BOOKS 東方同人誌

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[ クリエイター ]
肥溜め落ち太郎 / 水田アマガエル

最果ての向こうへ。 

2017年03月11日更新

カテゴリー
東方同人誌, 小説
発行イベント
C83
ページ数
478
版型
新書
発売日
2012/12/30
価格
1400円


最果ての向こうへ。






 『いや、ここって地下世界だろう? なんで雪が降ってるのかと思って……』
 『あん? まあ冬だから雪が降るのは当然だね』
 東方地霊殿 ~ Subterranean Animism.より




 幻想郷の真下、奥深くに存在する巨大な地下空洞。
 倒壊した建築物と、岩、そしてホコリと溶岩が支配する赤黒い世界がそこには広がっている。太陽の光が届かない閉鎖空間、絶え間なく噴き出る溶岩に寄る極度の高温、水源不足による乾ききった大地。極限ともいえるその環境は地上からの侵入を完全に拒み、大昔に是非曲直庁の管理下で開発が行われた以外に、外部からの干渉を受けた事は無い。
 だが、それも今は昔。是非曲直庁遥か昔に開発から手を引き、結局地獄として運用されたのは僅かな期間に過ぎない。現在の地下空洞に構築されているのは地上とは完全に独立した独自の生態系。生まれながらに妖獣と見分けがつかない程の強大な獣と、居場所を追われ旧都に身を隠す妖怪だけが住む、荒廃しきった世界。それが、現在の旧地獄の姿である。
 旧地獄の環境は極限と言っても過言ではない。ほんの僅かな水を争って、獣たちはその命を落として行く。栄養と呼べる栄養が、地上からまれに投げ込まれる死体以外に存在せず、自然その食性はスカベンジャーか、カーニヴァーの二択に絞られる。
 スカベンジャーとしてポピュラーな種の一つが、 ”地獄鴉” 。それは、老い衰え、傷を負い半死半生の獣や、地上から投棄される死体をついばんで細々と生きる力弱き生命体。地下では少数派と言える飛行能力を活かし、天敵からいち早く逃げる事でその勢力を伸ばしたのがその特徴である。ありとあらゆる住人に食料として捕食される生態系ピラミッドの最底辺に属する彼らは、緩い繋がりを持ったコロニーを形成してその身を守っている。
 コロニー内で頭目を務めるのは大抵最も年老い妖獣と化した個体。人型を取る事ができ高い思考力を持って群れを導く事が出来る者が選出される。
 だから、その鴉は特異個体と言って良い存在だった。破格とも言える身体能力と極めて好戦的な性格。生を受けて数年で妖獣と化し、人型を取るに至り、その戦闘力は並の妖怪を上回る。火焔猫を始めとした本来天敵となる種にすら単騎で挑み、そして討ち取る程のその戦闘力は生態系のバランスを傾ける程の勢いを持っていた。齢十数歳にして、一つのコロニーを率い、我が物顔で旧地獄を闊歩するその ”彼女” を止められる存在は、旧都に隠れ住む地上の鬼以外には最早居ないとすら噂される。
 彼女は常に笑みを絶やさなかった。それは周りを鼓舞すると言う意味もあるし、笑う事で自らが強いと暗示を掛ける側面もあるからだ。強大な天敵の集団に出会った時は、味方を鼓舞する意味で、熊の様な巨体から心臓を抉りだした時は自らの力を誇示する意味で、自らの仲間の最後を看取る時は安心させる意味で。彼女は笑っていた。今も彼女は笑っていた。心の底から、腹の奥から横隔膜を痙攣させんばかりの勢いで高らかに笑い声をあげていた。

 「ははは……、まいったぁ。指一本動かせないや」

 あまりの自らの無力さにもはや笑う以外の選択肢が取れなかった。地面に這い蹲り無様に砂を舐めているのは何よりも ”強かった” 天下無双の地獄鴉。思い上がった彼女は地下空間の中央に位置する廃墟群の覇者。鬼に戦いを挑みそして敗北した。
 命辛々その場を逃げ出しようやく辿りついたのは廃墟群外殻。岩と瓦礫ばかりが広がり怨霊の特に多い地帯。最も危険な場所で地獄鴉はついに翼が折れてしまった。
 羽の折れた鴉に凶暴な怨霊から逃れる術は無い。周囲に漂うのは無数のしゃれこうべ。人の怨念を喰らい、妖怪の魔性を取り込み、力を増す彼らは間もなくこの喉元に喰らいつくだろう。
 迫る濃厚な死の気配は己の清浄な判断力を狂わせる。死が怖ろしく無かった訳では断じて無い。仲間を看取る度、己の天敵を返り討つ度。手の内の骸が次は己の姿であると胸に決して消えない強迫観念を刻みつけるのだ。
 だから彼女は鬼に挑んだ。鬼に勝てば己を上回る物は誰一人この地下世界には存在しない。ただそれだけの安心感の為に彼女は無謀な戦いにその身を投じたのだ。仲間にはこの事を一切伝えていない。自己の我儘の為に仲間の身を危険に晒す事は絶対に嫌だった。故に彼女は一人だった。死に臨み、心が折れ、翼が折れた。胸に這いよるどうしようもなく暗く、堪らなく ”寂しい” その感覚。涙が溢れてもおかしく無いのにも関わらず、動作不良を起こした脳神経は狂ったように笑いだけを出力し続ける。
 「あぁ、お腹空いたなぁ。お腹いっぱい何か食べておきたかったなぁ」
 口から出るのは場違いな言葉ばかり。無駄な試みと知りつつも力を籠める羽はびくりとも動かない。そうしている内に周りを旋回していた怨霊の一体が此方へ向けて猛然と突進してくる。死の瞬間を恐れた彼女はただ、その瞳を閉じる事でその現実から逃げる以外の選択肢は取れなかった。
 目の前に広がる暗闇。地鳴りの様なマントルの対流音。怨霊の狂った笑い声。かたかたと顎が鳴る音が耳元に迫る。
 ――死にたくない。
 背筋の寒くなるその音に脳は恐怖の許容量を超える。狂ったように信号を出し続けるシナプスに鴉の脳はようやく正当な感情を伝え始める。此処に来て自らの身に訪れた膨大で抗いようの無い恐怖感。彼女は恥も外聞も無く涙を流し喉が破れんばかりに叫びを上げた。
 「――嫌だっ! 死にたくないっ! まだ、私は死にたくないっ!」
 「そうなんですか?」
 場違いとも言える呑気な言葉。白い発光と共に上空から舞い降りる一人の少女。それは己に背を向け襲い来る怨霊を身動き一つせず次々と消滅させていく。あまりの圧倒的な存在感。その時、空の頭に浮かんだのは『神』の一文字だった。
 「……変わった所で昼寝をして居るんですね。……お怪我は無いですか?」
 「ふ……、ぇ?」
 鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった顔が彼女の取りだしたハンケチーフで拭われている。いつの間にか目の前に座り込んでいた彼女の姿を改めて観察する。それは信じがたい事に年端もいかぬ短身の少女だった。
 「内出血が酷いですね……。一体何をしたらこんなに粉々に骨が砕けるんですか?」
 気がつけば既に体は彼女の胸の内にある。傷だらけの腕を優しく持ち、腫れた患部を眺める彼女は眉根を潜めその状況を冷静に分析していた。そんな彼女の機敏な動きとは対照的に己の頭脳は停止を続ける。状況把握が追い付かない。突然に現れた彼女の目的が理解できないでいた。緩慢な動作を続ける脳が理解していたのは唯一つ。彼女が自らに危害を与える存在では無いと言う点についてのみだった。
 「御免なさいね、此処から先は少し刺激的だから。ちょっとだけ眠っていた方が良いわ」
 「へ?」
 少し思案をした様子を見せる彼女。胸から下げた不明の球体を彼女が両手で掲げる事と視界が極彩色で埋まるのは全く同時であった。
 「 ”おやすみなさい” ――良い夢を」
 不意に訪れた眠気が意識をいとも容易く刈り取る。彼女が意識を手放す直前、薄い笑みを浮かべた少女の胸のがきらりと輝いた。

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 黎明 -the dawn-

扉絵・黎明

 かちり、こちり。耳に届くのは規則的なリズムを刻む機械音。体を包むのは柔らかな布の感触。睡眠と覚醒の狭間で揺蕩う意識は、着地点を求め白いベッドの上に降り立った。
 「起きましたか?」
 上半身を起こし周囲を見渡す。古ぼけていながらも、手入れの行き届いた洋室。石作りの灰色の壁が正面に広がる。窓の外からは見慣れた廃墟群の瓦礫が顔を覗かせていた。声の主らしき人物がベッドの傍に座っている。
 優しい笑みを浮かべた少女は膝の上に盆を載せ無言でそれを差し出して来た。ぐるる、と食欲をそそる香りにお腹が鳴り始める。意識をした事をきっかけに加速度的に空腹感が高まって行く。抗いがたい欲求に、空は素直にその食事を受け取ると夢中で腹の中にそれを収め始めた。
 「慌てて食べなくても誰も取りませんよ」
 「……信じられない」
 「お行儀が悪いですよ、箸があるじゃないですか」
 「……使い方が分からない」
 「……美味しいですか?」
 「……美味しい」
 「そうですか」と少女は小さく笑う。間もなく空になった器を見届けると、ポケットから取り出したハンケチーフで汚れた空の口や手をおもむろに拭い始めた。嫌がるそぶりを見せる空。しかし有無を言わせぬ少女の瞳に気圧された空はそれを渋々受け入れた。
 「……ここは?」
 「地霊殿よ。知らないの?」
 廃墟群の中央に存在する不気味な館、 ”地霊殿” 。怨霊の巣窟であり、鬼ですら近づきたがらないと地下では有名な場所である。だが、そんな噂とは裏腹にこの場所に怨霊の気配は一つとして無い。
 「この辺の怨霊は粗方隔離しましたからね、安心して良いですよ。貴女を傷つける者は此処には居ません」
 「…………」
 「あぁ、そうですね。すいません。自己紹介がまだでしたね。私の名前は ”古明地さとり” 。是非曲直庁から派遣された地霊殿の管理人です」
 さとり妖怪。是非曲直庁。何れも鴉の記憶には無い言葉であった。しかし、そんな鴉の様子に構いもせずさとりは言葉を続ける。
 「是非曲直庁は……、そうですね ”善悪の規範” です。少なくともそう言う ”建前” でお仕事をしています。もう一つはそろそろ分かるんじゃないですか?」
 「……私の心が読めるの?」
 「その通りです。この第三の眼で見た者の思考を読みとる事ができる。さとり妖怪とはそういう能力を持つ妖怪の種族です」
 そう言ってさとりは奇妙なチューブが伸びる眼を胸の前に掲げる。無機的とも有機的とも着かない不思議な材質で作られたその眼は生きているかのようにぎょろりと空の方を見た。
 「貴女の名前は――、そうですか。無いのですか」
 「名前なんて別に必要無い。それで、さとり妖怪がどうして私を助けたんだ?」
 「だって、死にたくないって言っていたじゃないですか」
 「…………」
 「嘘ですよ。寂しそうだったから。私が放っておけなかった」
 「…………」
 酷く不思議だった。地下世界に住む全ての生命には強い淘汰圧が掛かっている。同族でもない限り他者を助ける存在は稀有と言っても良い。鴉はさとりの意図が全く掴めないでいた。
 「そんなに深く考える必要は無いと思いますが……。まぁ、気紛れと思って貰っても構いません。 ”その程度の理由” です。――それにしても、恐がらないんですね。私はあなたの考えが全て読めます。貴女が何を歓迎し、何を畏れるのか。その全てが筒抜けなんですよ。恐くないんですか?」
 「どうして恐がる必要がある? 思考と行動がちぐはぐなのは人間か、賢しい妖怪だけ。私たちみたいな獣には関係ない」
 「ふふふ。分かりやすくて良い理由ですね。さて、私は用事があるのでそろそろ離れますが、まだ動かないで下さいね。傷が癒えるまではゆっくりしていって良いですから」
 無言で頷く鴉を確認しさとりは部屋を出て行く。一人取り残された部屋にはまた機械的な針の音だけが木霊し始めた。暫く石の壁を見詰めていた鴉は思い切りよく体を起こすとベッドから降りる。
 「……」
 自らに危害を与える意志は無い様だが、かと言ってこんな得体のしれない場所に長くは居られない。逃げ出そう。そう考えて鴉は扉に向けて脚を踏み出した。体が思った様に動かない。気がつけば体のあちこちには包帯が巻かれている。それは非常に稚拙な手当。めちゃくちゃに巻かれた包帯は動きづらくて仕方ない。ただ、血や泥は丹念に拭われている事から手当てをした者は少なくとも至極真剣にやったのだろうと思われる。胸の中に妙な感覚が生まれる。それが何であるかはその時の鴉には分からなかった。
 体はどこも違和感だらけだが動けない訳では無い。どこか感覚のズレを感じる頭を抱え壁に伝う様にしてようやく鴉は部屋を後にした。大理石の長い廊下と中央ホールを抜けようやく外へと辿りつく。重い体を引きずるように歩いたのでかなりの時間がかかったが、外に出るまで無事に誰にも会わずにいられた。
 異変が訪れたのは、館を離れようと屋敷の門を潜ろうとした時である。全身を襲う激しい痛み。体の内から湧きあがる逃れようの無い熱と骨の軋みは、これまでの反動であるかのように容赦なく鴉に襲いかかった。耐えきれず鴉はその場に蹲る。その直後、館の中から飛び出して来たさとり妖怪が鴉に駆け寄った。
 「まだ動いちゃ駄目って言っているじゃないですか。私の力で痛覚を鈍らせていただけなんですよ。ほら……、掴まって」
 碌な抵抗も出来ず自分よりも一回り小柄な少女に背負われる。妖怪としては身体能力の低い彼女は、引きずるようにしてようやく中へと彼女を運び込んだ。再び来た道を連れ戻されるがやはり館の中には誰も居ない。先ほどは歩くのに必死だったが今ははっきりと分かる。この館にはこのさとり以外が住んでいる気配が存在しない。不気味な程静まり返った廊下に反響する足音がその考えを肯定する様であった。
 蹴破る様にして脚で扉を開けたさとりは、鴉をベッドに下ろすとふうと息を吐く。疲労した様子の横顔に鴉は、胸の内のわだかまりを吐きだした。
 「……どうして、そこまで私に世話を焼くの?」
 「前にも言った通り気紛れよ。強いて言うなら、私の敷地の中で勝手に死なれると後味が悪い。その位よ」
 「……なぁ、さとり。お前は一人なのか?」
 「そうですよ。少なくとも ”今は一人” です。さぁ、今度こそ大人しく此処で傷が治るまで寝てなさい。妖獣なら二晩もあれば治るでしょう?」
 「あぁ……、多分」
 親近感にも近い感情。鴉はその時のさとりの顔に物憂げな物が混じるのを見逃しはしなかった。たった一人孤独に地霊殿を守る少女が、鴉にはとても頼もしく全く同様に寂しげに見えたのだ。
 さとりは妖術で使い魔を作りだし机の上に放置すると外へと出て行く。恐らくは監視をしているから勝手に動くなと言うサインなのだろう。碌に妖力が編み込まれず張りぼて同然の使い魔。ただその眼光鋭く、空を牽制するには十分過ぎる物だった。鴉は観念したように布団を被る。
 暗い布団の中。固いベットの上。体中は違和感に包まれているし、使い魔の視線は鬱陶しい。だと言うのに空の心は不思議と落ち着いてた。それは何年も感じて居なかった安心感。自分が気を掛けるのではない。自分に気を掛けてくれる存在と空はその時始めて出会ったのだ。
 妙な事を考えそうになる頭を振り、鴉はより深く布団を被る。眠気はすぐに訪れた。脳が欲するままに深い眠りへと誘われて行く。数年ぶりの熟睡だった。


 「なぁ、私を此処に置いてくれないか」
 「馬鹿な事を言っていないでさっさと帰りなさい。貴女の家族が待っているんでしょう?」
 地霊殿に世話になって二日目の朝。傷が癒え玄関へ出た鴉は、胸の内の覚悟を言葉としてさとりへ告げた。地獄鴉の長としての自分は既にあの日死んだ。拾われた命の使い道を、返すべき恩の為に自らが出来る事を考え続けた結果の判断だった。
 「私達は地獄の闇と死肉の山から生まれる存在だ、厳密な意味で家族は居ない」
 「言ったでしょう。まだ、部下に給金を払える体制が出来ていないの。大人しく帰りなさい」
 「給料なんて要らない。ただ此処に居たい。頼む私に恩を返させてくれ」
 「給金とは尊い物です。そんな安易に否定してはいけません。不本意ながら是非曲直庁の末端としてその様な事は認められない」
 さとりの瞳は真剣そのものだった。有無を言わせないその強い瞳はこれまで何度も鴉が黙らされてきた物。だがこの日だけは従う訳にはいかなかった。どうしても従いたく無かった。貧弱な頭を熱が出るまで捻らせる。何度ももごもごと口ごもりながら鴉は口を開いた。
 「……私は獣。……そうだ、私は獣だ! 私はお前のペットになる。だから、お前は私の寝床と食事くれ。その代わり……此処に私を置いてくれ」
 顔が赤く染まって行く事を感じる。なにせ思い付きだけで放った言葉だ。馬鹿げた事を言っていると言う自覚は十分にあった。静まり返った空気に耐えきれなくなった鴉が口を開こうとした時、噴き出したようにさとりがからからと笑いだした。
 「ペット……、ふふ、そうですか。ペットですか……。それなら仕方ないですね。丁度、寂しさを紛らわすペットが欲しいと思っていたのですよ。よろしくね、……えーっと、そうだ。名前を付けてあげなくちゃね」
 「名前……?」
 「そう貴女の名前よ。名無しの権兵衛では困るでしょう? 何が良いかしら……、恰好良いのが良いかしらね。そうね……。――というのはどうかしら?」


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 「さとりー」
 古ぼけた石造りの廊下をばたばたと騒々しい音を立てて歩く鴉の少女。優雅さの欠片も無いその気配が、背後の扉を勢いよく開ける事に少々の頭の痛みを感じる。騒々しい来訪者を薄紫の髪の少女は書類越しに軽く眼をやった。
 「さとり、こんなもん今日中に終わる訳ねーですよ!」
 「仕事中は様を付けなさいと言ったはずよ、 。後、敬語はちゃんと使いなさい」
  “空” と呼ばれた少女が作業指示書と印字された紙を持ってさとりへ詰め寄る。『』それが、彼女に付けられた名前である。空のそれとは対照的なぼそぼそとした平坦な声は、頭を掻きながら呆れ気味に胡乱な視線を投げかけた。
 「サトリサマ、コノオシゴトホンジツチュウニオワラナイデス」
 「よろしい。帰ってさっさとその仕事終わらせなさい」
 「おいっ! それ解決になってねーぞ!! ――いだぁ゛!」
 小気味の良い音を立てて、妖弾が空にヒットする。尻もちを着いた空は眼元に涙を浮かべ紅く染まった額に手を当てていた。
 「仕事中に汚い言葉を使わない。全く……世話の焼ける」
 大理石の床が張り巡らされ、壁にはステンドグラスがはめられた豪華な部屋。そこに場違いな木製のボロ机が一つ。
 書類の山に埋もれた古明地さとりは溜息を吐く。
 「仕事が終わらなくて悩んでいるのは貴女だけではないのですよ。空」
 「ぶへぇ~い……。申し訳有りませんでした。現場に戻ります……」
 事実その計画書に記された工事内容はとても今日一日で終わる物では無い。だが、当然さとりも、させたくてそんな仕事を押しつけている訳では無い。是非曲直庁からの雀の涙ばかりの支援を受けるには、その指示に従うしか無かったからだ。だが、渋々と言った様子で帰る空の背負う気配は重苦しく、悲しげな物。
 「待ちなさい。貴女の班、今何人かしら。後、現在までの怪我人を報告しなさい」
 「私が直接指揮しているのが、二十。後、他の班に任せているのが十って所でしょうか。聞いている限りで作業に差し支えのあるレベルの怪我人は五ってところでしょうか。彼らは少なくとも三日間、現場に出られないと思います」
 急ピッチで進める仕事には必ず落伍者が出る。その人員の減少による作業効率の低下、それが全体の進捗与える影響、そしてさとりの良心それら全てと、これから発生するであろう心労を天秤に掛ける。一瞬均衡し、ゆらゆらと揺れる中央の針。何かを訴える様な漆黒の瞳がその均衡を崩す音がした。
 「……新しい作業スーツと、建設機械を手配しておくわ。それが届くまでは、安全な資材運びだけやっておきなさい」
 「――?! さとりさま……、さっすが話がわっかるぅ!!」
 「あ、ちょっと、抱きつくな、こらっ!」
 「さとりさま、いーにおい、ふー、んー♪ いだっ!?」
 「仕事中だって言ってるでしょう。バカな事言ってないで早く戻りなさい」
 「はーい」
 それは、軽く小馬鹿にしたかの様な間延びした返事。恐らくわざとだろう。かつかつと、床を踏みならし錆びついた真鍮のドアノブに手を掛けた所で、悪戯っぽい笑みを浮かべ何かを思いついたかのようにくるりと踵を返した。
 (……さとりさま、あなた意外と良い人だね)
 にまにまと口元を釣り上げたままこちらの様子を伺う空。サードアイでその思考を読みとったさとりは、一瞬言葉を失った。
 「……無報酬でこき使われ置いてよく言うわね。あなたのその鳥頭に私はびっくりよ」
 「ま、私は一応貴女の ”ペット” ですし。貴方の言う事には逆らいませんよ」
 鼻歌を漏らしながら軽やかな足取りで部屋を後にする空。執務室と言う表札が掛けられた扉を潜り廊下へと出て行った。
 「思ったより懐いてくれたのは良いけれど……。あんなに単純でこの先大丈夫なのかしら……」
 俄かに静まり返った部屋の中で、さとりは溜め息のように一人ごちる。
 手元の作業中の書類へ眼を落とす。仰々しく印字された文字は、地獄の活版印刷技術で刷られた物である事を示す。机の上に広げられた数十枚の書類にはそれぞれ数値や図等の異なる内容が記されていただが、共通してその文字が右上に印字されていた。
 『焦熱地獄管理権限譲渡について』
 「それにしても、映姫の奴……。焦熱地獄の再建と管理だなんて無茶を言ってくれる。怨霊管理だけでも手一杯だったって言っているのに……。今度あったら思い切り愚痴ってやる」
 頭を抱えたさとりは机の引き出しの中から予算計上と書かれた紙を取り出した。さらさらと手なれた様子で羽ペンを走らせる。資材調達費、人件費、諸経費、数限りない項目とその横に書きこまれた多数の数値。そこに一つ欄を追加する。さとりは小さく角張ってはいるが読みやすい文字で桁の一つ違う数値を書き込んだ。
 「今度は私が怒られる番ね、でもまぁ、因果応報……、か」


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 私はなんの力も持たない唯の火焔猫だった。
 力も無い、妖力が高い訳でも無い。ただ逃げるのだけは人一倍得意だった。そのおかげでこの地下空間の発生の初期から今に至るまで生き抜く事ができている。だがそれだけだ。人化する事も出来ず、戦闘力も無い自分は泥を啜る様な生活を数百年に渡り続けていた。
 悪運が強いだけ。私は自分の事をそう思っている。だからその時もただ運が尽きただけだと半ば達観していた。この身を包む無数の傷はこれまで自らが庇護の元に得ていた食料の代償。全くもって妥当だと言える。
 「ぼーっと、してるんじゃないよ! 怪我しても知らないからね」
 目前に猛然と迫る大鎌。すんでの所で身を捻って交わした燐は大きく後方へ飛び、瓦礫へと着地した。
 「お燐ちゃんはもう ”おねむ” の時間かい? だったら、お休みにしても良いんだよ」
 「だ……、大丈夫です。小町姉さん」
 地霊殿の裏で組み手を行うのは、二つの赤いシルエット。一人は大鎌を、一人はその身に怨霊を侍らせ縦横無尽に廃墟群を駆けまわっている。這うような低い体勢で迫る小町。
 燐と呼ばれた黒猫の少女が立っていた瓦礫が小町の鎌によって真っ二つに断裂された。支えを失った燐は空中で器用に体勢を立て直すと、身に侍らせた一匹の怨霊を小町に向かってけしかけ――。
 「……れ?」
 「――いけない」
 不意に訪れる体の感覚のズレ。反転する視界。自らの体制が崩れた事で、頭が地面に向かっている事を示していた。
 その様子を見た小町は鎌を投げ捨てる。ふっと消えたその姿は次の瞬間、燐の真下に移動していた。燐の落下を待ちその体をそっと受け止める。眼を白黒させながら小町の腕の中で燐は縮こまった。
 「怨霊に逆に干渉されたのか……。実戦はまだ難しかったかねぇ」
 「ごめんなさい……」
 「お燐ちゃんが謝る事じゃない。急ぐ事でも無いし、誰でも最初は良くやる事さ。のんびりやれば良い」
 しゅんと耳を垂れさせた燐は、申し訳無さ気に地面に降りる。
 彼女の名前は『』さとりのペットの一体でつい最近人型をとれるようになったばかりの妖獣である。
 「さぁ、そろそろ戻ろうか。映姫様とさとり様もそろそろ暇をし始める頃だろう」
 「はい、ありがとうございました」


 宵闇の様に黒く、灼熱の様に熱い水面から薫る香りが鼻孔を擽る。ともすれば焼け焦げた様な香ばしい香りは、上品では無いが程良い苦み予想させた。
 「さとり、きちんと睡眠は取っているの? 少し眼の下に隈が有りますよ」
 「そう思うなら、もう少し予算と人員を回して欲しいわね。 ”映姫” 」
 映姫と呼ばれた少女はソーサーの横に置かれた、ミルクのポットを持ち上げる。たっぷりと白い液体を注ぎ、隣の瓶に入れられた角砂糖を二粒摘んでぽちゃりと、液面に落とした。深い黒を湛えていた水面の面影は薄く、まだらに混じる白い筋とブラウンの液面が対流によって黒い領域を侵食し続けていた。
 「公人である限り、職務は責任を持って全うせねばなりません。しかし、我々は公人である前に一人の女性。個を潰して得られるような幸福は長期的に見た場合損にしかならないのです」
 「そーねー。休日まで好き好んでこんな所に査察に来る貴女に言われたく無い言葉の筆頭よね。後、貴女のとこの上司がケチ臭いのは知っているから、そんなに謝らないで」
 「でも、もう少しで特別予算が出そうな感じはあるのよ。何か後ひと押しがあれば、確実に約束できると思うわ」
 「ただの冗談よ、真に受けないで。……全く映姫は昔っから馬鹿に真面目なのだから」
 「貴女が捻くれ過ぎているのよ。もう少し自分に正直に生きたらどうですか?」
 ティースプーンで軽くかき混ぜると、幾分柔らかくなった香りが鼻孔に届く。一口それに含む。少々過剰ともいえるミルクの脂肪分が舌を包み苦みをシャットアウトしてくれたおかげで随分飲みやすい。豆の強い香りが鼻へ抜け仄かな糖分が脳を覚醒させた。
 「難しい注文ね。真っ直ぐに生きる私を直視できるのは貴女とペット達以外に思い浮かばないわ」
 「あらそう? 閻魔は割と狙い目だと思うわよ。裏表など存在してはいけない職ですから」
 「そうね、できれば出世頭の閻魔を落とせれば随分楽なのでしょうね。私もできればそうしたいわ。ただ一つ問題があるとすれば、それを馬鹿正直に守っている閻魔を貴女以外に知らない事位ね」
 「ふぅ……、頭が痛くなるわね。あー辞め辞め。仕事の話なんて辞めましょう。折角さとりのところに遊びに来たんだから。もっとくだらないお話をして時間を潰しましょう」
 「その話を振ったのは、貴女でしょうに」
 「あら、そうだったかしら? 私はただ、最近見つけた肌ケアの方法についてお話しようかとですね……」
 普段の仰々しい帽子も肩あての付いた制服も無い。ラフな洋服姿の映姫は快活な笑みを浮かべていた。自らの考案したスキンケアについてさとりに雄弁に語る姿は見た目相応の少女の様ですらあった。映姫とさとりは是非曲直庁の支部にさとりが務めていた頃からの親友であり、休日になればこうして特に目的も無く駄弁りに来る事が多い。
 「ばっかじゃないの?! 水分入れるのに胡瓜を使うなんて。勿体ないじゃない。エクトプラズムでも使ってなさいよ」
 「そう言わずに一度試してみてよ。何なら今度持って来ましょうか? 河童のお中元が大量にまだ残っているんですよ」
 「お断りするわ。食べるのに困る程ではないし、かと言ってパックに使う為に貰うのも馬鹿らしいわ」
 二人はほぼ同時期に是非曲直庁に登用された。その能力故軋轢を生む事が多いさとりと、あまりに清廉潔白な性格ゆえ周囲を寄せ付けない映姫。自然と二人は寄り添いあい、いつしか友人へとその関係は変化した。
 「たっだいまー、です。さとりさま、映姫さま」
 「おかえりなさい、小町、お燐」
 赤髪で長身の女性はところどころ解れた安物の着物を身に纏う。彼女は快活な笑みを浮かべながら部屋に入って来た。その豊満な胸元から覗くのは地獄の様に黒い二つの尻尾。彼女の名前は小野塚小町。映姫の腹心であり映姫が地蔵として生まれる更に昔から死神――三途の側の渡し守――を務める大ベテランでもある。
 「お、おろひて、おねぇひゃん」
 たどたどしい言葉が聞こえてきたかと思うと俄かに胸元の塊が蠢き出し、垂れる尻尾がじたばたと暴れる。地面へすとんと落ちるつやつやとした毛並みの黒い塊。大きく伸びをしたかと思うと、黒猫の姿を人型へと変貌させた。
 「いやー、お燐ちゃんは本当に飲み込みが良いねぇ。この分だとすぐに一人前の渡し守になれるよ」
 「いやいや、あたい別に渡し守になりたいんじゃないからね?」
 「あら、お燐ちゃんならいつでも歓迎よ。なんだったら今すぐにでも小町の代わりに来て貰っても」
 「そんな殺生な?!」
 「そう思うなら、少しは真面目に仕事をしなさい。この所私に回ってくる霊が少ない原因は分かっているのですよ」
 「映姫様が働き過ぎなんですよ。少しはご自愛下さい!」
 さとりと比較しても短身と言える映姫と女性としてはかなり長身の部類に入る小町。その口論は親子のようにすら見える。それをあきれ顔で見るのはお燐と呼ばれた少女。
 深い緑で染められたゴスロリ調のワンピースを身に纏い、頭の上には二つの大きな耳。それは猫又の中でも更に特殊、極焔と死体の山から生まれ出た地獄の固有種、火焔猫の雌個体である。
 「どっちにしても、あたいはそっちには行かないですよ。あたいはさとり様のペットです。それ以外の何にもなる気はありません」
 「あら、嬉しい事言ってくれるじゃない。グルーミングしてあげるからこっち来なさい」
 「子供扱いもしないで下さい! あたいは、もっと力を付けてさとり様のお役に立つんです。お空に負けないくらいに!」
 お燐がさとりのペットとなったのは、地獄にさとりが住み始めて間もなくの事だ。飢餓と重度の傷で瀕死の状態にあった火焔猫をさとりが拾ったのがきっかけである。
 かなりの老齢固体であり半ば妖怪化していたその猫が、人型をとれるようになるまでにはそう長い時間は掛からなかった。
 「あら、私にとってはいつまでたっても可愛いペットよ。貴女も、お空も、他の皆もね。ほら、早く」
 「う……、あぅ……」
 ぽすり、ぽすりと太股を叩くさとりに観念したのか、渋々と言った様子でその上に乗る。せめてもの抵抗と猫の姿に戻ったお燐はふてくされる様にそこで寝てしまった。
 「でも、お燐ちゃんは実際凄い才能ですよ。猫だけあって身のこなしは軽いし、あたいが何十年も掛けて習得した操霊術もコツを掴みつつある。きっと数年後にはさとり様の右腕として活躍するでしょうよ」
 「そうね。その時を期待しましょうか。でも、商売敵にそんな肩入れして良いの? 同じ傘下に居るとは言え、私達は半ば独立していると言って良い。貴女の仕事の邪魔になる事を指示する事も無きにしろ非ず、よ」
 「大丈夫ですよ。あたいだって無駄に長く生きている訳じゃないですから。目的がかちあった時のいなし方の一つ二つは身につけてまいすよ」
 「できたら、その知識と経験を普段の仕事にも生かしてくれないですかね。ね、小町?」
 「え、映姫さまぁ。ですからですね、私は決して、サボっている訳では……」
 小町は映姫が地霊殿を訪れる際には必ず付き従ってくる。映姫がさとりと歓談をしている間手持無沙汰になる時間を小町は大抵さとりのペット達と触れ合って潰していた。お燐が小町に組手を申し込んだのはそんなある日の事である。
 「こまひ姉しゃん、次はいつけーこを付けてくれみゃすか?」
 「いつでも良いよ。……流石に仕事中は困るけどね」
 半眼を開けたお燐が若干たどたどしい言葉を紡ぐ。猫の口では話し辛いからだ。此処までお燐が力に拘るのには空の存在が少なからず関わっている。お空とお燐はほぼ時期を時期を同じくしてさとりのペットとなった。しかし、彼女は圧倒的に若いのにも関わらず規格外の力を有する。既に一線で焦熱地獄の復旧計画に働いているのがその証拠であろう。対する自分はと言えば唯の穀潰しに過ぎない。ただこうして主の脚に座りその湯たんぽとなるか、より幼いペットの世話をする程度しか出来る事が無い。
 それがお燐は ”堪らなく嫌” だった。役に立たず、また放り出されるのでは無いかと不安で仕方が無かった。 ”お空” が妬ましくて仕方が無かった。募るばかりの焦りと苛立ちを燐はどうしても看過する事ができなかったのだ。
 「お燐、主の力になりたいと言う気持ちはとても貴い物です。ですが、意志を伴わず身の丈に合わない力を得るのは害でしかありませんよ。貴女にとっても、主にとっても。その事を忘れないようにしなさい」
 「みゃい……」
 「さて……、長居をしてしまったし。そろそろ帰りますか。明日の準備もしなくてはなりません」
 ティーカップの中に残っていたクリーム色の液体をずずりと吸い込む。手早く荷物を纏めると映姫は席を立った。小町の下へかつかつと歩きその裾に付いた泥を軽く払ってやる。その様子をさとりは静かな瞳で見据えていた。
 「お燐ちゃん、またね」
 「こまねえしゃんさんも、おひごとがんびゃって下さい」
 「映姫も働き過ぎは体に毒よ、気をつけてね」
 「貴女もね、さとり。また会いましょう」
 二人の背中が陽炎のように揺らめく。程なくして音も無くその姿が忽然と空中に搔き消えた。彼女らが用いたのは来た時と同種の力。小町の力 ”距離を操る程度の能力” を用いて二人は彼岸へと帰って行った。
 静かになった部屋に遠くからどたどたと、乱暴な足音が近づく。今度はどんな問題を持ってきたのだろうかと、ほんの少しの期待を胸に抱いて二人はその扉が開かれるのを待った。


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 夢を見ていた。いつもと同じ。何度目かも分からない。夢を見ていた。自分が何処に居るのかも分からず、何をしているのかも分からない。唯真っ白な空間に居るだけの夢。そんな、何時も通りの ”悪夢” を見ていた。
 夢の始まりは何時も決まっている。ほんの僅かに寝付きの悪い夜に限ってその悪夢はやって来る。ようやく寝つけた自らを嘲るように ”彼女” は現れる。
 白と黒だけで作られるモノトーンの箱庭世界には私と彼女以外の存在は何一つ存在しない。そこは、ただ静寂と孤独だけが自らの胸を満たす世界。
 彼女は後少し手を伸ばせば届きそうな距離に立っている。だが、彼女は決して此方に近寄ってくる事は無い。ただはにかむようにして此方を見ているだけだ。
 胸の内に満ちる寂しさに耐えかね、無間とも思える距離に手を伸ばす。だが、その手を伸ばす分だけ、脚を動かす分だけ彼女は遠ざかって行く。後もう一歩。更にもう一歩。諦めずに必死で腕を伸ばす。その思いが通じたのか彼女が遠ざかる速度が和らぎ、ほんの僅かずつ彼女との距離が縮まって行く。
 その手を取る。取ってはいけないと脳が警鐘を鳴らしている。だが、そんな些細な事実に体は耳を貸さない。必死で伸ばした指先がようやく彼女の指先に触れる。
 もう一歩。彼女の手を握る。温かな彼女の体温が手に伝わる。だが、それは一瞬の事だった。次の瞬間には手の感覚が消える。
 否、手が消滅している。さらさらと自らの崩壊する音を聞きながらも自分では何もできずにそこで立ち尽くす。その様子を彼女はただ黙って見つめている。
 そうして、頭だけを残して消滅した私を見て彼女は去るのだ。残すのは、小さな笑いと、剥き出しの心を穿つ絶対零度の言葉。「大っ嫌い」彼女は言い放ち夢を去った――。
 「――ま、待って! 『■■■』!」
 「どうかしたの、お姉ちゃん?」
 窓の外には相変わらずの暗く荒れ果てた土地で、自分が寝ているのはベッドの上。身の回りにある物は何時もと変わらぬ地霊殿と、 ”久しく見ない” 妹の顔だった。
 「……私の顔に何か付いてる?」
 「こい……、し?」
 「私はこいしよ。少なくとも私は私をこいしだと思っているけど、もしかしてお姉ちゃんは違うの?」
 とぼけた顔でさとりの前に立つ彼女の妹、古明地こいしはさとりと同様に是非曲直庁所属の妖怪である。だが、彼女は普段地霊殿に住んで居ない。彼女の能力と、そこから来る業務の特殊さ故にこの地霊殿を訪れる事も非常に稀であった。
 がたりと、こいしの背後から扉の開く音がする。部屋に入って来たのは、黒い翼にぼさぼさ髪を乱暴に纏める緑のリボン。空が日課通りさとりを起こしに部屋を訪れたのだ。彼女は部屋に入り先客の存在を見つけると酷く曖昧な笑みを浮かべる。
 「こ、こいし様。お久しぶりですね。……何時こっちに来られたんですか?」
 「ついさっきよー。久しぶりだねー。おくうー。羽でもふもふしてー」
 「い、嫌です」
 問答無用で嫌がる空の背後から抱きつきその羽のくすぐったい感触を楽しむこいし。困り切った顔でさとりにすがる様な目線を送る空。さとりと妖獣達以外の妖怪にまだ慣れていない空には、こいしの過剰なスキンシップが恐くて仕方が無かったからだ。
その奇妙な現実感がようやく、自らが寝起きでベッドの上に座っていると言う事実をはっきりと自覚させた。部屋に置かれた化粧台の鏡越しに見る自分は、跳ね放題の髪と寝汗によって酷く見苦しい物だった。
 「さとり様、みんなの朝ごはんはどうしましょうか?」
 「御免なさい、私も身支度をしてすぐに行くから、先に準備しておいて貰っても良いかしら?」
 「わかりました……、けど。 ”これ” をどうにかして貰えないでしょうか?」
 くるりと、背を向けた空の羽にはこいしがべったりとくっついている。悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女は此方を向きその小さく白い舌をちろりと出して見せた。
 「……こいし?」
 「はーい」
 ようやくこいしから解放された空がそそくさと部屋を出て行く。
 「それで……、貴女何をしに来たの?」
 「別に、ただ久しぶりに ”家族” の顔を見に来ただけだよ。悪い?」
 「いいえ、悪くありません」
 さとり妖怪同士にも関わらず、彼女らの間には言葉が必須である。それは、こいしの瞳が固く閉じられている故の事態であり、その為に彼女らは何もかもが互いに異なっている。
 「今回はどの位の間こっちに居るの?」
 「ん? また蝦夷地の方まで用事があるし、お姉ちゃんの寝顔だけ見たら帰るつもりだったよ」
 「また、慌ただしいのね。……でもありがとう」
 「気持ち悪いよ。お姉ちゃん。ばいばい、『大っ嫌いだよ』」
 そう言ってこいしは部屋から忽然と消える。
 まるで最初から何も居なかったかのように、部屋は静まり返った。さとりは大きな溜息を吐く。こいしはさとりの唯一の肉親だ。だと言うのにも関わらず彼女出会う度。さとりは酷く空虚な気持を覚えるのだ。眼の前に居るのに、目の前に居る感じがしない。故に彼女と会う事はさとりにとって辛くて仕方が無かった。こんな遠隔の地に飛んだのはこいしから離れようと言う意志も無かった訳ではない。
 「……嫌になるわ。こんな自分が」
 妹は大切だ。だが会うのは辛くて仕方が無い。寧ろ愛する気持ちが増大する程にその辛さは際限なく肥大化して行く。そんな自分の気持ちが嫌で仕方が無くて、彼女はこいしと距離を取っていた。


 地霊殿の食物は基本的に全て是非曲直庁から支給されている。新鮮な肉、野菜、魚、果物。到底この地下世界では取れぬ食材がその炊事場には揃えられていた。
 だが、獣のままの姿の妖獣にそれを調理する事は出来ない。現在の所地霊殿で人型が取れる妖獣は空を含めても僅か数名。他は未だ獣の姿であり、その世話をするにはさとり自身も働く以外には無かった。この朝食も当番制で調理者が決まる。そして今日はさとりと空が調理をする番。朝に弱いさとりにとってそれは決して歓迎された物では無かった。しかしそんな早起きも自らのペットの為と思うと不思議と苦にはならない。
 調理と共に流れるまな板を包丁が叩く音、網で魚を焼く音。そしてそれが発する微細な化学物質の粒子の拡散。鼻孔や鼓膜を擽るそれらに胃袋を鳴らし期待に胸を馳せる彼らの思考を読むのがさとりは堪らなく好きだったのだ。
 料理と言っても何れも簡単な物、火を軽く通し最低限の塩等の調味料で味を調えただけのシンプルな炒め物。出来あがった料理をそれぞれの器に盛り付けて行く。盛りつけは極力シンプルにただ、器に入れば良く乱雑でも構わない。寝起きで腹を空かせている彼らには、その様な事は毛ほどの問題にもならない筈だ。
 器を持ち食堂に出ると待ち受けるのは、お腹が空いた事を訴える思考の渦と行儀よく並んだ獣達。姿が獣でも流石は智慧を持った妖獣達。さとりからの号令があるまで、彼らは食事に決して口を付けようとはしなかった。
 「いただきます」と小さくさとりが口にする。
 それと同時に、妖獣達も器の食事に口を付け始めた。そして、同時に周囲には一種異様とも言える気配が充満し始める。
 『……さとりさまぁ、これ砂糖と塩間違えてますぅ……』
 『焦げてます……』
 『美味しく無い……』
 次々と飛んでくる、最早おなじみの思考の波。さとりはそれを極力気にとめない様に平静を装って自分の朝食を口に運んだ。
 「……さとり様。次から私が変わりますから」
 「練習しましょうかねもう少し……」
 お燐が皿の上に乗った魚の焼き物をちまちまと突きなが小声で告げる。あまり手先が器用で無いさとりが食事を作れば大体はこうなる。今日こそはと期待を籠めて料理の腕を振るったのだが、結果は見ての通り。毎回止められるにも拘らず未だ厨房に立つのは汚名を返上する事を夢見てである。
 しかし上達の気配は一向に見えない。寧ろさとりの反動で料理の腕を上げる者が出始める始末。言われる前に身を退くべきなのかもしれない。焦げたスクランブルエッグを口に運びながらそんな事を考えていた。
 「……まずい」


 食事の終わった食堂でさとりは一人考え込む。そんな様子を不安げに見つめているのはお燐とお空の二人だった。
 「あの……、まさか懲りずにまた新メニューの考案ですか?」
 「辞めた方が……」
 「違うわよ」至極真剣な表情でそう問うてくる二人にさとりは思わず苦笑する。確かにそれも考えていたのだが目的は別にある。
 「食料の調達の事よ、ほら所帯も増えて来たし」
 「あー。確かに……、ちょっと食べざかりの子には辛いかもしれないですね。現状」
 意識をしたのかお燐の腹がぐるると鳴る。地霊殿では保護された全ての妖獣に均等に食事が配給される。支給されるタイミングは朝・昼・夜の三回。規則的且つ一日に必要な栄養素を計算された食事は地獄の獣達には革新的である事に疑いを挟む余地は無い。しかし、現在はその栄養素が必要量を僅かに下回る量しか提供できていないのだ。
 「彼岸からはこれ以上追加発注はできないんですか?」
 「無理よ。今でも随分無理を言っている。寧ろ切られる可能性があるわ」
 食料の供給に限界が来たのだ。食料の枯渇は地霊殿のペットにとって野生への回帰を意味する。どれだけ飼いならされようと彼らは獣なのだ。飢えればどんなトラブルが発生するかは想像に難くない。
 「うーん。そろそろ自給自足を考え無いといけないかしらねぇ……」
 「この地獄でですか? 無茶ですよ。どんな植物が育つって言うんですか」
 「こんな環境じゃ何も生えはしない。こんな環境じゃぁねぇ……」
 「困った」そうつ呟いてさとりは再び腕を組み瞑目する。何か画期的な案が浮かんでくる訳ではない。しかし、この地を生きる上で解決しなければならない課題が一つ生まれた瞬間であった。


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 関連する事項と言うのは不思議と連鎖する物で、その事件もほぼ間を開けずに発生した。それは、さとりが廃墟群の視察から帰って来たある日の事。地霊殿のすぐ裏で眼にしてしまった光景である。
 『タス……、ケテ……』
 それは、小さな思念波だった。弱々しく、そして悲痛なまでの叫び。それは間違える筈も無い。死に瀕した者が飛ばす独特の波長である。波の出所は地霊殿のすぐ裏。廃墟と荒野が広がる何も無い土地である。
 『タス……、ケテ……』
 『コロス、コロス、コロス』
 殺意を剥き出しにした思念波を同時に受け取る。嫌な予感がする。さとりの予感が正しければその殺意の持ち主には覚えがある。だがそうであって欲しく無い。自分の前で笑顔を見せる彼女が、そんな汚い殺意を剥き出しにしている所を見たくない。そんな身勝手なさとりの願いは壁を曲ったところで脆くも崩れ去った。
 「お空! 何してるのっ!」
 「さとり様? どうしたんですか。今忙しいんですけど」
 「忙しいじゃありません。何をしているのかと聞いているのです」
 「……? はぁ、突っかかって来た妖獣を殺しているだけですが」
 本当に何でも無い事の様に空はそう言ってのける。帰り血に染まった腕。空の背後に転がる獅子の巨体。空の紅い手には苦しげな呻き声を上げる子供の獅子が握られていた。
 「殺しているじゃ、ありません! ちょっとこっちに来なさい」
 「あ、ちょっと待って下さいね。すぐ終わらせますから」
 「辞めなさい!」
 びくり、と空の肩が動き手の力が緩む。辛うじて首の骨を折られる事を免れた獅子の子供は地面に落ちた。
 「さ……、さとり様? ど、どうかしたんですか?」
 「どうかしたじゃありません。そんな抵抗も出来ない子供を殺して、あなたは一体どういうつもりですか!」
 「だ……、だって……、そんなの決まって……、なんで私が怒られなきゃ」
 突然の主の激昂に空はパニックを起こす。当然の事だ。少なくとも彼女はこれが “当然” と思っていた。これまでの生でこの様な行動をする事に疑問を挟んだ事は無かった。主の怒りの理由が分からない。その理不尽さや、主に叱られていると言う情けなさで空の涙腺はついに決壊してしまった。
 さとりの前で静かに涙を流し始める空。その姿と流れ込んでくるぐちゃぐちゃの思考にさとり自身も自らの過ちに気が付いた。出来る限り優しく。子供をあやす様にさとりは空に歩み寄りながら声を掛ける。
 「……御免なさい。貴女の事を考えていなかった。私の非を認めます。泣くなとも言いませんから……。慰めさせて貰っても良いですか」
 空は無言で首肯するとさとりに体を許した。さとりの胸の中で空は静かに涙を流し、小さく非難の声を上げる。暫しの後。ようやく落ち着いた彼女の思考からさとりはようやくこの地獄の常識を一つ知る事になった。
 「地獄鴉は生体系ピラミッドの下部に位置します。私みたいなのを食べて妖力と腹を満たす。そうやってこの地獄は回っているんです。」
 「そこの親は貴女を子供達の餌にしようとしたのね。でも、子供達は放っておいても……」
 「駄目です。放っておいても他の獣に食われるか、万が一育ってしまっても私に恨みを持って襲いかかってくるだけです。そんな事は過去に何度もありました」
 空は激しく首を振りながら答えた。「だから殺すしかったんです」そう空は詰まる様な声でさとりに告げる。さとりの視線の先に居るのは血だまりの中に蠢く一匹の獅子。次第に弱まって行くうめき声は放っておくだけでも死に至るだろう。だがさとりはそれが嫌だった。どうして『その子が死ななければならない』。
 「甘いです……。さとり様。この地獄は本来なら殺さなければ殺される。そう言う世界なんですよ。地霊殿が異常なんです」
 「この子に罪は無い。この子はまだ罪を作る程生きてすらいない。得を積む機会も与えられていない。地獄の関係者としてそんな風に死んで行く物を見過ごす訳には行かないわ。大丈夫です。この子にそんな事はさせません。私が責任を持って育てますから」
 「甘いです……、甘いですよ……。さとり様」
 空を胸に抱えたままさとりは獅子の子供も抱き上げる。その体毛に着いた血をハンケチーフで丹念に拭いながら空は複雑な顔をする空に語りかけた。
 「ううん。本当に悪いのはこの地獄の厳しさよ。大丈夫。私みたいな妖怪だって、長い長い年月を掛けて言い聞かせれば体に染み付く事はあるわ」
 「それは……、どの位の期間ですか?」
 「さぁ、三百年かしら四百年かしら。でも何時かは必ずよ。お空。貴女を傷つけてしまった代わりに私は二つ約束をするわ。『この子を必ず私達の仲間としてみせる』そして、『こんな事をしなくても良いようにしてみせる』。大丈夫。貴方達は肉体に寄っているんですからもっと早いですよ。だから、一歩ずつで良い。すこしずつ慣れましょうね」
 「……さとり様。貴女のそう言う自分勝手な所。あんまり好きじゃないです」
 「御免なさいね。こう言う性分なの。でも安心して私は ”皆の幸せを願う為に” 身勝手になるつもりだから」
 「……嬉しくないです」
 その日から地霊殿に小さな獅子の子が参加する。さとりが地下世界の環境と土地の調査に力を入れ始めたのは丁度同時期の事であった。


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 地底の空は暗い。
 当然だ。地上とこの巨大地下空洞を隔てて居るのは何重層もの厚い岩盤である、繋いでいるのは細く曲がりくねった竪穴と、かつての是非曲直庁が建造し完成前に放棄された不安定な概念的門扉があるのみ。旧地獄まで地上の太陽が届く筈も無い。しかし、かといって真っ暗と言う訳でも無いのだ。河川の様にあちこちを流れる溶岩流は、ごうごうと煮え滾り、赤い光とそれ以上の莫大な熱を周囲に振り撒いている。
 インフラレッドの突き刺さる様な灯りは、その周囲に寄る物を一切の区別無く照らし、熱し、そして焦がす。闇と熱線から生まれ出た地獄の獣以外にそれに耐えられるのは地上であれば鬼位の物であろう。実際さとりや映姫ですら、その溶岩河川は出来得る限り避けて移動をし、なるべく地霊殿の外には出ない様にしている。
 だが、野生動物の他にその地霊殿の外に住んでいる者は確かに存在する。廃墟群の闇の中を死んだ様に浮浪する彼らにさとりが最初気付いたのはお燐を拾った時。その体に残る深い ”裂傷の跡” を見た時だった。
 「はぁ? どうして俺たちが此処を離れないといけないんだ?」
 「そう言う訳ではありません。ただ、 ”一時的” にこの場から動いて頂ければ良いのです。施工の終了後この土地はお返しします」
 地霊殿の周りを取り囲む廃墟群。その中でも地霊殿に程近い、朽ち果てた長屋の一軒をさとりと空は訪れていた。正確に玄関と表すには余りに粗末な家の入口から、顔を覗かせるのは死んだ魚の様な濁り切った瞳の男だった。
 「見え透いた方便だ。彼岸の者共が俺達に土地をわざわざ返す理由など有る筈が無かろう。心を読むさとりが心を読まれるとはもうろくしたのか?」
 「お前っ! さとり様に何て失礼な事を――」
 「待ちなさい――、そうですね。信じて頂けないと言うのも最もな事。私達を信じろと言うのには余りにも実績が無さ過ぎる。その猜疑心はこの胸に痛いほど伝わっております」
 目前に伸ばされた小さな腕の内。空はほぞを噛みながらさとりを懇願する様な瞳で伺い見る。粘着質で聞き取りづらく不快な水音を立てるその声の主は、あざ笑うかのように口元だけを笑みに歪ませていた。不法占拠者である彼らの彼岸に対する視線は決して肯定的な物では無い。目前の男の様に悪意を持って当たる者は少なくない。
 「ですからたった一度だけチャンスを。たった、一度で良いのです私達に実績を作るチャンスを下さい。旧都再建の第一歩、 ”修繕不可能な廃屋” の取り壊しと、そして ”仮設住宅の提供” をさせて下さい」
 「嫌だね。どうしても、この地を造成したいのなら勝手にやりな。俺たちはこの場から動く気は無い」
 「――この通りです」
 背筋を伸ばしたさとりが、その頭を深く下げる。短く切りそろえられた髪が垂れ下がり表情を隠しているが、合間から覗く瞳は真剣そのもの。その様子に男は一瞬たじろぐが、直にその顔を険しい物に変える。
 「……駄目な物は駄目だ。殊勝な様子で頭を下げる者に限って最後には裏切る。私はそうやってここに追いやられた。もう――、騙されはしない」
 「……そうですか。嫌な事を思い出させてしまい申し訳有りません」
 数分後ようやく男が口を開くまでさとりはその頭を上げる事は無かった。返事を聞いたさとりは一瞬悲しげな表情を浮かべ、意外な程あっさりと踵を返す。付き従う空も男を一瞥するとその背を追い後に続いた。
 「さとり様、ほんの少しの間だけお暇を貰っても良いですか?」
 「…………」
 さとりは何も答えない。ただ、その胸と顔に付いた三つの瞳をそっと閉じ、すたりすたりと歩き続けるだけであった。「申し訳有りません」そう一言耳元に囁き空は静かに来た道を引き返す。その場に居たのは部屋の奥に戻ろうとする所の男だった。
 「ねぇねぇ、お兄さん。ちょっとこっち来て貰って良いかな?」
 「はぁ? なんだ小娘。お前にかまってやる程俺は暇じゃないんだが――、ぬぉっ?!」
 一足飛びに室内に飛び込む。その男の腕と口をそれぞれ掌で押さえつけそのまま部屋の壁に叩きつける。驚愕に歪んだ男の口からは、叩きつけられた衝撃で肺の空気と共に唾液の泡が飛び出した。
 「食事が欲しければ地霊殿の裏側で提供してやる。寝る場所が欲しければ仮設のテントがある。どちらも今より格段に上等な物だ。だから、明日の朝までにこの場から ”消えろ” 。なぁ、手荒な事はしたくないんだよ。お前さえ納得してくれればお互い幸せになれる。なぁ、悪い話じゃないだろ? 小鬼?」
 握った腕を軽く締め上げる。華奢なのにも関わらず万力の様に締め上げるその圧倒的な力。子鬼の男は悲鳴を上げようとするが同時に口を押さえつける手がそれすらも許さない。
 「良いか、わかったら黙って頷け」息が掛る程の近くに、端正なしかし一切の表情を伴わぬ能面の様な顔が押し付けられる。唯縦に首を振るしかない男は、その手から解放されるとへなへなとその場にへたりこんだ。
 「どこかで見た事があると思ったら……、お前は地獄鴉の……、どうしてあんな彼岸の者等に組する……」
 「……命の恩人だから。少なくとも最初はそうだった」
 廃墟群の住人についてさとり達が知っている事は多く無い。空や燐と言った古来の旧地獄の住人ですら、彼らが何時から地下に降りてきて、何故降りるに至ったのかは把握していない。唯一確かなのは旧地獄が放棄された後にこの地底に住み着いた事。そして彼らの何れもが心に深い傷を持ち強い攻撃性を保有していると言う事だ。
 「あの小娘がか? 鬼才も堕ちた物だ。唯一の希望がそんなでは折角獲得できた地獄鴉の権威が損なわれるぞ」
 「……口を閉じて欲しいな。お燐の事も、私の仲間にした事も忘れてないんだからね」
 感情を押し殺したような低い声。空の胸の奥から巻き起こるのはふつふつとした黒い感情。それは、能面のような表情によって必死で覆い隠していた空の本心以外の何者でも無かった。
 「おかしな事を言う。この地底で喰う為に殺す事は当たり前だ。お前だってそうやって生きてきた筈だろう」
 「本当に、食事の為だけだったら痛めつける必要は無い。尊厳を折る必要は無い。お前達のサディステックな衝動に消耗させられた仲間をどれだけ看取ったと思っている。もう一度言う。 ”口を閉じろ” 。私はお前たちが嫌いだ」
 「…………」
 「私がお前を殺さないのは、 ”私” が紳士的だからじゃない。 ”あいつ” が紳士的だから。でも、この場にあいつは居ない。この意味分かるよね?」
 小鬼の男は怯えたような眼でただ黙って頭を縦に振ると逃げる様に部屋の中に戻って行った。「さようなら」小さくそう言い捨てた空は遥か前方を行くさとりを小走りで追いかける。遥か遠方、溶岩流が岩盤を突き抜けて噴き上がる爆音が轟いた。
前を行くさとりはどう言う訳か、真っ直ぐに地霊殿に向かわない。それどころか廃墟群の外周へ向けて歩みを進めていた。
 「さとり様? この方向は未探索地域です。危ないんじゃないですか?」
 「……何かが来たらお空が守ってくれるのでしょう?」
 「それはそうですが……」
 すたり、すたりと瓦礫の合間を縫うようにさとりは道を歩く。ちりちり、ちりちりと頬を焦がす熱が強くなるのを感じる。その熱に犯されたのだろうか、外周に近づくにつれて廃墟群の風化は激しくなる。かつては擬洋風の建築物だっただろう詰め所らしき物は、瓦礫に混じる煉瓦に刻まれた細工に僅かな名残が残るのみ。家屋と言えるのは極めて粗雑に修復されたあばら家のみである。
 「こほっ……」
 「さとり様、引き返した方が……」
 熱風に舞う土埃に喉が酷く痛む。焼ける様な熱で眼を長く開けていられない。地獄で生まれた空ですらそうなのだ、さとりがどう感じているかなど言うまでも無い。
 「空、この地底に足りない物は何だと思う?」
 「なんですか、いきなり。そんなの沢山有り過ぎて簡単には答えられないですよ」
 ようやく追いついた空にさとりは振り向きもせずに問いかける。故に空はさとりがどんな顔をしているのか伺い知る事が出来なかった。
 「それもそうね……。じゃ、質問を変えましょう。貴女にとってこの灯りはどう見えますか? 無間の闇に生まれ、闇を揺り籠に育った貴女に溶岩の灯りはどう映るのですか?」
 さとりの崖下に広がるのは一面のマグマ溜まり。廃墟群の間を縫うように走る溶岩河川から流れ込み、外周を囲むように対流する巨大な溶岩のプール。二酸化ケイ素が多量に含まれている故に粘度の低いそれは激しく流れ、時折崖の縁まで火柱が立ち上る。それは何の先入観も持たなければ間違いなく ”美しい” と形容される光景だろう。
 「子供の頃からずっと見てきたので特に思う所は……、強いて言うならこれが無かったら困るかなぁと」
 「そうよ、 ”困る” のよ。私達はこんな頼りなく、そして危険極まりない隣人と共生する事を強制されているの。元よりこの地下に生まれた貴女達は兎も角、地上から移り住んできた彼らにこの灼熱はあまりにも過酷」
 実際それは地上からの光の届かないこの旧地獄を照らす唯一の光源。そして同時、全くもって皮肉な事に硫化水素や熱風で住人を蝕む毒でもある。廃墟群に住む妖怪たちはこの溶岩に近づく事はできない。その身が焦がされるのを畏れ、ただ朽ち果てた小屋の中に身を潜めるのみ。それは緩やかな死へ向けてひたすら無言で歩いていると同義。
 「水も、光も、熱も、寒さも、食料も全てが過剰で全てが枯渇している。この地獄にはあまりにも多くの物が ”無さ過ぎる” 。それは、人間は元より妖怪ですら無視できない」
 「彼らを……、助けるつもりなんですか? 勝手に地下に来て、勝手に住み着いて、その挙句さとり様にやつあたりをするだけのあの塵共に力を割くのですか?」
 空は燐の体に刻まれた深い傷跡を思い浮かべる。あれは紛れも無く廃墟群に潜む妖怪たちによって付けられた傷。彼らの攻撃性が時にさとりにまで及ぶ事は珍しく無い。その為に、こうして外出する際は護衛役のペットがさとりに同伴する事になっている。
 「空、彼らはね決して悪い人達じゃないの。ただ余裕が無く追いつめられているの。だから、私達が手を差し伸べないといけない。私達が誰にも住みよい環境を作らないといけない。そうするのが結局お互いにとって最大の利益となるのよ」
 「……さとり様がそう言うのなら、私から言う事はこれ以上何もありません」
 「――そう、何も言わないでくれるのね。ありがとう、良い子ね」
 空の黒く煮え滾った汚い心の内を覗いても尚さとりはその眼光を微塵も燻らせはしない。ただ優しく微笑み、空をそっと抱きかかえ頭を優しく撫でまわした。一回りは小さいさとりでは抱きつくと表現した方が近いその格好だが、不思議と空は全身が包まれる様な温かな感覚を覚える。一頻りその頭を撫で空の心が静まったのを確認する。さとりはそっと空から離れ今度こそ地霊殿へと脚を進め始めた。
 「これからまた忙しくなりますよ。帰りましょう。計画を立てる必要がある」
 空は苦い顔をしながら力強い足取りで地霊殿へ向かう主の背を追う。その体の割には大きな歩幅。追いつき横目に見えた顔にはどこか未来を見据えた不安と期待の入り混じった前向きな光が混じって見えた。
















