で、これ、何が書いてあるの?」
 りんが机の上に山と積まれた書類の一枚を手繰り寄せる。ぱちり、ぱちりと言う規則的なリズムが少しだけ乱れた。
 「……あんた字も読めないの?」
 「いや、読めない訳じゃないけど。『読める事』と『理解できる事』は違うじゃん?」
 「そりゃそうだけど、ちょっと位読もうとしようよ。あんたも一応妖獣でしょ?」
 「やだ。めんどい」
 獣と言えど、魔性を宿した段階で世界に対する知識は自然とインプットされる。それは、妖力の源泉となった人妖が持つ知識が逆流した物であるが、あくまで借り物であるが故に全てを利用できる訳では無かった。
 「……私の名前だよ。『漢字』ではそう書くの」
 「ふーん。『漢字』って難しいんだね。こんな、ミミズがのたくったみたいな表記。書けるようになるのは大変だったでしょう」
 りんの白い指先には『霊烏路空』と辛うじて判読できる文字列が並ぶ。
 「あー。そうだよ。そうだよ。めっちゃ頑張って書けるようになったんだから、羨みなさい。ちなみに、さとり様につけて貰ったのよ」
 「へー。でもあんたの名前って『うつほ』でしょ。この『霊烏路』って何?」
 「さぁ、私も意味はよく知らない。おめでたい鳥の事だとか何とか」
 「あぁ、確かにあんたは最高に『おめでたい』ね。なんだ、さとり妖怪もなかなか冗談が上手いじゃん」
 「ふん。苗字どころか漢字も持ってないおりんに言われたか無いね。どうして断ったのさ?」
 「さとり妖怪なんぞに、名前を握られるなんて全くぞっとしないね。だったら別に無くて良いさ」
 「名前で支配するなんて今時の流行りじゃないって。さとり様も言っていたじゃん。どんだけ前時代的な妖怪感を持ってんの……?」
 「まぁ、正直それだけは否定しないよ」
 咬み殺すような笑いと共にりんは視線を窓の外に向ける。夕方を告げる火柱が遠方で吹き上がり四拍程も遅れて地鳴りが届いた。
 りんが地霊殿に居座り初めてから既に四日程が経過している。未だ本調子には遠く暇を持て余すりんは、もっぱら空をからかう事で時間を潰していた。
 「全く……、私より年上ならちょっと位手伝ってくれたって良いじゃない……」
 「年上は敬えって、それあんたらの方が親しみのある概念じゃないかな? ほらほら。妖獣歴千年超えの大先輩よー。肩でも揉んでくれたら、ありがたーいお話の一つ位聴かせてげても良いわよ。おくうちゃん?」
 「それ、殴れって事?」
 妖獣にも格がある。より長くを生き、より多くを食らった妖獣は妖力を増し、より強力な存在へと昇華する。地上ならば三百年から四百年程生きた所で所謂、『大妖』に位置づけられる。だが、殆どの妖獣はその前に生存競争に敗れ命を落とす。結果として妖獣へと至った獣の内、大妖クラスまで辿り着く者は三割程に留まる。
 「……ほんと、どうやってあんたみたいなチビが今まで生き残ってきたのよ。全然強そうじゃないんだけど」
 「いや、あたいよりチビが何言ってるの」
 地下における法則も基本的には同じだ。ただ、淘汰圧の違いが、進化の加速係数に若干の修正を受ける。係数にして一と五分。地下での千年を地上に換算すれば千五百年程なるだろう。つまり、どんなケチの付け用もなくりんは大妖怪だ。
 「私はこう見えて若いの。多分、見た目通りの年齢だよ」
 「それって、獣だった頃も含めてか?」
 「そうだよ。物心ついた頃には妖獣だったし。妖獣になってからまだ十年経ってないし」
 「それはそれですげぇな」
 「ふふん。褒めなさい」
 「それ、殴れって事かい?」
 殆どの獣は生理寿命の終焉――地獄鴉であれば三十年程。最も、殆どはその前に捕食されるため平均寿命はその半分以下である――と共に妖獣へと至る。その言葉が事実なら、満面の笑みを浮かべる鴉は間違いなく『天才』と呼べるだろう。
 りんはそこまで思い至り、握った拳を解く。珍しくはある。力も並外れているのだろう。しかし、天才とは同時に『逸脱』を意味する。そして、旧地獄跡において『逸脱』が必ずしも正に働くとは限らないのだ。彼女の長期記憶(LTM)にも空と共通の特徴を有する個体の顛末は無数に記録されていた。
 思索の終了と共に視覚情報に意識を向ける。根拠の無い自信に溢れた笑みは既に存在しなかった。
 「……それは冗談。聞いてみたい事、幾つかあるんだよね」一種の真剣さすらも感じる声で空は告げる。「例えば?」釣られるように真面目くさった声で、りんは答えた。
 「地霊殿の事とか、是非曲直庁の事とか」
 「さとり妖怪に聞けよ」
 「いや、さとり様の話は長いし、分かりにくいし……」
 空には珍しく、何かを言い淀む様に語尾が切れる。しかし、微量な振動を感じ鳥、りんは耳を澄ます「それに……」
声帯声門を閉じたままのウィスパーボイスが、半開きの口から漏れていた。
 「その事を話している時のさとり様は、あまり楽しそうじゃないから……」
 意外な程に大人びた。心の底からの配慮を感じさせる言葉。普段の間の抜けた声とのギャップが、りんに数瞬の暇を与えた。
 「……気持ち悪いんだよ。話してやるから、その神妙な面を元の鼻水垂らしたのに戻せ」
 「……ひっど。でも……。ありがと」
 「うっせ。後でクッキーよこせー」
 「三枚?」「五枚!」「……四枚」
 「もうそれで良い。……そうは言ってもあたいは部外者だ。外で見ていただけだから内情なんて知らない。それは踏まえて……、聞いておけ」
 こくり、と大げさに頷く。直前の話は既に頭から飛んだのだろう。神妙な面持ちに戻った空は椅子に座り直し、りんを真正面から見据えた。
 「どこから話すべきか……。そうだね。あいつら、つまり『是非曲直庁』と初めて出会った時からで良いか。確かあたいが妖獣になってから三百年程経った時だから。大体二千三百年前かな」「……スッゴいババアだね」「殺す」「思ったよりお年を召しておられるんですね……?」「殺す」「もうっ、どうすりゃ良いのよ!」「黙って聞け!!」「分かった」
 おそらくはさとり妖怪の言い付けを忠実に守っているのだろう。『話を聞く時には相槌を打つ』。そんな単純な言い付けを馬鹿正直に守ろうという意志が空の顔には滲み出ている。しかし、りんにはその愚直さが煙たく感じられて仕方が無い。不毛な憤りを中断し、説明の続行を選択した。
 「地下に来たと言っても、別に騎馬突撃(ランスチャージ)をかまして来た訳じゃない。最初は数人の死神が徒歩で調査に来ただけさ。もしかしたら、あの時点で気がついたのはあたいの他に居ないかもね。あたいが出会ったのはその中の一人だ。燃え滾る溶岩河川みたいな髪した死神さ。丁度今の空みたいに真面目くさった顔した奴だったよ。縄張りを見まわっている時に偶然出くわしてね。出会い頭に、そいつなんて言ったと思う?」
 空はりんの問に答えない。ただ口を固く閉じ、びいだまのような黒い瞳を見開いている。「いや。質問されたり、気になる事があれば喋って良いから」「先に言ってよ」「お、おう。すまなかった……」咬み合わない会話に脱力を覚える。溜息ついでの発声でりんはようやく返答した。
 「ごきげんよう? とか」
 「どこのお嬢様だよ。『なんでこんな所に住んでるのか?』だってさ。余計なお世話だっつーの」
 「あはは。それは確かにそうかも」
 「どうも、その時是非曲直はこの地下に住む生物が居るとは思ってなかったみたいでね。赤髪の死神も聞かされてなかったみたいだったよ。驚いていたんじゃないかな。多分。……まぁ、とにかく。そいつはあたいに地下の事を根堀り葉掘りと聞いてきた。住んでいる生物。気候。土地の特色。他にも色々ね。そんな問答を交わした数日後だったかな。最初の変化が訪れたのは。奴ら、獅子のテリトリーのど真ん中に結界を敷きやがったんだよ。何をしているのかと思ったら館を建て始めてね。あの時は驚いたねぁ。獅子の奴も獅子の奴らで、無駄に慎重なものだから表立って抵抗もしないでやんの。上に立つもの故の不自由ってやつ?」
 当時の光景を視覚野に引っ張りだし、りんは自嘲気味に笑う。獅子は食物連鎖の頂点に位置する超大型の肉食獣だ。現在では鬼に譲ったとは言え、以前殆どの生命体にとって脅威である事に変わりはない。
 「ちょ、ちょ。ちょっとまって。獅子のテリトリーって言ったら……」
 何かに思い当たった様に空が身を乗り出した。獅子は獣の身で、並の妖獣を圧倒する。しかし代償として、肉体を維持する事に多大なコストが必要だ。自然、彼らは最も食料が豊富な土地にしか住めない。地底世界においてその様な場所は自ずと限られる。
 「そ。旧地獄跡の中心。つまりは、ここさ」
 「……だから獅子の奴らは『鬼』だらけの旧都に拘るんだ。こんなとびっきりの危険地帯に住むなんて正気じゃないとは思っていたけど」
 「あんた、危険だって自覚はあったんだな」
 現在の地下世界で旧都が危険と呼ばれているのは、何も鬼や忌み嫌われた妖怪が大量に住み着いている事だけが原因ではない。怨霊、鬼、獅子等の危険度の高い存在が三つ巴の争いを日夜繰り広げているからである。
 「ま、ご存知の通り『地下世界』を『旧地獄跡』たらしめるのは『鬼』だよ。次いで『怨霊』だ。あいつらは是非曲直庁介入以前の地下世界。『旧地獄跡』になる前の『地下世界』には居なかった。全てはこの地下を地獄に作り変える過程で現れ、そして残されたその結果さ。今でも忘れない。『転送門』を通って続々と現れる不気味な列を。あたいは地霊殿の煉瓦屋根の上で確かに聞いたよ。地獄の号令を」
 「それも赤髪の死神が?」
 「そうだよ。最初に会って以来、用もないのに勝手に顔を出すようになってね。正直迷惑だったんだけど、何だかんだで有益な情報をくれるから、黙って話を聞いてやっていたんだ。その時はご丁寧に逃げろとまで言ってくれたね。地上なんて得体の知れない所に行く方がよっぽど恐ろしいってのに。ま、でもあいつの言う事も一理はあったんだよ。奴ら旧都に罪人の怨霊を持ち込みやがったんだ。赤髪の女曰く、地獄を作った理由は怨霊の隔離施設とするためだったらしい。土地は余っているからねぇ。収容しきれなくなった怨霊を入れておく『器』が欲しかったんだろうよ。ところがぎっちょん、そこでも奴らは知らなかった。地下世界と言う場所をね」
 何かに思い当たったように、空の瞳が見開かれる。「原住の怨霊」放たれた言葉は、地底に住むものなら知らない筈が無い言葉。恐ろしくも愛おしい、彼らの生きた証だった。
 「ぴーんぽーん。死んで血と肉片に成り果て、地面に染み込んだあたいらの怨霊だ。好き勝手にあちこち弄ったもんだから、地面から猛烈な勢いで湧いてきたんだよね。そこに罪人の怨霊も混じった物だからしっちゃかめっちゃかだ」
 「でもさ。おりん。確かに怨霊は危険だけど、むしろああいうのは郊外に多くって旧都には少ないと思うんだけど」
 「そうなんだよね。実際、とんでもないと言うほどの状況だったのは数ヶ月の間だけで暫くしたら旧都内の怨霊はかなり減ったんだよね」
 「慣れたから落ち着いたとか……?」
 「うーん。まぁ、それ位しか思い当たることがないのも事実だけどさ」
 「うん。まぁ、でも少しだけここの事が分かった気がしたよ。あいつらって彼岸から来たんだね」
 「いんや違うね」
 「……へ?」固く結ばれた口の端から間の抜けた声が漏れる。りんの紅い双眸が鈍く煌めいた。
 「昔の旧都に居たのは『獄卒鬼(ごくそつき)』で、今の旧都に居るのは、『鬼』だ。是非曲直の奴らが去った後に岩盤を割って無理矢理に入ってきた鬼だよ」
 空の黒く艶やかな横髪が頬に掛かる。疑念を顔に貼り付けたまま、空は違和感を口にした。
 「ね。『獄卒鬼』と『鬼』って何が違うの?」
 「そんな事も知らずに話していたのかよ!! 獄卒鬼って言うのはね。鬼の癖に是非曲直庁に仕える、低級の雑魚カス野郎の事さ」
 「ふぅん。ざこかすさんなんだ」
 「おう、はなくそにも劣る、ざこかすやろうだ。出会う機会があったらつばを吐きかけておくよーに」
 「あー、はいはい。覚えときますよ。で、『鬼』はそれ以外って事で良いのかな?」
 「こいつ……。まぁ、獄卒鬼も鬼の一種といえばそうなんだけど……。まぁ、認識上はそれで正しいか」
 「でもさ、そうすると。当時の是非曲直庁は本当に、何しに来たの? 怨霊を放り込むだけならこんな、大掛かりな開発なんてしなくても良かったんじゃないの?」
 「さぁ。そんなのあたいは知らないよ。ただ、事実としてある日突然にあいつらは居なくなったんだよねぇ。だからここには主を失った住居と、行き場を失った罪人の怨霊が居る。ただそれだけさ」
 りんは窓の外にちらりと視線を向ける。地霊殿は小高い丘の上に位置している。そのために一階にも関わらず、視界の向こう側には旧都の廃墟群が顔を覗かせていた。
 超遠方を漂う青白い炎を二人の第五次視覚野(V5)が捉える。幾つかの点は全て同じ場所を目指しているようだ。二人の視線が追うのは一つの点。数秒もしない内に終着点は訪れる。それらが、『何か』に群がっている事に気がついた時、空はそっと眼を逸らした。
 「……ねぇ。何か心当たりはあるの?」
 「知らない。赤髪の死神も何も言わずに帰ったし。だけど……、そうだねぇ……。心当たりというか、気になる事なんだけど……。あいつらが居なくなった直後から暫く妙な獣が彷徨ってたんだよねぇ。どうにも様子がおかしくって、凶暴が度を過ぎていると言うか、理性を失っていると言おうか……。仲間にすら襲い掛かる獅子が出没するようになったんだよ」
 「獅子が同族を襲う? あのプライドが皮被って歩いてる様なカタブツが?」
 「信じられないかもしれないけど、事実そうだったんだよ。ま、獅子の中で結成された、シュゾクのホコリだの、チカのアンネーだの、よく意味の分からない事を叫ぶ討伐隊がすぐに鎮圧したけどね」
 「へぇ……」
 三キロ以上先から断末魔が届く。甲高く特有の掠れた声には猛禽の特徴がよく現れていた。無言で空がカーテンを閉める。続く嗚咽のような鳴き声が少しだけ遠ざかった気がした。「ところで、だ。空」神妙な顔に感じるむず痒さを我慢できず、りんは口を開いた。
 「あたいもここまで話したんだから、あんたも答えておくれよ。さとり妖怪の目的は何? 是非曲直はここで今度は何するつもりなのさ?」
 「……知らない」
 予想半分。意外半分。りんも正確な答えを期待していた訳ではない。だが、偽りの理由程度は刷り込まれているだろう。そんな期待的な観測が紅玉の瞳に僅かな動揺をもたらした。
 「……期待したあたいが馬鹿だったよ。……ほら」
 「何? その手」
 「くっきーよこせって言っているの」
 「あぁ、ごめんごめん。三枚だっけ?」「ぶちころすぞ。五枚だ」「この詐欺猫」「あんたが言うな」
 掌に四枚のクッキーが載せられる。椅子の一つを乱暴に引っ掴むと、机とは反対方向にひっくり返して小さな尻を収めた。
 「目的も、素性も。主要な情報は何も知らない。そんな存在の『コロニー』によく所属できる物だね」
 「だぁ、かぁ、らぁ。私にとってさとり様は『アルファ』だって言ったじゃん。アルファに従うのは鴉の本能なの」
 「へいへい。馬鹿に付ける薬を飲んだら良いんじゃないですかね」「あっ、良いね、それ。見つけたら持ってきてよ。私だって頭良くなりたいし」「うっせー馬鹿」
 一枚の星形の端を口に含む。最初のような感動は無いが、それでも心落ち着かせる甘みが口内に広がった。ぱりぽり。もぐもぐ。ぱりぽり。もぐもぐ。小規模の咀嚼と嚥下を繰り返す内に、背後から紙を纏める音が鳴り始めた。
 「それも、さとりの為に覚えたのか?」
 「そうだよ。さとり様が私に教えてくれたんだ。字の書き方、書類のまとめ方。紙ヒコーキの作り方、紙鉄砲の鳴らし方、ゴミ箱へ紙ボールを入れるコツ。優しく教えてくれたから、こんな私でもできるようになったんだ」
 「さとり妖怪の奴も苦労してんだな……」
 「……なんで?」「自分で考えろ」
 裏表の入り混じった書類の束を呆れた眼で見つめる。そして、空はそんな事を気にする様子もなく、次の紙束をまとめはじめた。
 「ま。基本あの人不器用だからさー。分かっているのに出来ない事が多いのよ。だから、代わりに私ができるようになってあげるの。ね、私って偉いでしょ?」
 りんの眼前で、可読性の限界を超えた紙束が芸術の域に到達する。天才の所業にりんはただ一度だけ大きく溜息を吐いた。しかし、空も流石に間違いに気がついたのか、ホチキスを逆さまに握りこむ。鉄のカスガイを引きぬく不適切な力の集中が、びりりと一枚の用紙を切り裂いた。
 「……あんたも大概に不器用だな」
 「い、いや慣れてないだけだし。こんなに壊れやすい物に大切な情報を載せようなんて考えた奴が頭悪いだけだし」
 「そ、そうか」
 紙束に突き刺さった鉄片との戦闘を片目に、りんは残りのクッキーを喰む作業に戻る。三枚、二枚、一枚。順調に減る在庫が丁度底を突いた時。若干の潤みを孕んだ視線が、りんへと向けられていた。
 「ねぇ、おりん。手伝って……」「やだよ。他、当たんな」「なんで」「さとり妖怪の為にやっているんでしょ」「そうだけど」「だったら、あんた一人でやれ」
 語気が強まっている事には、りん自身も気が付いていた。目前の鴉が自慰(オナニー)に耽る事でしか自身を保てない存在と理解していて尚。空の視線に混じる疑念が精神をざわつかせていたからだ。
 「なんだよ。タダ飯食わせて貰っているんだからその位……」
 『パペッツ回路』が膨大な怒りを表出させる。一斉に発火するシナプス細胞が中枢神経を素通り(スルー)してりんを立ち上がらせた。血走った眼は空を中心に据えている。
 「タダ飯喰らい……、だと?」
 「そうだよ。少なくとも今貴女はさとり様に食べさせて貰っているんだから、その位の働きはしたって罰は――」
 怒り。アドレナリンやカテコールアミンといった脳内物質の台頭がりんに戦闘能力の向上をもたらす。だが、現在のりんのそれは行き過ぎていた
 「あぁ、そうか。そうだよね。あんたら地獄鴉はそう言う生き物だ。他者のために力を振るうことが自らの利益になるんだ」
 直接戦闘を行うのは間脳視床下部に制御される幾らかのモジュール化された運動プログラムだ。そして機械的なその信号を、周囲の状況に合わせ承認するのが大脳新皮質の仕事である。しかし、今現在のりんは大脳の下から沸き上がってくる機械的刺激が少しばかり優勢であった。
 「……そうだけど。それが何か?」
 「べっつにぃー。ソンケーしちゃうなぁって思っただけ。なぁーんにも知らない相手にすら、そこまで尽くせるんだから」自慰(オナニー)だと。そう言わなかったのは彼女の自制心である。空に対して自慰行為を指摘するのはりんが思いつく中で最も効率の良い殺害方法だ。流石にその選択肢を選ぶのは早すぎる。まだ、利点が優っている。そう判断するだけの理性は残っていた。
 だが、その判断の代償としてそれ以外の承認はほぼ鵜呑みにせざるを得ない。はは、と無邪気な笑いを残し、りんは空に背を向けた。
 「だから、それはさとり様が私の――」
 「『ご主人様』。だからでしょ、分かってる分かってる。そこだけは理屈じゃないんでしょ。それは認めてあげるよ」
 「あ、あんたになんか認められなくたって」
 「いーや。大事な事さ」
 耳に障る笑い声と共に軽い口調が空に届く。それは、アドレナリンに提示された択一式の設問への回答を意味した。
 黒猫がタンゴを舞う淑女の様に。第一歩の弱起(アウフタクト)に貯めをおいて空の前に回り込んだ。白磁の如く白く、しなやかな両の手が空の頬に伸ばされる。その全ては流れるように優雅に。驚くほどの可憐さをもって行われた。だが、そんな動作とは対照的に、真正面からつぶらな瞳を覗きこむそれは、とても無邪気などと呼べる物ではなかった。
 「あたいにそれを押し付けんな」
 ドスの効いた低音がモルタルの壁に反響する。空の黒い翼がぞぞと震えた。彼女の挑発は合理的な判断の結果だ。互いに怒れば相対的な差は埋まる。同じ土俵で勝負すれば、後は純粋な身体能力の比べ合いに持ち込める。『戦闘』を望んだ彼女にとって、それは重要な事だ。
「根本的に勘違いしているみたいだから言っとくけど、あたいは、さとり妖怪に助けられたとは思ってない。あんたらが勝手に生かしたんだ。だから、そもあんたらに恩を掛けられたとは思ってない」
 「……ああそう。だったら、とっとと出て行ってよ。別に怪我している訳でも無いんでしょ?」
 「ああ。あたいだってできるならそうしたいね。ただ、あたいはまだ体力が戻ってないのさ。こんな、ガキみたいな情けない格好で居なければならない程度にはね」
 りんの滞在はさとりによって許可されている。故に、りんの意見は『傲慢』ではなく歴とした『権利』だ。その露骨なまでに傲慢な言葉でりんは空の心に蹴りを入れた。
 「――だから、今は何故かタダで飯をくれる『変な現象』を受け入れている。何か、ムジュンはあるかい?」
 逆立った風切羽を見て、りんがにやりと笑う。逆流した血液によって、反射弓による運動がりんの胸倉を捉えた。
 「さとり様を馬鹿にするな」
 「『変』な物を『変』だと言って何が悪いのさ」
 「泣かす」
 「おー、嬉しいねぇ。ちょーっと、体の調子を確かめたかったんだよ。気が効くぅ~。流石おくうちゃん!」
 その笑顔に感情はない。紅蓮の瞳が縦に収束している。漏れ出る紫色の気配は、紛れもなく捕食者(プレデター)が発するそれであった。
 「こないだの続きね。ぼっこぼこにしてあげるから」
 黒いゴシックドレスが空の視界から消失する。その現実を空の視覚野が処理し終わった時、既にりんは下半身を躍動させ宙へと舞い上がっていた。りんの挙動は瞬間的に神経伝達系の限界を上回る。故に、一条の電雷と化したりんを視界に捉える術は空に無かった。りんはただ無防備に立ちつくす案山子の背後に音もなく着地する。
 悠々とした動作で立ち上がった捕食者は、その耳たぶに犬歯を突き立てた。
 「本当に気が利くねぇ。あたいは今日朝ご飯食べそこねちゃってさ。ちょうどお昼までの繋ぎが欲しかったのよね」
 紅い飛沫が視界を過る。口を開けたりんが舌の上に乗った肉片を空に見せつけた。
 「ほら、空の『ここ』……、もうこんな蕩けているよ……」
 「……そりゃどうも、お代は?」
 大袈裟な音を立てて耳たぶを咀嚼する。肉片を嚥下した猫が恍惚の表情で鴉を見下した。
 「ツケで」
 「地獄鴉舐めんな……!!」
 粉砕された大理石の床が、轢(れき)となって後方のりんを襲う。深々と床にめり込んだ足は、空の剛力が生命を超越する事の証明だ。それでも、所詮は轢(れき)の弾丸である。大気の壁を貫くのに向かぬ形状では火焔猫の反応速度を超えることができない。実際にりんの野生は回避が可能であることを告げていた。それにも関わらずりんの動きが鈍ったのは、極端に合理化されたシステムの虚弱性に起因する。四肢に設けられた反射弓は合理的な判断を、刹那的な利益によって押し潰してしまった。
 結果として眼を庇ってしまったりんが空の当身を真正面から受ける。小さな肢体は三メートル程向こうの壁へ吹き飛ばされた。二本の肋骨と胸骨が圧し折られ肺胞が血を吹く。喀血による紅い軌跡を描きながらも、りんは辛うじて意識を保っていた。
 「飛んだね。気絶させるつもりだったのに」
 砂煙の向こう側から悔し気な声が届く。空中で体勢を整えたりんは壁に張り付き、空の様子を伺った。
 「ふん、あんたには無理さ。キャリアが違う。生まれ持ったスペックが違う」
 「ははっ、でも私を地獄鴉と思ったから、貴女は血を吐いてるんでしょ?」
 「抜かせ」「なら、証明してみれば」「はっ、今日の夕飯は食いきれなさそうだ」
 次撃を狙い戦闘態勢を取る二人。その間にあるのは一メートルに満たない、零コンマ五秒で到達できる距離。たったそれだけの空間が何時まで経っても埋まらない。その異常性を生み出したのは、紛れもなく扉の前に立つ人影だった。

 「どうも、おはよう。二人共。元気そうでなによりだわ」
 「げぇっ、さとり」「様!!」「妖怪!!」

 普段は固く結ばれた口元が、引きつるように歪められている。伏し目がちの眼が不気味に見開かれ、全体の異様さに拍車を掛けていた。
 「さとりさま。あのですね、これは――」
 「はい。言い訳は口に出さなくても構いませんよ。今読んでいますから」
 胸の無機的な有機物がぎろりと二人を睨む。恐るべき視線に、りんの脊髄が末端から麻痺を始める。視界の端で鴉が視線の主に向けて一歩足を出した。
 「いいえ、読むまでもありません。悪いのはこいつが――」
 「な、何言ってんのさ、あんたから仕掛けてきた癖に」
 不気味な作り笑いがすっと消える。無言で胸の瞳に手を添えるさとりを目の当たりにして、鴉は顔面を蒼白にした。
 「ま、待って下さい! ほ、ほんとに、大したことじゃ――」
 長い瞑目。襲い掛かってくる心をまさぐられる不快感。全身から脂汗が浮き上がっても、りんの体は金縛りを受けたように動かなかった。長い、長い沈黙。ようやくさとりが口を開いた時、りんの股間には小水が滲んでいた。
 「ふぅーん。まぁ、どっちの言いたい事もわかりますけれど……。ま、そんな程度の事で争ってないで、素直に謝りなさいな。お互いに」
 「「えっ、ちょっ、さとり」」「さま」「妖怪」
 想定の斜め上を行く回答がりんの意識を現実に引き戻す。空にとっては更に予想外であったようで、黒い目を更に丸く見開いた空が、さとりに詰め寄っていた。
 「「なんで」」「あたいが」「わたしが」「「謝らないといけないん」」「だ!!」「ですか!!」
 「あらあら、困りましたね。反抗期かしら? でも、空もりんもそんな年齢じゃないですし……」
 「さとり様! こいつが悪いんです。この性悪猫が貴女の悪口を言ったんです!」「おい、こらちょっと待て」
 空の必死の訴えも、思索に耽るさとりの耳には届かない。数秒もしない内に明るくなるさとりの表情とは対照的に、空の顔は病的に白く生気を失っていた。
 「あっ、分かった。権威症候群(アルファシンドローム)ね。こないだ書庫で読んだ本に書いてあったわ」
 「「――ひぅっ」」
 その語尾は十中八九碌でもない未来を導く。訪れる事態を予想し、二人は竦(すく)み上がった。
 「もう良いのよ、空。貴女はもう上に立たなくて良いの。そんな事は私がやってあげるから。貴女は毎日楽しく過ごしなさい」
 「あ、あふ。さ、さとり様。私、そんなつもりじゃ、」
 「本当に。本当にごめんなさい。だけどね、理解する事と知る事の間にはどうしようも無い差があるの。私にはそれをあなた達に教える義務がある」
 「ちょっ、なんであたいも――」
 「私もね。本当に辛いの。他人の心を抉るっていうのはね。自分の心に掛かる負担も大きいから。でも、私はあなた達が大切だから。それでもやろうと思う。恨んでくれて良い。だけど、私があなた達を愛していた事だけは。知っておいて欲しい……」
 目元から一筋の雫を零したさとりが、便所サンダルを引き摺る。部屋の中に矮躯が入った瞬間。淀んだ空気が凍結した。
 「――さて、それじゃ。どんなオシオキにしようかしら。とびっきりの悪夢とかどうでしょう?」
 見当違いな場所でサンダルが床を削る。蜃気楼の様に姿を消したさとりが、二人の頭に直接呼び掛けた。
 「それとも白昼夢に沈むのがお好みかしら?」
 大気の塊が形を成して空の頬をなぞる。総毛立った空が、青白い顔で天敵にしがみついた。
 「あぁ、勿論意識を保ったままトラウマ触診三時間コースも可よ」
 二人の前に唐突に姿を表したさとりがサンダルを引き摺る。一歩、また一歩と接近する恐怖の権化を前に、二人はただ縮こまる以外に無かった。哀れな生贄に溜め息を吐き、さとりは胸の第三の目(サードアイ)を掲げた。
 「――そう、全部をご所望ね。分かったわ。かなり辛いでしょうけど、これも躾の一巻。権威症候群(アルファシンドローム)は互いに辛いの。だから耐えて……。二人共……!!」
 「「ひうっ――!?」」
 極彩色が物体の反射率を無視して部屋中を駆け巡る。
 閃光が、二人の網膜を透過した。


 どれ程の時間が経過しただろうか。気がつけば二人は混沌とした空間に取り残されていた。真下に浮かぶ太陽が、紫の光で大地を照らす。天蓋を歩く蜘蛛が、八つ足を広げて夜を作り上げたかと思えばその体を苗床に枯れ木が芽を出す。空中に築かれたタイガは、空を滑る鴉の翼を串刺しにした。磔となった鴉はかぁと鳴き、黒い瞳が溢す雫が土壌を黒く染める。徐々に勢いを増した雫は、やがて一筋の流れと化した。コールタールの河が二人を押し流す直前、駆け抜ける猛炎の塵旋風(ダストデビル)が一滴すら残さずに燃やし尽くした。
 炎の余波が火焔猫のヒゲと地獄鴉の羽をちりちりと焼く。息をつく間もなく降り注ぐ流星の雨。二十キロメートルの彼方で炸裂した隕石が、半透明の衝撃波となって世界に拡散した。降り注ぐ死の灰(フォールアウト)が、地を駆ける鼠の脚を縫い付け、最も偉大な獅子を石像へと変える。白銀へと変じた世界の中央に座するのは起源となった隕鉄。怪しい輝きを放つ歪な球が途方も無い電磁の波を吐き出し続けていた。世界の法則を無視した磁界の流れが空間の連続性を否定し始める。空中を漂うプラズマが、炎の軌跡を残し地平の彼方へと消えていった。光球の放つ熱線が空を覆う毒蜘蛛の巣と、蜘蛛自身を焼き払う。タンパクの焦げる硫黄臭が世界に満ちると同時、天蓋には巨大な穴が穿たれた。
 世界を覆う新たな世界。希望の灯りは汚泥の如き黒いコンクリートとして二人の心を穿つ。窒素酸化物(NOX)と硫黄酸化物(SOX)で汚染された壁は大気に満ちる水分を強酸性へと変換した上で大地に解き放つ。マグマの河から一筋の白煙が立ち昇った。
 炭化された大地が脆性を顕にし真っ二つに割れる。断層の隙間からは溶岩の海が顔を覗かせた。拡大を続ける亀裂から逃げる二人の行く手を、隆起する大地が遮る。プレートテクトニクスの完全否定による大地の流動が、空想上の生命を現実の世界へと引きずり降ろした。天を衝く麒麟が、大地の亀裂で世界を落書く。ハクタクが地平の彼方に新たな山を作る。ヘカントケイルが怒りのままに天蓋を打ち砕く。何処までも超自然的な光景が二人の瞳を曇らせる。行き過ぎた創造がやがて暴走に変わる。好き勝手に天蓋と大地を連続させていたハクタクが何かに突き動かされるように麒麟の落書きを塗りつぶす。シンメトリーを欠いた作品が粉々に打ち砕かれ、麒麟が怒りを持って大気をキャンバスに変える。エスカレートする積み木遊びを見かねた一体のヘカントケイルが、ハクタクと麒麟をまとめて叩き潰した。右手の一本が二人の立つ世界の果てに迫る。大地を抉る暴風は、しかし塵に等しい存在を打ち砕くことは無い。直前で崩れ去った指の中から、彼女らの恐怖の権化が姿を現した。

 「……予想通りとはいえ。地上を誤解しすぎね。あなた達」
 呆れたような声は二人に届かない。混乱と恐怖の渦に巻き込まれ理性を失った獣は、互いの関係も忘れてただただ抱き合い続けていた。
 「まぁ、それはさておき……。最後の仕上げと行きましょうか」
 大気が裂け空間の連続性が否定される。空中に浮かぶ無数の眼が、二頭の獣を包囲した。
 「歯を食いしばって耐えなさい。私の可愛いペット達」
 「――?!」
 瞳から伸びる無数の腕が、空の腕に、胸に、羽に。りんの尻尾に、耳に、足に絡みつく。全ての行動を封じられ、まな板の上の魚となった二人の顔に一際巨大な腕が差し向けられ、そして――。
 「「いっだぁ」」
 額を抑えて蹲る二人の前にあるのはいつもと変わらぬ伏しがちな眼。両手の親指の第一関節に中指の爪を当てた形――いわゆる、デコピンの指――をしたさとりが、呆れたように溜め息を吐いた。
 「冗談よ。殆どね。でも……、これ以上続けるなら今日の晩御飯作ってあげないからね」
 「さとり様ぁ……。今日御飯当番私なんですけど……」
 地面にぺたりと尻を付けた空が虚ろな眼で指摘する。一瞬、不機嫌そうに顔を歪め、即座に思索に入る。数秒の後、
渋々といった様子でもう一度口を開いた。
 「じゃ、『私が代わりに作るわよ?』かしら」
 「「すいません。勘弁して下さい」」
 さとりの言葉はカンフル剤となってりんを跳ね起きさせる。白磁の皿に盛られた『冒涜的な物体(アンノウンX)』に対する恐怖心は、意識をアウェアネスに引き戻すには十分過ぎる刺激だった。
 「困ったわね。何故か釈然としないわ」
 「気のせいです。さとり様――、いっだぁ!?」
 額を抑えて蹲る空を放置して、第一の眼がりんに向けられる。第三の眼(サードアイ)に紅く反抗的な炎が反射した。
 「おい、さとり妖怪。今、あたいをついででオシオキしただろ」
 『不公平だ』と唸る空を無視して、さとりの顔には不器用な笑顔が浮かんだ。
 「えー。だって、空一人だけだなんて可哀想じゃないですか? 『おりん』だってそう思うでしょ?」
 「あたいが可哀想だとは思わないのかよ! 後どさくさで名前で呼ぶな。あたいはあんたのペットじゃない」
 「だったら、何て呼べば良いんです? 『タダ飯喰らいさん』なんて私も呼びたくないですよ」
 「『火焔猫』で十分だ。『さとり妖怪』 あんたのペットになった覚えは無いって言っているだろ」
 「冷たいですねぇ。でも、『火焔猫のりん』だなんて呼び辛いじゃないですか。私と違って」
 「あんたに名前を呼ばれるなんて気持ち悪くて仕方ない。それだけで十分だよ」
 「名前を付けて支配するなんて、そんな古典的な術士みたいな真似は趣味じゃないですから。『空』だって頼まれたから付けただけですよ。ね? 空」
 「ちょっ……、あの時の話は勘弁を――」
 「あぁ、昔の空は勇ましかったのに。どうしてこうなってしまったんでしょうか」
 「主に貴女のせいで――、いいえっ、何でもありませんっ!!」訓練された兵の様に背筋を伸ばした空を見て、さとりは手を引っ込める。
 「それで、どうかしら? 地霊殿の住み心地は?」
 「……悪くないね。あんたらの寒い漫才と、名状しがたい料理を除いて、だけど」
 「あらそう。心変わりはいつでも受け付けているから」
 「お断りさ。私は火焔猫だ。群れ(コロニー)には属さない」
 「……そう。それは残念ね。とても」
 その顔に浮かぶ淋しげな色は、本心からの物であるのか。それとも、形式上の物であるのか。判断のつきかねる曖昧な表情を浮かべ、さとりは部屋を出る。「空、来なさい」唐突に名前を呼ばれた鴉は、戸惑いながらその小さな背中に追いすがった。
 「え、あ……、はい。……じゃ、なくて。一体何の用事です? 今日は一日書斎で調べ物じゃなかったんですか?」
 「本部に勤めている同僚(おせっかい)が、面倒な手紙を寄越してねぇ。どうも、ゆっくりしている訳にも行かなくなったのよ」
 懐から取り出した書簡が空に向けて投げられる。仰々しい装丁に驚きつつ、空とりんは恐る恐る蓋を開けた。
 「……の、にも、おり」
 「……読めないなら素直に言いなさい」
 「……ごめんなさい」
 書を睨むのは笑える程に大真面目な顔。原因の書を取り上げたさとりは、途切れがちな声でそれを読み上げ始めた。子供に読み聞かせるように、ゆっくりと順を追って話をする。それは決して流暢ではない。誤った表現をその都度言い直し、幾度も遡って情報を補足する。ともすれば稚拙とも形容できるだろう。しかし、誠意あるその言葉はりんにも、空にも辛うじて理解することができた。
 「はぁ。つまりは、お金が無いんですね」「だっさ、はぅ――!!」
 「一言で言ってしまえばそうですね。正確には、是非曲直庁が『追加予算の拒絶』を検討しているそうなんですよ」
 「でも、どうしてそんな事に? さとり様は毎日働いていらっしゃるじゃないですか?」
 「頑張った、最善を尽くした。ではどうにもならないの。追加予算が欲しければ『結果』を出せと。情けないけれど、あそこはそんな古臭く(シャビー)て、即物的な場所なのよ」
 「――『結果』って何だ?」
 沈黙を守っていたりんが、向こう脛を抑えながら立ち上がる。四つの瞳が、各々の感情を籠めて黒猫を見つめた。
 「さぁて。そう言う訳で『お仕事』よ。空、せっかく作ってもらった重機の購入願い。無駄にしてごめんね」「あ、いえ。丁度良かったっていうか、」「……ああうん。読文はまだちょっと苦手ね。またお勉強しましょう」「……はい」
 頭に載せられた掌が鴉の身をよじらせる。少女のような笑みが口の端から零れ落ちた。
 「あんたの『仕事』って何だ?」便所サンダルが反転し廊下へと向かう。
 「答えろ、さとり妖怪。あんたが空の飼い主を主張するなら、それを教える義務がある。空、あんたにはそれを聞く権利があるはずだよ」
 「だったら貴女にはどっちも無いじゃないですか」
 「あたいは旧地獄跡の住人だ。工事先の近隣住人に説明する義務があるんじゃないの? 赤髪の死神はそんな事を言っていたよ」
 「む……。やなのはやなんですー。なんで私が貴女に説明しなきゃダメなんですー? 火焔猫さぁーん?」
 口先を尖らせたさとりが地面に落ちた轢(れき)の一つを蹴飛ばす。何処までも続く反響音がエントランスホールへと飲まれて消えた。
 「す、拗ねてんのかよ。あんた」
 「べっつにー。私好みの可愛い猫さんがなかなか懐いてくれないから、傷ついているなんて事全然ありませんしー?」
 「子供じゃあるまいし。そんな事言われてあたいが心変わりするとでも?」
 「あ、あのさとり様。火焔猫ってすっごいプライド高いから、あんまり意地悪すると嫌われますよ」
 腕を組み黙りこむ。続くのは長い長い沈黙。その間に繰り返される、言葉の選択は優に数十回を超えた。その試行錯誤の最後、溜息を吐いたさとりはりんの眼をみて口を開いた。
 「仕方ないですね。教えてあげますけど、多分見たほうが早いですよ。貴女も来ますか? 私たちの仕事場に」
 「……手伝わないからね」
 「まぁ、その当たりはお好きな様に」
 自然な動作で空の手を取りエントランスへ向けて脚を動かす。二メートルほどの距離を開けて、りんも歩き始めた。


 「空。所であんたは何で仕事場を知っているのに、あいつの目的を知らないんだ?」
 「あ……」
 「……もう良い。あんたに期待したのが馬鹿だった」







 ◇◇◇


 ――さとり様、発見しました。次の隔壁までの距離を示す標識です。後……、『ご、ごひゃくめぇとる』と書いてあります。
 ――分かったわ。そのまま進みなさい。十分に気をつけて。所定のポイントで合流しましょう。

 無線機越しのノイズの酷い返事を最後に、通信が途切れる。吸収缶(キャニスター)を通ってくる大気には血にも似た――一部は全くそのものとも言える――臭いが混じる。胸に多少の苦しさを感じ、りんは大きく息を吸い込んだ。
 「無線機の調子が良く無いわ。同調(チューニング)が上手く行ってないのかしら……」
 十重二十重と反響する機械音声が暗闇の向こうへと消えていく。マスクの外へと声を届ける放出機(ボイスエミッター)が、さとりの無機質な声を更に際立たせていた。
 かつり。かつり。地面とも石材とも違う。ただただ固く、冷たい足首の感触。淀み切った大気と合わせ、寒気を覚えた猫がぶるると身を震わせた。
 「……手。つないであげましょうか?」
 「余計なお世話」
 りんがさとりの背中を追いかけ始めてはや一時間。闖入者の登場で空と別れてから二十分が経つ。その間でりんが知り得た情報はあまりに少ない。頭を覆う『防毒面』の存在意義も、闖入者の正体も分からない。ただ一つ確かなのはこの空間の存在意義こそが、是非曲直の目的であろうことだけである。
 何処までも続く暗闇。真っ黒い闇の中に忽然と現れる朧気な光の空間。この空間に入り込んで初めての風景の変化だった。原因を突き止めようと眼を凝らしたりんは錆びと埃に塗れたガラス管を見つける。途方も無い年月の経過にも関わらず、ガラス管内部に設置されたエミッターからは、現在でも断続的に電子が飛び出し、封入された水銀蒸気と衝突していた。生まれる三百ナノメートルの不可視光線が、硝子内面の蛍光塗料を励起し、青白い蛍光を生み出す。十ルクスにも満たない朧気な灯りは明滅を繰り返しながら、足元を照らし出していた。唐突に生まれた光のオアシスに眼を奪われたさとりが、はたと足を止めた。
 「もしも、先行した空と連絡が途切れたら事ね……。火焔猫さん、通信開けて貰えるかしら」
 「ちょ、そんな事言ったって。あたいが使い方なんて知るわけ無いじゃないか」
 さとりの突然の行動と、目の前に広がる光景がりんを戸惑わせる。厳しい防毒面とはアンバランスな白い腕が、りんの『防毒面』に伸ばされた。
 「あぁ、それもそうですね。すみません。とりあえず、放出機(ボイスエミッター)を無線機に繋げてから、チャンネルをオープンに設定してですね――」
 「うわ、キモ。顔触ってくんな」
 それは顔全体を覆う仰々しい面。口元に巨大な吸収缶(キャニスター)を搭載した防毒面には髑髏(どくろ)を模した装飾が施されていた。その本体横側に着いた幾つかのダイアルを回し、さとりは光球の外側へと去る。暫くすると耳元の無線機が僅かなノイズを発し始めた。

 ――テス、テス。あー。こちらさとり。聞こえますか?
 ――あー。あー。こちら火焔猫。聞こえているよ。
 ――おーけー。おーけー。受信感度は良好よ。そちらの調子はどうですか?
 ――最高に汗臭くて、息苦しくて、クソッタレだね。どうぞ。
 ――ああ、それなら問題ありませんね。それでは。

 通信テストを終え、手持ち無沙汰になったりんが周囲を見渡す。壁を走る無数の配管。足元を支える薄い金網と、その下に広がる更なる深淵。天井のエアダクトは錆付いているが未だ目立った損傷はない。人工物の洞窟と形容することが最も適切であろう。視界に入ってくるその全てがりんの後頭葉を強く刺激する。歪で異様としか感じられない錆びついたクロム合金の気配にりんは静かに息を飲んだ。
 「ありがとう。おかげで随分通信が安定したわ」
 闇の向こうから届く放出機(ボイスエミッター)越しの声に、りんの小さな心臓が跳ねる。ゆっくりとした歩調で、さとりが闇の中から再び体現した。
 「……そりゃ、どういたしまして」
 「随分と不満そうね」
 「当たり前だね。それ以前の問題が多すぎるよ。硝子にはヒビが入っているし、ゴムは黄ばんでいるし。……おまけにおっさん臭いし!!」
 「どうせ、その辺の作業場の倉庫から引っ張ってきたんでしょうよ。あぁ、全く。何世代前の防毒面を寄越してくれやがったんでしょうか」
 「げぇ!! 何てもん着けさせるのさ!!」
 「あら、野生動物もそう言うの気にするんですね」
 「繁殖期以外は雄の臭いなんて嗅ぎたくもないね。吐き気がするよ」
 心底気持ちが悪そうに、マスクの下で舌を出してみせる。鮮やかなピンクの猫舌が内壁に触れる。味蕾が感知した塩味が、りんの顔をしかめさせた。
 「なぁ、さとり妖怪。これ、外しちゃ駄目なのか?」
 「それは難しい質問ね。……貴女も『あれら』の仲間入りをしたいのなら止めはしませんが」
 ちらりと後方に視線をやり、一拍の貯めを置いてさとりは告げる。先ほどの記憶が蘇ったりんが顔をしかめた。深い溜息がマスクを白く曇らせた。
 「全く……、着いて来るんじゃなかったよ」
 かつんかつんと、金属音を響かせてさとりは先へ行く。一歩先すらも見えない闇の中へ躊躇なく戻るさとりを、りんはおっかなびっくりと言った様子で追った。
 「そこ、足元に崩落箇所よ」
 「うわわっ……、っと」
 りんの鋭敏な桿体細胞が床にぽっかりと空いた大穴を辛うじて捉える。頭上に飛び出た配管に注意しながら、りんは軽い身のこなしで飛び越した。
 「意外ですね。暗闇はお嫌いですか?」
 「暗過ぎるんだよ。明かりが殆ど零じゃ、幾ら眼が良くたって意味が無い。あんたこそ、どうして平気な顔していられるんだ?」
 「私は、妖力による反響定位(エコーロケーション)を使っていますから」
 「卑怯な……。って。待った、まさかそれじゃあいつも?」
 「空の防毒面にはライトが着いているの。光物が好きでね、あの子……」
 「あ、そ……」
 りんの無線機が聞き慣れた間抜けな声を受信する。しかし、チャンネルを閉じ忘れていた事に気がついたのはりんだけではなかった。通路の遥か彼方で人工の明かりが己の存在を主張した。
 「あの馬鹿はほっといて……。なぁ。そろそろ聞いて良いか。あいつらは何者だ? これが、是非曲直のやりたかった事なのか?」
 「最後の質問にはいと答えましょう。もう一つは……」
 続く言葉は大気を震わせない。回答から逃避するようにさとりの足が速まった。数十メートルも進んだ地点だろうか。吸収缶(キャニスター)越しにでも察知できる臭いの変化にりんは思わず足を止めた。
 何かが左側面に存在する。そんな確信にも近い予感に突き動かされ、りんは恐る恐るその方向を向く。正にその瞬間。遠方から届く空の抗議の意志が、僅かな明かりとなってそこに広がる空間を照らし出した。

 「是非曲直庁が、旧地獄から手を引かなければならなかった理由ですよ」

 それは放出機(ボイスエミッター)のマイクですら拾えない程の小さな声。ガスマスクの中だけに反響した声は、りんに届かないことを願われていた。しかし、鋭敏な聴覚は僅かなガラス面の振動を逃さない。運命をねじ曲げる疑念がりんの中で膨らんでいった。
 「そりゃ、つまり。アレがそうだって事かい?」
 崩落した壁の向こう側を見つめ、りんはさとりに問う。深い溜息で生まれた曇りがマスクの下を隠す。長い沈黙の後、さとりは静かに頷いた。
 「なぁ……、ちゃんと説明してくれよ」
 眼下に広がるのは途方もなく巨大な鉄球と、果てしなく広大な空間。等間隔に並ぶ気体貯蔵タンクが黒い海の中、不気味に浮かび上がっていた。
 「……先に行きますよ。空が待っています」
 「おいっ!? さとり妖怪!!」
 金属音を響かせて、小さな気配が先へと進む。
 「説明しろっ――、つってんだ――、ろ?」
 さとりの肩を掴もうとした手が空を切る。引き摺るような足音は、予想の七歩先からの物だった。その気配はりんの方を振り返ることもしない。ただ「申し訳ありません」「私は思考の言語変換が苦手です」そんな前置きを置いてゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