挿絵1


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 「さとり様、お空。おかえりなさい」
 「お燐、ただいま。食事の準備は要らないわ、暫く執務室に籠もるから、誰も近づけない様にしておいて」
 「はい……、って。ええ?」
 「さとり様ね、多分何か新しい事を思いついたみたいよ。暫くそっとしておきましょう」
 「うん……。まぁ、良いのだけれどさ……」
 玄関でさとりと空を出迎えた燐はわき目も振らず執務室に直行するさとりに眼を丸くする。さとりは清潔でゆったりとした服を好む。外行きの衣服のまま湯あみもせず――地底故水は無く体を拭くだけではあるが――に部屋に入るのが珍しかったのだ。そのさとりの後ろに着いて部屋に戻ろうとする鴉の羽を見た燐はその襟首を掴み制止する。
 「お空、あんた随分羽汚れてるね。洗ったげるからお風呂場に来な」
 「いや、良いって。この位」
 「何が良いだよ。こびりついて取れなくなるよ」
 「ちょっ……、やめっ」
 眼を輝かせながら燐は空の羽を広げる。そこには確かに
あちこち灰色がこびり付いていた。今のところ燐が唯一空を世話できるのがグルーミングだ。風呂嫌いの空を浴室でぴかぴかにするのが燐は大好きだった。嫌がる空を無理やりにひっぱり燐は浴室へと引きずり込んだ。
 伽藍堂の空間に、僅かな水音と姦しい声が反響する。
 「お空、じっとしててよ。洗えないじゃない」
 「分かっているよ。でも、くすぐったい物はくすぐったいよ」
 二人が向かったのは地霊殿の一角にある浴場。水が潤沢にあれば数十人が同時に入浴できるだろう。残念ながら現在は一滴の水も溜まっておらずただの伽藍堂と化した空間である。だが女型の妖獣が徒に肌を見せる事を良しとしないさとりはこの場で体を拭く事を推奨していた。
 手桶に僅か一杯の僅かな水を使い湿らせたタオルに白い粉末を付け、ごしり、ごしりと垢と汗を拭きとって行く。死体の油から作られる特製の粉石鹸は少量の水でも良く馴染み、後にも残らない。空を除く地霊殿のペット達には人気の品である。
 「あんた……、髪の毛よりはまだ翼の方が綺麗よね。手入れの優先順位が手に取る様に分かるよ」
 「地獄鴉のセックスアピールは翼だよ。そうでなくたって羽は生命線。……乱暴に触らないでね?」
 「だったら、自分から風呂に入る様にしなよ」
 「……嫌な物は嫌なの」
 「まぁ、別にあたいはどっちでも良いけどね。こうやって無理やり風呂に入れてあげる楽しみが増えるし」
 鏡の前で横並びなっていたお空はその黒い羽をお燐に差しだしている。お燐よりは若干大きいが、女性らしい華奢なその背に肩甲骨のあたりから伸びる巨大でつやつやとした翼は驚くほど不釣り合いだった。
 「お水が沢山使えればなぁ……、ざばぁと流して終わりなのに」
 「無い物を言っても仕方ないよ。この水だって、ほんの僅かに湿った土壌からようやく絞り取れたのに」
 「まぁね。考えてみれば此処に来るまでは気にもしなかった事だしね」
 「此処に来る前……、か……。そうだね。あの頃は生きるのに必死でそれ以外に回す心が無かった。こんな風に友達を作って雑談するなんて考えた事も無かったなぁ……」
 燐はいつもの明るい表情をほんの僅かに曇らせるとピンと張った濃いブラウンの耳を垂れさせる。言葉を紡ぐ声は、懐かしむとも心痛めるとも着かぬ曖昧な物。
 「次、お燐の番だよ。こっち向いて」
 「いや、あたいは自分で洗えるから」
 「良いから」
 空は半ば強引にお燐に背を向かせ、その小さな撫で肩に濡れたタオルを添える。美しくきめ細かなその肌のあちらこちらに残る薄ピンクの跡。旧い傷跡を眼にした空はその中の一つを慈しむように撫で摩った。「お空……」不審に思ったお燐が振り返った時に眼にしたのは悲しげな瞳を浮かべた友人の姿だった。
 「あのさ、お燐はさ。あいつらの事、どう思う?」
 「あいつらって?」
 「ほら……、廃墟群の……」
 「あー……」
 空は胸の中でわだかまっていた思いを燐へ向けてさらけ出す。
 全くの無意識にも関わらず、いつしか傷跡にふれた指には力が籠もっていた。
 「分かんない……、かな」
 「どうして? 燐の体をこんなにしたのはあいつらなのに。排除してやりたいとは思わないの?」
 「頭ではそう考える事は有っても、不思議と心はそうじゃないんだよね。何でかな……、自分でも分かんないや。一つだけ言えるのは、あたいはあの人たちを ”嫌いでも無い” し、 ”好きでも無い” のよ。嫌いきれないと言ったほうがより正しいかもしれない」
 「お燐……?」
 「私の命を脅かしたのがあいつらなのは紛れも無い事実。でも、下らない餌の争奪戦で浅からぬ傷を負い、ろくに食事も取れずに衰弱していた私を拾ってくれたのもまた、同じ人だった……。ただそれだけ。シンプルでしょ?」
 「悪人が少し善人の振りをしたからって騙されているのではないの?」
 燐は静かにその顔を横に振る。古ぼけた鏡越しに見たその顔には一つの達観の様な物が混じっていた。
 「良い、悪いで考えると肩が凝るよ。両面が有る事を認めた方が良いのかなって、最近そう思い始めた」
 「私には分からないな。さとり様に害なす者は全部嫌い。それの何がいけないの?」
 「さとり様は、確かに良い人。獣と同義だった私達に文化的な生活を与えてくれた。居場所をくれた。その恩には報いたい。だからこそ私は今力をつけようとしている。けどね、最近思うのよ。小町姉さんに稽古を付けて貰うようになって、映姫様とも話をするようになって。さとり様のあの真っ直ぐさは何れ自らの身をも滅ぼすんじゃないかって」
 「燐……、何が言いたいの?」
 「盲目になるのは良くない。小町姉さんがあたいに教えてくれた最初の事。ただそれだけ。……ごめんね、変な話ししちゃってさ。ただの受け売りだよ。気にしないで。あたいはそのお空の馬鹿みたいに律儀な所も含めて大好きだからさ」
 「へ、……変な事言わないでよ。私そっちの趣味無いから」
 「そう言う意味じゃないから」
 一頻り体を拭き終わり随分とさっぱりした体で脱衣場へと向かう。用意しておいた部屋着は柔らかな生地で作られていてとても着心地が良い物だった。簡素でゆったりとしたデザインのその部屋着は人型に慣れない妖獣達にも好評の彼岸で作られた洋風の着物である。
 「お燐、お燐はこの後何か用事が有る?」
 「ううん。でも、今日は少し疲れたから部屋で昼寝でもしてこようかなと思ってる」
 「ん、分かった。私はちょっとさとり様の様子を見て来るよ」
 「了解。それじゃ、また夕食の時にね」
 「うん。またね」
 後ろ手に手を振り、自室へ続く石畳の廊下を歩く燐。いつもはさとりのペットの妖獣で溢れかえるその廊下。現在は午睡の時間と言う事もありほんの僅かな寝息と燐の殺された足音以外に響く物は無かった。遠くの廊下から扉のしまる音と、内容は聞き取れない物の話声らしきものが耳に届く。それは、どこか幸せそうな声と、面倒くさそうな声だった。


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 「「天照計画?」」
 さとりから手渡された資料を受け取った空と燐を始めとする地霊殿のペット達は突飛なその言葉の響きに首を傾げる。この場は地霊殿の会議室。粗末な木製の長机に座った妖獣達は首を傾げながら皆一様にその資料に目を通していた。
 「そうよ。太陽の恵みの下で生まれた生命体は太陽の下でしか生きられない。無理のある我慢はやがて崩壊を引き起こす。自然に生きられる環境がこの地獄には足りていないのよ」
 壁に大きく張り出された紙に描かれているのは長大な年表と地下大空洞の全景図。一体何時の間に調べ上げたのだろうか。驚くほど詳細に調べられたその図は一部を除いてほぼ完全に地下の全景を網羅していた。手元の資料には幾つもの図形によって示された完成へと至るロードマップが示されていた。
 「皆に聞きたい。皆はこの地霊殿に来て何を感じたかしら、何を思ったかしら」
 「……カルチャーショックでした。定期的な食事と清潔な寝床が保障される。それは今までの生活では考えられなかった事です。生存を掛けた戦いをしなくて良いと言う事実は未だに信じられません」
 「そう言って貰えるのは本当に嬉しい事だわ。でもね、それは当り前の事なのよ。彼岸は当然として、地上ですらこれ程に過酷な生活は強いられない。ただ存在するだけで命を擦り減らす。この状況下では生きる事それ自体が目的化し、その為にあらゆるリソースがただ徒に消耗させられている。予言するわ。現状の地下空洞の行く先は袋小路よ。一切の発展も無くただ衰退するのを待っているのも同義」
 「さとり様……、私達はそれでもこの地下で生まれこの地下で生きてきました。さとり様の言いたい事は分かりますが、それでも少し心が痛いです……」
 心底申し訳が無さそうな表情で手を上げると空はさとりへ進言する。その心の内を覗き、さとりは自らが少々興奮し過ぎていた事に気付く。僅かばかり恥じ入る気持ちを覚えるが同時に冷静さを取り戻した。
 「……ごめんなさいね、空。少し、安易な言葉を使い過ぎたわ。私はね最低限度の生活を保障するそんな社会をこの地底に作りたいだけなの。これはお互いの為で、それと同時に地底の先を運命づける物。灯りを与えられるのを待っているのでも、現状で満足するのでもいけない。私達で作り出さなければいけない。この地下をのよ」
 テラフォーミング。それは極限環境の是正。地上と同様の環境の創世。地下大空洞にもう一つの地上を創造するとも言えるだろう。それは太古の昔大和の神が行った国生みにも近い行い。その途方も無さに妖獣達は唯々呆気にとられるしか無かった。
 「私達だけでですか? 不可能です。焦熱地獄の復旧すら今だ目途が立たないのですよ。主神クラスの存在でも居なければとても……」
 「あら、この地下にはまさに神が如き大規模な創造にうってつけの奴らが沢山住んでいるじゃない」
 その言葉と同時に部屋の中にいた妖獣達の間にどよめきが走った。彼らの頭に思い浮かべられているのは皆一様に同一の存在。この廃墟群に潜む、最も強く、そして最悪と恐れられる廃墟の支配者。
 「まさか、さとり様。不可能です。奴らに話は通じません。もしも、それでどうにかなるのなら私達はもっと平穏に暮らしていられた。これまで何人があの ”鬼” 共の餌食となったと思っているのです」
 妖怪の最強種、鬼 。その実力は災厄そのものとも言われ純粋な力で勝てる妖怪は存在しない。神にも等しい力を持つ彼らはかつて地上の妖怪を支配していると聞いていた。何時しかこの地下空洞に移り住み現在は廃墟を支配している。そこにどんな経緯があったのかはさとり達の知る由も無い事である。
 「確かに、今は鬼と話をするのは難しいかもしれない。でも、それが ”彼女” に変われば不可能じゃない。鬼は力の無い物を嫌う……、私と空。この二人で、星熊勇儀、伊吹萃香、この二人と話をする。そして何としても ”河城みとり” を探し出すわ。付き合ってくれるかしら? 空」
 「そんな、幾らさとり様と空がお強いと言っても――」
 「――当然です。さとり様だけを危険に晒す事はできません」
 一切の迷い無く言いきった空の言葉を否定できる物は誰も居ない。暫く沈黙が部屋を支配した後さとりは深く瞑目すると静かに呼吸を整えた。次にその瞳が開かれた時に有ったのは途方も無く強い意志。
 「私はこれを『天照計画』と名付ける。これは地霊殿の独断で行う計画。故に彼岸の協力は受けられないし、受けてはいけない。私達は私達の力で歩まなければ意味が無いのだから」


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 「何の用だ……?」
 「挨拶ですよ。ただのお引越しの報告です」
 普段通りの気だるげなトーンでさとりが声を掛けるのは眼の前に広がる巨大な瓦礫の山。瓦礫の山の上で、盃を交わしているのは対照的な二人の鬼。一人は小柄な体にはアンバランスとも言える二本の角が特徴的な小柄な鬼。そしてもう一人は大柄な体に相応しい一角を額に生やす鬼。どちらもが、明けぬ夜を嘆く様な暗い雰囲気を伴って不機嫌そうに酒を飲んでいた。
 「挨拶? 辞めてくれよ、そんなかたっ苦しいのが嫌で私達はここに逃げてきたんだ」
 「まぁ良いじゃないか勇儀。どうせ暇なんだ。話だけでも聞いてみれば」
 「萃香、お前なぁ」
 さとりの声に答えたのは額から一角を生やした鬼。勇儀と呼ばれたその鬼は萃香と呼ぶ鬼を苦々しげな瞳で睨みつけた。
 「私は、地霊殿のさとりと申します、こちらはお空」
 「……どうも」
 「あぁ、地霊殿のか。名前は聞いた事が有るぞ、確かさとり妖怪と言ったか。他人のトラウマを弄って遊ぶ趣味の悪いスプーキーだったな。……隣に居るのは知らない顔だが」
 俯き加減で顔を上げようとしなかった空の気配が俄かに乱れ始める。その心を読みとった空は意識して空よりも前に一歩足を出した。
 「お空、下がりなさい。そんな事の為に私達は此処に来たのではない」
 「ほう、そっちは良い気配をしている。どうだ一勝負私と――」
 「貴女方がどうしてもそれを望むのなら吝かでは無いですが今日は別件です。ただ挨拶以外の目的は私にはありません」
 「そうでもないぞ、鬼にとって喧嘩はコミュニケーションだ。百の言葉を語り合うよりも、拳を一度交わす方がより多くの事を読みとれる。それが鬼と言う生き物だ」
 和服を着流した一本角の鬼は立ち上がり盃を掲げながらさとりへ向けて歩み寄る。ただの歩行である筈のそれは、単騎であるにも拘らず地鳴りにも似た錯覚を伴う。その発生源は圧倒的な威圧感。単騎の妖怪とは考えられぬ桁外れの妖力がその一歩には内包されていた。だが、その脚は空に背負われている物を見てはたととまる。一転してその顔に浮かんだのは子供の様な無邪気な笑顔。
 「おぉ、何か良い香りがすると思えばそれは酒か。鬼と邂逅するなら宴会か喧嘩の二つに一つ。中々分かっているじゃないか。どれツマミでも見繕って来るから荷物を降ろして待っていてくれ」
 しかしその背後で寝そべる二本角の鬼が湛える不機嫌な表情と険しい視線は一片の変化も見せない。後方へ引っ込もうとする一本角とは対照的にその場に留まってゆるりと指をさす先に居るのは、微動だにしない地獄鴉の少女だった。
 「お前はどうなんだ?」
 俯き黙りこくっていた空はその鬼の問い掛けに合わせ顔を上げる。露わになった瞳は強い怒りの炎が灯っていた。
 「さとり様。こいつらを……、殴らせて下さい」
 「お空、確かに貴女の考えは正しい。でも正しい事が常に良いとは限らない。大人になりなさい」
 「さとり妖怪。私は今そこの鴉と話している。少し静かにして貰えないだろうか?」
 その姿にはあまりにも似つかわしく無いドスの聞いた声。思わず口を閉じたさとりは視線で空に自制を促すべく隣へ目配せをする。しかし返って来たのは強い意志を持った視線だった。
 「御免なさい、さとり様。私は今貴女の指示に従いたくありません。今従ってしまったら次に会う時にはこいつらは地霊殿にとっての要人になってしまう。そうなってしまったら、今の言葉を撤回させる事はできなくなってしまう。さとり様も仰られていたじゃないですか――」
 「「――政治になってしまったら個人の感情は余計でしかない」」
 「その通りよ、お空。良く覚えていました。でもその意見は見当外れ。私はあの鬼を気遣って止めている訳じゃないの。 ”貴女” を気遣って止めているの。この意味。貴女なら分かるわよね?」
 重なる声に、貫く鋭い視線。その強い静止の言葉にも関わらず空の心が静まる気配は無かった。
 「……申し訳有りません。それでも私は許せないのです。……訂正しろ、鬼。さとり様を馬鹿にした事を」
 「私を満足させてくれるなら、その位幾らでも」
 空の前に立つのは二本角では無く一本角の鬼。酒が入れられたままの盃を片手に肩をならしてその体を揺らした。空も背負った樽を脇に降ろし、腰を落とした臨戦態勢を取る。
 「ルールは単純だ。お前が動けなくなる前にこの盃の酒を一滴でも零す事ができれば、お前の勝ち。それが出来なければお前の負け」
 「それ以外は何でもあり……、だよね?」
 「あぁ、何でも使える者は好きに使え。精いっぱい手加減してやるから本気で掛かってきな。――でないと死んでしまうぞ!」
 それは唯の足踏みだった。ほんの少しだけ力を籠めて踏みだされたその脚は岩に足跡を刻み衝撃で大地が雄叫びを上げる。幾本もの亀裂が大地に走り奥深くにある紅い溶岩がその姿を露わにした。
 「そっちこそ、地獄鴉を甘く――」
 「御免なさい、お空。今は暫く……、眠りなさい」
 それは、ただの視線だった。空は胸にある第三の瞳と空の視線が一瞬交錯した次の瞬間。空の体は完全に意識を奪われゼンマイが切れた様に地面に落ちていた。さとりはそれを優しく抱え上げ近くの木陰に寝かせる。そして、不気味な程静かに見つめていた勇儀に向き直った。
 「貴様、何のつもりだ? 鬼の喧嘩を邪魔したんだ。覚悟はできているんだろうな?」
 「ええ、当然です。お空の分まで私が相手をしますから。二人纏めて掛かってきなさい」
 びりびりと震える大気は周囲の小石を弾き飛ばし、風化しかかっていた廃屋をがらがらと倒壊させる。怒りに燃えた一角の鬼は片手に持った盃を地面に下ろしその拳を固く握りしめた。
 「面白い……、本気で行く。」
 「そちらこそ、新しいトラウマが刻まれても悪く思わないでね」
 足音も置き去りにしてソニックブームを伴いながら突っ込んでくる勇儀の巨体とさとりの細腕がぶつかり合う。その様子を遠巻きに眺めていた萃香は小さな溜息を吐くと瓢箪の酒をぐびりと飲み込んだ。


 「……は、とて……、んかだった……」
 「……みでは……のですよ……」


 耳に入ってくるのは聞きなれた一人の声と聞きなれぬ二人の声視界に移るのは黒く煤けた天蓋の紋様。反転した視界は自らが地面に寝ている故であると気付いたのは暫く経ってからの事であった。
 「あら、眼を覚ましましたか?」
 「……とり、さま?」
 「随分と遅い目覚めだったな、ほらお前も飲め」
 「しれっと鬼の酒を進めてるんじゃないよ。また意識を飛ばす事になるよ」
 それもそうかと陽気に笑う様子は記憶の中にある最後の光景とは似ても似つかない。何が有ったのかと思考を廻らせる前に辿りついたのはさとりの服装についての事だった。
 「さとり様!? その怪我は……、もしかして……」
 「ははは、全く。本気でやって引き分けたのなんて何年振りだろうねぇ。本当に楽しかったよ」
 見れば勇儀の和装は、さとりのそれよりもさらに激しく破損しており、布地が随分と寂しくなっている。鬼の治癒力で治りかけては居る物の怪我も少なくは無い様であった。
 「御免なさいね、空。貴女よりは私がやった方が確実だと思った物だから……」
 「お空と言ったな。戦わなかったとはいえ鬼に喧嘩を売るその度胸は悪くなかったぞ」
 「真っ直ぐな馬鹿は見ていて気持ちが良いもんだ。それがたとえ空回りであったとしてもね」
 「勇儀……、萃香……」
 「勇儀さん、萃香さん、よ。もう喧嘩は終わったの。彼女らは私の大切な友人よ」
 「いやいや、私も悪かったな。特にお前を貶める意図は無かった。ただ聞いただけを言葉として口にしただけだ。自分の眼で判断もせずに馬鹿にしたのは私の落ち度だろう」
 その言葉が勇儀の口から出ると同時に押し寄せるのは二つの相反する感情。主人を窮地に追い込んだ膨大な罪悪感とほんの僅かな安堵感。胸が割れそうになる程ぐちゃぐちゃになった思考を脳はやがて処理をし切れなくなる。余剰の感情が涙として目尻から溢れ出した。
 「――ッ!! さとり様……、私は……、さとり様に迷惑を……」
 「やめてちょうだい。お酒が不味くなるわ……。貴女は私のペット。貴女の責任は私の責任。それで良い筈よ。今は宴会を楽しみましょう」
 子供の様にさとりに泣きつくお空を静かに抱き寄せる。まるで赤子をあやす様にその頭を撫で胸に搔き抱いた。
 「嫌だったんです。さとり様が傷付けられるのを黙って見て居られなかったんです。どうしようもなく胸が苦しくて……、なのに……、私のした事はさとり様を――!」
 「仕方が無い子ね……、分かりましたから。ほら、落ち着きなさい。今は起きたばかりで記憶が混乱しているのよ。暫く静かにして心が落ち着いたら話して御覧なさい……」
 「おー、おー、お熱いねぇ。話で聞くさとり妖怪とはえらい違いじゃないか」
 「あんたみたいな親馬鹿。久しぶりに見たよ。まぁ、嫌いではないけどね」
 そんな光景も酒の肴と言わんばかりに升一杯に並々と注がれた樽酒を一気に飲み干す。空になった升をさとりに渡す。自らも新たな升を取りだした萃香はそれらを再び酒で満たし静かにその口を合わせた。
 「お褒めに預かり恐悦至極でございます」
 「褒めたと言えるのかね。まぁ良い。それじゃ、勝負二本目と行こうか」
 「こちらの方でも、負けるつもりはありませんが、それでも良いですか?」
 「何を言うか。流石に酒で負けるつもりは無いよ」
 鬼とさとり妖怪の酒盛りは翌日になっても続きついに決着がついたのは既に昼間になった頃。傍らで真っ青な顔をして看病するお空に真っ赤な顔をしたさとり妖怪がろれつの回らない口で「これで良いの」と繰り返す様は一種美しくもあった。その見事な飲み口と無防備とも言える程に四肢を投げ打ち地面に倒れる様にはさしもの鬼も関心をする程であった。
 「馬鹿正直でまっすぐな奴の相手なんて慣れ切っているのよ」とは、翌日の二日酔いの頭を抱え桶へと走るさとりの弁である。青い顔で口の端から胃液を垂らしながらも、さとりは教えられた場所を地図にしたためお燐を ”ある人物” の下へと走らせた。その背を見届けるのと、喉元が焼けつく様な感覚共に乙女度が口から放出されるのは全く同時であった。
 そして、地霊殿は鬼との友好を結ぶ事に成功し、河城みとりの住居を知る事に成功した。


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 「あぁーあ。めんどくさいなぁ。ひさしぶりにお姉ちゃんをからかってやろうと思ったのに。相変わらず仕事人間なんだから」
 「自分を呼べって言ったのは貴女じゃないですか。こいし様。後、さとり様はあたいみたいな下っ端の者でも愛して下さいます。仕事だと思っていたらそこまで出来ないですよ」
 こいしは、悪戯っぽく笑うと燐の瞳をしげしげと眺める。リボンで装飾された黒い山高帽にふんだんにフリルをあしらった黄色のドレス。そのスカートの裾を揺らして彼女は燐の先を進んでいた。
 「本当、ペットにはよく懐かれるんだから……。本当に良くも悪くも、お姉ちゃんは変わって無いみたいね。気を付けなよ、お姉ちゃんは特にお気に入りのペットは常に傍に置いときたがるからさ。起きたら首輪と手錠付けられちゃっているかもよ?」
 「さとり様はそんな事しません」
 「根拠が無いね。付き合いは私の方が長い」
 「む、深さでは負けません」
 「ふむ……。それもそうか。確かに私とお姉ちゃんの付き合いは深いとは言えないかもしれない。今のお姉ちゃんを知っているのは傍に居る貴方だと言うのは筋が通っているわね」
 「納得しないで下さい。どう反応すれば良いのか分かりません……」
 「半ば冗談よ。……さて、お喋りはここまでにしようか」
 不自然な程に弾んだ声はその場の雰囲気を和やかに切り替える。彼女の瞳に映り込んだのは小さな洞窟だった。地下大空洞の東の果ての果て。さとりの地図では『闇火風処区』と記された地点。怨霊が跋扈し原住の獣すら寄りつかぬその場所に掘られた横穴には驚くべき程に明確に人の住む跡が残っていた。
 「本当にこの中に彼女は居るんでしょうか?」
 「居るわよ。確実に、明確に。ここに居ても感じる。だってこんなにも激しい拒絶の気配を既に漂わせているのだもの。ああ、 ”ぞくぞく” する……」
 大岩の狭間に作られたその入り口には木製の簡素な扉とそして、見た事も無い素材で作られた大きなばつ印が掲げられていた。一種光沢の様な物を持ったそれは白地に赤でばつが記されている。茶色くただれたその円盤を燐は知らない。しかし、遠目で見ても分かる程に強い力で封印が施されている事だけははっきりと感じる事ができた。
 「燐。あなたは此処に居なさい。暫くしたら中から人が出て来ると思うけど、 ”できるだけ優しくしてあげる” のよ。それはきっと貴方にとってだけではなく私達にとっても大切な友人になるのだから」
 「こいし様? それはどういう意味で……」
 燐が聞き返そうとしたその先にこいしの姿は存在しなかった。怨霊ばかりがたむろするただっぴろい空間に取り残された燐は心細さを感じながら立ちすくむ。
 「ぅひょぁーー!」
 突拍子も無い声が聞こえてきたのは数分もしない内の事だった。弾ける様に扉が開いたかと思うと紅い塊が中から飛び出し燐の前に倒れ込む。何があったのか、腰が砕けがたがたと震える彼女は縋りつくように燐に抱きついた。
 「みとりさん、ですよね? だ、大丈夫ですか」
 「はふぅ、ひゃぁ……、ぎゃっ?! あんたは誰?! 鬼?!」
 「妖獣です、火焔猫の燐と言います」
 「け……、獣か……、良かった……」
 安心したからなのか、燐の胸の中で無防備に泣きだす彼女は見た目河童の様に取る事ができる。彼女の纏うポケットがあちこちに着いた作業着と頭を覆う独特の帽子は河童に特有の物。しかしその燃えるような紅い髪に紅い瞳は河童の特徴には無い物だ。
 (こいし様、なにやったんですか?)
 (私は何も? ちょっと ”トラウマ” を弄っただけよ)
 いつの間にか隣に現れていたこいしに燐はこっそりと話しかける。それに気付く様子も無く鼻を鳴らす赤河童は見た目通りの幼い少女の様であった。
 間違いなく現在の地下で最高の頭脳を持つ河童の技術者、河城みとり。彼女とコネクションを得た燐はこの後友人として付き合い協力を取り付ける事に成功する。そして、『天照計画』は本格的に始動した。


 この後に『天照計画』は地上の不法占拠者達にも広く受け入れられ、滅びゆく筈であった旧地獄の運命を大きく揺るがせる事になる。ただしそれが好転であったのか否かを判断するのは今この時を生きている者達では無い。






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 勃興 - the rise of underground –
窓絵



 「行くぞ……」
 「お願いします」


 腹の底から突き上げるような唸りを上げる巨大な装置がエギゾーストを残して天空へと舞い上る。二酸化ケイ素と砂から作られた透明の素材で作られた球体に囲まれたそれは二百メートル程昇った所で停止する。ゆっくりと上下に揺れながら空中に縫いとめられるそれは、内部を揺らめく陽炎の様な気体で満たされて行った。内部機関のクランクの発するノイズが若干に耳に障るが、致命的な物ではないと判断する。
 気体の充填。そして炉内の温度をチェックすると同時、既定の時刻通りに赤く染まり始めるのは球体下部から発生するアセチレンガスの炎。やがて周囲を揺らめく気体に広がりその灯りは硝子の外側へと放出される。
 その時、誰もが空を見上げていた。鬼も、妖怪も、妖獣も。彼岸も、地下の住人も。一切の垣根なく空へ浮かぶ、ちっぽけな歴史の始まりを眼に刻みつけようと彼らは必死に眼を見開いた。球体の中で灯り始めるのは橙色の炎。マグマよりも更に温かみを感じさせ且つそれ以下の熱しかもたない柔らかな炎。アセチレンの淡い光が地獄の深淵をほんの僅かずつ侵食する。誰も見た事が無かった地獄の天井が揺らめく陰影を付けながらそこに浮かび上がる。またたく星の様に姿を変える岩盤の天蓋は決して美しくは無いが初めてその姿を住人の前に表す。
 それが記録に残された中では最初に地獄に昇った太陽であった。地霊殿、廃墟群の移住者、立場も種族も異なる彼らが初めて共同で作り上げた記念すべき物。正式名称 “日照機試作型”。通称 ”アマテラス一号” 。
 それは確かに最大の出力でも脚元が辛うじて視える程度の明るさしか確保できない。点灯中は何者も近づけない程熱く日に一度は緊急停止する程に不安定。余りにも弱々しく、余りにも頼りない。しかし、それでもその灯りは紛れも無く地獄が歩みを始めた証だった。つかまり立ちにも及ばないその弱々しい歩みは当に赤子。だがそうであっても一歩には違いない。間違いなくこの日、地獄は文明としての産声を上げた。


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 「お空? どうしたの、考え事なんかしちゃって」
 「お燐……? いや、何でも無いよ」
 地霊殿の書庫。地霊殿のそのまた地下に作られ、普段は誰も寄りつかぬその場にいたのはこれまた書庫とは掛け離れた二人組であった。
 「けほっ……、それにしても埃っぽいね。普段ここは掃除してないの?」
 「使うとは思ってなかったからねー。持ち回りで掃除しているのは皆の生活スペースだけさ」
 埃っぽいその部屋には是非曲直庁の直接統治中に持ち込まれた大量の文献が無造作に詰め込まれている。それらは特に重要な物を除いてほぼ当時のままだ。手元の蝋燭の朧な明かりだけを頼りに二人は本を探す。その随分と風化してしまった背表紙を指でなぞってはそこに書かれた書名を確認して行く。
 「『東大寺及び諸寺の再建へ向けた干渉及び記録』、『熱力学概論』、『宇治拾遺物語』……、何これ。分類もへったくれも無いじゃない」
 「仕方ないよ、随分慌てて引き上げたみたいだし。適当に大事なのだけ見繕って後は放置したんでしょ。ほらその辺見てみなよ」
 蝋燭の頼りない灯りに照らし出されたのは、地面に散らばり無残に折れ曲がった本の山だった。うず高く積まれその小動物の住処と化したそれら。既に本と言うよりは紙の山と呼んだ方が正しいだろう。それは一か所だけではない。本棚の間の通路と言う通路に渡って広がっていた。その山を越えようと脚を掛けると本の隙間から小動物が飛び出しちょろちょろと地面を駆けまわる。
 「あ、ほら。お燐。鼠だよ。ちゅーちゅーって」
 「馬鹿にしてんの? あんな喰い出の無い物。ただの獣だった頃から好きじゃ無かったよ。仕方なしに以外食べた事は無い」
 「冗談だよ。こういう、地味な仕事は好きじゃないからつい……、さ。でも、さとり様ったら何で今頃になってこの部屋の掃除なんか……」
 「さぁ、あたいも聞かされてないけど、さとり様の事。きっと何か考えがあるんでしょう。例えば……、是非曲直庁本部の置き土産 ……、とか?」
 「置き土産?」
 お燐は口元に指を当てながら考えを廻らせる。心当たりが有る訳でもなくただ何の気なしに口から出た言葉だったが、不思議とそれはすとんと腹に落ちる感覚がした。
 「例えばの話だよ。一時期とはいえこの場に彼岸の者を大量に送り込もうとしていたんだ。何か助けになるような資料が残っていてもおかしくは無いんじゃない?」
 「あー。確かにさとり様も外に出る時はしんどそうだしね。でも助けになるような資料って例えば?」
 「さぁ、分かんない。さとり様がご自分で探すつもりじゃないのかな」
 「だから、自分が探す前に掃除を申しつけられた訳ね。確かにこの埃っぽさはさとり様が嫌いそうだ」
 口に出す度明瞭になるイメージはしかし、肝心な所で喉元につっかえた様に見る事が出来なかった。何も聞かされていないので当然ではあるが、どうにも歯がゆい思いをしながら燐は空に促されて片付け作業へ入る。持ってきたはたきを取り出しそれで棚の上を払う。面白い程に舞う埃は口元を絹で覆っても尚耐えがたい程の量であった。
 「げほっ、げほっ」
 「大丈夫、お燐? ほら、こっちにおいで。」
 まだ埃の舞って居ない区画。少し離れた所にむせる燐を抱えて空は移動する。だが燐を支えるため蝋燭を手放してしまい真っ暗になったその空間は二人で歩くには狭すぎあちこちに体をぶつけてしまう。そして空の漆黒の羽は ”運命の歯車” へとかち合ってしまった。
 ごとり、と大きな音を立てて堕ちる一冊の書籍。驚くほどに分厚く。そして手垢にまみれたそれはきちんと製本された物ではなく簡素なクリップでまとめられただけの紙の束に過ぎなかった。本来ならただのゴミとして処理しても構わない程の風化具合。しかし、そんな事は問題にならぬ程にそのめくれた頁には興味深い事が記されていた
 「何……、これ?」
 『地下大空洞日照機建造計画書』開かれた頁の左上に書かれた文字にはそう記され、本文は多数の難解な数式と詳細な挿絵が描かれている。巨大な球体が天井に吊り下げられたその図には小さな文字で ”日照機” と記されていた。
 頬を寄せ合う様にしてそれを食い入るように見つめていた二人は、我に返ると大慌てで書庫を出る。執務室の扉が乱暴に開かれるのはそれから僅か数分後であった。


 ――パズルのピースが揃い始めようとしていた。


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 「日照機か……、昔の是非曲直がこんな大規模な物を建造しようとしていた何て初耳ね」
 「御免なさい、さとり。私もそれについては何の情報も持ち合わせていなかった」
 「映姫が謝る事じゃない。何か情報を貰えたら嬉しかったのは事実だけど……」
 さとりは簡素なデザインのつる付き眼鏡を外し資料から眼を離す。首を傾げる映姫へその資料を差し出した。映姫は私用で地霊殿を訪れていたに過ぎない。しかし先ほど二匹のペットから持ち込まれた資料によってすっかりと仕事モードに移行してしまっていた。
 「そうは言っても私はあなたと同期でまだまだ新人。小町は何か知っていますか?」
 「あたいですか? うーん、あたいも長い間務めているけれど、テラフォーミングなんて突飛な事を考えたのはさとり様が初めてだとおもいますねぇ」
 「ケチ臭い本部の奴らがこんな辺境の地に資金を投入する理由も見当たらない……。大方仕事熱心な映姫みたいな人が提案だけして却下されたのかしらね。まぁ、深く考えるよりこの資料の解析を進めた方が建設的だと思いましょうか」
 壁に寄りかかり腕を組む小町と、ぺらり、ぺらりと、紙の束を捲る映姫。ぎっしりと書き込まれた無数の数字の羅列と文字。その殆どが長い年月の中で風化しており判読は困難を極めるであろう事が予想された。一瞬だけそれを読みとろうとして、即座に諦めた映姫はこめかみに指を当てながらさとりに語りかけた。
 「……あまりこの資料に囚われる必要は無いかもしれないわよ。技術者の当てはあるのでしょう?」
 「まぁ、一応は……、ね。ただ私には会ってくれないみたいだから。こいしかペット達を介してしか話が出来ないのが悩みね」
 「まぁ、それが普通の妖怪の反応よね。ちょっと特殊なのに囲まれ過ぎなのよ。貴女」
 「特殊の筆頭に言われたくは無いわね」
 「……ねぇ、さとり。本当に支部の協力を仰がなくても良いの?」
 「…………」
 執務室の風化の進んだ机に頬杖を着いたさとりは静かに瞑目する。映姫の言葉の通りさとりは、是非曲直に天照計画の事を伏せている。表向きは焦熱地獄と怨霊の管理、裏では地下環境改善に向けた研究開発を進めているのだ。その理由は極めて単純明快な物。
 「秦広王様の最近の様子はどうかしら……?」
 「……相変わらずですね。他支部や本部との会合に出られる事が多く、殆ど執務室にはいらっしゃいません」
 「まったく、あの男は……。ねぇ、映姫。貴女程の人が気付いていない筈が無いでしょう?  “あの男” に借りを作るのは長い目で見た時必ず損になる。それでも協力を求めろと言うの?」
 「さとり、滅多な事は言わないで。あの方は……、そうですね。ほんの少し排他的で上昇志向の強い面が有る事は認めますが、善には忠実です。何よりも秦広王様は私達の善悪の規範ではありませんか」
 悲しい顔をした映姫は、どこか自分に言い聞かせるように俯き気味にそう呟く。さとりは是非曲直庁を信用していない。より正確に言うのであれば、 ”秦広王” を信用していないからである。
 「映姫、私は今から独り言を言うわ。貴女は偶然珈琲を飲んで居たらその話を耳に挟んでしまった。ただそれだけ。それ以上の事実は無い」
 「偶然……、ね……」
 静かに手もとのカップを傾け、中の黒い液体を一口含み映姫が瞑目する。気付けばその後ろで壁によりかかる小町も静かに眼を閉じていた。
 「かなり昔、一瞬だけ秦広王の心を覗くのに成功した事が有る。彼は野心の塊。表面上の筋さえ通れば裏工作も厭わない。おそらく……、彼は力を持ち過ぎる部下、公明正大過ぎる部下を危険視するでしょう。映姫、貴女も気を付けて」
 「お互いよ……、十王を批判するなんて御法度も良い所。私で無ければどんな事になっていたか……。他言は無用。私は今日何も聞かなかったし貴女も何も言わなかった。これがお互いにとって一番幸せよ」
 長い沈黙。緊迫とも空虚ともつかないその間はひどく居心地が悪い。映姫さとり共にしきりにあちこち視線を泳がせていた。その様子を見かねたのか小町はおもむろに立ち上がると、何時もと何一つ変わらぬ間延びした声を部屋に響かせた。
 「あたい、ちょっと眠くなってしまったのでその辺で昼寝してきますね。夕方には戻りますけど。何か用があれば何時でも念話を飛ばして下さいね」
 「あ、……はい。分かりました。私も用事は無いと思うのでゆっくりして行って下さい」
 「それでは」とひらひらと後ろ手に扉を開く小町は、その奔放な様子とは似つかわしくない程繊細に扉を閉めると規則正しい足音を響かせながら遠ざかる。再び静けさが戻った時には妙な空気は何処かへ消え去り、間延びした空気の残り香が漂っていた。
 「さぁ、固い話はこれまでにしましょう。お互いやらなければならない事は数多くあれど、今は休日。より質の良い明日の為に今は全力で肩の力を抜くのが肝心です」
 「その通りよね。……ねぇ、映姫。最近のこいしの奴の様子聞かせてよ」
 「ふふ。良いですよ。相変わらずのトラブルメーカーですけどね」


 かつり、かつりと、燭台で照らされる廊下を小町は歩く。
 時折すれ違うのは背の低く幼い妖獣や人型を取らない妖獣達。彼らに笑顔を見せながら小町が行く先にあるのは、いつも同じ場所である。階段を降り、暫く進んだ後に小町の脚が止まるのは一つの扉の前。見慣れた扉の傷を見てどこかほっとする小町はその扉に手を掛けようとする。
 「小町姉さん?!」
 しかし、その手が扉を開くよりも先にがたりと勢いよく空いた扉から飛び出して来たのは黒い服を着た赤髪の少女だった。
 「やあ、お燐ちゃん、それにお空ちゃんも居るのかい。どう、今は暇かな?」
 「あれ? 小町さん、こんにちは。もうあの件は大丈夫なんですか?」
 白いベッドの上で、眼鏡を掛けて書を食んでいた空は首を上げて突然の来訪者を笑顔で迎える。地霊殿の一階に設けられたこの部屋は燐の個室であり、このフロア全体が居住スペースとなっている。
 「暇も暇、大暇です。今だってお空と駄弁っていただけですから」
 「駄弁っていただけって……、まぁ、その通りと言えばその通りだけどさ」
 見れば随分と古ぼけた本がその部屋の床には何冊も積み重ねられている。大方、書庫から引っ張り出してきた本を興味本位で読んでいたのだろう。難解な文章と、風化した文字に頭を捻る二人の様子を想像した小町は思わず苦笑を洩らしながらも口を開く。
 「良かったらあたいも混ぜてくれないかねぇ。向こうはもう方が着いてあたいが居る意味は無いみたいでさ」
 「当然良いです……、けど。もしよかったら今日もあたいに付き合って貰う事はできませんか?」
 「また稽古かい? 熱心なのは良い事だけど最近少し根を詰め過ぎてはいないかね?」
 「そんな事ないです。と言うか、お空とかと違ってあたいはまだ決まった仕事がないぷーですから。休む時間なんて幾らでもあるんです」
 眩い様な笑顔を見せたかと思えば、頬を膨らませて怒る様な表情を表す。普段のどちらかと言えば飄々とした態度からは想像しづらいその姿。それは空とさとりに見せる物とも少し違う。小町の前独特の物だった。
 「ふぅむ……。まぁ良いだろう。でも、今日は講義だけだからね。実技は無し。それで手を打つ事」
 「はぁーい。……そう言う訳でごめん。あたいちょっと行って来るね。夕方までには戻ってくるからさ。夜になったまたそれ読も!」
 「それ、私も付いて行って良いかな? 小町さんの操霊術って実は少しだけ興味あるんだよね」
 「良いけど、あたいの何てそんなに大した物じゃないさ。期待外れかもしれないよ」
 「そんな事ないです! 小町姉さんは私の憧れなんですから! お空も小町姉さんに迷惑掛けたら承知しないからね!」
 「分かっているよ……。隣で見ているだけ。二人の邪魔はしないからさ」
 「ははは、聞きたい事は何でも聞いてくれて構わないよ。それじゃ、この場所は講義には狭いし物も無い。少し移動しようか。二人とも並んで座ってくれるかい?」
 言われるままにベッドで座る空の横へ腰かける燐。オシドリの様に肩を寄せ合って座る二人に眼を細めながら小町はその前に立つと、どこからか取りだした鎌を一振りした。ブン、と言う風の壁を抜けたような音が鼓膜に伝わると共に一瞬で周囲の景色が移り変わる。
 気付けば二人が座って居たのは見た事も無い中華風の装飾が施された長椅子の上。平然とする燐とは対照的に空は周囲をきょろきょろと見回している。その伽藍堂の室内には ”生きている” 存在の気配が全く感じられない。
 「ふふ、お空ちゃんは此処に来るのが初めてだったね。ようこそ、是非曲直庁支部へ。此処は現在使われていない講堂だよ」
 「是非曲直庁……、さとり様の昔務められていた場所……」
 「その通り。良く知っているね。偉い、偉い」
 「むー。当たり前です」
 わしわしとぼさぼさの黒髪を撫でられ不平を漏らす空はようやくこの場所の特異性に気付き始めていた。二十帖程の部屋には幾つかの長い机が整然と並べられ前には黒い板が壁に貼られている。それは空も知っている物。白い特殊な墨で字を書く事で何度でも使い回せる特殊な紙であると、同じ物を地霊殿の倉庫で見つけた時にさとりから聞かされた記憶が有る。
 「さて、時間も限られている事だし。さっさと始めようか。お空ちゃんは初めてだから見学と言う事で、楽にして貰って良いよ」
 「はい。それは良いんですけど……、何でこの部屋には ”死者の魂" がたむろってるんですか?」
 「ほう……、そこに気付くとは。流石は地下に名高い鴉の天才児か」
 「小町姉さん、騙されないで下さい。こいつ脳筋ですから。どうせ野生の勘で当てただけですよ」
 「否定しないけど、あんた酷いね」
 空の言葉の通りこの部屋には亡者の気配が満ちていた。最初にこの部屋に来た時こそ何も居ない様に見えたが、一度意識すればそれらを見る事は容易い。旧地獄に溢れる怨霊のような苦悶に満ちた表情を浮かべてこそいない。しかし、虚ろな表情や、明るい表情、様々な顔をした髑髏の火の玉が中空を漂っていた。
 「勘も実力の内。特にあたいが今から教える操霊術だって蓋を開ければ勘の集合体みたいな物さ。……そうだね、お空ちゃんも居る事だし今日はおさらいから始めてみようか」
 「はい、わかりました」と元気よく返事をする二人は眼の前の机に向かい授業を受ける寺子屋の生徒の様に姿勢を正した。小町も小町で、そんな様子を面白がりどこからか取りだした伊達眼鏡などを付けて黒板の前に立っているのだからお互いさまである。
 「さて、最初は質問から入ろうかな。二人は操霊術と言う物を聞いた事があるかな?」
 「はいっ! あります」
 「だろうね、あたいが教えたからね」
 「お燐の話やさとり様の話で、聞いた事は有る程度ですね」
 「そうか、実のところはね。是非曲直庁(あいつら)は操霊術なんて名前まで付けて大仰に体系立てているけれど、実際の所はただ霊魂とコミュニケーションを取って、こちらの意のままに動かすただそれだけの技術体系だ。高度に発達した意志疎通ではあるが、それでも対話の延長線から外れはしていない」
 「霊魂との対話……、ですか? そんな事が……」
 「あー。旧地獄出身の者には特にイメージしづらいんだろうね。大丈夫お燐ちゃんもそうだったよ。こればっかりは見て貰った方が早いかもね」
 そう言うと小町は白墨を降ろし代わりに鎌を持った。すっとその切先を霊の群れ達へ向けて真っ直ぐに伸ばす。間もなくして、その刃の周りには数匹の霊魂達が纏わりつき始めた。
 「さて、この内の一体だが、こいつに今からこの部屋を一周して貰いたいと思う。静かに見ていてくれ」
 けたけたと笑う霊魂はその小町の指先の指示通りに部屋をぐるりと回遊すると再び鎌の先へと戻る。その他の数体の霊魂も続く小町の指示で同様の行動を示した。驚きの目でそれを捕えている暗褐色の瞳とは対照的に、赤い瞳はどこか自慢げにその様子を見つめていた。
 「このように、アウトプットとしては私の意図した通りの行動を取らせる。それが操霊術だ。どうかな、イメージできたかな?」
 「理解は出来ました……、けど……、どうやって霊魂に指示を……」
 「当たり前すぎる事だよ。ただあたいはお願いをしているだけ。彼らの話を日ごろから聞いてあげているだけさ」
 「あたいもその話は何度も聞きましたが未だにコツが分かりません。一体どこに彼らの声はあるんですか?」
 「 ”聞く” って言い方は、あたいは好きな表現何だけど正確じゃ無かったかもしれないね。正しくは、”読みとる” んだよ。霊魂は言葉を持たない。それは事実だ。でも確かに生前の意識は持っているんだ。だから必ず何処かにその ”考え” が現れる。そうだね……、分かりやすい例を上げようか。お燐ちゃん、最近こいし様と話をしたのは何時の事だい?」
 「こいし様とですか? うーん、この間さとり様に着いて支部に報告に戻った時だから大体一ヵ月前位です」
 「その時に、あんたはどうやって話をしたのか、そして何を感じたのか憶えているかい?」
 「どうやってって……、さとり様と話す時とそんなに変わりません。雰囲気も何処となく似ている方ですし……」
 「そうだよ、大事なのはそこなんだよ。こいし様は ”覚り” の力を持っていないのにも関わらず、さとり様と話すのと同じように接する事ができる。これは大きな矛盾だとは思わないか?」
 「そう言えば……」
 古明地こいしは覚りの能力を持っていない。それは紛れも無い事実であり、胸の第三の瞳が固く閉じられている事からも明白である。だが、それが閉じられた理由について燐は何も聞かされていない。特にそれがタブー視されている訳ではないが何となしに聞く事は憚られたのだ。
 「あんた達獣はそれを良く知っている筈だ。元より生命体は自分の意志を伝えるのに言葉を介してはいなかった。だから、あたい達がやっている事は何も特別な事では無い。元から生命体が持っている能力を普通よりも明確に ”思い出している” だけさ」
 「思い出す……」
 はたと燐が思い当たったのは獣であった頃の記憶が随分と薄くなり始めていると言う驚くべき事実。それは空も同じであったようで隣をふと見れば、同じような顔がやはりこちらを見ていた。実際空は若いうちから妖獣として人型を取るようになり、今では人型で居る時間の方が圧倒的に長い。燐も人型を取れるようになってからそれなりの年月が過ぎようとしていた。
 「言葉は便利だね。自分の思っている事を相手にそのまま伝える事ができるんだから。とても便利で同時にとんでも無く ”特別な物” 。実際そんな事ができるのはほんの一握り。後は覚り妖怪みたいなごく一部の例外か、ただの獣だけさ」
 「でも、あたいたちだって、鳴き声位は出せます。実際にそれで意志の疎通ははかれていました」
 「ケタケタと笑うだけのしゃれこうべも、しくしくと泣くだけの霊魂も、全ては意図が有っての事さ。あたい達はその表層から、内側に眠る彼らの気持ちを丁寧に汲み取ってあげる訓練を積んでいる。だからこそあたいらは ”収穫を司る神” でもあるんだよ」
 そう言って小町は手元の鎌を誇らしげに掲げる。鎌は本来農耕の象徴。小町のそれは個人的な趣味によっておどろおどろしい装飾が施されているが、通常の鎌は武器では無く農機具である。切れ味はほぼ存在せずなまくらと言っても良い小町のそれは、死神である事を示す飾りであると同時に彼女の誇りでもあった。
 「もっとも、こいし様は能力の補助を使っているとは言え、誰にも教えを乞う事も無く自然体で相手の心を読むんだから末怖ろしいよ。あたいを見ていれば分かると思うが、相手の気持ちを汲み取るには少なからず自分から積極的に働きかけないといけない。自らが揺らした水面から水中を探る様にね。感情を言葉で素直に表現するように心がけな、それが一番の近道さ」
 「それと」と小町は言葉を続ける
 「あんたも偶に、 ”飛んだ” 話をする事がある。あたいだから読みとれるが、死神以外にそれを求めるのは酷と言う物だし、 ”怨霊達” と話をしたいと思うのならそれはよくない習慣だ。どうするかはあんた次第だけれどね」
 「はい、肝に命じておきます。小町姉さん」
 怨霊も死人の魂と言う括りで言えば霊魂の一種である。だがその在り方はこの是非曲直にある物とあまりにもかけ離れていると言わざるを得ない。彼らに意志らしい物を見出せた物は旧地獄にかつて誰一人として存在しないからだ。たとえそれが小町の様なベテランの死神であったとしても、である。
 「さーて、此処からは楽しい楽しいお勉強の時間だ。『霊魂の構造とその生態について』テキスト五十頁から行くぞ。お空ちゃんはお燐ちゃんに見せて貰いな」
 「うへー。私はそう言うの苦手だからちょっとお昼寝してても……」
 ぎろり、と燐に睨まれた空は立とうとした腰を渋々椅子に戻す。空は仕方なしに燐と肩を並べて何処からか取りだされたテキストを開いた。小町の講義は夕方まで続き、それは燐にとっては興味深くもあり頭を痛くさせる時間であり、空にとっては上質の睡眠時間であった。講義も終わり帰宅の時間となった頃。二人は映姫と入れ替わりに是非曲直庁を後にした。


 静まり返った講堂に忽然と現れる短身の少女。つい先ほどまで姦しい妖獣の二人組が座っていた長椅子にはその少女が一人で腰掛ける。目の前の机に寄りかかり安らかな寝息を立てるのは地獄の閻魔だ。普段の彼女からは想像もできない程に穏やかな顔を浮かべた、どんな夢を見ているのか口元をにへらとだらしなく開き言葉にならない寝言を紡いでいた。
 「やれやれ……。念話に応じないからどうしたのかと思えば……、遊び疲れて眠ってしまっていたとは……」
 その寝顔に苦笑を洩らしながら小町は自らの羽織を脱ぎ小町の背へそれをそっと被せる。その衝撃で僅かにもぞもぞと動く映姫だがすぐにまた眠りに戻ってしまった。
 「さとり様がとっとと連れ帰れと言う訳だ。……何十日ぶりの休みだからって無理しちゃって……。昨晩だって夜遅くまで事務官の書類整理に付き合っていたじゃないですか……」
 小町は慈しむように眼を細め机に顎を着き寝顔を眺める。その玉の様な肌に僅かな荒れが散見される事に気付いた。あどけなさの残る可愛らしい顔立ちとは対照的なそれは、その重々しく重大な肩書きを背負う少女のアンバランスさを象徴しているのかの様であった。
 「ん……、ふぅにゅ? こ……、まち? れ、……さとりは?」
 「映姫様、おはようございます。此処は是非曲直庁ですよ。さとり様のお願いで連れ帰らせてもらいました」
 「そ……、だったんだ。……ん、んぅー……」
 若干ろれつの回らない口で大きく欠伸をすると同時に体を伸ばす。同時に滑り落ちそうになる羽織の存在に気付いた映姫は慌ててそれを受け止め、無意識の内に口元に柔らかな布地を寄せていた。漂って来るのは仄かな線香の香りと染みついてしまった小銭の鉄臭さ。胸から込上げるような安心感にほっと溜息を着くと映姫はそれを小町へと手渡した。
 「ありがとうございます。小町」
 「いえ、御気になさらず。……映姫様、どうですか。久々の休暇は楽しめましたか?」
 「ええ、……おかげで十分にリフレッシュできたと思います。これで明日からの勤務にも全力を注げるでしょう」
 「そうです……、ね」
 本当に晴れ晴れとした顔でそう言う映姫の様子を、小町はどうしても素直に受け取る事は出来なかった。それは目前の少女が常に己の能力の限界以上まで仕事をする癖を知っているからであるし、何よりも、「もっとも……」と言葉を続ける映姫の顔には干の曇りが混じり始めている事に気が付いていたからだ。何を言おうとしているのかは小町も十分に把握している。だからこそ小町は悲しみにも似た感情を抱いていた。
 「……あの ”計画書” の件さえ無ければもっと肩が軽かったでしょうけど、ね」
 「あたいの様な下っ端には、お偉方の情報は殆ど回ってきません。お力になれず……」
 「いいの。小町が謝る事じゃない。ただ少し、この組織はもう老朽化しているのかもしれない。情報の滞りは組織の壊死を招く。是非曲直庁の崩壊は世界の正義の崩壊。それだけは絶対に避けないといけない……。何としても、 ”十王制の腐敗” に気付かせないといけない」
 「映姫様、是非曲直庁内で滅多な事を言わないで下さい。さとり様にもご自分で仰った事では無いですか」
 「それもそうね……、ごめんなさい。以後気を付けます。さて、帰りましょうか。小町も遅くまで着き合わせて御免なさい」
 「良いんですよ。あたいも地霊殿の子達に会うのが最近の楽しみですし。お送りしましょうか? あたいならひとっ飛びですよ」
 「能力に頼り過ぎるのは良くありません。何事も当たり前の事を当たり前に甘受せねばならないのです」
 そして、部屋を出ようとした時に背後に突如として現れた気配は、際限なく不気味でありながら自らも良く知っている種の物であった。

 「じゃ、私が探って来てあげようか?」

 「こいし? あなた今日は仕事で大陸じゃ無かったの?」
 「もう終わったから帰って来たのよ。ほら、私って優秀だし」
 一つしか無い筈の出入り口の前に立っている映姫の背後。
 部屋の真ん中に佇んでいるのは神出鬼没の少女、古明地こいしが居た。
 「それで……、探る、とはどういう事ですか?」
 「さっきの計画書の件よ。気になるんでしょ? 聞けばお姉ちゃんにも関係あるみたいだし、暇な時に手を入れてみても良いよ」
 「いいえ。その必要はありません……、部外者の貴女を危険に晒せない。この支部ですら機密書庫は厳重な警戒態勢が敷かれているのだから」
 「やだなぁ。私は地獄のラブリービジター事、古明地こいしちゃんだよ? その手の事を知ってそうなオヂサマの一人二人位簡単に――」
 「ふしだらな事は許しませんよ。例えそれが友人であっても、です」
 「今さら一人二人増えても、別に何も変わりはしないのにねぇ」
 「……貴女には少し説教が必要なようですね」
 漫画かおとぎ話の少女の様にわざとらしく恐がったこいしは、その姿をブレさせてかと思うと忽然とその姿を眩ませる。その意図すら掴みかねる映姫は、小町と顔を見合わせて溜め息を吐いた。
 「まぁ、こいし様は大丈夫でしょう。あの子を捕えられるのは最早、十王の中でも閻魔王様位の物でしょうし……」
 「女の子なのだから、もう少し慎みを持っても良いと思うんですけれどね、私は。まぁ、その辺も含めてこいしなんでしょうけれど」
 静かな廊下に響く足音は気のせいか一人分余計に反響が聞こえて来るような錯覚を覚える。小さな少女の笑い声が耳元で囁かれた。


 『うふふ。閻魔様。貴女は深く物を考え過ぎる。それはこの ”組織” では良くない事よ』


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 ごうごう、ごうごうと不気味な、それでいて心を落ち着かせる音が響く洞窟。地響きの様なそれは、膨大な質量を持った物体が緩やかに移動する際発生する振動音。そのマグマに程近い洞窟の穴かに蝋燭の灯りだけを頼りにした工房は作られていた。
 「みとりー。これ、何?」
 「燐、勝手に触っちゃ駄目だって」
 壁の棚に置かれているのは幾重にも歯車が噛み合わさった精巧なカラクリ達。百足の様な側鎖の着いた不思議な鉄の筒に、一定の間隔で針が動く謎の円盤。その何れもが、好奇心旺盛な獣たちの興味を引くには十分過ぎる程魅力的な代物だった。
 「あんたら何しに来たの? 邪魔しに来たなら帰ってよ」
 「いやいや、用事はあるんだけど。何かみとりの工房に来ると面白くってさー」
 「気持ちは分かるなー。私もなんか胸がはずむ感じがする。特にこの鉄の筒とか何に使うんだろうとか考えると」
 呆れた様な声を返すのは作業台に向かって血走った眼を向ける赤髪の少女、河城みとり。静寂と孤独を愛する彼女の工房にはそれら彼女の哲学を全速力で蹂躙して行く妖獣の二人組が居座っていた。
 「それは、新しい武器よ。地上では既にポピュラーになりつつある ”銃” と言う鉄の矢を飛ばす物さ。ただ、それは火薬を使わなくて大丈夫なように――」
 「鉄って……、何?」
 「そこからか……。説明が面倒だからこの本でも読んどいて……」
 空に放り投げられたのは一冊の本。遷移元素概論と評されたその本はみとりの手製らしい。粗末な紙の束で作られ全ての文字が手書きで記されていた。ぺらぺらとそれをめくる空は頭の痛さを感じつつも、ところどころに描かれた華麗な図に眼を奪われる。
 「うっわ、あんた良くそんな小難しい本読む気になるね。この前の小町姉さんの講義の時なんて秒殺だったくせに」
 「興味の問題よ。私は霊魂とか妖気とかその辺のちまちました事は苦手なの」
 「それは、ちまちましてないの?」
 「かっこ良いじゃん? 特にこの原子? とかい言う奴の並びとか。ぞっとする程整っている感じが美しいとか思わない?」
 「はぁ、あたいにはわかんないね」
 薄暗く陰気な工房には不釣り合いと言える二人がこの場に居るのは極々単純な理由である。みとりがこの二人しか工房に入れる事を許していないからだ。
 「ふん。ちょっと参考書見た位の小童が何をしたり顔で語っているのさ。百年早いんだよ」
 「あ、珍しい。今、みとりが笑った」
 「笑ったって言うな。今のは ”嘲笑” って奴だよ」
 「ホントに? 今のもう一回やってみてよ」
 「やだよ、そんなはずい事」
 この地下ですらこの小さな洞窟に引き籠っていた彼女の心中がどのような物であったのかは想像に難くない。それでもその心は人から離れた物に開かれる程度の余裕は残っていた様である。邪気が無く実直な燐や空と言った獣たちとの交流で妖獣に限っては工房への侵入を許すまでになったのがその何よりの証拠である。
 「うるさいから、そこでちょっと座って黙ってろ! ほら、約束の ”報告書” と ”試作機” はそこだよ」
 「相変わらず連れないなぁ、そんなんじゃ友達増えないよ」
 「別にそんなもん要らん。ほらとっととそれ持って帰れ」
 燃えるような紅の瞳孔を更に真っ赤に染め上げる。乱暴に指さすのは作業机の端に纏めて置かれた不思議な機器類。掌に収まる程度の球体はどういう訳か全くもって透明の不可思議な石で覆われている。その内部には無数の歯車やネジが仕込まれていた。
 「でもさとり様に最低限の使い方はレクチャーして貰えって言われているから、そう言う訳にもいかないんだなぁ。これが」
 「仕様書は別に付けただろう? それを良く読め。全部書いてあるから」
 「さとり様曰く『みとりの説明書は分かりづらい』だってさ。因みに私も読んでみた事あるけどさっぱり分からなかった」
 「これだから、一般人は……。仕方ない、これも仕事と割り切ろうか……、貰う物は貰っちゃったし……、あぁ、面倒臭い」
 比較的機敏な動作で作業中のラチェットレンチを工具箱へしまうのは不平を洩らす口ぶりとは裏腹だ。手早く作業台を片付けたみとりは作業台の向かいに二人を座らせた。その瞳にはどこか楽しそうな色が浮かんでいた。何だかんだと言っても誰にも理解されない研究を続けるみとりにとって、嬉々として話を聞いてくれる存在は貴重なのだ。
 「ま、実の所使い方は非常に単純なんだ。問題はその原理の方さ。一応その仕様書に書いては有る事なんだが……、まぁ、せいぜいその足りないオツムで必死に覚えて帰りな」
 「酷いなぁ。私もお燐も見た目ほど頭悪くないよ」
 「そう思うのなら、私を失望させない様によーく話を聞くんだ。下らない質問をしてくれるなよ」
 そう言ってみとりが二人の前に置いたのは先ほどの透明な石に覆われた不思議な球体。良く見ればそれは台座と上部の二つの領域に分かれている。台座の部分は不透明に不気味な銀の輝きを放つ素材に覆われている。台座の下伸びる数本のパイプは作業台の下の空間へと続き先が何に繋がっているのかを確認する事は出来ない。