 「……ここに充満しているガスは、本来それ程危険なものではありません。実際にこんなものは地上でも容易に採取できます。当然、問題となる事も非常に稀でした。……『窒素』と変わりません。何処にでもある、ありふれた気体。ただ一つだけ非常に特殊な性質を持っている。ただそれだけのガスでした」
 地底世界の知識体系とかけ離れているさとりの言葉。妖獣を構成する基本情報として長期記憶(LTM)の宣言的記憶(DM)に保存されているにも関わらず、りんの理解は全く追いつかなかった。呆気にとられる黒猫の耳に、かぁんかぁんと、鋼鉄を打ち鳴らす音が遠方から届いた。さとりの足音が急かされたように早まる。対照的に何かを探るような言葉はじれったい程に遅いままだった。
 「本来絶対に混じり合わぬ筈の霊力と空気が、特定状況下でのみ大気中の成分と錯体を形成しその中央に収まる。霊力を核とする分子は、非常に安定して空気中に分散します。それがこのガスの正体」
 抑揚に欠けたノイズの発信源が上方に移動する。何事かと伸ばした足が圧倒的な重量を持った物体に激突する。爪先は反作用の法則に基づき運動エネルギーをそのまま受けた。涙目でもう片方の足を出したりんは、それが錆びついた骨組みだけの階段であることに気が付く。
 「貴女もご存知の通り霊力は魂に、大気は血液に取り込まれます。当然、その両方の性質を持つこの錯体は肺胞表面に存在するヘモグロビンと魂に対してほぼ等価に相互作用をします」
 恐る恐る階段を昇る度、発信元の不明な金属音が接近する。りんの手が思わず手すりに伸びたのが、先ほどの事態を思い起こさせたからか。それとも、合計八十キログラムにも満たない重量に軋む骨組みに起因するのかは、自身にすら分からなかった。
 「ヘモグロビンに取り込まれたのなら問題ありません。血中を巡った錯体はどの細胞にも分配されずにそのまま静脈へ向かうことでしょう。しかし、魂に取り込まれるとそうも行きません。魂は霊力を消費するだけの機関です。静脈の様な上等な燃え滓の運搬機関を持ちません」
 何処までも続く階段の向こう側に、朧気な光が覗いている。何一つ理解できぬ言葉に辟易したりんがさとりを追い越し、駆け足で階段を登り切った。
 アーク放電が照らす朧気な空間には足の折れた机と、崩れ落ちた配管が床に突き刺さっていた。それはただの廃墟の一室。しかし、見慣れた筈のそれには異様な気配が充満している。先に起こる事を予見するように、脳内ではアドレナリン濃度が上昇を始めていた。
 「核に存在する霊力により魂に吸着した錯体は大気に守られて代謝されずにいつまでも残ります。それでも自然界の濃度であれば問題ありません。時間が経てば錯体が分解され後遺症も残らないでしょう。しかし、この場所に充満するガスの濃度は、優に自然条件下の二百倍はあります」
 殺気が硝子を通してすらりんの感覚器を震わせる。接近する金属音はあまりに生々しく、あまりに生気に満ちていた。何かに取り憑かれた様に虚ろな眼のさとりを不気味に思う余裕すら無い。りんは、ただたた薄い壁の向こうにある気配に意識を奪われていた。
 「肝硬変へと移行する末期患者の様に。魂に蓄積したガスは魂の代謝を抑制します。そうして、高濃度ガスに侵された者は動かぬ心を諦観(ていかん)と取り違え、抵抗すらせず魂の腐敗を受け入れる。故に、この場所には――」
 瞬間。深淵の世界から全ての音が消え去る。縮退された気配が音速を超えて爆発的に膨れ上がる。同時。明滅する電灯が膨張する壁を照らしだした。

 「――魄(はく)のみで動く僵尸(きょうし)が彷徨っています」

 轟音。後、爆煙。クロム合金の壁を突き破った黒い翼と黒い影が、さとりの横髪を掠めて部屋の中央に倒れ込んだ。
突然に発生した事態にりんの状況把握は一瞬の遅延を強いられる。薄暗い闇に浮かぶ物体を凝視するりんとは対照的に、さとりは一切の迷いを持たず声を掛けた。
 「空、それはもう主を失った動く墓標よ。殺しても貴女は殺人者には戻らない。安心しなさい」
 「ありがとうございます」
 暴風が部屋を横断する。吹き飛ばされた巨体が折り重なる三つの机と、垂れ下がった一本の配管をへし折って壁に激突する。叩き付けられた男の右腕は、本来有り得ぬ方向に折れ曲がっていた。舞い上がった埃と光源がチンダル現象を起こす。煌めく光の柱の向こう側に立つ破壊者は、あまりにも可愛らしい姿をしていた。
 「来てよ。その位で壊れるほど脆くないでしょ?」
 幼い姿からは想像もできない蠱惑的な笑み浮かべ、黒い鴉が男を挑発する。髑髏の防毒面が発奮した様にぬらりと立ち上がった。盛り上がり血管の浮き上がった腕部は、折れた骨を強靭な上腕二頭筋で補強しているのだろう。壁を沿う配管の一つを引き千切り、緩慢な動作で空へと歩み寄った。
 一歩、また一歩と男が空に近づく度に、吸収缶(キャニスター)を通した大気に生ゴミの様な香りが混じる。男と空の距離は残り二メートル。だが、全くもって驚くべき事に空は動く気配すら見せない。銀の煌めきが頭蓋を割ろうと黒く艶のある毛先に触れて尚、何かを期待するような笑みを浮かべて、煌めきの行方を眼で追っていた。
 「お、おいっ、空! 馬鹿! にげ――」
 言葉を発していた事、地面を蹴っていた事。その事実をりんが認識した時、既に肢体は宙を舞っていた。時間距離にして四秒。とても救援が間に合う距離ではない。不毛でしか無い己の行動に疑念を持つ余裕すらなかった。
 「弱い。すっごい弱い。旧都の鬼はもっと強かったのに」
 耳に届くのは聞き慣れた声。冷静を装い切れていない、背伸びした思春期の子供の様な響き。鉄板の床を靴で削り、火花を散らして急減速する。無理な体制で地面に降り立った黒猫は驚きと共に現実へと目を向けた。
 そこにあったのは額から一筋の血を流したやせ我慢の笑顔。ぎりと奥歯を噛み締め、揺れる体幹を無理やり安定させた空が男の顔を鷲掴みにする。すぅと、細く息を吸うと、細腕が左胸を貫いた。
 「グ■ゴ※ォ……、ゴ▲※□……」
 曇りきったガラス面の向こう側が白い泡で埋まる。壊れた放出機(ボイスエミッター)が聞き取れぬうめき声を部屋中に届けた。
 胸から手を引きぬいた空はそんな様子に一瞥もくれない。踵を返した空が掌の心臓を握りつぶすと同時、背後の男が崩れ落ちた。


 「怪我は大丈夫ですか?」
 血に塗れたピースサインが小走りにさとりの元に駆け寄る。肉片と血糊を咎められた空が、服の裾でそれらを拭いはにかむように笑った。
 「空、無茶するんじゃありません。わざと受けなくたって良いでしょうに」
 呆れたような表情を浮かべながらも、ポケットから取り出されたハンケチは額に当てられている。怖ろしく不器用な手つきで髪の毛にこびり付いた血を拭われる空は非常に迷惑そうな――それでいて何処か安心したような――表情を浮かべていた。
 「えー。良いじゃないですか。多少の遊びがないとあんなのと付き合ってらんないですよ」
 「こいつらにも色々居るんです。力だけなら四天王に匹敵する者だって珍しくないんですよ」
 (そんな細かい事ばかり気にしているから、育たないんですよ。主に胸が――)「あたた! さとり様、指、痛い!!」
 「生意気な口を聞くようになりましたね。私とどっこいの癖に」
 「で、でも実際私の方がちょっとだけ、――あっだぁ!!」
 背筋の寒くなる寸劇。いつもりんがそう呼ぶやりとりが目の前で繰り広げられる。しかし、今のりんの頭を巡っているのは全く別の事についてだった。
 「さとり妖怪、どうしてこいつらがここに居るの?」
 「ん? りんはこいつらが何か知ってるの?」
 「知っているも何もあるか。こいつは『獄卒鬼』だよ!!」
 肉片と化した男の顔に防毒面は掛かっていない。そこには、醜い顔と額に生えた二本の角があった。
 「ええ。そうです。彼らは是非曲直庁の労働力及び兵力の中核を成す強靭で従順な鬼『獄卒鬼』。それが僵尸となったのが彼らです。ちなみに、ここに入ってきてすぐ出会ったのも同じく『獄卒鬼』の僵尸ですよ」
 「どうして『獄卒鬼』が地底に残っている!! 是非曲直が去ってから数百年。こいつらはここで何をしていたの?」
 「別に何も。何もありません。ただ彼らはここに居るだけですよ」
 「答えになっていない。真面目に答えて」
 「そうですね。そろそろ話しても良いかもしれません。ですが――、まずは眼の前の仕事を終わらせましょう。彼らが集まって来ましたよ」
 「集めていたんでしょう。さとり様」
 「あら、バレてました?」
 「オープンチャンネルで聞いていましたよ。あんな大声で話しながら歩いていたら嫌でも寄ってきますって」
 「ふふ、寂しがり屋な猫さんが居るものですから、つい調子に乗りました」
 「ちょっ、あたいは何も――」
 「確かに動きやすい場所だし。お掃除には調度良いですね」
 「火焔猫さんも居ますしね」
 「なっ、なんであたいが頭数に――」
 「そんな奴に頼らなくたって。私だけで十分ですよ。ほら、後ろからも来ましたよ、ひぃ、ふぅ、みぃ……、四体」
 「無茶を言わない。階段の二匹は空。奥の通路に居る一匹は私。火焔猫さんはあの壁の穴から来た奴をお願いしますね」
 りんの後方では一体の僵尸が黒い闇の沼を抜けだそうとしていた。ぬるりと姿を表した大男がガラス越しに灰色の瞳を輝かせる。ただ純粋な摂食衝動を叩き付けられ、首筋に一筋の雫が浮かぶ。背中へと流れる前に大袈裟に髪を掻きあげるふりをして拭った。
 「何がお願いよ。拒否権なんて無いじゃないさ……」
 「大丈夫ですよ。力こそ生前を上回りますが、動きは遅いですし行動も単純です。落ち着けば貴女なら傷一つ追わずに倒せます」
 「……ご丁寧にどーも」
 クロム合金のパイプを飴のように引き千切り、りんの正面から一体の僵尸が接近する。他の出入り口からも現れた僵尸達は三人に向かって殺到した。
 「そこの馬鹿に勝てて、あたいに勝てない道理なんてある訳無いね」「言うじゃない。ならやってみなよ」「ふふん。見てなよ」
 光の筋を突き破り一体の僵尸がりんに向かって突進する。視界に迫る弾き飛ばされた机を、地に伏しながら観察していた。衝突の寸前。宙に舞い上がった黒い猫は水に溶解する白糖の様に、もやを残して闇へと溶けこむ。酸化皮膜が禿げ、オキソ水酸化鉄と四酸化鉄の混合物に塗れた配管が僅かな荷重に軋む。足場の上。目標を見失い大気の壁を突き破る木偶の坊を視界の中央に捉えた。最も効果的な箇所をえぐり取れる位置。火焔猫の最大の強みである瞬発力を活かせる位置を目指し、丸い配管の繋ぎ目に、張り出した錆に、ボルトだった塊に爪を掛け、器用に移動する。僵尸の背後。剥き出しになった後頭部に狙いを定め、りんは大きく舌なめずりをした。
 白銀色に煌めく鉤爪が冥闇を一直線に切り裂く。
 「うわっ、気持ち悪っ!!」
 粘性の高い水音と酷いアンモニア臭。つま先に付着した脳漿(のうしょう)の感覚にりんは顔を歪める。そんな様子を見た空はふふと嘲笑(わら)った。
 「そら、当然あんたにとって腐肉は友達だろうさ。このゴミ漁り野郎(スカベンジャー)が」
 「そのまんま過ぎて悪口にもなってないよ。おりん。あんた、見た目によらず臆病者(チキン)なんだねぇ」
 薄明かりの向こう側で、階段の前に仁王立ちをした空が僵尸を殴り飛ばす。肉塊が階段を転がり落ちる音をBGMに、空は真っ赤に染まったピースサインをりんへ向けた。
 「こら、戦っている時に余所見しない。あなた達が怪我をしたら悲しいわ」
 いつもと変わらぬ声色に合わせ、一メートル六十センチ程の僵尸が横面から血を流して昏倒する。その声の主が、顛末を見届ける必要はないと言わんばかりに、踵を返してりんと空を見渡した。そこにあるのはいつもと変わらぬ眠たげな瞼。肩に担ぐ釘抜き棒から垂れた一粒の雫が、地面に赤黒い染みを作った。
 「私にはさとり様の方が心配に見えますね」
 足早にさとりとすれ違った空が、広間の中央に倒れる僵尸の頭蓋を踏み潰す。それを見たりんもまた、足元に倒れる僵尸を何度も踏みつけた。
 「まぁ、念には念を入れることは悪く無いと思います。ただ……」
 りんが確認できる限り、室内の僵尸は全て完全に生命活動を停止している。当然、りんよりも遥かに気配察知に特化したさとりにそれが理解できない筈もない。それにも関わらず、胸の第三の眼(サードアイ)に手を当てたさとりは表情を強張らせた。
 「どうしたんです? さとり様」
 「おかわりが来たわ。……少し多い、九体よ。三体は階段から。他はその穴と奥から。そっちは任せます」
 「大丈夫ですか? 三体も同時に相手をして」
 「侮りすぎですよ、空。第三の眼(サードアイ)が役に立たない位で、大妖たる私が遅れを取ると思うのかしら? それよりです。あなた達こそ、ちゃんと協力しなさい」
 「何を言っているんですか。だいじょう――」
 「――空。自分の力を過信しないで」
 「……あなたが言わないで下さい」
 じとりとした眼が空を睨みつける。子供のような、拗ねたような目線を送ると、さとりはぷいとそっぽを向き、階段の下に降りて行ってしまった。
 残された空は苦笑いを浮かべてりんの方を見る。
 「――さて。りん、一匹任せて良い? 五匹は私が受け持つから」
 その語尾が僅かに上擦ったことにりんは気が付く。戦闘において環境が同じなら数が多い方が有利である。そんな常識的な理論はクラウゼヴィッツの戦争論に頼らずともりんの野生が知らせてくれた。
 偶然にも連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)・最高司令官の弾きだした計算式と全く同一の方程式が、野生に導かれりんの頭に浮かぶ。
 ――部隊戦闘能力=戦闘部隊の質量×(速度)2――
 無意識(イド)が目の前の馬鹿鴉の能力を方程式に当てはめる。不可解過ぎる不等号がりんの意識(エゴ)にノイズを走らせた。
 「返事してよ、りん。あっ、まさか怖気づいたの? だ、だったら、部屋の隅で縮こまってなよ。こ、こいつら六匹位私一人でじゅ、十分だし」
 『地獄鴉には珍しい力自慢(パワーバカ)』『その源泉は恵まれた筋力と太い骨格』『一対の大きな翼は滑空飛行を得意とし、室内で使える代物では無い』『結論:現在の地獄鴉の戦闘力は僵尸三体を僅かに上回る程度』自動運転に切り替わった様にりんの頭が勝手に演算結果を報告する。
 「ねぇっ、りん。もう来るんだけど」
 打ち抜いた壁の穴を通って続々と侵入する僵尸の群れ。戦力差を目の当たりにした空が僅かに焦りの表情を浮かべた。
 『六体の僵尸と交戦は無謀』『推奨する行動はこの場からの逃走、もしくは鴉と協力し――』ぶんと頭(かぶり)を振って強制的に思考を止めた。
 「いやいや、まさか。何を考えているんだ。あたいは」
 地獄鴉は獲物で、火焔猫は捕食者。その立ち位置はどうあっても揺るがない=先程の思考はエラーに違いない。
 そう自分に言い聞かせるようにりんは防毒面の内側で呟く。無駄な努力を嘲笑う(あざわらう)かのように、顔を上げたりんの視界を遮るのは黒い翼だった。
 りんよりも僅かに小さな体。撫で肩気味の華奢なシルエットからは、内包する剛力の片鱗すら感じることはできない。緑のスカートから覗くふくらはぎが、電光に照らされて艶を放つ。そして何よりも、度し難いほどの怒りをりんの中に生じさせるのは、そのふくらはぎの僅かな震えであった。
 「どうして――」
 『あたいの餌があたいを守る』そう続けるはずの言葉は空に遮られる。
 「もう良いよ。下がっていて。あんた一人位なら守ってあげられるから」
 脳内に走る毛細血管の数本が弾け飛ぶ音を聞く。りんの我慢はついに限界を超えた。
 「なんであたいが、あんたなんかに守られなくちゃならないんだ」
 子供の様だ。りんは自分自身にそんな感想を抱きながらも、自身を抑える術を持たなかった。
 「はぁ。それ、手伝ってくれるって事で良いの?」
 自分が理解できないから。りんの怒りの源泉はたったそれだけの単純な理由だった。
 「あたいはあんたのコロニーの一員じゃない。だから、あんたに守られる筋合いはない。そも、火焔猫は何時だって独りだ。自分の命は自分で守る。あんたの歪んだ価値観をあたいに押し付けるな。さっきも言った」
 『異常個体』である事を考慮しても不審な挙動。本質的な部分にまで及ぶ『違和感』の大きさは、むしろ『異邦人(フォーリナー)』に近い。そんな考えりんの苛立ちを倍加させていた。
 「そこにあたいの太腿の肉を狙う不埒な雄が三匹居る。それで、たまたまたその隣にあんたの手羽先を狙う輩が三匹居た。ただそれだけだから」
 「……まぁ。別に何でも良いけどさ。そうと決まったら早く片付けようよ。どうせこの後はお掃除だけだし、からっけつになっても構わないからさ」
 幸いにもりんを取り囲む状況は、生じてしまった怒りを向ける先には困らなかった。
 隣で空の拳が小気味の良い音を立てる。長い年月を生きた妖獣としての眼が、その『腕』に沿う形で凝集する妖力の流れを捉えた。
 「『えぐぞすけ……、なんたら』は効率が悪いってさとり様がしょっちゅう言うもんだから最近使ってなかったんだけど。まぁ、たまには良いよね」
 「なにそれ」
 負けじとりんも『脚』の外側に補助的な筋肉を作り出す。
 「地上ではそう言う『ぎじゅつ』らしいよ」
 「ふーん。まぁ、本当にからっけつにならないように気をつけた方が良い。すっからかんのあんたなんて三秒で食べられるからね」
 妖力に寄って体外に筋肉や骨格等を擬似的に生み出し、身体を強化する技術。『外骨格型(エグゾスケルトンタイプ)』。地上の世界ではそう呼ばれる技術は、極めて原始的で非効率的と揶揄(やゆ)される。
 「あんたこそ! ケチって背中からばっさり行かれても知らないから」
 二度、三度。軽くジャンプした空が地面を蹴って僵尸へと猛然と突進する。三体を巻き込んだ暴力は、もつれ合うようにしてそのま穴の向こうへと消えていった。
 危なっかしく、優雅さの欠片もない戦闘にりんは軽く頭を掻く。残された三体の僵尸が順に襲い掛かってくることを確認し、りんはふくらはぎを見る。百五十ミリリットルの妖力を用いて作られた成形筋繊維が、擬似神経によって抹消神経と接続されていた。
 「右脚、左脚。両方問題無し……っと。しかし。知らなかったなぁ。上じゃ、これを『技術』だなんて言うんだね」
 一拍、二拍。旋律を刻むように床を打ち鳴らす。三拍目、爪先を弾くようにして打ち鳴らす。そのスタッカートを合図にりんの肢体は宙を舞った。極限まで研ぎ澄まされた三半規管が制御する体躯を自在に駆って僵尸の肩に脚を掛ける。強化した脚力で一体の僵尸を床に貼り付けると同時、りんは更に空へと舞い上がった。跳躍から三秒。引力と推進力が釣り合う刹那のタイミングに、もう一体の僵尸へと狙いを定めた。
 「まったく。こんなの駄々漏れの妖力で殴っているだけじゃんか。この何処に『技』や『術』があるんだか」
 天井から垂れ下がる折れたパイプに足の裏を触れさせる。鋼鉄に靴の跡を残し、りんは僵尸へ向けて一直線に襲いかかった。
 細く、しなやかな脚が一直線に僵尸の頭頂部を踏み抜く。脊椎が圧迫骨折をする音と共に、巨体がゆらりと傾いた。間髪を入れずに最後の一体を視界の中央に収める。四肢への神経伝達の術を失った案山子が地面に着く前に、りんの爪は最後の一体の首を空に舞わせていた。
 「あー。あいつに釣られて気合入れ過ぎたね。こんなに妖力を注ぎ込むんじゃなかったよ」
 襲いかかってきた強い疲労感にりんは大きな溜息を吐く。
 「頭の良い上の奴らなら。もっと効率の良い使い方を知っているのかね。まぁ……、あたいには関係ないか」
 併発する胸を圧迫される様な痛み。そして、肉体との距離が一センチメール程離れたような錯覚。爪の間にこびり付いた脂と血を払い、重くなった体で死体の山に背を向けた。
 「あー、疲れた。そっちも終わった?」
 僵尸の掃討が終わったのだろう。間抜けな笑みを浮かべた空が闇の中から姿をあらわした。元気な言葉とは裏腹に、マスク越しに聞こえる呼吸音は荒い。
 「当然。あんたも随分とお疲れじゃない」
 「ちょっと、調子に乗り過ぎたかなぁ。久しぶりだったから。急ぎだったしさ」
 見ればその腕部、脚部。そして定まらない体幹から脇腹には骨折が少なくとも内出血の跡がある。治り始めてはいるものの、決してその様子から伺える程に楽な戦闘では無かったと見える。
 「馬鹿じゃないの?」
 「馬鹿でも何でも良いよ。それでさとり様が守れるのなら――、って。ヤバ。早くさとり様を助けに行かなくっちゃ」
 慌てた様子で空が胸のライトを点灯させる。大袈裟な程に真剣な瞳は階段の方へ向けられている。階段の下では相変わらず『四つ』の気配が蠢いていた。
 「さとり様ったら、本当、相性悪いのに無茶ばっかり!! 精神攻撃にばっかり頼って録に体も鍛えてない癖に!」
 飛ぶような勢いで空が階段を駆け下りる。暗闇を切り裂く光の筋が、舞い上がった埃を浮き上がらせた。その背を追いながらりんは考える。空は決して強くない、身体能力も保有する妖力も申し分ないが決定的に経験が不足している。その上に利他主義が重なった鴉は最早、自殺志願者と見分けがつかない。今の空の姿は歪であるが、ある種当然の結果なのかもしれない。そんな事を冷静に分析していると、暗闇の向こう側で蠢く気配が一段階強まった。
 近づく気配。迫る金属音。ようやく追いついたりんの視界の端では空が唇を噛み締めていた。金属音が不意に途切れる。加速した空の脚力により、階段の一部が吹き飛んだ。
 「さ、さとり様!」
 息を切らせた空が、床の鉄板を抉って着地する。そこにあったのは気配通り、三匹の僵尸とさとり妖怪だった。
 「ぅ……、うつほぉー。お、お願いー。助けてー」
 その光景を理解した空の顔がかぁと赤く染まる。階段の下。一体の僵尸に組み伏せられたさとりは、そのまま美味しく頂かれようとしていた。無論、性的な意味でだ。


 「さとりさまぁー。私、怖かったんですよ。こんな所一人で先に行けなんて」
 「あはは。済みません。でも、あの狭い通路で三人固まるほうが危ないじゃないですか」
 「だからって、僵尸に襲われるなり『お前は先に行け。私達は後から追いかけますから――』は無いでしょう。死ぬ気かと思いましたよ」
 「ごめんなさいね。良い言葉が思い浮かばなかったので、つい」
 「そうじゃなくって……、ねぇ? さとりさまぁー。いぢわるですよ。……聞こえているくせに」
 「仕方ないですね。では……、よく頑張りました」
 「えへへ……」
 「きんも……」天井から垂れ下がる第三の眼(サードアイ)が、歪な硝子を重ねるシャンデリアとして部屋を照らす。天井を走る配管の一つには冷ややか視線を向けるりんが腰掛けていた。視線の先、子犬のように羽を小刻みに震わせる鴉が猫を見上げた。
 「りんもそろそろ機嫌直して、降りてきてよー」
 「怒ってなんか無いし……」
 金属パイプの樹海の上には、モルタルの壁が広がっている。天井を走る亀裂の行方を眼で追いながら、気のない返事を返した。
 「怨霊入れるためだけに、こんな御大層な物を作るかね。フツー……」
 「地底世界の現住民に対する配慮です。この『焦熱地獄炉』は『魂の鎮静剤(トランキライザー)』の製造工場も兼ねているんですよ」
 「何が配慮さ。『ゾンビパウダー』って言えよ。キモチワルイ」
 「……そうですね。本来の目的がどうあれ。そうなってしまったのは私たちの落ち度です。すみません」
 階段を登り広間に戻る途中。断片的にさとりの口から発せられた情報が、りんの気持ちを深く沈ませていた。
 「おりんっ! さとり様に何て事言うのよ!」
 「あんたは黙ってろ」返答の代わりに上目遣いの睨めつけるような視線がりんに向けられた。
 「作業員、主には獄卒鬼を三百人以上巻き込んだ大事故。つまり、『鎮静剤(トランキライザー)の漏洩事故』は是非曲直で極秘事項(トップシークレット)でした。もちろん公的文書には一行の記述すらありません。責任の追求を恐れた当時の十王が、遺族に莫大な口止め料を渡したんですよ。そして事件は揉み消され、焦熱地獄炉も封鎖されました。表向きは経費削減の業務仕分けと言う事にして」
 「あんたらが居なくなった後に現れた、キチガイ獅子共はその影響だね。ハタメーワクな」
 「……その通りです。ただ、少なくともこの場所を作ろうとした切っ掛けは、地底への被害を最小限に留める事だった。どうか、それだけは……、心に留めて下さい」
 第三の眼(サードアイ)が照らす部屋の中央でさとりが顔を伏せる。後ろめたい気配を纏う姿は、りんが初めて眼にする物だった。
 「留めるも何も。それであたいらの楽園は再びあたいらの元に戻ってきたんだ。めでたしめでたし。その事に文句なんてある訳無いでしょ。謝られる筋合いも無いね」
 子供をあやすような猫撫で声が空中に放り投げられる。憤慨し飛び上がった空は、配管の一つに手を掛けた。
 「おりん。いい加減にしてよ! 何が不満なのさ」
 感情の篭らない極めてぶっきらぼうな返事。配管に脚を掛け、逆さにぶら下がったりんは空と顔を付き合わせて大きな溜息を吐いた。
 「べー、つー、にー。見せるほうが早いにしたって、ちょっと位警告してくれても良いじゃん、とか。常識知らずのあんたらにほいほい着いて来たあたいは本当に馬鹿だなぁ、とか。そんな事を思っているだけだよ」
 心の内を駄々漏れにしながら、りんは薄い臀部(でんぶ)を再び配管に乗せる。続く数秒の睨み合い。見下された鴉は不満気な様子で地上に降りた。
 「あんたらの仕事って、この焦熱地獄炉の再稼働でしょ?」
 「……その通りです。現在の目標としてはガスの排出のために管制室(コントロールルーム)への到達経路を探すことでしょうか」「なんで黙っていたんだよ。いや、あたいにならまだわかるけど、どうして空にまで隠す必要があったの?」
 「……嫌われるかと思って」
 「子供か」
 この日何度目とも知れない溜息を吐いてそっぽを向く。慌てた様子の空が、不自然なほど明るい表情でさとりに駆け寄った。
 「さとり様! 私、全然気にしてないですから! このアホの言うことなんて聞かなくても――」
 頭に載せられた掌の感触に空が押し黙る。黙って愛撫を受け入れる空と言葉を紡がないさとりにより生まれたのは、唐突な沈黙であった。五分。十分。長い長い時間の後、頭を上げたさとりの表情はいつも通りの仏頂面であった。
 「そうですね。聞かれるまでは答える必要も無いかと思っていましたが……。良い機会でした。ありがとうございます。今日の作業が終わったら出口までお連れしますから。暫くそこでおくつろぎ下さいな」
 「言われなくてもそうさせて貰うよ……」
 細い足場の上で器用に寝転ぶ。ごつごつとした感触をやせ我慢しながら、りんは高みの見物を決め込んだ。
 「さて、今日のお仕事を終わらせてしまいましょう。急がないとおゆはんに間に合いません」
 ぱんと部屋中に轟いた拍手が、場を仕切り直す。
 「それはそうですが……、良いんですか? 猫の手も借りたいって、この間言っていたばかりじゃないですか」
 「痒い所に手が届く。知ってます? 私達じゃ届かないからこその『猫の手』ですよ」
 「知っています。それ、『まごのて』ですよね。この間さとりさまがお風呂上りに、」
 「……そう言う事は人前で言わない。さぁ、無駄口を叩く暇があったらお仕事です。始めますよ」
 天井から吊り下がった第三の眼(サードアイ)が大きく脈動する。虚空を見つめていた目玉が目まぐるしく動き始めた。まるで生物のような動きを目の当たりにし、りんは息を飲む。読心とは違う。しかし、酷似した能力の発動が行われているようだった。
 「最初に聞いておきますが、空。貴女が見つけた隔壁に関する看板はどの辺りに?」
 「うーんと……。正面の通路に入って五分ほど歩いた所です。ただ、五十メートルも行かない内に通路の崩落が起こっていました」
 空の指先はホールの奥にある廊下を指す。暗闇で先は見えないが、何処までも続くかのようにぽっかりと穴を開けていた。
 「またですか。まぁ、仕方ありません。それで、そこの横穴は何なんです?」
 「さぁ? 引き返す途中。僵尸に絡まれた時に見つけた扉に入っただけなので何とも。『ちゅーぼー』か何かじゃないですか?」
 「ふむ。この壁の薄さは重要な区画とは思えません。あながち間違いでも無いかもしれませんね。ここは食堂みたいですし」
 そう言ってさとりは部屋を見渡す。カウンターらしき区切られた空間の上には、『かけうどん二百円』『味噌汁二十円』等の呑気な言葉が踊っていた。
 「状況は分かりました。空はその瓦礫の撤去作業に当たって下さい。私はこの部屋で引き続き周囲の僵尸を監視します。緊急の連絡は無線で」
 「りょーかいです」
 ぱちり、と空が首から下げたライトの電源を投入する。部屋の外に広がる冥闇を切り裂きながら、黒い翼が部屋を去った。その姿を見届けたさとりは広い部屋の中央に正座する。第三の眼(サードアイ)から発せられた光が、大気中に形成されたプリズムに突き刺さる。分光された七色のスペクトルが部屋中を駆け巡った。
 超短波の光を利用した探索は壁を透視し、生体の気配を察知する。真正面から瞳を覗きこまれた様な感覚を覚え、りんは小さく身震いをした。
 「……どうしました?」
 「それ、気持ち悪いんだけど。どうにかならないの?」
 「難しいですね。私は監視役ですから。空が瓦礫を撤去する間。あいつらが近づかないように認識阻害の術と索敵を行わなけばなりません。そうしないと、空はまた危険に晒されますから」
 「そこまでするなら倒しゃ良いじゃないの? いくらあんたが弱いったって、術符の二、三枚も用意すれば適当にあしらえるでしょ?」
 「一時的には、ですね」
 「どういう事さ?」
 「ふふ、すぐに分かります」
 ガラス越しに一瞬見えたのは不気味な笑み。同時、部屋を駆け巡る光に僅かなノイズが混じる。不安定になりかかった第三の眼(サードアイ)の制御に戻ったさとりの表情をそれ以上伺うことは出来なかった。
 疑問と不快感を覚えたまま時間は過ぎる。「そろそろですね」そんな唐突な声と共に、異変は始まった。
 「☆◇グボァ●△★ヴァ◇※――」
 部屋の隅。積み上げられていた死体の山から、名状し難い唸り声が響く。吐き気を催す汚臭を撒き散らし、立ち上がったのは一体の僵尸だった。
 「なにこいつ? 心臓も、頭も潰した筈なのに」
 あまりにぎこちのない動きは小脳による運動調節機能が働いていないのだろう。頭蓋からは脳漿(のうしょう)がこぼれ、左胸にぽっかりと穴が空いていた。
 「ただの僵尸なら、ここまでの生命力は持たないです。しかし、この魄(はく)は『鬼』に由来しています。体中に存在する『神経節』が核となって、彼を何度でも蘇らせる様ですね」
 流石に頭を潰せば時間稼ぎになるようですが。ぼやきながらさとりは続ける。さとりに迫る僵尸は大脳こそ破損しているものの、脳幹はほぼ無傷で残っている。潰しそこねが回復を早めたのだと容易に想像できた。
 「さて、困りました。私は警戒を解くわけには行きません。警戒線ギリギリの所には既に何体もの僵尸が蠢いています。かと言って、私には片手間にこいつを倒す実力はない」
 赤子のような足取りの僵尸が、死体に脚をとられて転倒する。衝撃で破損した膝関節の修復を行うことすらせず、這うようにして僵尸はさとりを目指した。
 「だったらどうだって言うの?」
 「さて。私は死ぬでしょうね。その次は空。最後は……、どうでしょう。貴女なら逃げきれるかもしれません」
 さとりの片方の眼だけが天井のりんを見る。八割の反骨心を返答に代えてそっぽを向いた。
 「あぁ、困りました。困りました。どうしましょう。誰か都合よく助けてくれたりしないでしょうか」
 その言葉には不自然な程焦りがない。まるで、自らの次の行動を予測している様だ。そんな事を考えながらりんは配管から降り立った。
 「あら。助けてくれるんですか。お優しいんですね」
 「くっそ、読んでいる癖にワザとらしいんだよ! 黙って監視を続けていろ!」
 踵落としで脳幹を破壊する。続いて脊髄、肺、腱、眼球。おおよそ行動に必要と思われる部位は破壊し尽くした頃。ようやく僵尸は本当の意味で活動を停止した。
 胸に溢れる名残惜しさを押し込め、なるべく足元のそれを見ないようにしてりんは配管の上に戻った。
 「ありがとうございます。火焔猫さん」
 「ふん。あんたに礼を言われる筋合いなんて……」
 「火焔猫さん」
 「なんだよ」
 「ありがとうございます」
 「どういたしまして」
 どうしようもない居心地の悪さを感じ、不貞腐れたように眼を閉じる。五分。十分。廊下の向こう側から聞こえてくる作業音は未だに終わる気配を見せない。暇を持て余すりんであるが、都合よく寝付けるはずもない。当然、胸の中を満たす居心地の悪さも消えていなかった。その上で、ただ第三の眼(サードアイ)が発する視線が心なしか自身に向けられている。りんはそんな気配を感じていた。
 「火焔猫さん」
 妙な予感とは的中する。先ほどまでとは全く異なる発音。どこか、上擦ったような。散々の迷いの上に放たれたような。そんな中途半端な印象を受ける。根拠のない悪寒が、りんを襲った。
 「な、なんだよ……」
 薄眼で覗いたさとりの表情は光の反射で伺えない。防毒面に施された装飾と相まって。『鬼』のようだと。そんな印象をりんは受けた。
 「貴女。私たちのこと、手伝いたいんじゃないですか?」
 「ね、寝言はにゃてから――」
 体内から熱量が根こそぎ奪い去られる錯覚。引き攣った横隔膜を無理矢理に動かしたが為に、語尾は情けない発音にしかならなかった。
 「私の前で嘘を吐くことに意味があるとでも?」
 「そ、それこそ嘘だ。あんたの読心が汲み取れるのはクオリアまでだ。漠然とした思考のイメージは読めても、自制された意識までは読めない。違うか?」
 「まぁ、否定はしません。空位に単純な思考ならその限りでは無いですが」
 例えば今回であれば、助けようと言うりんの『物理的行動』を読むことはできても、その『行動理由』は――隠されている場合に限り――知ることができない。これは、生命の行動が全て意志の元に行われている訳ではないと言う事実に起因する。一つの動作毎に意志を介在していてはとても脳の処理が追いつかない。咄嗟の判断が遅れ、致命的な結果をもたらす可能性もある。そこで行われるのが行動のモジュール化である。予め遺伝子レベルでモジュールを組んでおく事で処理の軽減。動作の最適化を実現する。
 それは、極めて合理的な生命の仕組みであったが故に、りんにも推測ができた。どこまでも心を見透かせると言うなら、他人とのコミュニケーションを会話に頼る必要は無い。一方的な言葉を向けるだけで用は足りる。それをしないのは、できない理由があるからだろう。そうりんは考えていた。しかし、予想の的中に胸を撫で下ろしたのも束の間だった。
 「最も、それとこれとは話が別なんですよね」りんの全身を縛ったのは通常よりも一オクターブ下の声。少なくとも視界に映るさとりの姿に変化はない。しかし、りんの本能は目の前の相手が鬼にも匹敵する脅威であると明確に知らせていた。
 「……あんた。空をわざとここから遠ざけたね」
 「もう一度聞きます。貴女、私達を助けたいのでは無いですか?」
 りんの本能は猛烈な警告(アラート)を発し続ける。その指令強度は先程僵尸と対峙した時とは比べ物にならない。だらか、それに抗えたのはりんの意志などではなく単純に金縛りだったからだ。
 「お断りだ。誰があんたなんかのために」
 「……そうですか」全ての分子運動を零に収束させる視線。おおよそ、まともな生命が放つとは思えないそれがりんの心臓を的確に捉えた。
 逃げなければいけない。現在進行形で心を壊されている。その自覚がありながらも、金縛りが溶けることは無かった。第三の眼(サードアイ)の探索光(サーチライト)が別方向に向く。反射が消え顕になったさとりの顔には露悪的な笑みが浮かんでいた。
 「がっかりですよ……、貴女には」
 剥き出しの急所を抉るように、突き立てられた視線が傷口を広げていった。
 「……まさか、地獄で名高い火焔猫が。是非曲直庁の名だたる死神の頭を悩ませる悪魔が。『死体攫い』が。ライバルも居ないこんな宝の山を前にして無気力だなんて」
 「う、うるさい! だまれっ!」
 細く白い指の先に導かれるように、りんの視線が誘導される。抗うことができない。頭を掴まれているとしか思えない強制力で、視線はそれに向けさせられた。
 それが視覚野(V1)で処理されるまでの間。刹那に満たない時の狭間でりんは理解する。
 ――これがさとり妖怪だ。
 少女の姿で油断を誘い、パーソナル・スペースに入り込む。精神の麻痺毒によって体を縫いつけた後に、心を少しづつ抉る。極めて趣味の悪い精神性の毒蛇。それが、さとり妖怪の正体である。そうりんは確信し無念を嘆いた。
 好奇心と刹那的利益に負けた自分を恨んでも既に遅い。彼女の心はさとりによって丸裸にされようとしていた
 「ぁ……、ぅ……」
 視線の先にあるのは、これまで頑なに見ないようにしていた存在。脳幹を大脳新皮質で押さえつける為の必須条件。
 つまりは、うず高く積まれた死体の山だった。
 理想的な死体。そう呼ぶことが最も適切だろう。腐敗もせず、代謝も止まった完璧な死体は、本来死んだ瞬間にしか見られないはずの儚い輝きを今も保っていた。
 「ふふ。本で読んだ通りですね。緩んだ口元が隠しきれていませんよ。さっきからそこから動こうとしないのは。『死体』を視界に入れないためでしょう?」
 「ひ、卑怯だ! だ、だって。だって!! こんなの、見せられて――」
 「涎。拭きなさい。みっともないわ」
 「うっ、うるしゃい! だったら……、悪いの……、かよ……」
 抑圧からの反動がりんに子供のような態度を取らせる。それを理解しているにも関わらず、――より正確には理解し抑制しようとしているからこそ――涙と涎を留めることができなかった。
「いいえ。悪くありません。でも。我慢は体に悪いですよ。快楽に身を任せなさい。大丈夫。不都合は起こらないと、私が保証してあげますから」
 「違う……。あたいは、あんたの為に死体運びなんで絶対に……!」
 そこにあるのは絶対的な矛盾。つまり、さとりと言う敵性因子に仕掛けられる、本能を逆手に取った自我の攻撃だ。本能に従う事。極めて自然なその行為自体が自己矛盾を発生させる恐るべきシステムに、りんはただただ小水を漏らす事しかできなかった。
 「そうですね。なら貴女は貴女の為に仕事をすれば良い。ほら、貴女への報酬として素敵な一輪車を準備しましたから。理想的な相互利益ですよ? ほら、火焔猫としての貴女は何も矛盾しません!」天井から降り立ったりんが、真っ赤な顔を掌で隠す。
 「あ……、ぅ……」
 部屋の隅に現れた新品の一輪車とさとりの顔を往復すること五八回。地面にぺたりと座り込んだ後、りんは静かに首を縦に振った。

◇◇◇


 ――『死体攫い』
 地下に存在する大空洞が旧地獄跡となる前から生息していた生物の一種、火焔猫の別名。食料に乏しい地下世界を生き抜くために火焔猫が身につけた習性に由来する。
 地底生態系ピラミッド上で高次消費者と位置づけられる彼らは、肉食者(カーニヴァー)であると同時に腐肉者(スカベンジャー)としての側面を持つ。極めて苛酷な条件下に耐えるため、地下世界には集団生活を営む種族が多い。その中で、幼い僅かな時期を除き孤高を貫く火焔猫は非常に珍しい種族である。そんな彼らが、生き方の不利を埋める為に取る、遺伝子的な存続戦略の核は、隠密と窃盗にある。
 地底ではその食物の希少さから、捕食能力の高い生物程、肉を隠し貯蔵しようとする習性を持つ割合が多い。火焔猫は身軽な体を活かし、腐りかけた死体を掠め取って生きる道を選択した。戦利品を抱え、膨大な数の追跡者に追われて生きる彼らは、紙一重で鉤爪を交わし、地底の冥闇に身を溶かす能力を異常なまでに発展させている。
 腐敗し液状化しかかった腕の一本ですら、異常な執念を持って掠め取り、逃げおおせる姿から『死体攫い』の名は付けられた。
 「生き残る為の熱量獲得手段が、何時しか死体を運ぶ事自体に快楽を覚える様に変化した結果がこれだから、生物って面白いわよね」
 旧地獄に来る前、是非曲直庁の資料室で見た情報を追憶しながらさとりは呟く。顔を真赤に染めたりんが一輪車を片手に、矮躯(わいく)に詰め寄った。
 「わーっ! わーっ! おいっ、さとり妖怪! あんたやっぱりサイテーだな!」
 「あぁ、ごめんなさい。口に出すつもりはなかったんですが」
 生物の意識の渦に常に晒されて生きるさとり妖怪にとって、口頭と思考の壁はあまりにも薄過ぎる。しかし、悪意がない事を示す言葉は、恥部を晒された猫を慰めるには少々不十分だった。
 「でも、そこまで恥ずかしがる事ではありませんよ。生存戦略状重要な行動に強烈な動機づけを行う場合。その遺伝子が生命の行動に対して性的興奮を覚えるようにプログラミングするのは、決して珍しいことでは――」
 「あーっ!! あーっ!! 聞こえない! 聞こえない!」
 「ふーん。りんは『ヘンタイさん』って事で良いの?」
 「ぷっ。さぁ、どうでしょうね?」
 「おい、否定しろ! さとり妖怪! 怒るよ!!」
 「あ、火焔猫さん。死体が落ちそうですよ」
 「~~~!!」
 謝罪を放棄し、場の仕切り直しを選択する。それはりんの怒りの性質がそれ程深刻な物で無いと確信を持っていたからこその事だった。さとりの大方の予想通り、りんは顔を赤く染めながらも、死体を満載した一輪車を押して階段を降りて行く。
 「帰り道は一輪車に付いた経路案内装置(ナビゲーションシステム)が教えてくれますからご安心を。全部外に運んでくださって構いませんからね」
 「うっせ! うっせ! 話しかけんなー!!」
 早まった足音が遠ざかっていく。怒りを示す言葉とは裏腹に、さとりの眼は冥闇に消えていく喜色の感情を捉えていた。
 「りん、楽しそうですね」
 「ええ。あの子は素直じゃありませんからね。此方から働きかけてあげなければ、自分に従うこともままならない。……まぁ、少し強引だったかもしれませんが」
 「……さとり様。何やったんです?」
 ガラスの下で空は怪訝な表情を浮かべる。懐疑、呆れ。空から流れる感情は、言葉と何一つ相違が無かった。ならば、やはり問題はない。意味深な笑みを返答に代えて、さとりは掌を打ち鳴らした。
 「さ、火焔猫さんが帰ってくる前に後片付けを済ませてしまいましょうか」
 「……はーい」
 不平。そして、納得。決して頭が悪い訳ではない。しかし、その素直さは愚直とも思える。それはさとりにとって好都合でもあり、同時に心配の種でもあった。
 「部屋内の瓦礫は粗方片付けたし。後は、明日以降の作業に向けた『結界の構築』ね。空は通路の先。私は横の穴。お願いできるかしら」
 「へ? 死体の山の処理が残っていますよ。この僵尸、そろそろ動き出しても良いと思うんですけど」
 「その点に関しては問題ありませんよ。何せ、猫の手が借りられましたから」
 「……りんがどうしたんです?」
 「まぁ、それ程難しい話でもありません。ああ言う妖怪は謂れに弱い。だからこそ、火焔猫の様な死体を葬る専門家(アンダーテイカー)が彼らにとっての銀の弾丸(シルバーブレッド)になる。だから、そこに積んであるのは文字通りの死体の山です。貴女が居ない間に頭だけは全部潰してもらいました」
 「彼らが復活することはもうありません」さとりはそう続けてふふと笑った。
 「ほぇー。てっきり、運び屋が増えただけだと……」
 「まぁ、そう言う訳で安心して結界構築に移りましょうか」「はーい。それでは行ってきまーす」
 間延びした声が通路に向けて去っていく。当然の様に両手には何も持たれていなかった。念の為に思考を読み取る。雪のように白いキャンバスを額の真上に幻視した。
 「……御札。持ち合わせあるの?」「……あ」
 はたと脚を止めた空がぼさぼさの頭に手をやる。はにかんだ様な笑みが、さとりの庇護欲(ひごよく)を掻き立てた。
 「……まずは横の穴を塞ぎましょうか。通路の奥は私と一緒に行きましょう」「……はーい」
 反省。安心。札を忘れたのは故意ではない。しかし、同時に空はさとり妖怪に教えを乞える事に喜びを感じていた。無邪気な笑顔がさとりの模倣回路(ミラーニューロン)を刺激する。
 「妖力は残っている? さっきかなり消耗したんでしょ?」「実はちょっとしんどいです。ほんの少しだけ。分けて頂けますか?」「良いですよ。ほら来なさい」
 ぱたぱたと、足首に荷重の掛かる歩き方で空がさとりの胸に身を寄せる。その背中にそっと手を回し、周囲に簡易的な結界を構築すべく術式の暗唱を始めた。付与する能力は『選択的透過性』。ガスだけをシャットアウトする薄い妖力の膜が二人を包む。
 後頭部に手を回し空の防毒面を外す。そのあどけなさの残る顔立ちに混じるのは不安げな物。なるべく空に気取られない様に、第三の眼(サードアイ)で呼吸器系をスキャンした。肺静脈、肺動脈。共にヘモグロビンに異常なし。魂表面の妖力濃度も正常範囲内。全てが安全であることを確認し、さとりは自らの面を外した。
 「力を抜いて。リラックスしてくれて良い。大丈夫、私に任せて」「……ん」
 小さく頷いた鴉の羽がたらりと下がる。胸の前で手を合わせたまま、空はすっと眼を閉じた。ピンクの唇にそっと舌を這わせる。潤滑液を十分に行き渡った事を確認し、そっと唇を合わせた。それは舌の挿入を伴わないソフトキス。交わされるのは愛情。空から緊張が抜けたことを確認し、呼気、唾液を通して空の体内へと妖力の転送を開始した。一分にも満たない時間。唇を離したさとりは優しく空の頭を撫でた。頬を赤く染めた鴉が唇を押さえ、上目遣いでさとりを見上げる。
 「……さとり様。ちょっと上手になっていません?」
 「あら分かります。『竹輪』で練習したのよ。何時までも唇を噛み切っていたら悪いし。少しは……、ね」
 苦い笑いを浮かべた空がいそいそと防毒面を付ける。さとりが差し出した札を受け取り壁の穴へと駆け寄った。揺れる大きな黒翼とアンバランスに小さな体。去っていく背中を見てさとりは思考に耽る。
 これまでにさとりが読み取った範囲では空に性交の経験は無い。おそらく彼女にとって接吻は『親愛の確認』以上の意味を持たないのだろう。もう一つの意味、『性的情動』のトリガーとしての接吻。妖獣である空が知っているはずのそれを理解するのは何時の日になるだろうか。胸に生じる幻痛がさとりの意識を現実に引き戻した。
 「いや。お母さんか。私は……」ぼやきながらさとりは揺れる翼の行き先に視線を向ける。それは、概ね淀みない動作で壁の周りに札を張り付けていた。
 「えーっと、結界に付与するのは……」
 「妖力による『物理的な障壁』の作成。札の周囲五十メートルにおける『認識の阻害』。この二つよ。ただし、術式解除防止機構(プロテクト)は必要ないわ。計算式は覚えている?」
 「あ、はい。どうにか……。間違っていたら訂正して下さい」
 「了解です。はい、筆よ」
 筆を受け取った空が札の空欄を式で埋めていく。記すのは妖力が果たす役割。世界において何を成すべきかを仔細に。誤解の余地なく記述した物が術符であり、妖術である。
 「空、モース硬度の代入値の指定が間違っているわ。それじゃ脆くなってしまう。後、知覚誘導部分のルーチンだけど、二十行目でループしているわ。おそらく精神波検出の閾値計算で条件式の等号がおかしくなっているのね、少し読ませて貰って良いかしら」
 「はい。よろしくお願いします」
 記入を終えた空が最後に妖力を注ぎ込む。起動した術式により札が淡く光り、やがて収束していった。
 「うん。ちょっとだけ座標指定がズレているけど、問題ないわ。上手になったじゃないですか。偉いですよ」
 「えへへ……」
 「この調子で奥にも張りに行きましょう。良い機会だからよく見ておきなさい」
 「はい。さとり様」
 元気の良い返事がさとりの背後から着いて来る。暗闇の向こう側を、空のライトが照らしだした。