 「百聞は一見に如かず。まずは、これを見て貰おう。ちょっと、そこのスイッチを入れてみな」
 「ん、これ?」
 台座の横側にたったひとつだけ設けられたボタンを押すと俄かに内部の歯車が連動した動きを見せ始める。
 透明の球体の上部に入れられていた、これまた透明の液体――おそらくは水――が、驚くほど透明度の高いパイプの中を通り球体内で移動を始める。ぐるりと周回するように球体を廻った水は幾重にも枝分かれする。トラップの着いた射出口らしき部位からその雫をぽたりと垂らした。落ちる雫が台座部分からせり出した白色の結晶に触れ合う。結晶よりしゅるしゅると言う不思議な音が聞こえてきたかと思うと、かちりという固い音と共にアセチレンの橙色の炎が硝子の球体を満たして行った。
 「裏の山で豊富にとれるカーバイドに水を反応させた。アセチレンガスの炎は拡散性が高く広範囲を照らすのに向く。このカーバイドはほぼ無限と言っても良い量が取れる。実際今燃料に使っている物もこの洞窟の奥で取れた物さ」
 「アセチレン……、ガス? カーバイド?」
 「それは、今大事な所じゃないよ。お燐。注目すべきは水を使う所、だよね?」
 「ほう、鴉の割には頭が回る様だな、その通り。この ”日照機試作型” は燃焼に水が必要だ、そしてそれが最大の ”デメリット” でもある」
 「そっか……、水はそう沢山取れる物じゃない」
 「その通りだ。……ところで、おまいさん達。この地下空間の気温が一体何度あるかご存知かな?」
 「うん? 五十度くらい?」
 「いやいや、お燐。そんな涼しい訳無いよ。七十度は固いと思うね」
 「うん、多分お前らはそう言うと思ったけど、化け物っぷりも大概にしろ。マグマが道の脇で湧きだしている様な人外魔境にそんな常識的な温度が有る訳無いだろう。この地下はな九百度あるんだよ。九百度。これがどの位の高温か分かる?」

勃興挿絵


 地下三十キロメートル、分厚い岩盤に覆われる形で存在するこの地下空間は摂氏千五百度にも達するマントル地帯に半分程埋まる形で存在している。その影響でこの地下は四方から膨大な熱が絶えず供給されており、地上では考えられない様な高温を持つに至った。だがその高温が影響するのはあくまでも、この地下空間に ”居なかった” 物に対してのみである。
 「暑くて汗かく」
 「長い間外に居ると頭がぼーっとする」
 「悪かった。あんたらに聞いた私が悪かった……、そうだね。あんたらにはこれが当たり前だものね……。ちょっと……、外に着いて来て。面白い物を見せてあげる」
 平然とした顔をしてそう答える二人を呆れ顔で見渡すと、みとりは手近な藁半紙を手に工房の扉に手を掛けた。長い階段を昇り、居住空間を抜け更に長い廊下を抜け、外へと至る鉄製の門扉へ辿りつく。
 「さぁ、良く見ておくんだ。この何の加工も施されていない ”紙” が一体どうなるのか。そして、感じるんだ君たちがどれだけ恵まれた肉体を持っているかを」
 片手を鉄の扉へ押し当てるとぐっと力を籠め、ゆっくりとその扉を開く。真っ暗な廊下に薄暗く橙の灯りが照らす外の光景が扉の隙間から漏れ出した。同時、もう片方の手に持った薄汚い藁半紙を外へと向けて突きだす。
 俄かに経ちこめる焦げ臭い香り。
 ぶすぶすと上がる白い煙。
 じわじわと広がる黒い染み跡。
 やがて限界に達したそれは、ぼうと大きな赤い炎を発して激しく燃え盛り始める。発火現象を確認するとみとりは炎を上げる紙を地面に放り捨て二人に振り返った。
 「うそ……、何もしてないのに」
 「マグマに近づけた訳でもないのに……」
 「元より此処で生まれたお前たちは気付かないかもしれないがな。ここの環境は普通の生命体なら即座に燃え尽きて然るべき物なんだよ。当然水だって例外じゃない。流れ込む地下水脈も。噴き出す間欠泉も。ありとあらゆるものがここの大気に触れた瞬間に高温の蒸気と化す。――故にここには水が無い」
 燐と空は顔を見合わせ互いの肌をぺたぺたと触り合い、次にみとりの体に触れる。普段は当然だと思っていたそれらは、改めて見ると根本の部分で明確に隔てられた物を感じる事ができた。
 「みとり。 ”それ” は一体何?」
 「簡易的な結界さ。この熱から身を守るために展開する障壁でこの地下に住む者なら誰もが常時使っている物。当然あんた達の様な何で出来てるのかすら謎な生き物は別だけどね。……話が少しそれたね。水の供給についての話だった筈だ。ま、立ち話も何だし部屋に戻ろうか」
 ばたりと扉を閉める。外から流れ込む熱量を伴った重苦しい空気が若干和らぐ。意識して見ればその奥へと続く道は歩を進める度に肌に心地の良い快適な温度を運んで来てくれていた。
 「さて、水の供給についてだが、僅かとは言え水は取れる。それは、あんた達も知っているね」
 「うん、お風呂入ったりとか、歯磨いたりとか生活用水はさとり様から頂いているよ」
 「貴重な水をそんな事に……、あの親馬鹿はどこまで……。まぁ、良いか、私には関係ない。実際問題としてこの部屋の中では水は液体として存在できる。そうでなければ、この日照機は存在し得ないのだから」
 「でも、それはこの洞窟が閉鎖空間だからだよね? でも、この日照機は外で使う物。調達もだしその辺はどうするの?」
 「今は岩盤中に染み込んだ水分を室内で抽出する以外には無いだろうね、。だが、もしも、 ”大気中の水を収集できるようになれば” 話は別だ。この地下空間の生活環境は飛躍的に向上するだろう」
 空はこのみとりが水について言及する度に並々ならぬ程の強い感情が込められている事に気が付いていた。河童とは本来清浄な川辺で流れを枕として静かに生息する穏やかな妖怪。硫化水素と噴煙が立ち込める地下環境と極めて清浄な本来のそれの間にはいかんともし難い程の隔絶がある。
 普段口にはしなくとも彼女なりにその環境への未練に近い思いがあるのは明白だろう。そこまで思い当たりはしたものの、空がその考えを口にする事は無い。燃えるような赤い瞳がそれを軽々しく触れるべきではない事だと警告を発していたからだ。
 「さて、この試作型はまだ ”光る” 機能しか持っていない。これをこの地下空間の ”太陽” として運用するにはまだ足りない機能が二つ有る。すなはち、浮遊する機能、そしてより強い光量、だ」
 「確かにその通りですね……、例え規模を大きくしたとしてもこれだけでは地下全体を照らすには余りにも頼りない」
 「まだまだ、完成までは遠い。今回は『とりあえず発光機能だけを先行して取りつけた』と、さとりに伝えておいてくれないか」
 「わかりました。その様に」
 「それじゃ、よろしくね」と、空に手渡された硝子球体と仕様書の束は見た目以上にずっしりとした重量を腕に伝える。間違っても落として割らないよう。しっかりと胸にそれを抱え込むと空と燐は一礼をしてみとりの工房を後にした。


 地霊殿の執務室。さとりと空以外に誰もおらず静まり返った部屋で古ぼけた椅子に深く腰掛けるさとりは、先ほど二人が運んできた試作機を眺めながら小さな溜息を吐いた。
 「この灯りで地下全体を果たして照らせるのでしょうか?」
 「とりあえず現状で実装できる物から実装するそうで。発光機構は換装可能にするらしいです」
 「成程……、まだまだ改善すべき所は多い、と言う訳ね。あの資料の解読が進めばもっと楽になるんでしょうけど」
 「無い物をねだっても仕方ないですよ。さとり様」
 空の言う様にあの日空と燐が書庫で見つけた資料の解読は遅々として進んでいない。正確には一部を判読する事には成功した。だが、外の世界の知識を多量に使って書かれているその文章は地霊殿の者達は勿論、みとりですら理解に苦しむ内容であった。その中でもほんの僅かに読みとれたワードから復元する事に成功したのが今目前で光を放つ日照機試作型なのである。
 「それもそうね……、あんな不確かな情報だけに何時までも頼っていられない。次よ。私は次の段階も見据えていないといけない。灯りはみとりがどうにかしてくれる。だから私はこの次を。まずはこの地下の温度をどうにかしなければいけない。空、協力してくれるわね」
 「当然です、さとり様。私は貴女だけの物です、何が有ろうとも貴女の傍に居ます」
 「良い子ねこっちへおいで……」
 さとりの椅子の傍へ歩み寄るとほんの少し頭を下げすっと眼を瞑る。間もなくしてその頭に柔らかく小さな手が押し当てられた。黒くパサついたダメージヘアーを一本一本解す様に書きわける指先の動きに空は唯々、その口元を緩めるだけであった。
 口元に浮かんだ笑みは、計画が開始して以来多忙で触れ合う事が出来なかった時間を埋める為の物。この先に待っている業務の山をこの瞬間だけは忘れ、二人はその時間を噛み締める様に微笑みあった。


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 是非曲直庁支部。
 彼女が歩くのは手入れの行き届いた板張りの廊下。背筋を伸ばして歩く映姫の背後に一人の影が接近していた。
 「四季映姫」
 背面から掛けられたのは低く野太い声。振り返った先に居るのは、映姫よりも更に仰々しい中華風の服を纏った二メートルを優に超える大男であった。
 「何でしょうか……、 ”秦広王様” 」
 「特にどうと言う事は無い唯の報告だ。報告書に眼を通させて貰った。……非常に良い出来だったぞ」
 「恐れ入ります。ですが、私は私の職務を全うしただけですので……、それでは」
 秦広王、是非曲直庁で最大の権力を持ち最高裁判官を務める十王の一人であると同時に四季映姫の直属の上司。極東支部を担当――四季映姫は特に幻想郷を担当している――とし、最終的な決定を下す権利と役割を持つ。
 「毎度の事だか君は実に有能だ。簡潔かつ的確に纏まっており一目で地霊殿に妖しい動きが無い事が分かる。本当に美しい。一切の無駄も無く地霊殿が仕事をしている様に ”見える” 」
 「……私は一切の嘘をそこに記してはおりません。浄玻璃の鏡に誓って」
 「そう構えるな。お前を疑っている訳ではない、ただこの先の事に忠告をしておこうと思ってな」
 廊下に揺らめく燭台の灯りが映姫に影を落とす。見下ろす形で映姫に向けるその視線は、心なしかいつもよりも幾分重く、それは映姫を遥かに上回る威圧感と相まって実際上にその姿を大きく見せた。
 「あの地下世界に情を移し過ぎるな。四季映姫。あの地は何れ私達の物になる筈の土地だ。私達はただビジネスライクに。決められた援助だけを決められた通りに行えば良い」
 「余計な事をするな」秦広王はそう映姫に釘を刺す。その言葉の意味を知る映姫は返す言葉も無くただ頷く以外に出来る事は無かった。
 「お前は優秀な閻魔だ。私はお前に期待している。どうか、失望させないでくれ」
 「私はまだまだ未熟者。身に余るお言葉です」
 その秦広王の視線に苦々しげなものが混じる事に映姫は気が付いていた。十王は確かに是非曲直庁で最高の権限を持つが、その中でも頂点にあるのが先ほど名が挙げられた閻魔王である。閻魔王は十王中最大の権力を持ち事実上の是非曲直庁の長であり、大陸全土を一手に引き受ける閻魔でもある。
 是非曲直庁全体に関わる決定は十王の合議制を取るが、彼の承認が無ければ最終決定は為されない。日の下の国と言う島国に飛ばされた彼はその中でも端役と言える立ち位置にある事がうかがい知れる。
 故に彼が地蔵と言う身分から一区画とは言え閻魔として裁判官を務めるに至った映姫に辛く当たる事が多いのは嫉妬にも似た感情である。それに対して映姫は一切の不平を漏らす事は無かった。
 「次の報告も期待している。アーカーシャの導きに従い完全な仕事の完遂を。それが私達の務めだ」
 「分かっております。では……」
 映姫は振り返らずに廊下を歩く。どのくらい歩いただろうか。極力何も考えない様に歩いていた映姫はいつの間にか自らの執務室の中に居た。その壁にさも当然の様に立っているのは見慣れた死神の姿。
 「四季様、少し休まれては如何ですか?」
 「いいえ、駄目です。秦広王様から直々の指令です」
 「そうやって根を詰め過ぎた結果潰れてしまった新人閻魔は一杯いるんですよ。お休み下さい。用聞き位はやっておきますから」
 有無を言わせぬままに部屋隅の仮眠用ベッドに映姫を寝かしつける。小町はその隣に腰掛けまるで子供にするように子守唄を唄ってやった。
 「辞めて下さい。子供じゃないんです」
 「休むべき時に休まないのは子供と変わんないですから違わないっすよ。諦めて下さい」
 不平を言う映姫に耳も貸さず小町は子守唄を続ける。それはストレスフルな閻魔を労う為。小町の精一杯の優しさだった。


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 「さとり様、こっちです。こっち」
 「ちょっと待って。お燐。徒歩での移動は得意じゃないのよ……」
 「飛べば良いじゃないですか」
 「長い間飛んでないから、そっちの方が返って疲れるのよ」
 前で手招きをする空と燐。その背中を伏し目がちの瞳で睨むのは見慣れない計器を持ったさとりである。此処は地霊殿とも廃墟群とも遠く離れたみとりの住居から少し離れた場所。『大焼処区』。全く整地されておらず怨霊ばかりが跋扈するこの土地を軽快に跳ねまわる二人とは対照的。気だるげな様子でさとりは歩を進めていた。
 「だったら、ご自分で出て来なくても。あたいらに任せて貰えれば」
 「見慣れた物の中にこそ見落としが発生する物よ。今回みたいな調査なら私みたいな余所者が出向くのが一番ってね。……よいしょっと」
 自らの身長ほどもある岩に手を掛けると機敏とは行かないが、大して苦労した様子も見せずに体を持ち上げ岩場の向こう側に体を降ろす。その少女の見た目に似つかわしく無い動きは妖怪ならではの物であった。
 「欲を言うなら、みとりさんが着いて来てくれたら一番良いんですけどね」
 「あたいもお願いはしたんですけどね。いやー。見事に断られちゃいました。どうあってもさとり様には会いたくないそうですよ」
 「随分嫌われた物ね……、まぁ、慣れてるから良いけど……」
 「さとり様、そう思うなら初対面の相手のトラウマ抉る遊びは辞めた方が良いと思います」
 「あれは、あれで私と長期スパンで付き合っていける相手かどうかを見極める良い判断材料なんですけれどね。まぁ、考慮はしておきましょう」
 こんな辺境の地にさとりが出向いたのは言葉の通り調査の為である。地霊殿の妖獣達。そして廃墟群に住む住人たちから寄せられるその証言は俄かには信じがたい物であった。半信半疑ながらこの場に足を運んださとりはそれを見て半ば確信に近い物を得る。身構える様に腰を落としたさとりは普段からは考えられぬ程鋭い瞳を、前を行く二人へ飛ばした。
 「それに、怨霊への対処は私の本来の主業務。貴女達だけに任せるのは忍びないわ。お燐、お空。ちょっと、 ”動かないで” ね」
 「どうしたんで……、?!」


 さとりの背後に居たのは通常では考えられぬほどに肥大化したしゃれこうべ。それは一体だけでは無い。横にも、上空にも、自分達の前にも、怒りをも超えたドス黒い感情を伴って周囲を取り囲む。その中でも特に巨大な一体が鋭い牙を向けさとりへと襲いかかった。
 「此処に立っているだけでびりびり伝わってくる。怖ろしいわ……、その辺の妖怪たちなんかよりもよっぽど強力な力。でも――」
 さとりの胸に着く第三の瞳がかっと見開かれる。開いた瞼から妖しげな色の光が四方へと放出された。それらは、的確に周囲全ての怨霊に突き刺さる。呪縛するかのようにその光は怨霊の動きを急速に鈍らせていった。
 「大人しくして。抵抗は無価値だと知りなさい。お燐、お空、その光にさわっちゃ駄目よ」
 怨霊の体をスキャンするようにぐるぐると回転する光の筋は、一通り回転を終えるとその情報をさとりへと流し込んだ。
 「驚きね……、此処まで壊れてしまった魂を見たのは初めて……。最早個と言う概念すら揺らぎつつある。自己中心的な欲だけで体を保つお前達がそれすらも失って輪廻に留まれるとでも思っているの?」
 ぐるりと、髑髏のなかの空っぽの瞳が一回転する。性質を持たない黒い感情の渦は最早一つのエネルギー体となんら相違は無い。自らの魂がちぎれる事も厭わずにさとりの呪縛を振り払い踊りかかって来た。
 「そんなでは、何れにしても消滅は免れない。どうせ惨めに消えゆくのなら、せめて安らかに……、消えなさい」
 動じないさとりにも一切躊躇わず、その髑髏は顎を大きく開き喉笛を掻き切らんと喉元へ迫る。その犬歯が皮膚を突き破るコンマ一秒前。胸の瞳が発する一際大きな視線が怨霊を射抜いたかと思うと、たちまちのうちにその存在を雲散霧消させた。
 「あぁ、また映姫に怒られるわ。困った物ね……」
 「さとり様! お怪我は?」
 「大丈夫よ。この程度なら喉笛を掻き切られても問題は無い」
 「そう言う問題ではありません……、が、お怪我がなくて良かったです」
 「あんまり無茶をしないで下さい。お空の心臓が持ちませんよ」
 「お空が心配性過ぎるのよ」
 「さとり様が無頓着なんです。それはそうと……、こいつらは結局何なんですか?」
 三人の周囲には依然としてさとりにより動きを止められた怨霊達が漂っている。怨霊自体はこの地獄の何処にでも居る。しかしこのような肥大化を遂げた個体は異常であると言って間違いは無いだろう。
 「原因はおそらく、 ”これ” よ。お空は分かるわよね、お燐はどうかしら?」
 「流れ……、ですか? どこか少し離れた所から……」
 「良くできました。その通り。これは霊脈よ」
 その膨大なエネルギー体の流れは少し離れた地面から続いていた。そこは大地の裂け目。この地下空間では珍しくマントルが冷え固まり生じた体積の変化に寄って出来た深い縦穴であった。
 「驚いたわ……、地下にこんな霊脈が存在していただなんて……」
 「最近湧きだした物でしょうか? 私の記憶ではこんな所に霊脈なんて無かった筈なんですが……。こんな大規模な物、見逃すはずが無いのに……」
 「恐らくは数日前に地表近くで起こった地震の影響でしょうね。何箇所かで崩落が発生したと言う話は聞いているわ」
 地下空間とは言え、地殻変動の影響を免れる事は出来ない。むしろ活発に対流をするマントルに程近い影響で小さな揺れの発生は珍しく無い事態である。目前にある者もその一つなのだろう、さとりの言葉の通り、縦穴の断面は真新しく岩の角に風化した物独特の丸みが見られない。だが、その穴は曲がりくねりながら奥深くまで繋がっており、どうもマントル層へ続いている訳では無いらしい事はその場からでも読みとる事が出来た。
 「でも困ったわね。こんな肥大化した怨霊達。離せば必ずまた騒ぎになる。私が何時までも此処で押さえる訳にも行かないし、隔離できる場所はないかしら……」
 「さっきみたいに全部消せば良いんじゃないですか?」
 「それは駄目よ、お燐。映姫はこういう事に口うるさいの。流石に五体消したら言い訳が思いつかないわ」
 怨霊とは言え輪廻を廻る魂の一つである事に変わりは無い。正しく地獄へ堕ち罪を償う事も出来ずただ生前の不徳を嘆き恨み漂い続けるだけの彼らも、何時かは輪廻の輪に戻らなければならないのだ。そして、その輪廻の魂の数を管理しているのは是非曲直庁である。この地下空間に限定すればさとりの率いる地霊殿となる。その荒々しい気性故、事故やトラブルで魂が消滅する事は稀にある事ではある。だが、一度の例外も無くその度に詳細な報告を求める映姫の事を考えるとさとりは頭の痛みを感じざるにはいられなかった。
 「うーん……、ただの怨霊に戻ってくれれば良いんですよね……?」
 「まぁ、その通りなのだけど。お空には何か案があるの?」
 「やってみなきゃ分かんないですけどね、では少し失礼して……」
 つかつかと、動きを止めた怨霊の一体に歩みよる空。ひょいとその怨霊をつまみ上げた空は何をするのかと思えば大口を開けてそれを口の中に放り込んでしまった。
 「ちょっ――、お空! 何してるの、お腹を壊したらどうするつもり?!」
 「んー。その時はその時で。でもあんまり美味しくは無いかな……、ちょっと苦いかも」
 ほんの僅かにぽっこりと膨れたお腹をさすりつつお空は満足げな顔をしている。だが魂その物を胃袋等で消化する事が出来る筈も無く、空の小さな腹はぽこりぽこりと微妙に蠢いていた。お燐はそれをしげしげと眺めつつ、腹が動くたび指先でそれをつつきながら眼丸くしていた。
 「お空ったら、何か妊娠したみたいに見えるよ」
 「私達は卵生だからお腹に子供は入れないよ。あんたの方が似合うんじゃない? 一匹いかが?」
 「そうだね……、面白そうだし試してみようかな……」
 「こらっ、お燐まで何を馬鹿な事をしているの。辞めなさい!」
 さとりが静止する事も聞かず、傍の怨霊を捕まえ同じように腹に収める燐。やはり結果は同じで、ぴくりぴくりと動く微妙に膨れた腹が二つに増えただけであった。
 「にっがぁー。よくこんなの平気な顔してられるね」
 「ふふん。私は大人だからね」
 「まぁ、少なくとも私よりも体が育っているのは認めるけど……」
 「あ……ちょっと待って。もうそろそろ良さそう」
 ぽんぽんと、何かを確かめる様に自らの腹を叩きその感触を確かめる空。その様子をさとりは唖然とした表情で見つめていた。すーはーと数度深呼吸をしたかと思うと、大きく口を開き胸に手を当ててゆっくりと息を吐く。その口から空気と共に吐き出されたのは通常のサイズと変わらない怨霊の姿であった。
 「ふぅ……、御馳走様でした、かな?」
 「お空……、そう言う事するなら最初に言いなさい。びっくりするじゃないの……」
 「御免なさい。さとり様。いつも、さとり様が私達の事を考えて下さるので、ついついそれに甘えてしまっていて」
 「まぁ、良いわ。……それで、体の調子はどうかしら?」
 「良い感じですね。魂を介する分、霊力そのままよりも格段に吸収し易いです。これ、正直凄いと思いますよ」
 空と燐が行ったのは、肥大化した怨霊のエネルギー吸収。魂と癒着した霊力の塊を、己の体内に取り込むことで自らに移しとったのだ。満足げな顔をする空の傍らで、空がしたのと同様に燐も口から吸収した後の怨霊を取りだした。
 「どうです、さとり様も一つ?」
 「……遠慮しとくわ。食あたりしそうだし」
 がたがたと動くしゃれこうべを丸のみにしていくその姿は、獣が食事をする時のそれと近似する。己の能力故自らの肉体に内包する妖力量が大きな価値を持たないさとりにとって、それは魅力的な物には見えなかった。だがさとりはその様子を見てある一つの事実に気がつく。
 「ねぇ、お空……、貴女……、そんなに翼が大きかったかしら?」
 「え……?」
 腕を上げ首を精いっぱいに回して背を見ようとする空。気のせいか僅かながら艶が増している。肩甲骨から肩を少し出る程度だった風切り羽が今では肘との中間点ほどまで伸びている。その事を燐が伝えると不思議そうな眼で自らの羽を羽ばたかせ、その感触の違いを確かめていた。
 (この短期間で妖獣の形態を変化させるほどの膨大で純粋なエネルギー。これは、唯事ではない……)
 それは、驚くべき事態だった。妖獣は通常長い年月を掛けて自らの気を高める事でその姿を変える。猫又ですら通常は百年単位の時を生きる事からも、その姿を変容させるのに掛かる年月が途方もなく長い物であるのは言うまでも無いだろう。
 故に、この霊脈の存在は大きな発見である。魂を介する事で妖獣の姿を変性させるのならば、 ”他の物を介した時” にどんな働きを見せるのだろうか?
 「――おや、誰かと思えば地霊殿の主とペット達じゃないか。こんな地獄の果てに何の用かな」
 その声は、思索に耽るさとりの背後から気配を全く感じさせずに忽然と現れた。
 「萃香さん……、お久しぶりですね。宴会の時以来でしょうか」
 「私は、そうでも無いんだけど、あんたはそうかもしれないね」
 ぐいと、腰に下げた瓢箪を傾けて喉を鳴らす。離れていても感じる程の強いアルコールの香りが辺りに充満した。
 「この場所は私の最近のお気に入りなんだ。こんなにも強い霊脈に出会った事は、外に居た頃でもそうそう無い」
 「萃香さんも、お気づきだったのですか。実は私達もこれを調査しに来たのですよ」
 「霊脈をかい? こんなもん仙道の道楽か、昼寝場所位にしか使い道が無いと思うけど」
 「それが、そうでも無いようなのですよ、」
 普段は飄々として掴みどころのない萃香であるが、その日は珍しく真剣な表情で怨霊の肥大化の話に最後まで耳を傾けていた。最後までその話を聞き終わった萃香は、眉根を寄せ難しい表情をして腕を組み黙り込んでしまった。
 「ねぇ、さとり。お前にはその霊脈が何に見える? この霊脈はこの地下世界にとってどんな意味を持っていると思う?」
 「萃香さん、それは一体どういう事ですか?」
 首を傾げる空と燐を置いて、さとりは慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
 「革新的な物、そう私は考える。適切に使う事が出きればこの地下空間を大きく変える決定打になるでしょう」
 「そうか……」
 その答えを聞いた萃香の顔はどこか郷愁を感じさせる儚げなもの。鬼らしくも無いそれに、さとりは内心驚きを禁じ得なかった。
 「じゃぁ、次の質問だ。お前はそれを何の為に使いたい?」
 「決まっている。私のペット達の為。ひいては廃墟群に住む住人達の為」
 それは即答であった。寸瞬の暇も無く返されたその返事に一瞬の迷いも無い。それは、心を読む力を持たない鬼であっても、嘘が無い事が瞭然であると判断する事ができた。
 言い淀んでいる訳ではない。深い思索に耽っている訳では無い。ただ、何も考えず純粋な感情の整理をするかのように沈黙を保った萃香はやがて静かにその口を開いた。
 「すまない、さとり。年を取るとなどうにも頑固になってしまう。理屈だけじゃ納得できなってしまう。それは例え矛盾であると自分で分かっていたとしても、だ」
 「その感情はとても良く理解できます。でも別にそれは特別な事では無い。誰にでもある事。萃香さんが気にする事ではないと思いますよ」
 「そう言って貰えると助かるよ。――正直に言おう、私はお前の考えには素直に ”賛同できない” 」
 事前にその心を読んでいたさとりは、大して驚いた様子も見せず、表面上は平然とその言葉を受け止める。しかし、妖獣の二人はそうでは無かった。鬼が己の言葉を違える。それは、一度はさとりへの協力を申し出た鬼がそれと相反する言葉を述べると言う異常事態。燐と空はそっと腰を落とし、全身の感覚を研ぎ澄ませて警戒態勢に入った。
 「お燐、お空」
 小さな声で呼びかけ手で制するさとり。そんな様子に眼もくれない萃香は、これでまでに見た事も無い程悲しい瞳を持って顔を上げた。
 「聞き流してくれても良いから、頭の片隅に留めておいてほしい。私の経験上、革新的な力は発展をもたらすが、その後に必ず災いを呼び寄せる。その発展が大きければ大きい程に、その災いもより大きく忌々しい物になるんだ。今のあんたからは、昔そうやって破滅していった人間達から感じた物と同種の臭いを感じる。……ただそれだけだ。特に根拠は無い。私の感覚の話だ」
 「興味深いお話ありがとうございます。ですが……、私も此処で立ち止まる訳には行きません」
 「そうか……、残念だが仕方ない。お前さんにとっては何も間違いではないのだから」
 くるりと振り返った彼女は岩場の先にある瓦礫の山に向かってゆっくりと歩を進める。振り返る事が終ぞ無かったその表情はさとりをしても伺う事は出来なかった。
 「萃香さん何処へ行くのですか?」
 「ちょっと散歩に行くだけさ。足の向くまま、気の向くまま、ね」
 ふらふらと歩く彼女の背は本来背負う筈の重い気よりも不気味な程儚げに見えた。彼女の行く末を暗示するかのようなその様子。思わず呼び止めようとするさとりを空は無言で制する。揺らめく陽炎の向こうに見える白い影は一際大きく揺らめくと大気の断層に飲まれて消えていった。


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 洞窟の奥底から夜な夜な響くその低く連続した地鳴りの様なトルク音。これまで耳にした如何なる音とも異なる。一種人工的な物を感じさせるその音を聞いた者は各々の勝手な推測を並べ立てる。ある者は太古の昔地下に封じられた禍津神が眼を覚ます前兆であると言う。ある者は暇を持て余した鬼が考えだした新たな遊びの音であると言う。憶測が憶測を呼び廃墟群の住人達の中に不安の声が広がる。その事を小耳に挟んださとりは燐を伴って廃墟群へと足を運んでいた。


 「禍津神とは……、また大きく出たものね」
 「まったく……、人間も妖怪も。嫌われ者も人気者も。根っこにあるのは同じなのかね」
 廃墟群の中にあっては珍しく小奇麗に整備された小屋に胡坐を掻くのは二人の妖怪。その内の茶色いシャツにふくらみ気味のスカートを来た妖怪が見事な手さばきで編み物をしながら向かいに座る細身の女性を見据える。
 「その噂の出所ってどうせ、町はずれの ”あの” 洞窟でしょ?」
 「その通りだけど……、何か知っているのかい。パルスィ?」
 パルスィと呼ばれた少女はその切れ長の目を不機嫌な色に染め上げながら控えめに頷いた。
 「勇儀から話を聞いた事が有る。あの洞窟には地上から来た引き籠りの河童が居るって」
 「へぇ、この地下に河童かい。河童の生息域とは何もかもが真反対だろうに、変な奴も居たもんだ」
 「元々人付き合いは苦手な奴らだしね……。まぁ、ヤマメ以外の大抵に言えることだけれど」
 「事情はともあれ私だって地上の厄介者さ。あんた達と何も変わる所は無いよ」
 ヤマメと呼ばれた少女はスカートの端から節くれだった真っ黒く細長い脚を覗かせる。新たに現れた左右二対の脚は、明らかに人間とも獣とも異なり、むしろ蟲の特徴に近い物を有する。おどけた様に笑いながらそれを見せるヤマメは、そのまま台所に立つと、吊り下げてあった何物かの乾物を手に取り口に端を加えながら再び元の席に戻った。
 二人の名は水橋パルスィと黒谷ヤマメ。眉目秀麗な装いとは裏腹に彼女らもまた地下に潜む忌み嫌われた妖怪達の一人なのである。
 「河童が妙な発明をするのなんて、世の中の自然法則みたいな物さ。みんな考え過ぎなんだよ」
 「知っている人からみたらそう思えるのでしょうけどね。……それで、どうするの?」
 「どうするって、何をさ?」
 「みとりとここの奴ら、それから ”地霊殿の奴ら” について、よ」
 暗く塞ぎ込む者の多い廃墟の住民たちの中にあって、彼女らは寧ろ得意な存在と言って良い。負の気を己の糧とする鬼神と、地下の瘴気をこそ己の力として蓄える土蜘蛛。ヤマメの方にこそ他の者とはほんの僅かに異なる事情が有るものの、概ねこの環境に適応する事ができた数少ない妖怪達である。
 「どうにかする必要なんてあるのかい? 放っておいた所で、何時も通り何が起こる訳でも無い。そんな気力が皆の何処かに残っているとでも?」
 「 ”私が” 、困るのよ。負の感情の制御を誰が何時もやってあげていると思うの? 感情が制御域を超えれば生命力を削ってでも行動は起こる。正直面倒なのよ、あんたも偶には手伝いなさい」
 「うへー。めんど――、分かったから、分かったから無言で研がないで」
 「分かれば良いのよ」
 何処にそんな物をしまうスペースが有ったのか。懐から取り出した小柄と携帯用の砥石を元へと戻す。すっと刃物の様な瞳で射抜かれたヤマメはおどけたような顔を辞め、真剣な顔つきでパルスィへと向き直る。
 「でも何で地霊殿の奴らだって分かるのさ、何か証拠でもあるの?」
 「その噂が立ち始めたの、この間地霊殿の妖獣達があの洞窟を訪れてからよ。加えて、地霊殿の奴らが盛んに廃墟群とその周囲に配下の妖獣を派遣しているとも聞いている。河童は昔から技術革新の周辺に存在していた。何か始めるつもりよ、きっと」
 「そんなもんかね……、でも私はそのどっちにも顔を出せないよ。私がみとりと出会ったら ”殺されかねない” し、地霊殿の連中はあまりにも信用ならん。その辺の奴らに声を掛けて回る位はやれるがそれ以外は御免こうむるね」
 ヤマメは毒素と汚染そして腐敗の象徴。この地下空間を関するかのような彼女の特徴は当然のみとりのそれとは真っ向から対立する。元より攻撃的なみとりの性格もあって二人の相性は最悪と言っても足りない程の凄惨な物であった。
 苦い顔、後に混じる寂しげな表情。その言葉に込められた物にパルスィは内心、同調にも似た感情を抱いていた。
 「あら、みとりについては兎も角。さとり妖怪も随分嫌うのね。私はあの陰気で歪んだ気配、嫌いじゃないけど」
 「嫌いなんだよ。ああいうタイプの支配者気取りが。皆の事を考えるだとか、平和の為だとか綺麗事を抜かして少数を切り捨てる。私が見てきたのと似たような空気をあいつは持っている。だから、嫌いなんだよ」
 「……なーんか、訳ありな感じはするけど。あえて聞きはしないわよ。でも、あんた多分運は良いんじゃない? 少なくとも、その疑念に関しては実際に晴らす機会に恵まれたみたいよ」
 「いやはや、これは驚いた。耳聡い事で。ご本人の登場みたいだ」
 表から聞こえるのは小さな足音と、音の殺された身の軽い足音。それは馴染みが無いにも関わらず覚えのある気配。全て話を聞いていたとしか思えない完璧なタイミングで現した気配は、本来なら敵意以外の何物でも無い筈だった。二人はゆっくりとその気配の方向を振り返る。そこに居たのは予想通りの人物だった。
 「いらっしゃい。古明地さとり」
 「どうも、こんばんは。夜分遅くに申し訳有りません。ですが、一つ間違いを訂正させて頂けるなら、私は支配者では無く、為政者であると言う点ですね」
 不敵な笑みを浮かべ、いつの間にか開いていた小屋の土間に立つのは紛れも無く古明地さとりその人。その顔を見たヤマメはこれ以上ないと言う程に苦々しい顔をして、手に持った乾物を食いちぎった。
 「そりゃぁ、昼と夜が無いこの場所への嫌みかい? 古明地さとり」
 「驚きましたね、この廃墟群にこんな小奇麗な建物があるだなんて」
 ヤマメの問いにも答えずに小屋の内装を見渡すさとりは、先ほどまでの不遜な様子が嘘のように素直な感嘆の声を上げる。そのさとりの言葉の通り、屋根は隙間なく瓦が敷き詰められ内側には太く頑丈な梁が通されている。漆喰で塗り固められた壁はくすみ一つ無く眩しい程にその存在感を放っていた。その調子外れなさとりの様子に出鼻を挫かれたのかヤマメは戸惑う様な表情をみせる。部屋中のあちこちを無断で見て回るさとりをヤマメは唯茫然と見つめていた。
 「これはヤマメさんがお造りになられたんですか?」
 「お……、おう。当然さ」
 「凄いですね。良ければどうやって建築を行ったのかご教授いただければ」
 「……みんなやる気が無いだけさ。朽ち果てていても資材はそこら中に転がっている。技術と人手と時間があれば建て直す位どうって事は無い」
 話を聞きながらさとりが漏らす感嘆の溜め息に、構えていたヤマメも何時しかその肩の力を緩める。 “乗せられている” その自覚はヤマメ自身にも存在した。しかし、自らの作り上げた物を褒められると言う喜びはさとりに対する警鐘を僅かに上回っていたのだ。
 「どうと言う事は無い……、ですか。ではその力。この廃墟群を再建する事に使ってみるつもりは無いですか?」
 「……やはりお前もそう言う事を言う奴か。全く嫌になるね、為政者って奴は。全くもって何を考えているのか分かりゃしない」
 しかし、その様子は続くさとりの言葉で即座に元の固い物へと変貌する。収まりかかった警戒心が再び顔を覗かせようとしていた。
 「そうして私達は明るく楽しく暮らせと言うのか? 外から来たお前達と仲良しこよしで。手を取り合って暮らしましょう? ――嫌だね、私達は悪人だ。悪人でいてやらなきゃ、この地下に来た甲斐が無いじゃないか」
 「それは遠い過去の話です。今の貴女達は引きずらなければならない段階を遠の昔に過ぎた筈です」
 「違う。何もわかっちゃないね。あんた本当に妖怪か? 長い間、頑固頭(是非曲直庁)と一緒に居過ぎてすっかり洗脳されちまったのか? 私達は悪で、正義面をした地上の奴らに敗北したから地下に落とされた。それが私達のちっぽけなアイデンティティで今の私達を支える全てさ。お上品なエリート様には理解できないかもしれないがな」
 「……手厳しいご意見、有り難く受け止めさせて頂きます」
 レーゾンデートルは妖怪にとっての生命線。今のヤマメの言葉には多分に悪意と誇張が入り混じっていたが、根本的には嘘では無いのだろう。その心の内を呼んださとりはその事を瞬時に覚る。
 「ですが、ならば逆にこう考えては如何でしょうか。『自分達は地下に落とされたにも関わらず楽しく暮らしている。お前達がやった事は無駄だったんだ。どうだザマ―ミロ』と。どうです、悪役っぽくないですか?」
 「あんたね――」
 子供の様に舌をちろりと出してそう言ってのける様子は、どす黒く淀み始めた空気とはあまりにもかけ離れている。そこ生じた先ほどまでのギャップは最早脱力を誘う物でしか無いのだが、それが計算の内である事は誰の目にも明白。パルスィは呆れ顔で言葉を掛けようとするが、それを遮ったのは意外にもヤマメでの声だった。
 「ふむ、それも一つの解釈。だが、皆がそれを受け入れるかは別問題さね」
 「そこで、貴女の出番です。地下住人に人望のある貴女が鬼の勇儀を持ち上げ廃墟群の住人達を纏めて欲しい。それが、第一歩になる筈です」
 「おや、良く知っているね。あの根性無しが ”私達を纏め上げて居ない” 事に気付いた奴は彼岸の者だとあんたが初めてだよ。」
 「まぁ、私の場合は心を読めば分かりますからね。そうでなくても、薄々感づいてはいましたが」
 「ま、その理由については追々語って貰うとして、だ。その前にだ。お前達の企んでいる事を聞かせろ。全てだ。勇儀に話した事も含めて洗いざらい。それがお前の示すべき最低限の誠意で。私達が求める当然の権利。そうだろう?」
 「当然です。この後はそうするつもりでした」
 「その前に座って良いですか?」と尋ねたさとりは、玄関でぷるぷると震えていたお燐を呼び、机を囲む形で四人は胡坐を掻いた。さとりが話をしたのは、ヤマメの要望の通りありのまま全てである。天照計画の事、旧都再建計画の事、そして、彼岸からの独立の事。そして、それらと今の噂の関係性について。一切の例外も無く二人に対して情報を開示した。
 「ほう。するとみとりは私達の為に技術開発を行っていると。今噂になっているのもその一環であると」
 「お燐曰く、当人はただ研究に没頭できればそれで良いと言っているみたいですけれどね。私と会って下さらないのでその真相は闇の中……、ですよね?」
 無言でぶんぶんと頭を振る燐。基本的に人見知り無く誰とでもすぐに打ち解ける彼女には珍しいその反応は、一種のトラウマによる物である。当然その事にはさとりも気付いてはいたが、今はこの場の空気を優先しそれを口に出す事は無かった。
 「好き好んでさとり妖怪と会いたがる物好きは……、まぁ、この地下には偶に居るかもしれんが、それ程多く無いだろう。しっかし、あの引き籠りが工房に誰かを入れるのを許すなんてねぇ……。どんな魔法を使ったの?」
 「少し知り合いに、 ”そう言う事” にうってつけの人が居ましてね。でも、概ねはそこのお燐のおかげですよ」
 「何にしろ、私も少し気にはしていたんだ。ありがとうな、お燐とやら」
 「はぁ……、いえ……、どうも……」
 何とも歯切れの悪い返事をする燐はやはり落ち着かない様で、あたりをきょろきょろと見回し頻りに脚を組み替えている、その視線はどうも切れ長の瞳をちらちらと見ては逸らされている様に感じられた。
 「さて、それじゃ、何時までもここで駄弁っていても仕方が無いし。明日へ向けて私も家で休むかね」
 「待ちなさい、さっきの。皆にはみとりの所だけは伏せときなさい」
 「どうしてだ? 皆に打ち解ける絶好のチャンスじゃないか」
 「これだから、あんたは。ネガティヴな性質の者の事を今一つ理解していない。そう言うのはね。自分から言い出さないと意味が無いの。自分の預かり知らぬ所で名前だけが先走りする……、これ程に辛い事をあなたには理解できないでしょうね」
 「そんなものかね……、私には理解できないと言うのはある程度事実だが。みとりの件は了承した。まぁ、自分から言い出せる日を私は気長に待つとするよ」
 むくりと立ち上がったヤマメはさとりが入って来た扉に手を掛ける。外へとでたその背中から羞恥とも怨恨ともつかぬ曖昧な言葉が投げかけられたのはその時だった。
 「さとり妖怪よ」
 「何でしょうか?」
 「最初の言葉、訂正する。為政者としてのお前は依然嫌いだが、お前個人の事はまだ分からん。どうか私を失望させないでくれ」
 「当然ですよ。どうもありがとうございます」
 それだけ行ってヤマメはその家を去る。残されたさとりも間もなくパルスィに礼をしてその場を去った。


 同時刻、みとりの住居兼研究所。
 けたたましい回転音の鳴り響く洞窟最深部にて。


 「原動機?」
 空はその聞きなれない言葉の響きに思わず聞き返す。みとりの工房には珍しく燐が居らず、空が一人で興味深げに作業台に乗せられた ”それ” を眺めていた。
 「ああ、これはその内の熱機関さ。エンジンとも言うね。大昔から地上では活用されていたし、私達河童もその原型は遥か昔から発明をしていたんだが、いかんせんこの環境下では肝心な燃料が手に入らなくてね。まさか実用化できるなんてねぇ……」
 半ばうっとりとした瞳で作業台の上で激しく駆動を続ける車輪を眺めるみとり。その車輪から伸びる二本の鉄柱はシリンダーの様な不思議な形をした機関に繋がり激しく規則的な往復運動を行っていた。
 「へぇ……、それで、これがあれば何が出来るの?」
 「浪漫の無い事を言うんじゃないよ。これを眺めているだけでも幸せな気分にはならないかい?」
 「いや、まぁ、その気持ちは分からなくも無いけど……」
 ガラス製の半球状容器にプールされた液化霊力は、元の形態に戻るべく上につなげられた細いパイプを通ってシリンダーへと運ばれる。噴射された霊力に押し出されたそれは、シリンダーに繋がる鉄柱を押し出し車輪を回転させていた。
 「本当なら私はカルノウサイクルを実現したかったんだよ。だけど、それを最も近い方式なのはスターリング式エンジンだ。だがあれは頂けない。観賞用として見た時にあれ程美しい物を私は知らないが、実用化するとなれば話は別だ。あれはちょいとパワーウェイトレシオが悪すぎる。それに構造が複雑すぎていつ故障するか分かった物ではないし、その時に直せるのが私以外に居なくなってしまう。それは困るだろう?」
 矢継ぎ早に飛び出す解説の嵐は留まるところを知らず、鼻息も荒く解説を続けるみとりは興奮状態で少々――、いや、かなりと言っていい程口を挟みにくい。このような時はみとりの話したいに任せるのが良い。そう把握していた空は曖昧な返事を返しつつ、その妙に人間臭いピストンの動きに目を奪われていた。
 「これは、それよりも効率は落ちるし図体も大きくなるが確実性とトルクを重視した。厳密には異なるが開発のベースとしたのは、蒸気機関――、そう地上で呼ばれていた物さ」
 「蒸気……、機関……」
 しゅるしゅると、シリンダーから排出される霊力の塊が空中へ霧散して消えていく様は、地下のあちこちに存在する間欠泉をイメージさせる。空は実際に地上を蒸気機関で走る列車が有る事を毛ほども知りはしない。
 白い煙を吐き出し、海上を勇猛に駆ける蒸気船がこの世に存在する事を考えた事すら無い。しかしその空ですら、この水を一切使用していない外燃機関を目にした時、言い知れぬ可能性にも似た何かを鋭敏に感じ取っていた。
 「スチーム・エンジンかぁ……、水なんて何処にも使って無いのにね」
 「私はネーミングセンスが無いんだよ。ま、その内何か適当な名前が思いつけばそれにするさ」
 「うん、でもカッコ良いからやっぱりそのままで良いや」
 「お、良いね。その考え方。大事だと思う。カッコ良ければそれで良い。素晴らしいじゃないか、私も気に入ったよ」
 ぼこぼこと、沸騰したように気泡を立てる硝子球体の内側に見える水面は当初の五分の一程まで減少している。パイプへ逃げる霊力の流れも目に見えて減少しつつあった。その霊力の減少と連動してピストンの運動にも鈍りが見え始める。腹に響くけたたましい駆動音が徐々に収まり静寂が戻る室内と同時に、車輪は完全にその回転運動を止めた。
 「霊脈から湧きだす莫大な霊力の状態変化。こいつは本当に凄い……。三体に加えエーテル体、マナ体、エクトプラズム他にも数え切れない。これ程変幻自在に姿を変えるエネルギー体がこの世に存在するだなんて未だに信じられない」
 駆動の停止と共に僅かばかり興奮の収まったころ合いを見計らい、空は恐る恐ると言った様子で口を開く。
 「怨霊を通せば妖力に、魔法使いを通せばマナに。使用者が在り方を示してあげるだけで融解も昇華も固化も自由自在。妖力が ”そう” なのは、馴染みのある事だけれど、外部から供給できる事にはびっくりしたかな。……で、みとりん。これは、日照機に転用可能な技術なのかい?」
 このみとりの工房を訪れる様になり、空も空なりに勉強は重ねている。以前渡された原子に関する書籍も読破済みであるし、それらが組み合わさって形成される分子、そしてその様態変化も理解済みである。それはみとりに話を合わせる為と言う事もあるが、多くは空自身の知的好奇心である。元来鴉は好奇心が強い上、鉄等の光り物が好きだ。
 空もこれらの技術に何か通じる所が有ったのだろう。学問と言う物に生まれて初めて触れながらも、その知識は驚くほどすんなりと空の中に定着を始めていた。
 「だれが、みとりんだ。……あぁ、十分に可能だ。小型化したこいつを使って ”羽” を回す。上手く行くのならば、」
 「空を飛べる?」
 「その通りだ、お空。近い内にに実機モデルを用いた試験を行う。さとりの方に場所と資材の確保をお願いして貰えるか」
 「当然だよ、今度お燐も連れて差し入れ持ってくるからさ、根詰め過ぎない様に頑張ってね」
 「……あぁ、ありがとう」
 先ほどとは打って変わり、どこか寂しそうなその声。再び容器内への液体霊力の注入を始めた事でその雰囲気は即座に消え、再び静かな工房に駆動音が満ちる。体の芯に響く重低音をBGMに二人は暫しその概念に着いて語り合っていた。


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 その小屋は彼女の住居としてはあまりにも粗末な作りだった。壁にはあちこち穴が空き、屋根も完全に覆われている訳ではない。灰が部屋の中にまで降り注ぎ、熱風が駆け抜けるその建築物の中に彼女は唯何をする訳でもなく漫然と寝そべっているだけだった。
 「勇儀……」
 「何だパルスィか。どうした? また人肌が寂しくなったのか?」
 辛うじて小屋としての体裁を保つその建築物の扉を開く水橋パルスィ。細く尖った楔の様な彼女の声は、その扉からすぐの床の上に寝そべっている星熊勇義に向かって無造作に投げかけられた。
 「そんな訳無いでしょ。……聞いたわよ、あの地霊殿の事よ」
 パルスィはさとりから聞いた全ての計画を勇儀に向かって語りかける。しかし、それは勇儀も既に知っていた物。二、三の情報は更新されるがそれは勇儀を驚かせるほどの物にはなり得なかった。
 「やつら、そろそろ人工太陽の打ち上げ実験が見え始めたらしいな。楽しみだよ」
 「 ”らしい” じゃ、無いわよ。どうするの? 協力する――、なんて言ったけど、具体的に誰がどうやって協力するのよ」
 「私さ。後は萃香も多分手伝ってくれる。鬼が二人居れば、悪くは無いだろう?」
 「ふん……、面白い冗談ね。そんな体で、どうやって手伝うつもりかしら?」
 詰め寄ったパルスィは、勇儀が着流している和服を乱暴に剥ぎ取る。はだけた浴衣の下からはサラシに撒かれたふくよかな胸と、爛れた皮膚、そして脈打つ熱を持った無数の古傷が顔を覗かせていた。それは彼女の下らないプライドとこの地下環境のギャップが生んだ悲劇の一端。硫化水素と熱に犯された体は、鬼の驚異的再生力を持ってしてもその治癒が追い付いていない状態であった。
 「鬼は嘘を言わない。あいつらが約束を果たせたなら今度は私達がそれを守る番だ。その為に必要なら何でもしよう」
 「無責任、無根拠、精神論、難儀な所ばっかり ”鬼より” ね。馬鹿じゃないの?」
 「私は馬鹿で良い、矮小な一個人の鬼で良い。偉大である事に疲れたから私は此処に来たんだ」
 「だったら、この場所の事をもう少し考えなさい。気付いているんでしょう? 最近のここの変化に」
 パルスィが勇儀の古傷の一つに爪を突き立てる。鋭く尖ったそれは薄いピンク色の皮膚を容易に切り裂き赤い血潮がじわりと滲んだ。まるで傍観者の様にその様子を眺める勇儀はただ何でも無い事の様にその口を開く。
 「疼く傷跡はやはりそう言う事か……。熱いのは私だけじゃ無かったのか……」
 「ひ弱な妖怪は干からび始めている。……多分、長く無い」
 「それも私が何とかするさ……、住む所が無くなるのは惜しい」
 「自分一人で解決できる思っているの? そんな傷だらけの鬼が大きな口を叩くのね。解決するつもりも無いのに、一人前に心配だけはする。……本当屑ね」
 「ありがとうパルスィ。心配してくれるんだな……」
 「嫌味で言ったのよ……。妬ましい」


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 「おーらい、おーらいー……、ストーップ!」
 「おーい、妖術班呼べ―。羽の形状が設計とずれてるぞー」
 「俺の昼飯取ったの誰だ!?」
 「お空ちゃんが居ないぞ! 誰か起こして来い! どうせ寝坊だ! ばっか、男が行くんじゃねーよ。一応乙女だ!」
 怒声が飛び交うのは、地霊殿の裏手にある小さな広場。普段は資材置き場か、炊き出しの場として使われているその場が今は大勢の妖獣達でごった返している。その中心に立って指揮を執っているのは、人混みに居るのが最も似合わない人物――河城みとり――だった。
 「みとりさん。動力用の液化霊力の注入が完了しました。……ただ、テールローターが設計の半分程の出力でしか動作せず、アンチトルクが不足する可能性があります」
 「エンジンからの動力伝達系に無理があったのかなぁ。よし、設計を変えよう。メインローターの上に更に新たなブレードを足して……」
 野外に作られた仮設の作業所。おんぼろ机に広げられた特殊な紙面に驚くほど綿密に、淀みなく線を引いて行くみとり。作業場に置かれたのは直径百二十メートルにも及ぶ巨大な装置。それは規模の拡大に伴い続発したトラブルをその場でみとりが修正して行く形で奇跡的に完成を迎えようとしていた。
 建造中のその装置の周りには無数の足場が設けられ、そこで忙しなく妖獣達が作業に従事している。彼らは皆地霊殿に属する妖獣達。普段は焦熱地獄の整備に回っている者達故、大規模な建築工事に誰もが熟練している。
 足場の隙間から覗くのは薄く透き通った石英の硝子。光のロスを減らす為、みとりの考えだした最も透き通った材質で作られている。よく目をこらさなければその存在を認識できない程に薄く、透明で、美しい。その内側は以前みとりがさとりに渡した、試作型よりも更に複雑な構造を持つ。内部に組み込まれているのは硝子性のパイプ。そしてテストの為にかゆっくりと回転する歯車に合わせて数十個のシリンダーが連動して上下運動を行っていた。外壁には無数のメーターが取り付けられ現在は全て左側に針が傾いている。恐らくは稼働と同時にこの針も躍動を見せる事だろう。
 「ふわぁーあ……、おはよー。みとり。精が出るね」
 「お空ちゃん、ほらちゃんと服着て下さい! 若い奴が仕事になりません」
 「精が出るねじゃない。あんたも働け。人手は幾らあっても足りないんだ」
 空が豊満な体に纏うのは作業用にポケットが追加されたシャツ。寝ぼけ眼でぼさぼさ頭を掻く空の胸元は、ボタンが幾つか止められていない所為で白の隙間に肌色の双丘が覗いている。今にも零れ落ちそうなそれに、幾人かの雄が困惑顔を浮かべるのを見て、空を起しに行った少女が慌てた様子でその前を遮った。
 「まぁ、まぁ。慌てて作業してミスが発生する方が最終的に時間が掛るんだ。ゆっくりやろうよ」
 「それは、お前が仕事しない理由にならん。ほら、レンチ持て。資材を運べ」
 彼らが急ピッチで建造を進めているのは、日照機の原寸モデル。実際に空を飛ぶ機構、そしてサイズを再現し運用に向けた実験データを得るのがこの工事の目的である。この実験の結果如何で、今後の技術開発の方向性が決まってくる。その意味で、みとりは一刻も早くこれを完成させたいと考えていた。
 「分かってるよ。ふわぁ、ねむ……」
 「まったく――」
 「あぁ、そう言えばさ」
 「なんだい?」
 「さとり様が見学したいって言って、今こっちに向かってるんだけど……」


 「ひゅいっ?!」


 天に高く舞う製図用定規。大事な仕事道具がからからと地面に落ちるのを意にも介さず立ちすくむみとり。浅い呼吸と散大した瞳孔は、彼女が極度の混乱状態に置かれている事を示していた。
 「ねぇ。みとり。そろそろ慣れようよ。私達妖獣以外にも会ってみよう?」
 「さとりは無理! 抉られる! て言うかなんで勝手に来ているんだよ! 約束が違うじゃないか」
 「いやぁ。私達相手には割と普通にしてるから、もしかしたら大丈夫かなぁ、なんて」
 「駄目に決まってんだろ! さとり妖怪と鬼は御免だ。お空、た、頼むからちょっと私を連れて何処かに飛んでくれ! この通りだ!」
 「はいはい。分かったよ。ほら、背中に乗って」
 涙を目尻に滲ませた彼女は接近するさとりの気配から逃げる様に空の背中へしがみ付いた。「いくよ」静かに背の赤河童にそう呼びかけた空は漆黒の翼を翻し空へと飛び立つ。少し離れた、建物の影。その様子を見たさとりは苦い笑みを浮かべていた。


 背中から聞こえて来るのは、すーはーと言う深呼吸を繰り返すみとりの息遣いと激しい胸の高鳴り。やがて落ち付いたのか、背中越しに感じる心臓の拍動が収まったのを確認して空はゆっくりとその場で旋回を始めた。
 「ねぇ、みとり。落ち付いた?」
 「まぁ、なんとか……」
 二人の上空にあるのは巨大な岩盤で構成された天蓋。己の体の数十倍はあるだろうかという岩が幾つも飛び出したそれは、改めて間近で眼にすると息を飲む程に美しい。その中の一つ。岩盤から突き出た岩が組み合わさり小さな横穴の様な物が形成される所に降り立つと空はそっとみとりを岩の脚場へ下ろした。
 頬に当たる熱も僅かに和らぐその空間は空のお気に入りの場所の一つである。普段からよくこの場に来ているのか、空の私物と思しき食器やゴミとも装飾品ともつかない不思議な石が幾つか転がっていた。
 「御免ね。まさかみとりがそこまで嫌がるとは思わなかった……」
 「まったく……、勝手な事はしないで欲しいね。次やったら本当に怒るよ」
 「本当に御免。私は勝手な事をした。お詫びの印に……、これ……、私の宝物なの。良かったら……、受け取ってくれないかな……」
 空がガラクタの山から取り出し、申し訳なさそうに手渡してきたのは紅く透き通った小さな硝子玉。それが、クロムの混じったコランダムである事に気がつけたのはみとりならではの現象だったのだろう。美しく希少である事も確かであるが、個人としては見慣れたそれにみとりは曖昧な表情を浮かべるしかできなかった。
 「これって……、あんたねぇ……」
 「私のとっておき。前に散歩してる時に偶然拾った物……。みとりにとってはそんなに価値が有る物じゃ無いかもしれないけど。私にとっては間違いなく宝物だった。だから、それがお詫びの印。みとりの大切な物を傷つけた分、私も責任を負う。だから……」
 「あぁー、もう。そう言う面倒臭い事を言うんじゃない。分かったよ。これで手打ちにしてやる。でもこれは受け取れん。お前の言った通り私には大した価値の無い物だ。その代わり次に同じ事をしたらこれをカチ割りに来てやる。それで良いだろう?」
 「……わかったよ。ありがとう、みとり」
 「あんまりそう言う言葉を安売りするんじゃない……。変な勘違いを起こす奴が居ないとも限らん」
 そう言うと不貞腐れた様にみとりは、岩の縁に腰を下ろすと空中に足を投げ出す。空もその隣に腰を下ろすと暫しそこには無言の時間が生まれた。
 言葉を発しなくなると、先ほどまでは気付かなかった周囲の状況に意識が向くようになる。低く重々しい岩盤の下を流れるマントルの流動音。地霊殿から聞こえる工事の音。
 遥か遠方で上がる怨霊の怨嗟の入り混じった泣き声。その何れもが地下に住む者には聞き慣れた物で、特に妖獣達にとっては揺り籠にも近い存在である。暫しぼんやりとその時間を過ごす二人は、何気なく脚の下に広がる光景に目をやった。
 崖下に広がるのは広大な廃墟群。地霊殿によって一部は瓦礫が撤去され、廃屋よりは幾分作りの確かな仮設の小屋がたてられているが、それでも都市と呼べるような物では無い。暗く、溶岩の明かりだけで照らされるその地は一部が淡いオレンジに染まり、どこまでも不気味に見えた。
 「日照機が完成したらここが全部明るくなるんだよね……、なんか凄いな」
 「暗い世界に光が満ちる……、か。確かに此処の奴らはそれを待ち望んでいるだろうね。何せ脚元すらおぼつかない闇だ、不便で無い筈が無い。だけれどね、実の所この暗さは私にとってはとても心地の良い物だった。それこそ、永遠にそのままで居てくれたらと願う程度にはね」
 「でも、実際にみとりはこの地下に灯りをくれようとしている。そして、これからも。……違うの?」
 「私がこれからもあんたらに協力するかは置いといて……、お空。技術に期待し過ぎちゃいけないよ。技術って言うのはね、 ”利用” する物で ”頼る” 物じゃない。それを履き違えた奴はただの操り人形だ。なぜなら技術は広義における魔法って言葉みたいに、何でもかんでもできる不思議な技じゃないからだ。方程式に基づいた何らかの代償を必要とする、ちょいとばかり複雑な……、そう、 ”現象” 。ただそれだけだ」
 遠い眼でそう話すみとりに、空は掛けるべき言葉が見つからない。声を掛ける事で踏み込む事になる領域には巨大な進入禁止の札が立てられている様に空は感じていた。
 「正直ね、中に誰か一人生贄突っ込んで常時霊力を光へ変換すればかなり機構は簡略化できるんだよ」
 「無茶言わないでよ、誰が中に入るのさ」
 切り替える様にみとりの口からおどけたような口調で飛び出るのはこれまた突飛なアイデア。冗談なのは空も分かっていたので軽く流す。
 「冗談だ。お空、聞いてくれ。多分あの日照機は最初感動を与えるかもしれないが、彼らは必ず不満に思うだろう。何せルクスが全く不足しているのだからな。だが、もしそうなったとしても自分が太陽になろうなどと考えるんじゃないよ。なぁ、数少ない友人としての頼みだ」
 「何を急に言い出すかと思ったら、どうしたのみとり? 私が心配に見える?」
 「お前みたいに、まっすぐに他人の為に動ける奴が心を壊して人間不信になるのを沢山見てきた。それは決して珍しい事では無い」
 みとりは、また遠くを見る様にしてその言葉を続ける。語りかけるのでも無い、独り言でも無い。ただ、居ない筈の誰かに、昔吐き出したかった言葉の代わりの様にその言葉は紡がれる。
 「お前は太陽では無く蝋燭の灯りであれば良い。仄かな熱と、一人の脚元を照らせるだけの力があれば十分だ。孤独なんて碌なもんじゃない。一度そうなってしまったら、抜け出せなくなってしまう。今の私の様にね。元からそうで無い奴なら尚更だ。お前はそうなるな。お空」
 「……あたりまえだよ、何言ってるのさ。みとり。それに、みとりには私もお燐も居るじゃない」
 「精神的な問題だ。友人が物理的に居たとしても心が孤独なんだ……、いやすまん。こんなのは私の愚痴だったな。ずっと一人で居るとな。勝手に思考が飛んでいく癖が着いてしまうんだよ。――戻ろうか。さとりもそろそろ何処かへ行っただろう。今日中に試運転には扱ぎ付けたい」
 「分かった。しっかり掴まっていてね」
 天上の岩場から空中へ再び飛び出し、雄大な翼で熱風を切り裂く。視界の先。地霊殿の裏庭ではゆらゆらと揺れる作業場の灯りが暗い地下に淡く浮き上がっていた。