 「さて、休憩にしましょう」
 結界に守られた空間。全身に軽い疲労を覚えたさとりが朽ち果てた椅子に腰掛ける。続いて胸から水筒を取り出し、器に薄茶の液体を注ぐ。脇に控える空にそれを差し出すと少し戸惑った様子を浮かべた。
 「あぁ、すいません。ストローを付け忘れていました」
 細長い筒が防毒面に付けられた逆止弁を突き抜ける。両手で器を持ったまま、ずずと一気に飲み干してしまった。漏れでた思考から渇きが消える。その代わりに浮き上がってきたのは、平穏だった。
 「随分、安心していますね。そんなに今日のお仕事は疲れましたか?」
 溜息とは違う。安心しきった時に出る吐息。柔和な表情がさとりに向けられた。
 「違いますよ。ただ、なんだかほっとして。これなら、管制室(コントロールルーム)にも何時か辿り着けそうだなぁって、……って」
 「む。心外ですね。辿り着かないと今まで思っていたんですか?」「えー。だって、これまで何年も潜っていましたけど、僵尸に邪魔されてばかりで。結局『隔壁』を一枚通れただけじゃないですかー。そりゃ、少しくらい思いますよー」「そんな事を言うのはこの口ですか!! あのドケチ共が素直に予算おろせば直ぐにでも強行突破できたんですよ」「だ、だって、予算通った事、無いじゃない、ですか! ……ちょ、さとり様。近い! マスク! はず、れるっ」「も、う、す、ぐ、通るはずだったんですー!!」「わ、分かりましたから! さーとーりーさーまー」
 勢い余って椅子が倒れる。空に悪気がない事は百も承知だ。しかし痛い所を突かれたショックは、それを加味しても尚大きすぎた。
 「なーにやってんのさ。喧嘩かい?」
 取っ組み合いで気配探知を怠っていたのだろう。気が付かぬ内に、二人の脇には火焔猫が立っていた。「あら火焔猫さん。おかえりなさい。早かったわね」「おりん、おかえりー」呆れたような声が二人に平静を戻す。しかし、取っ組み合ったままの挨拶は、この上なく滑稽であるとまでは気が付かなかった。猫の呆れた溜息が広間に轟いた。
 「……あぁ、ただいま」続く言葉は無い。戻ってきた沈黙を利用して、さとりは組み伏せた空を抱き起こした。
 「ふぅ……、空。ごめんなさいね。ちょっとだけ大人気なかったわ」「本当ですね――、あっだぁ!?」「そこは否定しておきなさい。……全く」「あんた、マジ最低だな」「違いますよ。これもまた親愛の確認ですわ。ね。空?」「そ、そうですね」「ほら、空もこう言ってますし」「あんた、マジ最低だな」
 りんのじとりとした視線が突き刺さる。場を仕切りなおすための咳払いが大気を揺らした。
 「さて。ご飯の時間よ。帰りましょう。厨房に昨日の残りがまだあった筈だわ。火焔猫さんも如何ですか?」
 「きょ、今日は働いてやったんだ。当然それは貰う」
 一輪車に乗るだけの死体を積んだりんが先行して道を引き返す。しかし、空はいつまで経ってもその場に残ったままだった。
 「どうしました? 何か忘れ物でも?」
 唇を噛み締めた空が真っ直ぐにさとりを見る。何かを思いつめた様子。真剣でありすぎるが故に、それ以外のどんな情報も読み取ることができなかった。
 「――大丈夫ですよ。さとり様。おりんは何だかんだ言っても手伝ってくれます。私も頑張ります。だから、。さとり様の仕事は無駄じゃありません。私がさせません。だから、安心して下さい」
 あまりに真っ直ぐな言葉が心を穿つ。一瞬、返答も忘れてそのガラス越しの眼を見つめ返していた。
 「……あら励ましてくれるのね。ありがとう素直に受け取っておくわ。ほら、先に行きなさい。私もすぐに行くわ」
 「はい!!」
 羽を揺らし、子供のような全力疾走で空がりんを追う。瞬く間に見えなくなる背を見届け。さとりは大きな溜息を吐いた。
 「鴉に心を見透かされるなんて。年かしら」天井を見上げ自嘲気味に笑う。「そうですね。例え、予算が降りなくても、貴女とおりんがいれば、何時か辿り着ける。何年。何十年先に焦熱地獄炉を再起動できる。妖かしはそれ程短命では無いのだから。だけど……、それは状況が何時まで経っても変化しないなんて、数学的な条件の上に成り立つ空想に過ぎないのよ」施設中に無数のうめき声が響く。「かわいそう。癒着が進み過ぎたあなた達はもう輪廻に戻せない。同情はしてあげるわ。あなた達は事故の被害者なのだから。だけど、鎮静剤(トランキライザー)の供給が既に止まりかかっているとしたら。地獄炉の一部が倒壊しかかっているとしたら。怒れる無数の怨霊が、旧都にあふれたとしたら。果たして、『機能不全の鬼』だけで対処できるかしら……?」
 灯り一つない通路の真ん中。胸の第三の眼(サードアイ)が赤黒く輝く。ぱらぱら。ぱらぱらと天井から茶の錆が落ちる。また一つの壁が崩落した事を示す振動がさとりを揺らした。









 第二章


 「おー。一杯いるねー。おりん、身元は分かる?」
 「見覚えのある顔が幾つか。この連合、最低五つのコロニーが所属しているね」
 「『灰狼(コロニア)』だけじゃない、『疾鷹(はいたか)』と『地獄鴉(インフォーマ)』が上に来ています。落伍者を狙うつもりでしょうか」
 旧都の郊外。切り立った崖の上に身を潜め三人はその『群れ』の警戒に当たっていた。
 「怖い怖い。なまじ群れに強い個体が増えてしまったものだから調子に乗って数を増やしすぎたね。あの数を維持するにはもう『獅子(しし)』と『鬼(おに)』の領域に攻め入るしか無い」
 視界を埋め尽くすほどの狼の群れ。数は五百を優に超えるだろう。その一匹の例外もなく涎を垂らし、アバラを浮かせているが瞳だけはアンバランスな程に鋭く輝いていた。
 少なくともりんにとっては過去の記憶との一致が認められる光景。異様としか思えない風体に変異した灰狼(コロニア)が、旧地獄跡の中心部に向けて行軍を続けていた。しかし、その見慣れたはずの『死の行軍』の様子に少しばかりの違和感を覚える。その正体を探ろうと身を乗り出した直後。群れの進行方向に逃げ遅れたと見える蟲の姿を認めた。
 「あれは……、『土蜘蛛(つちぐも)』だ。ご愁傷さまだ、落伍者を追い過ぎたね。珍しい、『蜘蛛』が『狼』に喰われるよ」
 二本の歩脚を犠牲に、巨岩に飛び上がって逃れた蜘蛛の頭胸部は三分の一程が食い千切られている。薄い褐色の体液を流し力尽きた蜘蛛に狼が群がった。それは、普段ならあり得ない光景だ。蜘蛛の『栄養段階』は火焔猫のそれよりも更に上に位置する。『第三次消費者』に過ぎない灰狼(コロニア)の捕食対象には通常なりえない存在だからだ。「見てみなよ空、……って。空?」りんの隣では空が両眼を掌で隠して震えていた。よく見れば僅かに体が震えている。「や……、蜘蛛。や……」『土蜘蛛』は旧地獄跡の天蓋や岩の影に潜み、鉄の強度を持つ糸で『地獄鴉(インフォーマ)』を捕食する生物だ。遺伝子レベルの恐怖は幼い鴉を萎縮させるには十分過ぎる理由と言えるだろう。「空。大丈夫ですから。ほら、もう蜘蛛はいなくなりましたよ」「ああ、食い尽くされたね。残骸しか残ってないよ」「ほ、ほんとうですか、さとりさま?」空はさとり妖怪の小さな手に導かれて、眼を覆っていた手を外す。何一つ変わらない狼の群れを見てほっと胸を撫で下ろした。
 「『灰狼(コロニア)』のこんな習性はどの記録にも残っていませんでした。全く。ここは本当に不思議な世界ですね……」
 「まー、『群生相』への移行はそうそうしょっちゅう起こる物でも無いからねぇ。あたいも見たのは数十年ぶりさ。ただ、一度こうなった狼は危ないよ。『災害』みたいな物さ。痛みも感じず、恐れも無く、ただただ獲物に向けて襲い掛かるだけの現象があの群れの正体だよ」
 奴らが通った後には何も残らない。そう言ってりんは再び崖の端に身を乗り出す。『群生相』それは、過度の飢渇と密集によるストレスにより発生する。脳内で分泌されるホルモンは、狼の肉体を異常発達した筋肉と鋭さを増した牙と爪により武装する。疼痛神経(とうつうしんけい)の退化と本能行動のプライオリティ上昇が、彼らを群体としての暴風に昇華していた。
 「あ、丁度良い。空、群れの行き先を見て。また面白い物が見られるよ」
 「うん? 群れの先って……、ただの河じゃん」
 「そうだね。でも、その河の先には何がある?」
 「……獅子の縄張り(テリトリー)」
 「こいつらが目指すのは?」
 「獅子の縄張り(テリトリー)――、って。まさか」
 うねりの先端が燃え滾るマグマの河に飛び込む。赤熱した珪素に触れた瞬間。灰狼(コロニア)を構成するタンパクが発火する。数秒も経たず絶命しタンパクの塊と化した存在は比重の差から河の表面に張り付いていた。
 マグマの流れが狼の残骸を流す前に、次の狼が肉体を炭素塊に変貌させる。二十の亡骸が作る橋を通り、四百八十の狼はマグマの渡河を成し遂げた。
 「……頭おかしいんじゃないの?」
 「ばーか。頭おかしいんだよ。だから気をつけろって話」
 むっとした様子を浮かべながらも、空の表情は真剣なままだった。その心中はさとりで無くても容易に読める。目前の獣達が持つ命に対する認識は、旧地獄跡の常識と照らし合わせてすら、軽いとしか思えなかったからだ。
 ふと何かに思い当たったように空が地面に屈みこむ。枝切れを使って計算しているのは、群れの進行方向予測と、地霊殿の間にある距離の様であった。幾度も目測で丘上の建造物と現在地を確認し地面の数値を修正する。回答を示す記号を書き終わった後、慌てた様子でさとりに話しかけた。
 「さとり様。大丈夫なんですか? このまま行くと後二十分位でさとり様の認識阻害領域に触れると思いますけど」
 「あっはっは。何を言っているんですか、空。大丈夫じゃないから監視しに来たんじゃないですか。火焔猫さんまで連れて」
 「あたいは普通に自分も危ないから見に来ただけだって」
 「――だったら」
 尚も食い下がろうとする空は、唐突に頭をかき回されてフリーズした。
 「よくやったわ空。接近までの『時間』と『経路』が知りたかったの。私は地霊殿に戻って結界に増幅回路(ブースター)を取り付けてきます。二人は引き続き監視を。何か変化があればすぐに連絡しなさい」「……りょ、了解、です」「あいあい」
 背後から気配が一つ消える。りんの視線は群れの先に向けられていた。河の向こう側では偉大な気配が集結しつつあったからだ。
 「遠いな、見えるか。空」
 「鬼、三。獅子、四十。……ってりん、いつからそんなに眼が悪くなったの? もしかして歳? 眼鏡作って貰ったら?」
 「泣かすぞ。『静止認識』で鴉に勝てるか。あれ、七キロ先だよ。動いてくれなきゃあたいには見えもしない」
 「へぇー?」「おい、何だその小馬鹿にした顔は」「別にー? さ、眼の悪いおりん婆ちゃんの為にもうちょっと近づこうよ。多分あいつら、あそこで待ち受けるつもりだ」「おう、後で絶対泣かすから覚えとけよ」
 ピンクの舌を出した空が先ほどのお返しと言わんばかりに憎たらしい笑顔を見せる。せめてもの仕返しにと、舌に伸ばした手は大気を掴んだ。気がつけば黒い翼は宙を舞い朽ち果てた煉瓦屋根の一つに着地している。無声で追従を促す鴉に、りんは憎々しげな視線を向けた。
 「りん。何処から行く? 併走は危険だと思うんだけど」
 「勝手にどこからでも行けよ……」
 「拗ねないでよ。私が悪かったよ。この通りだから」
 何処で覚えたのか空は腰を九十度に曲げ頭を垂れる。滑稽にすら見える大真面目な謝罪はりんを平静に戻した。
 「わかったよ。私も悪かった。だから頭あげて」
 元より狼の脅威を前にして非協力的な態度を取る事はデメリットの方が大きい。だから、それはりんの主観的に打算的な行動だった。
 「あ、そう? だったら早く教えてよ。私この辺りの土地には詳しくないんだ」「おう、殴って良いか?」「何よ。さっきはもう良いって言ったじゃん。忙しい奴ね」
 返す言葉も思いつかず、気がついた時には大きな溜息が口の端から漏れていた。
 「『金剛骨処区』の南側を回っていこう。あの辺には比較的高層の建物が並んでいる。妖怪達は殆ど下層に居るから、窓を飛び移って移動すれば出くわさずに済むだろうしね。多分。それが最善だ」
 「『こんご……』何って?」
 「おま。本当何も知らないやつ……、いや。そんな地名まで知っているのは、余程の年寄りか。余程の物好きか……」
 「いやいや。そんなの私、知ってすらいないんだけど。一体それは、何処の誰が使っている地名なの?」
 「へ? 『赤髪の死神』が言っていたんだけど……。今の是非曲直庁じゃ使ってないの?」
 「少なくともさとり様に知っている様子は無かったけど」
 「あいつ絶対是非曲直の事情に疎いだろ……。ハブられてたんじゃないのか」
 「そんなさとり様をぼっちみたいに言わないでよ。ちょっと『コミュニケーション』が苦手なだけなんだから」
 「お、おう。お前それさとり妖怪の前で考えないように気をつけろよ」「なんで?」「いや」
 土地の名称を気にする生命は地底世界において極めて珍しい。未熟な発語器官しか持たない彼らは自然と単純な言葉や概念の共有による意志疎通。つまりハイコンテクストな文化を強いられるからだ。『地名』が必要となる程の組織的行動に迫られた事も、これまでに無かった。
 「だけどそうなると。今も地名を知っているのは、あそこでゾンビやっている奴らと、私みたいな物好きだけか」
 妖獣化で得られる知識は、妖力の源泉――地底世界であれば主に、『獣』、『忌み嫌われた妖怪』、『負け犬の鬼』――が持つ範囲に限られる。是非曲直庁の、それも一部しか持たない知識が流れこむ可能性は決して高くないだろう。
 「しゃーない。あたいが説明してやるから、走りながら聞きな」「はーい」
 そこまで考え、りんは改めて旧地獄跡の全景を思い浮かべた。地形自体は空も知っている筈だ。ただし、詳しくないと言う発言から実体験が伴っていない事が読み取れる。
 行うのは必要な説明事項のピックアップ。世間知らずのエイリアンに最も効率的に口頭で経路を伝える為の方法であった。
 「必要な事しか言わないからな。まずは、『金剛骨処(こんごうこつしょ)区』。旧都の中心部を指す区域の名前だよ。地霊殿もこの区域に入るね」「うん」
 崩れかけた屋根を踏み、はるか遠くの小高い丘を目指して舵を取る。左側からは、絶えず様々な生命の断末魔が轟いていた。
 「私達が今居るのが旧都東側の『悪険岸処(あくけんがんしょ)区』の端、『一切人熟処(いっさいにんじゅくしょ)区』の境界近く。獅子たちが集っているのは旧都の西『龍旋処(りゅうせんじょ)区』の中央。灰狼(コロニア)は旧都の南側、『大焦処(だいしょうしょ)区』を通って、『龍旋処(りゅうせんじょ)区』を目指している。だから、あたい達は『金剛骨処(こんごうこつしょ)区』を通って先回りするんだ、分かった?」
 横目で確認した鴉は首を傾げながら窓枠に脚を掛けている。一度の説明で分かるはずもない。りん自身も一度聞いただけで覚えた訳ではない。何度も聞き旧都への潜入を繰り返す中で身につけた知識だ。
 眼の前に広がる廃屋の海。その中で頭ひとつ抜けた家に着地したりんは、実例を含めてもう一度説明しようとした。
 「私達が今居るのが『悪険岸処(あくけんがんしょ)区』の端、『一切人熟処(いっさいにんじゅくしょ)区』の近くで、灰狼(コロニア)が更に東から来ているって事は……、あいつらが今居るのは『一切人熟処(いっさいにんじゅくしょ)区』で、旧都には『大焦処(だいしょうしょ)区』から侵入しようとしているって事で良いのかな?」
 それはりんが行おうとしいた説明。所作を含めて全く同様の行動を、ごく当たり前の如く空はやってのけた。予想外の自体に、りんはしばらく反応ができない。
 「……うん。途中で『闇火風処(あんかふうしょ)区』も通るけどね」「ふーん。了解。なんだかややこしいねぇ。皆知ってれば便利なんだろうけどさ」「……そうだね」
 内容は決して高度では無い。しかし言語による情報伝達は極めて低効率だ。だからこそ妖獣はハイコンテクストであろうとする。時に冗長性よりも効率を重視する淘汰圧は彼らを、そうなるように追い立てるからだ。故に目前の鴉は異常と言えた。
 「りん。いくよー」
 「お、おう。……って先に行くな。迷子になったらどうする」
 「えへへ。ごめん」
 黒い翼が空中で煙突を蹴って加速する。負けじと同じ煙突をりんも蹴る。重複した衝撃に、脆くなった石の建造物は幾つもの廃屋を道連れに崩れ去った。背後に轟く轟音を聞きながら、りんは自慰行為を続ける代償について思いを巡らせていた。




 「空。どっちに掛ける?」
 「何をさ」
 二人が顔を出すのは数百年前に見張り台として建てられた石の塊。りんの隣では設けられた狭間の隙間から空が首を伸ばしている。漂ってくるのは非日常の域に達する濃厚な血の臭い。視界に広がっているのは無数の躯。灰狼(コロニア)と獅子の死闘は、始まって十分も経たない内に佳境を迎えようとしていた。
 「今日の晩ご飯のおかず」
 両者の先端がぶつかり合う。一体の獅子が振り下ろした丸太の様な腕に、真正面から狼の爪が突き立てられる。爪が獅子の骨と筋肉を裂き、動脈を破裂させ、肩甲骨に阻まれ止まる。勢いそのままに二回りも小さな狼が、獅子の巨体を投げ飛ばした。
 「掛けになんないよ。あの程度で獅子に勝てる訳ない」
 引き裂かれた獅子の腕がピンク色の結合組織を晒し、まるで花弁のように風になびく。しかし、それは灰狼(コロニア)も同じだった。前脚の関節から白い骨が飛び出ている。荷重に耐え切れなかった筋が無残に断裂したのだ。
 「ちっ。流石に分かっているか」
 機能を失った前脚を噛みちぎる狼とは対照的に、獅子は腕の周りに妖力を集める。折れた骨が元の位置に収まり筋繊維が付着して行く。獅子のリンパ管から流れでた妖力が、破損した組織を繋ぎ始めていた。表面上の修復を終えた獅子が大気を切り裂く。半透明の衝撃波が一体の獅子を囲っていた十三匹の灰狼(コロニア)を全て吹き飛ばした。
 「獅子一匹殺すまでに二十匹は死んでいる。鬼も飽きて帰っちゃったよ」
 「うーん……、でも昔はもうちょっとまともな狩りをしていた気がするんだよね。なんでだろう。確かに違和感はあるんだけどさ……」
 「『獅子』と『灰狼(コロニア)』がまともな狩り? 妖獣が灰狼(コロニア)の側に混じっていたって事?」
 「あぁ、そうか。空。あんた意外と鋭いね。そうだそうだ。やっと分かったよ今回は数の割に妖怪化している奴が少ないんだ。獅子と張り合うのにノーマルが何匹居た所で戦力の足しになりゃしない」
 「これが狩りなの? 私にはただの口減らしにしか見えないよ」
 「まぁ、今回に限らずいつもその通りなんだって。今戦っているのはどれも全盛を過ぎた老齢固体か、保護なしに生きられない子供だけだよ。何時もはもうちょっと勝つ気のある編成してくるんだけどさ」
 りんの拍動を早める戦いの空気。視線の先、うず高く積み上がっているのは物言わぬ死体の山だった。興奮をするなと言うほうが無理な話だ。しかしそれは、、りんの隣で同様に戦場を見下ろす鴉に当てはまる物では無かった。
 「楽しそうだね。おりん」感情を抑えたような声がりんの鼓膜を震わせた。
 「違う。美しいんだよ。全く、油断したらイッちゃいそうだよ。これ程に無駄のない殺戮が他にあると思うか? これこそが合理化の体現だ」「合理化?」
 獅子を取り囲む新たな狼。波のように襲いかかる狼は、十秒も経たずに半減し十五秒で統率を失う。残る狼を二とした所で生命維持に支障をきたした獅子が、断末魔を残し事切れた。主を失った地底で最も偉大な器を十三秒で醜い肉塊に変えるのは四分の一にも満たない小狼。怒りに駆られた金色の巨体が群がる二の狼を同様の存在へと変える。木の葉同然に消し飛ぶ命が暗い旧都を明るく照らしていた。
 「そうだよ。究極の合理化だ。私達の本分だよ。最初に言っただろ。『あいつらは増えすぎて最早群れを維持できない』。だから、危険を犯しても食料の多い地獄の中心部。『旧都』に攻め入るしか無い。そして、獅子はその肉体維持の為に食料の多い旧都内部ですらも日常的に食糧不足に悩まされている。この場合、灰狼(コロニア)から見た最善の行動はなんだと思う?」
 ぐぅ、と大きな腹の虫がりんから響く。りんの嗅上皮を刺激し、視床下部外側野と腹内側野の拮抗的作用を傾けるのはヘム鉄だ。見張り台の下に広がる血の海が、久しく見ないほどにりんの摂食衝動を掻き立てはじめていた。
 「……全ての戦力を動員して、獅子の領域を奪い取る事」
 「ぶっぶー。分かっている癖に。そりゃ、全滅する覚悟があればできなくは無いだろうけどさ。まず殆どの狼は死ぬだろうね。それが最善と言えると思う?」
 獅子と灰狼(コロニア)の間にある絶望的な力の差を空が知らない筈はない。灰狼(コロニア)は旧地獄跡に住む生命の相互作用を栄養段階――生命を生産と消費に分けた物――で表した時、『第三次消費者』に属する。『生産者』に属する地衣類、蘚苔類、そして、苔鼠(シーダー)等の共生者。『第一次消費者』に属する鎧鼠(シールダー)や、岩盤蜥蜴(ボーラー)を始めとする小動物。『第二次消費者』に属する地獄鴉(インフォーマ)を始めとする腐肉食性動物(スカベンジャー)に次ぐ位置であり、食肉動物(カーニヴァー)としては最下位に近い。『高次消費者』に属する雑食動物(オムニヴァー)であるりん、つまり火焔猫よりも更に下の地位である。対する獅子は『頂点捕食者』だ。地下に獅子を食う者は居ない。
 「……違う。と思う」
 肉体的なスペックは勿論、妖力を扱える事のアドバンテージは容易に覆せない。ただの地獄鴉である空がりんと張り合えるのも彼女が妖獣である事が最大の理由である。地底における絶対的な法則。『種の壁』を唯一超えうるのが妖獣と言う存在だ。そして、王者であることが存在理由の獅子は生まれながらにして妖獣なのである。『修復』に特化して妖力を扱う獅子は『群生相』へ移行せずとも、身体の損傷を考慮しない筋収縮を可能にする。だから、妖獣を組み入れずに獅子の領域を掠め取ろうとする灰狼(コロニア)の表面的愚かさはこの圧倒的な事実に起因する。
 「だからね、空。これは私達にとって最善の行動が何かって言う問題なんだよ。分からない。なんて言わせない。『より多くの子孫をより長くの期間に渡って残す事』。それが『私達』だよね?」
 「知っている……、って言うか……、分かっている。だけどなぁ……」
 纏まらない考えが空の口元を押さえ付ける。半ば予想していた空の反応にりんは少し苛立ちを覚えた。地底の獣としての根幹に存在する概念に疑問を持つ存在は非常に珍しい。その事実は同じ妖獣としてりんを酷く不安にさせた。心の揺れを振り切る為に感情のまま言語野の出力情報を垂れ流す。
 「だったら答えも分かるよね。正解はコロニーにとって重要度の低い個体を切り捨てること。丁度、今やっているみたいにね。さ、ここで視点を獅子の側に移してみよう。彼らにとって雑魚ばかりの襲撃者はどう映るでしょうか?」
 「おりん。だから言っているじゃん。分かっているって。『獅子は十分過ぎる栄養を得て、灰狼(コロニア)のコロニーは食糧危機を脱する。まさに相利共生の理想形だ……』って言いたいんでしょ?」
 狼と獅子の絶叫を背景に赤い瞳がりんを真正面に捉えた。
 「おぉ、その通りだよ。そこまで分かっているのに何っを悩むのさ」
 「そうなんだけど。知っているんだけど。うーん……」
 りんにはその様子が現実と記憶を意志に落とし込んだ上で尚、何か別の答えを探している様に感じられた。しかし、りんには空が持つ引っ掛かりの正体を見つける事はできない。それは協調性の多寡の問題ではなく、純粋に生命個体としての物理的隔絶による物である。そんな自己正当化をしているりんの右鼓膜を震わせたのは、つんのめった空の声だった。
 「い、今……。うん。今だけを見ればその通りだよ。だけど違う距離から見たら。例えば、五十年、百年の期間で考えたら大きな損失にはなったり……、しないかな?」
 「あたいに聞かれても。そりゃ」
 「だってさ。定期的に起こるってことは、今回生き延びた者も高い確率でいずれ切り捨てられるって事でしょ。今日は生き延びられたかもしれないけど、年老いたら切り捨てられるのが分かっていて。誰がコロニーの為に働くの?」
 「そりゃ働くだろうさ。だって、血で繋がっている限りそっちの方が得なんだから。何かおかしい?」
 「そ、それは私達の中身から見た判断であって。私とはまた全く別の――」
 視界が大きく揺れる。特大の目眩がりんを襲っていた。三重にブレる視界の向こう側では鴉が猫の肩を支えている。肉体的な刺激が辛うじて意識を繋ぎ止め、湧き上がる感情が霞の向こう側の体を突き動かす。ひたいを打つけんばかりの勢いでりんが空に迫った。
 「空。あんたが『あの妖怪』から何をされたのか知らないけど、あんまりそう言う事を言うんじゃない。深く考えなくて良いんだ。コロニーについてはあたいよりあんたの方が良く知っている筈だろ? 一時とはいえコロニーの長(アルファ)をやっていたあんたなら――」
 「何でおりんがそのことを?」
 驚きがりんを正気に引き戻す。空がかつて地獄鴉のコロニーを率い、そしてコロニー全体を死に先導してしまった事は誰とも知れぬ黒猫に語られた事実だ。りんに向けられてはいない。「あ、いや……」肯定すべきか否定すべきか判断に迷ってしまう。その野生なら致命的な誤りが、事態を打開したのは全くの偶然だった。「うーん。もしかして、さとり様の独り言?」口元に指を当てた鴉が答えを提示したからである。
 「あ、あぁ。そ、そうだ……、よ」
 途切れがちな肯定に、空は大きくため息を吐いた。思考と口頭の区別が無いさとり妖怪の思考は覚りで無くとも読むことが容易い。推測する必要すら無く自ら垂れ流すからである。そんな事をぼやき正面を見る。空の顔に浮かぶのは至極真面目な、それで居て何かを思い詰めるような曖昧な物だった。
 「個体的な欲求と集団としての欲求はしばしば相反する。その間を是正するのがアルファという役割。コロニーの存続に必要なら仲間も殺す。コロニーを形成しなければ生存も覚束ない私達にはどうしても、そんな『歪』が必要になる。……知っているし。分かっているよ。だけど、知っていることと経験したことは常に一致しない。狼に追われて、仲間を囮にする度。枯渇する食料にクレイシ――ヒナ鳥の託児所――から最も育つ見込みの低い子を探す度。『私』は舌を噛み切りたくて仕方なくなるの。それは不思議なことだと思わない? そのどこに合理性があるの?」
 「『情動の表出』と『情動の体感』はどちらも扁桃体を中心とした閉回路、つまりパペッツ回路を起源とする別の現象だよ。互いに一定の相関(ホモロジー)を持つとしても完全に同一じゃない。だから、あんたが雛鳥を絞めたいと感じる事と、あんたが雛鳥を絞めることに罪悪感を持つのは何一つ矛盾しない現象だよ。ただ、承認機関である大脳新皮質と脳幹部の剥離は行動遅延として一定の不利益を与える。『因』と『果』だ。そう感じる事がおかしいんじゃない。ただ、そう感じる奴が死ぬ可能性の方が僅かに高い。長期的視点に立った時、不合理な思考を許さないのは、あんたじゃなくて環境だから」
 「……そっか、じゃ。私は別におかしい訳じゃないんだ」
 「そんな下らないことばかり考えているから、あんたのコロニーは全滅したんだよ」
 「そうだね。あぁ、やっぱり私って駄目な奴だな。私がこんなだから皆は死んだのに。今も相変わらず優柔不断で、へなちょこなままだ。悔しいなぁ……。私がもっと……、もっと強かったら。皆を守れたのかなぁ……」
 空の言葉は誰にも向けられていない。普段のさとり妖怪の様に、一方通行の意志が虚空に向けて放たれ続ける。
 ハスキー掛かった声に、湿り気が生じる。どうしようもない居心地の悪さを感じたりんは、鴉の横顔を眺めることを止め、同じように空を見上げた。
 「無理だよ。どれだけ優秀でも、どれだけ力が強くても。『運が悪ければ』死ぬ。例え、あんたが鬼を倒せる程に強かったとしても変わらないよ」
 鴉とも黒いもやともつかない輪郭が、ぐらぐらと揺れる。油断すれば倒れそうな程の目眩と頭痛がりんの大脳新皮質をピンポイントで襲っていた。それらの原因は紛れも無く『空』だ。空が妖獣としての幹に向ける疑念が、りんまでも侵食していた。
 「……ねぇ、空。何時まで、こんな綱渡りの問答を続けるつもり? あんたが死にたいと言うのならあたいは止めない。って言うか手伝ってあげる。だけど、それにあたいを――」
 りんの主観的に死に急ぐ空の動機は予想に難くない。そも、コロニーに属して生きる鴉がコロニーを失った時点で空は限りなく死んだ状態に近い。さとりを利用した自慰行為で生き長らえるのにも限界が近いのだろう。りんの知る限り、空と近い境遇の妖獣はそうやって死んでいった。見慣れた光景だ。そんな感想を抱きながら空を見る。
 視界の先、赤い瞳一杯に水を溜め、唇を噛んだ鴉が真っ直ぐに空を見上げている。視線の先には何も無く、誰も居ない。ただ、真っ黒な空だけが広がっていた。
 「りん、あなたは何と言うかわからないけど、私は生きたいよ。もう誰にも、生きたまま怨霊に囓られる感触を味わせたくないから。生きて、『皆』を守れるようになりたい」
 「空。こんな事は言いたくないけど、この世界にコンティニューは無い。あんたのコロニーはもう無いんだ。だから、『代償行動』なんかで自分を慰めるのは辞めたほうが良い。大人しく別のコロニーに入るんだ。でないと――」
 「りん。ごめん。察し……、て」
 空の網膜を保護する体液が、感情と連動して分泌速度を増していた。溢れる端から揮発する雫が、白煙で空の横顔を覆い隠す。その酷く『自己中心的』な『利他性』に、りんはただ呆れ、静かにその横顔から視線を外した。
 「帰ろうか、空。……もうすぐ『雨』も振りそうだし」
 地底の空に広がるのは、ごつごつとした岩と鍾乳石の混じる天蓋た。雲の代わりに、薄暗い闇と蜘蛛の糸が天空を漂っている。遥か遠方。『血河漂処(けつがひょうしょ)区』からマグマが吹き上がる音が轟いた。
 少し眼を離している間に鉄火場の音は随分と小さくなっている。その動く気配の内にただ一つとして狼の物は無い。代わりに、その体液特有の鋭く鼻を指すアンモニア臭が場に満ちていた。既に数頭の獅子は血の海から死体を引き上げる作業に入っている。戦闘の熱気は欠片も残されていなかった。
 「……うん」
 二頭の獣は静かに見張り台から飛び降り、闇に紛れる。地霊殿までの道中、暫くは辛気臭いままであった空の表情が元に戻るまでには五分と掛からなかった。しかし、その屈託の無い笑顔が、りんには何処か歪に見えて仕方がなかった。


 「ひゃぁ?!」
 「頭、もっと下げとけ。『鷹』の視力を侮るな」
 深さにして三メートル、幅にして五メートルの窪地は無数の脇道を伴って何処までも伸びていた。りんの頭上では疾鷹が噴煙を切り裂いて旋回を続けている。はぁと溜息を着いて地面を蹴る。帰ってくるのはかつりと硬い感触。露出した真っ黒い玄武岩にはどんな土壌も体積していなかった。
 「もぉ……、しつこいなぁ。おりん。ここ、何処か分かる?」
 「『蜘蛛の巣』の内部。『金剛骨処区』の西、『龍旋処区』の境界だよ。そこの角を曲がればその内に地霊殿に着くさ」
 「はぁ、随分遠回りさせられちゃったね。ごめんごめん。調子に乗って高く飛び過ぎたよ」
 「全く……。不用心なんだよ。空なんか飛んでも『土蜘蛛』の網に掛かるか、『鷹』の眼に見つかるかのどっちかだろうに」
 「りょーほーだったね。おりん。髪の毛にまだ糸が着いているよ。取ってあげようか」
 「……ありがと」
 赤毛に絡まる白い糸が小さな手によって払われる。はらりと落ちた毛髪が地面に触れて白い煙を吹いた。それも当然、この薄皮の地面の下にはマグマの海が広がっている。つい数百年前まで活発にマグマを運んでいた河川は老化と共に凝固し、網の目のような通路を残して消失した。りんが鴉と歩くのは、通称『蜘蛛の巣』。旧地獄跡に住む最も不気味な生命体の住居になぞらえられた呼称は、この窪地が数えきれない生命の墓場となった事実に由来する。
 「しっかし、まさかさとり妖怪の結界内部まで追ってくるなんてね」
 「だってこれ。ただの『認識阻害結界』だし。それに随分弱まっているみたいだし。結界の増幅で妖力を使い過ぎて、今頃はベッドでへばっているんじゃないかな?」
 「あいつ、本当に大妖怪かよ」
 「三次元的な結界だと、だいたい半径の三乗に比例して稼働に必要なコストが増えるんだってさ。区画一つ覆っていられるだけでも大変な事なんだから」
 「その結果が普段のボンクラっぷりだったら世話ないね」
 「怒るよ。りん」
 「へーへー。すんませんでした」
 遠方で轟く噴煙が地面を揺らす。転がり落ちてきた岩をするりとかわした空が何喰わぬ顔で再びりんを見る。崩れた岩盤の向こう側、黒い翼の隙間でヌラリとした表皮がマグマの灯りに反射した。その認識が脳に到達する刹那の瞬間。稲妻の如き速度で身を収縮させた刃が岩盤から躍り出る。武骨な皮膚とは対照的な白い刃を剥き出しにして空に『岩盤蜥蜴(ボーラー)』が襲いかかった。
 漆黒の翼に白刃が突き刺さる。生々しい音と共に、刃が動脈を求めて肉を引き裂く。慌てた表情を浮かべた空が羽に手を伸ばし、その岩盤蜥蜴(ボーラー)を無理矢理に引き剥がした。吹き出した鮮血が宙を舞う。地面に到達する前に気化する血漿(けっしょう)の霧を突き破り、岩盤蜥蜴(ボーラー)が地面に叩きつけられた。地面に蠢く岩盤蜥蜴(ボーラー)は地底と見分けのつかないケイ素質の皮膚を持つ。コールタールの如き黒い体液を分泌し、異常発達した前脚と白い牙以外にはどんな器官も見られないメクラの蜥蜴(とかげ)。その姿はりんに取って見慣れた物だった。
 「『岩盤蜥蜴(ボーラー)』だ。惜しかったな。もう少しで鴉の木乃伊が見られたのに」
 「勘弁。あー。痛かった」
 襲撃に失敗した哀れな岩盤蜥蜴(ボーラー)は血の匂いに引き寄せられるように、何度も弱々しい跳躍を繰り返す。「毒さえ無ければ丁度良いおやつなんだけどなぁ」「あんた、これ食ったことあるんだ……」「三日くらい寝込んだけどね」「勝った。あたいは二日だ」捕食を避ける為に岩盤蜥蜴(ボーラー)が持つ毒は、捕食者の中枢神経、特に小脳を犯し運動機能を著しく低下させる。岩盤蜥蜴(ボーラー)の捕食が可能なのは旧地獄跡でも極一部の限られた専門家(スペシャリスト)のみだ。
 「負けた……、ってそんなのどうでも良いよ。急がなくちゃ」
 「あぁ、そうだね……、っと」
 接近を許してしまった疾鷹の気配にりんは内心肝を冷やす。その感覚の多くを視覚に頼る疾鷹にとって『認識阻害』は決定的な対抗手段になりえない。疾鷹の視野に入ったが最後。非常に面倒な事態になるのは言うまでもないだろう。だがしかし、と。より目先の危険を排除すべくりんは脚を上げた。
 ぐちゃり。と地底では珍しい水音共に蠢く蜥蜴の頭部を踏み潰す。生暖かい感触と共に、体液が地面に触れ蒸発した。
 「それじゃ、行こうか」
 足元の蟲が息絶えた事を確認し視線を前に戻す。先を行く筈の鴉が小難しい顔をしてりんを見ていた。
 「どうした、空?」
 「うん……? あ、いや。何でもない。行こうか」
 「そうだ急ぐに越したことはない。疾鷹になんぞ見つかってみろ。よしんば逃げ切れても、地霊殿の場所を突き止められる。三日もせずに『狼』でも『獅子』でもおかまいなく先導して潰しにくるよ」
 「分かっているって。『孤独相』の奴らって、どいつもこいつも節操ないから苦手なんだよなぁ」
 「それだけ余裕が無いんだよ。単独生活に適した肉体を発達させたあたい達と違って。所詮あいつらは急造の肉体。無理を通すために道理を引っ込めているんだ。『群生相』と同じで長生きできないのは自然だよ」
 旧地獄跡に住む集団性を持つ獣が持つ『群生相』と異なるもう一つの姿。それが『孤独相』である。超過密状態による極度のストレスが引き金となる『群生相』とは異なり、自らの意志で群れを離れた個体がそう呼ばれる。
 「とは言え、相手にすると面倒だよ。間に合わせとは言え、偵察能力は本物だから。油断しているとさらわれるよ」
 不用心に直立する空の頭を引っ掴み地面に伏せる。『蜘蛛の巣』直上五メートルを巨大な翼が撫でた。
 「あ、あつい! あついよ。おりん」
 「あたいだって同じだ。我慢して。直ぐ治るんだから」
 「う、うん……」
 玄武岩が帯びる熱エネルギーが真皮層を通過し内部組織を変性させていく。白く濁り始めた水晶体は光信号の透過を妨げる。ぼやりと歪む世界の向こうで、香りが鼻腔を刺激した。燃焼反応により脱離した硫黄と雑多な物質が交じり合う独特の香り。ぐぅと間抜けな音が鳴る。嫌悪感と同時に励起される摂食中枢が腹部の蠕動運動をもたらした。
 「おりん。今、美味しそうって思ったでしょ」「うん。後で食べて良い?」「やだ」「逃げるの手伝ってあげるから」
 離れる疾鷹の気配を感じて二人は玄武岩から顔を離す。炭化した組織が皮膚から剥がれ落ち、後ろから肉芽が張り出す。熱エネルギーを受取り、出鱈目に動き回ったペプチド鎖が、驚異的な速度で秩序を回復していった。
 「逃げるって……、『蜘蛛の巣』を歩くだけじゃん。別にあんたの手を借りなくたって――、ひゃぁ?!」
 十メートルを超える巨体には似つかわしくない程の急旋回で再び鷹が上空を通り過ぎる。その赤い瞳は疑いようも無く、『蜘蛛の巣』の内部を探っていた。
 「地霊殿まで這って行く気? 『土蜘蛛』と出くわさなきゃ良いね」「ぅ……」
 『蜘蛛の巣』の内部は大型の肉食性動物(カーニヴァー)が動き回るには十分な広さとは言えない。つまり、旧都に住む獅子の獲物、腐肉食性(スカベンジャー)の鹿や土竜、雑食性(オムニヴァー)の兎や牛等にとっては身を隠す最高の『安全地帯』であり、中型以下の肉食性動物(カーニヴァー)にとっては最高の『狩場』であると言う事だ。
 現実にりんの行く手には、古い土蜘蛛の巣が掛かっている。左右の壁面には生命の手に寄って掘られたと思われる脇道が幾つも見えた。その八割には大なり小なり捕食者(プレデター)の気配、残りの二割には獲物側の気配が埋もれていた。使い古され多くの生命体に対策をされて尚、リスクとリターンの良好なパフォーマンスから採用され続ける『擬態』の手口だ。
 「『雨』も近いよ」「ぅぐ……」
 遠方から轟く爆音は間欠泉によるものではない。『血河漂処区』に立ち並ぶ途方も無く巨大な活火山が揃いも揃ってマグマを吹き散らかしているからだ。
 「早く決めろよ。あたいだけなら走って帰れるんだ。あんたみたいなの、放っておいても良いんだけどなぁ?」
 変性した皮膚組織を地獄の風が抉る。鋭い痛みと気圧の変化がりんの顔を僅かに歪ませた。
 「……小指だけだよ」「上々」
 渋々首肯する空に思わず小さなガッツポーズをしてしまう。些細な痛みを予想して漏れる不満気な声と言う香辛料(スパイス)に、口内で唾液の分泌が活発になる。本来、地獄鴉の成鳥は体内に腐肉を分解するための共生体を大量に飼っており、常に感染や寄生のリスクを負う。そればかりか、貧栄養環境で育つ彼女らの結合組織には極端に脂肪が少なく美味とは言い難い。だがしかし、空は若鳥だ。肉はまだ完全に締まりきっておらず、共生体も消化器を避ければほぼ問題にならない。脂身と赤身が適度に混ざる美味は通常コロニーに手厚く守られており、そうそう食せる機会はない。
 「後で手羽先も、とか言ったら本当に怒るからね。先っぽだけだからね」
 「大丈夫、大丈夫。あたいは小食なんだ。その指一本でも十分すぎる位さ」
 りんが口の端から溢(あふ)れてしまった涎(よだれ)を拭う。火焔猫は基本的に獲物を狩って暮らすが、本来は雑食性だ。岩に張り付いた苔を食んで生きる事も不可能ではない。それでも、彼らが活発に狩りを行うのは、肉が彼らにとって何よりのご馳走である事を意味する。それが、貴重な若鳥の肉であれば尚更である。
 「こないだ寝ぼけて二の腕喰い千切ったのは何処の誰だよ……」
 「寝ているあたいに近づくのが悪い。不可抗力だ」
 「だって。寝る時は布団をお腹に掛けなさいってさとり様が」
 「あほか」
 自然に漏れでた極大の溜息は疑いもせずにさとりの冗談を真に受ける、一時ばかりの相棒に向けられた物だ。不安感を振り払うように、りんは『疾鷹』の知識と記憶を長期記憶(LTM)から引っ張り出した。
 「無駄話はもう良いさ。『雨』が近いんだ。とっとと帰らないと巻き込まれるよ、冗談抜きで。空、『頂点捕食者』を殺ったことはある?」
 「疾鷹なら昔に偵察役(リコン)を何羽か。『孤独相』じゃなかったけど」
 「十分だ」
 『蜘蛛の巣』に作られた偽装横穴の一つに身を隠し、上空を舞う疾鷹を一時やり過ごす。りんが頭のなかで練り上げるのは過去の『経験』から推測する疾鷹の打開方法だ。くぐり抜けてきた修羅場の内、現状と一定以上の相同性(ホモロジー)を持つ情報を選び取り、現状に合わせて最適化する。だがしかし、その処理には多少なりとも時間が掛かる。時間の節約――つまりは、処理が終わる間の時間稼ぎ――として、最も汎用的な情報を述べるべく口を開いた。
 「格上と戦う時の鉄則は相手の土俵に乗らないことだ。間違っても広大な空間で真正面から勝負を挑むな。なるべく狭く。障害物の多い場所で、なるべく頭数を揃えて奇襲を掛ける。これが基本。次に『疾鷹』についてだ。一般的な疾鷹の特徴は、高速の飛行と巨体から生み出される純粋な突撃力だ。十分に広い空間がある限り、最高速度に達した疾鷹に追い付くことはできない。だが、反面あいつらは巨体故に、一旦減速してしまえば自力で最高速度に達するためには再び長い時間が掛かる。故に普段は火山などから生じる上昇気流を使って常に飛び続けているんだ。ここまでは知っているよね?」
 「う、うん」
 妖獣の持つ情報(データベース)は優秀だが過信できない。記憶も経験も伴わない知識を利用するとはつまり、本能によりモジュール化された行動を分析し自ら説明する事と大差ない。だからこそりんは己の経験に基づく疾鷹の基本情報説明を続ける。上昇気流を利用した位置エネルギーの獲得に、推進力への変換。更には、疾鷹の翼が持つ揚力発生メカニズムに至るまで。そうやって言語に変換し、知識を作業記憶(ワーキングメモリ)に引っ張りだす事で情報(データベース)利用の主導権を本能から大脳新皮質へと奪い返す。そうする事で初めて行動への反映(フィードバック)が可能になるからだ。
 気がつけば開き気味の瞳孔が食い入るようにりんを見つめている。インプットが追いついていないのだろう。だがしかし、丁寧に何度も解説する暇は無い。浮いた時間と開いた作業記憶(ワーキングメモリ)を用いて纏めた策を話すべく。りんはほんの少しばかりわざとらしい笑顔を浮かべてみせた。
 「長く説明して悪かった。これまでの事は一旦棚上げ(ペンディング)しておいてくれ。直近ではここから先だけ憶えておけば良い。さて。最初に定義するけど、あたいらの最終目的はあいつに追跡を諦めさせる事だ。殺すことじゃない。そこは押さえておいて」
 「う、うん」
 妖獣二体分の戦力があれば疾鷹を狩る事も不可能ではない。しかし、現在は事情が事情だった。『雨』の接近は旧地獄跡に住む生命なら誰もが避ける事態であり、一刻も早く『安全地帯』へと退避する必要がある。それは当然、妖獣であっても例外ではなかった。
 「さて、あたいらが実際にやる事だ。簡単に言えばあたいが気を引いている内にあんたが、奴の『風切羽』を引きちぎる。それだけだ。簡単だろ?」
 「い、いやいや。問題しか無いよ。どうやって、あの疾鷹に追いつけっていうの?」
 疾鷹の武器は速度と体重。つまりは『運動の第二法則』に忠実な暴力の行使である。逆説、その両方が揃っていない疾鷹は脅威となり得ない。
 「あたいがあいつの速度を奪う。あんたの華奢な翼でも追いつける位の速度になったら、ケツについて『風切羽』をむしり取ってやれ。そうすりゃあいつはもうあたいらを追えない」
 「そ、そんなの危ないよ」
 「だぁいじょぉぶだって。疾鷹はガタイが良いけど、小回りが効かない。一度ケツに着いてしまえば取り敢えず安全さ」
 「私じゃなくて、おりんが!! どうやってあの疾鷹の速度を奪うつもりなのさ」
 「そこの『林』まで引っ張って、適当な所に突っ込ませるんだよ。そんなに難しくないでしょ」
 蜘蛛の巣から眼だけを出して北、つまり『鉄钁処(てっかくしょ)区』の方角を見る。視界に広がるのは地面に深く突き刺さった『鉄骨の林』。水の無い世界にありながら、その表面は赤茶けた腐食物――つまりは、赤錆。オキシ水酸化鉄(Ⅲ)により構成されるそれは、通常水の存在下で発生する――に覆われる。それが何故の現象であるのかりんは経験上理解している。赤茶けた錆に混じるのは凝固蛋白。ヘム鉄を含むそれは生物の『体液』に他ならない。この場で生命を落とした生命が積み重なり、体液中に含まれる微量の金属元素と水分が、黒光りする鉄柱を赤茶けた枯木へと変貌させていた。
 「空も鳥なら憶えはあるでしょ。『こんな所は飛びたくない』って」
 「ま、まぁ。こういう所に私達を追い込むのは定石の一つだけど……」
 「そしてあたいにとっては好都合だ。飛行が苦手なあたいでも、足場があれば跳べるからね。あんたは一番高い、あの塔の上に伏せといて。そんで、あたいが合図したら。すぐに突っ込むんだ」
 それは、つまりこの『鉄の林』が鳥類の猟場である事を意味する。主に地獄鴉を追い込むのに使われるこの場であるが、今回のように疾鷹を迎え撃つ事に利用されるのも珍しくはない。それだけに、りんに求められるのは確実に疾鷹を誘い込む『演技』だ。『手負いの獣』を演じ、良質な餌であるフリをしなければならない。
 「それじゃ、行ってくるよ。あたいに疾鷹が食いついたら、あんたは巣から出て林に向かうんだ。わかったね」
 空が静かに頷く事を見届け、『蜘蛛の巣』から躍り出る。遥か彼方にも関わらず、背筋を震わせる程の強い眼光がりんを射抜いた。膝に現れる生得的な反射を拳で押さえ付け、りんは真っ直ぐに視線を見つめる。限界まで惹きつけて、逃げる。その為にどんな気配遮断を講じることも無く、ただただ地面に立ち続けた。
 「……って。何だ、演じるまでもないのか。ま、調度良いし、利用できるものは利用するのがあたいの主義だ」
 目測二キロの距離が二十秒も掛からずに縮まっていく。白爪の煌きを杆体細胞が捉える。それが電気信号として視覚野(V1)に処理されるより零コンマ五秒早く、りんは地面を蹴った。勘に頼る回避は地面に増える新たな『蜘蛛の巣』と言う形で成果を示していた。


 「つーかさー。これ、調子に乗って引き受けたけど、絶対に貧乏くじだわ」
 頸動脈から五センチ隣。上皮組織から二センチ程外を通り抜けた爪と、一拍遅れる衝撃に吹き飛ばされながらりんは頭を掻く。適当な岩に狙いを定め全身で減速したりんは音もなく着地を行い、再び『林』へ向けて駆け始める。
 「冷静に考えたら明らかに危ないのあたいじゃん。あんたは知らないかもしれないけど、疾鷹ってめちゃんこ強いんだよ。亜音速で飛んでいる今の状態。これ、疾鷹の本気じゃないからね。火焔猫を狩るのは暇潰し程度の労力なんだってさ」
 疾鷹の翼が巻き起こす下降噴流(マクロバースト)が『林』へ続く道に吹き荒れる。道脇の崖が崩落し、発生した土石流がもうもうと土煙を上げる。舵を『龍旋処(りゅうせんじょ)区』のまばらな廃墟群へと切らざるを得なくなったりんは大きなため息を吐いた。
 「いや、正直しんどいんだわ。あたいこれでも病み上がりなんだよね」
 真横から襲いかかる大岩を空中へ跳んで交わす。絶妙の角度で行われる跳躍は最小限の位置エネルギーで回避を行い、残りも無駄なく速度へと変換する。逆説、そこまでしなければ疾鷹の速度から逃げることは困難であった
 「おい、『さとり妖怪』。聞いているのか」
 ――聞いていますよ。聞いているだけですが。
 いつの間にかりんの肩に乗っていた苔鼠(シーダー)が貧弱な声帯で流暢な言葉を紡ぐ。その声は紛れも無くさとり妖怪の物だった。
 「式神で探すのは良いけど、もっとマシな奴に付けてよね……。苔鼠(シーダー)なんてよこされても、おやつにしかならない」
 ――だって、疾鷹に襲われているなんて思いませんもん。知っていたら直接向かったわ。
 「そらそうだ」
 「さとり妖怪、せめて手伝ってよ。あんたの所のペットの為にやっているんだ。引き受けても罰は当たらないでしょ」
 ――良いですけれど。何をすれば良いですか?
 「何ができるの?」
 ――そうですね。視界と音はその苔鼠(シーダー)の物を借りていますから状況把握は可能です。ただし、『色覚』はありませんが。
 「口以外出せないってことだね。分かっていたよ! どうせそんな所だろうって」
 相も変わらず疾鷹の猛追は続く。一分にも満たない会話の間でりんの首を狙う鉤爪は三度振るわれ、地面、岩、廃屋を抉り取る。衝撃波に弄ばれながらも全てを紙一重でかわし、刹那に近い時を稼ぐために地面を蹴り加速を続けた。
 「こいつ、疾鷹の癖に妙に小回りが効いて、切り返すに切り返せない。だけど、このままじゃ、『林』から離れてしまう」
 ――それは困りますね。
 緊迫した状態にも関わらずさとりの声は平常と何一つ変わらない。冷静とも冷血とつかない態度にりんは僅かな腹立ちを覚える。せめてもの仕返しにと、気持ちぶっきらぼうに口を開いた。
 「あぁ、だから案内(ナビゲート)を頼む。短くて構わない、切り返しに使える、『蜘蛛の巣』の順路か、もしくは廃坑を教えて」
 ――あら。よく御存知ですね。たしかにその辺りの地下には、是非曲直庁統治下時代の名残で、坑道の跡が。
 真後ろに迫った嘴の気配を感じ取り、咄嗟に地面に伏せる。視界に入り込む赤い霧、左耳の先端を持って行かれながらも辛うじて回避したりんは即座に地面を蹴った。
 「あー、説明は良いから! 早く! 死ぬっ!」
 疼痛(とうつう)神経は麻痺をしてしまったかの様に、鈍い痛みしか伝えない。脳内に充満したアドレナリンと交感神経の支配が、痛みの処理の優先順位を限りなく下位にしていたが故の現象だった。
 ――ちょっと待って下さいね。確かファイルがこの辺に……。あった。えーっと、五百メートル先の廃屋の中よ。飛び込んだら直ぐに反転して下さい。それが終点ですから。
 視界前方に広がる四つほどの廃屋の影。その中で最も近い廃屋が、湧き出したマグマの池によって紅く照らし出されていた。
 「了解」
 乳酸の蓄積を考慮せず、無酸素的に脚部の筋繊維を最大収縮させる。地面の上を滑るような大股は一歩毎に百二十メートルの距離を縮める。約五歩で目標に肉薄し、最後にありったけの力で入り口を囲う煉瓦の壁をぶち破った。舞い散る石の破片の潜った先に見えるのは浅い竪穴。朽ち果てたレールと枕木の見える廃鉱がぽっかりと口を開けていた。
 ――出口は一キロ先です。後、そこは浅いので過信しないで下さい。
 迷いなく穴に飛び込むが、そこはさとり妖怪の言う通り非常に浅い。五メートル落下しない内に底に到達し、周囲の様子を見る。幸いにも迷う可能性は限りなく低い構造がそこには広がっていた。続く道は一本のみ、三人ほどが並んで歩ける程の真っ直ぐな横穴に飛び込んだりんは、横倒しになったトロッコを飛び越えながら出口を目指す。全く灯りのない空間ではあるものの、足音比較的単調な空間であり、足音の反響による三次元空間定位(マッピング)には困らなかった。真横から突き出る炭化した木材をかわそうと身をかがめた時、突如として坑道全体が大きく振動した。
 「分かっているよ! ――うわぁっ!」
 爆音と共に天井がはじけ飛ぶ。二メートルほどの岩盤を突き破って錆びたレールを捲り上げたのは見慣れた疾鷹の爪。崩落に巻き込まれる直前に爪の隙間をくぐり抜けて出口を目指す。
 一歩で約四十メートル、それを繰り返すこと十五。しかし、まっすぐに伸びる横穴の光景には何の変化もない。ただ、暗闇が広がる道先がりんに不安を抱かせる。どれだけ眼を凝らしても、出口を示す誘導灯はおろか看板の一つすら見つけることはできなかった。
 「おい、さとり妖怪。後三百メートルも無いと思うんだけど、出口はどこに?」
 ――そのあたり。記録に依ると作業中に崩落が起こって、天井が鉄板一枚の筈よ。多分、疾鷹も狙ってくるでしょうから気をつけてね。
 「無理やりぶち抜けって事? 後ろは見といてよね」
 ――ご安心を。
 どうやって安心しろと。そうぼやきながらも、視線は上に向ける。確かに百メートル程前方に材質の異なる箇所の存在が確認できた。ごくりと唾を飲み、狙いを定める。疾鷹の行動はシンプル故に予測は容易。逆説、それはシンプルでも生存競争に支障が無いだけの運動エネルギーを持つ事を意味する。更に言えば、空中での行動に自由度が少ないのはりんにも当てはまる。だからこそ、火焔猫は過去の経験と刻まれた知識から疾鷹の行動を四通りに大別し、対応策をそれぞれ三通り選び出した。最もリスクの低い物を三つほど作業記憶(ワーキングメモリ)に残し、一旦思考を中断する。
 集中すべきは上空。薄い鉄板まで直線距離にして五メートルの位置で猫は深く地に沈む。脚部に残っていたグリコーゲンの内、半分程を費やし一気に筋繊維を収縮させた。
 ――右後方から、二秒後。
 薄い鉄の板と共に黒い影が天空高く舞い上がる。重力と運動エネルギーが釣り合った点、位置エネルギーが最大になった瞬間。煌めく赤黒い眼がりんの胴を正確に捉えた。
 「見え見えなんだ、……よっ!!」
 旧地獄跡全ての生命を合わせても最上位に位置する三半規管を利用し、逆さまの世界を反転させる。視界中央に映る疾鷹の位置は、視差(パララックス)から計算するに時間距離で丁度一秒。予測範囲内に収まっている事を確認した後に、作業記憶(ワーキングメモリ)に保存した対応策を引っ張りだす。選択したのは妖力を使用した迎撃。実質的に移動手段を持たない現状では、それ以外の選択はありえなかった。
 蹴り飛ばすのは眼の前を漂う最も大きな鉄片。妖力を成形し脚部の外側に補助筋肉として配置、仮設の神経接続(シナプスリンク)により肉体の筋肉と連携させ通常の筋繊維断面積から計算される運動エネルギーの実に五倍を超える筋収縮を実現させた。みしり、と嫌な音を立てて骨が破砕される。右足を犠牲に疾鷹の軌道が逸れたことを確認し、りんは着地体勢に入った。
 「……よし、『鉄钁処(てっかくしょ)区』まで障害物無し。目的地(ランデヴーポイント)まで残り、四キロ」
 ――脚、大丈夫ですか? すごい音しましたけど。
 視界の端では胸から赤い煙を発する疾鷹が再度突進の機会を伺っている。交感神経による疼痛(とうつう)神経の抑制も今では完全でない。生存本能を支える中でも最も重要であり原始的な感覚が痛みである。痛みへの忌避感が危険への回避行動を呼び覚ますために本能はりんに痛みを伝える。故に、戦闘意志を削ぐほどの痛みをりんに伝え始めたのは、それが生命維持に問題があると判断したためである。しかし、より高次的な判断に従えば現状で逃亡を選ぶのは生存率の定価につながる。故にりんはぎりりと唇の端を噛んで痛みに耐えた。
 「気遣うつもりがあるなら、痛覚を切ってよ。流石にちょっと辛いから」
 ――痛いの痛いのー、飛んでけー。
 「ぶっころ」
 式を介してはさとり妖怪の術も格段に能力が下がる。そんな事は理解していたが、場違いな言葉はりんを苛立たえせるには十分だった。
 ――あ、突進してきましたよ。時間距離一五秒。
 「ああ、もう。ほんっと、役に立たない!!」
 棒状に整形した妖力を右脚に添わせながら、ハードランディングに備える。疾鷹から逃げ切るには僅かな運動エネルギーも無駄にはできない。運動エネルギーのベクトルを変換することで最大限、運動エネルギーが破壊エネルギーとして消耗することを防ぐ。しかし、高さにして三十五メートルからの落下で生じる運動エネルギーは火焔猫の運動能力を持ってしても御しきる事は困難だ。体への損傷リスクを覚悟し衝撃を受け流す体勢を取る。地面への接触の瞬間。体中を走り抜けるであろう激痛を覚悟し奥歯を噛み締めた。
 「あれ……」
 ――どうしました?
 転がること七メートル。達磨のように情けなく回転しながらも辛うじて、最低限の勢いを残す事に成功。擦り傷だらけになりながらも再び地面を蹴った。目視で確認する限り外傷は想定内。故に、りんが覚える違和感は体性感覚に由来する。
 「……いいや。なんでも」
 空の居るビルまでは残り、三コンマ九キロメートル。予想よりもほんの僅かに弱い痛みに苦笑しながら、りんは真っ直ぐに目的地(ランデヴーポイント)を見据える。粒にしか見えない塔の上に、間抜けに寝そべる鴉の姿を幻視した。


 「残り、二コンマ六五キロメートル! 後ろは?」
 ――時間距離で後三秒。
 「は、や、く、い、え!」
 『鉄钁処(てっかくしょ)区』外郭、『鉄柱の林』。赤黒く錆びついた柱の一本にしがみつくりんが肩に載った苔鼠(シーダー)に毒気づいた。苔鼠(シーダー)の宣言通り、丁度三秒後に柱が弾け飛ぶ。空中に投げ出された影は爆風を利用し、更なる加速を持って次の柱に左脚を掛けた。
 「なんなんだよもうっ。あいつ」
 長い年月の中で倒れ、複雑に絡み合った鉄骨は林のようでありながら蜘蛛の巣にも見える。その隙間を縫うように、翼長にして三十メートルにも及ぶ疾鷹が猛スピードで接近する。信じ難い光景に舌打ちをするも、りんが成すべき事は変わらない。鋼鉄の柱と朽ちた塔が立ち並ぶ中央部に向け、真っ直ぐに地上三百メートルの空中を突き進んだ。そこは本来なら疾鷹の領域であり、火焔猫にとっては不利な場所。しかし、上下左右に配置された鉄骨は火焔猫の極めて優れた三半規管の能力を存分に引き出し、疾鷹を翻弄することも可能になる。筈だった。
 ――真下から。大口開けて飲み込みに来ています。三秒後。
 「ましたぁ?! 常識外れもいい加減に……、うおぉっ?!」
 紅く開かれた口が、巨体を感じさせない繊細で無駄のない動きでりんに迫る。張り出した無数の鉄骨にかすりもせず飛翔する姿はりんの予測とは真っ向から食い違っていた。その翼が風を切る速度は先程までと何一つ変わっていない。それはつまり、林の中に誘導しても尚りんは疾鷹と肩を並べるのがやっとであると言うことである。
 「……っ」
 しかし、それも体調が万全であればの話である。右脚を骨折した状態のりんでは地表を這いつくばっていた先程までと状況は大して変わらない。そんな現実にりんは多少の焦りと苛立ちを感じ始めていた。
 しかし、現実は現実として受け止めなければ待ち受ける未来は怨霊の仲間入り以外に無い。猛烈な速度で迫る嘴によって迫られるのは消極的な選択。碌でもない回答ばかりが提示される中で消極的に意志決定を行った結果、林冠部へと跳ぶことを余儀なくされる。空中で痛む右脚をさすりながら、またもや大きく舌打ちをした。
 高速で視界を横切る鉄の林。赤錆に包まれた風景に時折混じるのは鮮やかな白。白骨と化した地獄鴉が引っかかるようにして鉄骨の隙間に入り込んでいた。
 「アドレナリンの痕跡?」
 それは長い歴史の中で、数えきれない程に繰り返された闘争と逃走(fight-and-flight)の痕跡。生存を掛けた命の削り合いの結果、敗北した者に待ち受けるのはこの様な未来である。相当に激しい戦闘が行われたのだろう。白骨の周辺は激しい損傷が見られ、今にも崩れ落ちそうな程に脆くなっていた。
 ――火焔猫さん。
 「……!! 分かっている……、っよ! これでも……、喰っとけ……!!」
 一本の柱に狙いを付け、左脚を振りぬく。大きな抵抗もなくへし折れた鉄骨は連鎖的に三本を道連れにして、真っ逆さまに疾鷹へ向けて殺到した。流石の疾鷹も上空からの反撃は想定外の様で、碌な回避行動も取れず内一本の直撃を羽に受ける。
 ――やったか?!
 「おい、縁起でもない事を言うな」
 ――おや。よく御存知ですね。
 「旧都にやたら地上に詳しい『変人』が居るんだよ。そう言うのはゲン担ぎには良くないって言っていた!!」
 ――あらごめんなさい。冗談のつもりだったんですけど。そうでも無くなってしまいましたね。
 「ふごっ!?」
 落ちた筈の疾鷹は誤差に近いレベルで速度を減じ、羽から赤い煙をなびかせている。だがそれだけだった。突風を引き連れ獲物を狙う基本行動には何の影響も与えられていない。そして、その光景がりんにとって予想の外であったのが更なる不運だった。
 ――火焔猫さん。跳び過ぎです。
 「やばっ?!」
 反射弓による、回避運動の結果りんの体は無意識の内に林冠の上。つまり、何も無い空中へと放り出されていた。高さにして林冠から五メートル。地面や鉄柱といった障害物の存在下で辛うじて疾鷹の速度と渡り合っていたりんにとって、何も無い空間とは恐怖以外の何物でもなかった。
 疾鷹が鉄柱の林を突き破って無防備なりんに迫る。だが、その突進は誤算だらけの作戦の中で久々の幸運だった。あまりの速さ故に、りんの体は上昇を続けている事だ。相対速度が緩和される今ならば、疾鷹の骨格細胞に触れる事ができる。胴を抉るべく、大きく開かれた嘴を、身を捩る事で僅かに逸し左脚を掛けて疾鷹の背に逃れる。
 それは、火焔猫以外には不可能とも思える曲芸。分の悪い賭けに勝ち一撃を回避したりんはほっと胸を撫で下ろす。だが、それはあまりにも早計と言わざるを得ない行動だった。
 「うおっ?!」
 疾鷹の尾羽根によって空中に打ち上げられたりんは今度こそ何の抵抗もできず、何の障害物もない虚空に放り出される。迫る疾鷹の追撃はりんの上昇が止まる点。運動エネルギーが位置エネルギーに入れ替わる瞬間を正確に狙っていた。
 ――あぁ。何か言い残すことがあればお聞きしますよ。
 「そうだね。どっかの陰気な糞野郎を道連れにできなかったのが心残りだよ」
 ――あら、英姫の悪口を言うのは許しませんよ。
 「うっせぇぇぇーーー!! つか、あたいを勝手に殺すんじゃねぇ!!」
 ――まだ何か策があると?
 「策じゃない! ただの悪足掻きだ、黙って見てろ!!」
 大きく深呼吸をして眼を閉じたりんの体からは危険と思える程の妖力が漏れ始める。量にして四百ミリリットル。風と交じり合い、混沌とした渦を巻くそれらはやがて小さな火山の様な形に整形されりんの肩甲骨、左右の手足第一関節に取り付く。肩甲骨に二つ。左右の手足に四つ。計六つの突起がりんの体表には存在した。
 「……っ」
 ――ちょっと、火焔猫さん。血が。
 各々の突起の周囲からは紅い血が滲む。肉を裂く生々しい音が骨を通してりんの聴覚を刺激した。湧き上がる嘔吐感を堪えながら真っ直ぐに下を見詰め、衝突の瞬間を見極める。視差(パララックス)を用いた三角測量により距離を概算、弾きだした時間距離は五秒。突起の設置完了予測までは、後四コンマ七秒。
 ――おや、これは。
 きっかり五秒後。時は訪れる。喉笛を狙う爪が上皮組織まで後三十センチに迫った所で、ようやくりんの『突起物』は動作を開始した。強烈な加速が、りんの視界を黒く染める。重力や筋繊維の収縮からはどうやっても発生し得ない『推進力』がりんの体を真横へとスライドさせていた。それは生命からは最も掛け離れた直線的な軌道。体の真横を爪が通り過ぎた。
 ――意外ですね、あなたがそんなに早く飛べたなんて。
 「ろ、ロケット式は、つ……、疲れるから、……やりたくなかったんだよ……」
 脳への血流量の低下は平衡感覚の喪失を引き起こす。何方が上かも分からない世界の中で、勘だけを頼りに突き出した左脚は林冠を構成する柱の一つを見事に踏みしめる。触覚だけを頼りに主観世界の上下を補正すると、一気に林の中央へ向けて加速した。
 ――ふむ、上皮組織に穴を開けて妖力を採取。直接噴射で推進力を得ましたか。確かに、そんな方法じゃ三十秒せずに干からびますね。三十秒だけ飛べるって言うとあれを思い出しますね。確か昔に本で読んだ……、そうそう、『ロケットベルト』に『ヴァルター機関』です。『オリンピック』とか言う大きな運動会の開会式で活躍しているそうですよ。でも、なんでまたそんな危険な事を。
 「つ、翼を出したらあたいの優位性が崩れる。スラスター完成からの余裕がコンマ三秒じゃ、風や熱への変換もままならない。だからロケット式。吹かすだけ」
 ――妖力は他物質に変換するまでに『遅延』がありますからねぇ。地上の巫女は『凧』みたいに優雅に浮くと聞いた事がありますが。
 「それじゃ、餌にしてくれと言っているみたいな物じゃないか」
 ――だとすると変ですね。あの人。なんで殆ど障害物の影響を受けてないんでしょう。
 「今更?!」
 ――全部紙一重でかわしていますね。器用なものです。
 疾鷹の不意を突いたことで生まれた隙は、りんを大きく目的場(ランデヴーポイント)へと近づける。視界に映る景色にはいつしか、密集した鉄骨の林に細長い塔が混じる。それは、『鉄钁処(てっかくしょ)区』、『鉄骨の林』外郭の突破。空の待つ中央部への侵入を意味していた。
 「あ、後、二キロ……」
 ――ずいぶんお疲れですね。ガス欠ですか?
 「大丈夫、走るだけなら問題ない!」
 息切れを覚えながら、尖塔と鉄骨の海へと潜行する。やけくそ気味に鉄骨を蹴り、大げさな宙返りを絡めた三次元軌道で体力の余裕を演出する。結果は当然、無駄に乳酸を蓄積させただけだった。
 ――火焔猫さん。この体の腹部を見て下さい。
 肩に乗っていた苔鼠(シーダー)が背から生える三本の触手を使って体を差し出す。理由も分からずその腹部に視線を向けるも、視界に入るのは苔鼠(シーダー)が誇る圧倒的繁殖力の象徴だけであった。
 「半陰陽? ……あたいにそんな事を知らせて、いったいどうしろと……」
 ――そっちじゃなくて。『式紙』の隣に稼働用妖力の貯蔵容器(ボンベ)があるでしょう。向かって右がメインで、左が予備ですから。左をお使い下さい。気休めにはなるでしょう。
 何かが立ち昇る感覚と共に、顔面の紅潮を覚える。小さく咳払いをしてもう一度苔鼠(シーダー)の腹部に眼をやると、新緑の毛並みに隠れて式の書かれた符と、丸められた紙束――極めて簡易的な妖力貯蔵容器(ボンベ)。小さな丸文字で容量五十ミリリットル、元妖力換算比一対二コンマ五と記されている。――が取り付けられていた。正方形の式の両側に着くそれの内、左側をそっと指でつまんで取り外す。皮膚を通じて伝わる妖力量は失った分には到底及ばない。しかし、一息を着くには十分な量が収められていた。
 「……あんた。偶に心を読んでいるんじゃないかと思う位に気が利くよね」
 ――何を言っているんです? 私はいつも皆さんの心を読んでいますよ?
 「いや、そうじゃなくて……」
 空気を読むことと、心を読むことは全く同義でない。自らのそれに全く無自覚な様子に思わず苦笑しながら、貯蔵容器(ボンベ)の中身を一気に吸い込んだ。呼吸器を通して体内に取り込まれるさとり妖怪の妖力に幾らかの気持ち悪さを覚えるも、現実として倦怠感は和らぐ。反応を確かめるように覗きこむ苔鼠(シーダー)の横顔がどこか悪戯っぽく見えたのは、りん自身の問題だろう。苛立ちを覚えながらも、幾分か軽快さを取り戻した体には、一つの筋を通さずに居られない。
 「お、おい。さとり妖怪。い、一度しか言わないから聞いておけみょ……」
 勇気を出して口を開いてみたものの、肝心な所で上手く舌は回らない。漸く絞り出せたのは引きつったような情けない声だった。
 「あ、ありが――」
 ――あ。後ろから来ていますよ。時間距離コンマ零七秒。
 「おぼっ?!」
 無理に体をよじって回避したがために、腹膜がぶちりと破れる音が脳に響く。辛うじて疾鷹の一撃はかわせたものの、地面への転落は免れることができなかった。
 「早く、言えって、何度、言ったら!」
 ――だって、油断していたのは貴女も私も同じじゃないですか。
 加速度的に上昇する世界。客観的には真っ逆さまに地面へと向けて落ちるりんの視界の先にあるのは、折れた鉄骨の折り重なった網。『鉄網』とも言える光景は、度重なる狩りと、厳しい自然環境が作り上げた半人工物なのだろう。網の上には無数の爪痕と、躯が転がっていた。そのあまりに複雑な構造は小柄なりんであっても、通過は容易でない。零コンマ以下の時さえも惜しみ、猫の脳幹部は姿勢制御系に、リソースを裂いた。
 ――そう言えば、火焔猫さん。さっき何を言おうとしていたんです?
 「知るかぁぁ!! つか、今聞くんじゃねぇー!!」
 だがしかし、そんな本能的危機回避反応を突き破って、さとりの言葉は神経を逆撫でる――誠に趣味が悪いことに心底楽しそうに――。遠の昔に姿勢制御モジュールの展開に使用され、空っぽになってしまった作業記憶(ワーキングメモリ)を漁りながら、りんは眼の前の鉄骨の隙間を見定めた。
 自由落下中とは思えない程にブレのない視界の中央にあるのは幾重にも重なった鉄骨の網。探すべきはは肩幅三十センチの穴。概算でも三十層は下らない分厚い網を抜けるには、その全てに同様の隙間を見つけなければならない。幸いにも、綿密な構造を持つのは最外殻のみだった様で、ルート探索はすんなりと終わる。五通り目で当たりを見つけたりんは、空気抵抗を利用して真っ直ぐに隙間へと飛び込むと、丁度三秒で『鉄鋼』を抜けた。
 ――どうやら、あの疾鷹はここを潜れないようですね。大回りして追いかけてきます。
 「それ、位の、ご褒美は、無いと。やって、らんないっ!」
 みるみる内に近づく地面までは残り約五十メートル。高さにして二百五十メートルの落下は、運動の第二法則に基づいたエネルギーをりんに与える。残り三十メートルに都合よく張り出した鉄骨を思い切り蹴り飛ばし、運動のベクトルを変化させる。入射角十五度で地面にぶつかった彼女は、大きく顔を歪ませながらもそのまま走り続けた。
 時速にして三百二十キロ。重力加速度を利用し限りなく風に近づく体は、ここに来て限界を迎えようとしていた。そも、ここまで常識はずれの速度に体が耐えられたのは、素体が短距離走者(スプリンター)であるが故だ。妖力による身体補助があると言っても、長時間の稼働に耐えるようには作られていない。計算上は目的地まで耐え得るだろうが、それと引き換えにするのは体中の妖力と体力だ。既に一部の無駄も回り道もできなかった。
 ――目的の『尖塔』までは残り一コンマ二キロ。ですが。
 行く手を遮るのは倒れた尖塔。りんが見上げるのは遥か上方。
 「分かっているよ! あいつが待っているのはここから四百メートル上だ。昇るよ」
 地盤沈下により斜めになり、幾本もの鉄骨に支えられた尖塔を一息に駆け上がる。角度にして六十度。切り立った崖のような壁面を両手も使って平らな地面へと変える。一跳七メートル。それを繰り返すこと三十。二百メートル超の高度に差し掛かった時。ついに、りんの背後で風の流れが変化した。
 ――火焔猫さん。垂直方向への移動は速度的に不利です。中に入ったほうが良いかと。
 「あー、うるさいなぁ! わかったよ」
 尖塔の壁には約五メートルの間隔で穴が空いている。丁度五歩の距離、約三十五メートル先の穴目掛けてタイミングを合わせ滑るようにして中に飛び込んだ。
 数百年ぶりの侵入者により、床の瓦礫が弾き飛ばされる。部屋の中央付近。二十メートル程滑り込んだ所でようやくりんの体は静止した。上がった息を整え、静かに立ち上がり周囲の状況を探る。建物内は完全な空洞だった。どんな障害物もない。ただ、天井の上へと昇る短い階段と下の階に続く同様の構造があるだけだった。壁までの距離はどの方向も等しく二十メートル。正方形の中央からは、四方の穴を通して外の様子がクリアに伺える。
 周囲は不気味な程に静まり返る。唾を飲み込む音すらも反響する無音の空間は、りんの緊張を際限なく強めていった。沈黙を破り、突如として吹き込む突風と一拍遅れる轟音。穴の外で黒い影が紅い軌跡を残して消える。刹那に近い瞬間でありながら、限界を超えて研ぎ澄まされたりんの動体視力は、疾鷹の目が自らに向けられている事を感知していた。
 「逃げ込んだは良いものの、だね。あんた、策はあんの?」
 ――疾鷹の胃袋の中では策も考えられませんわ。
 「やっぱ、考えなしか! 期待してなかったよ! このボンクラ!」
 りんの見る限り尖塔の材質は石だった。塊であればいざしらず内部は伽藍堂である。この程度の尖塔であれば、疾鷹の翼と重量があれば容易に打ち崩すことができるだろう。故に、この場に留まることは上策でない。
 ――冗談ですよ。妖力が後どのくらい残っているか教えて頂けますか? あ、できたら容積で。言うまでもなく標準状態でですよ。
 「肉体維持と後の移動に必要な分は差っ引くとして自由に使える分となると……。後、五ミリリットル位かなぁ」
 それは本来、小指の先も動かせない程度の成形筋繊維一本にしかならない量。だが、そんなどうでも良い程度の妖力を捻出する事すらも、惜しいと感じずには居られなかった。
 ――十分です。是非曲直の死神流、『最高の暇潰し道具』を教えてあげましょう。式を転送しますからじっとしていて下さい。気持ち悪いからって暴れないで下さいね。
 ぬらりとした感触の触手がぺたぺたとりんの頭を這う。気色の悪さに顔を歪めていると、不意に一つの映像(イメージ)が浮かび上がってきた。それは、紛れも無く第三の眼(サードアイ)による読心能力の応用。直接的(ダイレクト)な映像(イメージ)共有はこれまでのさとり妖怪からは考えられない程、素早く、的確な意志伝達を可能にしていた。
 ――届いた様ですね。さて、次はその図の説明ですが。まず最初に知っておくべき事として、妖力はその遅延故に爆轟などの急激な容積変化を伴う現象の再現には、
 「あー、あー。分かったから。それだけ分かり易い図を貰ったら、全部理解できるから。あんたに説明されると分かる物も分からんから」
 ――凡そ零コンマ五秒の遅延の由来は神経伝達におけるチャネルを介在したイオンの移動が、
 「うっさい! 自分の事位だいたい分かっている。そんな事より、本当に大事なのは『それ』を当てられるかでしょうが」
 ――あぁ。言われてみればそうかもしれません。大丈夫ですか? チャンスは一度ですよ。
 「来る事が分かっていて、準備の時間もあるなら、一回位はどうにでもなるよ。勝負強さだけが、あたいの取り柄なんだ」
 言い終わるや否や、りんは穴の一つに向かって地面を蹴る。潜るというよりは、飛び込むようにして空中に飛び出したりんを待ち受けるのは、既に突進状態に入った疾鷹の姿だった。
 ――時間距離、一秒。
 一見無防備なりんの横腹を抉ろうと迫る嘴。狙わなければならないのはその嘴のわずか上方にある紅玉の如き瞳だ。一次視覚野(V1)と前頭連合野に殆どの血液を回して狙いを定める。極限の集中力が世界からりんを隔絶する。音も光もない世界にぽっかりと浮かぶ赤い光に向かって、りんは引き金を引いた。
 「ギ■、ボビギャ●▼――!!」
 手元に残るのは確かな感触。りんの視界の端、形容しがたい悲鳴を上げた疾鷹が僅かに軌道を逸して脇を掠めていく。紅い煙の軌道を残し、鉄骨の向こう側へと消える翼に、りんはほっと胸を撫で下ろした。掌には未だに痺れのような感触が残っている。自らの危機を掬ったそれは興奮かからか、未だ熱を帯びていた。
 「へー。面白いねぇ。これ。妖力消費は殆ど無いし、構造も思ったより単純だ」
 ――僅か三ステップですからね。最初に妖力を中空の球形状に成形。次に内壁の一部を大気に変換し圧力を掛ける。最後に後方の弁を開けて発射。まさに、『空気鉄砲』ですね。でも、威力はおもちゃですから。過信は禁物ですよ。
 「分かっているよ。どっかの馬鹿鴉への突っ込み位に便利だなとか、思っただけだから」
 ――それは私の仕事なので。取らないで頂きたいですね。
 りんが先ほど放ったのは妖力による『弾丸』。飛び道具という概念も、球形弾丸と言う物体の創造も、肉体の延長線上としてしか妖力を扱った事が無いりんには全てが新鮮だった。
 ――式術と組み合わせればもっと複雑な物体への変換も可能ですよ。どうです、あなたも一緒に。
 「魅力的な誘いだけど、あんたに師事を仰ぐなんてお断りだ」
 ――残念です。
 「後、八百メートル!」
 横たわる塔を飛び越え、宙へ向かって跳ねると目的の塔の全容が見えた。視界いっぱいに広がるのは一際大きな尖塔。遥か彼方へ向けてそびえ立つ姿は大きな威圧感を伴ってりんに迫る。りんの居る地点から更に二百メートル上空には、空が潜みチャンスを伺っている筈である。しかし、その塔の姿は異様としか形容できなかった。
 踏み砕いた白骨がりんと共に宙を巻い、眼の前で『糸』にとらわれる。目的地(ランデヴーポイント)に張り巡らされた糸は、塔を白く彩り輪郭をぼやかしていた。


 脳に展開されている三次元地図の示す疾鷹の時間距離は十一秒。垂直方向への移動を考えても、一秒以上の余裕がある。念のため視覚で前方を捜索する。距離と位置エネルギー以外には、りんの瞬歩を阻む要素は無い。
 「勝ったよ、空」
 ――おめでとうございます。パインサラダの準備をしておきますね。
 現状の体力から算出した必要跳躍は十五回。倒れた尖塔の壁を三歩で走破し、鉄骨を蹴って宙に舞い上がった。
 「言ってろ!!」
 それはまるでタンゴを舞う様に。弱起(アウフタクト)に強烈なスタッカートを置いて律動的(リズミカル)に駆けるのはそれだけの余裕があるからだ。ここにきて冴え渡る火焔猫の軌道は芸術の域に到達する。不規則に、それでいて秩序を失わず。瞬間的に光受容器の分解能を凌駕する速度は無数の残像効果(アフターイメージ)を生み出しながらりんを目的地(ランデヴーポイント)へと推し進めていた。
 「後四百メートル!」
 無駄の多い逃走に疾鷹の気配は随分と近づく。それでも、りんの中に焦りはなかった。この場所に存在する、地底世界唯一とも言える疾鷹への『銀の弾丸(シルバーブレッド)』が彼女に余裕を生んでいたからだ。
 ――尖塔に突っ込ませるんですか? 空も居るんですよ?
 その声は平坦を装っていながらどこか白々しい。社交辞令で通したかった空への気遣いが逆に浮き彫りとなるその様子に思わず吹き出してしまった。
 「あっはっは。違う違う。そもそも、尖塔や鉄骨であいつが止められないのはさっき分かったじゃん。だから、あたいが狙うのはアレ。でも、空には悪い事したな。アレの中心に放り込まれて、ちびってなきゃ良いけど」
 跳躍回数残り八。空を舞う度、壁を駆ける度周囲を囲む網が密度を増す。それは先程くぐり抜けた『擬似・鉄鋼』等とは次元が違う。尖塔を中心とした一帯、半径百二十メートル、高さ五百メートルに渡って幾層にも張り巡らされた糸は塔に近づく程、徐々に隙間を無くす。糸の隙間に顔を出した鉄骨を五度蹴った時には既に塔の姿は灰色の巣に隠され、殆ど見えなくなっていた。
 腐臭が強く鼻腔を擽る。網に掛かったまま、放置された遺体を狙う苔鼠(シーダー)の『成れの果て』がざざりと音を立てて物陰に隠れた。
 ――放棄された『土蜘蛛』の巣? でも、記録で見たのはもっと小さかったような。
 「今は亡き『鉄林の主(シェロブ)』の巣だよ。デカ過ぎて鬼も殺せなかったんだけど、百年くらい前に体壊してぽっくり逝ったんだよ。だから今残っているのは、古ぼけた巣と餌食にされた白骨だけ」
 ――鳥類最大の『天敵』を利用するのですか? 合理的な方法とは思います。
 別名、『鳥喰蜘蛛』とも呼ばれる彼らは、旧地獄跡において最も多くの恐怖を集める生物だ。生息数の少なさと独特の生態故にエネルギー消費が少ない事から、実際に餌食となった獣は多く無い。しかし、あまりに惨たらしく食される事と、鳥を好んで食う事から主に地獄鴉からは絶望的とも思える程に危険視されている。
 ――でも、ひどい方。鴉の遺伝子レベルに組み込まれた精神的外傷(トラウマ)に放り込むなんて。
 「悪いとは思っている。だけど、トロいけど馬鹿力のあいつは待ち伏せの方が向いているんだ。嫌でもやってもらわないと。疾鷹の腹に収まってしまったら怖がることもできない。あたいが疾鷹を蜘蛛の巣に突っ込ませて、周囲の鉄骨と尖塔が殺到した所に、空が襲い掛かる。それで万事は上手くいく。でしょ?」
 ――まぁ、そうですね。それで、どこにどうやってです? 貴女毎突っ込むんですか。
 「そんなの決まって――、…………、――、……」
 跳躍回数残り四。目の前には目的の巣が折れた鉄骨と尖塔を繋ぐ。障害物無し、後方の疾鷹は時間距離三秒。残酷な程に全ては予定通りだった。
 ――あ、サラダがそろそろ焼き上がるわ。回線閉じるわね。
 「ちょっとまってぇぇ!! そこまで、考えてなかったんだよぉ!! どうにかしろぉぉ! さとり妖怪ッ!!」
 ――無理ですよ。私には助言以上の事はできません。少なくとも、貴女にとっては。
 跳躍回数残り二。疾鷹との時間距離残り一コンマ五秒。正面にあるのは白い壁。とても通過は望めない。後方の疾鷹は怒り狂い正気を失っている。さとりの言うとおり、捨て身で突っ込めば高い確率で目的を果たす事ができるだろう。しかし、それではあまりに本末転倒な選択を言わざるを得ない。
 生存を駆けた逃走の行き先が死である等、断じてりんの本能は許さない。しかし、代わりに脳幹が示唆(サジェスト)した案はりんの大脳が零コンマ三秒以下のリードタイムで削除した。極度の集中により加速する時の中。それでも、無慈悲に蜘蛛の巣は近づく。
 「おい、さとり妖怪。あんたは何処まで私達を馬鹿にすれば気が済むんだ。一体私達にどれだけの恨みがあるんだ」
 ――火焔猫さん。申し訳ありませんが私には優先順位があります。
 頭に突き刺さった苔鼠(シーダー)の触手が前頭連合野に触れ、本来の指令を書き換えていく。無随意な筋収縮によって、りんの脚は次の一歩を踏み出した。
 「死ねって言うの? あたいに、空の為に自分を殺せと」
 ――その通りです。空は大切なペットですが、貴女は違う。貴女はただの猫。貴女を切り捨てて空を守れるなら喜んでそうしましょう。
 「あたいが言っているのは『そこ』じゃない!! あたいにあたい自身を殺せって言うつもりか。誰の手でもなく、自分の手でこの体を滅ぼせと!! あんたは、あたいから死ぬ理由すら取り上げるのか!!」
 ――その通りです。空のために死んでください。それが嫌なら、自分でどうにかして下さい。
 跳躍回数残り一。疾鷹との時間距離残り零コンマ七五秒。自死は本能が許さない。かと言って、今直ぐこの鉄骨を降りて一人逃げることは、りんが許さなかった。
 答えが出ない内に最後の足場に着地する。次の一歩が全てを決める。逃走か、自死か。理不尽とも言える二択がりんにつきつけられた。
 瞬間。世界が灰色に染まる。ついに生体の限界を超えた集中が色覚すらも置き去りにして、動体視力を極限まで引き上げていた。独りぼっちの空間でりんは考える。協議する相手は断じて頭の上の鼠等ではない。『脳幹』と『大脳新皮質』だ。
 残り時間零コンマ七秒。欺かなくてはならない。本能を欺き、あたかも合理的と見せかけたままに、筋繊維の収縮指令を出さねばならない。自分自身の意志を、自分自身に隠し通すためにりんは頭を回した。
 頭を弄る触手がぴくりと動く。気がついた時、体は巣の中央に向けて跳んでいた。そんな光景をどこか他人事のようにりんは眺める。最早そんな事はどうでも良かったからだ。望むべき到達点はただ一つ。『二人で生還』すること。ただし、一人を救うためには一人の犠牲が必要になる。ならば、犠牲は自分でも空でもない、別の何かを使えば良い。それは、本能にも合致する考えだ。
 「勝負強さと諦めの悪さが、あたいの、取り柄なんだよぉぉ!!」
 灰白色の世界に彩度が戻る。急速に火花を散らす前頭連合野が、苔鼠(シーダー)の支配を無理矢理にねじ伏せていった。
 ――え?
 頭の上でふんぞり返る鼠を一息に引きちぎる。
 ――待ちな、さい! そ、その案で良いから。触手、無理やり抜いたら。
 さとり妖怪の声はもう耳に届かない。頭蓋から滝のように迸る血液。脳膜の損傷など気にしていられない。今は運動機能だけ生きていれば問題ない。
 ――ちょ、まだ視神経繋がって、ひぃぃやぁぁぁ!!
 渾身の力で苔鼠(シーダー)を巣に投げると同時、体に残された妖力でスラスターを形成する。量にして四百ミリリットル。生命維持にギリギリ必要な分だけを放出して運動エネルギーを相殺。黒い猫は真っ直ぐ地面に落ちていった。
 「ビィィンゴォォウ!」
 逆転した視界の先二十五メートル。苔鼠(シーダー)に釣られて蜘蛛の巣に突っ込む疾鷹を確認し、りんは雄叫びを上げる。零コンマ五秒の時間差を置いて『巣』の周囲では不正に止められていた時が、濁流の如く戻ろうとしていた。
 響く轟音。巻き起こる噴煙。分厚い蜘蛛の糸を強引にかき分けて進む疾鷹へめがけ、七本の鉄骨と、二つの尖塔が殺到した。翼に鋼を超える硬度の糸が幾重にも巻きついた疾鷹にそれを回避する術があるはずも無い。鈍い鳴き声を残し、煙の中へと、その巨体は飲み込まれていった。
 「おりん! 今の音は!!」
 「疾鷹は釣れた。空、疾鷹が釣れたよ!」
 「……! 分かったよ、おりん!」
 時間にして五秒。りんが地面に無事着地した頃。はるか上空の三百メートルに広がる白い煙に赤い蒸気が混じる。数秒もせず、中からは巨大な翼が姿を現した。
 そこに、先ほどまでの驚異的に運動エネルギーは無い。全身から血を流し、怒りに我を忘れた疾鷹が意味も無く怒りの声を上げるのみである。絶好の機会。上空を旋回する空が、遠目にも分かる程膨大な妖力を練り上げ始めた。
 「いっけぇぇ! 空! やっちまぇぇ!」
 「あいやー!」
 すっからからんの体で這いつくばりながらりんは叫ぶ。音速の三歩手前で接近する鴉の腕に幾重にも纏わりついた妖力が次々と束ねられていく。成形筋繊維の断面積は実に本来持っている物の五倍程にも膨れ上がっていた。強化外骨格(エグゾスケルトン)の神経接続(シナプスリンク)を確認する様に空がぐるぐると腕を回す。筋繊維の発揮する運動エネルギーはその断面積に比例する。それは、アデノシン三リン酸(ATP)を燃料とし、カルシウムイオンを引き金(トリガー)として筋節(サルコメア)で生み出されるアクトミオシンの収縮が原動力であるからであり、その基本的な構造は疑似的に再現された強化外骨格(エグゾスケルトン)の成形筋繊維であっても変わらない。唯一の違いと言えるのは消費するエネルギーがアデノシン三リン酸(ATP)では無く、微粒子状に様態を変じた妖力であると言う点のみである。
 そんな妖力の塊に近い物を振り回し空は疾鷹へ迫る。視差(パララックス)を利用した位置定位によると両者の時間距離は約三秒。空の視線は正確に疾鷹の翼の先端――つまりは、風切羽を捉えている――。空中で態勢を崩した事に、碌な対応もできずにただ叫ぶ疾鷹にそれを回避する術はない。それは、疾鷹の体が巨大であるが故の弱点だ。翼長三十メートルにも及ぶ体は膨大な運動エネルギーと風の抵抗を軽減できる半面、着陸と離陸、そして加速に大きなハンデを負う。絶対的な質量は運動エネルギーの損失防止に働く半面、再加速に投入すべき熱量が膨大な物となるからだ。故に疾鷹は動けない。空中で足をとめた疾鷹は案山子にも劣る存在となり下がる。
 接触まで残り二秒。絶対に反撃はあり得ない。そう強い確信を持っていたのは空も同じなのだろう。一瞬の迷いも、躊躇もな無く真っ直ぐ攻撃にのみ集中する軌道は傍から見ても美しく、完成されているとりんは感じた。
 接触まで残り一秒。空が翼を畳み、筋力に質量と重力を上乗せする。
 接触まで残り零コンマ五秒。神経伝達速度を考慮し、先行して腕部に指令を出す頃合いに。突如として異変は訪れた。
 接触。振りぬかれた腕は確かに翼の先端を抉り取る。そこには寸分の狂いも力の不足も無い。骨格細胞で固められた疾鷹の羽と言えど十分に破壊できるだけの熱量が適切に運動エネルギーに変換されていた。ただ一つだけの異常は、空の捉えたそれがただの時間残像(アフターイメージ)であったと言うだけである。
 「かわされた? そんな馬鹿な話があってたまるか!」
 何かの間違いかと再度観測しても結果は変わらない。空中にあったのは、なにも無い虚空を見つめ間抜けに浮かぶ空と、その横を生体にはありえない加速を持って抜ける疾鷹の姿だった。
 「ふぇ?」
 間抜けな顔をする鴉の瞳はまるでその姿を捉えられてない。動体視力に劣る鴉が、追いつける領域を大幅に超えていたからだ。空の背後で疾鷹があり得ない程の急旋回を見せる。失速をする筈の角度。落ちるはずの高度。空を飛ぶ物であれば逃れらない流体の法則を悉く無視し、疾鷹は空の背中を正確に捉えた。それら全ての疑問を解決するたった一つの答えは存在する。絶望的な事実に認識を拒否しかかる大脳を押さえつけ、りんは叫び声をあげた。
 「空、逃げろ! そいつは、妖獣だ!!」
 「お、おりん? 何が――」
 叫びも虚しく幼い鴉は無残に翼を折られ地面に落ちる。赤い軌跡を残し、真っ逆さまに落ちる姿に回避運動をとる気配はなかった。
 脳震盪。嫌な単語を思い浮かべたりんは気がつけば駈け出していた。予想着地点まで二五メートルの距離を三歩で駆け抜け、両腕で鴉を受け止める。左脚の骨折と右大腿骨の粉砕を代償に、空は軽症でりんの腕の中におさまった。
 「生きている?」「いたた……、なんとか」
 『鉄骨の林』林床部。僅かに痙攣する鴉を胸に掻き抱き、りんは空を見上げる。落下と変わらない角度で突進する翼が、二枚の翼では実現不能な軌道を持って全ての糸と鉄骨を回避していた。その種を見破らんとりんはオプシン・レチナール複合タンパクに頼らない光受容を行う。見えてくるのは風の流れ。翼の周囲に存在する不自然な対流。
 更に眼を凝らす。見えてくるのは翼の背後に存在する妖力の塊。それは、紛れもなく『複翼』だった。
 「器用な。『複翼』で軌道制御を補助してる。ご丁寧に屈折率まで変えて。どうりで疾鷹のくせに小回りが効くはずだよ」
 接近と共に体中に設けられたスラスターの痕跡を発見する。急加速、急旋回。最早疑いようもなくその二つを可能にするのは妖力だ。
 「ど、どうするの? おりん」
 「決まっている。走って逃げるよ。蜘蛛の巣の中をなるべくジグザグに! 『妖獣の鷹』なんぞとまともに殺り合ってられないよ」
 「そ、そしたら大丈夫なの? 無事に着く?」
 「運がよけりゃね!! 走れや、走れぇぇっ! 『蜘蛛の巣』まで一直線に!」
 「う、うん」
 右脚に添えていた成形妖力を二分割し両足に分配する。アドレナリンによる自前の疼痛(とうつう)神経遮断を実行しながら駆け出した直後。地面には深い溝が刻まれた。
 「りん! 後ろ、後ろ!」
 「言われなくても分かっているよ! どうせ逃げる以外ないじゃないか!」
 「そうじゃ、無くて! 『雨』が、『雨』が来てる」
 「はぁ?!」
 迫る疾鷹の気配にまぎれて、恐るべき音の接近を感じる。疾鷹をも上回る勢いで急速に接近するのは真っ赤な光。鼻腔が硫黄分子の濃度上昇を訴える。地底世界の彼方此方で腐肉が焦がされようとしていた。
 その現象をりんが知らない筈がない。地底に居るものならだれでもが経験し、獅子すらも例外なく恐れる自然現象。溶解した二酸化ケイ素の『雨』である。
 「り、りん。『蜘蛛の巣』まで、後どの位?」
 「ここを何処だと思ってるの? 林の中心だよ。『竜旋処区』を抜けるまで四キロ、『蜘蛛の巣』の最外殻までは更に一キロ。
どうだ、分かったらとっとと走れ!」
 「で、でもさ。りん。後ろからさ、」
 「うっせー! 『雨』でしょ!? 分かってるから、脳関門に回すブドウ糖があったら、運動に回せ!」
 「だから、私も、そうじゃないって、言ってんでしょ!! あれは。何!?」
 空の腕がりんの首を回す。疾鷹のはるか向こう側。赤黒い壁が世界を飲み込もうとしていた。
 それはものの数秒で鉄骨の林外殻に触れる。壁に触れた鉄骨の一本が宙を舞い。ケイ素を張り付け、黒い枯れ木となって彼方へと飛んで行った。
 「『塵旋風(ダストデビル)』?! 今日は厄日か……」
 「ね、あれ。何?! 触れたら死ぬ?」
 「お前が、継続的に『千六百五十度』と、『無酸素状態』に耐えられるのなら問題ない」
 「オッケー分かった。ありがとう」
 『塵旋風(ダストデビル)』自体は珍しい現象ではないが、『塵旋風(ダストデビル)』と『雨』が重なることは滅多にない。天蓋から零れおちる溶解した岩盤が、大気の異常対流により発生した『塵旋風(ダストデビル)』と混じり合うことで猛烈な破壊を生み出す。それは、りんですら数百年は見なかった光景。そして、この現象に対する唯一の対抗手段が逃走しかない事も、りんはよく知っていた。
 「ね、間に合う? あれ、もの凄く速い」
 「間に合おうが、間に合わなかろうが。逃げる以外ない! あれは疾鷹とは違う。灰狼(コロニア)の『群生相』とも違う。本物の災害だ。あたいらじゃどうにもならない。疾鷹にも、獅子にも、鬼にも、全く関係なく、平等に!!」
 『塵旋風(ダストデビル)』の発生に動揺したのか、疾鷹の速度は落ちている。障害物の多い『鉄骨の林』、林床部であれば直線的に走ることができるだろう。しかし、『塵旋風(ダストデビル)』の進行は絶望的に早かった。
 「糞っ、あいつ。命が惜しくないの? 仮にも疾鷹なら、引き際位は考えてよね……!!」
 「このままじゃ、一緒に飲み込まれる。ねぇ、どうしよう。おりん」
 「どうしようも、こうしようもない。……って、さっきから――」
 りんの視界が急速に回転を始める。鈍い音が脳髄に響く。頭部に入った衝撃により添え木としていた妖力が霧散する。それが、地面に放置された基礎の残骸によって引き起こされたのだとりんが理解するのは数秒の後だった。
 回転が収まり、地面に横たわったままりんは絶望する。衝撃により損傷したのは小脳。小規模な運動プログラムのデコードに関わる領域の機能不全が、りんの体を小刻みに震えるだけの木偶の坊に変えていた。眼孔の中央を保てない瞳が、震える視界で疾鷹の接近を知らせる。
 辛うじて正常な機能を保つ大脳皮質の一部を使って、生存の可能性を模索する。処理時間二秒。解無し。枯渇する妖力に肉体ベースでの稼働を強いられる現状。りんが打てる手など何一つ残っていなかった。故にりんは静かに瞳を閉じる。続いて筋肉の弛緩、アドレナリンの放出停止。まるで眠るように安らかな顔で副交感神経に身体を委ね、りんは時を待つ。幸い疾鷹は土蜘蛛と違って良心的に獲物の息の根を止める。そんなささやかな幸福を与えたもうた『カミサマ』に恨み事を呟きながら、必死で大脳を押さえつける。だがしかし、そんなりんに触れたのは疾鷹の爪でも。溶解した二酸化ケイ素でも無い。