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 ごぽりごぽり、と質量を伴った泡沫が弾けては消える。赤で塗りつぶされた視界の先にはまた、赤しか存在しない。そこは、地下空間の根幹をなす機関の内部、焦熱地獄炉心。
 (こまったなぁ。 ”また” 、熱くなってる)
 じゅう、と額から滴り落ちる汗が蒸発する音がした。みとりから渡された温度計は遠の昔に破裂し、使い物にはならなくなっている。温度計の測定限界は千五百度。恐らくそれは優に越えてしまったのだろう。
 此処は旧地獄の中にあってその機能の中核を為す機関部。そもそもこの地下空間に外部から手が加えられたのは地獄として利用をする為であるが。地下空間に見えている廃墟群はあくまでも彼岸の者達の居住区や、罪人の通る道に過ぎない。真の地獄はその地下。地下大空洞の真下に建設された物にある。
 焦熱地獄及び大焦熱地獄。それが、地下空間の下に眠る真の地獄である。是非曲直庁において、地獄は八つの階層により構成され罪人の犯した罪の重さと性質によりどの地獄へと送られるかが決定する。
 殺戮が永久に繰り返される等活地獄。
 鉄板の上で焼かれ、切り刻まれる黒縄地獄。
 鋼鉄のすり鉢ですり潰され続ける衆合地獄。
 窯で茹でられる叫喚地獄、大叫喚地獄。
 地獄の業火で肉体も魂も塵と化すまで燃やされる焦熱地獄、大焦熱地獄。
 そして、無間の苦しみが続く無間地獄。
 この旧地獄の真下にある焦熱地獄、大焦熱地獄は入り口が地霊殿に設けられており管理がさとりに一任されている。だが、さとりは肉体的には決して精強な妖怪には属していない。むしろ普段自らが動く事が少ない分虚弱だと言っても良いだろう。
 故にその焦熱地獄炉心部の整備はさとり配下の妖獣の手によって行われる。空もまた焦熱地獄整備班に配備された妖獣の一体であり、本来の仕事はさとりの身辺警護件、焦熱地獄の整備班隊長である。暫くの間アマテラス計画の為持ち場を離れていたが、この日は現場にトラブルが発生したと言う事で、地霊殿の中庭にある作業員用の降り場からその焦熱地獄へと足を踏み入れていた。
 目下に広がるのは真っ赤に煮え滾ったマグマとそれをも飲み込む炎の海。青色すらも混じるその炎の中に空は防護服すら見に纏わず普段通りの白いシャツと緑のスカート姿で作業に従事していた。
 (見た感じは三箇所かぁ……、二つは緊急性が無いけど、これは……)
 ばさり、ばさりと背から生えた大きな翼を八の字にはためかせ空中でホバリングを行いながら、再び額に滲む汗を服の裾で拭う。焼けただれてしまった目の前のそれに、空はこの先に待つ作業を思い深く嘆息した。
 「お空ちゃん! 内壁の損傷具合はどうだい?」
 「まだ、十分に検査して無いから分からないけどー、恐らくかなり酷いよー、これ」
 程離れた炎の向こう。内壁にぽっかりと空いた出入り口から作業員の妖獣が顔を出す。熱と炎風による耳鳴りの合間に届くその声に、空は精いっぱいの声を張り上げて答えた。
 空が確かめる様にそっと指でなぞるのは、深く抉り取られた内壁の一部。剥き出しになっているのは、幾層にも重ねられた防火構造。表層が剥がれた事により露わになった内部の建材が、炉心内部から立ち上る猛烈な熱エネルギーによって焦がされてしまっていた。
 「多分、彼岸の方から耐熱塗料追加で貰ってこないと足りなーい」
 「わかったー。辛くなったら、早めに戻っておいでよー」
 「分かってるー、もうちょっとだけー」
 内壁の最表層に塗られているのは、是非曲直で開発された特殊な耐熱塗料。建材に千度を超える高温に耐えられる程のとてつもない耐熱能力を付加する代物である。そして、 ”驚くべき事にその塗料が空の予想を超える速度で劣化” を始めている。通常この炉内は千五百度程で安定をしていると言われていた。背のシャツに滲むその汗は、この異常なまでの熱さからくる物なのか、はたまた冷や汗か。
 (あつい……)
 流れる傍から蒸発して行く汗は、体中から水分を奪い取って行く。それは地下の生物にとっては本来致命的である筈の事象だった。水分が貴重なこの地下世界において水の浪費は死へと直結している。貴重とはいえ、水が提供される地霊殿所属の妖獣であるが故に彼らはこの場に立ち入る事が可能なのだ。
 だが地獄の闇で生まれた妖獣ならば誰でもこの炉に入れる訳ではない。炉心部にまでスーツ無しで立ち入る事が出来る程の耐熱性を持つのは地霊殿に属する妖獣の中でも空を始めとしてほんの数名。その中でも最も熱に強いと言われた空でも限界を感じる今の状況は明らかに ”異常” である。
 かと言ってこのまま帰る訳にはいかない。この熱は最早耐火スーツを着ればどうにかなると言う範疇を超えつつある。目の前の破損個所をこのまま放置すれば自分以外の妖獣に大きな負担を掛ける事になるだろう。肺を焼き尽くさんと入り込む熱風に閉口しながら、空はその損傷を修復するのに相応しい道具を作業着のポケットから探り始めた。
 「はやく戻ってくるんだ。これ以上は危ないんじゃないか?」
 「うーん。応急修理だけしたらもどるー」
 思いだした様に腰に付けたポシェットを開くと、中から小汚い布を引っ張りだす。是非曲直庁から支給された数少ない資材の中に混じって埃をかぶっていた特別用途の耐火布である。手際良く抉れた個所へそれを張り付け、楔で固定した空は来た時と同じように黒い翼をはためかせ入口へ向けて身を翻した。
 入口は既に開けられ見た慣れた数体の妖獣がこちらへ手招きをしている。冷たい空気の流れを感じる。肺の奥まで焼けつきそうなその場とは天と地ほども異なるその扉の向こうに降り立ったお空は、大きく深呼吸を行い肺の中の空気をまるっと全て入れ替えた。
 「ぷっはぁー。生き返るー」
 「当たり前だろう、ほら、水。一気に飲むんじゃないぞ。少しずつだ」
 「分かっているよ」
 地下の妖獣は体に占める水分量が地上のそれに比べ圧倒的に少ない。地上の生物はその体の七割が水分で占められているが、彼らのそれは僅か三割にも満たない。それは水に乏しい地下で生きる為の彼らの適応の一つ。それ故に、多量の水を一度に摂取すると地上の生物よりも遥かに容易に中毒症状を起こし得る。
 こくりこくりと喉を鳴らして差し出された水筒の水を摂取する空。ひと息を吐いた空は中身が半分程になった水筒を燐へ返すと、はらりはらりとシャツをはためかせ服に着いた煤を払った。
 「お疲れさま、お空。大丈夫か? ……いつにも増して辛そうに見えるが」
 「こんなの全然平気だよ……、と言いたいんだけど、ちょっと疲れちゃったかな? 最近疲れてるからかなぁ。いつもなら平気なのに」
 「……やはり、おかしいよな。最近の焦熱地獄は」
 「……貴方もそう思うんだ。私の気の所為じゃなかったんだ……」
 なるべく皆に心配を掛けない様に明るくそう言った空。調子外れなそれに返って来たのは酷く真剣な言葉だった。その言葉に同調するかの様に深く頷くのは、一人や二人では無い。
 「内壁の損傷の頻度も上がって来ている。恐らく内部の温度に壁の耐久度が限界を迎え始めているんだろう」
 「でも、何でここに来て温度上昇が起こる? これまでは、何事も無かったじゃないか」
 「分からん。だが一つだけ確実なのはこのままでは損傷が外壁にまで達しかねないと言う事だ。そうなれば地霊殿はもちろん地下空間の全てが炎の海だぞ。さてはてどうした物か……」
 彼ら焦熱地獄の整備班は主に、その炉心が制御を失い暴走をする事を抑える為に働いている。だが、マントルを利用した焦熱地獄の炉はこれまで安定した出力を続けていた。故に彼らは、熱が漏れぬ様に老朽個所を修理する以外をする必要が無かったのだ。
 「仕方が無い放熱扉を新設しよう。 ”この熱” を外へ逃がすのは気が引けるが、決壊すればそれ所では無い事態だ。背に腹は変えられん」
 「外壁に穴をか……、出入り口を修繕するだけで骨であったと言うのに、頭が痛くなるな……。だがやらぬ訳にも行かぬか……」
 ふぅと溜め息を吐くのは老齢の地獄鴉。空と並んで古くからさとりに仕え、焦熱地獄の管理を営んできた仕事上の良きパートナーである。若さ故に経験の足りぬ空を彼が上手く埋めることで、この最も過酷な部署は上手く回っていた。
 「さぁ、そうと決まったならば、早速計画だ。図面と会議用の机を持ってこい」
 「だったら私も――」
 「空、お前は休め。さっきの作業で大分消耗したんだろう? 私に後を任せて先に戻っていろ」
 「でも……、いや。分かった」
 抵抗しようとした空だが、眉間にしわを寄せた真剣な瞳がもたらす無言の圧力に思わず言葉を飲み込む。もごもごと何かを口の中で吐き出しながらも、半ば背を押される様な形で空は地霊殿へと続く螺旋階段へと押しやられてしまった。「お疲れ様です」と口々に言われては、強引に戻る事も出来ず空は中庭に繋がる階段を昇って行く。その背が鉄の門扉の向こう側に消えるのを確認した妖獣の男は小さな、しかしはっきりとした声を背後の者達へ投げかけた。
 「……誰か、こっそりさとり様に連絡入れとけ。空の奴……、無茶し過ぎだ……」
 「分かりました。私が」
 すっと消えた火炎猫の少女の気配が地霊殿の内部へと駆けていく。愛するリーダーの ”小さな意地” を挫かぬ為に、その身を隠して彼女はさとりの部屋へと入り込んだ。


 照明の一つも無い階段を不規則なリズムで上がる。何処まで行っても同じ景色の続く螺旋階段は、いつにも増して長く感じていた。
 耳に届くのは単調な自らの足音。目に映るのは変わり映えのしない石畳の階段
 ようやく視界の情報に淡く朧な地霊殿の灯りが顔を出す。ほんの僅かに上向いた気持ちで階段を上がり切り、中庭に出て後ろ手に鉄の門戸を閉めたのだがそれまでだった。
 目に入るのは愛する主の居る部屋の窓の灯り。漂って来るのは炊事場からの食欲をそそる香り。胸の内から安心が押し寄せ、それが心を支えていた何かを取り外してしまった。壁に手を着き静かに息を吐きながら空はその場に座り込んでしまう。
 「あぁ、困ったなぁ……、さとり様の部屋まではまだ遠いのに……」
 体中を襲うのは、大袈裟とも言える程の酷い疲労感。体の芯から力が抜けていく様なその感覚は一種睡魔にも近い物を感じる。鉛の様に重い翼はだらしなく垂れ下がり、ピクリとも動かす事が出来なかった。
 不意に襲いかかって来た強烈な睡魔に空は実にあっさりとその意識を手放した。


 ――風邪をひきますよ……。帰りましょう。


 体を包む柔らかな感覚。
 心の落ち付く優しい香り。
 微睡む意識が知覚によって引き起こされ水面上へと意識が昇る。ゆっくりと目を開いた先にあったのは真剣なまなざしで書類と格闘するさとりの姿だった。
 「△☆……、×?!」
 「あら、起きたのね。おはよう。……疑問に思うのなら自分の手を見てみなさいな」
 言われた通り掌を見ようとするが思ったようには体が動かない。ようやく視界に入ったそれは黒い翼の形をしている。そこに来て空はやっと自分が地獄鴉本来の姿に戻っている事に気がついた。
 「駄目よ。まだ人の姿に戻っては駄目。暫くそのままで休みなさい。」
 妖獣は極度に精神を消耗すると人型を保てなくなる。無茶をし過ぎた時にはこうなる事もあるがここ暫くは無かった事である。さとりはそんな空の背に優しく指を添わせ体に着いてしまった煤を丹念に払っていく。その繊細な指使いとは裏腹に胸の瞳は大きく見開かれその視線が空へと注がれていた。
 「焦熱地獄がねぇ……、ちょっと映姫に調査を頼んでみるわ。私だけでは手が及ばないかもしれない」
 特に空もそれに抵抗しようとはしない。寧ろ言葉を発せない今の自分に好都合であるし、元より心をさとりに読まれる事には抵抗が無い。ただ、されるがままに身を委ねる空の心は安らかであり、再び心地の良い睡魔が忍び寄ってくるのを感じていた。
 「でも、困ったわね。あの熱は精神を焼く熱。地霊殿の外にはなるべく出したくないのだけれど……」
 椅子に座り頭を捻る主人に申し訳なく思いながらも体は睡眠を欲している。ついに抗えなくなった瞼が落ち暗闇の向こうでさとりと、もう一人の声が聞こえ出した。
 「放熱窓……、排熱する……、外……、そうか……、この地下にもあるじゃない、丁度良い ”排熱機構” が! お燐、そこに居るんでしょう?」
 「あら、ばれていましたか……、少しお空の様子が気になって来たんですけれど……」
 「遠慮なんてしなくて良いのよ――。それはそれとして、みとりの所に走って来て貰えるかしら? 要件は分かるわよね?」
 「分かっていますよ。それでは行ってきます」
 慌ただしく部屋を出て行く足音を最後に空は再び深い眠りへと落ちて行った。


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 その書簡が届いたのは丁度午前の部の裁判が終わり昼休憩に入ろうと言うタイミングだった。地獄の獄卒から手渡されたのは、大袈裟な程におどろおどろしいデザインの筒。キャップ上の蓋を開ける。小気味の良い音と共に中に丸められた手紙が姿を現した。
 「ふむ……」
 広げて中身を確認する。それは見慣れた丸文字。その様子を傍から見ていた小町は興味深げにその手紙を覗きこんだ。
 「どうしたんです、四季様?」
 「いえ、さとりから手紙が届いたんですけどね……」
 手紙に記されていたのは、焦熱地獄の異変に関する情報提供依頼。是非曲直庁では無い。映姫に直接友人としてこの手紙を届けたと言うのはつまり、 ”そう言う事” なのだろう。
 「焦熱地獄炉心の異変ですか。これまた、妙な事もあった物ですね」
 「しかも見過ごせる物では無いと来ましたか……。何か心当たりはありますか、小町?」
 「いいえ。私の様な下っ端には思いもよらぬ事でございます」
 「まったく……、貴女と言う人は……」
 考える様子も無く即答する小町に苦言を述べようとした映姫の手元からもう一枚の書類が宙を舞ったのはその時だった。はらり、と落ちたのは幾らかの数値と多数のグラフが載せられたさとり手書きの書類。確認しようと目を凝らす。それは定期報告の怨霊管理に関する統計データであった。
 「先月のが遅れていたと思ったら、他の手紙と纏めてですか……、あまり褒められた事ではありま――」
 「どうかしましたか、映姫様?」
 「小町。私は暫く席を開けます。誰か来たら午後には戻ると伝えて下さい」
 「え、ちょっと、私お昼に――」
 映姫が完全に静止したのはデータの中ほどまで目を通した所。血相を変えて執務室を飛び出す映姫の背に、小町の悲痛な叫びは毛ほども届く事は無かった。


 彼女が向かったのは、是非曲直庁支部に存在する資料室。暗い資料室を手に持った行燈の灯りだけを頼りに無数の資料をひっくり返す。一心不乱に資料を開いては地面に投げ捨てを繰り返す。やがてそれが自らの背に届こうとした頃。彼女は目的の物に行きあたった。血走った瞳がこれ以上ない程に大きく見開かれる。優に数分押し黙り、何事か思案を巡らせる映姫はぽつりとただ一言。その言葉を呟いた。
 「おかしい……、やっぱり魂の収支が合わない……?」


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 その日は年中を通して気候の変わらない地下においても珍しい。熱波が和らぎ風も少ない絶好の環境であった。場所は廃墟群の中程。地霊殿によって整備工事が行われた数少ない場所の一角に存在する空き地兼、資材置き場。
 「ねー、みとり。もっと前に行かないと良く視えないよ」
 「ばっか、お燐。私の名前を呼ぶんじゃない!」
 頭まですっぽりとぼろを纏い、顔を隠しているのは河城みとり。燐に名を呼ばれた事ですっかり怯えてしまったのか、燐の影に隠れる様に背にがっしりとしがみついていた。
 彼女らの前には既に人だかりが生まれている。その内の半分程は燐も顔なじみの地霊殿の同僚達。だがもう半分はそうでは無かった。
 「良いの? 今が鬼の評価を塗り替えるチャンスじゃないの?」
 「いいい、いややに決まってるじゃないの! いいい、今さら、どの面下げて勇儀に会えっててていうののの」
 鬼の名前を出しただけでみとりの体の震えは止まらない。全身をがたがたと震わす姿は、哀愁を感じさせる程の物であった。
 そんな彼女の様子とは関係なく彼らの視線の先にある ”それ” は、地霊殿の主の手によって大きな唸りを発し始めた。排出された霊力によるエギゾースノートが、唸るスチームエンジンのバルブに合わせて大きな産声を上げ始める。
 「ほら、みとり。始まったよ。貴女の心がどれだけ情けなくても、貴女の子供はあんなに頑張っている。……ちゃんと見てあげないと」
 「……うん」
 燐の後ろからみとりに声を掛けてきたのは空だった。口元に煤をつけ笑みを浮かべる空は作業着姿でみとりの横に立っていた。おそらく彼女も最終調整に関わっていたのだろう。その何かを成し遂げた者特有の誇らしげな横顔が何よりの証明である。
 段々とそのエンジンの発するノートの間隔が狭まり始める。同時に髪を揺らし始めるのは、それから巻き起こされる人工の突風。
 「行くぞ……」
 「お願いします」
 装置の前に立ったさとりと、妖獣の技術者は静かに目配せをすると安全装置(セーフティーロック)を外しその本体を完全にフリーな状態へと移行させる。それと全く同時。腹の底から突き上げるような唸りを上げる巨大な装置がエギゾーストを残して天空へと舞い昇り始めた。
 それはとても緩慢で不安定な動き。自らの発生させる乱気流に寄り、右へ左へと揺れ動く様はとても安心して見られた物ではない。だがそれでも二酸化ケイ素と砂から作られた透明の素材で作られた球体に囲まれた装置は、数百メートル程昇った既定の位置で停止する事に成功した。
 その場の誰もがホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。遠く離れてしまったエンジン音が若干不規則な物になった感覚に襲われる。それは恐らく内部機関のクランクが発するノイズによる物。警戒は必要だが致命的な物ではないと判断する。機体がゆっくりと上下に揺れながら空中に縫いとめられる。内部を揺らめく陽炎の様な気体が満たして行った。
 気体の充填、そして炉内の温度をチェックする無数のメーター群。全てがグリーンを示した時、地上からの遠隔操作でその炉内に青い火花が飛んだ。合図通りに球体を紅く染めるのは下部から発生するアセチレンガスの炎。やがて周囲を揺らめく気体に広がり、その灯りは硝子の外側へと放出される。
 その時、誰もが空を見上げていた。
 鬼も、妖怪も、妖獣も。
 彼岸も、地下の住人も。
 一切の垣根なく空へ浮かぶ、ちっぽけな歴史の始まりを眼に刻みつけようと彼らは必死に眼を見開いた。
 球体の中で灯り始めるのは橙色の炎。マグマよりも更に温かみを感じさせ、且つそれ以下の熱しかもたない柔らかな炎。アセチレンの淡い光が地獄の深淵をほんの僅かずつ侵食する。
 それは地獄の生命が初めて目にした灯りであり、地上からやって来た者には忘れ果てた筈の生命の光。それまで暗闇に閉ざされていた地獄の天井が揺らめく陰影を付けながらそこに浮かび上がる。またたく星の様に姿を変える岩盤の天蓋。決して美しくは無い。しかし、初めてその姿を地に足を付ける住人の前に表した。
 それが記録に残された中では最初に地獄に昇った太陽であった。地霊殿、廃墟群の移住者、立場も種族も異なる彼らが初めて共同で作り上げた記念すべき物。正式名称 “日照機試作型”。通称 ”アマテラス一号” 。
 こうして目にしている間も、その灯りは不安定に揺らめき、機体は自らの巻き起こす風に揺られ続けている。明るくなったと言っても、それは建物の影でも脚元が辛うじて視える程度。上空から感じる熱も馬鹿にならない。エンジン音もいつ停止してもおかしくない程に不安定極まりない。
 余りにも弱々しく、余りにも頼りない。しかし紛れもなく地下世界が歩みを始めた証。誰もがアマテラスに目を奪われていた時、その音は遠方から轟いた。大気を震わせる爆音。大地を震わせる鳴動。遥か彼方、地獄の最果てから届くその音は、まるでこの地獄の産声の様にすら感じられた。
 ざわつく民衆とは対照的に涼しい顔をするさとりは、彼らの中心に再び出て行き無言のまま手で制する。彼女はそのまま、音がした地点と反対方向の壁を指さす。
 疑問を浮かべながらその方に意識を向けた彼らが感じたのは心地の良い微風。初め頬を撫でる程度だったそれは、やがて地下空間その全てに吹き渡る。みとりはその肌を蝕む熱がほんの僅かに和らいだ事を感じ取っていた。


 同時刻。地下世界の果ての山裾。
 岩場の影に潜む彼らは巨大な装置を前に上空へ打ち上げられた赤子の光を見守っていた。その内の幾人かは、慌ただしく機器の合間を行き交っている。
 「こいし様。日照機打ち上げ、確認しました」
 「りょーかい。整備班。コンプレッサーのメンテナンスは済んだかしら?」
 「全数値正常範囲内。何時でも行けますよ」
 「おっけー、上出来よ。これは政治ショー。思いきり最高のタイミングで乱入して皆を驚かせてやる。それが私達の至上目的よ――、コンプレッサー、起動」
 「了解」
 ごうんと大きな音を立てて、その巨大なコンプレッサーは駆動を始める。上部から突き出た七対のピストンが激しく上下運動を行う。それに合わせて内部のシリンダーが駆動を始める。ピストンが上昇へと移動する度に周囲の大気が吸い込まれ、下降すると同時にそれがある一か所へ向けて放出される。
 人一人程のサイズのあるコンプレッサーは、彼らの居る場の一台のみでは無い。広大な山肌に散らばる様に十数機が設置され、その全てがこいしの合図で連動した駆動を行っている。
 それらから伸びる太く長大なホースは、一本の太い鉄管に統合され彼らの背後に空いた小さな横穴へと繋がっている。穴の先にあるのは、旧地獄が誇る馬鹿馬鹿しい程に巨大な ”大間欠泉” 。
 それはかつてこの地が開拓される際に発見されたが、枯れ果てている為に放棄された水脈の一端。彼らが行おうとしているのは、眠り果てたその間欠泉に対する強制的な覚醒。地底世界の高温な大気を圧縮しその内部の空洞へ送り込んで行く。
 集められた熱と空気により高まった膨大な熱と圧力は間もなく間欠泉の許容できる限界を超える。刺激により間欠泉は実に数千年ぶりの覚醒を迎える。腹の底に響く様な地鳴り。吹き溜まりの上にある小さな亀裂を押し広げながら爆発的な勢いで加熱された大気が地上へ向けて立ち昇った。その爆音にも似た噴出音は地下空間全てに等しく響き渡る。


 「何年振りだろうな……、傷が疼かないよ」
 「馬鹿だね……、そんなのは当たり前すぎる事さ、これは紛れもなく ”外の空気” だ」
 鬼達がその変化を感じ取る。吹き込む涼風、冷め行く熱。その出所は固く封鎖された地上への長い縦穴 ”黄泉比良坂” 。遥か三十キロの彼方から届いて尚、新鮮さと温度を保つ風は急速にこの地獄を冷却する。
 断続的に続く爆発音。一直線に坂から音の下へと微風が駆け抜ける。その流れはマグマの海から立ち上る業火を、怨霊の群れに吹き溜まる熱風を、その全てを征服しコンプレッサーへと吸い込まれて行った。新たな変化が現れたのは、七度目程の爆音が轟いた時である。
 天蓋に煌々と輝くのは作られた地下の太陽 ”アマテラス” 。その変化に最初に気がついたのはアマテラスを見上げていた者達である。僅か数百メートルの彼方。雄大に空に浮かぶ希望がほんの僅かに揺らめいた様な気がした。


 「え……、何……、これ?」
 「さとりの奴。空にも秘密にしていたのかい……。やれやれ、とんだ悪戯っ子も居たもんだ」
 ぼろの奥でみとりは何かを確かめる様に自らの肌を触りながらその身に纏う結界を解除する。初めて直接その身で感じた地獄の大気の感触に、少々戸惑いながらも彼女は自慢げな表情を崩しはしない。
 「やつらがやったのは、間欠泉による排熱。大方、焦熱地獄の熱も合わせて外へ飛ばしているんだろう。この気温の低下はそのせいだ」
 「さっきから聞こえているのは間欠泉の……、でもそんな。地上までどれだけの岩盤があると……」
 「だからこそ、私達は膨大な圧力を掛ける必要があった。それこそ、人為的に引き起こさなければならない、途方も無い程の圧力をね」
 みとりは、そこで言葉を区切ると、すっと上を見上げアマテラス周囲に起こり始めた変化を確認するように目をしかめた。それは、この地下では絶対にありえないと思われていた現象。地下にはあまりにも似つかわしくないそれを見上げた彼らは唯々驚きを隠せないでいる。ポケットに入れていた片手をそっと出し、その袖を捲るのは誇らしげな横顔。
 「間欠泉による排熱、――それで温度が下がったとすれば、私はもう一つ奇跡が起こると予想している」


 鬼達は空を見上げ、唯その成り行きを見守っている。
 バルブからの噴出音に紛れて聞こえて来るのは、小さな物体が擦れ合う様な小さな物音。
 「なぁ、萃香。私達は此処に来て何年だったかなぁ。何時の間に忘れちまっていたんだろうねぇ」
 「馬鹿を言うな、忘れて何かいる物か。ただ思い出さない様にしていただけだろう?」
 ごおんごおんと言う遠方からの大きな駆動音が収まり、辺り一帯に静けさが訪れる。空洞内に満ちるのはアマテラスの駆動音と、マントルの対流音の唯二つ。頭上からアマテラスのエンジンバルブの擦れる音が一際大きくなり響いたかと思うと、それは地上へ向けて下降を始めた。
 「あるいは、思い出させられたのか。確かにとんだお笑い草だよ。こんな地獄の果てで――」
 「切っ掛けはほんの僅かで良い。それが、科学の奴隷に成り果てた私なんかでもきっと――」
 みとりが細く白い腕を天へ向けてと着きだす。


 「地上を思い出すなんて」
 「雨を降らす事ができる」


 ありったけの願いを籠めて。その掌は強く、強く握りこまれた。


 ざぁざぁ、ざぁざぁ、と当たり前ながらも懐かしき音を子守唄に彼女らは立っていた。みとりの能力により限界を迎えたエアロゾルを核とする水滴は重力に従い地面へと下降を始める。乾き切りひび割れた大地に一つ、また一つと黒い染みが広がって行く。やがて小さな雫はどしゃぶりの雨へと変わる。雨は焼け爛れた大地を、廃墟に流れるマグマの河を、一切の区別なく潤した。
 初めての雨にはしゃぎまわっていた妖獣や、空の恵みに歓喜する廃墟群の住人達も今では最寄りの家屋へ避難している。今この雨の中に佇んでいるのはたった二人の鬼に過ぎない。
 「勇儀……、帰るぞ」
 「……もう少し、このままで居させてくれ……」
 唯真っ直ぐに上だけを見上げる彼女の横顔を伺い知る事は出来ない。その顔に容赦なく降り注ぐ雨は、彼女の雄大な角も、鮮やかな黄金の髪も、潤んだ眼も全て雨と言う一色で塗りつぶした。ずぶ濡れの和装が体に張り付くのを意にも介さず彼女はただそれを受け入れ続ける。
 「忘れていた……。雨がこんなにも冷たい物だなんて。地上がどれだけ恵まれた場所であったかなんて。否、忘れようとしていた。自棄になって瓦礫で酒を飲む事で忘れようとしていた……」
 「それはお前さんだけじゃない。誰もがそうしていた事さ……。誰がお前を責める権利が有る」
 「皆を率いる力がありながら何もせず……、ただ毎日酒を飲む……。そんな……、ただの屑に……。どうして、まだ――」
 紡がれた言葉は普段の勇儀からは想像もできぬ程女性的で柔らかな声色。萃香はその横顔を何か遠い物を見るような眼差しで見つめていた。
 「雨を冷たいと思えるほどの心が残っていたんだろう」
 震える声で、そう呟いた鬼は小さく自嘲するように口元を歪める。しかしそれも、すぐに別の何かに歪み潰され、彼女は唯肩を震わせた。
 「鬼が泣くんじゃないよ。楽しければ笑って、気に入らなければ笑い飛ばして、そうやって生きる為に私達は鬼になったんだろう」
 「馬鹿を言うな、涙なんて鬼に成った時に枯れて果てた。他人を思う心など、鬼には必要ない。ただ、自分の欲望のままに力を振るえればそれで十分に満足だった。だから、今の私はきっと……、 ”鬼ですらない何か” だ。笑うなら笑ってくれ、私の友人。最も誇り高き鬼。お前にはその権利が有る」
 「……遠慮するよ。最も力強き鬼。私は ”先に戻る” よ。あんたは ”そこでゆっくり” していきな」
 勇儀と萃香は、数百年にわたり共に戦い酒を酌み交わして来た親友同士。両者は両者の胸の内を既に理解し終えている。故に、言葉に出すのは最早確認ですらなく唯の結果。勇儀はその表情を必死に取り繕う。それは、せめて友人に見せる最後の顔は強くあろうと言う無駄な試みだった。
 「……そうか、すまない。達者でな」
 「……お前さんこそ。風邪、ひくんじゃないよ」


 ざぁざぁ、ざぁざぁと降り続く雨の向こう側に小さな背は消えていく。それを呼びとめる権利も言葉も。何一つ勇儀は持ち合わせてはいなかった。
 翌々日まで降り続いた雨の後。溶岩の河が固まりすっかりと潤いを取り戻した大地に、伊吹萃香の姿はどこにも無かった。この日以来。彼女を地下で見た者は誰一人として居ない。彼女が今何処を彷徨っているのか。誰一人としてそれを知る者は居なかった。


 からりと晴れた地獄の昼。
 廃墟群にはからからと童の遊ぶ声が流れていた。


 ――そして、時は流れて。



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 隆盛 -reach one's peak-


 がたりがたりと揺れる車窓。座り心地の良くない固い木製の長椅子に並んだ二人は、流れる景色を眼で追っていた。体に感じる慣性。前に引っ張られる様な感覚と共に列車が停止する。駅の看板に見えるのは、『金剛骨処区』三丁目の文字。目的の駅はここから更に三駅先。
 がたりごとり、とその小さな箱は揺れている。かんかんとなる警告の音。窓に嵌まっているのは、シリカで作られた透明の板。その向こう側ではセルロイドカバーの付けられた紅い光が交互に明滅をしていた。閉まった踏み切の前に立つのは、壮年の小鬼。人当たりの良さそうな顔をしたその男に燐が窓から手を振る。小鬼はおおらかな笑みを浮かべそれに手を振り返す。それを受けてはしゃぐ燐を見て、空は思わず破顔した。
 しゅるしゅると鳴るのは列車の先頭にある、妖力可動式 ”蒸気” 機関。彼らが乗っているのは国鉄D五一形蒸気機関車。外の世界ではデコイチと呼ばれ、親しまれた蒸気機関車である。機関車はシリンダーから吐き出される力強いノートを轟かせ、騒がしい ”旧都” の中を鋼鉄製のレールに沿って駆け抜けた。
 「切符を拝見します」聞き取りづらいくぐもった声で空と燐の乗る車両に車掌がやってくる。この車両には空と燐以外の誰も居ない。革靴が固い音をさせながら二人の下へと歩み寄って来た。
 燐がくしゃくしゃに曲ったチケットをポケットから二枚取り出す。改札鋏を手にした男は無言でそれを受け取る。ぱちりと小気味の良い音をさせてそのチケットに鍵型の穴が空いた。小さく礼をして後方の車両へと移る車掌。
 その姿を見届けた空が、ポケットからブリキの缶を取り出した。からからと乾いた音がするそれを振り、中から飛び出て来るのは二つのドロップ。青とピンク色の透き通ったびいだまの様な塊を隣に座る燐へと差し出した。ピンクのびいだまをつまんだ燐がそれを口に運ぶ。同時、燐の顔が渋い物に変化した。
 「む……、騙したね。これハッカじゃん」
 「私のもハッカだよ。色が違うだけ」
 己の食糧を食む様子を見る空におかしな点は何一つ無い。ただ、それが自然であるように渋い顔をする燐を笑っているだけである。鼻に抜けるハッカの香りを楽しみながら空はまた外の景色を眺める作業に戻るのだった。
 両脇にそびえる高い鉄塔。張り巡らされた太く複雑な鉄管。彼女らの乗る列車と同様の素材で作られたそれらは、幾らかの錆が散見される物の朽ちた様子は無い。鈍く黒い輝きを放ち、その都市を形成する一部となっていた。
 彼女らを包む音が変わる。レールの継ぎ目を通る時の縦揺れとは異なる不規則で大きな横揺れ。一際大きくなったその音は、彼女らを乗せた機関車が通る鉄橋に由来する。
 あえて揺れる事で衝撃を逃がす構造を持つ鉄橋は、都市の中に存在する大きな河川に掛けられていた。鉄橋の下を流れるのは ”黒い河” 。だが、黒いのは水では無い。寧ろ透き通っているが故にその水は黒く見えている。川底に溜まる黒い溶岩石が済んだ水を通して黒く水面を染め上げているのだ。
 それはかつて溶岩河川であった物。あの日。地下世界の分水嶺となったあの日に降り注いだ多量の雨によって固まった溶岩のなれの果て。地下大空洞へ流れ込む幾つかの水脈の水を引き込む事で、現在は都市全体へ水を廻らせる用水路としての役を果たしていた。
 かりり、と飴を噛み砕く音が響いた。燐が目を瞑り鼻に手を当てている。強いハッカの刺激に耐えているのだろう。外では列車が鉄橋を渡り終わり開けた土地を駆け抜けていた。急激に開けた視界には、天蓋のアマテラスが良く映える。
 此処は ”旧都” 。地下大空洞にかつて建造され、そして朽ち果て廃墟群と呼ばれた場所。
 液体として廻り始めた ”水” と、霊脈から湧く無尽蔵の ”霊力” 、豊富にとれる ”鉱石” 。これら奇跡とも呼べる資源に裏打ちされた地霊殿の復興計画と鬼と土蜘蛛の協力により、廃墟群はかつての都としての姿を取り戻していた。だがそれだけでは無い。かつては無かった豊富な霊力と言うエネルギー資源は、旧都に更なる発展段階を迎えさせる。
 上空を見上げる。そこにはかつての様な弱々しい光は存在しない。上空の人工太陽は直視する事が難しい程に眩く輝く。河城みとりから引き継ぎ、研究を行っていた旧都の妖怪の一部が生み出した技術に寄り随時改修が行われているからだ。現在のアマテラスには最先端技術。 ”放電現象” と、新規に発見された物質 ”キセノンガス” を利用したランプが搭載されている。地上の太陽に限りなく近いと呼ばれたその光は、地下に植物を生やすと言う奇跡を為すに至った。
 地平の彼方へ眼を凝らす。空洞壁面内側にきらりと輝くのは、石英ガラスにより形成される巨大半球ドーム。真空状態の保たれる内壁は、地下空洞が隣接するマントルからの熱供給を極限まで遮断する。改良型間欠泉の排熱システムと合わせて、現在の地下の気候は地上とほぼ変わらない水準にまで回復をした。
 街中に眼を戻す。乱雑に並ぶ真鍮の壁と鉄管の森がそこには広がっている。あちこちに灯り取りのガス灯と、のんびりと行き交う鉄の馬が森の合間を埋める様に点在していた。それは地上の世界で百年程前に起こった産業革命にも似た現象。古風な外燃機関によりけん引される文明の発達は、留まる所を見せなかった。
 幾つかの駅を超えて、列車は目的の場所へと到着する。ゆっくりと開く列車の扉から駅のホームへと降りると刺すような冷たい空気が肌に纏わりついて来た。ホームの階段を降り無人の改札を通る。
 無人の改札を通り出た先に広がるのは雑多で無骨な家屋の森。様々な看板と、街灯の灯りで装飾された森の隙間を縫うように張り巡らされているのは、エルボによって繋がれた曲がりくねった鉄管。霊力を輸送用の鉄管は鈍い黄色混じり。家屋の紅煉瓦に鉄管の黄が融け込む光景は美しくもあり重厚でもあった。
 駅前の広場に出た燐は、はぁと、手に白い息を吐きかけた。空からはしんしんと白く、ふわふわと軽い雨が降り注いでいる。それは、石畳の地面に落ちると即座に黒い染みへと姿を変える。 “雪” 。地上ではそう呼ばれる氷の結晶による雨は、技術革新のもたらした奇跡の一端。
 「さむ……」
 郊外に位置するその場所は建物の隙間から地底の果てが覗いている。空の瞳に映るのは遥か遠方の巨大間欠泉に併設された熱交換システム。改良された排熱機構は、地上の冷えた空気をそのまま地下へ届ける事によって季節すらも再現をする事に成功した。
 「なんか、 ”寒い” って思ってたより気持ち良くないねぇ。肌もカサツクしちょっと期待外れかも」
 「そうだねぇ。でも、ま。 ”これ” のおかげでそんなに辛くないし。何より長い人生、偶にはこう言うのも悪く無いんじゃない?」
 「私より若い癖に」
 「人型になってからの期間は私のが長いけどね」
 悪戯っぽく笑う空は、冷たく凍えた手を袖の内側へと入れる。感じるのは二の腕の柔らかな脂肪の感触と温かな体温。さとりにあつらえて貰った防寒着に再び感謝しながら空は腕をさすった。
 二人が身に纏っているのは冬用の防寒着。彼岸の技術によって作られた保温性の高い生地は、これまで寒いと言う概念が無かった彼らには必須の道具であった。空が羽織るのは何時もの白いシャツの上に紺色のブレザー。そして、燐が着ている何時もより厚手の生地のワンピース。妖力により作り出された衣服の上に付加する形で着用するそれらは、機能性、デザイン性と相まって妖獣達の中でも非常に好評な品々だった。
 「まぁ、飽きないのは確かだね。別に今に限った話でもないけど」
 「知ってる? さとり様ったら、最近文通に凝ってるらしいよ」
 「あの最近雑誌で流行り始めた奴だっけ? 直接話せば良いのにねー」
 旧都の発展に伴い地上の人や妖怪を真似る者が続々と出始めた。その中でも最も早くから始まったのが週刊誌の発行である。鴉天狗が行っていた瓦版を集合させたような物で、多くの者が思い思いの瓦版を持ち寄って冊子として毎週発行している。巻末に載せられた文通コーナーと呼ばれる手紙をやり取りする為のスペースでさとりは偽名――当人はペンネームだと主張する――を用いて、多くの住人と手紙のやり取りをしている。その相手の多さと話題の豊富さから、今ではちょっとした有名人だ。
 「ま、さとり様が楽しそうだから私は良いよ。夜遊びに行っても相手にしてくれないのはちょっと寂しいけどねー」
 「ばっか。夜に遊びに行くのが悪いのよ。私みたいに昼間に遊びに行けば良いのよ」
 「昼間は焦熱地獄のメンテナンスが忙しいの」
 「じゃ、朝?」
 「私、朝は苦手で……」
 姦しく路地裏を歩いて行く二人の脚が停まったのは小さな雑居ビルの前だった。ゴミと鉄管に半分以上塞がれてしまった入口を屈むようにしてようやく潜る。四階分程階段を昇った所で、昼間だと言うのに薄暗い灯りが漏れる小さな入口が見えてきた。
 ドアノブに掛かる “open” とグランジ加工の筆記体で記された札。使いこまれ、錆ついたドアノブを捻り燐と空は中へと入った。カラカラと言う鈴の音と共に「いらっしゃい」と愛想のよい笑みを浮かべ奥座敷に座っているのは壮年の男性の姿をした妖怪。
 「やぁ、ご主人。お久しぶり」
 「お空ちゃんか。久しぶりだね煙管の手入れかい?」
 「そ、何時も通りよろしくお願いするよ」
 懐から麻布に包まれた小包を取り出す。受け取った店主がそれを開くと中から出てきたのはシンプルながらも随所に意匠を凝らした細工が刻まれる煙管であった。真鍮製の管はヤニでくすんではいるものの傷一つない。丹念に使いこまれた物だけが発する一種独特の輝きを放っていた。
 旧都が復興して間もなく流行したのが喫煙文化である。一部の妖怪が保管していたタバコの種子から栽培に成功し、それはアウトロー気質の多い旧都住人に一気に普及した。特に若者には煙管に凝った装飾を施す事が流行り始め、それは空も例外では無かった。
 カウンターによって区切られた作業スペース。店主が傍らに置かれていた小型のボイラーに、バケットを用いて石炭(コークス)を放り込んだ。霊力が主流とは言っても、小規模な燃料として豊富にとれる石炭は重宝されている。この店の店主も ”燃焼" による灯りと熱に思い入れのある人物だった。間もなくかんかんとう独特の音が静かな店内に鳴り始めると、ピーと言う高い音が店主のいる方向から響いた。小型のボイラーから伸びる管を操作する店主は白い湯気を煙管に通し、内部のヤニを丹念に洗浄していた。
 壁際に設置された椅子に腰かけ、自慢の煙管が生まれ変わる様子を満足気に眺める空。少々つまらなさそうな燐は、その暇を潰す様に店内を見渡した。
 天井から釣り下がる装飾過多なシャンデリア。壁に掛けられた金属を一切排除した形状のカラクリ時計。壁際に並べられた箱の中には、紅茶の葉から甘草の根まで雑多とも言える程に所狭しと商品が陳列されている。その中でも店主の思い入れが一番強いのか、事煙草用具に関しては整頓されたショウケース内に入れられていた。中に並ぶ、様々な装飾の施された煙管。刻みタバコを使用するそれは現在の旧都の主流な喫煙道具であり、最先端のファッションの一つであった。
 「そんなのの何が美味しいのかなぁ」
 「こういうのはね、美味しいとか、不味いとかじゃないの。そうね……、要は意気かどうかって事よ」
 「はぁ、そう言うもんなんかね……」
 不満げな表情を浮かべる燐。煙草にはあまり良い思い出が無い。空に勧められかつて一度だけ煙管を咥えた事のある燐だったが、バニラの甘ったるい香りが合わず直ぐに吐き出してしまった。それなりに高級な葉であったようで、その後暫く空が不機嫌になったのが忘れられないのだ。
 暇を持て余した燐が、木箱に入れられた煙草の葉を指先で突く。店内に置かれている煙草用品は煙管だけでは無い。噛みタバコ用と記された煙草の生葉。水煙草用の巨大な器具。嗅ぎ煙草用のペレット。多種多様な形態のタバコが旧都では楽しまれている。
 「はは、お嬢さんにはまだ早いのかもね。でも、無理して吸う様な物じゃないからね。それで良いんだ。掃除にはもう少しかかるからね、暇だったら ”それ” でも食べていると良い」
 笑いながら店主が指さしたのは、棚に置かれた巻煙草ケースに模した紙箱。 “シガレット” と書かれた箱を開くと中には紙巻き煙草に模した棒状のラムネが入れられていた。はむりと口に含むと、僅かにメンソールの清涼感が鼻へと抜けた。
 「ねぇねぇどうかな。あたい、意気に見えるかな?」
 「ふふっ、まぁまぁってとこかな。五十点位」
 ラムネを咥えた燐が自慢げに空へとそれを見せつける。
 煙草を吸うジェスチャーをする様はユーモラスですらあったが、あえてそれを言う事は無かった。
 しゅるしゅると言う蒸気音の掠れと共に店主が磨き上がった煙管をクロスで拭う。ヤニ汚れが取れ、一点の曇りも無く磨き上げられた真鍮は黄金と見紛わんばかりに輝きを放っていた。空は店主からそれを受け取るとしげしげと相棒の姿を眺め悦に入る。良い笑顔で「ありがとう」と言うと、煙管用に新たに刻み煙草を買い足して店を後にした。


 しんしん雪が降り続く屋外は、ボイラーで温められていた店内との温度差で一層肌寒く感じる。通りの向こう側では自動車の下で猫が降り注ぐ雪を物憂げに眺めていた。
 通りに置かれたベンチに腰掛ける。空は懐から先ほど磨き上がった煙管を取りだし、先端に刻み煙草を詰め込んだ。
 「さぁ、調子はどおかなっ……と」
 雑誌社の簡素な広告が印字されたマッチ箱から一本を取り出すと、ベンチの背に軽く擦りつける。黄色い炎に包まれたバードアイを手で覆い、そっと煙管の先端へ這わせた。
 紫煙がくゆり燐の鼻を擽る。仄かにバニラの香りが混じる煙りは傍に嗅ぐ分には心地の良い物である。
 手寂しい感情。何の気なしにポケットを漁る燐は、かたりと紙の箱に指先が当たる感覚を覚えた。取り出した箱に書かれていたのはシガレットの文字。燐は先ほど店内で貰ったお菓子を持ってきてしまった事に気付き、返しに行こうと思った。……が、辞めた。箱から一本のラムネを取り出し口に咥え、空と同じようにただ、口内でその味を楽しむ事にした。
 「あぁ、良い。とても良い。上出来だ」
 「うん、悪くない」
 雪が空間を支配する都は、普段からは想像もできない程静寂が満ち溢れている。時折聞こえて来る機関車の鼓笛と、通り過ぎる車のエンジン音以外に何も音らしい物は存在しなかった。
 「そう言えばお空ってさ、何で煙草吸おうとか思ったの?」
 「……忘れたよ。けど、多分私の事だからカッコ良さそうとかそんな理由だよ。きっと」
 「ふぅーん」
 空が煙管を持ち始めたきっかけを燐は知らない。ある日気がつけばそれが当り前であるかのように煙管を燻らせていた。何度も ” 嘔吐き” ながら煙管に口を付ける空に滑稽な印象を覚えた事を燐は良く覚えている。
 「ま、お燐にはまだ分かんないかもね」
 苛々する程に整った横顔で煙管を咥える空。ふるりと震える瑞々しい唇は、うっすりと紅が指され女性らしい柔らかさを演出する。艶のある黒髪も毎朝不器用な手つきで櫛を通した結果である事を燐は知っている。全身から感じる仄かな色気。余裕のある表情は達観した空気を押し付ける様で無性に癪に障る。何かを思いついたようににやりと笑った燐は、空が深く煙を吸い込んだ時を狙って口を開いた。
 「お空、最近ちょっと可愛くなった?」
 八割の悪意を籠めて放った言葉。案の定盛大にむせる空。灰を吸い込んだのか激しい咳を繰り返す空の背を、燐は乱暴にさすってやった。
 「何いきなり言っているのさ、こんな所で昼間っから煙草吸っているような女捕まえて」
 「火、落ちそうだよ」
 それは久しく見なかった空の取り乱した表情。燐の言葉に頬を桃に染めた空が明後日の方向を見て反論した。
 「知っているよ。最近一人で化粧の練習をしてるの。その紅だって随分良いのを使ってるじゃない」
 「嗜みじゃない、それ位」
 「前は何もして無かった癖に」
 「化粧道具なんて前は手に入らなったじゃない」
 「その煙管だって、空にしたら随分凝ったのじゃない?」
 「勧められたのをそのまま買っただけよ」
 「…………」
 「…………」
 続く沈黙。決して目を合わせようとしない空。俯く空の顔をベンチから背を逸らせるようにして覗きこむと、真っ赤になった友人の顔がそこにはあった。
 じっと、目を見つめる。
 目線を逸らされる。
 更に目を合わせる。
 また逸らされる。
 不毛なやり取りを散々繰り返した末に、ようやく観念した様子で空はふうと息を吐いた。
 「何よ、好きな人でも出来たの? 誰、焦熱地獄の整備班の誰か?」
 「おっさんばっかりじゃない」
 「そう言う趣味もあるでしょ」
 「少なくとも私は違う……。でも、 ”恋” じゃない。 ”これ” はもっと違う何か。――気付いてる? 最近私達の仕事、変わって来たって」
 若干の気まずさ。言葉の真に意味する所を悟ってはいながらも、表面的な言葉が自らの心を痛ませる。燐は曖昧な笑みで言葉を返す以外に選択肢が無かった。
 「それは、 ”あたい” と ”お空” で少し意味が違うと思うんだけど……」
 「それもそうか……、私ね最近思うの。純粋な意味で私達はさとり様の ”ペット” に近づいているって。お小遣いも、お食事も、寝床も全部貰える。仕事はと言えば焦熱地獄の天窓を開ける位。以前みたいに交渉事や、さとり様の代理で旧都に赴く事は少なくなった」
 地霊殿の運営は最早妖獣達の手で全て行われている。旧都の復旧が鬼の手で行われ、焦熱地獄管理も空を筆頭とする力のある妖獣で賄われるようになった今。殆どのさとりのペット達は交代制で家事を行う以外は、気ままな暮らしを送っていた。
 「仕方ないよ。 ”政治” なんて難しい事。私達には分からないもん」
 「私なんかが……、さとり様の心配をするなんておこがましいとは思うんだけど……。それでも、なんだかさとり様一人にいろんな事を背負わせている気がするの。だから私思ったんだ――」
 強い眼差しが燐へ向けられる。決心するかのように息を大きく吸う空はゆっくりと、しかしはっきりとした大きな声で宣言した。
 「私はさとり様の ”ペットじゃ嫌” だって」
 「…………」
 それは、さとりへの裏切りとも取れ兼ねない言葉。しかし、そこに込められているのはあまりにもかけ離れた別の感情だった。
 「半分で良いから ”背負いたい” 。助けになれなくてもその痛みを共有させて欲しい。ペットなんて片利な関係じゃもう耐えられない。私はさとり様の ”家族” になりたい。だから、その為にさとり様に恥じない存在でありたいと」
 「馬鹿だね、それを恋って言うんだよ。……だったらもっとストレートにそう言ったら良いじゃない。 ”一生お傍に置いて下さい” ってさ」
 「S.A.Wとは違う。何処でも何時でも擦って火が付くなんてそんなインスタントな感情では必ず後悔する。恋から何かを生み出すには火力が低くても持続しなけりゃ意味が無い。ちょうどその辺の出来の悪いボイラーにくべられているみたいにね。だから私は、こんな回りっくどい事をするの。例えそれがさとり様に筒抜けでもね」
 「あぁ、筒抜けだろうね。よくさとり様も赤面しない物だよ。そんなこっぱずかしい事。四六時中聞かせられ続けたら、あたいならまともに顔も見れないね」
 聞いている燐が赤面する程の愛の告白。色恋沙汰に疎いと言う訳では無いにも関わらず、目前のそれは、普段とのギャップも相まってとても直視できた物では無かった。しかし、そんな真っ直ぐな様は羨ましくもあり眩しくもある。何処か冷めた目で成り行きを見つめる事が多い燐には、尚更であった。
 「我慢してるんだよ。これでも。さとり様の前ではね。極力意識しない様にしてる」
 言いたい事を言い終えたのか、ふぅと息を吐いた空。その表情には当初の煮え切らない様な色は無く、むしろ清々しい様子ですらあった。その時に遠方から響いたのは時間の経過を告げる二度目の汽車の警笛。懐中時計で時間を確認した空は、予想外に過ぎてしまった時間に少し慌てた様子を見せた。
 「変な話をしちゃったね。行こうか、早くしないとお店閉まっちゃうかも」
 「駄菓子屋のおばあちゃん、お昼寝好きだもんねぇ」
 二人はゆっくりとベンチから立ち上がると、雪の降る街を歩き始めた。

隆盛挿絵



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 案の定閉店してしまっていた駄菓子店を後にした二人は当てもなくぶらぶらと旧都の街を歩く。次々と新たな店が現れては消えるこの街は一時として同じ姿を見せず、いつ来ても新たな発見が有った。その人物と二人が出会ったのは、車の行き交う大通りの歩道での事だった。
 「よぉ。久しぶりじゃないか。お空にお燐。元気にしていたか?」
 「勇儀姉さん、何時もお疲れ様です」
 「……お久しぶりです。勇儀さん」
 額から生える一本角。数名の鬼と一人の目深にニット帽を被った女性と歩く勇儀は、以前着ていた物よりは幾分か上質な生地で作られた和装を着流していた。快活な笑みを浮かべる勇儀とは対照的に、物言いたげな苦い表情を浮かべる空。それを庇うように燐は自然な動作で空の前に一歩出ると、何時もの人懐っこい笑みを勇儀に向けた。
 「今日も見回りですか?」
 「いや、少し違うさ。ちょっと南の方のドームが破損したらしくてね。資材が足りないってんで状況を確認しに行く所さ」
 「はぁ……、またですか」
 「そう、 ”また” なんだよ。恥ずかしいながらね。全くあの馬鹿どもは」
 からからと豪快に笑う勇儀の隣で、付き人らしき鬼達は頭を抱えている。それも当然の事である。彼女は、現在の旧都の代表者。付き人の彼らも含めて、財政を管理する当事者である。
 「笑い事じゃないですよ、幾ら水晶が潤沢に取れると言っても生産量に限界はあります。洒落にならん無駄遣いですよ」
 「んなもんおめー。子供が元気過ぎて悪い事なんて何も無い。それに私達が言っても仕方居ない事だろう。都の教師にでも文句を言うんだな」
 そんな鬼の心配を勇儀はあくまでも笑い飛ばす。一見無責任にも見えるその行動。しかし、無用な心労を掛ける必要は無いと言う彼女なりの配慮である。一見粗暴に見えるが内実は繊細その物。そのアンバランスとも言える彼女の気質は指導者としてこの上なく都合のよい物だった。
 自分勝手に見える発言も、破天荒な行動も、全ては廻り廻って旧都の為になる。そう周囲を納得させられるだけの実績は彼女の背後にそびえ立っている。だからこそ彼女は有能な指導者として旧都の尊敬を集める事に成功していた。
 地霊殿と連携して統治を行う勇儀は空とも会う機会が多い。故に、本来なら友好的に接しなければいけない存在の筈だった。にも関わらず現在空が顔を曇らせているのは、単に初対面時のトラウマ故である。
 「それにしても。だ。全く、お空にはすっかり嫌われてしまったな」
 「……申し訳有りません。頭ではもう理解しているのですが、それでも感情まではそうは行かず」
 「正直なのは良い事だ。さとりの所のは誰も嘘をつかないから好きだぞ。いつかな、また喧嘩をしよう。私を打ち倒せるほどの力を持って、全力で喧嘩をするんだ。そうすればその胸のわだかまりもきっと溶けるさ」
 ぐらりと、勇儀の体が後ろに引っ張られる。襟首を掴んで勇儀を睨みつけていたのは、彼女の傍にずっと立っていたニット帽の女性だった。
 「喧嘩するのは勝手だけど、あんたの全力は ”盃” までよ。それ以上は許さないから」
 「分かっているよ。パルスィ」
 パルスィは目深に被ったニット帽と揺れる前髪の隙間から鋭い視線を突き付ける。勇儀の補佐役として常に傍に控えるパルスィは深入りし過ぎるきらいのある勇儀を上手く調整するストッパーとして活躍していた。
 「死なない程度に抑える。たったそれだけを守るのに面倒臭いルールが必要なんて。だから鬼は嫌いなのよ」
 「ははは。済まないな。偶には鬼らしい事を言ってみたかったんだよ。在り方が変わっても振るう力と能力は変わらない。そう言うどうしようも無い奴が鬼になるんだ。こればっかりはどうしようもないし、どうするつもりも無い。それにいざという時はパルスィが止めてくれるんだろう?」
 「あんたみたいな馬鹿を放っておけないだけよ。妬ましいわね……」
 パルスィの顔に浮かぶのは恍惚に歪む憎悪の表情。最早一種の名物とも言えるパルスィの様子に背筋に薄ら寒い物を感じた燐は、話題を変えようと口を開いた。
 「で、今回はどの位壊れたんですか?」
 「一区画全部さ。何せ範囲が広くて、応急修理も間にあわなかった。脱気もし直しだねぇ」
 「硝子工場の奴らが泣くわね」
 「こればっかりは頑張って貰うしかないさ。別の形では報いるとしてね。……みとりが手伝ってくれれば随分楽なんだろうけどねぇ」
 「みとり……。駄目ですよ。無理に手伝わせたって意味なんて無いですから」
 「それもそうだ。何より引き籠りの河童に鬼はちと刺激が強いだろうしな」
 燐と空は顔を見合わせる。みとりがドーム建設の原案を作った事、アマテラス建造の指揮を執った事は一般には公開されていない。それは鬼も例外ではない。彼女は最初にこう言った。「私は居なかった事にしろ」、と。


 みとりが消えたのは、突然の事だった。始まりは素晴らしき雨の少し後。打ち上げの成功を祝って工房付近で遊んだ後の事だった。
 「もう二度と来るな」
 突き放す様にそう言い放つ彼女の顔に浮かんでいたのは鬼気迫る物。今にも出て行けと叫びださんばかりに目を血走らせた彼女はしかし、すぐに冷静さを取り戻した。なんとか思い留まらせようと口々に説得の弁を述べる二人。ただ曖昧な笑みを浮かべるだけのみとりにその言葉は届かなかった。みとりの周囲に発生する強烈な妖力の流れ。物理の定理も化学の法則も全てを無視して瞬く間に作りだされた莫大な反作用は二人の前に歴然と立ち塞がった。