 ただただ小さく。
 ただただか弱く。
 ただただ温かい。

 取るに足らない、地獄鴉の手だった。
 「……何してるの。死にたいの?」
 「し、死にたくない。だけど、帰らなきゃ。二人で家まで……!!」
 「あんたのご主人は、あんた一人で良いと言ったよ」
 「でも、二人じゃ駄目とは言われてない……!」
 後ろ手で、りんの腕を引っ掴み、空が疾鷹の前に立ちはだかる。引きつった様な声と震える手が、空の精神状態を如実に伝えた。薄い上皮組織を通して図る血漿中の妖力濃度はりんよりも多少はマシ程度。身体に負った傷を考えなくても、疾鷹に立ち向かえるような状態ではないだろう。馬鹿だ。そんな事を思いつつも、りんに許されるのははそんな阿呆の背中を黙って見ることだけだった。移動すらもままならない体では、それ以外の選択肢を与えられない。
 きっかり一秒後。あまりに明瞭な映像が網膜下に投影される。『疾鷹の鉤爪により宙を舞う鴉の首』。それは光受受容器による発火に起因する現象ではない。『幻視』、言わば認識の抜け道(バイパス)によるクオリアを伴わない情報が、りんの意識に介入していた。主犯は恐らく脳幹部。りんを取り巻く環境に対し、物理的な受容器と、経験――妖獣として生まれながらに刻まれた膨大な知識(ライブラリ)の内、反復学習と経験により理解へと昇華した情報――を総合し、合理的に導き出された未来だろう。
 それらが言わんとする所はりんも理解している。鴉を餌として疾鷹に生存交渉を迫れと。本能がそう告げている。リードタイム零コンマ三秒。大脳新皮質が提案を棄却し、再度対案の模索を開始する。あまりに現実感の無い本能の提案はりんを僅かに冷静にさせた。再度収集しなければならないのは環境ではなく、内面。生きている筋節。余剰妖力、起死回生の一手を探るため、零に近い可能性に掛けて再度体内器官のチェックを開始した。
 違和感。通常の妖獣であれば全妖力量の内半分程を失えば妖怪としての体が保てなくなる。りんが内包する妖力量は体積にしておおよそ二コンマ三リットル。スラスターを利用した二度の制動による消耗は概算で八百ミリリットル。妖弾による消費が一発あたり五ミリリットル。添え木としての成形、そして右脚の補助筋肉及び、疑似神経接続に使用した量が合計で四百ミリリットル。計一コンマ二零五リットル。身体保持目安である一コンマ一五リットルを僅かに超えている。それは、現実の身体の状況と僅かに食い違っていた。物理的損傷は依然として酷い状態であるものの妖獣としての身体保持に目立った影響は出ていない。
 その食い違いに対する回答はすぐに提示された。『異質な妖力』。未だ肺胞表面に残留する自身の物とは異なるそれが、妖力飢渇状態にある器官に入り込みその保持を助けていた。
 「さとり妖怪。あんたはやっぱり心を読まない方が、空気を読める」
 「な、何言っているの? りん」
 海馬に残っていた映像情報を無理やり繋ぎ合わせ、増加した量を探る。貯蔵容器(ボンベ)に書かれていた元妖力換算比は一対二コンマ五。容量が五十ミリリットルである事を考えれば答えは自ずと導き出される。一二五ミリリットル。ここから身体保持不足分、五十五ミリリットルを引いた七十ミリリットルが正真正銘、現在のりんに発揮できる力の全てである。
 「結果オーライだよ……、空」
 七十で何ができるだろうか。そんな予測にリソースを割く前に、りんの体は空の腕にしがみ付いていた。
 「地面に脚を固定して……。妖力は全部攻撃に回して良い。防御はあたいが……、やってやる」
 自分よりも一回りも小さく。小刻みに揺れる背中に抱きつくようにして、ようやくりんは二つの脚で立つ。七十ミリリットルでできる事等たかが知れている。故に一ミリも無駄にはできない。余すことなく、最大の効率を発揮するため、最大限の集中を持って、それ以外の身体機能を全て放棄した。
 妖力のアイゼンが地面の岩盤に深々と突き刺さる。片足二か所。両足計四か所で地面と繋がった空は疾鷹だけを真っ直ぐに見据えている。これで空は動けない代わりに疑似的とは言え、限りない質量を手に入れた。空が動けなければ突進の破壊エネルギーは反作用によって疾鷹へと跳ね返る。同時、それが意味するのは回避の放棄。
 故にりんは空を保護する必要があった。空の一撃で疾鷹を仕留める事は恐らく不可能。楽観的観測を含めても一時的に運動能力を奪う程度だろう。つまり、次の行動がまだ必要だという事であり、りんが空を守るのは『合理的』な選択である。
 保護するのは空の急所。頭部、心臓、頚部。その三点に絞り、極限まで硬度を高めた妖力の障壁を作らねばならない。身体保持量ギリギリまで妖力を絞る。吹き飛びそうになる意識を無理やり繋ぎ止め、やっとの思いで妖力を配置した。
 「だから、お願い……、帰り道は……、おぶって……、よ……、ね」
 成形の終了と同時。りんの体から力が抜ける。地面に固定された空に寄りかかるように。薄い意識の向こうで物語の結末を見届ける。
 疾鷹が突然脚を止めた空を不審に思うことも無く突っ込んでくる。その爪は限りなく正確に空の首を捉え、そして真横に逸らされた。空の前に差し出されるのは無防備な胴体。停止すらままならない疾鷹は待ち構えていた空に自ら突っ込む。アイゼンにより地面に固定された空はただ一本の棒となって、鷹の翼を撃ちぬいた。
 固定によって跳ね返った突進力に疾鷹の羽が吹き飛ぶ。血の雨が振ると同時、りんの視界は真っ黒に暗転した。モノトーン世界の向こう側で、疾鷹の断末魔が響き渡る。
 「りん! 起きて、地面が!!」
 肩を掴まれたという情報のみが触覚を伴わずに大脳新皮質によって認識される。一瞬の浮遊感の後に襲う衝撃が完全にりんの意識を刈り取った。







 ◇◇◇


 どうして生物は夢を見ると思う?
 その答えをあたいの脳は知っている。断片化した記憶の整理。情報の取捨選択と記憶域への格納作業。その過程で生じる無秩序な概念を映像として出力する『現象』、それが夢。
 つまり、夢その物には意味がないと?
 無意味な訳じゃない。映像として再度認識する事で情報整理速度の高速化が図れる場合もある。逆説、内容自体に対する問いなのだとしたら。あたいは、はいと答える。
 ふふ、つまり夢とは肉体に見せられる物だと、そこは認めるんだね?
 まぁ、その通りだけど。って言うか。あたいの夢にまで出てきて何が言いたいんだよ『さとり妖怪』。
 確かにこの姿はさとり妖怪の物を借りている。君の視覚情報から再現(トレース)したんだ。だけど、私はさとり妖怪じゃない。『私』は『あたい』だ。
 あんた、あたいの『魄』か。珍しいじゃないか、私に何の用だ。
 警告にだよ。火焔猫のりん。
 余計な御世話だ。帰れ。
 現実のあんたは今お休み中だ。極度の消耗でね。どうせ暇なのだから、そう言わず聞きなって。
 あんたが暇だからで出てくる程マメな奴だとは思わなかったよ。
 それだけ大事な話があるんだよ。私とあんた。両方にとってね。率直に言うけど貴女、妖獣辞めて生きられると思ってるの?
 ……あたいが妖獣を辞める? 悪い冗談だ。もしかして、あたいがさとり妖怪に餌付けられているとでも誤解したのか? だとしたら大きな間違いだ。あたいはあの妖怪を利用して楽して飯を掠め取っているだけさ。地獄鴉の群れから死体を横取るのと変わらない。だから、あんたに小言を言われる筋合いなんて無いんだよ。とっとと帰れ。
 『霊烏路空』
 な――。
 あれ、様子が変ったね。もしかして図星かな? あんた、『また』鴉を助けようとしただろう。ただの餌。取るに足らない地獄鴉一匹。なんで助けた。自分を危険に晒してまで。
 そ、それは。あの鴉を死なせたら、さとり妖怪から餌を掠め取り続けるのが難しくなるからだ。仕方なくだ。そう、あれは必要なリスクだった。
 嘘を吐くな。死んだら餌も糞も無い。あの疾鷹がもう少し聡ければあんたは死んでいた。地霊殿から得られる熱量はそこまでの価値を持たないはずだよ。なぜなら、これまであんたは地霊殿に頼らず生きてきたのだから。
 い、いや。その………。そ、そうそう。すまないね忘れていた。『孤独回路』だったよ。あたいも忘れていたけれど、今の時期は『孤独回路』の抑制が緩みがちなんだよ。いやー。あたいも困ってるんだよねぇ。これ、対象指定が無い意味で明らかに欠陥だと思うんだけど、あんた。どうにかしてくれない?
 それは難しいね。繁殖に関する機能は大袈裟な位がちょうど良いって、昔からの伝統だからね。確かに、あんたの『孤独回路』は今、抑制の時期に入っている。そうか、それなら納得してやっても良い。少しタイミングが悪かった。ただそれだけだと。
 その通りだよ。ようやく分かった? そうしたら早く帰れよ。あたいだって暇じゃないんだ。
 そうだね。そろそろお暇しようかな。でも忘れるなよ。あんたは火焔猫であるが故に、今のあんたで居られるんだよ。そして、勘違いをするな。どれだけ膨大な力があろうとも、私たちは決してそれ以外として生きられはしない。私たちの暮らすこの地下世界の前に力の過多はあまりに些細な問題だから。
 言うまでも無いよ。用が済んだらはやく帰ってくれ。あたいの体をあまり無防備にしておきたくない。
 ごもっとも、それは『合理的』な理由だね。それじゃばいばい。次がない事を祈るよ。
 あたいもだ。






 ◇◇◇


 仄かな硫黄分子を嗅上皮がとらえる。大脳が認識するのは僅かな不快感。それは硫黄と共に処理される雑多な分子の組み合わせが、自身のそれと一致したが為の現象だった。三拍程遅れて、痛覚が頬の異常を訴える。上皮組織が真皮層まで変性している。熱エネルギーの常用によりコンホメーション変化を起こした事でタンパクの高次構造。高密度のイオン結合により支えられる立体位置にズレが生じていた。疼痛(とうつう)神経の入力が、りんの意志を覚醒へと導く。単なる刺激の入力に対し、認識を開始した脳は急速に血流量を増した。
 「あ、おはよ」
 「あ、雨」
 「強くなってきたのは十分位前かな、さっきまではそうでもなかったんだけど」
 視界に広がるのはずいぶんと近い天蓋と、そこにぽっかりと空く穴。そして、穴から降り注ぐ赤い『雨』。周囲に広がるのは、まっ暗い闇と深い緑の苔。三次視覚野(V3)に到達した電気刺激に追われるように、りんの大脳新皮質が自分がおかれた状況を再認識し始める。行うのは、直近の記憶の連結。意識の連続性が失われる直前の行動についてだった。
 「確か……、疾鷹に襲われて」
 「疾鷹はもう死んだよ。外でローストチキンやってる」
 「そ、そっか……、よか……、た」暗い闇の向こうに、赤い瞳の輝きを見る。三本の触手で壁に張り付き。こちらの様子を窺っていた。「苔鼠(シーダー)だね。一緒に落ちてきたのかな?」空の声に反応したのか鼠が闇の向こうに去る。そこにきて、ようやくりんは不連続な記憶の一つを認識した。
 「ここ、どこ……?」
 「さぁ、どっかに続いてる坑道っぽいけど。分かんないや。疾鷹が馬鹿力過ぎてさー。岩盤一個突き破っちゃんだよね」
 おかげで助かったけど。何時もと何一つ変わらないへらへらとした間抜け面が、昂ったままの心を静めていく。対話により明瞭さを増す記憶の前後関係が現在の状況と結びついていく。上から降り注ぐ赤い雫は『雨』そして、その更に上で吹き荒れる嵐は『塵旋風(ダストデビル)』。その二つは、意識を失う直前のりんに襲いかかろうとしていた物だ。
 「そ、そうだ! 空、あんた怪我は?」
 「うん、私? 右手を骨折した位かな。あ、後は右羽も折れてるけど、まぁこっちは別に使わないから良いかな」
 ぷらぷらと明後日の方向に曲がる腕を振りながらへらへらと笑った。
 「それより、ひどい怪我はおりんだよ。大丈夫?」
 「まぁ、確かに。右脚も左脚も折れてるし、妖力はすっからかんだし、体中の筋繊維がずったずただし、……正直言うと。もー、無理……」
 脳幹部による生命維持機構が軒並み警告信号(アラートサイン)を出している。号令に従い、全身のありとあらゆる器官で自己再生機能及び、自己防御機能が活性化されていく。主体となって働くのは――忌々しいことながら――脳幹部だった。右大腿骨では損傷した器官により血腫が構成されている。内部では副甲状腺により活性化した造骨細胞が骨の再構造化を開始していた。発熱による代謝の活性化も始まり、体内に侵入した原生生物の増殖は抑制傾向に入っている。それらの機構全てどの生命も平等に持つ物。唯一の差異は、それらがりんの見た目と同様、理想的なまでに美しく。何一つ問題も起こさずに不気味な程正確に行われている事である。
 「まぁまぁ、落ち着きなよ。雨が止んだらおぶって帰ってあげるから」
 「おぶって帰るって。そんな人を子供みたいに――」
 意識を失う直前。空に告げた言葉を思い出し、顔面がかぁと赤くなる。咄嗟にそっぽを向いて隠すも時は既に遅すぎた。何時になく真剣な雰囲気を纏った空が、りんの顔を覗きこんで来たからだ。
 「おりん」「……何さ」「ありがとうね」「うっさい」
 照れ隠しに空を叩こうとして、小刻みに揺れる手が視界に入る。一度、二度指を動かし、極めてぎこちの悪い動きしかできない事に気がつく。小脳の損傷が修復されるまでは、今暫くの時間が必要に思えた。仕方なく手を引っ込め黙りを決め込む。『孤独回路』が十分に働いていない今。口を開けば余計な事を言ってしまう。そんな確信に近い予想がりんの中にはあった。
 「照れないで。別におりんに何かを求めている訳じゃないの。ただ、私が嬉しかった。そう思ったからそう言った。ただそれだけ」「ただのラッキーだよ。考え過ぎ」「ただの幸運でも、りんが二人で助かる方法を考えてくれた事には違いない。目的が保身でも、私を見捨てないでくれた事には違いない」
 右脚に空の手が触れる。恐らくは治癒術を施しているのだろう。じわりとした温かさがりんの脚を包んだ。しかし、不自然なまでに繊細で優しい手つきがりんに不安を抱かせる。その感情を肯定するように、空がずいと身を乗り出してきた。息の掛かる距離に近づくのは空の顔。初めて間近で見たそれにはまだ幼子の特徴が残っている。しかし、完成すれば誰もが振り向くであろう整った顔立ちに、りんは息を飲まずに居られなかった。
 「あの時。落ちる私を受け止めてくれて、ありがとう。りんの腕。凄く……、暖かかっ――、げべっ」
 ぞわりと下腹から立ち上る気持ちの悪さ。気が付いた時には左脚が空の顔面にヒットしていた。
 「お、落ちる私を受け止めなければ、おりんは歩けた。だ、だから私が背負って帰る。言われなくてもやるし、止めろと言われても止めない。だって、これは……、『合理的』な判断だもの」
 「ご、ごめん……。やり過ぎた。鼻、これで拭いて」
 滝のように溢れ出る鼻血を見て、思わず服の端を千切る。鼻に丸めた布を突っ込みながらも、至極真面目な顔は崩れない。むしろ、籠められた感情の強度は増加の一途を辿る。言葉を止める気配は何処にもなかった。
 「私さ、物心付いた時から妖獣だったから。守る側に立つ事は数え切れない位あったんだけど、守られた事は殆どないんだよね。だから分からない。どうやって、この感情を処理したら良いのか。この欲求はどうすれば慰められるのか――、ふがべ」
 「ごめん、やっぱキモかった」
 鼻を押さえる空に渾身の頭突きが入る。赤い軌跡を描き、黒い影が反対側の壁に吹き飛んで行った。
 「だ、だから私。色々、考えてみたんだけどさ。多分、こうするのが一番正しい。そんな気がする」
 「な……、なぁ。空、悪かったから。落ち着け、な。早まるな、……って。な?」
 鬼気迫る表情で空が這い寄ってくる。折れた右脚でこめかみを抉るも大した効果は無い。血走った瞳がりんの顔を真正面から捕えた。
 「おりん、一緒に暮らそ――、げはっ」
 右肘を喉に入れる。口から赤い煙を出した空がばたりと地面に倒れた。
 「ま、前から一緒に住んでいるだろうが。あ、アホンダラ!!」「そ、そういう事じゃなくて。こ、これは『合理的』な選択なんだって」「誰にとってだよ」「も、もちろん。『私』にとって」
 垣間見える空の『正気』に追撃の手が止まる。少なくとも、先ほどまでの空は繁殖期の雄だった。欲のままに行動し己へ負担を強いる災害――抑制系の外れた時の雌にも当てはまる事ではあるが――だった。だが、今の空には話をする余地が見える。故にりんは手を引き、代わりに空の胸を軽く押して体から引き離した。
 「わ、私たちは生き残る事が至上目的。そうだよね、おりん?」無言でりんは首を縦に振る。
 「そう考えた時、私達は同一コロニーに所属する。つまり、さとり様に仕えるべきなんだ」
 「どうしてそうなるのさ? 今のままじゃ問題だとでも? あたいは、今のままでも十分な熱量が確保できている。これ以上の『変化』は必要ないんだけど」
 「ありありだよ。今はっきりと分かった。だって、おりんは弱い。私だってもっと弱いけど。おりんとは弱さの『理由』が違う。おりんが起きるまで二時間は経っているよ。なのに……、あなた、どうして怪我が治ってないの?」
 空の左手が、りんの脚を掴む。激しく発熱を続ける血腫の内部には未だ骨の破片が残っていた。
 「……よく分かったね」
 「妖獣は『魄』が主体になった妖怪の一種。『魄』により生存が定義される以上、体内の自己修復能力だけじゃなくて、『魄』自身が失った器官を創造するはず。なのに、どうして――」
 「年をとれば体が弱る。それは妖獣も変わらない。当たり前だよ、空。補修するにしたって地図がいる。あたいという妖獣の元になった遺伝子(DNA)は度重なる複製でもうボロボロなんだよ。魄を源泉とする補完能力は遺伝子(DNA)欠損部分の予測演算に使われてしまっている。今のあたいは、ちょっと怪我の治りが早いだけの……、火焔猫だ」
 「だったら、尚更。おりんはもう独りで生きられる身体じゃない。誰かの助けを借りる事が、一番生存確率の向上につながるはずだよ。貴女に知らないとは言わせない。死亡するリスクは最大限減らさなければならない。私達の『魄』はそう私達に強いているのだから」
 「無理だね。あたいの本能はそういう風に作られてない。独りで生きて、独りで死ぬ。火焔猫はそう言う生態を持っているから」
 「嘘吐き。そのイレギュラー的変化を許容する虚弱性(システム)こそが。『孤独相』と『群生相』じゃないの?! おりん、お願いだから。私と来て。私は、おりんが死ぬ所を指を咥えて見ているなんて絶対に嫌。だけど……、今のままじゃ私はおりんを守る『権利』が無い。今のままじゃ私はおりんに、守って貰う『資格』がない……!!」
 「空。『私』が――、『魄』がそんなに『あたい』にとって都合良く救いを与える存在だと思っているの? 変化と言うのは、つまり『孤独相』と『群生相』は……。そんなに私たちにとって都合の良いシステムじゃないよ。ただ、眼の前の障害を避けるために、ちょっと別の袋小路に迷い込む様な物さ。そうなった時、既にあたいらの道はどこにも続いてない」
 「なんなんだよ! おりんいっつも言ってるじゃない。『死にたくない』って。今のおりん。死にたがっているように見える!!」
 「逆、怖いから。死は結果。私は死にたくないから、その『因』も恐れるんだよ。灰狼(コロニア)の『群生相』を見ればわかる様に。群れに属するとは個ではなく集団としての生存を優先しなければならない。元からそうある様に生まれたあんたや、狼ならともかく。あたいは集団における利益を最大化する本能を持ってない。だから、集団の中に入っても協調という名の不利益の方が大きくなる可能性が高い」
 「私がそんな事はさせない。私が守るから。だから――」
 「――そして、そんな分の悪い掛けに勝ったとして、得られる事の本質は命を他人に預けることだ。それは、あたいにとってあまりに大きな恐怖だ。……どうしようもなく怖い。ただただ、純粋に怖い。だから、あたいの命は、あたいだけの物だ。お前の物でも、さとり妖怪の物でもない」
 「この……、いくじなし……。ばか! あほ!」
 鼓膜を突き抜ける振動が頭をきんと揺らす。両の目からぼろぼろと涙を零しながら、空はそっぽを向いてしまった。
 「何とでも言って」
 罪悪感。空の言葉には納得できる部分も多いしかし、それと同様に自らの言葉にも何一つ偽りはなかった。後悔は無い。しかし、反省すべき点が無いかと言われれば疑問が残る。小刻みに震え、すすり泣く声が背中越しに聞こえる。白い湯気を立ち上らせた背中は小柄と言えるりんよりも更に小さい。
 罪悪感。先程会話を反芻する程にりんの胸を灰色の感情が埋めていく。地獄鴉が取るに足らない存在と言っても、『空』は強く利用価値は高い。その事は今日の一件で誰よりもりんは理解していた。故にこれは、空を今後も利用するための『合理的』な譲歩である。そう脳幹部に言い聞かせ、りんは口を開いた。
 「……だけどまぁ、現実として世話になっているのも事実だし。あんたは食うより利用した方が便利そうだし……。まぁ、あれだね……。その……、アレだよ……」
 みるみる内に顔面の毛細血管が拡張して行く事を感じる。空が背を向けていて助かった。そんな下らない事を考えながら天蓋を見上げる。真っ赤な雫は、相変わらず地面を焦がしていた。
 「あたいの邪魔にならない範囲なら。あんたが何をしても無視してやっても良い……。あたいにとって利益のある内は……、偶然に殺す奴が一緒になる事もあるかもしれないし。だから、その……、別に今のままでも……。悲観しなくても……」
 そこまで言い切った時。ふと視界の端から向けられる視線を察知する。ぽかりと口を開けた空が眼を見開いたまま凍りついて(フリーズして)いた。「な、なんだよ」どうしようも無い居心地の悪さに、思わず声をかける。それを聞いた空が油の切れた絡繰り人形のようにぎこちなく首を傾げた。
 「何それツンデレ?」
 「ぶ、ぶっころ……!」
 ぼっと、全身が燃え上がるように紅く変色する。怒りで理性が吹き飛ぶ寸前。りんの薄い胸に、自身の八割程度の質量が飛び込んできた。「くっ、くっつくな! キモチワルイ」「嘘だよ、おりん。ありがとう! 私、嬉しい……!!」「ばっか、くっつくなー」涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が服に押し付けられる。外気に触れすぐに蒸発してしまうそれを普段なら蹴り飛ばしていただろう。しかし、今ばかりは不思議とそんな気分になれなかった。握った拳を解き、代わりに空の頭に添えてやる。黒く艶のある髪は埃に塗れてもなお、滑らかな手触りを失っていなかった。頭を撫でてやる毎に空が落ち着きを取り戻して行く。
 口元の綻びに気が付き、急いで正したのはそんな時だ。これは空を引き剥がすそれを、強硬的手段から搦め手に変えただけであり、むしろ『合理的』なのだ。そんな下らない言い訳をしながら。りんはもう一度、空の頭を撫でた。
 「雨、まだ止みそうにないね」
 「あぁ。そろそろ何か来るかもね」
 「おりん、まだ脚痛いでしょ?」
 「まぁね」
 「ならもう少しこうしていようよ。寝ていても良いよ。地獄鴉(インフォーマ)は警戒心が強いから。よく警報(アラーム)代わりに使われるんだ」
 「そうだな。それは……、『合理的』な理由だ」
 りんは空の手を強く握り静かに瞳を閉じる。いざと言う時、いち早く警告を受け取るために。そんな言い訳を聞き届ける前に、脳幹部は睡眠を指示していた。


 『塵旋風(ダストデビル)』の去った後。赤い『雨』だけが差し込む暗闇の中。暗い坑道に不釣り合いな明るい声が反響する。屋根の下に居て、目を瞑れば恐るべき雨も子守唄と変わらない。閉じた瞳の向こう側、しとしとと降る雨音を聞きながらりんは微睡(まどろ)む。掌に感じるのは確かな温もり。雨音と同期する心音、薄い皮膚を介して感じる血潮の流れ。それは、遠い昔。数千年の昔、ただの獣であった頃母に抱かれて以来の感触である。夢のようだ。そんな下らない妄想を棄却し、再び天蓋を見上げた。
 「でもさ、どうやって帰ろう。外は『雨』だ。季節から言ってそろそろ『雪』に変わる。後数ヶ月は外に出られないかもしれないよ」
 「大丈夫、さとり様は言っていたもん。『雨が振ったら必ず傘を指して迎えに行きます』って。自分がそうして貰った時、嬉しかったから。って」
 「根拠が無い」
 「言ったでしょ。さとりさま。下手くそな嘘は吐くけど約束は守るから。――ほら、噂をすれば」
 雨が大地を穿つ音に、異質な物が混じる。同時に届くな小さな足音。聴覚野が提示する音響解析結果は、小さな歩幅とゆったりとした速度を伝える。恐るべき『雨』の中をそんな悠長な態度で歩く空気の読めない者を、りんは一人だけ知っている。
 「……良かった」
 「ただいまです、さとり様!」
 「おかえりなさい、空。無事で……、良かった」
 式符で作られた唐傘を指し、脇にも二つ同じものを抱えたさとり妖怪が穴の淵に立っている。その肩には一匹の苔鼠(シーダー)がくたりとへばりついていた。「それ――、」「私の勝手で巻き込みましたから。怪我の治療位はと」肩口の苔鼠(シーダー)は傷だらけながらも辛うじて息をしている。あの瓦礫と『塵旋風(ダストデビル)』の中をどうやって生還したのかは不明であるが、その触手の先に着く血液の匂いは、りんにとってあまりに憶えがある物だった。
 「まぁ、それはそれとして……、と」
 何かを言いたげな瞳がりんに向けられる。りんに言葉を読む事はできない。しかし、不自然な程に平時と変わらない表情が考えている事を予想するのは難しくなかった。
 「火焔猫さん――」
 「『ありがとう』」
 辛気臭い言葉を聞く前に出鼻をくじく。このような場では流された方が負けなのだと。先程の反省を活かした結果の行動だった。
 「私が聞くべき言葉は、恨み事です。そのような言葉は受け付けません」
 「……いいや。あんたは正しい選択をした。『合理的』だ。だから、あたいはあたい自身以外に怨むべき対象が居て良い筈が無い。だから、『ありがとう』。あんたがいなければ、あたい達は、……死んでいた」
 「……ありがとう御座います。火焔猫さん」
 さとり妖怪の口元に薄い笑みが漏れ出る。ぎこちなさの無い笑顔を見たのはそれが初めてであった。見た目相応の可愛らしい微笑みにりんも釣られて笑みが溢れてしまう。その情動反応は、安堵感からか思ったより露骨に現れてしまった。隠すことは不可能と判断した大脳が模倣回路(ミラーニューロン)の仕業であると申し訳ばかりの言い訳をするも、笑みを止めることは無かった。
 「どうしたの? 二人とも。急に仲良くなって」
 二人の様子を不思議に思ったのか、空が穴の淵とりんの方を交互に見返している。「なんでもないよ。帰ろう。おぶってくれるんでしょ?」「う、うん」
 説明して話がこじれることをりんは望まない。未来に関しては『因』まで気を回すべきでも、過去に関しては『果』が全てだ。そこに関してはさとり妖怪も同意見のようで、りんに向けて、――本人はさり気ないつもりであろう――不器用なウィンクを送ってきていた。
 「さとり様。申し訳ありませんが、ロープか何かをお持ちでないですか? 妖力は使いきってしまって……」
 「それは良いのですが……」
 「な、なんだよ。さとり妖怪?」
 さとり妖怪の視線は空にもりんにも向けられていない。更に後方。坑道の奥、完全な暗がりの向こう側に第三の眼(サードアイ)を掲げ、しきりに何かを探っていた。
 「それ、何ですか?」
 「「え?」」
 驚きを持って後方を振り返る。暗闇の向こう側。漂ってくるのはかすかな生命の気配。先ほどまで全く気が付かなかった弱い生命が十五程度、確かに存在していた。


 第三章


 「夢のようだ」
 死にたてほやほやの死体が築く山を前にりんは思わず叫び声を上げる。どれもこれも若い男女の物で、体には子供の特徴が残っている。ハンドルを握るのは新品の火猫車。髑髏の意匠が凝らされたグリップは、非常によく手に馴染み、数百年を使い込んだ愛用の品と区別が付かない。夢のようだ。そんなありきたりな感想をりんは抱く。
 周りに邪魔をする者は居ない。何処までも続く荒野の先を見渡しても、自分以外の気配はしない。薄汚く横どりを狙う狼も。死体を齧って美しさを損なう蜥蜴(トカゲ)も。卵を産みつけに群がる蝙蝠(コウモリ)も。死体を汚す何一つ、この場には存在しない。夢のようだ。そんなありきたいの感想をりんは抱く。
 さぁ、死体を運ぼう。地底の果てから果てまで。ただ何の目的も無く死体と共に地底を駆けよう。そう考え、特に美しい色白の少女の死体を猫車に放り込んだ時。ふとりんは疑問に思う。『この死体はいつからこの場にあったのだろう?』。
 りんの認識上では最初この場に来た時既に死体は山を築いていた。まるで自分に運んでくれと言わんばかりに。そしてりんもまたそれを知っているかのように猫車をピカピカに磨き上げ、この場に馳せ参じた。全てが出来過ぎている。だがそれが何だと言うのだ。理想的で結構ではないか。まるで夢のようだ。上機嫌に鼻歌をもらしながらりんは少女の死体と共に荒野を走る。
 ずんと、腹の奥に響く爆音が世界を揺らす。火山の噴火だ。毎日四度決まった時間に噴煙を上げる間欠泉の音が世界を揺らした。何もおかしな事はなし。気にせずに走りだそうとした時、ふとりんは疑問を持ってしまう。
 はて今は何時だっただろうか。
 何の事はない。この方角は一日を四つに区切った内、前から二番目。便宜的に朝の六時と呼ばれる時間で、普段なら皆で『焦熱地獄炉』のメンテナンスに向かう時間だ。メンテナンス中。今の音を聞きながら空と雑談に興じるのが最近の日課であるはずだ。
 『最近』とは何か。最後の概念が頭に引っ掛かる。普段の自分がこの時間『焦熱地獄炉』に居るのなら、なぜ今の自分は荒野を走っているのか。何故、自分が運んでいる死体は『獄卒鬼』ではなく可憐な少女なのか。違和感が世界にほころびを産む。立体構造を失った天蓋と、空っぽになった猫車の中身を見て、仮想的な自己は全てを悟ってしまう。


 「夢だった……」
 モルタルの天井と謂れのない虚無感がりんを暖かく出迎える。半覚醒状態の脳は現実を認識し始める。疑いようもなく、ここは地霊殿であると。そして、より重要な現実が窓の外に存在した。
 「うわっ……、かんっ……、ぜんに寝坊だわ。ま、良いんだけどさ……」
 全てが自分に都合良く設定される夢であっても、そのベースは自らの知識と経験に他ならない。中に真実が含まれていたとしてもなんら不思議は無い。そして、窓の外に広がるのはそんな真実の一つである。南西、『無終没入処(むしゅうぼつにゅうしょ)区』から吹き上がるのは朝六時を告げるマグマだった。それは同時に、本日の『焦熱地獄炉メンテナンス作業』への大幅な遅刻を意味する。空の小言を予想して少し頭が痛くなる。道連れになる者は居ないかと駄目元で行った気配探知は、案の定、何の成果も上げることはできなかった。
 「こらもう、『皆』は焦熱地獄炉に行っちゃっているぽいなぁ……」
 それは、最近になって追加された新たな現実の一つ。地霊殿に訪れた新たな変化。その証拠の一つはベッド脇の台におかれた朝食という形で存在していた。
 「使わない機能は退化するってマジだったんだ……。気をつけよ……」
 恐らくは『誰か』が『何度か』起こしに来たのだろう。盆に置かれた水差しと、半分に切ったライ麦パンの間に薄い干し肉を挟んだだけの簡素な朝食が置かれていた。喉の奥に酷い渇き覚える。ベッドの脇に置かれた水差しから直接液体を喉に流し込む。仄かなシトラスのフレーバーが鼻腔の奥に広がった。
 「はぁ……。何時もより寝たのに。損した気しかしない……」
 習慣に近い動作で、ベッドの上にあぐらを掻いたままパンを取ろうとする。ぴきり、と鋭い痛みがりんの全身を襲った。
 「……っぅ~」
 声にならない声で呻きながら体を丸める。全身のありとらゆる個所から伝えられる痛みが、我先にと大脳に飛び込み無秩序に認識が行われている。二分ほどそうやって体を捩っていただろうか。ようやく減じた痛みにほっと息を吐いたりんは、今度こそあぐらを崩し、無理のない態勢で朝食を手に取った。
 「……ふぅ。まだ。治んないか」
 干し肉をパンから引き出し口の端に加えながら、自分の四肢を見る。左脚、仮骨による固定は完了済みながら、未だ走行には耐えない。右脚、大腿骨の三箇所が未だ未接続。妖力により常時補助することで歩行は可能。両手、異常なし。妖力、最大容量の七割程度まで回復。
 疾鷹に追われ深手を負ったのが、丁度二カ月前。傷は未だ癒え切らないものの、日常生活の補助は必要がない程度には回復しつつあった。
 「――って。あー。要らん事思い出した」
 一人での生活を許されたのは一ヶ月前。作業に参加し始めたのがつい二周間前の事である。さとり妖怪による嫌がらせとしか思えない介護か、空のあまりに真剣で息に詰まる介護の二択を強いられた一ヶ月間を、りんは生涯忘れないだろう。特にその中でも――、
 「その中でもハイライトは、空による『天然赤ちゃんプレイ』。原因は、空が介護書の代わりに育児書をさとりから与えられていたが故……」
 何時の間にか、後頭部に張り付いていた三本の触手を振り払う。振り返った先では鋭い瞳がりんを見下ろしていた。
 「あたいの思考を読むな。『灯』」
 その顔には室内にも関わらず目深にフードが被さっている。僅かに開いた隙間からは美しい翡翠(エメラルドグリーン)の髪と鋭い眼光が覗いていた。
 「これ、面白い」
 ゆったりとした上着の右袖からは長くぬらりとした触手が三本伸びている。深緑色の斑模様であるそれは、『苔鼠(シーダー)』が持つ物に酷似していた。
 「思考を読むなんて悪趣味な奴はさとり妖怪一人で十分なんだよ。つか、無駄なことに妖力使っているんじゃねぇ」
 「私、あなたと違って妖力には余裕がある。今日もご飯いっぱい食べたし」
 「ご飯って『熱線浴』か。袖に煤が着いているよ……。全く……」
 袖に着いた煤をはらうりんの手を『灯』と呼ばれた少女はじっと見つめていた。その背はりんよりも頭二つ分は大きいだろう。豊満とは言えないがスレンダーで整った体つきは、女性らしい美しさを体現する。しかし、そんな大人びた印象を全て崩すかのように、纏う雰囲気は浮ついた物だった。
 「昨日、地霊殿の裏手に湧いた。凄く、美味しい」
 『苔鼠(シーダー)』の妖獣。二ヶ月前、さとりが連れ帰った個体が妖獣である事に気がつくのにそう時間は掛からなかった。りんと同様にかなりの高齢――あくまでも苔鼠(シーダー)としては――である彼女は、空の勧めもあり、そのまま地霊殿に留まる事となった。
 「りんもどう?」「……お断りだ。あたいは『光合成』なんてできないから」「大丈夫、りんにも植えてあげるから」「おいやめろ」
 瞳には知的な光を湛えているが、その実何も考えていない事をりんは知っている。『苔鼠(シーダー)』自体は極めてありふれた種で生息数も多い。しかし、その生態故に妖獣へと至る事は極めて珍しく、不完全とはいえ人型を取れる程の個体を見たのはりんですら初めてだった。故に、灯の思考、行動パターンは酷く読み辛い。捕食対象でありながら漠然とした苦手意識が拭えないのはその為である。
 「酷いよ、おりん。私『は』、不完全じゃない。『この子』が、望む形がこれなだけ」「刺さっているから。めっちゃ痛いから。下らないことで一々読心するのを辞めてくれ」
 灯の読心は、灯の元からの能力ではない。さとり妖怪により式紙を入れられた際に付与された物で、正確には『灯』ではなく『触手の主』が持つ力である。『面白いから』と言う短絡的な理由で残されているに過ぎないそれは、対象の頭に直接触れなければ、発動しない程度の弱い力だ。
 「聞いてる? 灯?」
 硬膜(こうまく)を弄くる触手を無理やり引き剥がし、思い切り睨みつける。僅かに見開かれた眼は、彼女の驚きに対応する反応だ。
 「ご、ごめん。刺さないように言っておく」
 「そこじゃないって……。まぁ、良いけど」
 「あぁ……、そうだよね。でも、無理矢理は、良くない。私も応援するから、一緒に頑張ろう。『君』の良さは私が一番知っているから。……ありがとう。少し、照れるな。だけど、『私』はまだあげないよ」
 まるで独り言のように虚空へ向けて灯が言葉を投げる。最初驚いたその行動は、『苔鼠(シーダー)』と言う存在を象徴するものであると、さとりは言っていた。
 「りん。『この子』あなたが気に入ったみたい。もっとりんの記憶を読んでみたいって」
 「そうかい。モテる女は辛いね。だからって、苗床になるのはまっぴら御免だ。あんたから丁重に断っといて貰えるか」
 再び長い灯の独り言が始まる。三分経っても、五分経っても会話は終わらない。暇を持て余したりんが行うのは追憶。『苔鼠(シーダー)』に関する、さとり妖怪の極めて稚拙な解説だった。
 ――『苔鼠(シーダー)』旧地獄跡の固有種。栄養段階(ヒエラルキー)的には『生産者』と『第一次消費者』の丁度中間に属する。『生産者』としての主食は、溶解した岩盤より放出される赤外線。より正確には上皮組織に寄生させた超好熱性の蘚苔類(せんたいるい)が持つ、『クロロフィルγ』を利用した炭素固定。これは最大吸収波長を赤外線付近に持つ特殊なクロロフィルであり、赤外線領域を利用する上で不可避となる熱の発生に対処する機構を備えている。鼠は生産したグルコースの一部を受け取っている。また、『第一次消費者』としては、腐肉食であり。傷病・老衰等で死んだ者。肉食者の食べ残し等を漁る。餌から吸収したリン等を簡便に利用できる形で苔に渡す事で共生関係を築いている。短い前足と背中から伸びる三本の触手が特徴で、触手内部には蘚苔類が寄生する。それは、表面積向上の意味も持つが、移動、自己防衛に使われる場合もある。苔は擬態の役割も兼ねており、外敵からは狙われ辛い。寿命としては――。
 「りん。さっきから何をぶつぶつ言っているの。頭、大丈夫? もしかしてこの子が何かした?」
 オプシン・レチナール複合タンパクに依存する光子情報が、至極真面目な顔を映し出す。一片の悪意も無く、ただ純粋な疑問をもって灯はりんの精神を逆撫でにした。
 狙うのは鳩尾。筋収縮を指示するのは左腕。せめてもの情けと爪を引っ込めた状態で突き出した手刀は、ぬめりとした感触に止められた。
 「え、『君』の仕業じゃない? 何だ。じゃ、おかしいのはりんの頭だけなんだね。良かった」
 「おい、今すぐこいつを離せ。ぶち殺してやるから。――って。おい、やめ。頭、傷。塞がって無いから――。やっと、治った、ばっかだから――!!」
 「あっ……」
 自在に動き回る触手はりんの体を拘束していく。灯はそんな光景をまるで他人事であるかのに無言で見詰めていた。
 「お、おい、何か言えって」その現象の正体をりんは知っている。両腕の関節を固定され抵抗する手段を失った事が、不安を倍加させる。触手の先端がクモ膜に達する。神経細胞(ニューロン)を走り抜けるイオン濃度勾配の波が、為す術も無く丸裸にされていった。
 「人の言う栄養段階とはあくまでも、便宜的に生物間の相互作用を現した物である。一般的にピラミッド状の構造として知られているが、実際には網とでも言うべき複雑な構造を持っており、その代表的な例としては植物でありながら捕食も行う一部の――」触手はより多くの情報を貪ろうと好き勝手に脳へと突き進む。「殺す! 絶対殺すからな! お、おぼえて――、あひゃあ?」
 軟膜を突き破った触手が脳に直接触れる。運動野を撫で回されたりんには最早身体を捩る以外の行動が許されない。知性を持った者とは思えない嬌声が地霊殿中に響き渡るまでに、そう長い時間は掛からなかった。