 次に気がついた時には既に洞窟の外。能力によって閉じられた洞窟が再び開かれる事は結局無く、二人はそれ以来みとりと会っていない。みとりの事は案じながらも能力により近付く事すらままならない今の状況では全くもってお手上げ状態であった。
 当時の事を思い出しナーバスな気持ちが押し寄せる。曖昧な笑みでお茶を濁そうとした所で、慌てた様子の男が勇儀の元に駆けつけた。衛兵らしき妖怪は息を切らしながら勇儀に報告する。とぎれとぎれの言葉の中、少し離れた位置に居た二人にもはっきりと聞こえた言葉が有る。 “怨霊” とそして ”暴走事故” 。目の色が変わった勇儀は、慌てた様子で燐の肩を乱暴に掴むと真剣な面を燐へ向けた。
 「お燐。状況は最悪だが ”お前が今此処に居てくれた事” は僥倖だった。頼む、霊力プラントに向かってくれ。――一刻も早くだ」
 「……また、事故なんだね。分かったよ。でも脚はどうするの? 此処からじゃ碌に飛べやしないよ」
 現在の旧都は飛ぶに辛く駆けるに易い構造をしている。限られたスペースを有効利用する為に立体的な都市開発が行われた結果。入り組んだ霊力輸送用の配管と無数の渡り廊下が妖力翼の展開を阻害するからだ。現在の旧都で最も高速なのは ”機関車” とそして、 ”自動車” である。
 「大丈夫だ。その為に私達は居る。パルスィ」
 「……遅い。もう来たわ」
 狙った様なタイミングで通りの向こうから猛然と突っ込んでくる一台の自動車。外の世界で名を馳せるT型モデルに似た車体は白煙を上げ彼らの前に停まった。運転席と座席の扉が開く。そこで不機嫌な顔をするのは、やはり ”水橋パルスィ” だった。二人のパルスィは小さく頷くと、運転席のパルスィがすっと消え代わりに勇儀の傍にいたパルスィが車に乗り込む。「乗りなさい」と目線で促された二人は押し込まれるように後部座席に乗り込んだ。
 トルクに大きな難のある気取った車体は、三人を乗せただけで車体が大きく沈み込む。しかし、パルスィはその事を気にした様子は無い。運転席から身を乗り出すと、何時の間にか後ろに立っていた勇儀に声を掛ける。
 「勇儀、加減しなさいよ」
 「分かっている」
 車の行く先にあるのは、郊外へと続く只管に真っ直ぐな直線道路。都市の大動脈であり、車の行き交うそこは常に多くの人で混雑をしていた。
 その道に向かい、勇儀は何度か大きく深呼吸をする。何度目かの呼吸の後、鬼の口がただ無造作に開かれた。瞬間。指向性を持った衝撃波が大気を轟かせる。一拍遅れて届く壊滅的な咆哮が郊外へと続く道を行く車を次々と跳ね飛ばしていった。
 「前方、障害物なし! 怪我人多数」
 「後で謝罪は手伝ってくれ。だから、責めて言い訳はできる様にしてくれ」
 「無論よ」
 「歯を食いしばれ、何かに掴まれ。安全の保証は出来かねる」無責任な言葉と共に車が勇儀の能力によって押し出される。十割の力を推進力へと変換する奇跡的な暴力は、車を一つの弾丸へと昇華した。
 一条の流星は、音をも置き去りにしてただ真っ直ぐに旧都を駆け抜ける。都市の動脈を抜け、橋を渡り、間欠泉の傍を抜ける。荒野を行き、やがて見えるは噴煙の上がる建造物。場所は旧都の郊外。建物も無く、ただ未整地の荒野だけが広がる空間にぽつんと存在する霊力プラント。霊脈の上に建てられたそれは、無間に湧きだす霊力を精製し旧都へ送り出す役割を担っていた。
 プラントまでは数百メートルはあると言うのに、その恐るべき咆哮は彼女らの耳にも届く。窓から吹き込む風に燐の紅く長い髪が揺れる。その ”声" を聞き取った彼女はその窓から大きく身を乗り出した。
 「私、先に行くね。お空も後で皆と一緒に来て」
 「分かってるよ、気を付けてね」
 ひらりと飛び降りた燐はそのまま着地せずに地面を滑る様に高速で飛行した。妖怪とは本来空を飛ぶ物だ。人の理から外れ、その夢と幻想の間に生まれた彼女らは宙に浮き空を飛べる。飛ばない者は居ても、飛べない者は居ない。風を切り弾丸のように空を駆ける彼女は瞬く間に、プラント上部の排煙設備まで到達した。
 雪交じりの風が吹きつける鉄塔の中腹。その排煙装置に絡みつくのは怖ろしく肥大化した怨霊だった。より正確には怨霊 ”だった” 物である。
 数は十に達するだろうか。その魂の容量の限界を超えて吸収した霊力に振り回されるしゃれこうべは、苦しげな呻き声を上げる。その全てが完全な暴走状態。周囲の建物に突っ込んでは鋼鉄製の柱を飴細工のように曲げて行く。
 その様子から意識らしい物は微塵も感じ取れなかった。
 だが、燐だけは違う。その悲鳴とも咆哮ともつかない不明の呻きを、彼女だけは聞き分ける事ができる。その四つの耳を総動員し、雑音としか思えなかった音波を分析する。ようやく辿り繰り寄せたのは、ほつれの先にも満たない意識の一端。襲い来る怨霊を軽い身のこなしで交わした燐は、その怨霊の一体へと肉薄した。
 「そっか……、寂しかったんだね」
 場違いな程に優しい声。「大丈夫だよ。あたいは此処に居る」そんな燐の呟きに答える様にして一体の怨霊は燐に憑き従った。同様に次々と怨霊を沈めて行く。争いと苦悩の化身が、ただ平和的に隷属する。それは通常ならば、怨霊の存在に真っ向から反する事。だが、燐にとってだけは自然な事だった。
 だが一際大きな一体だけは、頑なに燐に憑こうとはしなかった。それどころか、その怨霊は燐へ激しい攻撃を加え始める。その全てを紙一重でよけながら、後方へ大きく飛んだ燐は少し離れた建物の屋根に降り立った。
 「そうか、君は力を示さないと話を聞いてくれないんだね。それなら――」
 燐の周りに新たに数体の怨霊が顕在化する。周囲の気に紛れて燐の体に潜んでいたそれらは、燐の言葉に従い呪言に添ってその力を振るう。一糸乱れぬ動きで巨大なしゃれこうべを翻弄する怨霊。ついに、そのしゃれこうべを拘束せしめた怨霊達は燐の呪言によって再びその身を隠した。
 「知っているよ。君は ”寒かった” からここに来ちゃったんだよね。大丈夫あたいと居れば暖かいから」
 それは、燐が小町から教授を願った物。妖怪として定義された時に与えられた力とは根本的に異なる物。旧地獄に住む妖怪の中で唯一燐だけが使える、とっておきの ”技術” である。
 大人しくなった怨霊を燐はそっと抱きかかえると、優しく飲み下す。間もなくして無駄な霊力を放出した怨霊が口から飛び出すのと、空達が駆け付けるのは同時の事だった。
 鉄塔の下で空が大きな声で此方を案じている。見に纏わせた妖力を解き、軽くスキップでもするかの様に身を空中へと投げ出す。背筋をぴんと伸ばし頭から地面へと落ちる燐は、着地の直前で頭を丸めこみ衝撃を横ベクトルへ逃がす。美しく五点着地を成功させた燐は、はたはたと服の裾を払った。
 「……かっこ良かった?」
 「十分よ。惜しいのはそれを自分で言わなければ完璧だったわね。さぁ、後は皆に任せて早く帰ろう。晩御飯の時間だ。さとり様が待っている」
 小さくピースをする燐。その横顔は紛れも無く、仕事をやり遂げた者が見せる誇らしげな顔。その姿に嘗ての自分の後ろを付いて来るだけだった燐が重なる。その成長を嬉しく思う反面ほんの一滴灰色の感情が混じった……、気がしたが空はあえてそれを無視した。「帰ろう」そう言って振り返った荒野から視る黄昏の空は、作り物は思えない生命の輝きに満ち溢れていた。


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 昨日まで続いた日常が明日も続くなんて神でさえも保証してくれない。にも関わらず生命が楽観的に日々を歩めるのは、単に自己防衛的な精神機能の賜物なのだと思う。それは、私にとっても例外では無かった。日々を漫然と過ごす私にとっての転換点はあまりに日常的な光景の中に埋もれていた。目前のさとり様が煙管に口を付けゆっくりと煙を吐き出しながら歓談する、そんないつもと変わらぬ夕刻のある日だった。
 「暫く……、地霊殿を離れます」
 あまりにも何時も通りの自然な口調故に、理解は一拍以上も遅れて着いて来る。言葉の意味を咀嚼した時には既に二息目の煙を吸い込む途中であった。
 「なんですか、突然。出張なら着いて行きますよ」
 「少し何時もと事情が違うのですよ。……察して貰えませんか?」
 その瞳は何時もの気圧されるような強い物で。でも何処か悲しげだったからだろうか。見慣れた筈のさとり様が、今日はどうしてか酷く遠く感じてしまった。
 「嫌です。ちゃんと説明して下さい」
 瞳とは正反対のおどけた表情はまるで道化の様で。何かを塗り隠す為のワザとらしく媚を売った表情と声色は酷く不誠実に感じて無性に腹が立った。
 陶器の灰皿に煙管を掛ける。淡い桃髪で隠れた横顔が窓の外、旧都の市街地を眺めていた。
 「支部に怒られてしまいました。越権行為だと」
 支部とは十中八九是非曲直庁の事だろう。その話をする時のさとり様は、いつも決まって曖昧な表情を浮かべる。それは今日も例外では無かった。
 「どうしてそれでさとり様が怒られるのです?」
 「お偉い様って言うのは、自分の思った通りにならない事がお嫌いなのよ。だから、私はそれを謝りに行くの。ただそれだけよ」
 「ならば私もご一緒します。私もさとり様の隣で全て見ていました。さとり様に悪意が無い事の証人になれる筈です」
 「駄目よ。あなたは連れて行けない」
 レコード盤から流れるチェリストの独奏が空回りする室内で、いつしか私は立ち上がりさとり様に詰め寄っていた。さとり様に優しく肩を抱かれて初めてその事実に気付いた私は促されるままにまたソファへと腰を落とした。
 「言ったでしょう。怒られに行く、と。私の有罪は既に確定事項。ただ、その罪を灌ぎに行くだけなのです」
 「何故ですか。碌に資材も与えず、碌に指示も無く。ただ放り投げておいて、いざ自分が気にくわないと処罰する? そんな馬鹿な話があってたまるか」
 再び視界が真っ赤に染まる。これまでに是非曲直庁からの支援は最低限だった。すなはち、生きるのに必要なだけどの水と食料。後は申し訳ばかりの建設機器。焦熱地獄の再建に掛かる資材も、地霊殿補修の費用も殆どが不足しこの地で賄う必要があったさとりの行動を誰が責められるだろうか。
 「お空。落ち付きなさい。私にも非はあります。これまで報告をしてこなかったのですから」
 「それは、報告すれば中止命令が下る可能性があったからでしょう? 知っているんですよ! 彼岸の奴らが旧都の ”不法占拠者” を疎ましく思っている事位」
 現在の旧都はさとりが住人達の自治権を認め委託統治をしている形である。だが、この土地は元々是非曲直庁の物。
 仏教閥の物が神道閥に占拠されていると言う事実は、彼らにとって決して面白い物では無かった。是非曲直まで幾度か着いて行った幾度かの経験で、獄卒や映姫以外の閻魔が発する排他的な空気を空はその身で感じていた。
 「それは事態を構成する一つの要因に過ぎません。私が取るべきだった行動は上層部を説得し開発の許可を得る事。ただ、それだけ。それを踏み外したのが私の罪なのですよ」
 「でも!」
 胸の内から湧きあがる膨大な不安感はもはや理屈で言い表す事では無かった。そも、是非曲直などと言う物は数千年もの人類の歴史の中で繰り返されてきた絶対的な基準への渇望を信仰の中に求めた故の産物である。数千年物の頑固頭に愛しい主の身を委ねる等、考えただけでも腸が煮えくりかえりそうになる。
 行き場所の無い怒りを手もとの灰皿に叩きつける。微細な灰白色の粒子がふわりと宙へ舞い上がった。
 「聞き分けなさい、 ”空” 。はっきりと言います。貴女が私に着いて来てもできる事は何一つありません。それどころか、マイナスに働く可能性すらある。政治の場に貴方は向かない」
 「では私はどうすべきなのですか。何もできないなんて、そんな事は百も承知です。分かっているのに、気持ちが整理できなくて、苦しくて堪らないんです。私は馬鹿だから。分からないです。一体どうやって、この持て余したこの体と心の熱を冷ませば良いのですか?!」
 「その辺の雄とでもまぐわえば良い――、冗談です。怒らないで下さい。灰皿を置いて下さい」
 ぷるぷると震える腕を抑え、椅子へと座り込む。憎たらしい程に愛おしい主人は心が読めるくせに時折空気が読めない。
 「まぁ、貴女の子供の顔が見てみたいのは本当ですけれどね」と余計な前置きを置いてさとりは真面目な顔に戻った。
 「空、貴女はね。私の居場所になってくれれば良いの。私の帰るべき家を、 ”地霊殿” を守って欲しいの。だから、貴女は此処に残って私の居ない間皆のお世話をしてあげて。大丈夫、三日もあれば戻りますから」
 今度こそまぎれも無く、あの眼だった。一切の反論も許さずただ、隷属を迫られるかのような威圧的な瞳。中毒的なまでに蟲惑的なその眼は、私を一人の歯牙無きペットへと変えてしまう。私はただしゅんと羽を窄ませ、俯き加減で漆黒の髪を小さく揺らした。
 「良い子ね。ありがとう私の為に怒ってくれて。その気持ちだけで私は十分よ」
 「さとり……、様。私……、は」
 吐き出そうとした言葉は、無言の抱擁でせき止められてしまう。それがさとりの意志だと分かっていても、空は嬉しくて堪らなかった。せめてもの抵抗と温かく小さな主の体を強く、強く抱き返す事にした。


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 その日の夜。私は夢を見た。気がつけば、私は焦熱地獄の中に一人佇んでいた。右を見ても、左を見ても目に入るのは真っ赤な炎。見慣れた筈の焦熱地獄。けれど、一つだけ何時もと違うのは熱を感じない事。どうしようも無いのでただ歩みを進める。何かに導かれるようにかつりこつりと足音を立て進んだ先に待つのは一人の影。
 「あなたは誰?」
 「神様だよ」
 胡坐をかいた自称 ”神” は立ち昇る火柱をものともせず、マグマの上に座っている。しかし、それよりも私の眼を引いたのはそれの肩に乗っている ”モノ” だった。
 「あぁ、その通りだ。もっともお前に用があるのは、 ”私” じゃ無くて ”こいつ” なんだよ。どうしても、ここに連れてこいってうるさくてね」
 「その子は……、 ”鴉” ?」
 それが何であるのか一瞬判断が着かなかった。何処までも深く、何処までも遠い不気味で不思議な硝子玉の瞳。生命にあるまじき無生物的で、古ぼけた鋼鉄の羽。体の節々から覗く無数の歯車とクランクはてんでばらばらに回転している。
 「その通り鴉だ。地獄鴉じゃない。何処にでも居る普通の鴉だよ、 ”元々” はね」
 「その鴉が何で――、うわっ?!」
 ばさりと翼を広げた鴉が私目がけて飛びかかってくる。襲われると思い身を一瞬固くする。しかし、鴉の鋼鉄のかぎづめは私の肌を傷つけないように優しく肩を掴んだだけだった。「ただ問題なのは――」妙に体を摺り寄せて来る鴉は幸せそうにかぁと鳴く。
 「そいつが、何を間違えたのか ”神” であって、お前さんに ”惚れこんでいる” という点なんだよ」
 ぼっと、顔が紅くなるのを感じる。耳元で鴉のぎぃぎぃという歯車の音がやかましく響いた。
 「やれ、神に封じてみれば好き勝手に動きたがる。神にあるまじき落ち付きの無さだ。放っておけば置いたで、勝手にほっつき歩いて勝手に惚れこみやがる。全く身勝手な奴だよ……」
 「わ、わ、私に惚れてるって、そんな馬鹿な」
 恋は常にしているつもりだ。ただ、それは常に主人に向けられる物で、一方的に誰かから愛を受け取った事は無い。ぐるぐる回る思考をアウェアネスに引き戻したのは神の言葉だった。
 「あぁ、肉欲的な意味じゃない。安心しろ。神としてあんたに惚れたんだとよ。つまりは――、あんただけに信仰を捧げて貰いたいそうだ」
 「しん……、こう?」
 「そうだ、どうにもこいつは皆に馴染めないみたいでねぇ。でも、どうしてかお前さんだけは気に入ったみたいなんだよ」
 固く重い音を立て、翼を動かす肩の鴉。浮ついた気持ちと不気味な感触が、非日常的な現在の状況に異様な現実感を伴わせる。
 「駄目かね? タダとは言わん。こんな若造でも一応は神の末席だ。お前は桁外れの力を手に入れる事になるぞ」
 「力……?」
 「そうだ。万物の根源にしてこの世の原初たる力。 ”太陽の力" だ。貴様らの作り出した人工の ”あれ” なんぞとは比べ物にならない光がここにはある」
 私は眼の前の神を急にうさんくさく感じる様になって来た。甘い言葉を掛ける妖怪はこの地下に幾らでも存在する。そいつらは決まって眼の前の自称神の様に壮大な言葉を吐く。
 「太陽……。そんな凄い大それたもの、何処の馬の骨とも分からない地下の妖獣に渡して、一体貴女は何を得るの? このやりとりは誰が得をする為のものなの?」
 「ははっ、流石嫌われ者のさとり妖怪の部下。聡明だな。でも、こればっかりは大した理由が無いんだよ。そうだな強いて言うなら――、 ”この子” が外の世界を見る事を望んだ。ただそれだけだよ」
 「まぁ、当然。私がそれ以上の力を持っているからと言うのも事実だが」怖ろしい言葉を聞いた気がするが今は重要でない。真相をぼやかした神の言葉は私の苛立ちを募らせる。猜疑心の膨らみは自分でも感じていた。
 「答えになっていない。私に何をさせたいのかと聞いている。そして、その行動が貴女にとって何をもたらすのかを」
 「好きなようにさ。気が付いていないのかもしれないが、今のお前達の技術は地上をも上回ろうとしている。少し、こことはベクトルが違うが私も上の文明を次の段階へ押し上げたいと考えているんだよ。その為の手伝いを少しだけして欲しいのさ」
 「そんな抽象的な言葉じゃ私はどうにも判断なんてできやしない。正直言って胡散臭いよ。貴女」
 「ならば、私もお前に対して率直な言葉を贈ろう。―― ”私がどう考えているか” はお前にとってそんなに重要なのか?」
 体が竦んだ。真なるプレッシャーと言う物を初めて感じた気がする。覇王に足る者のみが持つ圧倒的な圧力は鬼の持つそれとは全く別種であって、更に桁違いだった。何時の間にか眼の前に立っていた神に顎を掴まれ、互いの息遣いが聞こえて来るほどの距離に顔を寄せられる。
 「……お前さん。力が欲しいと願った事は無いのかい? こんな力が力を支配する世界で生きてきて、唯の一度もそれを願った事が無いのかい? もしも、奇跡的にそれがこれまで無かったとしても、それがこの先にも起こらないと一体、 ”誰が” 保障すると言うのだい?」
 「……五月蠅いよ。そんな分かり切った事を物知り顔で言わないで」
 「ふふ。知っている事と理解している事は違う。もしも、この力が欲しいと願うなら――」
 火柱に吹きあげられた灰が頬に撫でつけられる。「三日後の夜、この場所に来い」小さく耳元で囁きかけられた言葉に私は思わず飛び退いた。


 鉄の鴉が地獄の海で不気味にかぁと鳴く。


 「……夢?」
 そこは、何時もの自室だった。地獄の雀が朝日を浴びて中庭で盛大に一日の始まりを告げる。隣では寒がりの燐が持参した枕で狭いベッドの上、一枚の布団に潜りこんでいた。
 「どうしたの、空?」
 寝起きの彼女は閉じかかった眼で私を見る。先ほどの体験が何だったのか未だに理解できていない。
 「……ううん。何でも無い。起こしちゃって御免ね」
 「いや、別に良いんだけどさ……」
 訝しげな彼女の視線に不自然さを感じる。不安の波に追われた私には、ただもがく様に腕を前に伸ばすしかできなかった。しかし、現実は残酷に、無造作にその大口を開く。日常の終わりの鐘は皮肉な事に、親友の口を借りて高らかに鳴り響くのだ。
 「お空。顔位は洗ってから寝た方が良いよ。 ”煤が付いてる” からさ」


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 シンプルな木目調の扉はけたたましい音を立てて開かれる。思いつめたような表情で大股に秦広王に歩み寄る映姫は真っ直ぐに目を見て言い放った。
 「どう言う事ですか、秦広王様」
 「どう言う事……、とは ”どういう事” かね?」
 執務室の机の上に叩きつけられるのは、一枚の書類。とある罪人の罪状と処分について記された是非曲直庁では極一般的な書類である。
 「私が聞かされていた事と違います。ただ、話を聞くだけでは無かったのですか!?」
 「ああそうだ。話を聞いた。そして、 ”あれ” は誠実に包み隠さず真実を話した。その上で私は功罪を差し引き、正当な判断としてペナルティを課した。……何か問題が有るか?」
 疑問を挟む事を許さない圧力。その言葉に込められていたのは最早、悪意などと言う稚拙な物では無い。あれと秦広王が口にする度。映姫は普段からは考えられぬ程黒く邪な感情が胸に渦巻く事を感じていた。らしくない。そんな事は自分でも理解していた。
 「私にその情報を回さなかった理由は何故ですか。秦広王様が直接裁かれるなど余程大きな案件に限られていました。それが、私の耳に入らないと言うのは、お言葉ですが意図的な物を感じざるを得ません」
 「私はこの支部全体の責任者だ。私の指示があれば全ての業務は行う事ができる。お前の耳に入れる義務は無いし、そんな案件はこれまでもあった。……質問の意図が明確でないぞ、四季映姫。つまるところお前は――、 ”友人の処罰を妨害できなかった事” に対して憤っているのだろう?」
 「……ッ!?」
 返す言葉が無かった。心の内を見通され、且つ明らかな失態を露わにされる。如何なる理由であれ、それは閻魔である自分に許される事では到底無かった。
 「申し訳有りません……。私情を業務へ持ちこむ等もっての他。是非曲直庁に不備などありません。おっしゃる通りで御座います。――私の過ぎたる言葉に罰をお与え下さい」
 直角に背を曲げ、唯只管に詫びる映姫。秦広王は自らの疑問に何一つ答えていない。だが、それでも自らの閻魔はこれ以上の追及を不可能と判断させた。秦広王は映姫をぞんざいな瞳で睨み、そして手で制した。
 「分かったのなら良い。お前ほどの優秀な閻魔を失うのは惜しい。――だが、同じ事が続くようなら話は別だ。行け、私は忙しいんだ」
 「申し訳有りませんでした。失礼します」
 秦広王の執務室の扉が閉じられる。溜め息が出る。掌には握り込んだ爪の後が未だくっきりと残っていた。
 肩を落とし仕事部屋へと戻る映姫。しかしその途中。映姫を待ち構える様に小町が壁にもたれかかり船を漕いでいた。
 「小町……」
 「おはようございます。映姫様」
 「私は……、少し疲れてしまっていた様です……。私情を挟む等。普段から絶対にしてはいけないと言い聞かせている筈なのに……」
 「仕方ないですよ。誰しも身内に対してはある程度のバイアスが掛かってしまう。若手の船頭にも、閻魔様にもよくある事です。映姫様の場合は近しい者がこれまで居なかったのが裏目に出た。ただそれだけですよ」
 「ですが……」
 「らしくないですよ。映姫様。貴女の仕事は偉そうに高説を垂れて民衆を委縮させる事じゃないですか。貴女のそんな姿、誰が見たいと思うんです?」
 言葉とは裏腹に小町は映姫の頭を優しく撫でる。映姫は抵抗をするでも無くそれを受け入れていた。
 「厳しいですね。小町は何時も」
 「優しくして欲しいですか?」
 「いいえ。ただ……」
 「後少しだけこうしていて良いですか」小町の胸に顔を押し付けた映姫は何をするでもなくただその温もりに包まれる。小町は何も言わずその小さな背をただそっと抱きしめ返した。


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 さとりが帰らぬ地霊殿は、拍子抜けするほどに何時もと変わりはしなかった。地霊殿の内部の事は元よりペット達で行っているし、旧都との調整は勇儀が気を効かせてくれた。さとりが居ないので、大きなプロジェクトを進める訳にもいかない。その結果訪れたのが日常以上の平穏な日常である。
 「ふわ……、おはよ……、お燐」
 「何が “おはよ” だよ。もうお昼だよ」
 窓の外には太陽が煌々と昇る。他の妖獣達は既に各々の自室や談話室で余暇を過ごしている。食堂に残り、爪の手入れをしながらラジオに耳を傾けていた燐は、寝起きの悪い親友をじっとりとした瞳で見つめていた。
 「だぁってさぁ。今日は非番だし、早起きしてもやる事なんて無いしさ」
 「そんな事言っているから、いつもいつも朝起きるのに苦労するのよ」
 「お燐が起こしてくれるんでしょう?」
 「調子に乗るな」
 やすりで削り出した爪の粉末を紙の上にこつりこつりと落としつつ、無言で台所を指さす。すっかり冷えてしまった空の為の食事が白い皿に乗せられていた。
 欠伸を噛み殺しながら、皿を運び燐の向かいに座る。皿に並べられているのは三枚にスライスされたバゲット。軽く炙られ茶色い焦げ目がついたそれにはスクランブルエッグ――地獄鴉の無性卵を使用した物――が添えられていた。
 しかし、起きぬけで動きが戻らない胃袋はそれらを収める事を嬉々として了承しない。仕方が無いので、誰かが朝に淹れたまま残っていた珈琲をカップへ注ぐ。それは当然冷めてしまっており香りも飛んでしまっている。起きぬけの頭にその苦みはうってつけの物だった。
 「お燐、何か面白い事ある?」
 「自分で読みなよ。子供じゃあるまいし」
 放ってよこされた雑誌には自由気ままな文字が躍る。字体もフォーマットもてんでばらばら。それは、各々が持ち寄った記事を中身も確認せずに纏めただけの瓦版。
 『星熊勇儀、熱愛発覚――相手は橋姫か?』分かり切った事だろう。何を今更。そう思い読み飛ばす。
 『ラジオ塔開設五周年記念式典に付随する出店申し込みについて』興味はあるが出店をするつもりは無い。
 『大焼処区 鉱石加工場怨霊暴走事故』見慣れつつある内容にうんざりしながらも、そこに目がとまる。
 「ふぅーん。また事故か」
 ずずりと啜る黒い泥の様な珈琲。それは驚くほど不味かったが、我慢して嚥下する。苦みによって脳神経が激しく刺激される事を感じた。
 「鉱石加工場か……。大焼処区は生産しているのは確か……、石英だっけ?」
 「勇儀さんまた頭痛めそうだねぇ。私も何か手伝えるかなぁ」
 「起こる前ならまだしも、起こった後じゃねぇ……。現場作業なら向こうに任せた方が早いし……」
 現行、怨霊に対する対応は鬼と地霊殿が協力して行っている。それら全てを合算しても燐の怨霊への対処能力はずば抜けての一位である。地霊殿の怨霊鎮圧能力はほぼ燐と言う一個体に依存していると言っても過言では無い。
 「ま、暫くは見回りの人員を増やさなきゃかもね。さとり様が帰ってきたら相談して見よう」
 「それもそうだね。あたいも暇な時は外に出る様にしてみようかな」
 はむり、と卵を乗せたパンを口に運ぶ。塩だけで味付けをされたそれは、あっさりとしていて胃袋への負担も軽く割合抵抗なく咀嚼できた。木製ラジオから流れる、土蜘蛛のトークをBGMに空はバゲットを口に運び、燐は爪を研ぐ。あまりお腹がすいている訳では無かったが勢いで三枚のバゲットを平らげた。重たい胃袋に辟易しながらも、意を決したように泥水の様な珈琲を口に流し込む。なるべく息をしない様に気を付けて黒い液体を嚥下した。
 「豆、変えない?」
 「買い出しの担当に言いな。安いからってしこたま買い溜めしやがって……」
 食品庫に積まれた大量の豆袋を思い出す。己の身長ほども積み上げられたアレを処理しきるのは何時のになるのだろうかと考えただけで空は頭が痛くなった。口内に残った余韻はとても珈琲の物とは思えない。鉄製のヤスリで爪を研ぐ燐は、輝きを取り戻した自前の物を満足げに眺めていた。
 「お燐ってさ……、今日、暇?」
 「暇じゃなかったからこんな所でラジオ聞きながら爪研いだりしないよ」
 「それもそうだよね……。ね、お燐。ちょっと散歩に行かない?」
 「良いよ、何処行く?」
 「ん、上」
 指を天上へ向け目配せをする。空の言わんとする所を察したのか燐も静かに頷いた。仕上げとばかりにやすりに爪の先を刷りつけた燐は流れるような動作でポーチへ手入れセットを閉まった。


 「ふぅ、久しぶりだね。ここに来るの」
 「昔はよくここで遊んだよね。」
 雨どいに足を掛け、屋根の端に腰掛ける。周囲に広がる、高層建築物の森。僅かな隙間の向こうに見える霊脈の採掘プラント。小高い丘に位置する地霊殿からは旧都が一望できた。
 アマテラスは昼間モードで旧都上空を飛行する。キセノンライトによって照らされた地下世界は地上となんら遜色が無い程明るく、雲一つない空が広がっていた。
 「どうしたのよ、お空。あんたの方から悩み相談なんて珍しいじゃん」
 「そう言えば昔はお燐の愚痴聞きばっかりだったっけねー。懐かしいなぁ……。小町姉さんの修業が厳しいとか、さとり様のご飯が美味しくないとか、色々あったよねぇ」
 「さとり様の料理が美味しくないのは皆言っていたでしょ。共犯だよ共犯」
 「さとり様暫く凹んでたもんねぇ、お燐が猫の姿で御機嫌取りに行ったりさぁ。皆で何かプレゼントしようって、手作りの肩叩き券上げたり。懐かしいなぁ……」
 胸の内の気恥かしさを誤魔化す様に上を向いて目を瞑る空。瞼の裏には当時の様子がありありと思い浮かべられ、友人の情けない笑顔に少し気が紛れた気がした。
 「で、結局何を言いたいのよ。昔散々世話になったしアドバイスできるかは分かんないけどさ……、お話位は聞いてあげるよ」
 片足を組んでいた燐は真面目な顔になり空の眼を真っ直ぐに見る。真摯な視線に空は押し黙る。燐は煮え切らない友人の態度に焦れると同時、少しばかりの悪戯心が芽生えた。俯き気味のその顔を覗きこみに行く。顔を逸らされる。空へ浮き真上から逆さまに目を覗きこむ。更に顔を逸らされる。その顔を両手で掴み正面から真っ直ぐに目を見据える。デコピンを喰らう。溜め息を吐いた空は観念したように自分から顔を合わせてきた。
 「……お燐はさ、最初に小町姉さんに師事した時、何を思った? どうして操霊術を学ぼうと思ったの?」
 「何を真剣な顔をすると思ったら……、お空も意外と下らない事で悩むのね」
 「……茶化さないで。少なくとも私は真面目に聞いてる」
 その顔に重なるのは嘗ての自分。端正な顔で脹れっ面をする相棒の面は自分とは似つかない物だが、その悩み自体には痛い程に心当たりが有った。
 「お空。あんた、もしかして自分はさとり様の役に立って無いとか、邪魔者かもしれないとか、そんな類の事を考えてない?」
 「役に立って無いとは思って無い。だけど、今のままじゃ嫌だっていうだけ」
 「あぁ、そうか。あんたはそうだよね。……逆に質問するよ、あんたはどうなりたいの?」
 ペットでは嫌だ。そう真剣な瞳で語っていた友人の言葉を思い出す。ずきりと、胸が痛んだ。
 一途なまでのその思いは羨ましくもあり、どこか嫉妬心の様な物を同時に感じてしまう。だからなのかもしれない。燐は意識した訳ではないが少しだけ意地悪な質問をしてしまった。
 「さとり様の役に立ちたい」
 「即答ね」
 「これ意外あり得無いし」
 「具体的にどうなりたいのかって事よ。あんたはどうやって、さとり様を助けたいの? 全部とかそこまで言うなら最早私は何も言わないけどね」
 「力が欲しいって言ったら?」
 「その力でどうするの?」
 「有事の時にさとり様を守る」
 「つまり、普段は何の役にも立たないし、いざと言う時にも鬼にすら勝てない半端物になりたいって事? どう足掻いたって妖獣は鬼に勝てない。幾ら怨霊を取り込もうが、妖獣は妖獣。殆どの神ですら鬼には届かないのよ」
 「……」
 それらは全てお燐が小町に師事した初日に言われた事。まさに自分が身に染みて感じたその言葉は、自分でも驚くほどにすらすらと口先から飛び出した。
 「私が操霊術を学んだ理由だっけ……、同じだよ。空と。さとり様の為に ”自分が出来る事” をやろうと思った。ただそれだけ」
 「自分が出来る事?」
 「うん。あたいはさ、色んな人と喋ったり遊んだりするしか能が無い猫。頭も悪いし、力も弱い。そんな自分にできるのは何だろうって考えた時に目に入ったのが小町姉さんだったんだ。操霊術は思った通り私にぴったりの ”技術” だった。覚えの悪いあたいにも小町姉さんは優しく教えてくれた。そうやって今ようやく、さとり様に恥じない位の働きはできていると思ってる」
 空は考え込むように暫し押し黙った。空は燐よりも力が強い。頭脳も――燐と比べればだが――明晰だ。だが、それらはあくまでも妖獣の中での事。妖怪と言う大きな括りの中では何の意味も持たない。故に燐は嘗て空よりも強く焦り、 ”技術” を得る為に小町に教えを乞うた。
 「私にできる事か……、」
 「私から言えるのはさ……、自分がどんな技術を身につけられるかが重要で、自分が持っている能力はそこまで重要じゃないんじゃないかって事だよ」
 「それも、小町さんから聞いた事?」
 「まぁね。あたいの言葉は半分位はそうだよ」
 「ふふっ、なら信用できるね。ありがと、何か少しだけ分かった気がするよ。そっか、 ”技術” か。そう言う選択もあったんだね」
 「大方、怨霊の群れでも見つけて片っぱしから食べようとか思ってたんでしょ?」
 「まぁ、割と似てるかもね。でも、もう辞める事にした。だから安心して」
 「信じる事にしてあげましょうか。得難い親友の言葉だしね」
 何かを悟った様な晴れやかな顔にほっと胸を撫で下ろす。空は妙な所で鈍い事がある。自分がどれだけさとりから愛されているか気が付いていないのがその典型だ。さとりは数多くのペットを飼っているが、空程危険な任務に多く従事しているペットは居ない。護衛役、焦熱地獄メンテナンス。何れも一歩間違えば最悪の事態に繋がる物ばかりだ。燐はそこまで考えてまたむっとした黒い感情を胸に覚えた。
 「らしくないなぁ。こんなの橋姫に任せとけば良いと思ってたのに……」
 「どうしたの? お燐」
 ぼそりとした呟きは、運悪く地獄耳の友人にも届いてしまったようで、鬱陶しい位の笑顔でこちらを眺めている。燐の心の内を絶妙に勘違いしているのかにまにまと笑う空を燐はじとりとした瞳で精いっぱいに睨み返してやった。
 「何でも無いよっ、ほらっ、折角の休みだし旧都に遊びに行こうよ! 駄菓子屋さん閉まっちゃうよ」
 「うわっ、ちょっと、お燐。待って、引っ張らないで」
 時刻はアマテラスが頂上から下り始めた頃。日差しも心地良い昼下がりは町歩きには持ってこいだ。胸の内の黒い感情を振り払う様に、空の手を取って屋根を駆けだす。抗議の声を上げる空を引きずり、燐は眼の前に広がる鉄とコンクリートのジャングルに飛び出した。


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 「随分と凝った装飾ですね。大変だったんじゃないですか?」
 「そんな事は無いさ。祭り好きの土蜘蛛の手に掛かればこの程度お茶の子さいさい、さ」
 「しかし、良くできている。お祭りなんて大昔に道の脇から眺めていただけですが、これはまさしくあの時の……」
 行き交う人は誰も和装に身を包み、旧都の市街地に集う。夜だと言うのに提灯の灯りと街灯で照らし出された広場は昼間の様に明るい。同様の光景が上に数十層、下には少なくとも十層。複雑に絡み合うスカイスクレイパーに取り付けられた足場には無数の屋台立ち並んでいた。
 「こう言うのはな、ディテールが重要なんだよ。遊びにだからこそ本気を出す。それが私達の流儀さ」
 「だからと言って掛け声だけで的を全部落とすのは考え物よ。……泣きそうだったわよ、あの主人」
 「……偶には良いじゃないか」
 鉄管の隙間を縫うように乱暴に溶接された急造の橋。
 ビル風に揺れる不安定なそれを、空と燐、続いてさとり映姫、勇儀の三人はおっかなびっくり渡り向かいのビルへと向かう。階段の様に幾重にも折れ曲がった建造物は、その段差にこれでもかと言わんばかりに店が軒を連ねていた。
 「勇儀さん、向こうの橋。落ちそうですけど」
 「――おっとこれはいけないね。ちょっと直してくるよ。お前さんらは勝手に楽しんで行ってくれ」
 「言われずともそうさせて頂きます。 ”その為に催した” のですから」
 太い鉄管を跨いで向こう側で軋みを上げて折れ曲がる橋。見ればその中ほどで小鬼が二人取っ組み合いの喧嘩を始めており、それを回りが囃し立てていた。二メートルを超えようかと言う巨体が宙に舞いそして、橋へと叩きつけられる。その衝撃が橋のボルトがまた一本弾き飛ばされる。ひしゃげた鋼板から飛び出した飛び出たボルトは今にも外れそうな程ぐらぐらと揺れている。
 勇儀の咆哮が駆け抜けたのは、まさにその時。最後の一本。バランスを保つ最低限のボルトが弾け飛ぼうとしたその瞬間だった。暴力的なまでの ”ただの咆哮” は、中途半端な暴力を無慈悲に蹂躙する。取っ組みあった二人は居竦み即座にその場から連れ出された。
 「乱暴者ばかりですが……、それ以上に活気が有る。……良い町ですね」
 「えぇ、私もそう思う。彼らは確かに気難しい上に気性も荒いけれど、智慧はあるし、節度を誰よりもよく知っている。勿論……、負の意味でなのですけどね」
 苦笑するさとりを映姫はまた軽く微笑みながら見据える。さとりは、当初の言葉通り三日で地霊殿に戻った。映姫と共に帰宅したさとりは、その脚で丁度開かれた旧都の祭りに参加する事にしたのである。
 鼻孔を擽る甘い砂糖の香り。香ばしいソースが焦げる音。眼にも止まらぬ早業で細工飴を練り上げる職人の腕。嘗て長い生に任せて習得した技能を惜しげもなく発揮した店はどれも魅力的に見える。空と燐は抗いようの無い欲求に吸い込まれるように、屋台の群れへと吸い込まれていった。
 「……楽しそうですね」
 「えぇ、本当に楽しそう。本当に……、良かった」
 その背を愛おしげに眺めるさとり。
 「良いのですか? 傍に居てあげなくて」
 その背に映姫は静かに語りかける。
 「良いんです。私に良い顔をする人達ばかりでは無い。気を使わせたくありませんし、それに……、あれでお空は鋭い。あまり……、気取られたくありません」
 伸ばしたままの片腕を抱く様な仕草をするさとり。如何なる理由か、それを見る映姫の顔には悲痛な物が浮かんでは消える。
 「そうでもないですよ。さとりさん。表層と内心の心理は必ずしも一致しない。心が読めるばっかりにあんたは人の心に疎いねぇ。まぁ、確かにあんたには嫌味な統治者面をしていて貰った方が旧都の安定には繋がりますから、それで良いんですが」
 背後からの声。その声の主は、さとりの後ろにあった装身具を売る屋台の店主。人懐っこい笑みを浮かべた男がクロスを片手にからからと笑った。
 「私は、それで ”あの子達” と ”貴方達” が平穏に暮らせるならそれで構いません。……それと、その手は何ですか?」
 「お代だよ、買うんだろう? その手のリボン」
 「…………大した腕ですね。本業は巾着切りですか?」
 「惜しいね。唯のさ」
 白い刺繍があつらえられた黒いリボンは手触りも良く旧都で作られた物とは思えない。意匠を凝らした刺繍は、規則的に網目模様を作りだしており、シンプルながらもその黒に良く生えていた。
 「お燐に似合うかしらね……。全く、良いセンスをしていらっしゃる。ついでに、お空にも似合う物を選んで下さります?」
 「そう言うと思って。もう用意してありますよ」
 とんとんと男が指を指すのは、ケースに並べられた紅玉のネックレス。屋台らしくなく本格的な細工は、その輝きがイミテーションではない事を物語っていた。しかし、そうなると気になるのは値段である。割高な価格の横行する屋台ビジネスにおいて、これ程の品が幾らになるのか。その値段次第では幾らさとりと言えど断る事も視野に入れるつもりであった。
 「この位……、と言いたい所ですが」算盤を弾いて出した金額はさとりの小さな財布には収まり切らない額。だが、その代わりに出された次の金額は驚くほど現実的で、良心的な金額だった。純粋な善意しか読みとれない事に不審を感じたさとりが男に理由を問うと、良い笑顔で答えが返って来た
 「実はお空ちゃんは家の常連でね。贔屓にして貰っているからこの位はと」
 「あぁ、貴方ですか。お空に煙管を教えた悪い商人って人は」
 「人聞きの悪い。お空ちゃんから頼まれたんですよ。 ”旨い煙草の吸い方と煙管を教えてくれ” って」
 「あぁ、それが、 ”嘘じゃない” と分かってしまうこの眼が恨めしいですね。分かりました。その好意に甘えさせて頂きます。……これからもお空をよろしくお願いします」
 「まいど。こちらこそよろしくお願いします」


 吹き抜けるビル風に手の中のリボンが揺れる。人通りの少ない足場に作られた仮設のベンチに腰掛け、夜の摩天楼を二人は見下ろしていた。
 「思ったより……、大きくなってしまいましたね」
 静かにそう呟く映姫。その視線は数段下の足場を、飴を片手に駆ける子供に向けられていた。
 「えぇ。どうしてでしょうね。私はあの子達が幸福であって欲しいとただ願っただけなのに」
 「誰しも最初の動機は些細な物ですよ。私だって最初はただの地蔵に過ぎなかったのですから」
 さとりの言葉には何処か寂しげな物が混じる。粗雑に貼り合わせられた鋼材の段差に足を取られ地面に倒れる。「あ……」と映姫の口から漏れ出る小さな言葉。ただ、大きな怪我は無かったようで即座に起き上がると服の裾を軽く叩くと、再び足を踏み出した。
 「最近夢を見るのよ。
 「夢……、ですか?」
 「えぇ、夢。起きたらすぐに忘れてしまう程の儚き泡沫の夢。ただ、何度か見るうちに朧に思い出せるようになった。夢に出て来るのは何時も一人。私と同じ位の背の少女。その子がね。早く身を引け、地獄から離れろ……って。何度も何度も。張り詰めた様な表情で私に訴えるのよ。だからかもしれない。最近私は考える様になった。この文明は何処へと向かうのだろう……、って」
 「何処へですか……。私は長い間、人の歩みを見てきました。文明とは生き物です。人がそうするように、赤子でも、青年でも老人でも、ただ歩みを止めず、蛇行しても、転んでも、先に進み続ける」
 「――そして何れ ”老衰して死に至る” 」
 「…………その通りです」

 長い沈黙の末に映姫は肯定する。

 「ねぇ、映姫。この旧都はあまりに急速に発達している。だとすると、この旧都は一体今どの段階にあるのでしょう? その老衰とは、何で、何時始まるのでしょうか?」
 「決まっているのは結果だけ。何処を通るかなんてアーカーシャにすら映って居ない。分かっている事は一つ。 ”始まる” んじゃない。 ”始めさせられる” のよ。気を付けて、さとり。既にあいつは――」

 「映姫様。 ”聞かれています” 」

 映姫が口に突っ込まれたフランクフルトにもがく。背後から現れた小町はベンチの背もたれ越しに映姫を抱きかかえる格好でその小さな口に肉の腸詰を突っ込んでいた。
 「どうですか。さとり様も一本」
 「あ、ありがとう……」
 にこやかな笑顔で手渡されたのはもう一方の手に持たれたフランクフルト。
 太くそして熱を持ったそれは、先端から肉汁が染み出し食欲をそそる。
 「あの。所で、苦しそうですよ」
 「――!! ★■△――!!」
 喉奥まで太い棒を突っ込まれ咀嚼すらままならぬ映姫は、小町を跳ね飛ばすと口から棒を引き抜き不機嫌そうに先を齧る。かりりという小気味の良い音共に肉汁が宙を舞った。
 「とにかく、気を付けて。今の私にはそれ以上言えない」
 「分かってる。いつもありがとう映姫」
 「私が真に述べるべきは謝罪。礼なんて受け取れない……」


 遠方からは、爆音と閃光が轟いて来る。だが、それは決してキナ臭い物ではない。寧ろ風流さすら感じさせる。腹の底に響く大気の振動。それは科学物質の炎色反応と火薬を利用した装飾爆弾。地上の世界では ”花火” と呼ばれ人に親しまれていた物。それを再現した光が空に打ち上げられていた。
 爆音とともに空に広がる炎の花弁は、どれも歪で単調な形をしている。地上の物より圧倒的に劣っている筈のそれが、地下の住人達には非常に懐かしく、そして美しく思えた。花火が炸裂する度に巻き起こる完成、囃し立てる言葉。
 「かーぎやー」と、かつて江戸の町で栄華を誇った店の名を叫ぶ映姫。
 「たーまやー」と、さとりもそれに対抗して囃し立ててみた。
 遠方でまた花火が上がる。今度は職人の自信作らしく、一際大きな爆発の後に柳の様な紋様が暗い夜空に浮かび上がる。金色にかがやくそれに、完成と共に称賛の拍手があちらこちらに巻き起こった。


 丁度その時。向かいのビルから不安定な橋を渡り駆けて来るのは見慣れた二人のシルエット。そして少しだけ遅れてゆったりと歩く長身の女性。
 「さとり様!」
 「お帰りなさい。お燐、お空」
 「御苦労さまです。小町」
 「いえいえ。この程度なら歓迎ですよ」
 息を切らしながら駆けてきた二人は全身から祭りを楽しんで来た事を伝えている。腰に掛かるのは妖しげなお面。手に持つのは精巧な飴細工。他に数え切れない程の戦利品を体からぶら下がる。満足げなその表情は思考を読むまでも無い。この祭りを楽しんできた事とそして、燐が ”後ろ手に隠した物” の事を伝えてくれる。おずおずと燐が差し出したのは一つのカチューシャだった。
 「あの、さとり様。これ二人で選んだんですけど。あっちの屋台で見つけて、それで、」
 「……ありがとう。高かったのにごめんなさいね。絶対大切にするからね。付けて貰えるかしら?」
 二人の前に屈み頭を差し出すさとり。少し戸惑いながらも、短くさらさらとした髪にカチューシャを付ける。ハートマークのワンポイントが着いたそれはシンプルながらも丁寧な作りで、さとりの桃色の髪に良く生えた。この上ない笑顔でさとりを見る二人は口々に賞賛の言葉を述べる。それはさとりにとっては声を聞くまでも、ましてや思考を読むまでも無い事であった。
 「良い部下を持ちましたね。さとり。私にもそんな気遣いのある部下がいると嬉しいのですけど」
 「やだなぁ、映姫様。あたいはいつもお仕事で答えているじゃないですか」
 「……」
 じとりとした目で小町を睨む。耐えきれずに視線を逸らした小町は口笛を吹きながら脇の露店に逃げ込んだ。
 「部下じゃないですよ。ペットです。でも、貰ったならその分を返さないといけない。……二人とも少しだけ目を瞑っていて貰えるかしら」
 「はい? 目をですか?」
 頭の上にクエスチョンマークを浮かべながらも、期待に胸を膨らませる二人は言われるままに眼を閉じる。さとりは先ほど露店で購入した二つの品を取りだした。まずは紅玉のついたネックレスを空の首元にかけてやる。金属製のチェーンが触れる冷たい感触にびくりと震えた。黒いリボンを燐の白く細い脚に優しく巻き付ける。さとりの細く柔らかな指が太股に触れる度燐の体が小さく震えた。
 合図で目を開いた二人は自らの体に付けられた主からのプレゼントに目を輝かせる。互いのプレゼントをしきりに見せ合い自慢し合う二人。さとりと映姫はそんな二人へ少し離れた所から慈しむ様な瞳を向けていた。
 「ペット……、ですか。非常に曖昧な表現ですね。身内ではあるけれど、部下では無い。家族でも無い。ペット。物だと思っている訳じゃないんでしょう?」
 「当然違う。あの子達は私の家族に最も近い存在……。でも、私に ”家族” はもう居ないの。だから ”ペット” 。それ以上でもそれ以下でも無いわ」
 「まぁ、流石にそこまで深入りするつもりは無いですね。愛の形は人それぞれです。でも、それはあの子たちにも言える事を忘れてはいけませんよ?」
 「……分かっていますよ。私の能力を忘れた訳じゃないでしょう?」
 「失礼しました。少々忘れかけておりました」
 舌を出し悪戯っぽく笑う映姫。地蔵出身だけあって映姫は色恋沙汰とは無縁。その所為か映姫は他人の恋愛に酷く無責任だ。恋の罪だけは裁けませんとは彼女の談である。その様子に対する呆れを口にしようとした時。さとりは服の後ろ側を掴まれた感覚を覚える。少々慌てて後ろを振り返る。そこにはしおらしい顔をする空の姿があった。
 「あの……、さとり様。少し……、良いでしょうか?」
 「……えぇ。良いですよ。お燐、映姫、小町。悪いですが先に帰って居て貰えますか?」
 何かを察したのか三人は顔を見合わせてにやりと笑う。燐が飛ばす意味ありげな視線に頬を染めた空は非常に愛らしい。まだ何も言われていないのにも関わらずさとりは緩む頬を隠しきれなかった。


 「私はさとり様にもっと笑っていて貰いたい。私……、もっと勉強します。燐みたいに器用じゃないから怨霊なんて扱えないけど……。さとり様のお仕事を手伝えるようになりたいんです。お願いです。私に勉強を教えて下さい。もっと私に知恵を下さい。さとり様の ”片腕” となれるような智慧を」
 「……嬉しいわ。期待しているから。今度私の書斎に来なさい。簡単な事なら教えてあげるから」
 ぱぁと明るくなった顔がさとりに迫る。困った様な笑顔でそれを受け流すと静かに頭を撫でてやった。
 「でも、最初は習字からよ。貴女の字は公の文章に乗せるには……。そうね。少し前衛的だわ」
 「うぇぇ……。了解しました」


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 灯りが消えた暗い廊下。石作りの廊下を、足音を殺して歩く。目指すのは夢に見た約束の場所。ただはっきりと自分の気持ちを伝えたい為に寝床を抜け出し空は廊下を歩いていた。
 しかしそれは、出会えたと言うべきか、出会ってしまったと言うべきか。空が中庭に続く廊下を歩いていた時、その人影に気がついてしまった。

 「さとり……、様?」
 「空……、こんな時間にどうして」

 そこに居たのはさとりだった。それ自体は何もおかしな事では無い。彼女の館で彼女が居る事は自然な事だ。問題はそのさとりの左右を固める様に歩く二人の影。映姫と、そして ”獄卒鬼” 。常に閻魔の傍に着き、裁きの順序を待つ霊魂を見張り、外部からの侵入者を拒む是非曲直庁の戦闘員。是非曲直庁の科学力の粋を集めた装備を身に纏う彼岸の主戦力がそこに居た。
 「私の台詞です。こんな時間に何処に行くんですか。そんな荷物を持って。こんな夜中に何処へ出かけるんですか?」
 「散歩よ……、ただのね。映姫と話をするだけ。ただそれだけ。空は心配しなくて良いわ」
 「嘘をつかないで下さい。だったら、その男は何なんです。そんな物騒な奴が地霊殿まで付いてきた事なんて。……私、知りません」
 仮面の下。無表情な面の下で鋭い眼光か空へと向けられる。白く髑髏を模した面の隙間から漏れ出るのは殺気にも似た刺々しい気配。ぞくり、と背が震える。見慣れた映姫の顔までもが酷く怖ろしく感じられ始める。今すぐに此処を離れないといけない。主を連れて此処を離れなければいけない。強迫観念にも似たその思いに突き動かされるまま。空はさとりの荷物を持っている側と反対の手を ”握ろうとした”

 不自然な程軽い感触。
 空を切る指先。
 感じられない肌の温度。

 空は自分の手元へ目線を遣る。自らが掴む袖の中に、通される筈の白い腕は何処にも存在していなかった。

 「……え?」
 「――ッ!?」

 驚愕の表情を浮かべる空。苦い表情を見せるさとり。ばつが悪そうに視線を逸らすさとりに、空は詰め寄った。
 「さとり様、その片腕はどうしたんですか?」
 「空、落ち着きなさい。これは、」
 「何が有ったんですか、さとり様。いや……、さとり様に何をしたッ。四季映姫ッ!」
 「辞めなさい、空」
 「……ここまでですね。さとり」
 それまで沈黙を貫いていた映姫がさとりと空の間に割って入る。背後のさとりを制しながら立ちはだかった映姫は冷たい瞳を空に向けた。
 「答えろ、四季映姫!」
 「下がりなさい、さとり」
 「さとり様を何処に連れて行く気だった?!」
 「是非曲直庁ですよ。本来ならまだ彼女の拘束は解けていない。ただそれだけの理由です」
 あくまでも淡々と。魂に罪状を述べると同様にそれを告げる。膨大な殺気が俄かに空から溢れだす。
 仮面の下から鋭い眼光が覗く。腰から下げた切り詰められた形状の錫杖をホルスターから引き抜く。その手を映姫が無言で制する。
 「貴女の怒りは自然な物。少なくとも貴女にとっては正当。ですが、是非曲直庁はそれを認める事が出来ない。私にはそれを止めるだけの大義がある」
 「何が是非曲直庁だ。例え映姫様と言えど、さとり様の敵を私は許さない」
 「穴倉の外を知らぬ愚か者よ。せめて自らの言葉の意味を、無駄を知り、そして悔い改めよ。それが今の貴女に積める唯一の善行です」
 「主を見捨てるのが善なら、そんなのは要らない。私には必要無いッ!」
 空の瞳が真っ赤に染まる。深みを増した赤は、拍動毎に脈打ち、全身の血管が浮き上がる。一足で映姫の懐に肉薄した空は、全体重を乗せた拳を映姫へ目掛け振り抜いた。
 「貴女の怒りを受けるのは私の役割。でも、貴女を打ち倒すのは、貴女の罪。それを忘れないで欲しい」
 気付いた時には既に体は地面に張り付けられていた。空をを押しつぶすのは、映姫の手に持たれた悔悟の棒。生命が生きるだけで発生する罪。その全てを吸い込み、概念上の重さとして罪人を罰する閻魔の道具。無様に地を舐める空は、あまりの無力にただその瞳に涙を溜めた。
 「安心しなさい。貴女の主人はすぐに戻ってきます。これは事実です。今度こそ私の肩書きに掛けて保証します」
 「……だ、……ゃだ、……嫌だッ」
 子供の様に泣きじゃくり、空はその棒の影響下から逃れようとする。その体はぴくりとも動かない。野生の生命としてこれまで生きる中で繰り返して来た ”抑制の為の殺生” が空を地面に縫い付ける。空がその罰に抗うにはあまりにも若過ぎた。積んで来た徳が少な過ぎた。
 廊下の向こう側で空間が歪曲する。その歪みには見覚えがある。案の定、忽然と現れたのは巨大な鎌を持った赤髪の影。ぞっとする程冷たい気配を伴った死神だった。
 小町の顔に浮かぶのはいつもの快活な笑顔とは異なる真剣な面持ち。かつり、かつりと石作りの廊下を歩き、此方へと向かう。下に倒れる空を一瞥もせずさとりと映姫の前に立った小町は小さく二言三言交わすと三人を連れて能力を行使した。

 「さと……、り……様」

 主の名に答える者は無い。唯一の希望のさとりですら此方を見てくれない。精一杯にさとりへ向けて伸ばした腕とさとりとの距離はあまりにも遠過ぎた。間もなく空間が揺れ、三人の姿が目前から消え去る。最早幾ら探そうとも、さとりの気配は地獄の何処にも見当たらない。強大な権力の前に一匹の妖獣はあまりに無力だった。
 静かな廊下。地獄鴉の絶叫と嗚咽は誰の耳にも届く事は無かった。


 「正直に言って、来ないと思っていた」
 焦熱地獄の最奥。
 無間地獄への入口まで後少しと言う地点に彼女は胡坐を掻いて座っていた。その姿はあの日見た夢の中での姿と何一つ違わない。
 「力が……、欲しい……」
 「一応……、聞いておこう。お前は、何故に力を望み、如何様な力を望む?」
 息も絶え絶えに。服の端が焦げる事も気にせずに。空は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を神へと向けた。
 「私は……、主人を守りたい。その為に、私は絶対的な武力を望む。鬼も、規範も、理も、全てを否定できる絶対的な武力が……、欲しい」
 「なんと強欲。なんと単純。だが、それで良い。 ”欲” が有るからこそ神は生まれるのだ。――よかろうお前に神の力を分け与えよう!」
 神の腕から飛び立った不気味な鉄の鴉が空の胸に向けて飛び込んでくる。今度はそれを拒まない。両手を広げ、その嘴が胸に刺さるがままに受け入れる。ずぶりと、体内に入り込んだ鴉は即座に空と同化した。
 「おめでとう。末席ながら君も神の座に着いた。この苦悩溢れる地獄の地で神と添い遂げ、私にその生き様を見せてくれ。地獄の鴉」
 体に変化は無い。特に翼が大きくなる事も無ければ角が生えて来る訳でも無い。感じるのは僅かな異物感。胸の奥から無限に湧き上がるマントルの如き熱さ。胸の奥がどくりと熱く疼き始めた。


 そして、物語は間欠泉異変へと至る……。



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 幕間 – Subterranean Animism. -





 ……珍しく騒がしいわ。この地霊殿に訪客なんていつ以来かしら?




 見てた見てた聞いてたよ。ご主人様の勇姿、お姉さんの野望!
 間欠泉を止めるだって? 止めときな止めときな。
 あいつは危ない奴さ! ここらで一番危険な地底の鳥だ




 間欠泉? 怨霊?
 うーむ……もしかしたら心当たりがあるかも知れない
 そんな事が出来るのは私のペットぐらいですから




 うちらと同じでさとり様のペットなんだけどね、最近、果てしなく強大な力を手に入れたのよ。
 それで誰の手にも負えなくなって……。





 ……え? 「ペットなら呼べばいいのに」ですか?
 どうも、私はペットに避けられるのですよ。この力の所為かしらね
 遥か遠くの地上からわざわざ来てくれたのにこんな事言うのも心苦しいんだけど……。
 間欠泉は止まらないわよ。もう遅い、遅すぎたわ。




 地獄の底(ここら)で死ぬとみんな焼けて灰すら残らない。
 死体が欲しけりゃ、やっぱりあたいがお姉さんを仕留めないとね!




 黒い太陽、八咫烏様。
 我に力を与えてくださった事に感謝します。地上に降り注ぐ太陽の光。それは新しい原子を創る核融合の熱
 究極の核融合で身も心も幽霊も妖精もフュージョンし尽くすがいい!




 ま、そんな危険な鳥を相手にする位なら私とやるよ!
 人間の貴方を殺して、業火の車は重くなる~♪ あー死体運びは楽しいなぁ!





 楽しい……、なぁ……。



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 黄昏 - into the twilight -

 全てに対して宣戦布告をする。全ての日常を捨て去り、ただ己の我を通す為に全てを破壊してみせる。
 旧都を遥か下にアマテラスと対峙する。脇に従うのは八咫烏を呑みこんだ地獄の太陽。念話で語りかける閻魔の声がする。
 「■■■■■■■■■■」
 頭に嘗ての友人の声は入ってこない。当然だ。彼女と自分が見ている未来は決定的に違う物だと知ってしまった。
 「いいえ。もう分水嶺は過ぎました。私の為すべき事はこの先にしか存在しない」
 今自分が為すべき事は唯一つ。『アマテラス』の完全破壊。仕組まれた結果でも。シナリオ通りの茶番であっても。そんなのは関係無い。今この瞬間もアマテラスはおぞましい呪言を吐き続けている。私はそれが憎い。ただ、憎いからあれを落すのだ。それ以外の理由は必要無い。
 「■■■■■■■■■■■」
 到底受け入れられない意見だ。何事も優先度が存在する。それは理屈では無いのだ。合理的な判断だけで動けるなら何故お前はそんなにも悩んだと言うのか。
 「たった一人も欠ける事は許さない。私の守るべき道は、この先にしか存在しないのだから。その為なら私の身に変えてもこの道を歩みきって見せる」
 いよいよ『アマテラス』の活動が活性化してきた。おそらくは新たな指令を実行しているのだろう。全くもって素晴らしい存在だ。ある意味ではこれが地下世界の中心だったと言っても良いだろう。故に完全に破壊せねばならない。無慈悲に。完全に。跡かたも無く。そうでなければ救われない。本当の意味で全てが死んでしまう。
 「空、撃ちなさい。偽りの太陽は最早必要ではない。この末法の地を照らすのは貴女以外には居ない。あるべき者をあるべき姿に。末法の地に鉄血の秩序を。我らの敵を排除せよ、霊烏路空」
 「了解です」
 それが落ちて行く最期の断末魔は頭に入って来ない。代わりに眼に入るのは、絶望の表情でそれを眺める閻魔。やがて怒りに満ちた物に変わる物を直視できる存在がこの世にどれだけいるだろうか。少なくとも自分は、真っ赤に燃える瞳に見据えられても何の感慨も湧かない。
 「■■■■■■■■■■」
 「やれる物ならやってみるが良い。私は嫌われ者のさとり妖怪。私の周りは何時だって敵しか居なかった。そして、それは今も変わらない」
 どれだけ困難で糞っ垂れた道だと分かっていても。そもそも選択肢が私には用意されていない。かと言って私に盤面をひっくり返す程の力は無い。私はただ全力ですれ違う。私の事を思う『友人』を傷つける為に。馬鹿みたいにすれ違う準備をするしかない。
 「旧都も八咫烏も、全ては私の物。何者にも邪魔はさせない。仇なす物は何であろうと、誰であろうと全て打ち滅ぼす」


 私は回想する。この糞っ垂れた現実から逃げる為に、ここに至る原因を探り、心を慰める為だけに。あれは間欠泉異変から暫く経ってのことだった。不穏な空気の流れる旧都。始まりは寒風の吹きすさぶ冬のある日――。


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 「あぁっ、もうっ。キリが無い。いい加減にしてよね」
 うんざりといった様子で、燐は眼の前から押し来るそれに目を遣った。数は二体。受け切れると判断した燐は、鉄骨の足場に着地して肩で息をしながら迫る怨霊に身構える。
 顎をけたけたと揺らし迫る怨霊。更にその後方からも次波は迫っている。上品な戦法は取っていられない。前方に展開した障壁で強引に怨霊達の軌道を逸らし、背後へと受け流す。同時、妖術で一時的に怨霊の動きを制限し、配下の怨霊にそれを捕えさせた。
 しかし、怨霊はまったく途絶える気配を見せない。次の波は既に目前に迫り数は十を下らない。この場では対応し兼ねると、燐は溜め息を吐き空へと舞い上がった。


 数ヶ月前から激増し始めた怨霊の暴走事件。かつては深夜や郊外でしか起こらなかった怨霊の暴走は、最早昼間や人気の無い旧都の中枢ですら発生している。そして霊力を取り込み肥大化した怨霊は、高位の妖怪か一部の技術を持つ者以外には対処が難しい。燐は連日旧都に現れた怨霊の対処に追われていた。


 前方から迫る新たな怨霊群。燐は鉄管とポンづけの足場のジャングルを掻い潜りながら、わざと低速で飛行した。ふいに視界が開ける。建造物の無い高度まで上昇し、ビルの林冠へと到達した燐はそこで待っているであろう相棒へ向けて燐は高らかに声を上げた。
 「お空、そっち行ったよ。お願い」
 「う、うん。分かった」
 猫のしなやかな筋肉を利用し、取水塔を蹴って真横に飛び退く。入れ替わるように怨霊の前に躍り出たのは、制御棒を構えた霊烏路空だった。
 「よろしくね『八咫烏君』」
 炉心温度計測。終了。安全域。摂氏二千度。砲身内部へ熱量の転送を開始。加熱、加圧速度共に正常範囲内。網膜にターゲットスコープ投影。目標を捕捉。射出シークエンス開始。セーフティーロック解除。一部の原子を推進用へ変換。射撃準備完了。
 「燃え尽きろ、此処はお前達の居るべき場所では無い」
 「やり過ぎるんじゃないよ!」
 アマテラスの系譜である太陽の炎で、怨霊の群れを焼き尽くす。間もなくして豪炎が収まると、消耗した怨霊がコンクリートの地面に落ちて行く。余剰分の霊力を焼き尽くす神の炎は暴走した怨霊を基底状態へと移行させた。
 手加減を出来ていた事にほっと胸を撫で下ろす燐。空はただ精悍な顔つきで自らの右腕に着いた制御棒を眺めていた。
 「大体終わりかね……。お空もう良いよ。それ閉って降りてきなよ」
 暫く経っても降りて来る気配が無いので声を掛ける。鋭い視線が燐を射抜く。向けられた瞳は驚くほど鮮やかな赤を湛えていた。一拍程の後、ぱちくりと瞬きをした空は一転して呆けた様な表情を浮かべる。
 「……え。ぁ……うん。おつかれさま」
 我に返ったかのように、右手の物をしまう。燐の前に降り立った空は、何かを確認するように周囲を見渡すとぼそりと呟いた。
 「怨霊はもういなくなったの?」
 「……あぁ、ばっちり大丈夫さ」
 その友人の様子に少し心が痛む。せめてそれが眼の前の可愛らしい呆け顔に伝わらないようにと燐は柔和な笑みで返した。
 神を身に取り込んで空は変わってしまった。第一に姿が変わった。左足に『分解の足』、右足に『融合の足』、そして右手にそれらを制御する『第三の足』。異形と化した彼女は妖獣の身では決して辿りつけない力を発揮する。それだけの変化ならば、特に問題は無かった。
 ただそれだけなら、巨大な力を持って間欠泉センターを稼働させる事や、怨霊を薙ぎ払う姿に、憧れそして嫉妬をするだけで済んだのだ。
 「うん! それじゃかえろっか!」
 「そうだね。帰ろう。さとり様もお待ちだ」
 手をつなぐとまるで子供の様に喜び鼻歌交じりで指を絡めてくる。純粋な好意なのだろう。その横顔は本当に嬉しそうだ。そして、それが、彼女のもう一つにして決定的な変化でもある。今の空には ”児童レベルの精神” しか備わっていないのだ。
 あの何処か一本抜けていながらも頼もしかった彼女はもう此処には居ない。同化した神により圧迫された計算領域は彼女の人格をも歪めてしまった。崩壊する自我の中で彼女が取った最低限の防衛機制、それが幼児退行。原初的欲求に従い簡便な思考のみを行う事で彼女は辛うじて自己を保つ事に成功している。
 「今日も一杯お仕事したね。さとり様にほめてもらえるかな?」
 「あぁ、お空は大活躍だったからね。必ず褒めて貰えるさ。きっと夕飯も豪華だよ」
 「やった!」
 無邪気な姿が心に刺さる。ショッキングな事実に当初は理解を拒んでいた。しかし、拒んだからと言って現実が何か変わる訳ではない。燐は今の空を空として受け入れようと懸命に努力をしていた。
 ビルの屋上からは地霊殿が良く見える。小高い丘にそびえる洋館の炊事場からは白い煙が立ち昇っていた。飛べばそれ程遠くない距離だが、燐は歩いて戻る事を選ぶ。自分は兎も角、空の大きな翼は蜘蛛の巣の様に張り巡らされた建築物の隙間を縫うのには向いていないと判断したからだ。
 後付けの不安定な足場を蹴り、向かいの街灯に飛び移る。鉄管に手を掛け、下の鉄管に足を降ろす。低いビルの屋上に降り立ち、大通りへと一気に飛び降りる。
 『古い都に太陽は二つ要らぬ。地獄の黒点を崇めよ』『間欠泉センタースタッフ募集』『新発売、KWシリーズ十段型モデル』『ラジオ塔開設二十周年まで後十日』人と車が通れる程度の通りには、最近試験的に導入され始めた電光掲示板が好き勝手に午後のニュースを伝えていた。
 過激な意見広告から純粋な商品宣伝まで。目障りな程にちかちかと流れるそれら。全くもって皮肉な事に、それらは目の前で指を咥えて露店のホットドックを見つめる少女の力によってもたらされた発展の一つである。
 夕飯を前に買い食いをする訳には行かないし、そもそも持ち合わせも無い。多少強引に腕を引っ張り空をその店から引き剥がす。名残惜しげな視線を残しつつも、空は特に抵抗もせず燐に着いて行った。
 「やぁ、お空ちゃん。今日も元気だね」
 「その腕章……、急進派か」
 二人の前に胡散臭い笑みを浮かべ立ちはだかったのは餓鬼の類。壮年の男の腕にはインクで描かれた三本足の鴉のマークが煌めいていた。見慣れてしまったその姿に怯えた空はすっと燐の背中にしがみ付き、また燐もそんな空を庇うように空の姿を男から隠した。
 「意地悪をせずに姿を見せて下さいよ。『一つの地下に、二つの勢力は要らぬ。地下は仏の力より抜け出し、ヤタガラスの威光によって歩むべし』。お空ちゃんは私達の導なのですよ」
 「勝手に導にされても困るってさ。それに、お空はお前達の物じゃない。さとり様の物だ」
 「黙れ彼岸の ”狗” 。さとり等我らの太陽を独占しようと企む乞食に過ぎぬ。その飼い猫如きが私に意見をするんじゃない」
 過激派集団、”急進派” 。旧都から彼岸の勢力を取り除き完全な独立を目指す者達で構成される。その思想は彼岸とは怨霊を抑える事を引き換えに協調体制を取る勇儀とは正反対。故に地霊殿旧都側両方のの筆頭に名を連ねている。
 「おまっ、さとり様がお前達の為に普段どれだけ心を砕いていると思ってるんだ。第一お前達の上に浮かんでいるアレを作ったのは誰だと思っている」
 「黙れ、ペテン師が。貴様らの魂胆は既に見えている。この異変だってお前が糸を引いているんだろう? マッチポンプで英雄気取りか? 良い御身分だな」
 「馬鹿な、そんな事をした私に何の意味が有るのさ、ふざけているね」
 がちりと、撃鉄が降りるような幻聴。隣を見れば燃えるような深紅の瞳が男の顔に制御棒を突き付けていた。「燃やされたい?」静かに呟く彼女の瞳は一切の迷いを含まない。
 「お空、そんな奴燃やす価値無いよ。辞めな」
 「……」
 空はまるで燐の言葉が耳に入らないかのように砲室内の熱量を高め続ける。怒りのままに力を振るう空の腕からは、がりがりと言う異音が発せられ始めた。
 「知ってる? 妖怪って、送って来た生活で燃える時の色が変わるんだ。面白いよね。善行をつめば青に、淫行を尽くせば桃に、悪行を尽くせば黒に、嫉妬を尽くせば緑に。で、あんたが一体何色で燃えるのか興味が有るんだよ」
 「待て……、落ち着いて下さい、……ちょっとしたジョークですよ」
 「冗談で私の友達を傷つけたの?」
 「お空、辞めなさい!」
 「私の友達を傷つける奴は皆悉く焼き尽くす。この者の地獄への道先案内となれ。地獄の黒い太陽の力を知れ」
 限界まで膨張した熱が光の奔流として男の居た場所を飲み込む。莫大な光熱は爆風を生み、周囲の窓を揺らし、地面の石を飴細工のようにぐにゃりと曲げた。やがて、光が収まり始める。収束する光と共に制御棒を収めた空は、ただ真っ赤に溶けた石畳みだけが残る地面を見つめ不満げに舌打ちをした。
 「燐、どうして逃がすの? 悪口を言われたのは貴女でしょう?」
 「お鎮まり下さい、 ”八咫烏様” 。貴女の様な神がこのような矮小な存在に手を掛ける必要はありません」
 「…………」
 男を抱え道路の脇へ飛んだ燐は空の胸に向かって語りかける。胸に浮かび出たの深紅の瞳がぎょろりと蠢いた。
 「お空。貴女も貴女だよ。さとり様がそんな事を望んでいると思う? 貴女の感情が一番神様に直接伝わるんだよ?」
 「あ……、ぅ……」
 今度は、空の眼を見て語りかける。深い紅の瞳は数度ぱちくりと瞬きをしてから胸の深紅の瞳を覗きこんだ。状況を掴んだ用で大人しくなる空。燐は抱えた男を乱暴に突き放す。男は悪態を吐きながらも逃げる様に路地へと姿を消した。
 眼の前には、今尚赤熱する石畳と衝撃で飛び散った石の破片。自分の起こした惨事に空は泣きそうな瞳を燐へと向けた。燐はそれを無言で抱きかかえる。
 「大丈夫。貴女は私が守ってあげるから。お空はお空らしく。馬鹿みたいに笑ってくれていれば良いのよ。お空は私達の太陽なんだから」
 優しく数度背を叩いてやると、空は小さく鼻を鳴らしこくりと頷いた。強い攻撃性と偏狭的なまでに主と友人に固執する人格は神との融合後に形成された物。神の力を行使する際に主に現れる事から、燐とさとりはそれが八咫烏の意志であると推測していた。二つ人格が日に幾度も入れ替わる空の情緒は不安定極まりない物と化している。その力の暴走だけは食い止めなければならない。そう燐は強く心に思うのだった。
 手を繋ぎ、黄昏の旧都を我が家に向かって歩く二人。地平近くまで降りたアマテラスは橙の光を地上へ届けている。この夕方の空を燐はあまり好きでは無かった。橙の次にあるのは濃紺、黒、そして虚。久しく忘れていた孤独への恐怖。仲間と太陽の温もりに一度は忘れていたそれが、空の変化で強く思い出す様になってしまった。その事実が燐に宵闇の訪れを怖ろしく感じさせてしまっていた。
 ぎゅっと、握られた手に力が籠められる。燐と同じく黄昏の空を見上げる空の瞳には深い紅が携えられていた。彼女は誰に聞かせる訳でも無い。ただ、心の内の切なる思いが溢れ出た様に小さく呟く。

 「御免ね、お燐。迷惑をかけて。恐いでしょう? 私」
 「お空……?」

 その顔に浮かんでいたのはかつての空に限りなく近い物。あどけなくも無い、荒々しくも無い、けれど、落ち着いた、柔和な顔立ち。けれど、そんな表情は風に吹かれると同時に泡沫の如く消え去ってしまう。瞬きをした燐の眼の前にあるのは、何時も通りあどけない表情の空。
 「……? どうしたの、お燐?」
 「いや、何でも無いよ。早く帰ろう」
 極稀に戻る空の正気。何時訪れるかも分からないそれが、燐の心をこの上なく痛めつけるのだ。眼の前で無邪気な笑顔を浮かべている友人。ただそれだけの姿が今の燐にはあまりにも残酷な現実だった。
 「大丈夫じゃないよ、お燐。大丈夫なんだったら、どうしてお燐は――、涙を流しているの?」
 「ぇ……?」
 眼元に手をやる。そこで、初めて自分が涙を流している事に気がついた。胸の中が情けない気持ちで一杯になる。幾ら受け入れようと心に決めても感情はこの有り様。こんな調子で何が ”守る” か。燐は瞼を掌で覆いただ己の無力に打ちひしがれた。



 「……御免よ、お燐」



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 「此岸への介入は死神の仕事じゃないの?」
 「ここは今、此岸とも彼岸とも着かない曖昧な場所です。事の大きさと深刻さを考えれば私が来てもおかしくは無いでしょう?」
 への字に口を曲げたさとりは、大荷物を背負った友人に訝しげな眼を向ける。頑固頭は視線を意にも介さず、平然と空き部屋の確認をし始めた。
 「だからって、トップがこっちに来てどうするのよ。本業の方はどうするの?」
 「暫くは相方の閻魔にお願いしてきましたよ。……凄い顔をされましたが」
 突然の来訪者達に通りかかった妖獣がおっかなびっくり挨拶をしては廊下の向こうに去って行く。彼らの視線は映姫では無くその背後に控える男達に向けられていた。
 能力を用いて何処からか現れた小町が忘れ物と称して映姫に枕を手渡す。赤面。そして軽い咳払い。映姫は小声で礼を言うとそれを受け取った。
 「――この部屋が良いですね。広さも丁度良いですし、周囲の部屋も空いている。物置きにも使えますし、なにより夜遅くまで業務を行っても迷惑が掛かり辛い」
 「……あんたそろそろ枕変えなさいよ」
 「今は関係ありません。真面目に聞いて下さい」
 「はいはい。布団変わったら寝苦しいでしょ? 今日は付き合ってあげるわよ」
 「……ありがとう。――じゃなくて。それはそれ、これはこれ、です。この部屋、借りますよ。良いですか?」
 「どうぞどうぞ。どうせ部屋は有り余っていますから」
 足早に部屋へと向かう映姫の顔は赤い。悪戯っぽく口角を上げる小町はさとりにだけ見える様に小さくサムズアップをしてきた。さとりも負けじと大きく映姫にも見える様に親指を上げる。悔悟の棒で小町の頭が地面に叩きつけられた。地面に伸びる小町とぷくりと膨れる赤いこぶを放置して映姫はさっさと荷物を運び始める。その背後にはさとりも見慣れた数名の映姫直属の事務官と、護衛の獄卒鬼。そして、見慣れぬ服を着た書記官らしき男が着いて行った。
 さとりの脇を抜け二階の空き部屋に向かう彼ら。不意にぞくりと背筋の寒さを覚えた。振り返る。特におかしな事は無い。先ほどと何も変わらぬ伸びた小町と、荷物を運ぶ是非曲直庁の職員達。先ほどと何一つ変わらず、書記官の冷たい目線が此方を向いているだけだった。

 「…………」
 「ただ今戻りましたー」

 彼らと入れ違う様に飛んできた、明るく呑気な挨拶。
 さとりは彼女らに向き直る前に、小さく表情筋を解し柔和な笑みを形作った。
 「お帰り。お燐、お空。お仕事の方はどうだったかしら?」
 「ただいま、です。さとり様。ばっちりですよ。きっかり十体。裏庭の方に繋いどきましたから」
 「流石お燐ね。ありがとう。お空も――、あぁ、聞くまでもありませんでしたね。良くできました。こっちにおいでなさい」
 きらきらと眼を輝かせる空の心は読むまでも無かった。ぱぁと、太陽の様な笑みを浮かべた空は飛び付く様にさとりの体を抱く。さとりよりも頭一つ大きい鴉は、まるで子供の様に頭を差し出して指による愛撫をせがんだ。
 「さっき後ろ姿がちらりと見えたんですけど、映姫様がいらっしゃっているんですか?」
 「そうよ。何でも暫くこっちに詰めるんだそうで。今頃は上で大荷物広げて部屋の掃除をしている頃ね」
 「……さとり様。上のあの部屋ってまさか」
 「そ、あなな達が昔遊び場にして散々散らかしたお部屋」
 燐はさとりの言葉に戦慄する。その顔に浮かぶ笑顔が悪鬼の如く歪んで見える。燐は知っていたからだ。あの部屋に如何なる惨状が広がっているかを。
 「あまりの汚さに、誰もが掃除をする事を諦め放置するに至った魔境。あれは既に部屋では無い。そう例えるなら部屋X」
 「……映姫様に怒られても知らないですよ」
 「あら、タダで衣食住提供するんだからこれ位は頼んでも罰は当たらないと思うわ」
 「映姫様、ずっとこっちに居られるんですか?」
 「大丈夫よ。お空。今度は何も起こらないし、起こさせないわ。安心しなさい」
 さとりの胸に顔をうずめていた空が不安げな声を上げる。それを払拭するように乱暴に頭を掻き散らしたさとりに、空は猫の様にごろごろと首を鳴らし眼を細めた。燐はそんな空の姿を少し離れた所で眺める。さとりはそんな燐を見てくすりと笑った。
 「……あなたもして欲しいですか?」
 「あ、いや。今日はお空に譲りますし」
 ぷいとそっぽを向き興味無さ気に振る舞う燐。その指が口にくわえられている事には、本人ですら気が付いていないだろう。くすりと笑ったさとりは片腕を器用に伸ばし、頭を軽く撫でてやった。燐は口をへの字に曲げて小さく微笑んだ。


------


 戸棚に並ぶ数々のボトル。蜂蜜酒。葡萄酒。リキュールの類。年代物の樽酒。地霊殿の東館の奥。丁度角に面し、窓も無く暗い部屋に作られた酒場でさとりと映姫はグラスを傾けていた。酒場と言っても小さな物だ。バーテンダーは居ない。酒を提供するのも後片付けをするのも全てセルフサービス。映姫は棚の中ほどに置かれていたVSOPを底の浅いグラスに注ぎほんの少しだけを口に含んだ。
 「程々しなさいよ。貴女の介抱なんてしたくない」
 「大丈夫ですよ。自分の限界位は知っています。それに、夜は長い……、少しずつ楽しませて貰うわ」
 「まさか、寝ないつもり? 付き合うとは言ったけど、徹夜は良くないと思うわよ」
 「……知っている? 閻魔って不眠症の奴が多いのよ」
 「意外。体調管理のできない閻魔なんて貴女位だと思ってた」
 「失礼ね」そう言った彼女はまたグラスを煽る。中に入ったロックアイスがからりと心地の良い音を立てた。
 「眠りは彼岸へと通じている。現実から離れて魂に刻みこまれた記憶と肉体に刻み込まれた経験を元に作りだされるその情景が自らのどんな罪を表すのか。なまじ知っているが故に恐怖してしまう」
 「『自分が裁かれる側に回る時、同じ閻魔ならどのような罪を下すか』、下らない。神ですら終焉は等しく訪れる。それを肯定してやるのが仕事でしょうに」
 「同感ですが耳が痛いですね。……ですが、閻魔も人の子なのです。自分の身を大切に思うのは罪では無い」
 「『自己犠牲は罪なのです』、貴女、自分の胸に手を当ててみなさいよ」
 「ふふ、今日はやけに厳しいじゃないですか」
 「体を大切にしなさいって言っているのよ。……貴女を心配する人だって居るんだから」
 「まさか、その言葉を貴女から聞くとは思いませんでしたよ。――誰しも自分の事は見えていないと言う事ですかね」
 何を言っているのか分からないと言った様子でさとりはカクテルグラスを傾ける。蛍光青色の液体がさとりの白い喉を通りぬけた。けふ、と小さくも可愛らしい音が喉から漏れる。喉越しの良さゆえに飲み過ぎたか、とさとりは少し後悔した。
 「この世で最も怖ろしい怪物とは何だと思いますか?」
 「何よ。いきなり。プライベートでお説教は勘弁してよ」
 「違いますよ、これはもっと ”深刻な” お話です」
 「……正義かしら」
 「大正解。個人が、集団が持つ一つの正義。環境により、人により異なるそれは、歴史上もっとも多くの生命を奪ってきた」
 再びグラスを煽り、後に残った氷をからからと鳴らす。その顔は心持ち上気している様に見えた。
 「正義が受肉した存在が良く言うわね」
 「誰かが為さねばならない事です。誰でも良いが、誰かが決めなければならない。責任を持ってそれを運用せねばならない。それが私達。少なくとも我々は罪深い是非曲直だと戒め続ける事でバランスを取ろうと模索を続けてきた。そも貴方だってその一部でしょう?」
 「……私はもう、是非曲直庁からあまりにも長く離れてしまった。私の正義は既に是非曲直庁に依存していない……」
 さとりの中に怒りなどは無かった。映姫も彼女を批判しない。当然だ。映姫は知っている。眼の前の少女がどれだけこの地霊殿の住人を愛し、旧都の発展に心を砕いたか。映姫は知っている。さとりが、どれだけ ”それ” を求めているかを。
 「聞いて、さとり。だけど、違う考えを持つ者も当然存在する。自らの正義を盲信し、反する者は誰であろうが仏の名の元に排除する。気を付けて。あいつらはこの地下の ”回帰” を願っている」
 「あいつ?」
 「私を超える石頭で、絶対的な権力者。更にファンダメンタルな仏教思想の信奉者。聞いて、さとり。今度の怨霊異変。秦広王が異様な関心を寄せています。事の推移次第では十王会議へ持って行くとまで言いだしている状況よ」
 「それは……、よろしく無いわね」
 映姫はそこで一拍を置く。伝えなくて済むのならば、どれだけ良かっただろう。だが、現実は残酷だ。自分の権力、発言力、コネクション。その全てを駆使しても先遣隊に入るのがやっとだった。解決が遅れればあれは必ずやってくる。
 「秦広王はあいつらを送り込んでくる。次は ”鬼神長” が ”獄卒鬼” の軍団を率いて来るわ。私はそれを止めたい。協力して。さとり」
 古い地獄の奪還を望む軍勢が、眼の前には既に隊列を為して並んでいるのだ。チャージを仕掛ける板金鎧の騎士を空目したさとりは、ただ静かにこくりと頷いた。


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 停滞した生臭い空気。死臭と呼ぶのが最も近いだろうか。
 地面に横たわる嘗て生命であった肉片は、最早誰の興味も引かずただ肉片として処理されるだろう。
 「くっそ……。今週の稼ぎがぱぁだぜ……」
 明滅するアーク放電の灯りだけが唯一の光源の薄暗い部屋の中。紙くずと化したチケットを放り投げた男は興味を無くしてその場を去る。煙草の煙が充満した室内は妖怪で溢れており、無機質なアナウンサーの機械音声が次の試合を告げていた。
 再び視線が、格子の内側へと集まる。障害物の置かれた闘技場の中に現れたのは、数人の男だった。電光掲示板に映し出されたオッズにまた幾人かの男がチケットを買いに走る。
 体中に雑多なプロテクターを巻き付けた男が一歩前に出る。障害物に隠れた男が確かめる様に鋼鉄の筒を構える。目配せと共にがちりとセーフティーを外す。その時を待つ男達は見えぬ相手の動きのシミュレートを元に位置取りを行いそして――、ゴングの音と共に銃声が轟いた。
 コンテナの影をクリアリングした男が、脚元の迷彩服を見落とし蜂の巣に変えられる。細い通路で出会いがしらになった二人が相打って倒れる。トリガーハッピーが後方に潜んでいた狙撃手に頭を撃ち抜かれる。瞬く間に脱落者は増えて行き、片方の勢力は残す所一人。叫び声を上げながら突っ込んだ男は弾丸の嵐を受け、見当違いな方向へ銃を乱射しながら地面に崩れ落ちた。
 ブザーが鳴る。
 勢いよく噴き上がる血液の噴水を背景に、生き残った男たちは開いた扉に戻り次なる地獄へ備え体を休める。物言わぬ肉片と化した者達は新たに入って来た清掃員によってダストシュートへと放り込まれた。
 狂気染みた熱気に包まれる部屋の中。壁にもたれかかる男はそれを興味無さ気に見つめていた。キャスケット帽を目深にかぶりトレンチコートを羽織る男の表情はうかがい知れない。男は背後で起こる惨劇を気にも留めない。ただ、小さく溜め息を吐くと部屋の一角に作られた店舗に足を向けた。


 防犯用の格子の向こう。廃油同然の食用油が使われた工業製品めいたフライを口に運ぶ店主が椅子に腰かけている。ノイズ混じりの古ぼけたラジオからは、場違いな程軽快なスウィングジャズが流れていた。
 「よぉ、旦那。見せて貰って良いか?」
 「どうぞ。今日は新型が入っているよ」
 「八段型か。弾頭はどうなっているんだ?」
 「M四十三を使い回せる。信頼性も折り紙着きさ」
 「カワシロのコピー品が何を言ってんだ。まぁ、そんな事は気にしちゃいないがね。試し打ち、良いか?」
 「どうぞ。弾は実費でお願いしますよ」
 店主が指さす先にあったのは木箱に入れられた無数の弾丸。外の世界で流通するそれに酷似しながらも、詳細な点では幻想郷らしいとも言える決定的な違いが存在する。その弾丸には、弾頭しか存在しなかった。薬莢とその中に入るべきガンパウダーが存在していなかった。
 妖怪らしい発想のそれに男は再び溜め息を吐く。間欠泉異変を切っ掛けとした外部からの技術と文化の流入は少なからず旧都に変化をもたらした。その最たる物が ”弾幕ごっこ” と ”銃” である。
 店舗の隣に作られた試射用の的へ銃口が向けられる。アイアンサイトで人型をした的の中央へ狙いを定める。マズルフラッシュと乾いた銃声。騒がしい室内に反響した音が返ってくる前に的の中心部から大きく外れた点に小さな穴が開いた。
 「ふーむ。威力は申し分ないが、燃費は良くないな。どんだけ妖力を吸うんだ? こいつ」
 「同シリーズの普及型と比較して二割増し程でしょうか。まぁ、その辺は非正規改造品の宿命って奴ですよ。砲室の側鎖をポン付けしただけで後は据え置きですからね」
 「調子に乗ってこんなもん撃ちまくった日にゃ自滅しかねんな。旦那。これ売る時はちゃんと注意はしてるんだろうな?」
 「当然ですよ。ある程度の力のある奴以外には売るつもりもありません。ねぇ、特に旦那の様な力をお持ちでもない限り見せもしませんね」
 「下手な世事だ。給料日の女房の方がまだマシな事を言う」
 呆れた様子で背中越しに手を振る男はそのまま店を後にする。地上へ続く階段はゴミに塗れ、灯りも無く酷く歩きづらい。何度かゴミに足を引っ掛けそうになりつつ男は街頭に降り立った。


 地下から昇った街角は寒風が吹き、ゴミが空を舞う。トレンチコートの襟に首をすぼめて道の反対側に立つ目当ての人物へ早足で駆けよった。

 「おつかれさん、 ”パルスィ” 」

 トレンチコートの男が目深に被ったキャスケットを外すと中から現れたのは絹の様にしなやかで美しい金の髪。尖った耳に、緑の眼。ああ、と声を返そうとして自分の声に気付き喉を数回叩く。数度咳払いをすると、元の美しくもどこかおぞましい女性らしい声が戻って来た。
 「ただいま、勇儀。相変わらず最低なお仕事を押し付けてくれてありがとう」
 「小言は後で幾らでも聞いてやる。……どうだった、様子は?」
 「別に。昔あんたらがやってた事と、大して変わらない位じゃない?」
 「おー、そうか。そりゃぁ余程の大問題だな」
 「自覚はあるのね」
 勇儀はそのパルスィの嫉妬とも憎悪とも着かない苦々しげな顔に不安を覚える。
 「アンダーグラウンドの賭博競技場か。全く……、地上では可憐な少女の遊びだって言うのに悪趣味な改良をしたもんだ」
 「地下世界でのアンダーグラウンドって言うのがまた笑えるわね。あー、何で男って奴は死にたがりばっかりなのかしら」
 「長く生きれば生きる程、命は相対的に軽くなる。そう言う奴が出て来るのは自然な流れかもしれないな」
 旧都はこれまで勇儀が体験したどんな集団よりも如何なる文明よりも急速に発展している。しかし、そこに住む者達はあまりにも昔と変わらないままである事が非常に怖ろしく思えた。力による統率は既に意味を為さない。あまりに複層化した都市構造に力を行き渡らせるのは物理的に不可能だ。遠方から聞こえて来る、好き勝手な街頭演説がなによりの証拠である。
 難しい顔をする勇儀をさて置き、パルスィは羽織っていたトレンチコートを脱ぐ。染みついた煙草の香りに閉口しながらばさばさと煤や埃を払った。だがそれだけで落ちる筈も無く、コートに鼻をよせたパルスィは顔をしかめ勇儀を睨みつけた。
 「これ、クリーニング代出るわよね」
 「あ、……あぁ。当然だ」
 「二度と御免よ。あんな男臭い所に入るの。煙草の臭いが染み付きそう」
 「……悪かったよ。でも、私じゃ目立ち過ぎるし、誰が居てもいざと言う時に自分の身は確実に守れる程腕が立つのはお前位しか思い浮かばなかったんだよ」
 「下手なお世辞ね、妬ましい」
 混じりけの無い彼女の妬み顔。恐らく喜んでいるのだろうし、和ませようとしてくれているのだろう。パルスィとはそういう女性である。
 茶色のダッフルコートを着た女が足元に流れた一枚の紙を拾い上げる。喧々囂々と楽しく口喧嘩をする二人に女は呆れ顔を浮かべた。
 「痴話喧嘩なら家でやってくれないか? ここは天下の往来だ」
 手元の紙屑を丸めると、勇儀に放ってよこす。「ヤマメか」女に気がついた勇儀はそれを受け取り、くしゃくしゃの紙を広げた。『怨霊異変に地霊殿の影? 赤髪の女が現場で目撃?!』射幸的な見出しが紙面に躍る。
 「まったく……。根も葉もない……」
 「何時だって好き勝手書き殴っているタブロイドさ。気にするこたぁ無いし、実際誰も気にしていない……。と言いたいんだが、最近はそうでも無いのが困った所だなぁ」
 「皆言い様の無い不安感を感じている。その責任を誰かに取らせたい。まるで、人間のような弱い考え」
 「集団である場合にそれが人間であるか、妖怪であるかななどあまりに些細な問題だよ。パルスィ」
 少女の様な見た目とは余りに対象的な、妙に年季の入った笑みを見せるヤマメ。機嫌を損ねそうになっているパルスィの気を逸らす為か、勇儀は慌てた様に話を切り出した。
 「そうだ、ヤマメ。怨霊共の最近の様子はどうだ?」
 「どうもこうも無い。 ”最悪” さ。見るかい?」
 懐から取り出した手帖を放ってよこす。クリップで止められた頁のカレンダーにはびっしりと旧都で起きた怨霊の暴走事件が書き込まれていた。ぼりぼりと頭を掻くヤマメは至極面倒といった様子で幾枚かの写真を取り出した。
 「霊脈プラントはほぼ昼夜関わらず怨霊の襲撃が続く状態、おかげでまともに採掘も出来やしない」
 「酷いな。技術屋達はどうしている?」
 「眼の下に隈作ってファックファック言っているよ。因みに、詰めている警吏も似た感じ。それでも間にあって無くて減産を検討している段階さ」
 「うーむ。彼らには申し訳ないが、霊力の供給が途絶えるのはよろしく無いな。……やはり、 ”間欠泉センター” から追加で ”電力” を分けて貰うべきなのかねぇ」
 「電力が最早不可欠なのは認めるが、私はどうもあの神が何を企んでんのか。今一つ私には理解できなくて恐いんだけどねぇ」
 「どうせ地上で導入する為の実験場の代わりだとでも考えているのだろう。上の方じゃ科学は朝倉とか言う変わり者の一族が研究しているだけのマイナーな学問らしいからな。……別に利用されていても構いはしないさ。此方も利用してやるまでの事なんだから」
 「あんたのそう言う所、嫌いじゃないよ。割り切りが出来ない者に指導者は務まらない。流石は腐っても四天王さね」
 「ところでこれはどう思う?」一枚の写真を勇儀に向ける。鮮やかに映し出された風景は一見ただの旧都の街並み。統一感が無く、好き勝手に増築されながらも、活気に満ちた通りの一つ。
 「……とうとう天下の往来にすら現れる様になったのか」
 「量も半端じゃないね。この時はたまたま近くにお燐ちゃんとお空ちゃんが居たから事無きを得たが、対処できる者が誰も居なかったらと思うとゾッとするよ」
 「しかし、これはどう言う事だ? 怨霊とは陰の気と死の気配を糧として存在を保持する。これまでだって、怨霊が湧くのは殆ど郊外だった。どうして活気に満ちる中心区に現れる必要がある? この旧都に負の気が蔓延し始めているのか、はたまた別の理由か……」
 「または、その ”両方” か」
 「両方?」
 「根拠がある訳じゃないただ――、おっと話は後だ。噂をすればあそこにも。お客さんのお出ましだ」
 上空から突如として襲来したのは五体程の怨霊の群れだった。歪な高層建築。飛び出た手すりの無い階段と、真っ赤に光る空気圧に寄り駆動するエレベーターの警告灯の隙間を彼らは掻い潜って堕ちて来る。その狙いが直下に居る勇儀らである事に疑いの余地は無いだろう。身構える勇儀とヤマメ。しかしそれを制したのは妬ましげな視線をヤマメに叩きつけていた橋姫だった。
 迫るしゃれこうべ。真っ黒く淀んだ瞳がぎらぎらとした鈍い輝きを放つ。だが、嫉妬狂いの鬼はいささか動じた様子も無く、深緑の瞳が透明度の高いエメラルドグリーンに輝かせた。
 「嫉妬心と怨念に縋り生きる愚者よ。己の虚しさに気付き我に身を委ねよ」
 それは、操霊術よりも更に直接的。怨霊の活力を根こそぎ奪うかのような邪視。身に纏う霊力を霧散させた怨霊は瞬く間にふよふよと漂うだけの害の無い存在へと成り下がった。
 「さっすが。プロは違うねぇ。私や勇儀何かだと力づくでやるしかないんだが」
 「スマートじゃ無い方法は嫌いなの。それに、嫉妬ってのはもっと慎ましやかに行うべきなのよ。「でも失敗だったわ油断した」」
 彼女の半身が頭を掻きながら背後に現れる。不満げな表情を浮かべる彼女の腕には軽い擦過傷ができていた。
 「惜しかったね。でもあんたで間にあわなかったなら誰も間にあわなかったさ。気にする事は無い」
 「うるさいわね。別に落ち込んでなんかいないわ。ただ……、驚いているだけよ」
 「何が邪魔をしたんだ?」
 「わからない。完全に不意を打たれた。私が気配を察知できないなんて……、何年ぶりかしら」
 「気配を探らせて、お前の右に出る者はそうそう居ないからな。――では、何を見た?」
 真剣な面持ちで勇儀が尋ねる。半ば予想していたその反応にパルスィは小さく溜め息を吐いた。
 「……赤い髪の女を」
 「そうか……」
 浮かない顔をする勇儀にパルスィは落胆する。また、昔の様になってしまったのかと怒りさえも覚えていた。
 無理も無い。終わりとはこのようにして訪れる物なのだと言う事を勇儀は知っているのだから。
 ヤマメはそんな湿っぽい二人をみて吟遊してみせる。
 「さぁて。地下世界は開かれるべきだったのか、栄光なる孤立を選ぶべきだったのか。そもそも ”与えられた” 力を私達は受け取るべきだったのか」
 「過去を言っても何も変わらないさ。少なくとも今のこの姿は為すべき事を為した結果に過ぎないのだから」
 落日の迫る東の空。びゅうと吹く木枯らしが酷く冷たく感じた。


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 人間が成人するまでの発達は大きく五つに分けられる。生まれて間もなくの乳児期。会話と歩行が自由に行える幼児期。第二次性徴により性差が現れる児童期。そして、生理機能と精神機能が成熟する青年期。独立し親の庇護から抜け出せる成人期。多少の違いはあれ、肉体に依存する部分の多い妖獣もほぼ人間と同様の発達段階を得る。空は肉体的には成熟しており交尾も可能な雌の個体であったし、精神もそれに見合った物を持っていた。故に現在の空は ”歪” であった。


 「さっとりさーまー」
 「お空。今は仕事中よ。ケジメを付けなさい」
 「いーじゃないですかー。どうせお暇なんでしょう?」
 「……少しだけですよ」
 さとりに抱きつき頬ずりをする空。すっかり変わってしまった友人は至福の顔でさとりに頭を撫でられていた。感受性が高く、他人との繋がりを強く求める。道徳心や良心の類は未だ成熟しきらない。まさに児童期の子供。気ままに思うままに無邪気に振る舞う様はさながら黒翼の天使といった所だが如何せん彼女は地獄の鴉である。事情を知らぬ者は彼女を見ると一様に驚き、そしてその反応は彼女を不安定にさせた。
 一頻りじゃれあい満足したのか空は膝のばねを使わぬ子供っぽい動作でさとりの膝から飛び退く。


 「それでは、さとり様。行ってまいります」
 「えぇ、行ってらっしゃい。気を付けて帰ってくるのよ」
 「お空!」
 「ん? どうしたのお燐」
 「あの……。気を付けてね」
 「分かってるよ。また夕方にねー!」


 上機嫌に手提げを振り回して廊下を歩く背中に、かつての面影は無い。
 鼻歌交じりの彼女は正面玄関から外へと出て行く後ろ姿が燐には堪らなく不安だった。
 彼女の莫大な力を利用しようと、若しくは、その体のみを目的に近づく不埒な輩は少なくない。
 故に燐は彼女を一人にしない様に、玄関脇に置かれていた無線機を手に取った。
 『G36-S、こちら、K17-R、レディオチェック、オーバー』
 黒い人影が無線を受け取り、姿を変える。門戸を潜り旧都へと降りる彼女を目がけ、地霊殿の屋根から一羽の鴉が飛び立った。
 彼は老成した瞳で空を見守る。
 彼は雄大な翼で空を駆け空の後を追う。
 彼は空に近づく不審者に鋭い爪で襲いかかる。
 彼は空の監視権護衛役。最古参の地獄鴉の一人で、空と共に焦熱地獄の整備班に所属していた壮年の妖獣。空が外に出る際には彼の様な実力を持った妖獣が一人護衛として着く事にしている。中でも彼は地霊殿でも屈指の高齢個体。護衛役としては申し分ない筈なのだが、そんな理屈とは関係なく空が自らの元を離れる空想が頭から離れない。
 『……そう。そのまま監視を続けて。急進派を近づけさせない様にね。オーバー』
 燐は大きな溜息を吐くと、監視役の鴉との無線を切断した。
 「やっぱり、空の事。まだ慣れない?」
 「……正直に言うとそうですね。さとり様は平気なんですか?」
 「いいえ。私も戸惑ってはいます。でも、今の空は私と燐。そして皆が心の支えですから。私が動揺してしまったら空にも伝わってしまう」
 「今のお空に過度な刺激を与えてはいけない」そう呟くさとりの顔は何処か寂しげだった。
 その疲れた横顔に燐は一抹の罪悪感を覚える。燐はあの日を回想し、瞑目した。胸の内に湧きあがるもやもやとした感情を押さえる為に。


 八咫烏を身に宿した空はその直後に暴走した。主を害する者への純粋なる憤りと、世界を知らぬ神のすれ違いが生み出したのは不安定な感情。そして膨大な熱量。辛うじて焦熱地獄内に逃げ込んだのは、彼女の最後の意志だったのか否かは分からない。地霊殿の焼失は避けられたものの、即座に次の問題が発生する。焦熱地獄の耐熱限界。二千度を上限とする内壁は、優に数万に達する空の熱に次々と崩れ去って行った。
 空を止めようにも、障壁すら易々と突き破る豪炎に焦熱地獄への侵入を阻まれる。届けられぬ声は、孤独を生み更なる暴走を誘発する。
 限界を迎える内壁。魂を焼く炎の流出を食い止める為に彼らは強硬策ともいえる手段を取る事を余儀なくされた。焦熱地獄直上に存在する枯れた間欠泉。そこへの排熱管の連結である。その間欠泉は、幻想郷と呼ばれるこの世の名だたる妖怪が一堂に会する人外魔境に繋がっていると言い伝えられている。何を呼び寄せるのかはその場の誰にも予想できない。だが、彼らには他に取るべき選択肢が存在しなかった。
 技術部の力により迅速に管は間欠泉へと連結される。莫大な熱は管をじわじわと溶かしながらも、間欠泉へと抜ける。爆音と共に、焦熱地獄全体が発する崩壊の軋みは緩やかに減衰していった。
 一時凌ぎの妙案はしかし長続きしない。留まるところを知らぬに排熱管は次々と脱落していった。空と対話できる可能性を持つのは最早さとりのみ。しかし、是非曲直庁から戻ってすぐの憔悴したさとりに伝える勇気を燐は持ち合わせては居なかった。


 当時の事を思い出し燐は耐えきれずにほぞを噛む。終わった事は悔いても仕方が無い。そうさとりに諭されて尚、己が記憶は己が心を焼き続ける。あの時勇気を持たなかった自分が情けなかった。あの時空を止められる力を持たなかった自分が悔しかった。
 「お燐、どうしたの」
 「いいえ、何でもありません……」
 堂々廻りをする思考を断ち切ったのは主の言葉だった。素知らぬ顔をするのは主なりの優しさか。ただ柔和な笑みをこちらに向けて貰えるだけで心のざわつきが和らいでいくのを感じた。
 燐は幻想郷に続く間欠泉に怨霊を流した。誰かは分からない。だが、この現状を打開する誰かが来てくれる事に一抹の望みを掛け、燐は怨霊を放流した。その結果発生したのが間欠泉異変。地上からの来訪者は圧倒的な力で空を調伏し事件は解決した。だがそれはあくまでも結果論だ。その道中でさとりは消耗した状態での戦闘を余儀なくされ、地霊殿の妖獣達も多かれ少なかれ傷ついた。
 それでもさとりが自らを厳しく罰してくれればその罪悪感も和らいだのかもしれない。現実は違った。処分を受けにさとりの前に現れた燐が受けたのは軽いデコピン一発と熱い抱擁。燐はさとりの胸の中でその晩を明かした。
 「……お燐。お空の中に居るあの神様がどんな ”子” か知りたい?」
 唐突な主の言葉。あまり空の内面着いて語りたがらない主にしては珍しい言葉に少し驚く。だがその真摯な瞳に燐はこくりと頷いた。
 「何と言うのが一番適当なのかしら……、子供? そう、子供なの。あの神様はまだね」
 「子供……とは、どう言う事ですか?」
「好奇心旺盛な神様。こういう小さなコミュニティを初めて見るんでしょうね。 ”彼” の波長は常に揺れ動いているわ。まるで、見る物聞く物全て新鮮な ”幼児”のようにね」
 「そんな……、まるでそれじゃ、今の ”お空” じゃないですか」
 「お燐。神って何だと思う?」
 燐の問いには答えずにさとりはそう問うた。戸惑いながらも燐は嘗てさとりや旧都の者から聞いた断片的な知識を拾い集める。
 「神……、ですか? 人の信仰心、意志、自然現象、それらが人格を持ち受肉した存在でしたっけ?」
 「そう。でもね、あの子の中に入っているのは厳密には神となり切らない未熟な坊やなのよ」
 「未熟……?」
 「人の意志が受肉したとしてはあまりにも精神が幼い。恐らくあれはミサキガミに端を発する神となる過程の存在。おそらくは、あの山の神が保護していたのでしょう。信仰が足りず、消えゆく運命にあった神を拾い上げ、そして彼女に渡す事で加速度的に神へと昇華させた」
 八坂の神はあの事件の後にすら、さとりの元に訪れる事は無かった。故にそれらは全てさとりの推測にすぎない事象。だが、それはほぼ真実と考えても良いだろう。是非曲直庁の権力を存分に利用し書物を集めた彼女は暇な時間があれば書斎にこもり書を食んでいる。その知識量は当事者と比較しても寸分も劣りはしない。
 「そうそう。お空の普段の人格についての話でしたね」
 「そ……、そうですね」
 「あの原因が脳の計算域の圧迫である事は間違いないと思います。だけど、本質はそこではないの。あの子はね、望んで ”精神の退行を受け入れている” かもしれないのよ」
 「望んで……?」


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 かつりかつりとリノリウムの床を打ちならし少女は歩いていた。頭に被るのはカエル型の奇妙な帽子。小さな体躯に似合わぬ落ち着いた足取りで彼女は目的の部屋を目指す。
 館内放送からチャイムの音と共に奇妙なホワイトノイズが流れる。それを切っ掛けに脇にある扉から数人の男が現れ諏訪子に挨拶を交わすと反対側に向かって歩いて行った。
 諏訪子はそのまま突きあたりのT字路に差しかかる。『←第三研究棟』『↓食堂』『→中央管制室』緑地に白の鮮やかな文字で記されたガイドに諏訪子は一瞥もくれない。迷い無く右へ曲ると突きあたりの扉を開いた。
 部屋の中には無数の計器が並ぶ。CRTの青白い光が映し出す規則的な波形は、全てが正常範囲に収まっていた。
 正面にあるのは巨大な耐熱ガラス。その向こう側では、一つの異形となった少女が深く瞑目しマグマの海に浮かんでいた。
 ぐつぐつと煮え滾るマントル。噴き上がる噴煙の真上には巨大なタービンが待ち構えており、その蒸気を受けてその羽をゆっくりと回転させている。
 ここは地下間欠泉センター。地上の神が新たなるエネルギーの可能性を開く為に建造した研究施設兼発電所である。
 諏訪子が耐熱ガラス越しに印を結ぶ。彼女の前に現れたカエル型の式は、空に向かって壁をすり抜けて真っ直ぐに飛んで行った。胡坐を組み出力を調整する空に式が取りつく。ぱちくりと瞬きをした彼女はその主へと眼を向けた。
 「空、調子はどうだい?」
 「……なんだか久しぶりに頭がすっきりした気分。これも神様の力なの?」
 「一時的にお前の体の器としての役割を肩代わりしてやっただけだよ。私の影響下を離れれば元に戻る」
 「……そっか」
 「なぁ、空よ。八咫烏と対話はできるか? そいつが何を言っているか分かるか?
 「感情は痛い程伝わってくるよ。『嬉しい』『楽しい』『鬱陶しい』『悲しい』色々ね。でも、地霊殿の皆はすぐに気に入ってくれたみたいだよ」
 「そうか……、それは良かった」
 胸に現れた深紅の瞳に手を当て、その鼓動に耳を傾ける。力強い鼓動が生み出す波長の波を聞く彼女の横顔はかつての物の様に精悍で大人びた物だった。その様子に口元をにやつかせたカエルの様な少女は悪戯っぽい笑みを浮かべながら口を開く。
 「睦言を聞かされたりはしていないだろうな?」
 「神の伴侶となる事を決めた時点である程度は覚悟していますよ。まぁ、まだこの子にはそこまでの感情は無い様ですけれどね」
 「はは、それは良かった。図々しいかもしれないが、もしもそいつがその気になったら優しく受け止めてやってくれ。初めての思い人に拒絶されるのは辛い物だからね」
 「大丈夫ですよ。私、この子の事嫌いじゃないですから」
 「ほう。そんな ”へたれ” の鼻たれ小僧の何処が気に入ったんだい?」
 辛辣な少女の言葉に空は苦笑する。遥かに格上の神からの言葉である。彼女の胸の『彼』もすっかりと委縮し、弱々しい鼓動を返し始めていた。だがそんな彼を空は優しく慰める。慈しむ様な瞳で胸にあてた手で深紅の瞳を撫で摩った。
 「私にも子供が居たらこんな感じなのかなぁって。そう思ったら凄く嬉しくて」
 「だが、恐い……、か」
 「流石神様。よくお見通しで」
 「マリッジブルーって奴かねぇ。私にもそんな時期はあったよ。どうしても辛くなったら素直に誰かに甘える事さ」
 「言われなくても、最近の私は常にべったりです。安心して下さい」
 「溜めこんではいない様だ。それでは、その言葉を信用しようかね」
 幼い外見に似つかわしくない達観した言葉。一頻りからからと笑うと、彼女は真面目な表情に戻り空へと語りかける。
 「だけど早いところ覚悟を決めるんだよ。今の状態で長く居たらお互いにとって負担が大きい。共倒れもあり得るぞ」
 「分かっています。でも……、少しだけ心の整理をさせて下さい」
 「……また悩んだらここに来るんだよ。大した事は出来ないが話を聞いてやる位はできる。 ”神生” の先輩からのアドバイスだ」
 「……ありがとうございます」
 諏訪子は再び印を結ぶと空に取りついた式を手元に呼び寄せる。ぱちくりと眼を瞬かせた空は、状況を悟ったのか直ぐに瞑想へと戻って行った。その様子を見届けた少女は、目の前に広がる計器類に眼を通す。全ての数値がグリーンゾーンに収まっている事を確認した諏訪子は硝子に背を向け扉へと向かう。

 「一つの体に二つの人格。それに片方は神格と来たもんだ。そりゃぁ無理の一つも出る。神奈子も酷な事をしたもんだ」

 それは、ぼそりとした平坦な声。特に怒りが籠もっている訳ではない。純粋な憂慮のみが感じられる声で諏訪子は言葉を続ける。

 「神格と器の完全な融合、それが果たせた時お前達は完全な神となり安定した精神と真の神力を得る。ただし、これまでの人格は永久に失われるだろう」

 あくまでも冷静に。諏訪子はそう呟くと中央制御室から姿を消した。


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 「神を強制的に外す事で解決するなら私は既に外している。でもね、あの子の心を読んでしまったらとてもそんな気にはなれないのよ」
 「さとり様……」
 「御免なさい。こんな話をしても貴女を困らせるだけよね」
 「いえ、そんな事は決して――」
 「――お燐。少しお使いを頼まれてくれるかしら。ヤマメに荷物を届けるだけですから」


 変に上ずった調子外れな声。バレバレの嘘を吐くさとりは燐と眼を合わせようとしない。相も変わらず妙な所で不器用な人だなぁ、と燐は場違いな事を考える。だが、腐っても主は一枚上手であった。何時の間にか、玄関の前に立たされていた燐は手に封筒を握らされ小包を手渡されていた。
 「よろしくね。お小遣いはその封筒に入っているから。途中で何か美味しい物食べてきても良いわよ」
 「はぁ」と生返事を返す燐を半ば強引にさとりは外へと送りだす。その背中を見届けると同時に詰め所から出てきたのは、深い隈を作った厳めしい帽子だった。
 「――体の良い厄介払いですね。良いのですか、お燐ちゃんにも関係はある事でしょう?」
 「徒に不安にさせるよりはずっと良いでしょう」
 「まぁ、そう言う考え方を否定はしませんが」
 ふぅと溜め息を吐いた映姫は壁際に置かれた椅子に腰を下ろす。眼の下に刻まれた隈は連日支部から送りつけられる大量の書類による物であるとさとりは知っている。
 「八咫烏を取り込んだ地獄の鴉。彼岸でもちょっとした有名人ですよ。お空ちゃんは」
 「それは……、あまり良い予感がしないのは何故かしらね」
 「日ごろの行いかしら? でも、まぁ、多分貴女の考えている事で大筋は正解よ」
 「巨大である程、何よりも求められるのが再現性。知っていますか。外の世界で宇宙と言う未知の領域に到達する為に使われる最先端の技術は数十年前に開発され一般化した物が使われているそうですよ」
 「知らないわね。まぁ、石頭が昔から変わって居ないのはよくわかったからひとまずは良いです。……良くないですけど」
 遠方から視線を感じる。廊下の彼方に立つのは映姫と共に地霊殿に詰める書記官の一人。横目でちらりとそれを見た映姫はすっと息を吸い込むと威厳のある声で宣言した。
 「今回の人員派遣にはそんな思惑も含まれています。いざその鴉が暴走した時に確実に ”殺せる” 人材をよこす、と」
 「……映姫、幾ら友人でも怒るわよ」
 「ですがこれは事実です。包み隠してもお互いの為になりません」
 「違う。私が怒っているのはそこじゃない。どうして貴女の思考が、"空の暴走を前提としている” かと言う事よ。あの子が暴走すると決まった訳では無い」
 「……最悪の事態を想定しているだけです。安心して下さい。彼女が暴走せずに済み、事件も解決に導く事に私は全力を尽くします」
 「一つの嘘も言っていないし、自らの主張も曲げていない。そう言う貴女の閻魔らしい所。私は好きじゃない。……お空を殺すと言うのならその前に私を相手にする事になる。忘れないで」
 「無論」迷い無くそう答える映姫。重い視線と、真っ直ぐな瞳は真正面からぶつかり合う。暫しの沈黙。そして、どちらともなく漏れる溜め息。ちらと視線を外したさとりはばつが悪そうにポケットの中の煙管を指で弄んだ。
 「……正直なところを言うと空の暴走を是非曲直庁が警戒するとは思っていなかったわ。てっきり、旧都が灰燼に帰そうと言うのなら傍観を決め込むと思っていたのだけど」
 「当然の事でしょう。かつてとは言え、ここも御仏の威光が刺した地。無碍にする事等あり得ません――、いえ、冗談です」
 建前を視線で看破された映姫はこほんと咳払いをして言葉を訂正する。
 「言わずとも察しているのでしょう? 既にこの旧都は高度に政治的な価値を持ち始めているのよ」
 「相変わらずあの男は……。自分の権益以外に考える事は無いんでしょうか」
 「さとり、あまり口を過ぎない様にお願いします。この場には私よりも秦広王に近い物が大勢居るのですよ」
 「今更多少嫌われても、大した問題は無いような気がするんですけどね」
 さとりは、無くなった己の腕を見つめる。数日の軟禁と共に没収された腕についてさとりも思う事が無い訳では無かった。
 「何かあればすぐにでも追加人員を送ろうと手ぐすねを引いて待っているわ。私以外にね。理由は言わなくても分かるわよね?」
 「映姫……、あんた出世コース外れかかって無い?」
 「怒りますよ。……気にしている事を言わないで」
 「悪かったわ。これでおあいこにして貰えると嬉しいわね」
 「……そう言う事にしておきましょう。それはさて置き……、小町を見ませんでしたか? 用事を頼もうと思っていたのですが」
 「いいえ、私は見ていませんね。」
 「また昼寝かしら。まったく……、少し探してきます。お昼には戻ります」
 「はいはい。行ってらっしゃい。偶には休みなさいね」
 不機嫌な様子で玄関を出て行く映姫。その背を見届けたさとりは残りの書類仕事を片付けようと書斎へと足を向けた。


 仕事前の一服。ポケットから取り出した煙管に葉を詰める。片手では若干作業し辛い物の最早慣れた作業だ。煙管の先端を口に咥え、旧都で貰った使い捨ての木製マッチを胸ポケットから取り出そうとした時。それはかさりと音を立てた。

 「これは……?」

 ポケットの中に感じる違和感。指先で摘んで取りだされたそれは、小さく折りたたまれた紙片だった。そこに記されていたのは活字の如く整った文字。さとりは無言でそれを灰皿に入れるとマッチで火を放つ。激しい燃焼反応により紙はたちまちの内に橙の炎で包み込まれた

 「悪い冗談でも聞いている気分よ……。一体誰が得をするのでしょうね」

 黒い墨へと変化し行く橙の炎の中でその文字は辛うじて読みとる事ができる。煙草に混じって立ち昇る焦げ臭い香りは酷くさとりの胸をざわつかせた。

 『霊魂が何者かによって旧都に横流しされている』


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 「おつかれさまでーす。今日も良かったよー。ヤマメちゃん」
 「いえいえ。こちらこそ」
 凝り固まった肩をほぐそうと伸びをしながら何気なく窓に歩み寄る。ヤニで黄ばんだ硝子の向こうに見えるのは、手も届きそうな程近い地上の天蓋と眼も眩む程に遠い地下の地面。吸い込まれそうな錯覚を覚えるそれに少し足が竦む。ここは、高層化が進む旧都の建造物でも一際大きなラジオ塔内部。
 最早日課となっている昼の定期放送を終えたヤマメは業務からの解放感に浸る。その心は既にこの先に待ち受ける昼食のメニューへと飛翔していた。幾人かのスタッフがヤマメに挨拶をしてスタジオを去って行く。少し寂しくなった室内に食事時の到来を告げる鐘が下腹部から鳴り響いた。
 「ヤマメちゃん、お昼はまだなのかい?」
 「あら、デートのお誘い? 私とのランチは安くないけどそれでも良いの?」
 「ヤマメちゃんの為なら痛くも痒くも……、いや、痛いし痒いのだけど我慢はできるさ。僕が奢ろう。下のレストランで構わないかい?」
 声を掛けるのはヤマメの向かいに座り共にラジオパーソナリティーを務めた子鬼の青年。ヤマメよりも幾分か若く、その顔立ちは精悍ながらも何処かあどけなさが残る。だがその目つきは落ち着き払っており、見た目通りの若者ではない事が伺えた。
 「目聡いねぇ。今朝良い食材が入ったってシェフが上機嫌だった。今頃は丁度準備万端で待ち構えている頃合いだろうねぇ」
 「何事も準備で勝負は決まる。抜かりはないさ」
 「良い甲斐性だ。でも残念だね。それを私以外の誰かに向けてやれば良い物を」
 「落ちないと分かっているからこそ気楽にやれる面もあるって事さ。さぁ、行こうか。 ”予約の時間” が近づいてる」
 「……今日初めてあんたを少し恐いと思ったよ」
 ヤマメは子供の様に破顔する男に好感を覚えてしまった事に軽い自己嫌悪を覚える。浮ついた気持ちを振り払う様に慌てて何時ものニヤケ顔を作りだす。小さな手提げ鞄だけひっつかむと男と連れだって部屋を出た。
 雑居ビルの狭い廊下を抜け、エレベーターを待つ。カウンターウェイトがするすると落ちる音と共に粗末な金網のフェンスが自動で開いた。
 「ヤマメさん?」
 「おや、久しぶりだね。お燐ちゃん」
 エレベーターの中で両手に小包を持ち、眼を丸くしているのはお燐だった。予想外の展開に何から話すべきか戸惑っているかのようなその様子に思わずヤマメは苦笑する。
 「珍しいね。一人でこんな所まで。お使いか何かかい?」
 「流石、お察しが良いですね。さとり様から言われて小包をお渡しに参りました」
 「おやおや、それはわざわざ。ありがとう。……ところでお燐ちゃん。お腹は空いていないかい?」
 「え……。まぁ、この後何処かで食べて帰ろうかとは思ってましたけど……」
 「じゃ、決まりだね。お燐ちゃんもお昼御一緒しないかい?」
 「え、でも、お昼ってここですよね? あの……、流石に持ち合わせが無いんですけど」
 懐のガマ口に手を当てた燐は帰ってくる重みで中身を察する。さとりから渡された小遣いを足し合わせてもこのような上等な場所で食事をするに足る金額にはならないだろう。だが、ヤマメはそんな燐の様子を気にも留めない。むしろ、何時にも増してニヤケ顔が輝いており、その視線は嫌な予感を感じ取った男に向けられている。話している間にエレベーターは目的の階へと到達していた。
 「大丈夫だよ。こっちにはパトロンが居るからね」
 「えぇ、ちょっと。ヤマメさん。そりゃ無いですよぉ……」
 「ケツの穴が小さいねぇ……。こう言う時にスパッと払ってこそ男気が見せられるってもんだよ」
 辿りついた店の前のメニュー票を前に、苦い顔をしながらも男は渋々首を縦に振る。何処か哀愁の漂うその背中に、燐は少し委縮してしまった。
 「駄目だよお燐ちゃん。お燐ちゃんも将来は馬鹿な男を誑かして、ごはん食べさせて貰う位は出来る様にならなきゃ」
 「うーん。あたいは気を使うのがそんなに好きじゃないから、別にそう言うのはいい……、かなって」
 「違う違う。気は使う物じゃなくて、使われる物さ。なぁ、そうだろう?」
 「僕の前で話さなくても良いじゃないですか……」


 すっかりと軽くなった財布に嘆く男の背中を蹴りだした二人がビルの廊下を姦しく歩く。見知らぬ他人の金だろうが、何だろうが出て来る食事に貴賎は無い。減ったお腹の分だけしっかり胃袋に収め、今はその満腹感に一時の幸福を感じていた。現在減量中である事は一時忘れる事を代償にではあるが。
 「あの、ヤマメさん。さっきの人、良いんですか?」
 「いいの、いいの。あいつもかなり貰ってるからさ。あれ位でどうにかなる様な奴じゃないさ」
 「そうではなくて、私に構って放りっぱなしだったような」
 「良いのよ。仕事仲間だから無下にできないだけ。別に特別な間柄じゃない」
 ヤマメは快活にからからと笑う。活舌の良い話し方は耳にも心地良く、ウィットに飛んだ会話で食事中も笑いに欠く事は無かった。話好きなのは燐も同じだが、事他人を楽しませると言う点ではヤマメには到底敵わない。少しの嫉妬を感じる。陰湿な物では無い。むしろ憧憬にも近い爽やかな感情。
 「さようなら、ヤマメさん。それ、よろしくお願いしますね」
 「あいよ、頼まれた。気を付けて帰るんだよ」
 反骨心からか、過剰過ぎる位に元気な声を出す。軽快に階段を下りる燐の背中を見送り、ヤマメは僅かに口角を上げて微笑んだ。
 「全く。空の事があって塞いでいるかと思えば……。思ったよりは元気そうで何よりだ。かと言って安心する訳にもいかないけどね」
 一息をついたヤマメが見るのは胸の中の小包。さとりから送られてくると言う事は中身はあれに決まっている。人目に着く所は不味い。ヤマメはそう考え、人気の少ない非常口側の廊下へと足を運んだ。


 切れかかった緑色のライトが頭上で不規則に明滅している。少々の鬱陶しさを感じながらもヤマメは受け取った小包を開いた。小包に入れられた幾枚かの写真と、書類。
 「これはサンプルの解析データか。……やはり、妙だと思ったんだよ。この頭にもやが来る感じ。何かを植え付けられている感じがね」
ぺらりぺらりと中身を改める。一頻り確認し終えたヤマメはうんざりと言った表情で天井を仰ぎ見た。
 「太陽教……か。ただの新興宗教では無いと思っていたが……。どんな皮肉だよ全く。 ”自由を求める者が最も不自由” だなんて」
 (人……、いえ、コミュニティとはそうやって形作られる物。むしろ、それが最も自然な形なのですよ)
 つつりと、ニヤケ顔の頬に汗が垂れる。薄ら寒くなるほどの事実に総毛立つ。脳は逃げろと警告を発していた。戦うにしても場所が悪すぎる。相性が悪すぎる。全てが適切ではない。
 選択肢は予想以上に明確だ。後ろ手に握ったこのドアノブを回し外へ出るか、 ”ここ” であいつらと対峙するか。
 全ての条件を加味し、どちらかを選択をしなければならない。考えるまでも無い。決断は簡単だ。今自分が外に出ればこいつらは燐を狙うに決まっている。今度こそ燐を犯人に仕立て上げるつもりだろう。
 故にヤマメは前進した。行き止まりの廊下を埋め尽くす様に展開する数十体にも及ぶ怨霊の壁に。ヤマメは立ち向かう事を決意した。
 ヤマメの力は広い空間で無ければ効果を発揮しない。廊下の向こう。吹きぬけの階段になっている地点で向かい討つ。その一点に掛けてヤマメは飛んだ。
 腕と曲げた脚で急所だけをガードする。腕や脚の一本位でここを抜けられるなら安い。しゃれこうべの犬歯が肩の肉を食いちぎる。足の腱に喰いつかれ深々と刃が突き刺さる。だが、退けない。八本ある内の一本が駄目になったからどうだと言うのだ。まだ七本もあるじゃないか。
 アキレス腱を一本しゃれこうべにくれてやり、ヤマメはその壁を突き破った。地面に転がるように着地する。激痛が走るが、休んでいる暇なんてありはしない。
 即座に階段へ向けて駆けだそうとしたヤマメが前を向いた時、視界の端にそれは映り込んだ。見間違いかと思い再度そこを見ると ”悪夢の様に案の定そこには何も居なかった” 。だからヤマメは理解してしまった。自らが見た物が何者であるかを。