 「それで、あんた。何しに来たんだよ」
 「あ、そうそう。りんを起こしといてって言われて。『私』自身はそう言われていた気がする。そう、だから『私』は来た」
 りんの体中を触手の分泌液――主に水分の蒸発を防ぐ油分――が覆う。ぬとりとした感触に顔を歪ませたりんがスカートの端を絞ると、黄褐色の液体が床にシミを作った。
 「あー……、そうだな。めっちゃ眼が覚めたよ……」
 灯が意識を取り戻すまで七分。興奮した共生体を宥める事に更に七分。計十四分にも渡って嬌声を上げ続けたりんの全身は、泥のような疲労感に包まれる。当初の眠気は去ったものの、失われた体力を戻すべく発せられる休眠指令は、りんの大脳の働きを僅かに鈍らせていた。
 「怒ってる?」「まぁ、それなりに」「ごめん」「……いいよ。それで」
 灯の触手が行った事に対して腹を立てる無意味をりんは知っている。怒るとは非常に対価(コスト)の大きい行動だ。心拍数の増加は消費する熱量を増やし、消化器の機能定低下は熱量の逸失利益(ロストプロフィット)を産む。りんと言う個人の感情が闘争を望んでいるとしても、利益(プロフィット)の無い選択肢を選ぶ事はありえなかった。
 「早起きのあんたが、まだ居るなんて変だと思ったよ。それなら早く行こう」
 「待って。りん、疲れている、でしょ」
 「あぁ、どっかの誰かさんのおかげで」
 「だったら、大人しく。動いたら、死ぬ。かも」
 「は? ――って、ちょ、もー、いや……、だって」
 音も気配も無く忍び寄った触手が再びりんの体を拘束する。先程散々弄ばれたお陰で体力を失ったりんは最早抵抗をする気力も無かった。大脳の指示に従い、無駄な体力の消耗を避け、すっと眼を閉じる。しかし、次に襲ってくるのは全身を舐めまわす欲望の濁流では無く優しい感触。優しく大脳に触れる触手から微弱な電流が流れていた。同時、りんは重力から解放されたかの様に軽くなる身体に驚きを隠せなかった
 「何やったの?」
 「さとりに教えてもらった。『モノアミンの遊離』がどうとか。末梢疲労はどうにもならないけど。中枢性疲労位は、私でもどうにかできるかな……、って」
 「へーそう、そりゃありがとう……、って。あたいの脳をおもちゃにすんじゃない」
 「いたい」
 灯が行ったのは脳の覚醒状態への強制移行。通常薬物によって起こされる物と同等の現象を活動電位(スパイク)への干渉により実現する。それは間違いなくさとりの式術だった。
 「無駄に器用なな奴。下らないことばっかり憶えて……」
 「式があるなら、後は使うだけ。私、妖力には余裕ある」
 ひらりと胸元から灯が取り出すのは一枚の式符。そこには、さとり妖怪の癖のある丸文字がびっしりと書き込まれていた。
 「はぁ、これだから苔鼠(シーダー)は。苔があるからってすぐ調子に乗る……」「欲しかったら、あげる……、って」「いーらーなーいー! だから、その触手を、引っ込めろ!」
 超好熱性の蘚苔類(せんたいるい)。そして蘚苔類(せんたいるい)の持つ『クロロフィルγ』は苔鼠(シーダー)を飢渇の恐怖から解放している。ならば、誰もが超好熱性の蘚苔類(せんたいるい)を体に宿しそうな物であるが、実際にそのような事はない。
 何故か。最近になって、宣言的記憶領域に移動した記憶が、見た目だけ凛々しい灯の顔によって作業記憶(ワーキングメモリ)に引き出される。知識と直近の経験が連動する事で発生した情動が、りんの顔面に表出した。
 「どうした、りん」「何でもない。行こう。灯。あんたが居なきゃ始まらない事もある。あたいが居なきゃ不便な事がある」
 パペッツ回路における乳頭体の出力を吹っ切る様に、りんは勢い良く扉を開ける。明かりの点いた廊下にはやはりどんな人影も無かった。一歩二歩、そして三歩。蝋燭に照らされる橙の空間に辿りついた時。りんは独りである事に気が付いた。不審に思ったりんが振り返る。部屋の前に立ち尽くす灯は、時間から取り残されたように身じろぎ一つしなかった。見慣れた光景。りんは何時ものように灯の顔の前に手を差し出した。
 「おーい。この、『ポンコツ妖獣』。意識は残ってる?」
 真っ直ぐに虚空を見つめる瞳孔は見開かれたまま。全身の筋肉が弛緩した状態で、ただ床に立っている。妖力の一部を光に変換、瞳孔に当てる。辛うじて対光反射を確認し、何度か頬を叩くとようやく灯は再稼働を始めた。
 「あ、うんそうだね。『私』は行かないと」「お、おう」
 恐らくはさとりから言い付けられている、『りんを焦熱地獄炉に連れて行く』と言う指示を忘れている。ただ、『焦熱地獄炉に向かう』為に部屋を出て行ってしまう木偶の坊の背中が、りんの眼には酷く曖昧に映り込んだ。
 脳裏に過るのはさとりの言葉。それは、灯の寿命に関する酷く稚拙な説明の続き。灯の様子を不審に思った空が、さとりに説明を求めた時の記憶だった。
 「なぁ、灯。あんた、怖くないのか」無意識が口を動かす。
 「どうして」先を行く灯が脚を止めて振り返る。
 ――苔鼠(シーダー)は母乳栄養で育ち、生後半年程を親と過ごす。巣立ちまでの間で体に宿す『共生体』としての苔は基本的に母親から受け継ぐ。地底環境下における平均寿命は三年から五年。是非曲直庁による飼育記録では三十年と半年であるが、その肉体的な寿命は百年程と推定されている。
 「虚しくなったりしないのか?」
 「なんで」灯が小首を傾げる。
 ――生理寿命が百年を超える事に対し、著しく低い値を示すのは、地底の環境故と言う事もあるが、それ以上に共生体の影響が大きい。
 「だって、あんたらは妖獣になっても寿命が大して伸びない稀有な連中だ。あんたの寿命だって、もうすぐじゃないの?」
 ――経時的な変化により共生体に中枢神経を侵される苔鼠(シーダー)はどれだけ長くとも三十年程で鼠としての生を終え、苗床に変貌する宿命を持つからだ。
 「それがどうかしたの?」「それが……、って。それ以上の何があるのさ。妖獣なんて所詮は生き残りたいって、誰しもが夢見る願望の発露だ。なのに、あんたらは妖獣になっても尚、苔の苗床にされる未来は変わらない。報われない『存在理由』の為に、どうしてあんたは妖獣であり続けられるんだ」
 それは、灯が来てから今日までの間。僅か二ヶ月の間に繰り返される事七度目の問答。故に、りんは次に灯が話す言葉を覚えていた。
 「スタートがおかしい。私達の『存在理由』は生存じゃない」「じゃ、何であんたはここに居るんだよ」
 「「死にたいから」」美しい倍音(ハーモニー)が石造りの壁に反響する。
 「私は自分の望む形で死にたいから。だから、力が欲しかった。『この子』以外の誰にも、体を自由にされないだけの力を」
 灯の言葉を引き継いだりんが言葉を続ける。早口気味の言葉。それは、先にある回答を一刻も早く聞きたいが為の子供のような行動だった。
 「この場所は私にとって快適。敵と闘う必要はないし、暇潰しに話をする奴が居る。ここでなら、私は私の望む形で最期を迎えられそう」
 妖獣とて不死では無い。りんの様に老いれば驚異的な再生力は失われるし、空の様に若くても頭を潰されれば再生も叶わずに死ぬ。だからこそ妖獣と言う存在は他のどんな獣よりも生きようと足掻く。
 「あんたが、そんな真面目に話すの。この時位だよね」
 故にその解釈は新鮮だった。避けられないのならば、逃避するよりも辿り着いた時の状態を考える。『合理的解釈だ』りんの中の彼であればそう答えるだろう。アドレナリンが『闘争・逃走(fight-or-flight)反応』を引き起こす事からも分かる通り。『魄』ですらも死亡の回避方法が逃走のみとは断言しない。つまり、定義されていない限りは、その範囲内において行う行動を選択するのは意志の役割と言える。
 「失礼だ。私は、いつも真面目だ。あんたより、頭も良い」「その自信はどこから来るよ」
 故にりんはその考えが好きだった。『生存』を『存在理由』としながらも、『意志』を介入させるだけの説得力となり得るからだ。本能に残された最大の虚弱性(セキュリティホール)。しかし、今のりんにとっては最大限都合が良い概念であった。
 夢のようだ。そう言えなくもない。
 怪我は未だ癒えていない。それはどうあっても覆らない事実だ。りんの本能は当然の如く自己再生機能と自己防衛機能に対し身体の修復を命じ、りん自身にも潜伏を命じている。しかし、その潜伏の方法までは命じられていない。
 故にりんは再び地霊殿への逗留を選択した。それは地霊殿に運び込まれた直後に行った物と似ていて全く異なる。以前は、空が地獄鴉として壊れている等と言うあまりに不確かな可能性に頼る博打に近い判断だ。対して今回は、正真正銘の合理的と言える。理由は単純で地霊殿はさとりによって、この上なく巧妙に隠匿されているからだ。傷が癒えるまではこれ以上の理由はあり得ない。そして、地霊殿に居る以上、死体運びを行うのは自身の本能に従った結果であり、灯や空と雑談を交わすのは周囲の情報を集める手段の一つである。少なくとも怪我が癒える迄の間は、どれだけ厄介になってもりん自身の合理性は崩れない。そう思いたかった。
 「りん、行こう。さとりが呼んでる」
 揺れる蝋燭の明かりが、目深にかぶったフードをに入り込む。半分以上が苔に覆われた顔には、薄い笑みが浮かんでいた。








 ◇◇◇


 賑やかだと、さとりは眼の前の光景を理解した。
 地底に渡ってから流れた時間はグレゴリオ暦で七年と三カ月。是非曲直庁の騒がしい事務所の光景は今や霞の向こう側にあった。六年と十ヵ月の間を空と二人で過ごしたが故に、静寂に適応した眼は多少の疲れを覚えていた。
 「『陽』、レンチ取って」
 「……ん」
 焦熱地獄炉の炉心内部へと繋がる『鎮静剤(トランキライザー)』供給パイプに跨り、ガス漏れの応急修理にあたるのは二頭の妖獣。片方は言うまでも無く『空』。地獄鴉(インフォーマ)の妖獣で最も古くからさとりの元に居る妖獣だ。
 「空、こっちのハンガ、取れかかってる、よ」
 「え、まじで? 陽が重いからだよ。全く。私が直すから、一旦降りなよ」
 「僕より、空の方が、重い。空が降りた方が、良い」
 「さとり様。胸が痛い」
 「痛む胸が無いわ。安心しなさい」
 素知らぬ顔で配管を天井から支える器具、『ハンガ』を見つめるのは『陽』。二か月前、疾鷹に襲われた二頭が閉じ込められた廃坑に潜んでいた『灰狼(コロニア)』の妖獣である。空によって名付けられた『彼』は、狼とは思えない程おとなしく、驚くほど円滑に地霊殿に溶け込んだ。
 「空、『ハンガ』の補修は陽に任せて。あなたは降りてそこの箱を調べて下さい。多分、『ガス吸着式の清浄機』です」
 「辛い……」
 「事実は事実よ。受け止めなさい」
 小さな防毒面がレンチを片手に配管をよじ登る。硝子の向こうに覗く顔立ちは第二次性徴前の中性的な特徴を相当数備えていた。より正確に言えば、彼も空と同様見た目通りの年齢である。あの日、空と火焔猫の背後に潜んでいた狼は一匹の例外も無く、親離れも済まない子供だった。
 「陽のやつ……。誰がいっつも世話してやってると……」「悪気はありませんよ」「知ってますー。だから困るんですー」
 不機嫌な様子で陽の背中に舌を出すが、篭められた心情は逆であることをさとりは察知していた。
 「『気をつけて、落ちないでね』」「わかってる、空。ありがとう」「うっさい!」
 陽は、さとりの知る空の年齢よりも更に十歳程若く、妖獣としては二ヶ月足らずしか生きてない。異常中の異常。恐らくは、『群生相』への移行が未完全でありながら、行軍への参加を余儀なくされた孤児であろうとさとりは推測している。「ん? なにこれ開かないじゃん」生存への欲求を最上級に刺激するあの異常空間を逃げ回った事が、彼を一足飛びに妖獣へと引き上げたのだろう。事実、最初に目撃をした時、彼は空と火焔猫を含めた誰よりも深い傷を負っていた。「よーいしょっと」本来なら灰狼(コロニア)はその場で殺害すべきだ。群れの為に忠実に動く彼らを放置する事は地霊殿の所在が露見するリスクを孕む。それをできなかったのは、空の存在だ。コロニーへの編入を提案する空と、強い抵抗の意志を見せる彼。その二つ要因によりさとりは彼らの保護がより合理的であると選択を行った。実際にそれは、正しかったとさとりは確信している。箱を前に『鉄の棒』を振りかぶる空の心は、陽や火焔猫の来る前に比べ明らかに上向いているからだ。
 「……所で空、手に持っているのは何ですか?」「『バール』ですさとり様。このボルト錆びちゃって開け辛いから抉じ開けようと」「あぁ、なるほど。それは仕方ない――」
 平然と雑な仕事を行う鴉の頭を目掛けて缶を投げつける。「ワケないでしょうが!!」振り返ることすらなく、後手に吸い込まれたのは有機系浸透潤滑溶剤のスプレー。吹き出る液剤と泡の音に歓声を上げる二人を確認して、さとりは平らな胸を撫で下ろした。
 「陽、あなたも使う?」「うん」
 配管を飛び降りた『陽』が缶を受け取り、石油スルホネートの作用により可溶化した赤錆表面に歓声を上げる。
 顔の前方だけを覆う防毒面からは短く切り揃えられた灰色の髪と一対の耳が覗く。耳殻の先端を包む白い毛はは綿の如き柔らかさと艶を持ち、どちらかと言えば硬い印象を与える灰の髪とは対照的だ。目前の光景に連動してぴこぴこと動くその様子は狼と言うより猫に近い。
 獣の耳。それは軟骨だけで構成された空気の振動を感知する器官。適度に柔らかく弾力を持ったそれはどんな例外も無く見る者を魅了する。性的な意味、食的な意味、愛的な意味。理由は様々であるが、それに手を伸ばしたいと言う衝動を覚えるのは自然な事だろう。
 「さとりさま。狼にとって耳は敏感な器官ですから。勝手に触らないであげて下さいね」
 「と、当然じゃないですか。な、何を言っているんですか。よ、陽も気にしなくて良いですからね」
 何時の間にか箱の内部構造調査に入っていた空が振り向きもせずに忠告する。幼い視線を感じ、恐る恐るその発信元に眼を向ける。無意識に伸びていた腕を陽がじっと見つめていた。さとりの胸を満たすのは悪戯を叱れられる子供のような何ともいえないバツの悪さ。口下手である事も災いし、どんな言葉を返したら良いのかも分からず、声にならない声で唸ることしかできなかった。
 「触りたいなら、触って、良い」
 「ほんと――? あ……、いや。その」
 反射的に漏れる素っ頓狂な声。礼を言う暇もなく陽は空の手元に視線を戻してしまった。その後頭部は、気持ちさとりに向けて差し出されている。ほんの僅かに緊張した心が第三の眼(サードアイ)を通して流れ込んできた。
 「ん……」
 指先で耳の先端に触れる。ふわりとした感触が電撃の如くさとりの脊髄を駆け抜けた。
 「あ、さとり様ばっかりズルい。陽、私も触って良いよね?」
 「んん……、あっ……」
 くるりと振り返った空が陽の正面から耳をむんずと掴む。負けじとさとりも、耳たぶを指で挟み込む。前後から挟み込む様な指は容赦なく陽の耳を弄んだ。マスク越しにでも明瞭に伝わる息遣いは、荒く甘い物に変貌していた。
 「あふ……、ふぁっ……」
 「これは中々。おりんのよりちょっと硬いけど、弾力はむしろ陽の方が……」
 「これよりも柔らかいんですか? それはそれで……、興味深いですね」
 耳たぶの肉を指の腹で押しつぶし、つめ先でつるんと弾く。薄い皮膚の下を流れる欠陥に指を這わせ熱と脈を感じる。触れる度にぴくぴくと動く耳のいじらしさに、さとりはいつしか時間を忘れていた。
 「おーい。それ、止めてやれ。お前らが思うよりずっとくすぐったいから」「さとり、『少年愛』は不毛」
 呆れたようなりんの声でようやく我に返る。視線の先、ぐったりとした様子の陽が、空の胸に抱きかかえられていた。火焔猫と灯の視線が背中に突き刺さる。
 「あららー。こりゃ暫く使い物にならないや。さとり様、陽を休ませて来るので休憩貰いますね」
 「あ、はい……」
 少年の細い指がうなされるように空の胸を鷲掴む。未熟な膨らみが形を歪め、つんと突起が浮かび上がった。『射乳反射』、乳頭刺激による下垂体後葉からのオキシトシン放出が空の母性を呼び起こしていた。母乳栄養で育つ狼であるからこその行動だろう。そこからは一切の性的感情が感知されない。嫌な顔一つ浮かべずに胸への刺激を受け入れる空の横顔は、これまでに無い程慈しみに溢れていた。
 「あの子が母に? いやいやそんな……」
 「うん? 空が陽に取られて寂しいの?」
 「あら、りん。それに灯。遅かったわね。お楽しみでしたか?」
 「どっかの誰かのせいでね。まぁ、そのおかげで面白いものも見れたし、別に良いけどさ」
 出力波長を可視光に設定し、照明としていた第三の眼(サードアイ)の走査光が読心用に切り替わる。間も無くして、さとりの網膜に可視化された『陽に対する不快感』が投影された。
 「……やけに絡んできますね。貴女こそ、陽に嫉妬心がめらめらじゃないですか」
 「んなっ……」
 「ふふ、第三の眼(サードアイ)を外しているからと油断しましたね。残念ながら『これ』は、読心に関してのみ半自律稼働なのですよ」
 拗ねたようにりんがそっぽを向いていしまう。りんの感情に好意のような物が散見され始めたのは、それ程昔の話ではない。断片的で混在した記憶からさとりが推測する原因は、疾鷹の襲撃事件であった。
 「因みに、先ほどの問の答えですが。『寂しいに決まってます』。空は今の私にとって一番大切ですから」
 『吊り橋理論』外界の書籍でそう定義される心理効果が、りんに対し不合理な感情を植え付けている。全くの偶然により生まれた感情ではあったが、少なくともさとりにとっては好都合である。火焔猫と言う極めて利用価値の高い生物を引き止める口実が増えるからだ。
 「りん、寂しいなら私に言ってくれれば好きなだけ」「うっせ、色情魔」「冷たい、年寄り同士仲良くしよう」「うっせー!」
 苔鼠(シーダー)の灯。彼女もまた大きな利用価値がある。共生体との感応能力と、黒体放射を利用した『暗視能力(サーモグラフィー)』は碌に照明も無く『反響定位(エコロケーション)』に頼らざるを得ない焦熱地獄炉内部において無類の力を発揮する。実際、灯の協力は僵尸(きょうし)の発見速度を飛躍的に向上させた。
 「あー、『灯』。ちょっと良いですか?」「うん?」「『広域探索』変わってもらって良いですか? 私も作業に加わろうかと」「やー、任された」
 灯がりんに絡めた触手を解き、代わりに地面、壁、天井の三箇所を掴む。時を置かず射出されたのは『種(シード)』。地面を這い、天井を這い、壁の隙間に入り込んで分裂を繰り返す苔は、瞬く間に四方八方へと広がっていった。
 「うげ……、キモ」「りん、それはね。貴女がこの子を持っていないから。ほら、りんを思ってこの子が出した種。受け取って」「断固として断る」
 『種(スペルム)』。灯の共生体は雌雄同体であるが、どちらかと言えば男性型の思考を保持する『植物妖』である。
 「りんー。この子が傷つく。もっと優しくしてあげて欲しい」
 「あたいだって、あんたにもう少し優しくして欲しいよ……」
 灯はまるで当然の様に苔との対話を実現する。しかし、その特殊な能力も元を正せばありふれた力であると、さとりは知っていた――当然、灯が来るまでは見た事が無かった――。『拡張認識(オーグメンテッド・コグネイション)』。身体などの認識を一時的に移動し、探索や移動を円滑に行う力。多くの生物が持つ『触角』もこの力を利用した物にあたる。体外にはみ出た物体に、意識や視点を移動させる事で、生物は古来より運動能力の底上げを行ってきた。ヒゲや『触角』で拡張できるのは『触覚』のみであるが、苔鼠(シーダー)はこれを究極と言えるレベルにまで発展させている。つまりは、苔との『五感共有』だ。
 「範囲は」
 「このフロア……、『G2』全域。行けるかしら?」
 「多分」
 『植物妖』は一般に『意志』を持たないと言われる。しかし、それは情報伝達(コミュニケーション)の手段を持たないが故の誤解であり、実際には妖精や、より高次の人型を持った植物系妖怪の口を借りる事で情報伝達(コミュニケーション)が可能である。『意志』があるのなら、そこには必ず『活動電位(スパイク)』が発生しているからだ。
 『活動電位(スパイク)』とは『膜電位(メンブレンポテンシャル)』の一時的な変化だ。細胞膜内外で発生する電位はそのイオン濃度の違いに依存する。このイオン濃度は膜表面に存在するポンプやチャネルによる輸送によって発生しているが、刺激を切っ掛けとしてイオンチャネルが解放され、濃度勾配に従った急速なイオン流入、つまり電位の変化を生む。苔鼠(シーダー)はこの電位変化が与える『電場』の変化を『電磁波』として光受容器で感知する事ができる。つまり、『異常発達した視覚及び、視覚野』が苔鼠(シーダー)の本質的な能力と言える。
 「さとり、結構周りによってきてる。ちゃんと見てた?」
 「知っていましたけど、私の力じゃ、なんとなくこっちに来る気を削ぐ位しかできませんから」
 「なら追い返す」
 「どうぞ。後、『視界』をお借りしますが、よろしいですね」
 『五感共有』は感知された光子情報が視覚野で処理される事で実現する。脳の各所に分配された情報は再解析され、灯の中で苔と同じ情報が再生される。共有した視野、共有した嗅覚。触手を介し、自らの情報も同様に『活動電位(スパイク)』として送信することで双方向的な情報伝達(コミュニケーション)を行った灯は、苔に対し指令を発した。
 脈動を始める苔を見て、さとりは灯との視界共有を開始する。原理としては灯と変わらない。しかし、苔を介さない分、距離と消費妖力の面では差があった。視覚野に流れ込む雑多な情報郡。取捨選択と解析を行い、左の網膜にのみ投影を行う。灯の視界の向こう側では、正に苔が僵尸に向けて攻撃を開始する処だった。
 白黒の視界。深淵にも関わらず明瞭に確保された視野の中央、哀れな僵尸が七体程立ち尽くしていた。部屋中に広がる苔達が一斉に『造精器』を成形し僵尸に向ける。灯の号令で一斉に発射された『種』は僵尸の全身を瞬く間に覆い尽くした。吸着した『種』が体表面の垢を栄養源に急速成長を遂げる。ある者は成長する苔に驚き、ある者は地面に張り付く脚を嫌い、軒並み踵を返しどこかへと去っていった。
 「灯、いつも思うけど良く眼が回らないわね」
 「慣れている。私の視覚認識は、この子との共有が前提。節約のために色は切ってあるけど」
 色を取り戻した視界に安堵しながら、さとりは灯に眼を向ける。灯は光が持つ色情報を切り捨てる代わり、可視光域外の光を探知する処理力を確保している。そして、彼女の『暗視能力(サーモグラフィー)』はその副産物だ。
 電磁波をも捕らえる『瞳』とそれを処理する『視覚野』。そして、苔との『五感共有』この三つを連携させる事で可能となる、『超遠距離対応暗視索敵機関』は、焦熱地獄炉探索におけるさとりを探索の役から完全に解放した。
 「いつもすみませんね。それではここはお任せします。私はちょっと、この部屋の『端末』を調べなければなりません」
 「あいや」
 各部屋に必ず一つは存在する『情報端末』。朽ちた木箱の積まれた元資材倉庫らしき部屋の中を、さとりはぐるりと見渡した。


 賑やかだと、さとりは眼の前の光景を理解した。
 この光景に辿り着くために掛かった時間はグレゴリオ暦で七年と二カ月。これは自身――つまりは、さとり――を中心とした『群れ(コロニー)』と呼ぶ事ができるだろう。しかし、『群れ(コロニー)』とは本来、食糧や伝染病等と言ったリスクを対価として、天敵や繁殖確率の向上と言った生存上の利益を得る目的で形成される。ならば、現在の地霊殿(コロニー)から得られる『利益(プロフィット)』とは何だろうか。防毒面が邪魔をして、霞む眼をこすれないもどかしさを覚えながら、さとりは考える。
 「なるほど、それはとても残念です」
 是非曲直庁の騒がしい事務所の光景は今や霞の向こう側にあった。六年と十ヵ月の間を空と二人で過ごしたが故に、静寂に適応した眼は多少の疲れを覚えていた。
 「何言ってんだ、あんた」
 灰狼(コロニア)の子供とじゃれていたりんが、狼に押し倒された状態で瞳だけをさとりに向ける。その耳元を狼がぺろりと舐めた。
 「第三の眼(サードアイ)が半自律稼働である事にこれ程の憎しみを抱いたのは久しぶりですよ。だって、これだけ沢山獣達が居るのに、誰一人、誰一人としてですよ? 私を愛して下さらない。まったく。焼き餅を焼くのは貴女達の仕事だと思っていたのに……」「いや、仕事しろよ」「だって動かないんですもん、この端末」
 賑やかになった。しかし、これ程の賑やかさであると言うのにさとりが求める『利益(プロフィット)』、つまり『愛』は殆ど集まっていない。
 「当たり前だろ。群れ(コロニー)ってのはそう言う物だから。別にアルファを尊敬しているから。アルファが親だから付いて行っている訳じゃない。その方が得だから属するんだ。なー?」お返しとばかりにりんに組み伏せられた狼がみゃーと猫の如き甘い声を出す。
 「そうですね……。空ですら、愛しているのは私その物ではない」
 りんの言葉には覚えがある。それは、とある個体群の経時観察を元に執筆された動物の習性に関する学術書。陳述記憶との照合結果、ほぼ完全な形で合致する一節がピックアップされた。
 「あ……、やっぱりそうなんだね」
 思索を中断し、画像処理にリソースを充てる。視界中央では真面目な顔をしたりんが、狼の尻尾に叩かれていた。
 「いや、分かってはいたんだけど疑問はあった。普段のあいつを見ていると、あんたを愛している様にしか見えなくて……」
 その一節が空とさとりの関係にも適用できる事は、幾つかの他の文献からも予測できた。ただ、経験を伴っていなかったが故に、さとりは自身の行動レベルまでその知見をフィードバックする事ができなかった。
 「空が私を愛して下さっているのは事実です。ですが、あくまでもそれは一部分に過ぎません。私が求めている事と、空の愛が向けられる対象は微妙に……、それでいて決定的にズレてしまっているのですよ」
 つまり、この結果はさとり自身も知っていた。だから、さとりが理解したのは、知っている事と理解している事の間に存在する壁の大きさについてのみである。
 悲しい。哀に分類される情動認識が脳に広まると同時、急速に胸のしこりが膨れ上がって行った。
 「はぁ……、まぁどうでも良いけどさ」
 「火焔猫さん。慰めて下さりませんか?」
 「――あ、『狼そり』が一杯だ。ちょっと様子を見てくるわ。さとり妖怪。道案内(ナビゲーション)をよろしく」
 「辛い……」
 表出した情動刺激をさとりの大脳が認識する。どくり、と音を立てる心臓が追い立てるように情動の刺激を強めていった。『正帰還回路(ポジティブフィードバックループ)』。情動の表出により、情動の認識が強まり、更に情動の表出が強まる。胸の痛みが加速度的に全身に広がった後、無秩序な浮遊感。発生したのは脳関門への血流量低下――いわゆる、深刻な立ち眩み――。三半規管の機能停止が上下感覚を狂わせていた。
 煩わしい身体の不調に、さとりは舌を打つ。ありとあらゆる体内器官が形だけの存在である妖怪にも関わらず、体内器官の影響を受ける等、不合理も良い所であるからだ。働かないのは聴覚、嗅覚、視覚。中枢神経系を持つ生命体が抱える虚弱性に辟易をしていると、霞の向こうからかけられる声があった。
 「どうした? さとり妖怪」
 かすむ視界の向こう側、火焔猫が気遣うような視線を向けている。
 「か、火焔猫さ――」
 「早く道案内(ナビゲーション)を飛ばしてやってくれない? 灰狼(コロニア)達が道にでも迷ったら面倒だから。主に陽が泣いて空が不機嫌になる」
 甲高い言葉が、さとりの思考を真っ二つに断ち切る。コンマ七秒で修復された後の思考は、全てがリセットされた真っ更な初期状態だった。
 「……あー。そうですよね。分かっていましたよ……。あー、うん。道案内(ナビゲーション)の式ですよね。はいはい、今飛ばしますよ。私は皆さんにとって便利屋さん(ユーティリティツール)ですからね……」
 失望半分、安心半分。虚無感と同時に消え去った体調の異変に、さとりは胸を撫で下ろす。正常な生命であれば、ループした増幅系には必ず対となる負の制御因子が組み込まれ、厳格に制御されている。しかし、さとりは妖怪である。解剖学的な知見の集積していない彼女の肉体にそのような物が正常に含まれている保証は何一つない。
 りんと狼の後方、そこにあるのは背の低い『猫車』が二台。一台には僵尸の死体が、もう一台には瓦礫が満載され、その前方には九頭の灰狼(コロニア)が好き勝手に遊び回っていた。
 『狼そり』、さとりが考案し、空やりんが呼ぶそれは、猫車を改造した背の低いそりで、各五頭の二チームで運用する。灰狼(コロニア)の子達は小柄故に馬とまでは行かないが、数百キロにも及ぶ瓦礫や死体を運ぶ貴重な労働力となっていた。
 猫車へ簡易式神付加(インスタント・システムロード)を行う。機能は最低限。複雑な焦熱地獄炉内部に構築した安全なルートを示す道案内(ナビゲーション)のみ。その他必要な機能は外に求めるからこそ可能になる、簡単な式だった。付加の完了と同時、『狼そり』がゆっくりと走り出す。「あたいは一応、護衛で着いて行くよ。後よろしく」りんも並走する。その背中が木箱の影に隠れるまで、そう長い時間は掛からなかった。
 「はぁ……」
 「さとり、そう、気を落とすな。頼られている。そう考えれば悪くない」物陰の向こう側から、灯の声が届く。
 「ありがとう。灯。でも、お願いだから、無言で『種』を植え付けようとするのは辞めていただけますか」
 「あ。ごめん忘れてた」木箱の隙間を縫って背後に迫っていた一本の触手を妖弾で撃ち落とす。ぼすり、と間抜けな音を立てて引っ込んでいった触手は何事もなかったのように灯の元へと戻った。
 「ほら、貴女も急いであの子たちを、見守ってやって下さい。遠隔操作で僵尸に干渉できるのは貴女だけですから」
 「任された」
 凛々しくも呑気な返事に思わず溜め息が漏れる。会話の終了を悟ったさとりの手元に現れるのは圧倒的な現実。そ先ほどまでと何一つ変わらない、『物言わぬ端末』であった。
 焦熱地獄炉内部に点在する『端末』。かつては作業員の連絡や、作業記録に用いられていたそれは、区画によりアクセス権限が大きく異なる。古ぼけた端末の横側に貼られたエンブレムには『G2』と刻印が施されていた。意味するのは一枚目の隔壁内部であること。主に作業員の休憩や物資の保管に使われるここに存在する端末は、精々アクセスできて一般作業員用のデータベースまでだ。さとりの目的である『管制機能(コントロールシステム)へのアクセス』も、隔壁の開放も不可能である可能性が高い。
 「地図だけでも手に入れば、と思ったのですが」
 「隔壁まで三百メートルの案内見つけてから、結構経ってますもんね。脇道が多すぎて」部屋の端で陽に膝枕をする空が、さとりに声を掛ける。
 今現在さとりが居る部屋もそんな脇道の一つである。僵尸が大量に潜み危険であることから制圧を行ったが、案の定大した収穫は無かった。この『端末』はそんな数少ない収穫の一つとなる筈だった。しかし、動かなければ我楽苦多と何ら変わりない。
 「空、陽はまだ使い物にならないかしら。そろそろ前に進もうと思うのですけど」
 これ以上の探索に意味は無い。そう判断したさとりは、移動を提案する。しかし、空の反応は今一つ芳(かんば)しい物ではなかった。
 「無茶言わないで下さいよ。まだ暫くは休ませてあげないと」
 「だい、じょうぶ。『情報網(ウェブ)』は、動かしてる」
 空の太腿に頭を載せる陽が、僅かに首を上げてさとりを見る。まだ意識がはっきりしないのか、その顔は何処か呆けているように見えた。
 「あ、こら。無理しないの。寝てなさい」
 「ふぎゅ」
 首根を抑えられた陽が、吸い込まれるように空の太腿に収まる。「大丈夫、だから」「ほんとに?」太腿に後頭部を埋め仰向けになった陽と、上から覗き込む空。間には防毒面があるものの、息遣いを感じるほどの距離で見つめ合う二人にさとりは寂しさを感じずに居られなかった。
 「う、空。僕、大丈夫だから、ちょっと、息が上がっただけだから、だから……」
 「本当に? さとり様に頭弄られたんだよ? 大事を取って休んでおかないと、大変なことに――」
 形成するのは妖力の弾丸。直径九ミリの弾丸後方に練りに練った妖力を十ミリリットル。濃縮率三倍。それを弾丸後方の密閉空間で気化させ限界まで圧縮。圧力が高まりきったことを確認し狙いを付ける。
 「――う、空。ま、前」
 対象は『霊烏路空』。罪状は『名誉毀損』。弾頭を丸め先端を液晶化したのは最期の情けに他ならない。さとりはそれ以外に一切の躊躇を挟まず、頭頂部目掛けて引き金を引いた。
 「ふぇ――? ふぎゃ」
 じり、と。網膜に仮想投影した情報網(ウェブ)監視映像に、灰色のノイズが走る。同時、現実の網膜は大の字に倒れた鴉を覗きこむ、陽の姿を映した。
 「大丈夫よ、陽。その子。体の頑丈さが取り柄な所あるから」「そ、そうなんですか……?」「そうそう。でも、貴方はまだ少し休んだ方が良さそうね。『生体情報網(バイオメトリックデータネット)』の管制役。一時的に代わりますね」「あ、……はい」
 面をずらし、素直に額を差し出す陽にさとりは少しどきりとする。その頭から覗く耳や、絹のように美しい銀髪を極力意識する事を避け、さとりは権限を受け取った。
 『生体情報網(バイオメトリックデータネット)』は、『灰狼(コロニア)』の能力を応用してさとりが作り上げた、『便利な道具(ユーティリティツール)』の一つである。
 『灰狼(コロニア)』の持つ最大の特徴は常規を逸した連携だ。彼らは一つの意志の元に制御される個体と全く同様に、群体として行動する事ができる。それを可能にするのは異常発達した情報伝達(コミュニケーション)能力だ。その本質は、生命が最も早く獲得した感覚、化学感覚――嗅覚、味覚――に由来する。
 『化学物質(フェロモン)』。匂い信号に基づく情報伝達(コミュニケーション)手段の一つであり、リリーサー・フェロモンとプライマー・フェロモンを使い分ける事で中枢神経系に長期的、短期的な影響を与える事ができる。それは非常に高い伝達効果を持つ一方で、応答速度と安定性の面においてデメリットを持つ。特に『灰狼(コロニア)』にとって大きな問題となったのは後者の『安定性』である。
 脊椎動物における『化学物質(フェロモン)』はその多くがタンパクにより構成されている。その内に含まれるアミノ酸、及び高次構造を形成する結合の割合により耐熱温度は変化するが、その多くは五十度前後に変性点を持つ。高温もしくは高圧条件下に置かれたタンパクはたちまちにランダムコイル構造――二次構造以上が破壊された、直鎖様の構造――を取り特有の立体構造は失われる。これは、化学物質(フェロモン)を用いる上では致命的な事態である。なぜなら、化学物質(フェロモン)とは受容体ニューロンと特定的な結合を行う事で『中枢神経系に作用』するからである。特異的な結合に必要な立体構造を失った化学物質(フェロモン)は最早何の生理活性も持たない。
 地上において熱安定性が『化学物質(フェロモン)』を用いた情報伝達(コミュニケーション)の問題となる事は少ない。それは当然であり、平均気温十四度、一気圧の世界は一部の特殊な環境を除けば自然条件下でタンパクの熱変性が直ちに起こる可能性はほぼ無視できる。しかし、ここは地底である。リソスフェアとアセノスフェアの中間に位置し、平均気温千五百度を誇る地底世界では、化学物質(フェロモン)が受け取る熱エネルギーを原因とした立体構造の喪失を無視できない。灰狼(コロニア)はこのような問題に対し、化学物質(フェロモン)の代替品を使用する事で解決を図った。
 化学物質(フェロモン)がもたらす情報伝達(コミュニケーション)の本質は『中枢神経系への作用』である。つまり、熱と圧力による影響を無視できる媒体を採用し『中枢神経系へ作用(アクセス)』できるのであれば媒体が化学物質である必要はない。それを可能にしたのが、『電場』を介した『生体情報網(バイオメトリックデータネット)』の構築だった。
 脳における情報処理の基本単位。つまり、『活動電位(スパイク)』は究極的に言えばナトリウム・カリウム、そして塩化物イオン等の濃度勾配により作りだされた電位差が、刺激を切っ掛けとするチャネル解放により受動拡散する事で発生する。これは、発生した膜内外における電位変化が、新たな刺激となって次の反応を起こす連鎖的な反応である。無数の活動電位(スパイク)が連なる連鎖的伝達(カスケード)の結果、増幅された情報が個体レベルの行動もしくは情動認識として表出する。
 つまり、灰狼(コロニア)が行っているのは、活動電位(スパイク)の直接操作である。膨れ上がった頚部に格納された機能細胞『発電板』を用いて、特定の活動電位(スパイク)を電場の形で出力。受信する事によって行動の同期(シンクロナイズ)を行う。規定されたプログラムに従う活動電位(スパイク)送信は、至近の個体間における脳波同調(ハーモナイズ)を引き起し、更にその個体が電場を発生させ次の個体へと共有する。結果として生まれる並列的(パラレル)なネットワークが、群れ(コロニー)を群体(コロニー)へと昇華する主役であり、彼らの構築する『生体情報網(バイオメトリックデータネット)』の正体である。
 火焔猫と空が重傷を負うきっかけとなった、あの『暴風』は、『生体情報網(バイオメトリックデータネット)』が演算した最も効率的な現象であったと言える。
 「ふむ。視覚、嗅覚共有に問題なし。音声共有も可能。式の転送も問題なし……、と」
 管理役と言っても特段何かやる事がある訳ではない。ただ、送受信データを監視し、ノイズが混じっていれば修正、ないしは削除するだけである。
 「陽。ありがとう。暫くは私が管制役を務めますから、まだ休んでいて下さい。それと空、何時まで寝てるつもりですか?」
 「さ、さとり様……、それは流石に酷いです……」
 さとりが行っているのは、灰狼(コロニア)の持つ『生体情報網(バイオメトリックデータネット)』から本能を排除する事であり、純粋な手段への昇華である。『陽』を中心とし、『狼そり』に加わっていない四の個体を用いて構築するそれは、遠距離で作業する空やりんへの情報支援に掛かるコストを徹底的に削除する事に成功した。
 『灯』による、広域探索の代替。
 『陽』による、情報伝達の代替。
 飛躍的な人的資源(ヒューマンリソース)の削減は、さとり自身に余裕を生む。その余裕によって初めて、さとりは施設内設備のより詳細な調査に成功した。
 「引っ付き過ぎなのよ。仕事中は自重しなさい」
 「い。良いじゃないですか……、ちょっと位」
 「良いワケありますか。全く……。『浄化装置』調査の続きをお願い。私は端末の復旧をもう一度試してみるわ」
 「はーい。陽、眠かったら寝てて良いからね」
 「……うん」
 近距離で微笑み合う二人を無視して、さとりは端末に眼を戻す。乾いた血液の張り付いたボタンを押すと特有の重低音と共に、ぼやけた光が灯った。そのまま待つこと五分。高周波に辟易した頃になっても、画面には何の表示もされていなかった。
 「映像端末(VDT)はまだ生きてる、って言ってもねぇ……。まだ試していない復旧方法は……、何かあったかしら……」
 追憶する無数の書籍。作業記憶(ワーキングメモリ)一杯まで書を並べ、付箋を付けては捨てて行く。主に外の世界の本に対象をあてて検索したものの、電子機器の情報はそもそも絶対数が少ない。黙考すること十分。見つかったのは何れも、成功率の低い修理法。つまり、本体基板を取り出す分解修理を提案している。しかし、その実行には細かな技術が必要であり、経験が伴わないさとりに実行は難しい。
 「うーん。どうした物かしら……」
 「やっぱり動かないんですか?」
 「ええ。そっちはどうかしら」
 「駄目ですね。『ガス吸着式清浄機』なのは間違いないですけど、内部のフィルターが完全にやられています。『再生処理』をしない限り使い物にならないですよ、これ」
 「そう、まぁ。それが分かっただけでも良しとしましょう。各部屋にある『それ』が動かないとなると、『鎮静剤(トランキライザー)』の強制排出を行った後も暫くは立ち入らない方が懸命でしょうから」
 「はーい。それで、さとり様はお手伝い必要ありませんか?」
 「そうね……、あ。ダメ元で『あれ』試してみましょうか?」
 「『あれ』ですか? 別に良いですけどー。壊しても怒らないで下さいね」
 「構いませんよ。今現在進行形で壊れていますから」
 ぐるぐると腕を回す空が端末に近づいてくる。さとりは、同様の手法を用いて、過去に三十台中五台の再起動に成功している。確率にして一割と六分強。ダメ元の賭けとしては悪く無い値と言える。「いきますよ。眼、気をつけて下さい」空の胸の丘陵(フラットトップ)が僅かに膨らみ、腕部への血流量上昇を感知する。細い息が止まる次の刹那。雷の如く落ちた拳は、ブラウン管の天板を正確に捉えた。
 「やったか?!」
 「さとり様……、好きですね。そう言うの」
 外の世界で最近生まれた概念。『定型化された行動パターン』とでも呼ぶべきそれはさとりとって興味深い物だった。他者の心理と寄り添って生きるさとりにとって、行動及び心理パターンを『解析』する事は、そのまま身の安全に繋がる。
 「感情追跡(トレース)ですよ。経験に勝るものは無し、ですから」
 「はぁ、さいですか」
 呆れ顔の空の背後で突如として沈黙を守っていた『端末』が、ブラウン管以外の動作音を排出する。ブオンと内部から届く回転音は冷却装置(ファン)による物。ビープ音と同時に明滅した画面には、間も無くして基本管制ソフト(オペレーティングシステム)の選択が表示された。
 「おぉ、動きましたね」
 「ほんとだ。それで、どれ選ぶんですっけ? 『えむいー』とか言うのでしたっけ」
 「ええ。作業員用のデータベースはそちらでアクセスできた筈。もう片方は多分メンテナンス用ね」
 さとりは是非曲直庁での業務経験があるために、『端末』の操作自体に不安はない。大昔の記憶を頼りに操作を進めると容易に、操作画面へと辿り着くことができた。
 真っ先に行うのは、汎用大型コンピューター(メインフレーム)へのアクセス。端末の属する内部ネットワークからアプローチを行うも、帰ってくるのは警告表示(エラーメッセージ)のみであった。「はぁ、やっぱり駄目ねぇ……。ここじゃ、『グレード』が低すぎる」「さ、さとり様。何やっているかさっぱり分からないです」「あぁ、うん。分かったら大分怖いわ」他にも幾つかの操作を試すも殆どのアプリケーションにはロックが掛けられている。さとりは仕方なしに分相応なフォルダを探る事にした。
 「これなら分かりますよ。地図を探せば良いんですよね」
 「そうよ。私も見落とすかもしれないから、何か気になった事があったら言ってちょうだい」
 主に文書(ドック)ファイルが格納されたフォルダを開き一覧表示させる。ずらりと並ぶフォルダの中。蟻の巣のように入り組んだそれらの内、目ぼしいと思しき物を虱潰しに開いていった。
 「『資材移動記録_0582』、『作業進捗報告共有_0633』、うーん。関係ないわよね。あっ……、『極東支部監査用』。……これかしら?」
 「あ、さとり様。これ、『新しいフォルダ(2)』とかって、いきなり場違いな感じで怪しくありませんか?」
 「空、そういう物は見なかった事にするのが優しさなのですよ。あ。ほら、私達にとっての価値はこちらが上の様ですよ」
 『極東支部監査用』とだけ書かれたフォルダの奥。そこには無数の雑多なファイルと共に、『見取り図(4)』とだけ書かれたファイルある。十秒程の遅延後に描画された物は、さとりの予想と完全に合致していた。
 「ビンゴ。ですね」
 「やりましたね。さとり様。えーっと、……私達が居るのは『G2』の廃材置き場って事で良いですか?」
 「ええ。だから、二番隔壁への道は……、おや思ったより近い。部屋を出て二百メートル先のT字路を左ですか。場所も十分広いし。これはチャンスかもしれませんね」
 ホコリだらけのブラウン管をさとりが指でなぞる。白い軌跡は、目と鼻の先にある隔壁へのルートを示していた。
 「じゃ、『行ってきます』。お留守番はよろしく」
 「あぁ、はい。お気をつけて――、へ?」
 素っ頓狂な声を上げて固まる空を放置し、さとりはさっさと部屋の出口に向かう。三歩分の時を置いて、猛烈な勢いで鴉の気配が接近した。
 「ちょっとちょっと、さとり様? お一人で行かれるつもりですか?」
 「ええそうよ。久しぶりに運動でもしようかと。あ、でもその前に、陽に管制権限を返しておかないとね」
 さとりの言葉に嘘はない。実際問題、索敵や情報共有にリソースを奪われない状態での力を試す必要があると、さとりは感じていた。そして、その為には空の同伴を避けなければならない。空が近くにいればさとり一人に戦闘を任せる等、絶対に許さないからだ。
 「そんな、陽はまだ休ませとかないと」
 「うん、僕? もう大丈夫だよ」
 いつの間にか木箱の一つに座り、退屈げに脚を揺らしていた陽がこちらを見る。さとりが、極力さり気なく――少なくとも当人はそう信じている――送るのはガラス越しの目配せ(アイコンタクト)。数秒後、さとりの元に揺れる灰色の尻尾が駆け寄って来る。差し出されたおでこにさとりが掌を当てると、管制権限が陽へと移動した。視界の端に張り付いた仮想ディスプレイがフェードアウトする。「ありがとう、空をよろしくね」「うん」僅かに軽くなった体を確認し、さとりは再び歩き出した。
 「ちょちょちょ、さとり様。何で私が陽によろしくされるんです?!」
 「よろしくされるは冗談よ。でも、陽は一人にできないじゃないですか。だから、空は陽の面倒を見といてあげなさい。灯に動かれると困るし、『狼そり』の子らを守る戦力も残さないと、ですしね」
 「だ、だったら一度戻って――」
 廊下にまで着いてこようとする空の胸中は、純粋な不安に満ち溢れている。陽と言う餌に釣られなかった事は、さとりの自尊心を少しだけ回復させたが、着いて来られる事が不都合である事実に変わりは無かった。
 「だからつまり。私がそうしないと言う事は、そこまでする必要がない程度だと言う事なのよ。空、分かるかしら?」
 「分かりません。だけどいやです、さとりさま……」
 「もう、強情ねぇ……」
 空の防毒面が白く曇る。弱々しい声とは対照的に、その小さく白い手はさとりのスカートを握って離さなかった。
 困った。さとりは心の中でため息を吐く。今の空は本能の指令を忠実に守って行動している。今ここで、幾ら言葉を並べた所で意志を曲げる事は無いだろう。かと言って、無理矢理に叱り付ければ、空との関係が破綻しかねない。何故ならこれは、空の『主観的』にこの上なく正しい行動だからである。
 「あー。疲れった、と。まさか僵尸の群れに出くわすなんてなぁ……。あっ、灯。さっきは助かったよ」
 丁度その時。廊下の向こうからぞろぞろと灰狼を引き連れた火焔猫が現れる。最後の好機(ラストチャンス)。そう判断したさとりは、無言で火焔猫を引っ掴み、隔壁へと繋がる廊下に脚を向けた。
 「ふぇ? ――って。おい、ちょっと――!!」
 「空。火焔猫さんを護衛に連れて行くわ。これで安心でしょう。皆、私達は隔壁を開けに行くから、ここで待ってなさい。大丈夫。空お姉ちゃんが守ってくれるから」
 「さ、さとり様?」
 返事を待たずに、早足で闇に飛び込む。伝わって来る戸惑いの心にさとりは胸の中で『ごめんなさい』と呟く。しかし、これは長期的に見た場合の『合理的』な選択であり、自身の実力を知らずに先へ進み続けることはあまりに危険だと判断したた故である。そう自分自身に言い聞かせながら、さとりは早足に隔壁へ向かう。心の中で行う謝罪が、空に伝わらないと気がついたのは、数時間後の事だった。