 「冗談はよせよ……。何でこんな所にお前らが ”居る” んだよ」

 嗚呼と無情を嘆く声を上げたヤマメは静かに眼を瞑り周囲に糸を展開する。
 恐らくは無駄だろうと察しながら。衰弱へ向かう病魔へその指を差し出した。


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 暗くジメジメとした裏通り。生活排水が地面を湿らせる生臭い路地。建物と建物の間の路地。光も届かず、ゴミ捨て場の様になっている路地がお燐は大好きだった。
 薄暗いと言っても、屋根に覆われている訳ではない。
 実際上空は無数のベランダや即席の渡り廊下で殆ど覆われているが、光の差し込む所もある。燐が体に襲いかかってくる強烈な重みに気がついたのは不意に開けた地点にある陽だまりに差しかかった時だった。体が包まれる様な安心感と、日差しの温もり。鉄管の上を歩く燐は大きな欠伸をした。
 「おかしいなぁ。昨日は早めに寝た筈なのに」
 耐えがたいほどの眠気に最初は抵抗しようとも考えたが、鉄管から足を踏み外しかけた所で抗う事は断念せざるを得なかった。責めてもの自衛手段にと、体を黒猫の姿に戻し段ボールの隙間に体を埋める。日陰は寒いかと思ったけれど、段ボールの中に潜り込んでみれば意外と心地良い。思った以上の断熱作用に、段ボールって意外と凄いんだなぁ等と取り留めも無い事を考えながら脳は限界を迎える。
 猫らしい小さく愛嬌のある寝息を立て燐は深い眠りに着いてしまった。
 その背後に忍び寄る紅い髪に、燐が気付く事は無かった。


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 「まったく。帰ってこないと思ったらこんな所でお昼寝ですか……、少し躾を考え直さないといけないでしょうかね」
 胸の中で呑気に眠る猫にじとりとした視線を向ける。無防備に眠るその姿はさとりの嗜虐心を痛く擽る。抗いきれないその衝動に、思わず指をその口に突っ込んでみる。ピンク色の舌と歯茎が露わになるが、猫は起きる気配も無い。髭をつついたり軽く伸ばしてやったりする。頬がひきつる程に伸ばしてもやはり起きる素振りすら見せなかった。
 「……何があったらこんなに疲れるのかしらね?」
 呑気に眠るその顔が答える筈も無い。その安らか寝顔はきっと良い夢を見ているのだろうとさとりは感じ取った。
 「貴女と初めて会った時もこうして旧都を抱いて歩きましたね」
 夜の旧都の町を歩く。ガス灯からダイオードまで統一感の無いてんでばらばらの灯りが旧都を彩っている。風情も何もあった物ではないそれだが、さとりは不思議とこの光景が嫌いでは無かった。異質な者同士がより集まって形成された都市。そんなコミュニティがさとりは嫌いでは無かった。
 「……あら、リボンが無いわね。無くしてしまったの? 仕方ない子ね」
 尻尾の先に現れる筈の、いつも太股に撒いていた黒いリボンは何処にも見当たらない。何処かに落としてきてしまったのだろう。その位に軽く考えたさとりは大きく気に留める事をしなかった。
 「あの時の貴女はまだ小さかった。人型にもなれないただの猫だった。姿は今と同じだけど、全然中身は違うわね」
 周囲には怨霊の気配も無い。空は僅かにタングステンを含む鉱石が放つ光で彩られる。地底の星空は青白く幻想的に夜を演出していた。直上を走る鉄道のレールに遮られ明瞭に見る事ができないのが少し悔しい。
 ふと、自分が地霊殿に来る事を望んだ時の事を思いだす。映姫以外の友人もおらず、一人孤独に仕事に打ち込む日々。誰にも認められず誰も認められない。何か心の中に大きな虚ろがあると感じ、ならば虚ろと一体となろうと当初は考えていた。そんな時に出会ったのが空と燐だった。
 「成長した貴女達がどんな姿をしているのか。何を話してくれるのか。そして、どんな伴侶を選び、どんな子供を育てるのか。その変化が私の虚ろを埋める。嬉しかったのかもしれませんね……」
 ビルの林を抜け、小高い丘へ続く道へ出る。館まではもう少し。既に上空を遮る物は無い。飛べば我が家まで直ぐだろう。窓から漏れる灯りは自分を待っている者の灯りなのだろうか。だがさとりは歩いて地霊殿に向かう事にする。自分と胸の中の我が子の事を考えるだけの時間が思うよりも遥かに愛おしかった。
 「貴女みたいに、成長して行くペットを見るのが私は何よりも好きなんですよ。……教えるときっと張り切り過ぎるから直接は言わないんですけどね」
 自然と足取りは軽く、鼻歌交じりに歩き始める。眼の前に迫る玄関の扉に少し残念な気持ちになる。現実逃避は後退しか生みださない。分かり切った教訓にドアノブを捻る。浮ついた気持ちが吹き飛んだ。
 それを告げたのはさとりのペットの一人。映姫の手伝いをさせていた地獄鴉の青年。落ち付かない様子で玄関ホールを歩きまわっていた彼はさとりを眼に止めると抱きつく様な勢いで迫る。真っ青に顔を染めた青年は息も荒くさとりに告げた。


 「さとり様、大変です。怨霊異変で犠牲者が出ました!」


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 マーフィーの第五法則より、自然は隠れた欠陥に絶えず加担する。顕在化しない欠陥はより些細な欠陥により露呈する。そう考えれば彼女の身に起きた事は必然であったと言えるのかもしれない。だが、少なくとも当事者たちにとってはあまりにも運の悪い事故である事に間違いは無かった。
 不穏の影は無邪気な笑顔に忍び寄る。それは、何時も通り彼女が間欠泉センターの炉心内部で瞑想に耽っている時。最初はほんの僅かな違和感。だが、徐々に増大する異物感に彼女は気がつき始めていた。
 「ミサキガミ……、ですか?」
 「そうそう。あの子も昔私が拾ってあげたんだ。見ての通りのへたれなんで色々と苦労はさせられたけどね」
 その日は燐も空に同伴して間欠泉センターを訪れていた。特に何かやる事がある訳ではない。普段の空の仕事ぶりと、最新の技術の粋を集めて作られた施設やらをその眼で確かめたくなっただけだ。最初こそ興味深気にCRTや計器類を覗きこんでいた燐であるが、元より燐は機械に聡くない。すぐに興味を無くし今はもっぱら諏訪子との雑談に興じていた。
 「へぇ……、地上ではそんなに簡単に神になってしまうんですね」
 「神になるのは簡単。だけど信仰を得られるかは別問題、地獄だと神なるのは珍しいの?」
 「ここでは死ねば直ぐに魂が彼岸に吸い寄せられるか、怨霊と化すかの二択です。神となった者なんて聞いた事も無いですよ」
 管制室内には現在燐と諏訪子。そして、研究員らしき妖怪の男が計器と書類の山を照らし合わせていた。施設内部にいる気配の数は決して多くない。地下世界の持ちうる最新の技術を結集して作られたこの間欠泉センターは電力を利用する事で高度に自動化されていた。ぐるる。と胃袋の蠕動運動による音がどこからか聞こえて来る。硝子に顔を近づける。中を覗き込むと空が物欲しそうな瞳で管制室を見つめていた。
 「おりーん。お腹空いたよー」
 「お昼までも―少しだから我慢しなー」
 「空、融合反応中に余計な気を散らすんじゃないよ」
 「良いじゃないですかー。ちょっと位」
 マイク越しに聞こえる空の間延びした声。その姿は異形の八咫烏へと変じているが、精神は空である事を保っている。それは諏訪子の提案による一時的な対応策。八咫烏と脳の処理領域を適切に区切る事で、精神の混濁を避け情緒の安定を図った。
 「駄目だ。後で式を飛ばしてやるから、今は静かに瞑想に勤しめ。万一が許されないのがお前の力なのだから」
 「分かりましたぁ……」
 大人しく瞑想に戻る空。何事も無く過ぎて行くかに思われた時刻は、しかし、一つの計器が示す針によって終わりを告げる。それが明確な異変である事に気がついたのは、皮肉にも当人では無く管制室の計器類を監視していた諏訪子だった。数多ある計器のうち一つ。八咫烏の情報処理負荷を示す針がを脱しに突入したのを見て諏訪子は手元のマイクを手に取った。
 「空。八咫烏の処理負荷が増大している。何があったのか聞いてみてくれないか?」
 「おっけー。わかったー」
 空に八咫烏との対話を指示する。普段なら大抵それで収まる。新米の神故に、情緒の不安定は珍しい事では無い。幼児のぐずりにも似た現象だろうと諏訪子は考え、特に深刻には捉えて居なかった。
 空は胸の内の八咫烏に何事かを語りかけている。特段おかしな事は見られない。だが、一向に数値の改善は見られない。寧ろ、八咫烏の処理による負荷はに突入しつつあった。
 「空、どうした? 悪化するばかりだぞ。喧嘩でもしたのか?」
 「違うの、神様! 八咫烏君が興奮しちゃって言う事を聞いてくれない!」
 「まさか……、もう限界が来たのか? 馬鹿な、まだ余裕は有った筈だ」
 ついに過負担状態に突入した核融合反応は炉内温度を急激に上昇させる。間欠泉センター中にアラート音が響く。自動で降り始めた緊急用隔壁を腕で無理やり押さえつけ諏訪子は、硝子に身を乗り出した。
 「駄目だよ、八咫烏君。待って、いけない!」
 「落ち着け、八咫烏。お前の身は、今お前だけの物では無い」
 ――■△☆※――ッ!!
 胸の深紅の瞳が直接大気を鳴動させ声ならざる叫びを上げる。未だかつて聞いた事の無い彼の叫びは怒りに満ちていた。
 「緊急連絡、緊急連絡。『コード:オレンジ』 早急に待避せよ。繰り返す、『コード:オレンジ』 早急に待避せよ」
 マイクを館内に切り替えた諏訪子は声の限りに退避を叫ぶ。館内に諏訪子の声と、ホワイトノイズが響き渡ると同時。俄かに騒がしくなった館内からは人々が逃げる音が聞こえ始めた。
 「限界ってどういう事だ、逃げるとはどういう事だ……?」
 「…………」
 視界が真っ赤に燃え上がる。燐は額をぶつけんばかりの勢いで諏訪子に詰め寄ると冷酷な程に冷静な緑の瞳を真っ直ぐに射抜いた。噴出したその怒りは、八つ当たりにも近い。そんな事は自分でも理解していた。それでも湧きあがる怒りを吐き出さずには居られなかったのだ。
 「さっさと逃げるつもりかと聞いている。空はどうするつもりだ」
 「……逆に質問しよう誰が此処に残って、あの空に何をしてやれる?」
 「貴様――」
 「――神が助けるのは現世の存在だけだ。空を助けるのは最早、あいつ自身に他ならない。なぁ、お燐。私に喰ってかかる暇があったら、あの馬鹿鴉共に声を掛けてやれ。それは、縁の深いお前にしかできん事だ」
 居竦む。強制的に心が平伏させられるような錯覚を覚える。燐に冷静さを取り戻させたのは、小さな体躯の何処から出ているのかが不思議な程に低い声。我に返った燐は苦い顔をしながらもその手を諏訪子から離した。
 「……お空が死んだら、あたいはあんた達を許さない」
 「文句も憤りも幾らでも後で聞く。私は外部からの干渉を試みる。お前はあいつに声をかけ続けろ、良いな」
 燐は硝子越しに空を見据える。己が胸の鴉に呼びかけようと必死になる彼女。融合の脚から発生する圧倒的な熱量に、熱が己自身をちりちりと焦がしつつあった。
 燐は空に向かって声を張り上げ励まし続ける。諏訪子は少し離れた位置で胡坐を掻くと印を結ぶ。外部から干渉すべく高度に複雑な術式の構築を開始した。
 炉心内部の温度を示すメーターは既に機能をしていない。溶融を始める内壁に殆どの計器類は停止状態へと追い込まれていた。真っ赤に燃える大気。空はその中で苦しげな悲鳴を上げた。
 燐が張り上げる呼び声に空が答える様子は無い。己の悲鳴により更に興奮を増す八咫烏は負のフィードバック効果により加速度的に負荷を増大させていった。轟音が炉内に響く。空の上空発電用タービンが熱に溶け無残に崩壊する。空に触れる直前で猛烈な熱により蒸気へと姿を変じて行った。
 ジェネレーターの崩壊により電力系が次々とダウンする。電力の途絶えた管制室は非常電源に切り替えられ、警告ランプの橙の灯りが部屋を照らし始めた。鳴りやまない警告音。響く異音。それは科学と妖術の粋を凝らした最高レベルの耐熱加工の施された硝子にひびが入る音。燐はその事実に戦慄し、しかし硝子の前から離れる事は無かった。
 その様子を見かねたのか諏訪子が、術式の構築を中断し燐の傍に立つ。
 「空、聞け。お前は死ぬぞ。そのまま一人で、寂しく。地獄の業火でお前は焼かれ死ぬ。それが嫌なら足掻け。空」
 突き放すような厳しい言葉だった。横目でそれを見た燐は、だが、その眼の奥に宿るのは決して冷たい物だけでは無い事に気がついた。動揺が起こったのかほんの僅かに融合反応が減衰する。だが、その程度に崩壊が止まる程生易しい熱では無い。急上昇する室内の温度。障壁を張って耐える事すら限界に近づこうとしていた。
 轟音の発生。それは遠方で壁が崩れ去った音。熱に耐えきれなくなった建物は連鎖的な崩壊を始めていた。
 「燐。駄目だ。撤退する。崩壊が始まった。もうじきこの炉心は埋まる。……お前まで巻き添えになる事は無い」
 「駄目だ、お空を見捨てて逃げられるか!」
 「それで、お前と空を同時に失ったらその主はどう思うんだ! お前一人でも生きて、支えてやるのが忠義ではないのか?!」
 「嫌なんだよ……。そんなのはどっちも嫌だよ……」
 最も厳重に作られている筈の炉心は最も高い熱に晒された事で殆どのリベットが融けかけている。部屋全体が左右に揺れる。それは、熱による錯覚なのか本当に揺れているのか、その違いさえ燐には判断できなかった。熱によりぐらぐらと思考も揺れる。朦朧とする意識の中、燐が硝子へ向かったのは殆ど無意識に近い行動だった。
 「……頼む、お空。お前は、その力をさとり様の為に手に入れたんだろう? あたいの前で力になりたいと言ったのは何だったんだよ! 今死んだらお前は、さとり様に迷惑を掛けただけの碌でもない奴じゃないか。それで良いのか、お空」
 諏訪子の制止も聞かずに、どうと放った燐の拳により耐熱ガラスが弾け飛ぶ。崩れ落ちる様に炉心に飛びこんだ燐は空に向かって真っ逆さまに落ちて行った。

 「……嫌だ、寂しいよ。さとり様。助けて……、お燐!」

 響く空の慟哭。呼応するかのように胸の内の八咫烏がびくりと脈動する。だが、全く同時。崩れ落ちた天井板に炉心中央部は黒煙に包まれ、その視界は完全に失われた。

 「長期的展望を持たぬ一途さは獣故の愚かさか。それで、命を落とすならそれも本望だろう。しかし……」

 諏訪子は煙に覆われた炉心を前に深く瞑目する。彼女の言葉は冷たく、そして温かな響きを伴っていた。


 ――同時刻旧都。


 「なぁ、パルスィ。知っているか。私の鬼の友人には遊びで天蓋を割る。西洋の鬼は空から降る天体を握り潰す者が居る」
 「……力自慢? 如何にも脳筋の鬼が好きそうな事ね。それで、その過去の栄光と眼の前の事実はどんな関係があるのかしら?」
 「逃がす事に専念すべきか、止める事に専念すべきか」
 「やるだけやってみれば? 逃げさせるのはあんたで無くてもできるでしょう?」
 「最もだ」


 昼間だと言うのに、黒く染まった視界。明滅する灯りの向こうには、極限まで接近したアマテラスが視界を埋め尽くしていた。巨大な疑似天体は制御を失いゆっくりと下降している。
 「……ジャイロスコープがイカれたのか? ブレードは回転している。動力系に問題は無い筈だ」
 歪な雑居ビルの壁を蹴り、鉄管に手を掛けて上空へ向かう勇儀。街の至る所に設置された電光掲示板が一斉に暗転する様子が視界に入って来た。対象的に、街灯と動力系は何れも健在である。電力に依存する物がこの旧都の中で変調を訴えつつある。恐らくは頭上の大異変もその影響だ。電子機器を使った制御システム系がダウンしたのだろう。繊細なバランスで中に浮かぶ天体は一度バランスを崩せば容易には立て直せない。
 「おいおい、こりゃ、映画の撮影か何かか?」
 「何を言っているんだ、早く逃げろ! どう考えても堕ちてきているだろう!」
 間もなく落ちて来るであろうアマテラス。異変に気がついた旧都の住人がビルの窓から飛び出し次々と避難を始めている。蜘蛛の子を散らす様に中心地から離れる人の流れ。勇儀はそれを視界の端に捉え臍を噛んだ。
 「ラジオ塔とこのビルを繋いだ直線状二十メートルの地点。あそこの廃ビル直上が落下予測地点か」
 鬼の視線の先に在るのは打ち捨てられた雑居ビル。白い看板ばかりが並ぶ無人のビルだった。何たる幸運。つまりはあのビルがどうなろうとも中の住人を気にする必要が無いと言う事だ。勇儀はビルの屋上を蹴り配管の一つを捻じ曲げながら廃ビルの上に着地した。
 「さぁ、天蓋に挑むのは久々だ。力比べと行こうじゃないか。アマテラス」
 一瞬で良い。あの天体を破壊する事無く停止させる事が出来れば体勢を立て直す事が出来る筈だ。そんな芸当が可能なのはこの旧都に一人しか居ない。怪力乱心の鬼。鬼の四天王。星熊勇儀。つまり、自分だ。迫る熱源と光に眼が眩む。しかし、勇儀は一歩も引く事は無い。もっと膨大な力はこれまで何度も対峙してきた。鬼の首領との組手に比べればこの程度どうという事も無い。眼の前にアマテラスが迫る。地面を強く踏みしめた勇儀はその表面に手で掴んだ。

 「――っ」

 肉の焼ける独特の臭いがする。手の表面が焼けたのだろう。高熱を発するアマテラスが徐々に重量を勇儀に預け始める。想像以上に重い。当然だ。鉄の塊にも等しい機構である。数十トンの重量は幾ら勇儀でも軽くいなせるものでは無かった。脚元に亀裂が走る。その重さを支える事は勇儀には不可能では無い。しかし、その勇儀を支えるビルの床には余りにも荷が重過ぎた。ビルが崩れるのは構わない。だが、その所為でアマテラスに衝撃が加わり破損する事は避けねばならない。
 故に勇儀は ”飛んだ” 。
 内包する妖力を惜しげも無く突っ込んだ妖力翼を広げ数十トンの鉄塊を手に空へと飛びあがった。幸か不幸か上空へ向かう道の障害物は既にアマテラスが破壊している。何の制約も無く翼を広げた勇儀は空中でその天体を縫いとめる。

 「パルスィ、緊急停止装置を」
 「了解よ」

 勇儀の横をすり抜けパルスィの半身がアマテラスに向かう。間もなく霊力バルブが閉められ、内部の自家発電装置が停止した。数度明滅すると完全に灯りは消える。それを確認した勇儀はアマテラスを一端郊外へ持ち運び再起動させた。
 再浮上するアマテラスを見て胸を撫で下ろす勇儀。結果的にこの事件での被害者は掌を火傷した勇儀ただ一人。誰一人犠牲になる者は無かったのだが、この事件をきっかけとして地霊殿は旧都からの信頼を急速に失う事になる。
 勇儀は旧都に蔓延る不穏な気配の正体を未だ掴みあぐねていた。


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 その時、さとりは既に旧都での騒ぎの情報を受け取っていた。今後の復興計画。アマテラスの修繕。山積みの課題へと対処すべくその情報の整理を行っている時に玄関の扉は荒々しく開かれた。信じられない光景だった。否、あり得る可能性の一つとしてピックアップはしていたが、考えない様にしていた最悪の結果が眼の前にあった。
 信じたくない光景だった。あちこちに包帯を巻いた燐と、全身に包帯を巻き体の数か所が炭化しかけた空。自らも決して軽くない怪我を負いながら、この猫は数キロにも及ぶ道のりを友人を背負って帰って来たのだ。「お空を助けて」うわ言の様に繰り返しながら燐は床に倒れた。
 倒れる燐と、投げ出されたままぴくりともしない空を前にさとりはしばし呆然とする。我に返り半狂乱で空を抱え上げたさとりは救護室に駆け込み、医療の心得のある妖獣にすがりついた。彼女が燐と空の傍を離れたのは翌日の朝になってからの事である。
 「全身の二割に深達性二度の熱傷、一割が三度の熱傷、組織液の流出による脱水症状も著しいそうです。他種族ならまず助からないと――」
 「そんな、どうにかならないの」
 「落ち付いて。地獄鴉を侮ってはいけない。熱と共に生きた彼らはその辺の生命体と同じ尺度で見る事は出来ない。貴女は一番良く知って居るでしょう? ただ、医者の見立てでは数週間は絶対安静との事ですけれど……」
 眼の下に深い隈を作った二人はさとりの寝室で顔を突き合わせる。救護室から離れようとしないさとりをむりやり引き剥がし寝室に押し込んだのが未明の事。そして今は昼。しきりに容体を気にするさとりに映姫は治療班の言葉を伝えた。
 「そうですか……、お燐はどうですか?」
 「不思議な事にお燐ちゃんは一部に浅達性二度が見られる程度、動く分には問題無いそうです」
 空の意識は未だ戻らない。今も空と燐はベッドの上に並び二人眠り続けている筈だ。昏々とベッドの上で眠り続けるその姿は元より白い肌と相まって生気が希薄に感じられた。
 「いいえ。看病で倒れられたらそれは誰も幸せにならないわ。自己犠牲は罪です」
 「しかし……」
 「そうですよ、さとり様。お空は大丈夫です。まだ意識は戻りませんが……、きっと大丈夫です」
 その時に部屋に入って来たのは病室で眠っている筈の燐だった。あちこちに包帯を巻いた燐は、白い歯を見せながら二人の前に姿を現す。快活な笑顔を浮かべながらも、その手はわき腹に添えられていた。
 「お燐。傷は軽いとは言え貴方だってまだ寝ていた方が良いでしょう。早く戻りなさい」
 「あたいも寝ていたいんですけどね。ご主人様がそんな様子では安心して寝てられ無くて」
 「一人前に他人の心配をする前に、自分の体を直しなさい。私に意見するのはそれからです」
 「はーい。でも、あたいにそう言うって事は当然さとり様も大人しく眠るんですよね?」
 「……余計な事を考えなくて良いの。お疲れ様。早く戻りなさい」
 間延びした返事を残して燐は病室へと戻って行った。おせっかいな性分は一体誰に似たのだろうか。恐らくはお燐と仲の良い姉貴分からなのだろうなぁ等と呑気に考えていた。突然、体がベッドに押し倒される。気が着いた時、目の前にあったのは至極嗜虐的な笑みを浮かべた映姫の姿だった。
 簀巻きの要領で布団に包みこまれる。抵抗する時間等ありはしない。驚くほど素早い動作で瞬く間にロープでベッドにぐるぐるに縛り付けてしまった。驚きに眼を瞬かせるさとり。なんとか逃れようともがくが、固く結ばれたロープは全く緩む気配すら見せなかった。
 「少し ”伝手” があって手に入れた縄。 ”ふぇむとふぇいばぁ” とか言ったかしら。神を縛るとか言う触れ込みだし貴女にはまず解けないわよ」
 「いや、動けないけどさ……、割と休むどころじゃないんだけど、ほんと」
 「あら、暴れ無ければ体を休める事位はできるわよ。眠るまで見ててあげるからほら、全力で休みなさい」
 「余計寝れないし、これじゃトイレにも行けやしない」
 「してあげましょうか?」
 「……御免よ。お世話されるのは好きじゃないの。大人寝るからこれ解いてよ……」
 縛られた状態で上目遣いに懇願する姿は、さとりの容姿と相まって犯罪的ですらある。一瞬脳裡を過る邪な思いに嘆息した映姫は小さな指を打ちならした。乾燥した部屋によく響くぱちりとした小気味の良い音。それを切っ掛けにするすると縄が解ける。体に感じていた圧迫感が和らいで行く事を感じた。そして、上半身を起こそうとした時――、その胸に手が当てられ再びベッドの上に突き飛ばされた。
 「寝るって言ったでしょ? 貴女が眠るまでここを離れませんし、動く事も許しません。……お花摘みじゃないわよね?」
 「違うわよ。はぁ……、映姫。貴女も存外暇なのね」
 「友人の大事な時に傍に居てあげる為の時間位作れないと一人前とは言えないんじゃない?」
 「……ありがとう」
 「そう思うんならとっとと眠りなさい」
 分かった。そう小さく微笑んでさとりはゆっくりと眼を閉じた。耳元に小さな子守唄が聞こえて来る。随分と長い間気を張っていたのかもしれない。意外な程早く襲ってきた睡魔に身を委ねる。さとりは、久々に良く眠れそうだと、そう思った。
 「良い夢を……。さとり。ただこの時だけは全てを忘れて。こんな事はもう……、 ”二度とは許されない” のでしょうから……」


 空が眼を覚ましたのはそれから更に数日後。さとりは、空の覚醒の知らせを受け書きかけの書類も放り出して病室へ走り出した。盛大な音を立てて開く扉。荒い息を吐くさとりを、空と燐の二人はぽかんとした表情で見つめていた。
 空はベッドに寝転がったままだ。その傍に燐は腰掛けている。空ははにかむような笑顔を見せると、寝転がったままでぽりぽりと頬を掻いた。その姿は何処か恥ずかし気な様にも見える。
 「えへへ……。さとり様。心配をかけさせちゃって……ごめんなさい。こんなんじゃペット失格ですね」
 「いいえ。貴女は私の一番のペットですよ。良かった……、本当に良かった」
 「……くすぐったいですよ。さとり様」
 「良かった……、良かった……!」
 より強く抱きしめようとするさとりを燐が静止する。無言で首を振る燐にさとりは何かを察するように眼を一瞬見開き、そしてすぐに眼を臥した。気まずそうに暫く沈黙するさとりを見かね燐は、少し思案をした後に口を開く。
 「んー……、さとり様。申し訳ないんですがお空と二人っきりにさせて頂いても良いですか?」
 「……そんな事を言われると少し寂しいですね、空はあげませんよ?」
 わざとらしいとは自分でも思っていたが、今はそれでも十分だと判断した。現に空は何を勘違いしたのか頬を赤らめているし、さとりはほっとしたような表情を浮かべている。
 「あ、勘違いしないで下さいね。お空は誰よりも ”さとり様” が大好きですが、あたいは ”さとり様とお空” が同様に大好きです。だから、今はさとり様よりもお空に気を掛けさせて貰う。ただそれだけの事です」
 「相変わらず良く口のまわる事。お燐、私も大好きよ。お空の事よろしくね」
 それは四割の悪戯心と六割の本心。こんな時でも無い限り面と向かって言う機会は無いだろう。思いきった事に後悔は無い。だが、時間差で襲って来る羞恥心だけはどうしようもなかった。軽く頬が朱に染まって行く事を感じる。暫くこのやりとりを反芻する度にこれに耐えねばならないのかと思うと少し憂鬱な気持ちになった。
 「お燐……」
 「いいのよ。さとり様だって分かっていたんだし。お互いさまよ。ほら、もう気を張らなくて良いから」
 空の顔が俄かに苦痛に歪む。呼吸を荒らげ、少しでも襲い来る痛みから逃れようとその背を小さく丸めた。
 「馬鹿だねぇ……、素直にペットで在れば気兼ねなくすがれたと言うのに……」
 その背中を優しく摩ってやる。鎮痛剤(アスピリン)による抑制は完全ではない。体の節々で盛んに生産されるプロスタグランジンは好き勝手に熱と痛みを空へ伝える。熱を持った傷口と苦痛をこれ以上に和らげるなら阿片を使うしかないだろう。
 「だい……、じょうぶだよ……、このくらい」
 「何言ってんのさ。死んだっておかしくない怪我さ。強がる事は無い」
 「――ぃ!?」
 とんと、軽く叩かれただけで空は飛びあがる様な激痛を覚えた。剥き出しになった真皮はよりダイレクトに外部の刺激を空へと伝えている。眼に一杯の涙を溜めた空は上目遣いで燐に抗議する。いけない事だとは分かりながらも、燐はその姿に心のそこからぞくぞくと駆け上る物を感じてしまった。
 「あー、辞めてよそういう顔するのは。抱きしめたくなっちゃうでしょ。かわいいなぁ。もう」
 「にゅ?!」
 抱きしめる代わりに精いっぱいの愛情を籠めて体を摩ってやる。ただの摩擦では無い。なけなしの妖力を籠めた簡易的な治癒術だ。当然燐はそんな術は専門ではないし使える妖力も限られている。せいぜい傷の再生を気持ち早める程度の効果しかないだろう。
 だがそれでも十分過ぎる。為すべき事を為さなければならない。それがどれだけ微力であると分かっても、為すべき事を為さねばならぬ義務があるのだから。


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 四季映姫の心は揺れ動く。為すべき事は何時もと変わらず明確に視えている。ただ、それを実行する心だけが未だに見つからない。無論避けるべき努力は惜しまなかった。しかし、七度上役に詰め寄り七度握りつぶされた事で映姫は無駄を悟る。反論すべき言葉を持たない事は映姫自身が最も良く理解していたが故に、その事実は絶対的だった。
 映姫は合理的に物を考える。白黒を付ける能力とは是非曲直庁の経典に乗っ取り、あらゆるノイズに惑わされる事無く常に正常な判断を下すべく閻魔として与えられた力。
 答えを知っていても実行すべき力を与えられていたとしても。それを行うのは脆弱なる己の意志に他ならない。意志が砕ければどんな判断も力も意味を為さない。故にこれまで気がつかなかった。
 本来なら迷う事すら許されない事なのだ。知らなかった。こんなにも自分の心が弱かった等。克服したと思っていた。前回の失敗があったからこそ。悔しかった。また同じ事を繰り返そうとしている自分が居る事が、どうしようもなく悔しかった。
 無情にも刻限は間近に迫る。その心も纏まり切らないまま、――扉は開いた。


 「おかえり。早かったわね」
 「……少し空に気を使わせてしまったようで。もう少し傷が癒えてから改めて見舞いに行こうと思います」
 執務室の扉を閉めるさとりの表情にはうら悲しい物が混じる。空の覚醒の知らせが届いたのが数分前の事。ただ徒に心労を増やしてしまった事を後悔しながらさとりは椅子に腰かけた。テーブルの向こう側では映姫が難しい顔をして唸っている。石頭に渦巻く複雑怪奇な思考は普段なら読む事も億劫であった事だろう。だが繰り返されるワードが、割り込むようにしてさとりの思考に介入を果たした。
 「そう言うのは、卑怯だと思うわよ。私位にしか使えないですから問題なんでしょうけど」
 「……確かに最近どうにも臆病になってしまったような気がしてなりません。肝に銘じておきたいと思います」
 何かを決心するように、すっと一度息を吸う。腹の奥にすとんと分銅が落ちた様な感覚。意を決した映姫は是非曲直庁の閻魔として、荒れ果てた砂場の城へと手を伸ばした。
 「この間、旧都で起きた怨霊の暴走事故の事覚えてる?」
 「……えぇ」
 長い沈黙。庭の木の葉が枝から落ち、風に舞い、再び地面と出会うまで。長い沈黙を保った後にさとりは小さく答えた。それは、さとりも良く知っている事故。
 「ラジオ棟の東館が一部崩落。局員 ”黒谷ヤマメ” 他数名が行方不明……」
 「その通り。その後の捜査にも関わらず未だ黒谷ヤマメは見つかっていない。幾らかの調査の結果、我々はこの怨霊の突発的な発生及び暴走には外部からの干渉があると判断したの」
 「……誰かが人為的に介入したと? わざわざ怨霊を旧都まで運んで、焚きつけて、しかも誰にも見つからずに。そんな手間のかかる事をして一体誰が得をすると言うの?」
 映姫の思考は表層の部分以外読みとれない。だが、その断片的な情報と、映姫の顔に浮かぶ張り詰めた毅然さはさとりに残酷な程的確に恐るべき意志を伝える。最も恐るべき事実で、防ぐべきだった物が轟音を立てて迫り来る幻聴が聞こえる。
 「それを考えるのは後で良い。事実としてそれを実行した者を先に見つければ良い。そして我々はその事件で有力な証拠と思われる物品を発見した」
 映姫が取り出したのは数枚の写真。崩れた瓦礫に埋もれる妖怪の手。捕縛された怨霊の姿。そして、一枚の写真。
 眼を背けなかったのは、それが事態を好転させないと分かって居たからだ。取り乱さなかったのは、その中身を半ば予想していたからだ。決してその事実が恐れていた様な物では無いと安心させる物であった訳ではない。
 「貴女……、これは本気で言っているの?」
 「冗談でこんな事は言わない。残念だけどそれは事実」
 「間違いよ……、だってお燐は現に……ッ?!」
 「そうよ、この事件の起こった時お燐は旧都に居た。そして、何処かに ”これ” を無くしてきた」
 悪夢は最も身近な形に身をやつし背後から忍び寄る。さとりにとってのそれは、最も愛しい物の一つだった。映姫の取り出したビニールの袋に入れられているのは、黒く小さなフリルの施されたリボン。さとりにとっての悪夢は、最高に悪趣味な事に燐の白く細い脚を飾っていた黒いリボンだった。土に塗れ、皺が着いてしまっているが間違い無く己が愛したペットの形を持って目前に現れた。
 「彼岸はこの事態を重く受け止めている。魂の横流しは重罪。ここ最近発生している魂の不正な流入も含め、事件の詳細解明を急いでいる。彼岸はお燐の引き渡しを求めている。……従いなさい。さとり」
 歴然とした態度で映姫は言いきった。その表情は嘗て是非曲直庁で嫌という程見た物。己の正義を信じ、大地を法の光で照らそうと己の職務を全うする者が見せる顔。見慣れたその顔が、今のさとりには酷く怖ろしい物に感じられた。
 「断るわ。こんなありふれたリボン一つで燐が犯人だと決められる筈が無い。大体あの子にこんな事をする理由は無い筈よ」
 「いいえ。最早根拠は重要ではない。必要なのは大義名分。十分過ぎるのです。我々が、規範の執行者が動くのには既に十分過ぎる理由ができてしまっているのです。そう……、貴女は少し力を持ち ”過ぎた” 」
 「映姫……? 貴女は一体何を考えている?」
 映姫が答える様子は無い。俄かにぐずついた空からは小粒の雨が滴り始めている。不安定な大気に発生した雷鳴は映姫の戦慄する程に冷たい表情を青白く照らし出した。
 「既に是非曲直庁の要注意人物リストにその名が刻まれてしまっている。さとり。自覚して。貴女は既に独力で異変を起こせるほどの一大勢力の党首になってしまったの。しかも、ほぼ建前とは言え是非曲直庁の名を背負った者がその力を持っている。これがあの権力に執着する男にどれだけの影響を与えているか考えた事はある?」
 「答えなさい、映姫。その心に張った障壁の裏で、貴女は一体何を企んでいる?!」
 映姫は答えない。だが隠しきれない思考が。その僅かな表情の変化や言葉の調子から読みとれる映姫の感情が。最も避けるべき選択へと事態が進んでいると何よりも訴えかけて来る。
 「四季映姫!? 貴女は、私達と旧都を守りに来たんじゃなかったのかっ!?」
 「侮るな、古明地さとり。私は是非曲直庁の閻魔。万民に法の光を与え平等に教えを解く。私は常に犠牲を最小に抑える選択を選ぶ。――例えそれが、 ”友人を売る” 事になろうとも」
 「貴様……ッ!」
 テーブルの上の湯のみが大理石の床に落ち粉々に砕け散る。映姫の首を引っ掴み片腕で持ち上げたさとりの瞳は真っ赤に染まる。怒りと悲しみに満ち溢れた瞳は映姫ですらこれまで見た事が無い程に強い意志が籠められていた。
 「私が貴女の味方である前に、我々は世界の味方だ。最大多数の最大幸福を選ぶ事は私の責務。例えさとりでも是非曲直庁の教えを曲げさせはしない」
 「ふざけるなよ。私が是非曲直庁に従うのは、私が私の正義を守る為だ。私のペットを引き渡してまで従う必要が何処にある!」
 「愚かな。全てを望む故に、全てを危険に晒すつもりか。そんな事をして誰が喜ぶと言うの?」
 「綺麗事を言うな。 ”既に決まっている結論” に向かう順序を変えさせて相手の妥協を探る。お前達の常套手段じゃないか。今まで嫌という程見て来た。私がどう行動した所で、お前達に従う先にある結末は同じだろう? 違うのか、四季映姫」
 幾らその首を締めあげようとも映姫は眉根の一つも動かしはしない。頭に完全に血が上っていたさとりは完全なる忘我状態で怒りに腕を震わせる。こんな行動は少なくとも閻魔に対しては何の意味も持たない。肉体的損傷に極めて鈍感な閻魔に、力で物を訴える等愚の骨頂。そんな事は百も承知。それでもさとりはその怒りを抑える事が出来なかった。
 「…………」
 無言で睨みあう二人の間に流れる空気は静止したように重く、触れれば砕け散りそうな程に張り詰める。がたり、と天井裏から物音がする。とたとたと小さな足音をたてるそれは恐らく鼠か何かだろう。
 普段なら大した意味も持たぬ闖入者。しかし、その侵入によって映姫の意識がほんの一瞬逸れる。映姫としては珍しい油断だった。刹那にも満たない時間ではあるが意識が彼方へと飛んでいた。それではさとりにとって十分過ぎる時間だった。油断した映姫の思考へ第三の眼を無理やりねじ込み彼女の思考を強制的に吸い上げる。即座に閉じられた心。だが、それは十分過ぎるほどの情報をさとりの思考に流し込んだ。
 さとりの眼が見開かれる。それは幸であったのか不幸であったのか判断は極めて難しい。さとりはぱっと手を離すと映姫に背を向けた。何事も無かったかのように服を正す映姫にも変わった様子は何一つ無い。
 「……映姫。それが貴女の意志なのね。何時から……、貴女は一体何時からこうするつもりだった?」
 「貴女は自分の能力を疑うのですか? そして私の能力を疑うのですか? それが、真実です。さとり、言葉はもはや意味を持たない。私は自分の正義を執行する。 ”じゃあ、貴女はどうするの?” 」
 さとりも映姫も、互いに視線を向けたまま一歩たりとも譲らない。その眼は時が経つほどに赤く赤く研ぎ澄まされ続け、胸の内の思いは際限なく増大する。
 「暫く……、時間を置くわ。それまでに気持ちを整理してい置いて」
 「無駄よ。貴女には貴女が為すべき事がある様に、私には私の為すべき事がある。時間はそれを埋めるファクターとなり得ない」
 さとりは、映姫を一瞥する事も無く部屋を出た。重い音を立てて閉じる扉。鎮まりかえった部屋には今も尚、天上の裏から場違いな軽い足音が響いていた。
 ぐらり、ぐらりと心が揺れる。理想と現実と世界と己の境界がぐらりぐらりと揺らめいた。そして心は己に問いかける。『お前は何を為す者か?』


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 「痛いよ……、お燐……、頭も胸も、全部割れるみたいに痛いの……!」
 「大丈夫だよ。傷の熱が頭にも回っているだけだ。直に良くなる」


 私は一羽の鴉だった。誰よりも太陽に執着し、誰よりも高く飛ぶ事を望む。ただの一羽の鴉だった。
 愚かな私は何処までも高く飛べると思いあがった。太陽の魔力に魅せられ、薬物中毒に呻くジャンキーの如く太陽に手を伸ばし続けた私の翼が太陽に焼かれたのは当然の事だ。それは本望だった。太陽に憧れた自分が太陽に焼かれて落ちるなら本望。空中で翼が動かなくなった時自分は確かにそう考えていた。失速し、重力に引かれるままに地面に落ちる中で私は幸福に満たされていると錯覚していた。
 だがそれはすぐに覆った。地面が近づく程に、体が加速する程に、世界から取り残されたように流れゆく景色に。
 私は猛烈な孤独感を感じたのだ。誰にも看取られず。何一つ残さず。ただ消滅するしかない無情に私は悲鳴を上げ、そして、そのまま地面に落ちて私は死んだ。
 神となった経緯は自分でも分からない。恐らくは自らが奇形であった事が関連しているのだろうが別に興味は無かった。自らに向けられるのは畏怖や尊敬では無く ”奇異” の視線。所詮見世物の神などに信仰は集まらない。どうせこのまま居てもまたすぐに消える。そう考えて私は神棚とは名ばかりのショウケースから逃げ出した。
 どれだけ飛んだのかも分からない。何処を飛んだのかも覚えていない。だが、気がつけば自分は荒れ果てた真っ暗な荒野を飛んでいた。光の届かぬ地下は、湧き出る溶岩ばかりが周囲を照らし、死体が地面を彩る。地獄に相応しいの終末の様相は自らの最期を迎えるに相応しいと私は考えた。死に場に選んだのが辺りで最も大きな岩の頂上だったのは、最後位は神らしい威厳ある佇まいをしてみたかったから。胸の中の大半は諦めと小さな満足感で満たされている。
 もう迷う事も無い。今度こそ終われるだろうと眼を閉じた時。地下の地獄で私は ”太陽” を見た。


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 それは深夜の地霊殿。真っ暗い病室のベッドで眠る燐は若干の喉の渇きを感じて眼を覚ました。
 「むにゃ……、おみじゅ……」
 ぼやけた頭で水道まで辿りつくと蛇口を捻り流れ落ちる水を直接ちろちろと舐め取っていく。それは昔の名残で最早癖の様な物。普段は行儀が悪いからとさとりに止められていたが、誰も見ていない時やこうして呆けている時には出てしまう。一頻り喉を潤した所で満足し蛇口を閉める。肌に感じる若干の寒さ。いち早く温かな布団に戻ろうとベッドに駆けよった時に燐は隣のベッドがもぬけの空である事に気がついた。
 傷は癒え始めているとは言え、まだ絶対安静の身である。
 ベッドから出ていい筈は無い。仮にトイレでも途中で倒れていたら大変だ。考え始めると居ても立っても居られない。燐は近くにあったくたびれた半纏を引っ掴むと足早に病室を出た。
 地霊殿は広い。虱潰しに探していたら夜が明けてしまう。空の行きそうな所。行く可能性が高い所から順に潰して行く事にした。
 まずはトイレ。タイル張りの清潔とは言えないが、日常使用には支障が無い程度に整備が行き届いたトイレに入り全ての個室を覗くが誰も居ない。勇気を出して男子トイレにも入ってみたがやはり誰も居ない。
 次は炊事場。大所帯の地霊殿の胃袋を満たす巨大な炊事場はお空がつまみ食いに良く出没する場所だ。暗く入り組んだ大部屋。壁にあるランプに一つだけ火を灯しうっすらと灯りを入れる。何処にも人の気配は無い。釜の中に入れられたご飯にも、壁に干された乾物にも手を付けた様子は無かった。ここに空は訪れていない。
 次はさとりの執務室。地霊殿の運営に関わる業務を日々さとりがこなす仕事部屋。以前は自重していたのかそうでも無かったが、神を取り込み幼児化してからは足繁く通うようになった。目的は言うまでも無くさとりに愛でて貰う事である。だが、今はさとりも自室に戻っており中には誰も居ない。人の気配も無く無駄脚を悟った燐は早々に次の部屋へ向かった。
 着いたのは談話室。地霊殿の住人たちの内仕事が休みの者、休憩時間の者等が集まり自由な時間を過ごす部屋。自由な遊び場に近いその部屋にはトランプや各種のボードゲーム等遊具が取り揃えられており、地霊殿皆の憩いの場だ。空もそれは例外ではない。以前は年少の妖獣のお守として。現在は皆に遊んで貰う為にこの部屋に顔を出す事が多い。
 やはりそこには誰も居ない。ただ、机の上には出しっぱなしのチェスが乱雑に広げられていた。手早くそれを片付け棚の中へと戻す。明日注意をしておこうと心に決めて燐は部屋を後にした。
 最後に燐が探しに行ったのは地霊殿一階の個室。最初からここに来るべきだったかと今更ながらに後悔する。ここまで探していなかったのだ。恐らくは忘れ物でも取りに来ているのだろう。
 寝静まった皆を起こさぬ様足音を殺し空の部屋を目指す。空の部屋は廊下の突き当たり。奥まった位置にあるそこから小さな灯りが漏れ出ていた。
 「やっぱりそうじゃないか。あたいも馬鹿だねぇ……」
 小声で呟き灯りの元へと向かう。小さく開いたドアの隙間からは確かに何者かの影が見えた。やっと見つけた。そう思いドアの前に立とうとした時、声が聞こえた。燐は足を止める。
 確かに燐には聞いたのだ。その部屋の中から聞こえる彼女の声を。その啜り泣く様な彼女の声を。
 燐は耳を伏せると静かに扉を開いた。中では案の定、空がベッドの上で何かを広げ俯いていた。その表情は黒く淑やかな横髪に隠れ伺い知れない。
 「お空……。ちゃんと寝て無いと駄目じゃない。ほら。ベットに戻ろう?」
 その声に空は答えない。ただ大きく一度鼻を啜ると、燐に顔を向ける。その瞳には大粒の涙が浮かんでいた。


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 初めて見た時から、彼女は既に太陽だった。最初に見た時は大きな群れを率い、小さな子供の面倒を見ていた。輝く様な笑顔。周りを明るくする笑顔。私は自らが消えゆく運命にある事も忘れて彼女を眺めつづけた。
 消滅する事も忘れ、眺めていた彼女は見れば見る程に魅力的だった。彼女の笑顔は温もりを与える。間もなく彼女は孤独な妖怪と出会いその在り方を大きく変えた。守る物から守られる者へ。在り方が変わってもその輝きは変わらない。むしろ彼女の下で保護され、様々な経験を積む彼女の輝きは本物の太陽すら霞む程に美しいと私は感じた。
 孤独な太陽である私は、そのもう一つの太陽に強く強く心焦がされていた。だが、どれだけもう一つの太陽に近づこうと願っても私には視る事しかできない。現世に介入する事もままならぬこの体ではどうにもできない。
 だが私は彼女と会いたかった。会って直接話がしたかった。ほんの僅かで良い。彼女の温もりをこの冷たい鉄の体に分けて欲しかった。私は……、寂しかった。
 だから、私は地上に戻り現世に介入できる程の力の持ち主を探し求めた。出会ったのは二人の山の神だった。戦神を名乗る神に私は彼女との対面を懇願した。どうせ断られる。そう考え駄目元で頼んだ願いは意外な事にすんなり聞きいれられた。彼女に触れる為。私は彼女らの元で必死に力を付けた。
 彼女が自らを受け入れてくれるとは到底考えていない。ただ、話が出来れば良い。会って、直接話ができればそれで満足だと考えていた。案の定彼女は私を恐がった。当然だ。こんな姿を見て驚かない方がどうかしている。
 次に出会った時。彼女は私を求めた。驚いた。驚きはしたが、私は喜び勇んで彼女の中に入り込んだ。
 恥ずかしながら私は彼女の体に宿ってからの事暫くの事を覚えていない。妖獣の器は神を降ろすのにあまりにも手狭だった。その事に気がつかなかったのはお互いに浅はかだった。圧迫された意識は、無意識に拡大を求め強い攻撃衝動を生む。地上も巻き込んだあの異変は正気を失った私が引き起こした事は間違いないだろう。
 正気と狂気の狭間で私は彼女の更なる優しさに触れた。私の為に処理領域を自ら譲ってくれた彼女に私は唯々礼を言うしかなった。正気に戻った私は、己の浅はかな考えを恥じ彼女に問うた。もしも彼女が自らの消滅を望むなら潔く消えよう。そう思い彼女に問うたのに迷いも無く彼女は言いきった。
 ■■■■■。
 私は誓った。私の力は彼女の為だけに使うと。せめて彼女の願いだけは絶対に叶えようと。固く胸に誓ったのだ。故に私はどれだけ意地汚く思われようとも彼女にしがみ付く事を選んだ。
 そんなある日に突然に受けた外部からの干渉作用。絶え間なく送られる莫大なトラフィックに対応しようとする程に器への負荷は増大する。だが、私は完全な暴走状態への移行だけは食い止めようと必死だった。熱への変換により脳の致命的な破壊を防ぐのが精いっぱいだった。故に、全く情けない事ではあるが私は、私の ”敵” が何処に居るのかさえも掴めなかった。
 燃え上がる業火と莫大な熱の中。融かされ行く友人を眼の前にした彼女の絶叫に、彼女の切なる願いに全ての力を持って答えた。現実を曲げるに足る強大な力を。世界の法則を捻じ曲げる力を ”彼女の脳” を代償に発動した。


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 「私、もうすぐ消えないといけないのに……。まだ私のままで居たいって思ってるの。納得した筈なのに、私が選んだ筈なのに……」
 真っ赤に眼を腫らした空が燐にすがりつくように泣きじゃくる。どれだけの間一人で泣いていたのだろう。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔は普段の空とは似ても似つかない。
 「このままでどちらとも着かない曖昧なままで居られると思っていた……、けれど駄目だった。このままいたらさとり様や皆に迷惑がかかるの」
 空の言う事の意味を全ては理解できない。だがそれは、薄々感づいていた事だった。燐と空は長い付き合いだ。馬鹿な鴉の考える事位は予想できる。
 「お空。消えるなんて言わないで。お空がどんなになってもお空はお空だよ」
 「夢を見るの……、暗い夢。そこでの私は私じゃない。この子でも無い。違う私。恐いよ……。私には ”全然分からない” の……」
 空は答えない。ただ頭を振って身を縮め。何かから眼を背ける様に俯いた。燐はそこで空の脚元にある物の正体に気がついた。それらは全て空の私物。地霊殿に住み始め、これまで空が生きてきた証その物。
 「私恐いよ……、昔の私が書いた日記。手帖。全部お燐やさとり様や皆の事が大好きって気持ちで溢れてる」
 旧都に開いた写真店でふざけて取ったツーショット写真。マグネシウムの閃光に驚き、空に抱きついた燐が移っている。地霊殿に住む全てのペット達とさとりの集合写真が入った額縁。どれも全て当時の事をありありと思い出せる。
 「この写真を見ると胸が熱くなるの。私……、馬鹿になっちゃったけど、一応、皆々覚えて ”いた” んだ」
 空の脚元で日記が開いている。相変わらずみみずがのたくったような下手糞な字で書かれた日記だ。その日記の頁はあの日を境に止まっている。燐は空の隣に座り空と共にそれを捲った。長い付き合いで無ければ読めないだろう。癖のあり過ぎる文字で綴られる日々の出来事。『焦熱地獄管理で相方の爺さんと喧嘩した』『燐を連れて駄菓子屋を廻った』『バーで鬼と飲む羽目になった』。感情豊かに綴られる日々。そしてその中で必ず触れられるさとりへの思い。
 「馬鹿だから。忘れない様に。毎日見てた。なのに……、”分からない” の。所々記憶が抜け落ちたみたいに消えているの」
 『今日さとり様に褒められた』『さとり様を笑わせる事が出来た』『さとり様の膝で眠った』。ほんの些細な事。それこそ一挙手一投足を全て記録したのではないかと言う程それは必ず記されている。また頁を捲る。あの日、冬の何気ない一日の日記がそこには記されていた。『燐と煙管を見に行った』『駄菓子屋には行けなかった』『燐は怨霊退治で大活躍だった』そして、最後に記されていた。退屈ながらも安らかだった日々は今でもありありと思い出せる。その思い出の中で埋もれる事なく強い感情の籠もった文字でそれは記されていた。
 「 ”大好き” だって感情は覚えているのに……、 ”誰を” 大好きだったのか、忘れそうになる……!」
 『さとり様の ”家族” でありたい』
 燐は無言で日記を閉じた。
 「嫌だよ……、お燐。私、私で無くなっちゃうのが恐いよ……。さとり様を守りたいのに……。守る先に私はどこにも居ないよ……! 私……、どうしたら良いの? お燐……、助けて……!」
 「お空……。大丈夫だ。あんたはあたい達が守ってやる。だから、あんたはさとり様を守ってやれ。それは、あたいにはできない事なんだから」
 何か策があった訳ではない。むしろ何も知識が無いに等しい燐には何一つ妙案は思い浮かばなかった。今や力では空に圧倒的に劣る。頭は今の空よりも良いかもしれないが特段切れる訳ではない。ヤマメの様に権力者と強いパイプを持っている訳ではない。だが、どれがどうしたと言うのだ。眼の前の空は泣いている。昔何度も自分を守り慰めてくれた空が泣いている。自分は自分の為すべき事を為さなければならない。
  “さとりが為そうとしている" ように。
 燐は空を無言で思い切り抱きしめた。傷口が開いてしまうかもしれない。そんな事も考えたが気にしていられなかった。彼女が泣きやむまで燐は決してその力を緩める事は無かった。


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 血液よりも鮮やかで、絵具よりも柔らかな紅に塗りつぶされた視界。仄かに香る死の臭いと、かぐわしい花の香り。彼岸花の絨毯の中に一本だけ作られた道を映姫はたった一人で歩いていた。すれ違う者は居ない。凪が吹く丘を、映姫は何も言わずただ歩く。首に触れる風が少し冷たい。痣の残る首は間違っても内出血による紫斑等では無い。
 「御機嫌は如何かしら?」
 まるで生まれた時からその場に立っているかのように何処にも道が無い花畑の中央に温和な笑みを浮かべた女性が立っていた。日傘を差したその女性の動作には細部に至るまでが優雅で気品に溢れている。少女然とした見た目に反してそれは大人びた印象を与えた。
 「珍しいですね、風見幽香」
 優雅な笑みを返した幽香は手に持った日傘をくるりと回し、小さくお辞儀をした。映姫も彼女に習い丁寧な動作で帽子を取ると小さくお辞儀を返す。
 「貴女の庭は太陽の畑では無かったんですか?」
 「偶にはこちらの花の様子も見ないとね。場所に関わらず、幻想郷の花は私の子ですから」
 慈しむように彼岸花へ手を伸ばし花弁に白い指を触れる。赤い花びらが指に沿ってふるりと跳ねた。
 「花の世話ですか……、貴女は本当に花が好きなのですね」
 「当然よ。四季のフラワーマスターとは私の事。あぁ、でも映姫とか言う盆栽みたいな花は専門外よ」
 「誰が盆栽ですか。ガーデナーだったら、今度幽世の庭師見習いにも稽古を付けてあげて下さい。あの子は本職を勘違いし過ぎています」
 「あの半霊の事かしら? 確かのあの子は色々と ”そそる” んだけど、保護者がうるさくて嫌なのよ。一緒に行って下さる?」
 「……もう良いでしょう。下らない世間話に付き合う程暇じゃないの。本題は何?」大きく溜め息を吐いた後に幽香はそう続ける。あっさりと見破られた本心に映姫は思わず嘆息した。その余裕のある瞳は己の内面とは対照的で、そんな自分の現状が更に気分を落ち込ませた。
 「貴女は……、花の世話が嫌になった事はありますか?」
 「妙な事を聞くのね。閻魔が質問だなんて今日は雹が降るかしら?」
 「割と真面目に聞いています」
 言葉を選ぶように、空を仰ぎ人差し指を顎にあてた幽香は暫し首を傾げる。
 「鍾馗水仙(ショウキスイセン)って聞いた事ある?」
 映姫の質問には答えない。何かに思い当たったのか、ぱちりと指を打ち鳴らすと幽香はそう呟いた。
 「確か、黄色い曼珠沙華……ですか?」
 「そう。彼岸花達は急な環境変化や流行り病に弱い。そうやって萎れた彼岸花の畑にね、一輪だけ咲き続ける花が偶にあるの。それが」
 「鍾馗水仙……。ですがそれが一体」
 「知っている? この赤い曼珠沙華達は決して実を結ぶ事はできないのよ。だからこうやって株分けをしてあげなければ増える事は出来ない。仲間を増やす事はできても、何年何十年の時を重ねようと何一つ変化しない。でもね、この子だけは違う」
 幽香は自然な動作で地面に手を掲げる。掌から発せられる温かな光に照らされた地面からは一本の花が伸び、やがて黄色い曼珠沙華が花を開かせた。幽香は愛でる様にその花弁を指で掴む。それは決して花に傷を付けない様に細心の注意を払ったたおやかな指使い。
 「鍾馗水仙だけは違う。この子だけは実を結ぶ事が出来る。精を受け取り、実を作り、種子を撒き、それが根付かねば子は出来ない。だから、黄色の曼珠沙華は常に少数派。だけど、この子だけは常に外部からの変化対応し柔軟に生き残る」
 楽し気に幽香は花を咲かせる。一歩また一歩と歩く彼女の周囲の花々は、主の帰参を喜ぶ忠義厚い臣下の様に咲き誇る。花の波を伴って幽香は映姫の元に歩み寄る。彼岸花の畑に作られた粗末なあぜ道は、瞬く間に緑の草原と化した。
 「私達も同じ。誰かに思考を委ねて行動すれば楽で素早く動けるけれど、本当に大事な時には何もできない。常に自らの意志で動き回れる者だけが長く生き残るのよ」
 「……確かに貴女はその通りに行動していますね」
 「その通りよ。私の行動に口を出すなんて閻魔にも出来はしないわ」
 「ふ、良く言う。もう一度やりますか?」
 一歩下がって身構えた映姫に一瞬鋭い瞳を向ける幽香だが、すぐにその視線は笑みへと変わる。そして、興味を失ったように足元の草原に眼を落した。
 「遠慮しとくわ。今の貴女と戦ってもきっと楽しくない。……以前戦った時の貴女はもっと良い顔をしていたわ」
 それは本当に心の底から落胆するかの様な落ち込んだ表情。つまらなさそうに手の中で傘をくるくると回した彼女はそのまま映姫に背を向けてしまった。帰ろうとする彼女に声を掛けようとする。しかし、映姫が声を駆ける前に幽香は後ろをちらりと振り返った。
 「そうそう、質問に答えていなかったわね。 ”無いわ” 。私が私である限り、花を嫌いになる事は有り得ない。なぜならば花を嫌いになった時、既に私は死んでいるのだから」
 「思想に生き思想に死ぬ、ですか。確かにそれは一つの理想。しかし成し遂げるは難し。貴女はどうやってそれを成し遂げているの?」
 「そもそも己が信念を曲げるのならば異形に変じるべきでは無かった。あなたは唯の地蔵のままであるべきだった。無責任に道行く人の安全を願い、供え物を取って行く乞食の今後を憂い、ただそう考えるだけの置き物であれば良かった」
 「……いいえ。私は閻魔になった事自体は後悔していません」
 「閻魔……、ね。全く難儀な存在。為すべき事が全て見えるが故に苦悩する。悟りにすら至れない内に馬鹿みたいな強大な力を押し付けられ、貴女と言う脆弱な個人の意志にその制御が委ねられている。ねぇ、貴女はどうして閻魔になったの? 多くの悩みを抱え、辛い思いをしてまで貴女は何を求めて異形へと成り果てたの?」
 「願うだけでは何も救われない。この私の眼の前で何人もの旅人が飢餓で倒れた。近くの村では流行り病で多くの人が死んだ。それでも、私に出来るのは祈る事だけだった。それが、どうしようも無く嫌だった。……ただ、それだけです」
 映姫はかつて一つの地蔵だった。道端に佇む唯の地蔵だった。その時に見た物。感じた事。その全ては今も心の中に深く刻み込まれている。だが、あまりにも深い位置に刻み込まれた溝は長い年月によって埋もれてしまう。そんな心の石板に小さなハケが掛けられた。そんな気がした。
 「なんだ……、貴女も良い顔ができるんじゃない」
 にこりと笑った映姫は、それ以上何も言わずに背中を向ける。今度こそ帰ろうとした幽香に、映姫はもう一つの疑問をぶつける事にした。
 「所で幽香。貴女は何故この場所に来たのですか?」
 「……言った通りよ。私が私である為にここに来るの。長い間生きていると、自分が何のために生まれてきたのか忘れそうになる時がある。そんな時はいつもこの場所に来る事にしている。 ”再思” の道。考え直すと言う意味もあるけれど、私はその根底に思いだすがあるのだと思う。自らのルーツを理解した上で、自らの行く末を決める……、此処はそういう場所なのでは無いかしら?」
 「ふふ……、何だ。意外と私達は似た者同士じゃないですか」
 「馬鹿にしないで。私は貴女みたいにウジウジ悩んだりしない。私が此処にくるのは、心のもやを払いに来るときだけよ」
 「良い考えですね……、私も……、少し此処で休んで行こうと思います」
 「どうぞご勝手に。さようなら。次はもっと楽しませてくれると嬉しいわ」
 「御免被ります」
 幽香はそのまま歩き去る。無縁塚に向けて、あの毒人形の居るあばら屋の方向へ歩き去って行った。首元を吹き抜ける風が先ほどよりも少しだけ温かく感じた。