 ◇◇◇


 「火焔猫さん。無理矢理に連れてきてすみませんでした」
 「いいや、構わないよ。見ているだけで良いのなら、別に断る程の理由も無いしね」
 『生体情報網(バイオメトリックデータネット)』により共有された『暗視能力(サーモグラフィ)』が、りんに種の限界を超えた視界をもたらす。暗い廊下はその突き当りまで見通すことができた。りんがさとりに拉致されてから三分。隔壁が近づく度、濃厚な僵尸の気配が大気を満たして行った。
 「そう言って貰えると助かります。こう、私の事を思って頂けるのはありがたいのですが、」
 「普段のあんたを見てりゃ、そう思うよ。正直、あたいから見る限りあんたは相当『弱い』部類に入ってしまう。勿論、あたいらの基準でだけど」
 「そうですね。あなた達の基準なら、そうなるでしょう」
 「あぁ。まぁ、あんたの妖力量が半端無いのは知っているし。妖怪なんてどいつもこいつも『特殊能力特化』の奴ばっかりだ。単純な『身体能力』で測れないのは理解しているよ」
 「それだけに、知識に頼った予測では私が持つ『危機対処能力』を判断できない。皆を危険に晒さない為にも、一度こんな事をする必要がありました」
 「だけど、安心して良いよ。私は空と違って、あんたが死に掛かっても助けに入ったりしないから」
 「ええ。それで構いません。そう言うお話です」
 何処までも続くかに見えた細長い廊下も終わりが見える。突き当りに存在するのは大きな広間。ロータリー型に白線の引かれた床の先に佇むのは大きく『G2』の刻印が刻まれた鉄の門。厳重な封印が施された、『隔壁』の前には大量の僵尸がたむろしていた。
 思わずりんの脚が止まる。当然の反応だった。勝てる筈が無い。同時、逃げるのは容易。ならばさっさと逃げようと判断するのは簡単すぎる行為だ。しかし、さとりは全く躊躇せずに広間へと脚を踏み入れた。足音に僵尸が反応する。そんな動きを気にもとめず、さとりは深呼吸でもする様にすぅと息を吸った。
 「さて、火焔猫さん。『実験』において大切なのは、『目的』、『計画』、そして『客観性』です」
 振り返りもせずにさとりが言葉を紡ぐ。歌う様に、全ての関係者に情報を共有する様に。声に反応した僵尸が、さとりに向けてゆっくり動き始めていた。
 「目的は今後僵尸の領域を調査するに当たり、適切な戦力を過不足無く送り込むため。計画は実際に焦熱地獄炉内部にて一定数の僵尸を用い、『被験者・古明地さとり』の対応を観測する。客観性を保つためこの結果は『火焔猫』の一個体により記録されます」
 舞うようにくるりと広間を見渡し、さとりはりんに目配せをする。それは、ぞっとする程冷たい光を宿していた。
 「そう言う訳で火焔猫さん。私は今から、この場に居る僵尸全二十五体を五分以内に全て殺害せしめようと思います。大丈夫ですよ、傷一つ負わずに終わらせてみせますから。まぁ、見ていて下さい」
 「お、おう」
 「でも、実はですね。私この実験が終わったら空に謝りに行こうと思うんです。もし、私の口が聞けなくなったら、お伝え願えますか? 『愛しています』と」
 「お、おう」
 「もし良ければ。パインサラダでも――」
 「うっせーんだよ!! 早く行け!!」
 「了解です。火焔猫さん」
 にこり、と。不器用な笑みがりんに向けられる。全身を駆け抜ける寒気が丁度一周し終わった時、さとり妖怪に躍りかかる一体の僵尸が視界に入った。
 肉体の自損を考慮しない筋収縮が、僵尸の腕から血管を飛び出させる。むき出しの筋肉は開放された血管系から受け取った酸素を全て無視してグリコーゲン分解に注力する。発生した化学エネルギーは限界に近い効率で運動エネルギーに変換されていった。零コンマ五秒後。体性神経の限界に近い速度で丸太の如き腕が振り下ろされる。
 「なる程。貴方はそうやって腕に体重を載せているのですね」
 紅い雫が宙に浮かぶ。その鏡面が映し出したのは、上と下が反転した巨体と、不自然な体勢で腕を掴むさとりの姿。勢いもそのままに巨体が地面に墜落する。鈍い水音と共に、頭蓋からピンク色の肉片が飛び出る。首元から白い頚椎が覗く僵尸は無随意運動でビクリと数度のたうち回った後、完全に停止した。「やっぱり難しい」さとり妖怪の肉体能力は、極めて貧弱な筈だ。少なくともりんはそう記憶していたが故に、目の前の状況が理解できなかった。しかし、発生した事象を理解するよりも前に、今度は僵尸三体がさとりを取り囲んだ。
 クロム合金の鉄パイプ、錆びついたマチェット、トーテムポールがただ力任せにさとりに殺到する。
 「うん。動きが干渉していますね」
 頭蓋の上、頭皮から三センチの位置で衝突し、互いに明後日の方向に跳んでいった獲物を眺めながらさとりは一体の僵尸の腕を掴む。「でも、慣れてきました」ぐるりと回転した僵尸が地面に落ち、頭蓋が砕ける。それは、先程よりも僅かに自然な動作。流れるような動きで残り二体の僵尸を肉塊へと変えたさとりは、まるでそれが当然であるかの如く五体の僵尸が待つ隔壁の側へと脚を向けた。
 「この条件だとどうなるのかしら」
 挑発するようにさとり妖怪が眼をつぶる。たちまちに五体がさとりを囲み、先程と全く同様に撃退された。その間さとり妖怪は、息の一つも切らす事は無い。
 「うーん。三体までは問題なく同時に『オーバーライド』可能。五体では身体制御に不具合が発生。考えるまでもなくメモリ不足ね。まぁ、妥当な所かしら――、あら、これは」
 広場に残っているのは、十六体の僵尸。その中でも特に大きい体を持つ僵尸が、さとりに複雑な形状の鋲打ち銃(リベットガン)を向けていた。
 「天敵に対抗する為、生命が常に進化するように。動く死体は埋葬請負人(アンダーテイカー)の登場に対応を始めた。そう言うことでしょうか。うん。この世界は本当に予測がつかない。実際に私が試しておいて良かった」
 りんは『暗視能力(サーモグラフィー)』を解除し、通常の眼で妖力の流れを睨む。僵尸の皮膚からはみ出る『リンパ管』から、液化妖力が滴っている。『機構分析機能』を持たないりんの視力では理解できなかったが、その液は残らず釘打ち銃(リベットガン)へと吸い込まれていた。
 「残念です。それを初めて見せるのが、私ではなければ致命傷の一つも負わせられたのかもしれません。しかし、そうはならなかった。残念ですね」
 一発、二発、三発。拍子抜けする程小さな音で鋲(リベット)がさとりに放たれる。正確にさとりの体幹を捉えたはずのそれは、身じろぎ一つしないさとり妖怪の前で全て静止する。分厚く成形された妖力の肉壁は、さとり妖怪の代わりとなって鋲(リベット)を受け止めていた。逆上した僵尸が狂ったように鋲(リベット)を放ち続ける。数にして七十。一分に渡って続いた鋲(リベット)の雨は、十の僵尸に深手を負わせるだけに終わった。ただの鈍器と化した銃の引き金を引き続ける僵尸はさとりによって息の根を止められる。
 残りの十五。工具も武器も持たず、ただ傷を負っただけの僵尸達が生命活動を停止するのに掛かったのは、僅か二分と三十秒だった。後に残されたのは、鉄の香りとぐったりとした様子で瓦礫に腰掛けるさとり妖怪。それ程に疲弊したさとり妖怪を見たのは、りんも初めてだった。
 「さとり妖怪。あんた、何やった?」
 「僵尸が人型であって、神経網(シナプスネットワーク)により体を動かしているのなら、私にはその動きが手に取るように分かる。私には常に彼らの零コンマ七秒先が見えています」
 「嘘つけ、見えてりゃかわせるなら誰も苦労しない。言え、何をやってる」
 「お勉強ですよ。経験の加速と言う名の高速学習です。つまりは、空いた作業記憶(ワーキングメモリ)に、仮想的な神経系を複製しているんですよ。そこに僵尸の体性感覚をオーバーライドして、より詳細な機能解析を行っています。それを、並行して反復する。だけど体性感覚を使う以上、著しく体格が異なる場合は学習効率が下がるので実質使えません。あー。頭痛い。慣れないことはやるもんじゃないわね……」
 「勉強て……。そんな器用な事ができるなら普段の生活にも生かせよ」
 「あぁ。無駄ですよ無駄。経験の書き込み(インストール)先も作業記憶(ワーキングメモリ)です。寝て起きたら忘れちゃいますね。灯と陽にお任せして空いた分で、どこまで出来るのか。それを試す目的もありました。まぁ、結果はご覧のとおりです。私は相手が人型である限り絶対に負けない。まぁ、勝てるとも限りませんが」
 さとり妖怪がぐてりと瓦礫に寝そべる。『暗視野(サーモグラフ)』に切り替わった視界には、真っ赤に発熱する頭部が映し出されていたた。
 「あー。駄目、電池きれた……。ねぇ、火焔猫さん。そこの扉、ふっ飛ばしといてくれません?」
 投げやりな声が何かを差し出す。その間、さとりは仰向けのままで視線だけをりんに向けている。間抜けと以外形容できない姿に、りんはただ呆れながら掌の上の物を確認した。
 「これは……、ってなんぞこれ?」「成型爆薬」
 そこにあるのは小さく細長い棒が五本。硫黄にも似た、独特の臭気がりんの鼻腔をくすぐった。
 「くっつけるだけで良いから……。後は私がやるから、今は寝かせて。三分位何も考えたくない……。あー、だめ、集中できない。寝る」
 りんが文句を言う前に、さとり妖怪は小さな寝息を立て始める。その顔と掌の棒を往復すること三度。りんは大きな溜息を吐いた。
 「貼り付けるだけだからな……」隔壁の前でりんは静かに呟く。「暇つぶし、だからな……」ぺたぺた。ぺたぺたと丸く円を描くように棒を設置する。「さとり、取り付けてやったぞ。起爆しろ」「あいよー」直後、りんの背後三メー^トルで轟音が響いた。反射弓に依存する不随意な運動は、りんの体を地面へと押し付ける。頭上五十センチを吹き抜ける突風が、一枚の鉄片をコンクリートへと打ち込んだ。
 「ぶほぉ?! 殺す気か!!」
 「大丈夫よぉ……。何のための成型爆薬ですか……」
 「過信し過ぎだ……、って。……ん?」
 『G2』隔壁、だったものを包む煙が壁の向こう、つまり『G3』へ向けて流れていく。待つこと、三十秒。煙の消える先。『G3』の天井を走る巨大なダクトが、ごうごうと風音を立てていた。


 「ふーむ……」
 「なんか分かったのか?」
 あれから五分。ようやく知恵熱の下がったさとりがダクトに向け何度と無く第三の眼(サードアイ)の光線を当てる。内部構造の解析光が立てる重低音は、廊下中に怪しく響いていた。
 「どうも、このダクトには欠陥があった様ですね。通常、隔壁と同時に自動閉鎖されるはずの内壁が全て降りていません」
 「それはつまり、ダクトの先は奥まで繋がってるって事」
 「そうですね。ここを通れば高い確率で最高グレード領域。つまりは、『主管制室(メインコントロールルーム)』にたどり着けるでしょう」
 「おー。そりゃ良かったね。おめでとう。とっとと行ってきなよ。ここで待っていてあげるから」
 「どうやってです。幾ら私や空が小柄でも、人型で入れる程大きくないですよ。入れるのは灯か陽の原型か、子狼位の物でしょうね」
 「ふーん。それは止めといた方が良いだろうね。あんな餓鬼やポンコツが何匹行ったところで僵尸に生き餌をやるような物だ。残念だね。せっかく近道(ショートカット)が見つかったのに使えなきゃ意味が無い。地道にまた、作業するしか無いね」
 「そうですね……。でも、あなたはどうなんです?」
 ぞっとする程冷たい声が。さとり妖怪から放たれる。静止すること三秒。全くどんな反応もできず、りんは壊れた人形の様にさとりへと振り返った。
 「は、はぁ? あたいが? む、無理に決まってるじゃん。最初に見ただろ。あたいの原型はデカイぞ」
 火焔猫は大型の猫だ。体高六十センチを誇るりんは、種の中ですら大型と言える。そんな事実にもかかわらず、さとりの言葉をりんを突き刺し続けた。
 「あら、そうでしょうか? もう一個は?」
 「……お前。どうしてそれを」
 言葉の意味する所を理解し、すっと全身が冷たく冷える。それは、りんが自信をもって心に隠匿(マスキング)をしたはずの事実だった。
 「逃げ出そうとした怨霊の精神を乗っ取った時に少し」
 「おま、あの時の」
 身じろぎ一つしない不気味な怨霊。その言葉は、地霊殿に訪れた初日に玄関(エントランス)で遭遇した物の正体である事を意味する。あの一部始終が見られていたと言う事実に思い至った時。りんは顔がかぁと赤く染まることを感じた。
 「ふふふ。あの『黒猫姿』可愛いかったですよ。隠さなくて良いじゃないですか」「このヘンタイ出歯亀野郎」「不可抗力と言って頂きたい。私が操ってなかったらあなた食い殺されていますよ」「そう言う問題じゃない……、いや。それは良い」
 りんの意志を揺らすのは、『黒猫姿』が知られたという事実だけではない。その瞬間、りんにとってさとり妖怪の言葉は鋭利な刃だった。保留(ペンディング)し続けてきた現実が頭蓋を穿つ。そんな錯覚すら覚えながら、りんは口を開いた。
 「それはあたいの為の仕事か? それとも、あんたの為の仕事か?」
 「私の為の仕事です」
 どくり、と心臓が跳ねる。脳幹部にかかっていたもやをこそぎ落とすかのように全身に血が巡る。しかし、血流量の上昇に相反するようにりんの体は冷えて行った。
 「さとり妖怪。聞いて欲しい。あたいはあんたらを疑ってる訳じゃない。あたいは、あんたが本当のお人好しでたまたま拾った空を放っておけないだけの奴だとすら思ってる。だけど、それは駄目だ。それは一線を超える行為なんだよ。あたいは、あたい以外の何者のためにも力を貸してやれない。あたいがやる仕事はただ二つ。死体を火車に乗せて運ぶ事。それから、差し迫った身の危険からあたいを守ること。それだけだ」
 「……空の為でもある。と言っても駄目でしょうか?」
 「はん。どこに空の要素が――」
 「『陽達』、そして……、『食料』」
 「不思議には思ってたんだよ。何処から湧いてるのか」
 「是非曲直からの支給食材は、私と空の分だけ。後は、『家庭菜園』で賄っています。火焔猫さん。貴女は誰よりも分かっているはずですよね。この異常空間を支えているのは私の存在でも、空でもなく、食料の安定供給であると」
 「……うん。群れ(コロニー)は食料の安定供給を前提として成り立つ物だよ。食料の無い群れ(コロニー)にはデメリットばかりが残る」
 「火焔猫さん。これは、私の独り言なんですけれどね。実の所、焦熱地獄炉の復旧計画は、是非曲直庁内部であまり支持を受けていないのですよ。依然として、是非曲直庁では、『焦熱地獄炉のガス漏洩事故』をタブー視する者が多い。今は、二人分の食料が供給されている。でも、それがこの先も続く保証は……、何処にもないのです」
 「あたいは馬鹿だから。そんなの、あたいには理解できない。そりゃ、あたいにとってはあまりにも間接的すぎるメリットだ。それに、今だって食料は八割以上自給自足なんでしょ? たかが二割で何かが変わるとは思えない」
 「そうだと良いのですが。なら、代わりに一つだけ教えて下さい。貴女達にとって、『本能』とはそれ程に絶対的な物なんですか?」
 「……さぁね。あんたにとっての『意志』が何か。考えてみれば分かるんじゃない」
 「それはまた……、私には難しい注文ですね」
 さとりは固く口を閉じそれ以上何も語らない。その瞳が、どこか寂しそうに見えたのは気の所為だった。りんはそう自分に言い聞かせ、さとりの背を見送った。


 「陽! 一緒にお風呂入ろ!」
 「わ、わわっ! 僕、後で入る」
 「いーじゃなーい。ほらほら、裸の付き合いって大事だよ」
 逃げまわる陽を薄く白い布一枚で肢体を覆った空が羽交い絞めにする。この世の終わりの様な断末魔を残し、風呂場へと消えていく人影を二頭の獣が呆れ気味に見送った。
 「裸の突き合いの間違いだろ。……狼と鴉で子供生まれるのか知らないけど」
 「さぁ……。あ、そうだ。ねぇ、おりん。私達で――」
 「その続きを話してみろ。あたいは、あんたのできの悪い頭を吹き飛ばしてやるから」
 「おりん、怖い。冗談。なのに」
 灯が大げさに目元を触手で覆い隠す。灯にしては珍しいオーバーリアクション。しかし、最近僅かにその頻度が増えている。りんはそう感じていた。
 『望む形で最期を迎えたい』。その言葉が真実なら、灯の意志はきっと『これ』なのだろう。苔鼠(シーダー)としての繁殖の責務を果たし。余った残りの生をただ静かに暮らしたい。餌の心配もせず、外敵にも怯えず。ただ、遊び。ただ、生き。ただ、談笑する。本能の虚弱性(セキュリティホール)を突き、妖獣である事を辞めないまま、意志に従って快を追求する。そう考えた時、りんは灯に利用されているに過ぎない。だが、悪い気はしなかった。何故なら、灯のその行為は限りなく『合理的』であるからだ。上がっていた口角に気が付き、口元を拭うふりをしてそっと戻す。仕切り直すために、顔を赤らめているさとりに話しかけた。
 「で、さとり妖怪。どうなんだ? ……その。そう言う実験は、是非曲直庁でやってないのか?」
 「あなた、是非曲直を何だと思っているんですか……。いや。まぁ、記録はあるんですけどね」
 「やっぱりな」
 「結論から言えば不可能です。生殖が可能になるだけで、遺伝情報その物が変わるわけでもなし。『受精』しても発生の過程で死滅します。とある『鼠』と『虎』の夫婦が残した記録によるとそうなっています」
 「なら不毛だね」
 「ああ不毛だ」
 珍しく見た意見の同調が嬉しかったのか。灯の口元に笑みが溢れる。意識下での模倣回路(ミラーニューロン)の働きがりんの口元に同様の反応をもたらしていた。
 「そうですか? 避妊の必要が無いのは助かりますけど」
 きょとりとした表情を浮かべたさとりが首をかしげる。その背後で子狼の情けない叫びが館の中を駆け巡っていた。






 ◇◇◇


 「で。何をしに来たの」
 「ご、ごめん。忙しかった? 一週間の出張で海溝沿いに『伊弉諾物質(イザナギプレート断片)』の回収をしていたんだけど、思ったより早め終わってしまって……」
 うつ向き気味にティーカップを口に運ぶ客人を眺めながら、りんは自分用のマグを傾ける。揮発した分子を嗅上皮が感知する。警鐘を鳴らす脳幹部。りんは横目で同じ様にマグを傾ける地獄鴉(インフォーマ)を観察した。「にっが……」案の定、空は大きく顔を歪めて舌を出す。りんは用意していたポットからどぼどぼとミルクを注いでやった。
 「はぁ、要するにはサボりね。全く、何時から貴女はサボりの泰斗に転職したのかしら」
 強い『苦み』を伴う飲料。エスプレッソは客人である『四季映姫』により持ち込まれた。彼女はさとり妖怪が是非曲直庁本部に努めていた時代の同僚であると言う。空は知った風であったが、りんが彼女と出会ったのは今日が初めてだ。
 「し、失礼ね……。直帰の許可位取ってる」
 大人しい童女。りんが映姫に対して抱く第一印象はそんな物だった。背丈はさとり妖怪と同じか、少し小さい位であろう。あどけない顔立ちに付くタレ気味の目が、実際以上に彼女を幼く見せていた。
 「まーた変な知恵つけて。小町さん、貴女ですか? 映姫に変な事吹き込んだの」
 「え、あたい? いやいやいや。あたいは、そこの『平事務員』みたいに暇じゃない、用事があって元から来る予定だったんだ。『怨霊の生息数調査』だよ。そのついでと頼まれて連れてきただけ。ま、それも終わったから。今現在やってる事は同じかもしれないけどさ」
 『小町』と呼ばれた声の主もまた、映姫と同様に是非曲直庁本部の職員である。さとり妖怪達の居る執務室の壁により掛かる長身の女性。『小野塚小町』。映姫と同様、地霊殿で出会ったのは初めてであったが、その燃えるような紅い髪には確かな見覚えがあった。
 「だ、だって。さとりったら、連絡の一つもよこさないし。こっちから手紙を送っても読んでるかも分からない、し……。だから、一度確かめたいな、……って」
 「ほらね。全く、あたいを何だと思ってるんだ、――って。苦っ!?」
 三分の一程の黒い液を飲み干した小町が大きく顔を歪ませる。声にならない声を出しながら、小町は砂糖ポットを手に取り、実にカップ半分程まで注ぎ入れた。
 『苦味』とは、本来生命が有毒成分を含んだ食料を見分けるために発達した感覚であり、他の味覚と比べても受容体の種類感度共に飛び抜けて発達している。約二十五個の分離型T2R受容体により伝達される刺激は何よりもそれを物語ると言えるだろう。故に、小町の行動は自然な流れと言える。
 「はいはい。私は元気ですよ。手紙を返さなかったのは申し訳ありません。ただ、此方から手紙を届ける手段なんて、私が直接手に持って届ける位しかありませんし、そりゃ、帰ってこないのは当然でしょう」
 さとり妖怪は眉根の一つも動かさずにエスプレッソが並々と入ったカップを啜っている。しかしりんは知っていた。ミルクも砂糖も入っていない代わりに、さとりは味覚の内、『苦み(T2R)受容体』にのみマスキング処理を施している。
 「分かってるわよ。だから、直接見に来たって言ってるじゃない! それとも何、友達とコーヒー啜るのが億劫な位に『人嫌い』が酷くなったっていうの?」
 「あはは、ごめんごめん。冗談よ。怒らないで。久しぶりに貴女の神妙な面を見た物だから楽しくなっちゃって」
 「もう……、まぁ。でも元気みたいで安心した。」
 「まぁ……、ぼちぼちやってるわ。映姫こそ最近どうなのよ。『登用試験』の勉強は順調なの?」
 「そ、それは……、まぁ、ぼちぼち……、ね」
 「全く……、急に『判事補(キャリア)』目指す何て言い出すから。気が触れたのかと思ったわよ。何があったの? らしくないわ」
 「し、失礼よ。地蔵菩薩の化身たる私が、法の番人を目指すのは必然」
 「残念。最近じゃ、地蔵菩薩の株は急落中よ。舗装されたアスファルトの脇に立つ地蔵なんて気にかけるの。今どき、『マーキング』に使う犬くらいの物よ」
 「て、手を合わせて祈るだけが信仰だと言う固定概念が、最早時代遅れだと言うだけです。ほんの僅かでも良いこと、悪いことが会った時に、『ありがとう』『助けて』と願うだけでも十分すぎる価値があるの」
 「はぁ、省エネで羨ましいわ」
 「あなたとは違うのよ」
 『登用試験』そして、『判事補(キャリア)』。その概念は少なくともりんの知識に無い。だが、会話から推測するに是非曲直庁と深い関連があるのだろうと見当はついた。
 「まぁ、でもね。一応『秦広王』の下で丁稚やっていた経験から言わせて貰うと、貴女は辞めた方が良い。きっと、『失望』してしまう。『自分』と『環境』の両方に」
 「いいえ。私は自分の選択に後悔はしません。何があっても、絶対に」
 「本当に? もし万が一合格でもしたら、二度と一人暮らしの老人の家を訪ねて、日がな一日お茶を飲むなんてできないよ?」
 「構いませんよ。老人が一人で居なくても良い様に、家族が訪れやすい交通網を整備します」
 「本当に? 多分その老人たちは貴女に感謝なんてしないわ。誰一人。ただ、それが当たり前だと思って利用する。そして貴女は道中で立ち退きを迫った別の住人に恨まれるの」
 「構いませんよ。別に感謝されたいからやっているわけではありません」
 さとり妖怪と英姫は、真っ直ぐに視線を交わしたまま微動だにしない。若草色の独特な緊張感。空気に耐え切れず、りんはそっと椅子から降り、『小町』の側へと歩み寄った。
 その間もにらみ合いは続行される。経過する事三十五秒。先に沈黙を破ったのはさとりだった。
 「ふーん。ただの泣き虫ヘタれだと思ったけど、意外とそんな石頭な所もあるんだ。知らなかった」
 「まぁ、元が元ですから。ね」
 「それで、前回の模試の結果は――」
 「あ、さとり。このクッキー美味しいわね。材料はどうしたの?」
 「糖類は『青蓮地獄』の入り口近くに生えてた蘚苔類から抽出を。小麦は中庭でクロロフィルγ合成酵素を組み込んだ苗を使っているんですよ。これ、結構面倒だったんですよ。αから合成させようと思うと最低でも四つのステップがあって、それぞれに対応する――」
 部屋の中央で続く会話を、雑音と判定した脳が聴覚野での処理を放棄する。「まぁ、結局。合成量は微々たるもので、結界の補助程度の効果しかありませんでしたが」静かになった世界で、りんは小町の裾を掴んだ。
 「ねぇ、『小町姉さん』。試験の合格率ってどの位なの? って言うか、あの人頭良いの? さとり妖怪と同レベルに見えるのは気の所為かな」
 「聞かないでやっておくれ……」
 りんに気がついた掌が頭を優しく撫でる。しゃがみこんでやっと目線が会う程度の長身が、呆れたような笑みを浮かべていた。
 「英姫。そんでさとりさんよ。積もる話もあるだろう。あたいは、この二人を連れて中庭ででも昼寝しているから。終わったら呼んで貰えるか?」
 「あぁ、すみません。小町さん。何から何まで」
 「小町さん。何か困った事があれば空に申し付けて下さい。ひと通りは躾けてありますから。大抵の事はこなせます」
 そうなのか? 目線で送った合図には空が苦い笑みを返してくる。さとり妖怪の見栄っ張りなど今回に始まった事でもないが旧友の前でまで見せるそれに、りんの口元には自然と苦い笑みが漏れた。
 後方でばたりとドアが閉まる。同時。人型の耳はどんな会話も感知しなくなる。速やかに頭頂部、及び頭側部の耳孔周辺、計四箇所に妖力を実体化。お椀型に形成し、壁面から伝わる微細な振動を捕らえる。
 「ねぇ、英姫。手紙の事だけど……」
 届くはずのない振動を表面振動を視覚で捕らえることにもよって補足し、脳内に音声を作り出す。当然、両脇の二人に聞こえるはずはない。
 「さとり。何度聞いても結果は変わらないわ」
 『G2』の隔壁を破壊し、『G3』に脚を踏み入れたのは三日前。そこに現れた是非曲直庁の職員。普通に考えれば偶然だと思えるそれに対し、りんの本能はどうしようも無い程の大きな警鐘を鳴らしていた。故に、りんは情報を集める。野生において生死を別けるのは情報量である。危険を察知する事こそが最大の防御なのだと、りんは理解している。
 「私はまだ納得が行ってない。それまで、何度でも聞くわ」
 心の中で静かに体を抱く。何時になく真剣な声色がりんに緊張を走らせた。次の言葉を聞きたいと感じると同時、聞きたくないとも思う。相反する思考が不毛なブドウ糖を燃やすこと三秒。これまでで、最も低い周波数がりんの仮想的な鼓膜を揺らした。
 「『灯の耳』と『空のみみたぶ』。どっちをもふもふするのが気持ち良いか。今日こそ決着を着けましょう」
 脱力。後に自己嫌悪。途切れる集中に、霧散した妖力が大気に溶ける。油断すれば漏れそうになる溜息を辛うじて口内に押しとどめようと、りんは口に手を当てた。
 「どしたの? りん」
 「いいや、何でも。お前の主は本当に面白いやつだな」
 「そうかな。えらい変人とは思うけど」
 ――と、……り。行った……。
 ――そ……、ら、話を続……、う。
 遠い目で執務室を見る。未だ壁に張り付く妖力の残照が断片的な会話を仮想鼓膜へと伝達した。
 ――帰って……、さい。予算……、中断……。
 断片的に届く、最期の単語にりんは思わず振り返る。それは、丁度、折れ曲がった廊下が執務室の壁を覆い隠す所だった。引き返そうにも空と灯を説得できるだけの理由は無い。途切れがちに届く会話。殆ど意味を解する事もできない中でも不穏な言葉は薄れていく。しかし、完全に盗聴が途切れる寸前。最後の言葉だけはどうしてか、鮮明にりんの前横側頭領域(エリア41)に焼きついた。
 「復旧計画はもう、撤廃が決まってるのよ」
 あまりに鮮明。あまりに予想通り。故にりんはそれが、自身の不安が生み出した幻聴であるのが、現実であるのか区別ができない。判断材料を得ようと視覚情報を入力するも、映ったのは仲良く談笑する小町と鴉だけだった。それは、あまりに平和な光景。見慣れた間抜けな顔にも、久々に出会った死神の顔にも恐るべき妄想を裏付ける材料は無い。故に、りんの大脳は先ほどの情報を幻聴と処理した。
 「それでも私は帰れない」
 混線する無線の様に流れてきたさとりの声も、幻聴以外の何物でもない。不自然な程軽い足取りでりんは空の隣に並ぶ。いつも通りの日常は今日も変わらず続いていた。


 地霊殿の中庭。そこは焦熱地獄炉への入り口でもあり、仕事終わりの妖獣が寛ぐ運動場(フリーラン)でもあり、地霊殿の食卓を補助する農場でもあった。さとり妖怪曰く、『熱・光・大気組成を三重の結界で定義し、地上と限りなく近い環境を実現した最高傑作』だそうである。一ヘクタールに満たない空間ではあるが実際、地霊殿内部以上に快適であると、りんは感じていた。
 「こらまた立派な物だ。維持に掛かる妖力も馬鹿にならないだろうに」黄金の穂を湛えた林を眺め、小町がしみじみと呟く。
 「最近は直接制御してる訳じゃなくって、焦熱地獄炉の『霊力輸送パイプ』から拝借してると仰られてましたよ。『獣避け』と違って、規定外(イレギュラー)は気にするだけ妖力の無駄だって」
 「それは正しいね。一度排除する成分と透過させる成分を定義してしまえば、後は放置で良い。妖力供給源があるならそっちを使うに越したことは無い。ま、あたいから言わせれば『認識阻害』をこれ程広範囲に張ってる時点で、十分無駄遣いだと思うけどね」
 天井からさんさんと降り注ぐのは、『青白色の光』。それは、熱線と紅蓮以外の波長を排出しない『マグマ』が、主な光源である地底ではありえないはずの光景だった。それは『迷彩結界』の応用。光の波長変換を利用し、『クロロフィルγ』でしか利用できない光の波長域を、『クロロフィルα』の吸収可能波長に変換していた。
 目指すのは『小麦』の畑の奥にある木立。りんは日陰に入って天井を眺める特等席を小町に教えようとさりげなく一歩前に出た。耳に入るのは、覚えのある呼吸音。小麦畑の間で、見覚えのある少年が小さな寝息を立てていた。
 「陽……、お昼寝中か。なんでまたこんな所で」
 銀色の髪と一対の耳。陽は安らかな顔で灰狼(コロニア)の腹を背中に昼寝をしている。直前まで遊んでいたのだろう。周囲には遊び疲れたと思しき灰狼(コロニア)の子達が寄り添うように眠りについていた。
 「これは……、なんと言うか。持って帰りたくなるね」
 「小町姉さん。あたいにも似たような事言わなかった?」
 「あー。覚えてないねぇ。何百年前の話だっけ」
 「うん? りんは、小町さんと会った事あるっけ?」
 「んー。知り合いってレベルでも無いんだけど、昔にね」
 「ああ。昔にね。正直。気が付かなかった位だけどさ」
 「酷っ!! あたいは覚えてたよ。小町姉さんみたいに、やったらめったら話しかけてくるウザい死神は他に居なかったから」
 「あっはっは。ずいぶん舌っ足らずな子供が居た物だから、ちょっと言葉でも教えてあげようと思ってね。でも、ずいぶん立派に育った――、あぁ、うん。まぁ、大体は立派に育ったじゃないか」
 「あんた今何処見て言った」
 「胸」
 「相対的にでかくしてやろうか」
 八割程度の殺意を籠めた爪が小町の片手で受け止められる。続いて放った蹴足。頭突き、妖弾。全ては暖簾を押す様にかわされてしまう。りんの猛攻を意に介さず、小町は空の頭に手を置いた。
 「いやー、空は二年ぶりだったか。ちょっと背が伸びたんじゃないか? 前よりも美人になった気がするよ」
 「えへへ。さとり様に一杯ごはんを貰ってますから」
 見た目通りの少女の如きはにかみが、りんを酷く苛立たせる。
 「りんよ。そう機嫌を損ねず、あたいに案内しておくれよ。今の地霊殿をあたいは知らないんだ」
 「別に、苔鼠(シーダー)と灰狼(コロニア)の妖獣が一匹ずつ。灰狼の子供が十四匹程居候を始めた位だよ。他には何も変わらない」
 「はぉ、苔鼠(シーダー)を手懐けたんだ。さすがさとりだね。気紛れで姿を現すことすら珍しい種と聞いていたけど」
 「灯が変人なんですよ。やったら寂しがり屋だし、やったら年食ってるし。まるでりんそっくりで」
 「あはは、そりゃ納得だ」
 「小町姉さん。あたい久々にキレちまったよ……。ちょっと表出ようか……」
 「お、こんな所にも放し飼いにしてるのか。こいつは、なんて名前なんだい?」
 素っ頓狂な声が二つ。中庭に響く。しゃがみこんだ小町の手元には確かに一匹の苔鼠(シーダー)が居た。「これ、……灯?」「いや、灯の原型がこんなに若い筈がない。こいつは野良だ」
 背中から生える三本の触手は張り艶共に申し分ない。推定生後半年。何処にでも居る平均的な苔鼠(シーダー)。それが、りんの判断だった。
 「何処から入ってきたんだろう?」「さぁ。さとり妖怪の結界は完ぺきな筈だ。例外処理に入れられた物以外は、結界に触れただけで大けがだ。鬼や獅子なら敗れるかも知れないけど。こいつは鬼でも獅子でも無い」
 「それは。私のせいだよ」
 畑の畝(うね)が盛り上がったかと思うと土中から触手が立ち上る。「何やってんのあんた……」泥だらけの灯が渾身のしたり顔を決める。「最高に格好良い登場。さとりが教えてくれた」憐みの視線を驚きと錯覚した灯が、すんと小鼻を膨らませた。
 「やぁ、あんたが灯か。さとりが世話になってるようで」
 「世話。してる」
 「灯、あんたの自由意志は何処にある……」
 したり顔のまま、灯は小町の手を握る。ぬとりとした感触に、小町の顔が歪む事をりんは見逃さなかった。
 「それで、灯。あんたのせいってどういう事?」
 「『この子』が私のお昼寝中によく引っ掛かるから。例外処理に入れてもらった。おかげで安心」
 「そういう事。それで苔鼠(シーダー)が入り込んだのか」
 「入ってこれたのは分かるけどさ。でも、どうやってこの子はここまで来たの? 『認識阻害結界』はどうしたのかな」
 「何でって、そりゃ『学習』だろ。さとりの認識阻害の式は見たこと無いけど、どうせ『体性神経』にも介入して歩行時の姿勢制御を弄ってるんだろ」
 「おぉ、良く分かったね。たしか、そんなのが書いてあった気がする」
 「そりゃね。誰もかれもが、考える頭を持っている訳じゃない。こいつみたいに頭空っぽの奴だって沢山居るんだから」
 「空、言われてる」「し、しつれいだなー」
 「……まぁ、とにかく。運動の出力と実行結果の間にズレがあるのなら、意識的にしろ無意識的にしても脳は認識する。そんなズレ、つまりは規程外(イレギュラー)に対応する系を私らは学習と呼んでいるし、そんなのは植物にすら搭載されてる」
 認識阻害結界が完全な物でない事は、過去の疾鷹や灰狼の件が証明している。しかし、館内部にまで入り込まれたのは、小町の胸でか細い鳴き声を上げる個体が初めてだった。りんはそんな若干の不安と共に解説を続ける。しかし、灯は大きなあくび一つと共に小麦の林に戻っていった。
 「それじゃ、私。お昼寝の続きがあるから」
 「お、おう。窒息しないように気をつけてな」
 「頑張る」
 灯がいそいそと畝(うね)の中に潜って行く。それは、マイペースな灯には珍しくない事だ。何時も通りに灯の背中を見送っていると、りんの隣りから小さな笑い声が流れてきた。
 「どうしたの? 小町姉さん」
 「いや、皆楽しそうだなぁ、って」
 「そうかな、いつもどおりだよ」
 「それは結構な事だ。……っと。それはそれとして、少し冷えてきたね。中に戻っても良いかもしれない」
 「うん、そうだね。戻ろう。小町姉さん。今日はありがとう。久々に話せて良かったよ」
 「あたいこそ。あんたの顔が見れて良かった。次来ることがあれば、また話そうか」
 小町は染み染みといった様子で空を見上げている。しかし、その隣。空は不可解な表情で首を傾げていた。
 「ねぇ、おりん。それにしても涼しくない? さとり様の結界のせいもあるだろうけど、それにしても変な気がする」
 「そうだねぇ、『冬』が近いのかもねぇ」
 「あぁ、もうそんな季節か。早いものだね。直近は確か四十五年程前だっけ」
 是非曲直庁の記録だと千年と少し前の物があるね。数秒の思索の後、小町口を開く。しかしりんには確かな記憶があった。『冬』。記憶と共に蘇ってきた情動が再生される。僅かな恐怖感が体を内部から冷やしていた。
 「ねぇ、小町さん。『冬』って何?」
 「まぁ、空は知らなくて無理ないか。地上と同じさ。『雪』が降るんだよ。真っ白くて、冷たい『雪』が世界を覆う。そう言う現象さ」
 「え、小町姉さん、地上の雪を見たことがあるの?」
 「あぁ、勿論。あたいの主な仕事場は外だから当然だろう。そうだね……。地上ではね。雪が降ると世界各地で戦争が起こるんだ。『雪合戦』と言ってね。人間の子どもたちが、何故か雪の礫(つぶて)を投げ合って戦う。死傷者も出る、激しいものさ」
 りんは地上に出たことがない。故にりんが持つ地上に関する情報は、全て地上から来た妖怪に由来する。コールタールの如く黒い知識が、りんの作業記憶(ワーキングメモリ)に広がっていた。
 「な、なんだって? あんな物を投げ合って遊ぶなんて。地上の奴らはやっぱり、野蛮だよ……」
 「おりん、地上って怖いね」
 ああ全くだ。心からの同意と共にりんは深く頷く。同時、小町の口角が僅かに釣り上がる。騙されたと気がついた時、既に小町は地霊殿の中に向かって駆け出していた。


 「ね、ねぇ。小町姉さん。アレどうにかして下さいよ」
 「あの餓鬼どもは全く……」
 中庭での暇つぶしから帰ってきた三人を待ち受けていたのは予想外の光景。呆れ顔の小町がその中心へと歩み寄った。
 「さとり、憶えてなさいよ。必ず何時かあんたを無理やり連れ戻せるくらい偉くなってやるからね。泣いても喚いても無駄なんだから!!」
 「あぁ、はいはい。楽しみにしていますから早く出世して私の所に予算回してくださいな」
 喧々囂々(けんけんごうごう)。涙目の映姫と苦い顔をしたさとりが不毛な口論を展開している。びしりと、姿勢も正しく映姫が指を突き付ける。「後で後悔したって知らないから!!」威勢の良い宣言とともに、映姫は俯いてしまった。見かねた様子で小町が口を開く。
 「さとりさんよ。あんまり英姫を虐めないでやってくれるか。慰めるのは私の仕事なんだ」
 「ふふ。そうですね。ごめんなさい。英姫。また、遊びに来なさい。次に来る時にはもっとマシなおもてなしができるようにするから」
 「すん……、やだ……」
 「山形の寒村で最初にあった時は、もーちょっと威厳のある大人びた子だと思ってたんですけどね……。あんたは、何をどうしてこんな泣き虫になったんでしょう」困ったような顔でさとりが映姫の頭を撫でる。
 「石の手じゃ、誰も暖められない……。次……、来るのは。試験に受かってからだし。判事補になるまで、あんたに会う気。無い……、し」
 「はいはい。息抜きに来て下さいね」
 「こーまーちー!!」
 「はいはい。帰りましょうね」
 涙と鼻水でベタベタになった顔が小町のスカートに押し付けられる。今日一番の良い笑顔を浮かべた小町が、無言でりん達に手を振った。瞬間、二人の姿が掻き消える。地霊殿には不意の静寂が訪れていた。
 「さとり様。あんなに邪険にして良かったんです?」
 「良いのよ。あのお人好しは、あれ位突き放さないと何処までも世話を焼こうとするから……」
 優しい笑顔でさとりが告げる。その表情とは対照的に、音声に交じる色はどこか紫掛かって見えた。






 第四章


 しんしん。しんしんと。岩石に積もる白い『雪』を鴉が眺める。長く地底を生きるりんですら久々に観測した『それ』は、ぞっとする程に美しかった。
 「全然止まないね」
 「うん。後一ヶ月は続くだろうね。これはそう言うものだから」
 空の自室から眺める『金剛骨処区』は、一面が灰白色に覆われていた。丁度、『夕方の六時』を告げる『無終没入処(むしゅうぼつにゅうしょ)区』のマグマ噴出は、掠れたような爆音を一度残しただけで、後は静かに収束する。同時に響くはずの地鳴りも、りんの耳には届かない。世界の音が灰白色に塗り潰されてしまったかの様に、世界の静寂は揺るがなかった。
 「ね、おりん。久しぶりに外に行こうよ」
 「『防毒面』を着けてか? あたいは遠慮しとくよ」
 「連れないなぁ、前はりんもはしゃぎ回ってたじゃん。陽達に混じって」
 「あの後、髪の毛がえらい事になったんだよ。どんだけ洗うのに苦労したか……」
 『灰白色の雪』の正体をりんは知っていた。本来それは地底全ての生命が隠れ潜む事を余儀なくされる、忌むべき現象である。しかし、『防毒面』の装着が可能にした『灰白の世界』への侵入はりんの好奇心を酷く揺さぶった。『防毒面』を着けていれば安全である事を理解していたが故に、りんはその好奇心に逆らえなかった。
 「『放射性降下物(フォールアウト)』に近いって。さとり様は言ってたっけ。『重金属(ヘヴィメタル)』だから、正確には違うと思うけど」
 「『水銀』に『ヒ素』に『カドミウム』、それと『ウラン』。間違ってないよ、空。過去に生まれてアセノスフェアに溶けていった『怨霊』の置き土産だよ」
 怨霊が持つ強大な意志は、重金属と言う形で世界に体現する。旧地獄跡を取り囲むマントルや岩盤が超高濃度の樹金属に汚染されているのはその為である。普段の『雨』や、土壌に含まれる程度であれば『代謝』による死細胞への集積が間に合うが、舞い散る灰では事情が異なる。
 「ま。吸い込んだら死んじゃうのには変わらないから、どっちでも良いか」
 「それを言っちゃお終いだね。全く、涼しくなるのは結構だけど、『雨』まで固まっちゃうとねぇ。軽い物だから、大気中に充満してるし。穴倉に籠ってなきゃ五分と持たない」
 リソスフェアとアセノスフェアの間に存在する旧地獄跡には自転とマントル対流周期の関係で、極稀に気温が下がる時期が訪れる。りんの経験上数百年に一度、二ヶ月程続く地底の『冬』は、始まって既に一ヶ月が過ぎようとしていた。
 「あー。こんなに綺麗なのになぁ……」
 「長生きした奴はそんな事口が裂けても言わない」
 「いーよー。私はどうせ『ひよっこ』だもん。おりんみたいな『おばあちゃん』とは違うもんね」
 「空。あたい急に運動がしたくなっちゃったなぁ……。ねぇ、良かったら付き合ってよ。なぁに、大丈夫。あたいは優しいから腕の一本位で勘弁してあげる」
 「え、何? 面倒だなぁ……、おりんったら、全然大人しく介護されてくれないんだもんなぁ」
 自然な動作で薙がれた腕を軽く跳んで交わす。視差(パララックス)による位置定位。空中で体勢を立て直したりんは、関節の限界により停止した腕の上に着地。しようとした。
 「はにゃ?」
 角度にして二。位置にして五ミリの重心のズレがりんの体を地面に叩きつける。轟音とともに化粧棚へと突っ込んだりんは自分の身に起こった事を理解できていなかった。
 「おりん。年? ……あ、言っとくけと。これは真面目に言っているから」
 真剣な表情をした空がりんへ向けて手を差し出す。未だに鈍い動きを続ける脳は、ただ素直に好意を受け入れることしかできなかった。
 「腕にも、脚にも怪我は無し。良かった良かった。もう……、気をつけてよね」「あ、ああ……」
 実際には脚の数カ所で毛細血管が傷つき、血が滲み始めている。しかし、この位の出血は数分もせずに凝固系――繊維素(フィブリン)を中心とした血液凝固に関する一連の連鎖反応(カスケード)――の働きで停止するだろう。ようやく動き始めたりんは、確かめるかの様に腕と脚の動作を目で追った。
 「どうしたの? ホント。身の軽さだけが取り柄の貴女らしくないよ?」
 「同期ズレ……、は。殆ど無いと思うんだけどなぁ。ただ、ちょっと、力が出ない感じはする。そう言えば、今日お昼食べそびれていたし。そのせいかな」
 「それだよそれ。間違いない。『お肉』をしっかり食べないからだよ」
 「別にあたいは肉を食わなくても大丈夫なの。随分前から陽達に全部あげているよ。あたいは最近苔食主義者(ベジタリアン)さ」
 雑食動物(オムニヴァー)と腐肉食者(スカベンジャー)。是非曲直により便宜的に分類されたそれらは、本質的には同じ存在である。ただ、自ずから狩りを行わず、腐肉を漁る機会の多いものが雑食動物(オムニヴァー)の中で腐肉食者(スカベンジャー)と呼ばれている。
 「へー。知らなかった。あんたも意外と優しい所あるんじゃん?」
 「意外は余計だよ。ま、それに。『嗜好品』として食べるなら、あんたから直接貰った方が美味しい」
 「あ、おりんなの? 最近私の羽の先齧ったり、耳たぶ持っていってるの。起きたら血だらけでびっくりするから困るんだけど」
 そう言いながら、空がくるりと背中を向ける。塞がってはいるものの、未だ肉腫の残る傷跡が肩羽の中程に存在した。美味しそうだと、素直な情動がりんによって認識される。軽い吐き気がりんを襲った。
 「空……、それはあたいの仕事じゃないよ。あたいはもっと……、包括的に楽しむのが趣味なんだ。せっかくのご馳走なんだから、嫌がる空の顔を含めなきゃ、ね」
 「……趣味わっる。ドサクサに紛れて忘れていたけど、鷹の時のお礼。返したくなくなっちゃうなぁ……」
 「アレは、チャラで良い。あたいも助けられたしね。でも、そうなると誰があんたに――」
 気がつけば空のスカートが不自然に揺れていた。慌てて振り向いた空は、間もなく何かを抱きかかえてりんに向き直る。その腕の中に居たのは『陽』だった。
 「……うつほ」「どったの? 陽」
 音もなく、気配も無く。ただ世界に満ちる灰白の様にそこに陽は居る。空よりも頭数個分は小さな少年が、物欲しげな瞳を空に送っていた。
 「どうしたの? 寂しかった? ほら、遊んであげるから」
 それは、ここ最近のいつも通り。赤子のヌイグルミを世話する少女の様に、空は陽を過剰に甘やかす。陽も陽で、困った様な顔をしながらも黙って好意を受け入れる。いつも通りの光景。既視感(デジャヴ)と言うよりは単純な長期記憶(LTM)との一致。しかし、りんはその陽の瞳に灯る不気味な意志が気になって仕方がなかった。
 「ねぇ、陽。あなた、遊びに来たの?」陽はどんな反応も返さない。「じゃ、何かさとり様に言伝られた?」やはり、陽は何も言わない。ただ、空の横顔をじっと見つめていた。浮かび上がった疑念がりんの視線を、白く傷ひとつ無い幼い喉元に誘導する。
 「ね、ねぇ。おりん。どうしたの、そんな怖い顔して?」
 視線に気がついたのか、空の不安げな顔がりんに向けられる。不確かな思考に返すべき言葉も無く、ただ曖昧に首振ろうとした次の瞬間。鴉が地面へと貼り付けられた。
 「陽?! どうしたの。ちょっと、そう言うのは早いと思うんだけど……?」
 鴉に馬乗りとなった陽が、その両手を地面に縫い付けている。どんな迷いもなく、一切の感情を読み取れない能の面が、じりじりと空に近づいていった。
 「……空。そいつから離れるんだ」
 「そうしたいのは山々だけど、陽も離してくれなくて。凄い力で――、って陽? 苦しいよ……?」
 みしりと、空の細腕から軋みが上がる。空は何かに戸惑っているかの如く、碌な抵抗を見せない。口の橋から覗く犬歯の煌きが、りんの体を突き動かした。
 「空――!!」
 飛散する血液。部屋の端まで吹き飛ぶ灰狼。マグマの雨が腕を伝うかの如き感覚がりんを襲う。犬歯に切り裂かれた腕からは、止めどなく血が溢れ出ていた。
 「ちょ、ちょっと。りん。陽に何するの」
 「そいつ、今あんたの耳たぶを齧ろうとした」
 「なんだそんな事。りんだってよくやるじゃん」
 「あたいがやるのと、そいつがやるのじゃ意味が違い過ぎるよ……!!」
 「なにそれ、ヤキモチ? りんがそんなに嫉妬深いなんて知らなかったよ」
 「空、あんたふざけてるの……? 知らないふりをしてるんじゃないよ……!!」
 逆流する血液が、りんの顔を真っ赤に染める。それは、りんが懸念する最大の悪夢。自信が最も避けるべき不利益へと繋がる可能性が極めて高いが故の行動だった。湧き上がる疑念が、陽と言う形を持ってより強固へと変わっていく。正帰還増幅回路(ポジティブフィードバックループ)を断ち切ったのは、よろよろと立ち上がる陽の姿だった。
 「ご……、ごめんなさい。ちょっと……、抑えられなかった」
 真っ赤に腫れた頬を抑えながら、陽は小さく頭を下げる。空から見れば酷い光景だろう。それでもりんは、全身の緊張を解くことができなかった。自然界において、生死を分けるのは情報の収集と正しい処理である。りんの予想が正しいとしても、陽が追い立てられた理由を突き止められていない。故にりんが安心するには、現在の状況はあまりに不安定過ぎた。
 「ねぇ、陽。聴かせてくれるかな? あんた、『食事』に『不満』はない……、かな?」
 疑念を確信へと変えるため。りんは言葉を紡ぐ。できれば間違いであって欲しい。そんな願望が語尾を鈍らせる。俯いた陽が口を開いては閉じること三度。永遠にも感じる三十秒が終わった時、りんの体はこの上無い疲労感に包まれていた。
 「……お肉が。食べたい」
 「そっか……。殴って悪かった。陽。あんたは悪くないよ。だから、ごめん」
 パペッツ回路から放出され続けていた情動の認識及び表出が急速に弱まっていく。急速に冷えていく心はりんの主権が脳幹部へと移管された事を意味していた。無言のままりんは部屋を後にする。ただ脳幹部からの司令に従い、りんはさとり妖怪の位置を探り始めた。


 自室。厨房。執務室。談話室。地霊殿のありとあらゆる部屋を巡ってもさとり妖怪の姿は無い。最後に駄目元で向かったのは『焦熱地獄炉』。そこへ行く道の途中、地霊殿の中庭に見慣れた矮躯(わいく)は立ち尽くしていた。
 「ねぇ、火焔猫さん。こんな地底の奥にも季節はあるんですね」
 失策。会話の主導権を握られた事に対しりんは心で舌を打つ。返答を思索する二秒の間。混じってきた資格情報に、りんのパペッツ回路は激しく情動を排出し始めた。
 「そうだよ。『冬』に『雪』が降るのは当たり前の事だよ」
 「確かに報告書の形では知っています。最新の報告では千五百年前。噴火活動の活性期と低温期が重なった時に『灰の雪が降る』と」
 中庭を満たすのは一面の灰白。光景だけなら美しいと言えるだろう。しかし、それを美しいと言うには、あまりにも失う物が大き過ぎた。
 「知っています。これは『灰色の雪』。アセノスフェアとリソスフェアの境界に存在するここの気温はマントル対流の影響を大きく受ける。アセノスフェアの活動が弱まった事で急速に下がる気温が空洞内の大気を限界まで縮める。結果、取り残されたマグマ溜まりから止めどなく『雨』が落ちる。ただし、普段は赤い雨として降り注ぐ二酸化ケイ素は低温によって固化し粉塵として、『重金属』と共に世界を覆う。これが『死の灰』。地底の『雪』の正体ですね」
 しゃがみこんださとりが灰白に染まった小麦の一房を掌にちぎって乗せる。ケイ素が気孔に張り付いたそれは現時点で生存している。しかし、この先の枯死を免れることはどうあっても不可能だった。
 「そうです。知っていました。知っていましたが、経験はしていなかった。だから、これは『油断』です」
 石膏像の如き無機質感を伴って小麦が中庭に立ち尽くす。小麦だけではない。米も野菜も大豆も一切の例外無く、石膏像と化し将来的な枯死が確定していた。
 「見て下さい。これが私の『贅肉』です。どうですか、実に美しくないでしょう?」
 そう言ってさとりが投げて寄越したのは、一枚の式符だった。びっしりと書き込まれた式(コード)が無数の穴により断片化している。その小さく貧弱な歯形をりんは知っていた。
 「結界の例外処理に追加していた、『苔鼠(シーダー)』に内部から符を食い破られました。万が一にも、灯が怪我をしては困る、と。認識阻害結界があれば問題無い、と。そう慢心した結果でしたね」
 苔鼠(シーダー)とは本来大人しい種族だ。極めて特殊な生態故に飢餓に晒される危険の少ない彼らは、地底では珍しい温厚な生命と言える。故に、りんとさとり妖怪は苔鼠(シーダー)の潜入を知りながらも特別な行動を起こさなかった。
 「生命は常に進化する。あの認識阻害結界は、体性神経すら狂わせるタイプでしょ? 何度も三半規管を弄られれば、無意識的にでも脳が補正を掛ける。兆候はあったはずだよ」
 「そうですね。だからこれも『油断』です。私と、あなた、両方のです」
 淡々と原稿を読み上げるようにさとり妖怪は言葉を紡ぐ。その顔は何時にもまして不気味で、これまでない程に感情の読み取りが困難だった。続く沈黙。好機と見たりんは本来の目的を果たすべく、わざとらしい笑みで口を開いた。
 「だけどこれで、地霊殿に残っている飯の供給源は是非曲直庁だけだね。二人分だけじゃ、随分と辛いんじゃない?」
 「二人分? いいえ、それすらありません。もうとっくの昔に、是非曲直庁からの補給は途絶えました――」
 だったら。そう口を挟もうとした時。さとりにしては珍しい早口がりんの鼓膜に届いた。
 「――しかし問題ありません。地霊殿には『備蓄』があります。過去に採取した野菜。式によって保存した肉。安心して下さい、計算上の『熱量』は今現在の地霊殿の住人が、雪が止むまでの期間、つまり後一ヶ月暮らせるだけの量があります」
 安堵感と違和感が体内で干渉する。『安心』を語るには、さとりの瞳はあまりに真剣過ぎた。りんの内部で違和感が優勢となって行く。疑念をスタートとした思考が、ある一つの仮説を提示した。
 「待って、さとり妖怪。その『熱量』とやらの供給源は何? ねぇ、さとり妖怪。あたいの質問に答えてくれ。陽達には今、一日あたり何グラムの肉をやっているの?」
 無言。後、足音。一足跳びで三メートルの距離を詰め、りんはさとりの胸ぐらを掴んだ。
 「答えて。さとり妖怪」
 「……当然です。平等に分け与えています」
 「そうじゃないよ。どの位かと聞いているの」
 「平等に一頭あたり、日に五グラム。きちんと、渡しています」
 肉食性動物(カーニヴァー)としては小型といえ、灰狼は一頭で二十キロを超える獣だ。自重の一分にも満たない肉片が、腹を満たすはずがない。
 「あたいとは違うんだぞ。あいつらにとっての肉はな、『存在理由』なんだよ。陽にとっては尚更だ」
 「ならどうしますか? 火焔猫さん。貴女は私にどうして欲しいですか? 因みに言っておきますが、是非曲直庁からの供給を再度受けられる可能性はありません。何事にも時期があります。ここで、今すぐ貴女が『G3』のメインダクトから『主管制室(メインコントロールルーム)』に入り、『鎮静剤(トランキライザー)』の排出を行ったとしても。もう遅すぎるのです」
 「言われずとも、誰が行くものか。あたいの言葉は変わらない。あたいが、火焔猫として言った言葉を変えるわけにはいかない」
 「ならば私のする事は一つですね。地霊殿はこれからも昨日までと同じ時を刻みます。残酷なまでに延長線上の世界を地霊殿は生きます。そして、火焔猫さんがそこで何をするかも自由です」
 「言われるまでもない、あたいは――」
 選択肢は二つ。一つは、息を止めて灰の中に飛び出す。肉体の汚染を覚悟で物陰に潜み、獲物を狩りながら一ヶ月を生き延びる。二つ目は何も起こらない可能性に掛ける。ただし、その可能性は限りなく低い。それは、あまりに簡単すぎる選択だった。『本能』の出力に従い、『正しい選択』を行う。ただそれだけの筈だった。
 「まぁ、どう行動するにしろ。せめて悔いのない様に。私から一つだけアドバイスをするなら、そうですね……、自分の行動が何を意味するのか。それを理解した上で行動すれば、何をしても間違いではないと思いますよ」
 脳幹部がぐらりと揺れる。十重二十重と反響するさとり妖怪の声が頭蓋を打ち割らんばかりに暴れまわっていた。ただうずくまって耐えること三分。りんは吐瀉物まみれの口を開きさとり妖怪を睨みつけた。
 「……わざわざご親切にどうも。言われなくてもそうするよ。じゃぁね」
 今にも途切れそうな声はさとりに届いてないだろう。しかし、音の波はさとり妖怪にとって重要な事ではない。重い頭を引き摺って、りんは中庭を後にした。
 自室へと戻る五百六十歩の間。只管に選択のシミュレートを続ける。大脳と脳幹部の間でかわされる討論の主題は、生存率の追求だ。それを残酷なまでに『合理的』に判断し、りんはついに結論を出す。
 「あたいは……、もう少しだけ、微睡んでいたい」
 ベッドに倒れ込んだ火焔猫は、それきりぴくりとも動かなかった。




 ◇◇◇


 この結末は理解していた。本能はとっくの昔に逃走を選択していた。それでも、りんが今日まで地霊殿に残ったのは、灰から身を隠す屋根が欲しかっただけ。万が一何も起こらなかった時、居場所(ニッチ)を他の妖獣に奪われたくないだけ。全ては、長期的なメリットのため。そう器を騙し続け、りんは今日と言う日を迎えた。
 「睡眠は大事だ。良く寝てないと集中力が落ちるし、何より反応速度の低下が致命的だ」
 きっかけは苔鼠(シーダー)の怪我だった。些細な事故で流れだした血液が、その周囲に居た灰狼(コロニア)の本能に強く働きかけてしまった。結果、アドレナリンに突き動かさた灰狼(コロニア)は暴走を開始する。
 「だから一昨日もよく寝たし、昨日は夜九時にベッドに潜った。確かその筈だ」
 その事を知った時。りんはベッドの上で夢を見ていた。断末魔とともに終わった夢の内容をりんは覚えていない。ただ、楽しいという情動認識だけが大脳に残されている。
 「あぁ、眠い。レム睡眠中に起こされたのは久しぶりだよ。起床タイミングは大事だね」
 廊下の壁に据え付けられた燭台を見送る度、嗅上皮に付着するヘム鉄が増加の一途を辿る。明かりの枯渇とともに、暗闇が廊下を包む。オプシンレチナール複合タンパクに頼る光受容を諦め、『暗視野(サーモグラフ)』に切り替える。帰ってきたのは、灰白色の仮想映像。それは、『生体情報網(バイオメトリックデータネット)』の停止を示していた。
 「今日は何をして過ごそうか。あぁ、もう一度昼寝をしても良いし、空をからかうのも良いだろう」
 暗闇の中を『反響定位(エコロケーション)』のみに頼って進む。脳内に構築されていく三次元マップ。床の上には瓦礫に混じり、小型で複雑な形状をした物体が幾つか転がっていた。
 「死体運びを手伝っても良い。何せ今日は仕事にこまらない」
 その正体に気が付きながら、りんはそれでも先に進む。脚がその内の一つを踏みつける。生々しい水音と共に、アンモニアと鉄の香りが周囲に広がった。足裏の感触はりんの歩みを止めない。暗闇の向こう側。地霊殿の玄関(エントランス)から届く二つの反響が、りんの心を焦がして止まなかった。
 「だけど、体が重いなぁ。眠気覚ましの珈琲を誰か入れておくれよ」
 ぬるとした感触とともに暗闇を抜ける。明転する視界。ホワイトアウトする視界の向こう側に立つ人影は。驚く程呑気な顔でりんを出迎えた。
 「おはよう。『陽』。調子はどうかな?」
 小首をかしげた陽が薄い笑みを浮かべる。いつも通りの笑み。いつも通りの無口。ただ自然に、追いかけっこを誘う童の様に、陽はりんに手を伸ばす。
 「ふふ、運動不足かな? 付き合ってあげるよ」
 真っ赤に染まる爪の間には、灰白色の脂肪が詰まっている。無邪気というにはあまりにも暴力的で、殺意というにはあまりに原始的な情動の発露が、りんへと向けて放たれた。
 「りん、おなかが一杯にならないんだ。おにくが……、おにくが……、食べたい。食べさせて」
 「そりゃ、半分以上苔だよ。あんたにとっては食いでが無いんじゃない?」
 ロドプシン合成と並行していた妖力視が完成する。視界に映るのはあまりに貧弱で、あまりに歪な『成形筋繊維』。妖力量にまかせて補強された爪がりんの横十五センチを通り過ぎた。籠められた運動エネルギーは並。速度は十分。しかし、絶望的に直線的で盲目的に攻撃的な運動はさとり妖怪の行った、『作業記憶』を用いた『高速反復学習』を再現すまでもなく避ける事ができた。
 不毛な突進を繰り返すこと二十三。乳酸蓄積によりアクトミオシンの収縮が阻害された筋繊維は、陽を地面に縫い付ける。りんは無言でその頚椎に指を掛けた。
 「いやだ」
 陽の体が急速に膨れ上がる。透き通るような灰髪が薄汚れた体毛へと変化し、華奢な細腕が盛り上がって地面を掴む。太く長く伸びた頸部がりんの拘束をはねのけた。
 「ごめん。それは少し面倒だ」
 それは妖獣の『原型復帰』。運動効率の悪い人型を捨て、ただ筋力に特化する形。見る間に折れ曲がった腰は、後脚に力を溜めたが故だろう。粗暴に変化した顔には、白い牙が覗いていた。『狼男(ワーウルフ)』とでも言うべき中途半端な状態。その復帰が完了する直前に、灯の心臓にはりんの腕が突き入れられた。心房に指が侵入すると同時。灰狼から力が抜ける。陽の体が、吸い込まれる様にゆっくりとりんの胸に収まった。
 「りん……、僕、死にたく……」
 陽の顔には人の特徴が戻りつつある。灰色の体毛に沿って、一筋の雫が流れた。
 「馬鹿だね。祈っただけで生きられるなら誰も苦労しない。あんたは後一分もせずに逝く。助ける者は居ない。あんたを助ける事が熱量獲得戦略上有利になる奴が誰も居ないから。だからあんたは、あたいを恨みながら逝くんだ。それが地獄の生命らしい最後だから」
 「や……、だ……」
 だだをこねる子供の様に陽がりんの体にしがみつく。筋繊維の収縮に耐えられなかった血管系が、陽の喉元に多量の血液を排出した。
 「わがままを言わないの。でも、そうだね。あんたはあたいにとって毛ほどの価値もない存在だ。だから、無視してやっても良い。今丁度、少し眠いから。偶然にもあんたが死ぬまでここで、こうしてやっているかもしれない。だから……、それで我慢して、……お願いだから」
 長期記憶(LTM)を引っ掻き回し、空の手つきを視覚野に再生する。行為と対象は全くの無関係であると、本能に対してあまりにお粗末な言い訳をしながら、りんは灰色の髪を櫛ってやった。
 「こわい……、痛い……、……よ。――、――」
 脈拍。胸の上下。瞳孔反射。全てが完全に停止したことを確認し、りんはそっと瞼に手を掛ける。少年には似つかわしくない苦悶の表情が、そこには浮かんでいた。
 「そうか。あんたはそっちが好きだったんだね。なのに、選んだのはこの結果だったんだ。あんたは偉いよ。正直、眩しいな……」
 物言わぬ躯(むくろ)と化した体は完全な人型に戻っていた。可愛らしかった顔にも、見る者全てを魅了する耳も。全てが赤黒い血に覆われている。小さな肢体を地面へと横たえる。何処からとも無く現れた鎧鼠(シールダー)が、眼球を抉り出し頭蓋の中へと潜っていく。続々と集まる鎧鼠(シールダー)により、陽の体は忽ちに覆われてしまった。
 「そうか。『認識阻害結界』はもう働いていないんだ。あいつも人並みにショックを受けるんだね」
 大理石の隙間に挟まった小腸の欠片を踏み潰し、転がる目玉を蹴飛ばしてりんはそれに歩み寄る。もう一つの苦悶に満ちた『頭』は、大理石の床を舐めていた。
 「灯、これはあんたの臨んだ『死に方』と近かった?」
 泣き別れた胴体部は、厨房へと続く廊下近くに転がっている。死の直前まで足掻いたのだろう。その体には激しい損傷と、灰狼の物と思われる血液が多量に付着していた。
 「『生きたい』が為に苔鼠(シーダー)を襲ったあいつは死んで。思い通り『死にたい』が為に生きたこいつも、こんな顔で転がっている。でも、これは結果なんだ。この場所で思い通りに生きられるのなら、誰も苦労しない。全て正しい選択を行って『初めて結果を運任せにできる』。いつも通りだ。どうしようも無い位に、ここはいつも通りだ。忘れていた」
 個体レベルで見た時、生命とは必ずしも厳格に法則に従っている訳ではない。単純な確率論。地上でも、旧地獄跡でも平等に世界を支配する『本能』の上位法則である。故に、幸運が介入する可能性は零ではない。あまりに期待値が少ない為に、とても本能には組み入れられない。しかし、期待できない安全網(セーフティーネット)は確かに存在する。灯にとってのそれは、『切断された触手』という形を取っていた。
 「そっか。頭だけは。あんたが守っていたんだね。『ありがとう』。筋違いかも知れないけど、あたいにも、この位の幸運(ラッキー)があるなら。死ぬのも悪くない。そう思わせてくれたから、礼は言うよ」
 頭部に群がる鎧鼠(シールダー)が、触手に打たれて息絶える。『灯だった物』に寄り添う触手は、無事な部分を見つける方が難しい。著しい損傷を受けた触手は、疑う余地も無く絶命寸前であった。「もう良いんだ」りんは灯の頭を優しく掴み、たった一度だけ胸に抱く。
 「おやすみ。灯。良い夢を」
 瞼を下ろし、地面に置くと同時にりんは去る。視界の端。造精器から打ち出された『種』が灯と触手を覆い尽くした。


 「あぁ、駄目だ、駄目だ。人化できる妖獣に手を出すなんて。長生きできないよ」
 両断された灰狼(コロニア)がりんの背後に倒れこむ。その屍に無数の鎧鼠(シールダー)が群がった。三十秒もしない内に骨へと変わる肉片の顛末を見届けず、りんは階段の上へ昇る。
 目指すのは地霊殿の中心。ピンク色の大脳を蹴り飛ばし、どさくさに紛れて入り込んだ野良の火焔猫を叩き潰す。最も濃厚な血の香りが漂う一室に近づくに連れ、廊下の端に転がる躯(むくろ)は増えていった。黒く染まったカーペットと脊椎の張り付いた壁が向かう先。開いたままの扉の奥に、りんの求めた気配はあった。
 「おはようございます。火焔猫さん」
 地霊殿の執務室兼、書斎。香ばしい豆の香りが広がる室内で白い手が珈琲カップを傾ける。厳しい業務机に腰掛けた人影が、優雅な動作で空いた珈琲カップを差し出した。
 「おはよう……。さとり妖怪」

 ◇◇◇


 「馬鹿な奴」
 伸ばせば手が届く距離。その言葉は眼の前に立つ物体へ向けて放たれた。冷たい響き。冗談や怒りが持つ温もりは、どこにも籠もっていない。不自然なまでに無感情な瞳で、りんはその物体を分析した。
 「『魄』が崩壊を始めてる。馬鹿な奴。当り前じゃないか。『魄』の妖怪が『魄』を否定して後に何が残る」
 狼の子供を抱いていた白く暖かな腕は、赤とピンクの繊維状組織が剥き出しになっている。だらりと明後日の方向に垂れ下がった腕がぼとりと地面に落ちた。
 「ねぇ、あんたは知っていた筈だよね。妖怪ってのは魂魄の内、『魂』が生み出す妖力で生きる存在だ。そして、あたいら妖獣は、『魄』が妖力を生み出している。本質的にはどちらも同じ。素体が違うだけでどちらも妖怪には違いない。だから、あたいらも妖怪と同じで、『存在理由』の否定が死を意味する。肉体を構成し本能によって監視する『魄』の『存在理由』はね、『存続』だよ。あんたの目の前で珈琲飲んでる奴は遺伝的な繋がりもなければ、利用価値がある訳でもない。そんな、他人の為に命を張るなんて、あたいらの『魄』は許さないんだよ。わかっていたはずだよね? ……『空』」
 「か……、ぺ――。☆△――、○」
 空が口角から白い泡を飛ばし、感電したかのように小刻みな動きを繰り返す。めちゃくちゃな方向を向く瞳孔は最早何も映しだしていないだろう。変わり果てた姿の空はもう、どんな言葉も紡げる状態では無かった。
 「さとり妖怪。こいつの余命は後どの位?」
 「今、『妖怪化した魄(はく)』の霊的組成崩壊率が二割を突破しました。不可逆的(エピジェネティック)な変化への移行が死と定義されるなら。空の命は残り十分程でしょうか」
 がくがくと、小刻みに震える空が白目を剥く。その両足噛み付くのは二体の灰狼(コロニア)。空は碌な抵抗も見せずに両足の筋肉を半分ほど千切られている。もはや空を支える物は骨格以外何も無かった。
 「原因は表出する情動と認識情動の剥離が引き起こした、『正帰還回路(ポジティブフィードバックループ)』です。パペッツ回路で発生した破綻は、小さな物でしたが、そんな些細な損傷にすら耐えられない程に、空の魄は損傷していました。本能の『例外処理』、『魄』の定義する本能に対し、空が勝手に定義した無茶な処理回路がエラーを蓄積させたからです」
 「だろうね。この地霊殿(コロニー)程に歪な存在も珍しい。全部こいつがやってた自慰(オナニー)の結果なんでしょ?」
 「私も止めたかったのですが、如何せん私にはそれ程の権限がありませんでした。力で屈服させても良かったのですが……、それでは意味が無いですし」
 ずずりと黒い液体をさとり妖怪が啜る。間髪を入れず、口の端から垂れる液。さとり妖怪は床に広がる染みを意に介す様子もない。べろりと舌を出し、顔をしかめたさとりがカップの中身をまじまじと眺めた。
 「馬鹿な奴。誰よりも地獄鴉である事に固執したあんたは、誰よりも妖獣からかけ離れた形で一生を終えるんだ。だけど、あんたは幸運(ラッキー)だ。あたいは優しいから。あんたがそうなる前に殺してあげる。安心して欲しい。地獄鴉の狩り方は、誰よりも良く知っている」
 首筋に指を這わせる。それは、この世で最も安楽に命を刈り取る手法。つまりは、頚椎脱臼。慈愛の念すら抱きながら、りんは指先に力を入れた。
 「あら、そんな事はさせませんよ。空に死なれては困りますから」
 腕に走る衝撃。関節を打ち抜き、骨を震わせたのは妖力の弾丸だった。痛覚が知らせる弾丸の入射角から逆算し、その弾道の源泉に眼を向ける。怒りも殺意もなくただ事務的な敵意を向けるさとり妖怪が網膜に写り込んだ。
 「……なんだ、あんたが助けるんだ。物好きだね。だったら早くしてやって。完全に壊れたら元も子もないよ」
 「いいえ、そんなつもりはありません。『ソレ』は要らないですから」
 悪意もなくただ淡々と述べる。それは無感情ですら無い。ただ確定した未来を語る様にさとりは空だった物を眺めている。「……何をするつもり?」不穏な感情がりんの中に沸き起こる。「言葉の通りですよ。用があるのは、空の入れ物です。今の『魄』は別に壊れて貰って構いません」「『魄』を壊して、残った空の『残骸』を何に使うのかって聞いてんだよ」
 「別に。特別なことは何も――」
 それはいつも通りに、ただ朝食の献立でも読み上げる様に。薄気味悪く笑うさとり妖怪の顔が、ぐにゃりと歪んで見えた。
 「ただ、空に私を愛して頂くだけです」
 全身の血液が逆流する。一転、露悪的な笑みを見せるさとり妖怪に、もはやりんは冷静を保つ事ができなかった。
 「ふざけるな――ッ!!」
 飛び上がること一メートルと二十。業務机の上空でさとりの頭に狙いを定める。二百ミリリットルの妖力を費やし、静から動へと急加速させた踵は、さとりに触れることすら叶わずに机を二つに割る。間髪を入れずに放たれた爪がさとりの腕に掴まれた瞬間。りんの体は地面に叩き付けられていた。
 「ふざけている様に見えますか? 悲しいですよ」
 「……何処まで馬鹿にすれば満足だ。あんたはあたいらから……、どれだけ奪えば気が済むんだ!?」
 「全てです。あなた達の意志が生み出す薄っぺらな感情も。本能が掲げる下らない誇り(プライド)も。全て頂きます。私は貴女達に一切の自由意志を認めない。何故ならば、あなた達は、体に流れる妖力と血の一滴まで私の物になるからです。所有物(ペット)です、それ以上になる事もそれ以下に甘んじる事も許さない。最初に言ったはずですよ。『権威症候群(アルファシンドローム)』はお互いに辛いと」
 淀みなく、迷いもない言葉がりんの心を激しく揺さぶる。生み出された情動表出指令に身を任せようとした次の瞬間。りんのものではない悲鳴が地霊殿を満たした。
 「――グゴベぎゃ◇――、○△――」
 魂が悲鳴を上げるように。声としての体を成さない空の慟哭が地霊殿中に響き渡る。あまりに膨大なエネルギーは、りんの鼓膜はおろか、空の首にすら損傷を与えていた。轟音の収束と同時。血を失い過ぎた空が地面に突っ伏す。肉塊と区別の付かない鴉に二頭の狼が食いついた。
 「空……?」
 「これは……、内外両面から魄が崩壊していますね。少しまずい。物理的に壊れられても困ります」
 視界が真っ赤に染まる。気がついた時、りんの両脇には二つの肉塊が転がり、真っ赤に染まった手は空の頚椎に掛けられていた。
 「空、あんたは……、あんただけは。あたいが、殺す。こんな奴の玩具になんて……、させない」
 「馬鹿ね。私の前で嘘を吐くなんて、それこそ不合理よ」
 ぎりりぎりりと締め上げる度、空の口からは白い泡が吹き出る。苦しげな表情が、締めあげられた事によるのか、それとも魄の損傷なのかはりん自身にも分からなかった。段々と、空の体から力が抜けていく。指先にぬるりとした手応えを確認する。締め上げること五秒。鴉の体から完全に力が抜ける。りんはただ呆然と地面に横たわる空を見た。ばきりと奥歯が砕け、地面に転がった。


 「脳波は沈静化。出血は停止。自発呼吸もあり、と。ひとまずは大丈夫ですね」
 空の体を調べていたさとりが、安堵の表情を浮かべる。その偽善に満ちた様子を、りんはただ黙って見ているしか無かった。
 「ひとまずはお礼を言います。ありがとうございました。空を助けてくれて」
 「違う、あたいは……、殺してやりたかったんだ」
 自己嫌悪に苛(さいな)まれる火焔猫はただ頭を抱えてしゃがみこむ。空にとどめを指す一瞬。りんの薄弱な意志は、頸動脈を探り当てていた。結果として起こるのは意識の遮断。表面上の死により本能を騙したりんは、空の死亡を免れることと引き換えにさとり妖怪への加担を強いられていた。
 「いいえ。貴女は確かに殺しましたよ。空を危機に晒していたのは一重に彼女が内包する地獄鴉でしたから。鴉としての習性が、己の生命よりもコロニーの命運を重視した結果として、空は私の前に立ち続けていました。ただ、空が『例外処理』をしていたが為に、守るべき敵と味方が同一になってしまいましたが」
 「でも、こいつはまだ生きている……」
 「そうですね。だから、空にはちょっと変わっていただきます。まぁ、それ自体は簡単な作業ですよ。『魄』を修復する時にちょっと手を加えれば良いだけですから」
 「……それだけは駄目だ。あんたのやろうとする事は地底を生きる全ての獣に対する冒涜だ。あたいにとって空がどんな存在かはもう重要じゃない。ただ、将来的にあんは危険だ。だからあんたは……、今殺す。空はその次」
 「できると良いですね。良い結果をお祈りしてあげます」
 つぎ込むのは八百ミリリットル分の妖力。ありったけの妖力で構築した巨大な成形筋繊維を後ろ脚につなげる。現実の筋繊維と連動させる神経接続(シナプスリンク)は優に普段の三倍を超えるだろう。『高速反復学習』の隙など与えない。体内に残る殆どの妖力を結集して最大の一撃を放つ。絶対的な殺意を持って放たれた一撃は、驚くほどにあっさりとさとり妖怪によって受け流された。空転する脚に、制御を失う体。気がついた時、りんは部屋の反対側の壁まで投げ飛ばされていた。
 「惨めですね。火焔猫さん。貴女は何一つ思いを貫けない。地獄鴉を助けることも、私を殺すことも叶わない。だから、これは火焔猫さん自身の責任ですよ」
 圧倒的な力を前に、脳内はアドレナリンに満たされる。強固な意志で『闘争』を強制議決した脳は際限なく活性化を続けていた。
 「火焔猫さん。私はあなたも殺そうと思います。頑張って抵抗して下さいね。その間あなたは生きていられます」
 りんがさとりに届かないのは、さとりに読心能力があるからだ。『作業記憶(ワーキングメモリ)』が開放されたさとりは、シミュレーションと『高速反復学習』により驚異的な力を発揮する。
 地面を蹴った空が地を這うような体勢でさとり妖怪に迫る。掬い上げるような鋭角で放った爪は予想通り難なくかわされた。
 早く早く。もっと早く。さとり妖怪の読心が活動電位の全てを観測しようと物理的に対応が間に合わない速度を。成形筋繊維を練る事、三百ミリリットル。干渉し合った筋肉は、計画の三十パーセントの力も発揮しないだろう。しかし、それでも構わなかった。それがナノセカンドに満たない時間距離であっても、さとり妖怪に近づけるなら何でも良かった。
 「無駄ですよ。有髄神経線維を利用している限りは、運動神経伝達速度(MCV)はせいぜいが七十メートル毎秒。その程度なら、私は問題なく解読できます」
 うるさいと。頭の中でさとりの言葉を一蹴しながら、りんは部屋の中を駆け回る。遠心力を利用し壁を掛け、天井を蹴って地面に降りる。より早く、より複雑に、三次元的な軌道をもって三度りんはさとりに襲いかかった。
 「火焔猫さん。不思議ですね。あなたは死にたいんですか?」「そんな訳……、あるか」
 直上を含めた全方位飽和攻撃も、事前に予告されていれば意味が無い。繰り返される十五回の剣戟は、火焔猫の筋節に乳酸を集積させるだけの結果に終わった。滑りこみ反応が阻害されたアクトミオシンが強制的にりんを静止させる。さとり妖怪の目の前で倒れたりんに、白く細い指がつきつけられた。
 「それは不思議ですね。本当に生きたいなら、貴女にはまだ手段があるはず」「何の話だ」額におかれた指が、ちりちりと皮膚を焼く。そんな錯覚がりんを襲っていた。「言わないと思い出せませんか? そういう事にしておいた方が都合が良いですか?」「――?!」
 ぞくり、と全身を包む寒気にりんは慌てて逃げようとする。両脚の感覚が消失している事に気が付いたのは、下半身に引っ張られて、上半身が床に激突した後の事だった。
 地面に拘束されたりんにはさとりの顔を睨むことしかできない。時を置かずにさとりの口が開かれる。毒言だ。魂を犯す精神性の毒が注がれようとしている。思考とは対照的に、下半身は鉛のように地面に張り付いていた。
 「貴女、――」
 絶対にその先を聞いてなならない。しかし、警鐘を告げる筈の本能は、既に致命的な損傷を受けてしまっている。本能の代わりに、現在の意志がりんを逃がそうとする。指先の一つで地面を引っ掻くあまりに些細な努力は、環境に対し何の影響を与える事もできなかった。

 「――原型はどうしたんですか?」

 視界に無数の亀裂が走る。視界中央に佇むはずのさとりが、分裂した視界に重複して映り込み、悪魔の様な笑みを浮かべていた。洞房結節(ペースメーカー)が壊れてしまった様に早まり続ける拍動とは対照的に、りんの体は急速に冷えていく。そんな体の変化をりんは他人事の様に見つめていた。
 「あなたは今、あの黒猫にしかなれない。更に言うのであれば、最も今の姿が落ち着くと考えている。黒豹のような雄大な本来の姿とはあまりにも掛け離れた、その幼い人型は貴女の『本性』を表しているのでは無いですか?」
 視界の端が抜け落ちる。意識は間違いなく連続性を保っているのにも関わらず、視神経からの入力がまるで不均一に処理されていた。
 「ち……、ちが……、あ……、あ……」
 震える口は正常な言語を紡げない。そも、言語野へのアクセス法が思い出せなかった。機能停止に追い込まれた小脳がりんの体を小刻みに揺らす。定位置を保てない瞳孔が、ぐるんと裏返った。
 「おはようございます。おりんちゃん」
 散乱する視界。分裂する体性感覚。地面に落ち行く歪な菱型の視界を通してりんが見たのは、零ケルビンの瞳だった。


 「――知っていますか? 火焔猫さん。貴女が常々、魄への言い訳に使っていた孤独回路は『抑制系』なのですよ。物好きな学者の研究によるとね」
 再機動中の脳の中。優先して復旧した聴覚神経と聴覚野、及び言語野の一部がさとりの声を処理し始めていた。不定形の意志が視覚野に情報を要求する。接続失敗。視覚野が一から手順を開始した。復旧は最期になるだろう。
 「ねぇ、火焔猫さん。分かりますか? どこにも亢進回路(エンハンスループ)が無いんですよ。なのに、貴女は他種族とすら交流を持とうとする。おかしいですね。普通の火焔猫はそんな事をしないのに」
 連合野の活動レベル上昇が、りんとしての意志に警告(アラート)を出す。
 「やめ……、ろ」
 さとりによって阻害された運動神経の伝達、つまりアセチルコリン(Ach)再合成は未だ不完全。その為に、漸く絞り出した声は、今にも消え入りそうな程に掠れていた。
 「あなたの本質は、そこにある。野生に生まれ、孤高に生きる火焔猫でありながら。子猫の頃に感じた温もりを忘れられず幼形成熟(ネオテニー)した猫。それが、貴女の本性ですね」
 物理的抵抗の不可を良いことに、さとりは容赦なくりんを攻め立てる。
 「やめろ」
 視野が復活する。しかし灰白色の景色は破壊されていく自我に現実感を付加する為だけに、さとりから与えられている。その事実は誰よりもりんが良く理解していた。
 「だけど、『孤独回路』を言い訳にした、一方的な肉欲では満たされない。『貴女が求めていた物』は、本質的に私と同じなのではないですか? そう、つまりは――」

 「――『愛』」
 「――やめてくれ!!」

 肉体が完全な覚醒状態へと移行。引きつった声帯を無理矢理に動かし、りんは慟哭した。
 「正解、と言う意味で良いでしょうか?」
 自覚した意志は間違いなくりんの物だった。しかし、脳のあらゆる領域にロックが掛けられたように、思考の範囲が狭められている。ぼやけた視界の向こう側。さとりがにやりと不気味な笑みを浮かべていた。
 「やめて……、くれ。お願い、だから……」
 りんは自らがさとりによって与えられた限定的な意志である事を悟る。言い訳の言葉を紡ぐ権利すらりんには与えられていなかった。
 「あぁ、その通りだよ!! あたいは空が大好きだ!」
 りんの叫びは地霊殿を飛び出て『金剛骨処区』全てに響き渡る。加速度的に崩壊する魄も、不気味に笑うさとりも、地面で気絶する空も。その一切合切に考慮するだけの能力がりんには許されていなかった。それ以外の選択が無いからただ叫び続ける。それはりんの主観的に『合理的』とすら言えた。
 「あいつは、空は! こんなあたいを『初めて好きだと言ってくれた』。だから、あいつが好きでたまらない。あの呆けた顔も。意地っ張りな所も、無駄と分かっても全力な所も、自分なんか眼中に無い所も。全部が全部、好きで好きでたまらない。この世の中で他に優先するものが無いくらいに愛している」
 りんの告白を聞くべき鴉は意識を失っている。おそらく、聴覚野も含めて機能停止に追い込まれているだろう。存在消滅を掛けたりんの告白は、空の記憶にすら残らない。それで構わなかった。
 「守ってやりたい。あたいの命なんかで守れるなら幾らでもあいつの盾になりたい。そう思っている。――なのに!」
 擬似的に再現されるパペッツ回路が生み出したのは喜びの感情。脳が認識したそれに対し、りんは疑問を抱かなかった。
 「あたいには空を愛する『手段』がない。『権利』が無い。必要な本能も、実行する回路も、承認を許す心も。一切合財が、あたいの体の何処にも……、備わってない。だけど、だけど……、あたいは空を愛したい。教えてよ、さとり妖怪。どうすれば、あたいには空を愛することが許されるの……!!」
 何故なら、悪魔的な笑みを浮かべるさとりが紡ぐであろう言葉をりんは『理解』している。意識の再起動時に介入された式には、さとりの狙いすらも丁寧に記述されていたからだ。
 「先ほどお伝えした通りです。私の『所有物』になりなさい。そうすれば、貴女は空と肩を並べて生きることができる。私を守るついでに、空を守る『権利』をあげても良いですよ」
 告げられる事実は予測と一致する。目前に迫った現実を前に、りんは静かに瞑目した。
 「空を弄んだお前を『愛せ』と。空を慰めたその手で抱かれろと、あんたは言うんだね……」
 「その通りです。空が受けた物と同じ愛撫を貴女にも受けて貰います」
 「最期に、教えて欲しい……。あんたはどうしてそこまでできる。四頭の妖獣を殺してまで、あんたは何を求めているの?」
 「この『手』で抱きしめたい人がいる。それ以外の何が必要でしょうか?」
 閉じた瞳は何も映さない。それでも、りんにはさとりの感情が読み取れた。接続規制の掛けられていた領域が徐々に解放されて行く。見慣れたはずのそれらは、一見いつもと同じ様に見える。しかし、最早それは完全な別物だった。
 「……良い? 二度と言わないからよく聞いて」
 りんの意志が赤く塗りつぶされていく。灰白色だった世界に極彩色が舞い降りる。羽が生えたように心が軽くなっていく。その言葉を紡げる事を、りんの大脳新皮質は間違いなく嬉しいと認識させられていた。
 「あたいはお前が大っ嫌いだ。だけど。認めたくないけど、空の心はお前を利用したつもりでいて、まんまとお前に囚われてしまっている。お前の為に、命を使う事に何の疑念も持たない程度には」
 困ったものです。そう呟くさとりは満足気な顔で横たわる空を見る。
 「あたいはお前の事が大っ嫌いだ。例えそれが空の意志であっても、空が死ぬ原因は最早お前以外に考えられないからだ」
 言葉を紡ぐ度、体は自由を取り戻していく。意志の決断が自らの責任によって行なわれた物であると、念を押す様にりんには仮初の自由が与えられていた。
 「あたいは、お前が大っ嫌いだ。だけど、空を守るにはどうしてもお前を助けなけなきゃいけない。あいつは馬鹿だから。また今日みたいにおまえを守って命を危険に晒す。だから、『誰か』が守ってやらなきゃいけない」
 ちぎれた空の腕をさとりが慈しむように撫でる。幻痛に苛まれる空が僅かに身を捩った。りんの口の端から何かが滴る。地面に盛り上がる紅い斑点がりんの心に情けばかりの冷静を与えた。決定的な言葉を準備する言語野に、火焔猫だった残照が僅かな抵抗を見せた。。
 「だから……、あたいはお前を愛してやる。お前のペットとして、空のためにあんたを愛してやる」
 「十分過ぎる理由です。ありがとう」
 満面の笑みを浮かべたさとりが静かに手をのばす。一瞬の静止。即座に意味を理解する。それは、最後の儀式だった。意志は決まっている。たった今宣言もした。しかし、『印』はまだ突いていない。
 「だけど、忘れるな。あたいのあんたへの愛は。どこまで行っても空のための物だよ。『魂』も『魄』も、あんたに全部くれてやる。だけど、刻みつけられた『記憶』は、あんたなんかに書き換えさせたりしないからな」
 「構いませんよ」
 みっともない悪足掻き。眉一つ動かさずそれを受け入れる様子に火焔猫の残照は舌を打つ。眼を開き、さとりの顔を真正面から見て、りんは震える手を伸ばす。指先が白い手に増れる。唾を飲み込み、何度もためらった後。ようやくりんはさとりの手を固く握った。






















 「よろしくお願い致します。さとり様(クソ野郎)」
 「地霊殿にようこそ。おりん」











































 「さとり様、何処に行くのですか」
 「良いから。空。来なさい、それと――」























 腹の底を地鳴りが揺らす。生物の想像を絶する規模を持って生きる大地は、今この瞬間も確かに蠢き続けていた。そんな生命活動のほんの一端。崩落により湧きだした溶岩河川の淵で赤外線(インフラレッド)に照らされる人影が二つあった。
 「熱いわね。空。いつも通りに、とても……、熱いわ」
 「ええ。『冬』は終わりましたから。冬以外が熱いのは当たり前です。さとり様」
 地面には未だ生々しく灰白色の雪が残っている。気温上昇と共に地面と癒着したそれは、最早脅威とは言えない。それでも、記憶に植え付けられた『灰』への恐怖は、彼女の心を震わせた。
 「空、貴女にはこれが何に見えるかしら」
 「溶岩河川です。昨日までは『蜘蛛の巣』で、岩盤蜥蜴(ボーラー)達が、隠れ家にしていました。だけど、昨日の地殻変動で河に変わりました。だから、『溶岩河川』です。どこにでもある。ありふれた存在です。忘れたんですか? さとり様」
 「そうね。『溶岩の流れる河川』。『毒蜘蛛の這いずる天蓋』。『炎の豪雨』に、『灰色の雪』。そして、決して消えない『腐敗臭』。どれもこれも……、当たり前の光景」
 さとりに濃厚な情動表出が観測される。口元から滴り落ちた雫が、地面に辿り着く前に紅い霧へと遷移した。その様子を鴉は静かに見つめている。さとりの後方、五十センチ、丁度一歩分の距離。何がさとりに起こったとしても、一足で対応が可能な場所で、地獄鴉はさとり妖怪を見守っていた。
 「さとり様。なんでしょうか。いきなり」
 「いえ。ただの世間話ですよ。久しぶりに外に出られたんです。少し位お話に付き合ってくれても良いじゃないですか」
 「この一ヶ月間。ずっとお付き合いしていました」
 「まだです。全然足りません」
 さとり妖怪の瞳が溶岩河川に注がれる。そこに籠められた意志を読み取るのに読心能力は必要ない。怯えたような、それでいて果てしなく強き意志が、さとりの口から漏れ出ていた。
 「『灰狼(コロニア)』は今日も鬼の世界(ドミニオン)に無謀な潜入を試みて死体を増やしているし、『地獄鴉(インフォーマ)』は目の前で蘚苔類に飲み込まれる仲間を何もせずに見守っています。『土蜘蛛』の網に翼を折られた『疾鷹(はいたか)』が地霊殿に墜落したのは、……昨日の事だったかしら」
 「何時もの事です。さとり様」
 「是非曲直は『旧地獄跡及び焦熱地獄炉の再開発事業』に対し、正式な中止を決定しました。私の下にも間もなく撤収の指示が来るでしょう。しかし私は帰るつもりがなく、是非曲直庁から支援を受ける事もできない」
 「私達が居ます。さとり様」
 旧都の何処からともなく怨霊の呻きが沸き起こる。餌食になったと思しき、獅子の咆哮が掠れて消えていった。
 「とても心強いです。しかしですね、この旧地獄跡は、是非曲直庁の支援なく生きるには……、少しばかり不都合な事が多いと。私は思います。空、貴女はどうですか?」
 「私は……、さとり様に従います」
 溶岩河川に浮かぶ半球がぼこりと弾けて消える。空の内包する戸惑いの情動を、さとりが知らない訳が無い。半自律稼働し、脳内で発生する『活動電位(スパイク)』の一つすら読み取る第三の眼(サードアイ)がその程度の単純な現象を見逃す筈がない。
 「ありがとう。空」
 遠距離からでも観測できる。さとりは両の眼を閉じている。姑息な事にさとりは空の表情を網膜に入れる事を拒んでいた。
 「空、あなたは何時まででも、何処まででも私と来てくれますね?」
 「当たり前じゃないですか。嫌だって言ってもついていきますからね。何があっても離れません。例え、それ以外の何を失うことになったとしても」
 「そうですね。でも、ずっと一緒に居る為に、あなた達を危険に晒さない為に。私達はやるべき事があると思うの」
 「やるべき事……、ですか?」
 「ええ。そうです。少しばかり準備が要ります。忙しくなりますね。空」
 さとりは空に背を向け。ただ溶岩河川を見守っている。飛散した溶岩の一部が、灰としてその頬に張り付いた。
 その背後で空はさとりの背を見ている。まるでその背が数秒後に消えてしまう事を案ずる子供の様に。落ち着かない様子でじっと立っていた。
 時が止まった様に状況は動かない。歯車が狂ってしまった様にゆるやかに進む時計を、再び揺り動かしたのは。『一切人熟処(いっさいにんじゅくしょ)区』の定期噴出だった。
 「お昼です。帰りましょうか」
 「はい。さとり様」
 それ以上何を語るでもなく、さとりは踵を返す。三拍程遅れて、空もその背を追った。地霊殿へ続く道を二人は引き返す。未だ灰色の残る世界の中。蛇行しながら続く三つの足跡は何処か浮いて見える。
 「……あ」「どうしました? さとり様」 ふと脚を止めたさとりが、くるりと空の方に向き直った。
 「ねぇ、空」
 「何でしょうか?」
 「燐、知らない?」
 「そこの天井で寝ていますよ」
 「おいっ、バラすな! 空」 
 「サボりは感心しないですね。言ったじゃないですか。着いて来なさいって。」
 「護衛なら別に近くの屋根からでもできる。張り付くだけが大事じゃないって、そこの鳥頭にも教えて上げた方が良いと思いますよ。さとり様」
 「ですって、空」
 「はい。あれはサボりの言い訳です。聞く価値がありませんね」
 「ですって、燐」
 「ぐぬぬ……、空の癖に口が回るなんて……」
 「そりゃそうですよ。貴女が毎日、毎日。何故かトイレに篭っているお勉強の時間に、この子は毎日頑張っていますから、ねー。空?」
 「はい。燐になんて負けませんから。だって、さとり様一番のペットは、私でないと嫌だもの」
 「ふん。お勉強なんて……。知識なんてもう腐るほど持っているんだよ。その上で経験が伴わななきゃ意味ないの。あたいはあんたとキャリアが違うんだよ、キャリアが」
 「ペット歴は一緒でしょうに」
 さもありなん。さとりに言われて思わず声が漏れる。模倣回路(ミラーニューロン)を媒介として、自然な笑みが、三人に伝播していた。おそらく発端は空だろう。からからと、静かな旧都に笑い声が木霊した。
 「まぁ、燐の言う事も一理ありますから。空も虐めないでやってね。私のペット同士が喧嘩するなんて悲しいから」
 「大丈夫ですよ。こいつ。こんな程度の事を気にする程、神経持ってないし」
 「おー、空。良い度胸だね。じゃ、帰ったらどっちが繊細な神経を持っているか勝負してみようか。そうだね。歯の『神経の引っ張り合いっこ』なんてどうかな」
 「おー、いーねー。じゃ、先に地霊殿に着いた方が先攻だね」
 勝手にルールを改変した鴉が一直線に地霊殿へと戻っていく。半ば呆れ気味に燐は背を見送った。
 「いつから『我慢比べ』になったっけ? まぁ、良いけど」
 「……あまり、物騒な遊びは控えて頂けると。毎回治療する方の身にもなって下さい」
 「悪いね。まぁ、妖力には余裕があるから放っておいて貰っても大丈夫さ」
 大きくため息を吐いたさとりが、便所サンダルを地霊殿に続く橋へと向ける。じりりと視界が揺れる。その熱い情動は特段珍しい物でもない。実際燐自身もそれ程気にはしていなかった。反射にも近い思いで、燐はその背に追いすがる。
 橋桁の下。湧いたばかりの溶岩が硫黄の匂いを漂わせる。しかし、それに対し嗅覚野が設ける閾値は他の物質よりも遥かに高い。嗅ぎ慣れた汚臭は最早特別な情報とすら認められていなかった。脚を早める。近づく背中に高まる鼓動。刻みつけられた『記憶』に従い、燐はさとりの肩に手を掛けた。
 「……なんでしょうか?」
 「この辺にはよく火焔猫が迷い込んできます。あたいから離れないで」
 「あぁ、そうでした。ありがとう。いつも空が後ろに居る物だから忘れそうになっていたわ」
 偉い偉いと、子供をあやすような手つきがりんの髪の毛を撫でる。それは、酷く稚拙であったが為にたちまち髪の毛が絡まる。我慢しようとするも、滅茶苦茶に頭皮が引っ張られる痛覚刺激は表情筋に出力されてしまっていた。そんな葛藤を読み取ったさとりの手が止まる。不意に生まれる気まずい沈黙。脳内に充満する罪悪感を拭うように、燐は頭を差し出した。
 「……どうしたの?」
 「もっと、撫でて良い。反復学習しないと、こういうのは、上達。しないから」
 子供のように眼を輝かせたさとりが両手で頭をかき回す。僅か三分後には、ぼさぼさで不機嫌な顔の猫が一匹できあがっていた。満足気な様子でさとりは先に歩き始める。一歩、四歩、六歩。少し離れた位置で立ち止まったさとりは、くるりと振り返ると、無邪気な笑顔を浮かべた。
 「どうしたんです? さとり様。あ、別にこれは気にしてないですよ」
 「そっちは良いのよ。さっきの事。お燐、事故を装って私を溶岩に突き落とそうと言うのは良い考えですが。いささか心情に無理がありますね。隠蔽(マスキング)用の私への忠誠がぎこちないからすぐ分かりますよ。ほら、あなたももっとちゃんと基礎をお勉強しないと。そうね、まずは形から。帰ったら熱いベーゼを贈ってあげますからね」
 子供のように軽い足取りでさとりが地霊殿に帰っていく。燐は、その背中をただ苦笑しながら追うことしかできなかった。