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 不穏の影は旧い都にも忍び寄る。ただし勇儀にとっての影はさとりや空よりも明確な形を伴って這い寄って来た。最も残酷な形。つまりは、『人』である。
 「勇儀、起きなさい。こんな所で寝てる場合じゃないわよ」
 「あぁ、よく見えてるさ言われるまでも無い」
 旧都中心区、小汚いと言う訳ではないが、手入れの行き届いているとは言えない程度のビルの一室にパルスィは飛び込んできた。室内では窓際に立った勇儀が窓から中央区の広場を眺めている。
 「だったらこんな所で呑気にしている暇は無い。さっさと行くわよ」
 「分かってる。パルスィを待っていたんだよ。さぁ、行くぞ」
 盃すら持た無い。そも勇儀にはその身一つ以上の物は必要無い。勢いよく扉を開いた勇儀は即座に空気の臭いの変化を感じ取っていた。充満する異様な気配。
 それは、街中の液晶画面から。何処かの商店の軒先に置かれたラジオから流れ来る。『我らの太陽を取り戻せ』感情的な声は無責任に人々の心を燻らせ始めていた。
 階段を下りる間も惜しい。勇儀は階段の手すりに足を駆けるとひらりと身を翻し空中を舞った。後方からパルスィの溜め息が聞こえるが細かい事は気にしていられない。ビルの正面玄関を蹴破る様に開けて勇儀は外に出た。一拍遅れてパルスィも壁を蹴って、開いたドアの隙間に飛び込んだ。
 「馬鹿馬鹿しい、あの馬鹿鴉がそんな大それた事を考えるとでも本気で思っているの?」
 「だが、それでも先の事故で旧都の電力系に多大な被害が出たのは事実だ。そんな事を言いだす奴が出るのは想定内だった」
 『我らの太陽を独占する悪鬼に鉄槌を』。走る合間にも拡声器と公共の電波に飛んで演説の声は流れる。過激な演説。それらは全て中央区の広場から届いて来ていた。
 「……違ったのは?」
 「それが、 ”これ程の規模になった事” だ。どうしてだ、おかしいだろう。保守的である筈の妖怪がなぜこれ程の変革を求める?」
 『旧い都に完全なる独立を』『彼岸の悪鬼を滅すべし』。ゴミがあふれた裏通りを抜け、大通りに出る。真正面の電光掲示板は毒々しい赤字で人々を煽っていた。何時も人で賑わう通りに今日に限っては誰も居ない。車両すら走っていない光景を勇儀はこれまでに見た事が無かった。
 「人の願望が、有形無形の恐れが、膨大なるエゴが、固定化し受肉した妖怪が。その枠内を超えて動くにはそれなりの理由が必要だ。私がそうだったように、だ。私達はその元の在り方に従い、ただそれを満たす為にこの都を建造したのでは無かったのか? 今度こそ、平穏にこの地で暮らす為地下に潜ったのではないのか? この行動は枠を大きく逸脱している」
 「でも、ヤマメの調査では……」
 「そうだ別の『何か』だ、何から干渉を受けたのかは分からん。だから、まずはその中央の奴に話を聞く必要があるだろう」
 『我らの太陽はこの天蓋にのみ浮かばなければならない』『偽りの空を打ち倒せ』『空を殺せ』。熱を持った声が次第に近づく。
 その広場はには一様の格好をした人々が集まっていた。
 中央広場に集う黒い八咫烏のマーク。その中心立つのは仮設の壇上に上がり民衆をアジテートする演者。急進派の代表者。壮年の男。顎鬚を蓄え、神経質そうな瞳を持つ。彼は広場に現れた勇儀を認め、そして歓喜した。
 「ようこそ、星熊勇儀。我らが旧都の代表者様」
 「こんにちは。殿」
 無数の視線が一斉に勇儀の元へと集う。その者達、全ての腕には黄地に黒の八咫烏のマークが付けられていた。
 「つまらない喧嘩に一般人を巻き込まないで貰えるかな。喧嘩は私の仕事でね」
 「つまらないとはどういう事ですか? 星熊勇儀。もはや、地霊殿が裏切ったのは明白だ。八咫烏と言う我らの希望を独占し、我らには偽りの太陽を押し付けたそれらは事実です」
 「さとりは八咫烏の力を等しく分けようとした。それが間欠泉センターだった筈だ」
 「その挙句がこの間の事故では無いですか。肝心の神にも怪我を負わせ、施設も破損した。とても信用しろとは言えないのでは?」
 「あの事故に関しては既にさとりから謝罪が述べられている。間欠泉センターも現在復旧作業中だ。……もう問題は解決した筈だ」
 「まだ古明地さとりを信じるのですか? 古来人心を惑わし、能力を用いて他人を出し抜き、狡猾に生き抜く覚り妖怪を信じるとは。全く鬼の単純さは予想以上ではないですか」
 「皆さんどう思いますか?」広場に集う数百とも着かぬ民衆に語りかける男。その言葉は明確な敵意を伴い、人を波として動かす。無数の視線が勇儀とパルスィに突き刺さった。
 「私が単純なのは生まれついての物だ。私はそう生まれたのだ。だが、さとりは違うぞ。お前は勘違いをしている。お前達にあの大馬鹿甘ちゃんの何が分かる?」
 「分かりませんし、分かりたくもありませんね」
 「ならば黙っていろ、この馬鹿騒ぎを鎮め部屋で仲間内に自説を垂れ流していろ。地霊殿との調整は私が行う。喧嘩にはまだ早いんだよ」
 その視線を物ともしない勇儀の宣言。だが、扇動者はその言葉をまるで聞かなかったのように表情を崩さない。沈黙の後、彼はにやりと醜悪な笑みを浮かべた。
 「御存じですか? 外の世界で流行りのとやらでは、民衆の声が優先されるらしいですよ。果たして、この旧都の住人達はそれを望んでいるのですか?」
 『鬼による独裁に終焉を』『内通者星熊勇儀を排斥せよ』
 『旧都に完全なる自由を』『集え、力を見せよ弱き有象無象共よ』『我らにはその為の力が、科学がある』。
 広場の周りの電光掲示板が目まぐるしく変化する。町中のスピーカーから過激な機械音声が流れ出る。頭を割る様なホワイトノイズが町を駆け廻る。ありとあらゆる建物から、道と言う道から妖怪がこの広場へ目掛けて行軍を始めた。
 「見よ。これが民衆の意志。民が、この都市が、貴様を必要無いと言っている」
 「お前達は一体何をしようとしている? 誰の意志でこんな事を実行する?!」
 「見たでしょう。私達の意志です。それ以外は必要無い。ある筈も無い。あって良い筈が無い」
 「嘘だ、吐け、貴様は一体 ”何” だ」
 一歩地面を踏みしめ、亀裂を生む。二歩大地を蹴り割れた隙間を消し飛ばす。三歩相手の領域を犯し、首元を掴み上げた。締め上げる首に男は苦しむ様子も無い。無感情に勇儀の手が首に食い込む様を見つめるその眼は酷く冷たい。どよめきが、民衆に走った。
 「……勇儀殿、我々の生まれや在り方を言う割には、最も大きな我々の ”役割” をお忘れでは無いですか?」
 「役割だと?」
 「我々は悪だ。我々は悪だからこそ地上を排斥された。――長いぬるま湯につかってボケたのか? 鬼」
 勇儀の腕から力が抜けた。決定的な言葉だった。自分はもう鬼ですら無い何かだ。そう望まれていると思ったからこそ自分は再び指導者として立ちあがった。その心が明確に否定されてしまった。鬼の心が、折れた。
 「それが……、お前達の意志なんだな」
 「その通りです。これこそが我らの為すべき事。……御同行頂けますか? 貴女は放置するには少々強過ぎる」
 「勇儀、逃げましょう。分が悪いわ」
 パルスィの言葉に無言で首を振る。
 「何処へなりとも連れて行け。私はもう必要とされていないようだ」
 「聞き分けが良い事で助かった。待遇は保障する。悪いようにはしない。この街の行く末を眺めていてくれればそれで良い」
 そして星熊勇儀は自宅に軟禁される。旧都を指導する者は最早何処にも存在しない。勇儀の去った後の広場。黄色い旗を掲げた彼らは、自らの歩み出した新たな一歩に盛大な雄叫びを上げた。


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 旧都住人の武装蜂起の知らせは速やかに彼岸へと届けられた。彼岸は旧都鎮圧と、燐及び統率力を失ったさとりを回収する為、機動部隊の投入が必要と判断。協議の結果、秦広王は機動部隊派遣の書類に判を押した。
 「良いの? 映姫に指揮を任せて」
 「大丈夫だ。確かに四季映姫は義を重んじる所がある、だが、己の正義を曲げる事は決して無い」
 「彼女はあれで強かよ。私達の指令に背かない範囲で手心を加える可能性がある」
 「大丈夫だ、奴は全力を尽くさねばならない。事実それが最善なのだから」
 「それは、アーカーシャの写しの事?」
 「そうだ。既に分水嶺は過ぎた。これから行う事は既にただの辻褄合わせだよ」
 「つまんないねぇ。見た目が幾ら派手でもそんなの大道芸と変わらない」
 「大道芸で良いのだ。茶番を茶番で終わらせるのが我らの仕事、この結末は我々が全力を尽くす事でしか救われん。それこそ、世界の理を捻じ曲げでもしない限りはな」


 黒い軍団が中庭を埋める。ケブラー素材に法術を施した特別製の防弾ベストに身を包み、全身に仏の名を冠した武装を携え彼らは並ぶ。獄卒鬼達の先頭に立つのは四季映姫。普段と変わらぬ姿は、装備に頼らぬ規格外の性質故の物。何時もの可愛らしい黒のパンプスを脱ぎ捨てミリタリーシューズに足元を包み泥の大地を踏みしめる。
 是非曲直庁の正面の門は普段固く閉じられている。霊魂は正門を通らない。専用の通路で裁判所へと向かう。要人が通る時でさえも必要な分だけ僅かに開かれる程度である。
 だがしかし、今日は異なる。数十メートルの巨体を誇る牛頭馬頭が守る大門。黒の軍団を見た彼らが人の身では動かす事の叶わないハンドルを回す。完全に開かれた是非曲直庁の大門を黒の軍団は一糸乱れぬ動きで通り抜けた。背面で門が閉じられる音がする。此方に敬意を払った牛頭馬頭が背筋を正す気配がする。日常を捨て、非日常の世界へと歩みを進める軍団の先頭を四季映姫は誰よりも大きな歩幅で歩んだ。
 大海の如く流れる三途の河を揚陸艇と小町の能力で踏破し、錆ついた地獄への門を叩き起す。門の先に広がるのは薄暗い空間。流れ込む生臭い風を感じながら地獄の釜へと突入する。そして彼らは戦場に立った。
 「行きましょう。我らが正義を執行する為に。奪われた我らの地を再びこの手に入れる為に」


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 「答えを聞きに来たわ。さとり」
 黒い法衣が夕闇に混じる。さとりの前に展開するのは顔をがしゃどくろの面で覆い隠した集団。アマテラスの陽光を背負い、獄卒鬼をひきつれた映姫は悔悟の棒をさとりに突き付けた。
 「下らない問答ね。映姫。もう結末も過程も決められている問は既に問うとは言えないのでなくて?」
 「勇儀は既に旧都の代表の座から堕ちた。あれは今頭の無い蛇だ。ただの津波だ。上層部は既に地霊殿に旧都を統率する力が無いと判断した。あの武装蜂起は私達が鎮圧する。私達は「地霊殿の管理権限の剥奪及び、さとり、燐そして、空の三名の拘束をしに来た」」
 「そう言う事でしょう?」圧倒的な武力を前にさとりは薄い笑みを浮かべる。その瞳に浮かぶのは決意。嘲笑とすら取れるその表情は、宣戦布告の証。始まる前から決まっていた結論へ向け、ただ二人は虚しく言葉を交わす。
 「一応聞くけど、此処に住む他の私のペット達はどうなるかしら?」
 「安心して。私の権限できちんと世話をする。仕事も与えるし給金も支給するわ」
 「安心した。でも、貴女の感覚で働かせ過ぎないでね。皆が皆貴女みたいに仕事熱心じゃないのよ」
 「……善処します」
 互いに一歩離れる。瞑目し大きく息を吸いそして、吐く。体中に廻る血とは対照的に、心は水面の如く静かな境地。
 覚悟を決めた二人は最終段階へ向けて互いに一歩を踏み出した。
 「もう一度聞く。さとり、私は今から貴女を捕縛するわ。一片の慈悲も無く、完璧に、暴力的に。それでは、あなたは? 地霊殿の管理者として、権威を失墜した為政者としてどうするの?」
 「答えは決まっているわ。さようならよ、四季映姫」
 「……残念です。古明地さとり」
 上空から飛来する一羽の鴉。爆音と共に広がる噴煙。土煙りの中央に現れた空の背に乗った燐はランディングの衝撃でごろごろと転げ落ちる。勢いもそのままにさとりの脚元に転がる燐。場違いににへらと笑う姿にさとりは妙な日常感を覚えてしまった。
 「さて……、と。さとり様、手荒ですが御勘弁を」
 呆気にとられるギャラリーを放置して、燐はさとりを掻っ攫う。空の背に放り込まれたさとりはその柔らかな体にぎゅっとしがみ付いた。その感触をアクセルに空は全力で翼を振るう。突風だけを残して、二人は空へと舞い上がった。
 「さとり様……、今度こそ守らせて下さい」
 背に感じる温かな重み。決意に満ちた瞳で、空は懇願する。さとりは一度深く瞑目すると、空に浮かぶ太陽に向けてかっと眼を見開いた。
 「分かった……、ならば、アレを撃ちなさい。あの偽りの太陽を落しなさい」
 空の漆黒の髪が頬を擽る。包帯だらけの体から白い白線が無数に流れる。さとりと空は、遥か天蓋に浮かぶアマテラスへ向けて空を駆けた。


 「逃げられてしまいましたね」
 「逃がしたのでしょう?」
 「貴方達はさとり妖怪を甘く見過ぎている。本気になったあれは少々厄介よ。でも心配しなくても良い。穴倉の蛮族など。私達の敵では無い」
 獄卒鬼の一人が空を見上げ遥か彼方に遠ざかった影を見つめていた。苦々しげな光を湛えた瞳が髑髏の面の内側から漏れる。服に着いた土を払いながら向き直る映姫の正面に佇んでいたのは、予想外とも言える一人の少女。
 「私達は、私体の責務を果たす時が来たのです。嘗て我らの土地だった物を我らの手に。悲願は達せられる。さぁ、行きましょうと言いたいのですが。――それで、貴女はどうしてまだここに居るんですか?」
 「いやー。あたいも偶には格好つけてみたかったんですよね。でも、思ったより面白くないねぇ。観客も居ないし悲壮なBGMも流れやしない」
 火焔猫燐が相も変わらず場違いな笑みを浮かべ正面に立つ。数百もの獄卒鬼と地獄の閻魔を前に立った一人で燐はその行く先を阻むように仁王立ちをしていた。
 「燐。貴女は私達の捕縛対象だ。……手加減はしません」
 「構わないよ。あたいに構ってあんたらが遅れた分。あいつらはゴールへ近づくんだ」
 「罪深い。本当に罪深い。 ”あなた達がそんなだから” さとりは追いつめられたと言うのに!」
 一つ。また一つと青白い炎が燐の周囲に灯る。炎の中心に浮かぶのは狂ったように笑う髑髏。空っぽの眼孔で映姫を見つめ髑髏は笑う。燐の操作の限界まで、優に数十体にも及ぶ怨霊の群れを召喚し、燐は映姫に宣言した。
 「貴女を殺して業火の車はますます重くなる。あぁ、死体運びは楽しいなぁ」
 「退きなさい。これ以上罪を重ねる必要は無い。それが、今の貴女に出来る唯一の善行です」


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 全てに対して宣戦布告をする。全ての日常を捨て去り、ただ己の我を通す為に全てを破壊してみせる。
 さとりが彼方に見据えるのは彼岸の部隊。閻魔・四季映姫。空と燐が対峙するのは旧都の住人。そして、アマテラス。
 「辞めなさい。貴女が為すべき事は他にある筈です。貴女が守るべき物はまだ貴女の掌に収まる筈です」
 「いいえ。もう分水嶺は過ぎました。私の為すべき事はこの先にしか存在しない」
 遠方から声が聞こえる。地獄の全てに響き渡る威厳に満ちた恐るべき声はしかしさとりを僅かにも揺るがせない。
 さとりは、すっと腕を横に伸ばす。同様に空も腕の制御棒をアマテラスに向かって突き出した。
 さとりは瞑目する。この腕を降ろすだけで、己が半身は無慈悲に対象を焼き払って見せるだろう。そうしなければいけないのだ。最早アマテラスは、己の手を離れてしまったのだから。故にこうしなければならないのだ。
 沈黙が続く。視覚を遮った事で鋭敏になった聴覚は、アマテラスの駆動音を捕えた。異常なまでの駆動音が絶えず内部から響いている。それは、死に向かう妖怪が最後に残すおぞましい呪いの権化。痛んだコンデンサから生じた煙により、内部の放電装置が激しくスパークを散らしていた。
 「さとり、貴女のやろうとしている事は徒に被害を増やすだけだ。全てを守る事なんてできはしない。それが貴女の掌の小さなコミュニティであったとしても。たった一人の為に貴女の全てを危険に晒すのですか」
 「たった一人も欠ける事は許さない。私の守るべき道は、この先にしか存在しないのだから。その為なら私の身に変えてもこの道を歩みきって見せる」
 狂ったように強烈な灯りを出し続けるアマテラス。間近で見るその灯りは夕暮時の設定であるにもか買わず真昼の様に感じる。本来なら生命の育みこの地下の発展の原動力となった灯りは感謝してもしきれない。唯一人を除いてはそれは事実である。さとりはこの灯りに猛烈な憎悪を向ける。どの様な手段を持っても討ち果たさなければならない。
 空の制御棒に膨大な熱が生まれ始める。既に言葉で解決できる段階は過ぎた。ちらり、とさとりを空が見る。言葉は必要ない。思考すら必要ない。さとりにはもう、この手を降ろす以外に選択肢が無い。
 「空、撃ちなさい。偽りの太陽は最早必要ではない。この末法の地を照らすのは貴女以外には居ない。あるべき者をあるべき姿に。末法の地に鉄血の秩序を。我らの敵を排除せよ、霊烏路空」
 「了解です」
 映姫の叫びをBGMに無情にもその腕は降ろされる。炉心安全域。摂氏二千五百度。砲身内に充填した熱を純粋な破壊エネルギーへと変換。一部の原子を推進用として融合へ回し一気に放出する。旧都の大気を熱の奔流が駆け抜ける。大気中の水分が即座に蒸発し激しい煙が上がる。数百メートルを駆け抜けた熱線はアマテラスに直撃しその機関部に風穴を開けた。
 とけた金属が直下へ降り注ぐ。砕け散ったガラスが雨の様に直下に降り注ぐ。じゅうと嫌な音を立てて、雑居ビルのベランダの足場にへばりついた。
 遅れて届く爆音。真っ黒い噴煙を上げて落下する球体は紛れも無くアマテラスだった。空中分解しながら鉄管の森を紙テープの如く引きちぎり、雑多なバラック群に堕ちて行く。
 貧者の住まう土地に普段の喧騒は無い。異常を察しいち早く逃げたのか、出稼ぎで外へ出ているのか。誰も居ない粗末なトタンの屋根にアマテラスは容赦なく墜落した。無数の歯車が、硝子の破片が、着地の衝撃と霊力炉の破損により爆発四散する。漏れだした霊力の塊は熱源に引火し一体は火の海と化す。防火構造などある筈も無い粗末なバラックは抵抗も出来ず無残にも易々と火の海に飲み込まれて行った。
 絶望の表情でそれを眺めるのは四季映姫。やがて怒りに満ちた物に変わる物を直視できる存在がこの世にどれだけいるだろうか。真っ赤に燃える瞳がさとりを捕えた。
 「古明地さとり。あなたは重大な罪を犯した。善悪の規範たる我らが、生ある物をみだりに死へと追いやる等あってはならない。古明地さとり。これより貴女を重犯罪者として認定する。大人しく裁きを受けるなら良し、さもなくば、彼岸の力、その全てを持って討伐する事を宣言しましょう」
 「やれる物ならやってみるが良い。私は嫌われ者のさとり妖怪。私の周りは何時だって敵しか居なかった。そして、それは今も変わらない」
 「旧都も八咫烏も、全ては私の物。何者にも邪魔はさせない。仇なす物は何であろうと、誰であろうと全て打ち滅ぼす」


 豪炎に包まれたアマテラスはゆっくりと地へと堕ちて行く。太陽を失った地獄に最早光源は無い。暗闇の世界の中、夕焼けの空は真っ赤に燃え上がっていた。


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 衰退 -Decline of one’s-



 鳴り響く銃声。
 立ち昇る噴煙。
 四散する肉片。
 『目標ブラボーを占拠。オーバー』
 『了解した。援軍を送る。引き続き周辺の警戒にあたれ』
 霞の掛かった様な電波無線の通信が戦場を飛び交う。黒いブーツが地面に散らばる亡骸を踏み潰して瓦礫の向こう側へ躍り出た。目指すのは、武装集団の仮拠点となっている高層ビル。見張り台として周囲を制圧する脅威を取り除く為に、地獄の鬼はエントランスへ向けて地面を蹴った。アサルトライフルによる鉄の弾幕は雨霰と降り注ぐ。肩口を削る鉄鋼弾の感触に顔を歪ませがしゃどくろの面は建物に転がり込んだ。
 迅速なクリアリング。棒立ちの子鬼を突撃銃で薙ぎ払う。撃たれた子鬼が悲鳴を上げながら倒れ行く。フラグが投下された部屋から駆けだして来た無防備な釣瓶落としは瞬く間に薙ぎ払われた。
 『チャーリー制圧完了。上層の攻略へと移行する。オーバー』
 『了解した……、いや。撤退しろ! 迅速にだ』
 遥か遠方。都市の外縁を回る線路に巨大な影が映る。一瞬きらりと輝いた影は白煙を上げ僅かに揺れる、そう見えた瞬間だった。膨れ上がった爆炎は、そのビル全体を包み込む。中ほどを完全に吹き飛ばされた建造物は支えを失い、急速な崩壊を開始した。
 「支援放火?……、どこからだ?!」
 「逃げろ、灰も残らんぞ!」
 瓦礫の隙間から這い出した面は、掠れた声を出しビルを脱出する。背後で轟音と共にビルが崩れ去った。何時の間に逃げ出したのか、崩れたビルの内部に潜んでいた武装勢力は鉄管の上を駆けまわり此方を包囲しようと散開する。
 あまりにも形勢が悪い。隊長格の面の男の腰に付けられた無線に通信が入ったのはそんな時である。
 『これより、支援砲火を行う。攻撃開始と同時総員、攻勢へ出よ。オーバー』
 『ラジャー、アウト』
 上空から飛来する無数の焼夷弾。投下されたゼリー状のナフサが建造物にべちゃりと付着すると瞬く間に周囲は炎の海に包まれた。逃げ惑う有象無象等、精強な獄卒鬼の敵では無い。ばらばらに散った所を、同様に散開した鬼達によりその場で打ち倒されるか、遥か彼方へと追い払われた。
 粗方の敵を退けた後、周囲の安全を確保。ようやく合流した援軍と共に、防衛線を築き直そうとした時、真正面にまたもや悪夢は顔を出した。
 敵の本陣へ向けて後方から到着した戦車隊が随伴歩兵を伴って突き進む。阻む者は居ない。主力戦車の空間装甲はビルの隙間から飛来するHEAT弾のメタルジェットすら無効化し寄せ付けない。対戦車地雷を踏み潰し瓦礫を乗り越え防衛線を突破する。
 それで終わりの筈だった。先に在るのは本陣だけ。此処を制圧し戦闘は終結する。その筈だった。悪夢はそのバラック群で初めて姿を現す。そこは本陣手前の無人の地域。粗末な小屋ばかりが立ち並ぶ特筆すべき事の無いスラム街の筈だった。
 結論から言えばそれは単なるバラック群等では無かった。彼岸の強力な兵装を打ち砕く為の都市の姿を借りた罠だった。黒い箱が家屋の影から次々と現れる。岩場の影に作られた格納庫から次々とせり上がるそれは、紛れも無く歩兵戦闘車両。逃げる一方だった武装集団は多薬室砲を応用した対物ライフルを持ち、多数の戦車に乗り込んで反撃に転じた。
 旧都の技術力は我々の予想を遥かに上回っていた。旧都に住む河童は唯一人。そう考え十分な兵力を整え無かったのが、致命的なミスであった。彼岸の軍勢は旧都の本陣を眼の前にして撤退を余儀なくされる。それは、アマテラスが墜落してから僅か二十四時間後の事であった。


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 息が切れる。掌には無数の火傷。微細な紋様の刻まれた奇妙な傷は、経の刻まれたヴァジュラを掴んだ所為だ。後方から壁を蹴って迫る大蜘蛛とはまだ暫く距離がある。だからと言って足を止められる訳も無い。猛然と迫る気配はさとりと空に、入り組んだ配管の森に潜り抜け続ける事を強いるのだ。
 絡まった痰を吐き捨て、また一本の配管を蹴る。数メートル先、前方の空間にきらりと何かが反射した。さとりは素早く妖弾を形成、射出し正確にそれを打ち抜く。飛び上がった跳躍地雷は虚しく空中で炸裂し鉄片を周囲に撒き散らした。
 「さとり様っ!」
 「上よ、お空」
 前方から迫る霊力の流れ。殺気を伴って接近するそれらは直撃すれば無事では済まないだろう。だがこんな狭い空間では碌に妖力の翼を広げられない。飛ぶのは不可能だ。身体能力の高く無いさとりを抱えた空は跳躍する。コンマ二秒後。先ほどまで二人が居た地点に鉛玉が殺到する。穴のあいた配管から漏れる濃縮霊力に着火。二人は爆炎に押し出されるようにして上空へ昇った。
 飛ぶような勢いで、行く手を塞ぐ配管を避けつつ上空へ駆け昇る。林冠部に到達した空は巨大な翼をはためかせると、空を駆けた。それは地を這う様な飛翔。不揃いな建造物の屋上ぎりぎりの高さを滑る様に駆け抜ける。
 「さとり様! こっちは ”あっち” とは正反対ですよ!」
 「無理よ、そっちには旧都の主力が展開している。遠回りをせざるを得ないわ」
 さとりの眼に映るのは、波長の短い無数の波。バラック群の中央に作られた仮設の陣地は、全くもって都合の悪い事に自らが到達すべき目標の丁度中間地点に存在する。無数の機銃と、何重もの防衛線が敷かれたそこを正面から突破するのは空の能力に頼らねば相当に困難だろう。
 「……思ったより早い。お空、 ”見つかった” 。地上に降りましょう。家屋での鬼ごっこなら此方に分が有ります」
 「わかりました、しっかり掴まっていて下さいね」
 言うや否や、落下と言っても良い速度で配管の森へ突っ込むと、手近なビルの硝子をぶち破って中に入る。舞い散る破片。煌めくそれらにさとりが傷つかぬ様に翼を丸める。風切り羽で一際大きな破片を弾き飛ばし、空は床へと着地した。
 「けがは無いですか?」不安げに問う空へと薄い笑みを返し安心させる。頭を一撫でしたさとりは、硝子の散らばる床へと降り立った。さて、と。一息を吐いてさとりは続ける。
 「思ったより足が早い。もう来てるわ。急ぎましょう」
 「待って下さい。さとり様。もう何日も逃げてばっかりじゃないですか。そのせいでちっとも着かないし……。もう倒してしまった方が良くないですか?」
 「あんまり派手に動くのは良くない……。特に貴女が戦うと大事になるでしょう?」
 「でも、最初に会った奴らは……」
 「最初は仕方なくよ。彼岸の斥候部隊にあんな接近されたらとても逃げきれないわ。それにね、彼女を斃すと機嫌を損ねる奴が居るのよね。しかも、かなり厄介な奴が――」
 「――あいつは関係無いわ。私は私の意志だけで動く。そんな理由で手を抜かれるのは不本意よ」
 最後の部分は特に強調して。さとりのその声に被せる様にして声は響いた先ほどまで確かに誰も居なかった部屋の隅にその人影は現れる。ドス黒く、濃緑色のオーラを立ち昇らせ、追手は二人の前に現れた。さとりのこめかみから一筋の汗が流れる。空は自然な動作で一歩前に出ると二人の間に立ち塞がった。
 「……流石。神出鬼没のお姫様。追跡をさせたら旧都一と言われるだけの事はある」
 「 ”橋” を付けなさい。さとり妖怪」
 片手で空を制する。部屋の出口には既に彼女の半身が立っていた。
 「橋姫。貴女達の狙いはこの子かしら、それも ”私" なのかしら?」
 「あえて答えるなら ”どちらも” ――もっとも、その地獄鴉の方の首を欲しがっている奴らはもうその理由すら忘れてしまった様だけどね」
 「……やはり、そうですか。 ”洗脳” は解けているのですね。私のした事は無駄ではなかった」
 「いいえ無駄よ。だって、既に戦いは始まってしまったのだから。そして言った筈よ。狙いは両方だと」
 「ならば力を持って押し通るのみです」
 さとりは内心頭を抱えた。恐らく最も戦い辛い部類に入る妖怪だ。できれば避けたかった。戦いは避けられそうに無い。かと言って今の空にむやみに力を使わせたくない。ふぅ、と溜め息を吐いたさとりは隻腕を前に出す。無数の妖弾がパルスィの半身へ向かい殺到した。


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 「暇だなぁ……」
 地霊殿の屋敷の窓。噴煙の上がる旧都の町を眺め燐は溜め息を吐く。遠方では爆炎が響いているが、部屋の中は静謐だ。顎を窓枠に乗せた燐は、はめ込まれた急ごしらえの鉄格子を疎ましそうに見つめている。ごろり、とベッドの上に燐は転がる。十畳ほどの部屋に並べられたベッド二つ。燐の目線の先にあるのは、これまた急ごしらえの鉄の門戸。錠前で固く閉じられた扉は内側から開く事は決して無い。
 恰好は付けてみた物の割とあっさりと捕縛された燐はそのまま今日まで地霊殿の一室に監禁されている。だが、何の音沙汰も無い所を見るにより重大な事件を前に構っていられなくなったのだろう。
 「さとり様……、何してるのかなぁ」
 「さて……、旧都の中に潜伏中とは聞いているが」
 独り言に帰ってくる声は扉の向こうから聞こえて来る。壮年の地獄鴉。焦熱地獄の整備班隊長格は、扉の隙間から盆に乗った食事を差し入れながらそう言った。吸い物と白米。そして、更に乗せられた粉吹き芋を見て燐は嘆息する。
 「にゃ……、またじゃがいもぉ? あたいお肉が食べたいなぁ」
 「贅沢を言うんじゃない。食い扶持が増えたんで食料確保も楽じゃないんだよ」
 「だってもう、三日連続だよ。せめてシチューにするとかさぁ」
 「炊事係に言っとくよ。ま、連日出ずっぱりだもんで聞いてくれるかは分からんけどな」
 「そうしてくれると助かるね。でも、……そっか。もう十日かぁ」
 「……そうだな」
 「お空にさとり様……。ちゃんとご飯食べてんのかなぁ」
 空を見上げる燐。板張りの天井は染みが広がり、身に降りかかるのは圧迫感ばかりだ。仕方なしに吸い物を啜る。水の様に透き通ったたそれは、燐にとっては薄味過ぎて物足りなかった。しかし、丁寧に出汁がとられ上品に纏められたその味は間違いなく作った者が真心を籠めた物であると知らせてくれる。
 「……きっと大丈夫さ。お空はあれでしぶといし、さとり様は……」
 「生活力あるようで無いよね……」
 「館内の清掃はしても自室は荒れ放題な方だからな……」
 「料理も美味しくないし」
 「洗濯も下手だ」
 「自分の風邪にも気がつかないし」
 「人の風邪はすぐに貰う」
 「嘘を吐くのが下手で」
 「他人のトラウマを弄るのが趣味だ」
 「でも、頭を撫でるのだけはとっても上手で」
 「寂しい時は必ず傍に居てくれる」
 思わず堪え切れずに噴き出してしまう。扉の向こう側でも豪快な笑い声が響いている。かなりの声量だが獄卒鬼はそこまで神経質では無い。特に問題は無いだろう。
 「こう言うと、まるで碌でも無い人みたいだね」
 「もっともだ。だけど不思議だな。実際の私達はさとり様が好きで好きで仕方が無い」
 「不思議でもなんでもないよ。 ”家族” を愛するのに理由なんて無いんだから」
 ぴたりと笑いが止む。キョトンとした様な気配が向こう側から伝わる。一拍置いてとびっきりの笑い声が向こうから飛んできた。心の底から笑う様な、下品とも思ええる程のそれは、しかし、とても心地の良い物だった。一頻り笑い、落ち着いた男はようやく人の言葉を口にする。
 「家族か。そうだな。俺達は家族だな。俺達の ”お母さん” で ”ご主人様” だ。そして俺達はさとり様を中心にした兄妹だ」
 「何さ、あんたはどう考えていたの?」
 「いや、俺だってそう思っていたさ。ただ、その前に ”ペット” だと思っていた。家族を押し付けるのは行き過ぎかと思っていた」
 「あたいだってそう思っていたさ……。でも、あの馬鹿は違う。あの馬鹿は本気でさとり様の力になろうとして、家族として認められようとして、己を殺してまで……」
 「全くあの馬鹿娘は……」
 男は瞑目し相方へ思いを馳せる。燐もそんな気配を感じ取ったのか特段何かを言う事は無い。誰よりも強いが、若く。思慮が足りない。一人で突っ走り方々へ迷惑を掛ける事も多い。男にとって空は手の掛かる娘の様な存在だった。
 その彼女が今、たった一人で主人と共に戦っている。その事実が、自らの現在の境遇と対比し、どうしようも無く胸を締め付けた。
 「……そうだよな。じゃ、俺たちもさとり様を ”母” と呼ぶなら、それなりの努力をしないといけないよな」
 「そうだね。さとり様の助けになる為に。あたいたちの出来る事を」
 「為すべき事を」
 「為さねばならない」
 男の声から、喜色が消える。扉越しにもその気配の持ち主が背筋を正した事が伝わって来た。
 「なぁ、お燐。お前に頼みがあるんだ」
 「なんだい?」
 半ば何を言おうとしているのかは予想できる。空程ではないが深い付き合いだ。地霊殿の仲間の考えている事は大体分かる。燐は静かに言葉を待ち、そして。
 「この騒ぎを止めてくれ。 ”さとり様” を……、止めてやってくれ」
 大きく一度だけ。頷いた。


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 暗い屋根裏にあるのは、乱雑にタグで纏められた後付けの配線の束と鼠の巣ばかり。黒い猫又に身をやつした燐は天井裏を、息を潜めて歩き行く。忍び脚は猫の十八番だ。柔らかな肉球は衝撃を吸収し、一切の物音を立てない。隣で眠る鼠に襲いかかりたい衝動を堪えて燐はこっそりと天井裏を進んでいた。
 薄明かりの漏れる天井裏、とある一室を通りかかった時その声は聞こえてきた。思わず足を止めて話を聞き居る。
 板の向こうに感じる気配は二つ。どちらも燐には強い馴染みのある気配だ。
 「……損害を報告して下さい」
 「主力戦車が三。人員負傷五、肉体損失が七、総火力にして一割程の減です」
 「大損害ね……、旧都側の被害状況は」
 「歩兵戦闘車両を一鹵獲、五無力化、兵員約二十を無力化でしょうか。報告に上がっているのはこれだけです」
 「車両は至急技術部に回しなさい。相手方の技術レベルを知る手掛かりになります。後、支部に追加の支援要請を」
 板の隙間に眼を近づける。燐の予想通り、そこでは机の上に広げられた書類に小町と映姫の鋭い視線が向けられていた。
 「何を持って来ますか?」
 「山岳砲一基、それから破損した主力戦車の修理パーツを……」
 「 ”それだけ” ですか?」
 「他に何が……」
 「 ”映姫” 様」
 普段からは考えられない程に低く重みのある声。そんな小町の声を燐は一度だけ聞いた事がある。操霊術を指示していた時、調子に乗って自らの限界を超える霊を使役して体を乗っ取られそうになった時に私はその声を聞いた。
 「……航空戦力を、爆撃機と攻撃ヘリを三基ずつ呼びなさい」
 「分かりました。可能な限り早く手配いたします」
 今でも脳裏に焼き付いている。小町の腕の中で聞いたその声は酷く怖ろしく、そして、悲しそうだった。全くもって不思議な事で、目の錯覚かもしれない。だが、燐にはどうしてか地獄の閻魔が、世界の規範が、まるで昔の自分と重なっている様に感じられていた。俯き気味の閻魔は、感情の籠もらない声を出す。
 「旧都を……、焼き払わないといけないでしょうか?」
 「その通りです、四季様。こんな無駄な戦闘は一刻も早く終わらせなければならない。その為なら私は如何なる犠牲も厭ってはならない。それが、指揮官たる貴女の責務ではありませんか?」
 「……その通りです。私は、この戦闘を一刻も早く終結させる責務がある」
 燐は思わず息を飲む。旧都がどれだけの装備を隠し持っていたのか等、燐には知る由も無い。だが航空戦力を投入されて無事で居られる程に精強だとはとても考えられない。 そも、現在旧都が彼岸と渡り合っているのが既に奇跡に近いのだ。
 世界の法と秩序を司る機関是非曲直庁。彼らが保有するのは、外の科学と幻想の法術を融合させ最先端の技術と豊富な資産を惜しげも無く投入した軍隊。ユーラシア大陸の三分の一を支配する彼らにとって、本来の闘争相手は西部の基督教そして中近東の回教達である。屈強な文化的経済的基盤を持つ彼らに比べれば地下のレネゲイド等風の前の塵にも等しい。そんな理不尽で期待的な観測が、今の極めて不可解な現状を作りだした。
 本来なら、速やかに『さとり妖怪』、『旧都側主導者』その両名を迅速に制圧しそれで終結する筈だった。互いに多大な物資と人員を削り合う不毛な消耗戦。それだけは避けねばならない。そう映姫も考えているのだろう。
 その代償として全てが消える。馴染みの駄菓子屋も、空と遊びまわったビルの林も、物に溢れた偏屈な雑貨屋も消える。さとりと勇儀が愛した街が消える。その事実を自覚した時。つつりと燐の唇から赤い雫が零れ落ちた。
 「……まさか、重いだなんて言わないですよね?」
 「アーカーシャの鏡を覆すのに必要な代償……、それがこの程度なら余りに安い。言いませんよそんな事は。私達は ”正義で無ければならない” 。それを ”強いられている” のですから」
 アーカーシャ。聞き慣れない単語に燐は意識を戻す。拙い記憶を辿る先に辿りつくのは、断片的な記憶。それは虚。または空。そして業。朧な記憶は果たして小町に聞いたのか、さとりに聞いたのか。特に興味も無く聞き流していた自分が今になって恨めしかった。
 燐の表情には焦りの色が浮かび始める。所定の時刻が近づいていると言うのに、まるで手がかりが掴めない。焦りは慎重さを失わせる。その心の隙は、今の燐にとってあまりにも致命的。無意識の内に飛び出た爪が天井板の一枚をかりりと引っ掻いた。
 「――ッ!?」
 慌てて爪を引っ込め、極限まで身を縮めて息を殺す。崖下の気配が此方を見ている様な気がする。燐は迷った。今すぐ逃げるべきか。気付かれていない可能性に掛けるか。下に居るのは、己の師匠にも等しい存在と、閻魔だ。後者はあまりにも分の悪い賭けだと言わざるを得ない。
 だがしかし、燐は後者の可能性に掛けた。どの道。ここで話を聞けなければ目的の達成は限りなく難しくなる。鼠か何かの足音だと勘違いしてくれる僅かな望みに掛ける。燐は天井板を貫くかも知らぬ鎌の切先の恐怖に耐え、そして、 ”勝った” 。
 「……目標の動向についてです。旧都の追跡者との戦闘跡からルートを『闇火風処区』方面に変更。迂回して『大焼処区』、 ”霊力プラント” へ向かっている模様です」
 「まぁ、そうでしょうね。でも、それは予想していた事。ここで最初に会った時にさとりを捕縛できなかった瞬間に運命づけられていた事。小町、一刻も早く ”霊力プラント” を落しなさい。さとりをあそこに行かせてはならない」
 「了解です」
 暫くの沈黙の後に、聞こえてきた会話は燐にとって何よりも渇望した情報。さとりの情報の入手に成功したのは、所定の時刻になったのは全く同時だった。遠方から掛けて来る騒がしい足音がそれを教えてくれた。既にこの場に用は無い。物音に紛れ素早く天井裏を脱した燐は地霊殿の外へと飛び出した。後方で聞こえるのは、是非曲直庁にとっては悪夢で、自分たちにとっては最初の一歩。
 地霊殿から立ち昇る一条の噴煙。それは己の家族が命に代えて作った最後の希望。ぐっと口を真一文字に引き絞り、燐は地面に降り立った。
 「大変です、映姫様! 『門』が破壊されました!」
 怒号が地霊殿を満たした。


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 たった一度だけ、男はさとりの深酒の現場に出くわした事がある。それは、旧都に不穏な影が渦巻く中。間欠泉センターで事故を起こした空が目を覚まして暫く経っての事である。
 男が発見した時、さとりは何時に無い程酷い酒の飲み方をしていた。己の限界も顧みず顔を真っ赤にさせるまで飲み、机に突っ伏したまま寝息を立てる。風邪をひきかねないと慌てて冷やと肩掛けを持った男はさとりをおこし冷やを飲ませた。
 「ふぅ……、ありがとう。少し落ち着いたわ……」
 「さとり様……、無茶をしないで下さい。今さとり様に倒れられたら……、私達はどうしたら良いんですか」
 「御免なさい。少し考え事をしていたら思わず飲み過ぎちゃってね。次からは気を付けるわ……」
 「考え事……、ですか。お聞きしましょうか? 私なんかでは力になれないかもしれませんが、それで、さとり様の気が軽くなるなら……」
 「……皆には内緒よ?」
 ロックアイスの入った冷やをからりと回す。揺れる水面に乱反射するシャンデリアの橙の光をさとりは、真っ赤に充血した瞳でただ眺める。
 僅かに此方を見上げるその眼は、堪らなく不安げな光が灯っていた。長い間地霊殿に住んでいるがこんな様子の主を見たのは今日が始めてだ。何故か胸がどきりとする。年甲斐も無いその反応はきっとそんな主が新鮮だったからだろう。それ程までに、儚いさとり様の様子は美しかったのだ。
 「この旧都の最も大きな価値はなんだと思いますか?」
 そんな事を考えてぼやりとしていた男は、その質問に即答できなかった。首を傾げる男の髭面をほほえまし気に眺めるさとりは薄く笑みを浮かべている。漂って来る洗髪剤の香りと、ほんのちょっと酒臭い主の香り。焦点の定まらない、視線とそれらに耐えきれなくなった男は素直に分からない事を口にするとさとりは優しく笑って答えを教えてくれた。
 「駄目ねぇ。技術班だってお勉強も大事よ。技術力、人、土地。良く言われるのはこの辺りなんだけどね、此処は少し事情が違う。この土地で一番大事なのはね、資源よ」
 「資源と言うと……、鉱山や、カーバイド、後は最近だと電力とかですか?」
 「もっとあるでしょう。一番大事な物が。良く考えても見なさい。それはどうやって掘り出したの? 私達はそれを手作業なんかでやっていたのかしら?」
 「 ”霊脈” ですか」
 「大正解。御褒美に撫でてあげるわぁ。こっちにおいでぇ……」
 「さとり様……、酔い過ぎですよ」
 「……良いじゃない少し位」
 拗ねた様な瞳を見せる主に抗える程男は老成していない。最後の抵抗として鴉の体に戻った男は黙ってさとりの膝の上に座った。酔っている所為か、何時もより乱暴に体を撫でられる。少し痛い程に体を抱きしめられたが男は文句を言うつもりも、そんな気持ちも湧いて来なかった。
 机に置かれ枕の様に背中に顎が載せられる。鴉の温もりを感じ、またうつらうつらと船を扱ぎ始めたさとり。それはまるで、壁に向かって話しかける様に。思考が漏れ出た様に口を開いた。
 「この地下はね。そもそも霊脈から全てが始まっているのよ。霊脈があったからこの場所が開かれた。それ以外の要素は付随する物に過ぎないの……」
 まるで独り言のように。誰に聞かせる訳でも無いから返事も待たない。密着した体を通して伝わる声は小さくてもはっきりと鴉に伝わっていた。
 「逆なのよね……、皆が思っている事と事実は。だから、 ”あいつ” はこの場所を元に戻したいと考えている……」
 鴉の羽が鼻を擽ってしまったようで、さとりは可愛らしいくしゃみを漏らす。寒気の所為だと思ったのかさとりは鴉を抱え込み本格的に枕にして眠る準備をし始めた。
 「だから。あれは、いつか壊さないといけないの。あれに頼って生きる未来に ”私達” の道は無いんだから……」
 そうとだけ言い終わるとさとりは眠りに着いてしまう。何を言っているのかは理解できなかった。一つだけ確かなのはこのままさとりを放っておけば風邪をひくだろうという事である。尾羽と頭をがっちりと押さえる腕からどうにかして抜け出し人型へと戻る。だらしなく眠るさとりを抱きかかえ、男はさとりをベッドまで運んだ。
 去り際、白い布団を被って眠る主の顔を見て男は無性に不安になる。あどけなさの残る顔立ち。自らの数倍の時を生きる彼女はしかし肉体的には己より遥かに幼く脆弱だ。堪らずにさとりの白い手をそっと握ると、小さな手の甲をじっと見つめる。下心は無い。そう自分に言い聞かせ意を決した男は主を守る己への誓いを籠め、そして優しく触れるような口づけをした。


 意識が現実へ引き戻される。この妖しく光る鋭い爪は敵の心臓を抉りだす為に。黒く光る鋭い嘴はその心臓を貫く為に。空を駆る黒い翼は唯愛しき主の為に。例えこの身に代えてでも、かの忌々しき『門』を閉じねばならぬ。
 見上げんばかりの巨大な鴉へと変じた壮年の鴉は異界の門へと猛然と突進する。見張りらしき獄卒鬼が急接近する影に気が付き、銃を構える。
 だが、あまりに遅い。碌に狙いも付けずに放たれた弾丸など避けるにも値しない。虚しく空を切る鉛の雨を真正面から突破した鴉は門を形成する札を、枠を構成する神木を、己の爪、嘴その全てを持って打ち砕く。暴走した術式による爆炎を背後に鴉は地上へと土煙りを上げて着地した。
 「今こそ、我らの意地を見せる時。さとり様への忠義を示せ。皆よ、為すべき時は今だ。私に続け!」
 張り上げた男の声に地霊殿あちこちから応ずる声が上がり始める。怒声と共に、一つの硝子が打ち割れると獄卒鬼と組合った見上げんばかりの獅子が地面に落ちる。体のばねを活かし大きく後方に飛ぶ。砂煙の向こうから現れた『獅子』が大鴉の横に並んだ。
 「おい、ガキ共が移動を終えるのにはもう少し掛かるぞ」
 「そうか。じゃ、その時間は俺達が稼ぐしか無いよな」
 「報酬は?」
 「嫁さんに良い顔できるぞ」
 「はっ、こんな所で良いとこ見せなくても始めっからラブラブだ」
 「だったらその面子を潰さない様に気張るんだな。知っていると思うがただ者じゃないぞ」
 「うっせぇ、見りゃわかる」
 大鴉と獅子の元に門の番をしていた先ほどの獄卒鬼が銃をカッカラに持ち替えて迫る。土煙りの向こう側からは、がしゃどくろの面も静かな殺気を伴い現れた。
 ヴァジュラを構える鬼は体を低く落とす。カッカラを持つ鬼が経を唱え仏への伺いを立てる。独特な構えを取った鬼が視線を二体の獣へと向けた。
 互いに出方を伺っているのか、張り詰めた静けさが中庭に流れる。遠方から聞こえてきた断末魔は仲間の物か打ち倒すべき対象の物か。均衡を破ったのやはり大型の鴉であった。
 「天狗には遠く及ばぬが、純粋な力なら引けは取らん。巻き起これ『マクロバースト』」
 暴力的な風が地霊殿の中庭を制圧する。空中に浮かぶ鴉のただの羽ばたきが生みだす下降気流が、周囲の大気を濃縮し大地へと叩きつけた。次々と剥がれ落ちる大地は瞬く間にクレーターを形成し、中庭に面した硝子と言う硝子は脆くも砕け散った。
 だが、獄卒鬼は吹き飛ばない。当然全く影響を受けていない訳では無く、地に伏せ風に耐えているが三人ともその場に留まっている。その眼を見れば反撃の機会を虎視眈々と狙っていると即座に理解できた。この突風の中動けるのは、超重量を持つ獅子のみ。白く煌めく爪を翻し、獅子は獄卒鬼へ飛びかかった。
 「恨みは無いが今は退いてくれ、『一回休み』だ、彼岸の鬼よ」
 「いいやまだだ、この時に私は『一進む』のだ、地獄の獅子よ」
 獄卒鬼の一体が地面を蹴り空中に躍り出る。地面に反射するマクロバーストを味方につけ空を駆るがしゃどくろは、勢いと体重の全てヴァジュラに乗せ獅子へと挑んだ。
 「な……っ!? 大丈夫か!」
 「ばっかやろう、横だ! 逃げろ!」
 吹き飛ばされる獅子。割れた窓から無数の札が鴉に向かい殺到したのは、動揺で風の弱まった一瞬の隙を着いての事だった。ホバリングを強制的に中断し、重力を使って真下に逃れる。張り付いた数枚の札から焼きつくような痛みを感じながらも鴉は土煙りへと逃れる事に成功した。
 煙りの中で負傷した二人は合流する。長い時を共に過ごす中で、お互いの息遣いも行動パターンもその全ては体に染みついている。姿が見えなくても、全く問題など無い。背中あわせになった二人は煙りの向こうに続々と増える気配に鋭い視線を飛ばした。
 「どうやら、眼を惹くのには成功したみたいだぞ」
 「全くだ予想以上の成功だよ。予想以上過ぎて困ってしまうな」
 煙が晴れる。人型に戻り背中合わせになった二人を取り囲むのは、数十人の獄卒鬼だった。銃を構えた物、カッカラを突き出す者、ヴァジュラを持つ者、札を構える物。それぞれがそれぞれに二人へ向けて殺意を放つ。
 「さてはて、何処から逃げようか」
 「逃がすとでも思っているのか? 貴様らの仲間も直に制圧される。大人しく投降しろ。命までは取りはしない」
 たらりと汗が顎を伝う。長い時を生きた鴉とて、戦ってきたのは主に同じ妖獣。せいぜいが此岸の鬼である。濃厚な死の気配を纏った亡者の軍と言うプレッシャーは想像以上に精神を削る事に嫌でも気付かされつつあった。
 だからと言ってその程度で正常な思考を失う程に若い訳でも無い。背面の友人が期を伺っている。その事実が鴉の心を強く支えてくれた。鴉は口を開く。ほんの一瞬で良い。期を作る。ただそれだけの為に言葉を紡ぐ事にした。
 「ほぉ、彼岸の住人にしては随分と不信心者なんだな。生の苦しみから解放するとでも言いだすかと思ったが」
 「死そのものに大きな価値は無い。此岸を生き抜き、 ”辿りつく” 過程が大事なのだ。無闇な死の押し付けは我らの教義にも反する」
 「成程、では我らが生にしがみ付く為に足掻くのは全くもって正当であるとお前達の教義が保証してくれる訳だ。だとしたら、お前達がさとり様に与えたがっている死は一体誰の望みなのかね?」
 「言うまでも無い、世界の望みだ。我らは世界の意志を教義に従って遂行するただの執行機関なのだから」
 彼岸の鬼は眼に冷たい光を宿す。馴染みのある種類の光だ。己の身近には良く見かけるが本来はそう見掛けない筈の瞳。己の意志を貫かんとする強き意志を灯した輝きがそこには灯っていた。
 「何が世界の意志だ。結局は己が版図を広げるのに都合の良い事実の選択だろう? そういうのはな。俺たち間ではエゴと言うんだよ」
 「黙れ下賤の獣。自らの立場を理解しているのか? お前達は今――」
 怒りの熱を放った彼岸の鬼。この世のどの獣よりも心の動きを知り尽くした妖獣達はそれを決して見逃さない。乱れた波長に合わせ背後の獅子自然な動作で鴉の背に隠れた。
 「――逃げられない、と。お前達は思っているのかもしれない」
 「周囲は完全に包囲した私達には逃げられない程度の傷を与えたと、そう思っているかもしれない」
 「それは事実だ。お前達の包囲を抜けるのは無理だし、戦うには傷を負い過ぎた、が」
 「だがな、一つだけお前達は忘れている」
 作戦など必要無い。打ち合わせも必要無い。さとりと言う一つの意志の元に動く場合に置いて地霊殿の妖獣達に言葉は必要無い。さとりと共に長く暮らす彼らにとって、肉体の違いなど些細な違いでしか無い。ただ、互いの気配を感じる事だけで彼らは一糸乱れる事無く連携を取って見せるのだ。
 「この館はさとり様の物だ。そして、私達はその館の守主だ」
 鴉の背後から獅子が躍り出る。突然の衝撃に驚いた獄卒鬼により幾らかの銃と札が唸りを上げた。殺到する鉛の雨を前に、しかし獅子は一歩も怯まない。フルメタルジャケットの回転運動が大気を切り裂き、獅子の眉間に迫る。だが、肉を切り裂く筈の弾頭は虚空の壁に突き刺さり虚しく空転を始めた。
 「「さらばだ、彼岸の諸君。また後で会おう!!」」
 それは練りに練った妖力を用いて獅子の前に作りだされた仮初の障壁。続々と投降される札とヴァジュラによって当然の如く粉砕されるそれは、二人にとっては十分過ぎる刹那の時間を作りだした。
 砕け散る妖力の破片の向こう側。背面のダクトに二体の小さな猫と鴉が入り込むのが見えた。壁奥に続くダクトが何処へ向かうのかこの場に知る者はいない。二匹の気配が離れて行く事に、獄卒鬼は苦々しげな声を上げた。


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 『さとり様は霊脈の完全破壊を狙っている』
 聞き覚えのある断末魔が遥か彼方から耳元に届く。思わず耳を塞ぎたくなる叫びにより、次々と胸の奥に穿たれる孤独感と悲壮感の空洞。砕けそうになる弱い心に鞭を打って燐は旧都への道を駆け抜けた。
 追っ手は掛かって居ない。背後から立ち上る噴煙は燐を逃がす為に、響き渡る怒号はさとりへ彼岸の軍勢を近づけない為に。囮となった燐の家族ははあまりにも無謀な戦いを演じている。
 「さとり……、さま。さとりっ……、さま……」
 燐は一人が嫌いだ。孤独であると胸に締め付けられるような痛みを覚える。だが、生まれた時はその様な事は無かったのだ。実際物心が着いた頃は一般的な火焔猫と同様に、独立心が強く、単独での行動を好むごく平凡な火焔猫だった。彼女が孤独を畏れる様になったのはさとりに拾われる少し前。生存競争に敗北し死に瀕した事を切っ掛けとする。
 意識レベルが下がる毎に這い寄る濃密な死の気配。まだ人化も出来ない程に未熟な頃だ、まだまだ若くやり残した事は無数にある。胸がときめく様な恋愛をしていない。まだ美味しい物を満腹まで食べた事も無い。何にも気を払わずに熟睡をした事も無い。飢えに怯え、天敵に怯え、眼をぎらつかせながら地獄の地下を彷徨った記憶しかない。
 まだ死にたくない。そう思って必死に手を伸ばしても周りに居るのは己の死体を啄ばもうと上空を旋回する地獄鴉と、己の死を望む地上からの流れ者だけである。周りにはただ悪意しか無く、胸を埋め尽くすのは孤独に他ならない。その事実が、生きる為に、歩みを止めない為に眼を逸らしていた事実が。生を終えようとする間際になって心底怖ろしいと感じてしまったのだ。
 燐はその時始めて大声を上げ滂沱した。それは己の窮地を知らせる行為。野生生物にとって全くもってマイナスにしかならずこれまで散々自分が馬鹿にした行為だった。だが、それでも燐は泣き叫ばずには居られなかった。都合のよい誰かが、気まぐれで助けてくれる。そんな奇跡の様な出来事に縋ってでも燐は生きたかった。そして、幸か不幸かその願いは叶ったのだ。
 己の肉を啄ばもうとする鴉を追い払い、代わりに骨ばった手で包み込んだのはこれまた、流れ者の鬼だった。燐は感謝した。神などにでは無い。今この体を包んでくれる鬼に対してである。だが、その保護者は己を愛してくれると同時に苛烈な憎悪を抱いている事に燐は直に気がついた。恐らくその憎悪の根源は自らに依存しないのだろう。ただ、行く場の無い憎悪が漏れ出た先に居たのが自分だった。
 ただそれだけの事なのだ。
 鬼は自分を善意から助けたのではない。その漏れだす憎悪を向ける先が欲しかったのだ。そして、燐は同時に戦慄すべき変化に気がついた。己がその鬼を拒絶できない事に。心が彼女を憎もうとしても肉体がそれを拒む事に。幾ら爪で背を抉られようと、床へと叩きつけられようと、確かに彼女は己に愛を向けてくれる。孤独への恐怖が、死への忌避感が、彼女からの恐怖を遥かに上回りより依存性を強めていたのだ。
 結局、再び彼女に捨てられるまで離れる事はできなかった。ぼろぼろの体で廃墟の町を彷徨う。混濁した意識の中、燐を再び拾い上げたのは孤独な温もりだった。そうして、火焔猫としての彼女は死に新たに飼い猫としての燐が生まれ出た。その事を燐は後悔していない。だがしかし、今の燐にとってその性質は負の方向に働いている。久しく忘れていたその感覚は、燐の心を酷く蝕んだ。
 「さとり……、さまっ……。お空……っ」
 燐がすがるのは何処まで行っても主と親友、そして地霊殿の家族だ。断じて神や仏では無い。さとりに拾われて以来、何時だって燐の傍には地霊殿の家族がいた。頼れる姉の様だった空も、手の掛かる妹の様になってしまった空も。手の掛かる主も。甲斐甲斐しく世話をしてくれた主も。温かく見守ってくれた皆も。その全てが、燐にとっては全て欠かすことのできない己を構成する要素だ。
 「あんた達は……、馬鹿だ。本当に、馬鹿主従だ。もっと他に良い手はあっただろう……」
 壮年の鴉から教えられたのはさとりの無謀過ぎる狙い。『空と燐を失いたく無い』、たったそれだけの願い。ただそれだけの為に行われたあまりにも馬鹿げた事実だった。さとりが霊脈を破壊しようとする理由を燐は知らないが、燐にも一つだけ分かる事がある。
 『さとりを止めなければならない』
 燐は知っている。かつてあの霊脈を調査した時のデータに眼を通した事がある。そこに眠るのは今と同じぺースで使用してもこの先数百年は枯れる事無い莫大なエネルギー体だ。それを崩壊させた時に何が起こるかなど考えるまでも無い。だから、燐は止めたかった。自分の居場所を守る為に、愛する主と唯一無二の友人を失わずに居る為に。執念にも近い願望が、燐をただ前へと突き動かした。
 「いんや、あのさとり妖怪はとても頭の良い方さ。映姫様がネタばらしをしなくても同じ事をしただろうさ」
 燐の眼の前に忽然と現れたのは、予想通りの赤髪の死神だった。あまちにも無造作に燐の眼の前に現れた小町。揺れる赤い下げは、あまりにも自然体で燐はその接近を拒む事が出来なかった。
 「……どう言う事ですか?」
 「歴史は収束するって事さ。あたい達が変えたいのは過程と言うだけでね」
 「その過程と言う物には、さとり様を殺す事も含まれているの?」
 「その通りだ。霊脈の崩壊を最も確実に止めるにはさとり妖怪の殺害が最も確実だ」
 「そんな、ただの確率論の為にさとり様の命を奪うんですか? 正直……、見損ないました。小町姉さん」
 「燐。組織に属すると言うのはね。自分の意志だけでは動けなくなる事を意味するんだよ。事実、あたいにとってもさとりは大切な友人だし、映姫様にとってはそれ以上だ」
 「だったらどうして!」
 「あたいたちが正義の執行機関で、この騒動を最小の被害でこの事態を収めなければならない義務を持っているからだ。その為には如何なる手段を用いる事も厭わない」
 声を荒げる燐に答えたのは残酷な程冷静で、合理的な思考だった。一瞬その論理に反駁しようと頭を捻り、そしてすぐに辞めた。論理なんて必要ない。そも自分の感情に論理など存在しない。自分は何時だって感情で動いているのだから。だから燐はあえて何も考えない。ただ、自分の思った事を口に出した。
 「……旧都がどうなったって知るもんか。あたいは、たださとり様とお空と、皆とまた一緒に居られるならそれで十分だ」
 「自己中心的な願いだね。地獄の猫にこんな事を言うのも変な話だが、死んだ時人道に入れるとは考え無い方が良いと思うよ」
 「全くもって愚問だね。あたいが生きるのは地獄。六道が底辺の更に下層に住む火焔猫だ。地獄堕ち上等。あたいが望むのはまさにそれだ。地獄の果てで互いに傷を舐め合って『生きる』のが、あたい達の望みなんだから」
 燐は小町に相対する。己が障壁を退け無ければこの先の道は開かれ無い。ただ自己中心的な欲を叶える為だけに燐は爪を剥く。かつての師匠へ向ける爪先はこの上なく尖り、そして血に飢えた様に妖しく光る。そんな燐の様子とは対照的に小町は慌てた様子すら浮かべ無い。ただ何時もと変わらぬ調子で呑気な笑みを浮かべて首を振った。
 「待ちな、別にあたいは、あんたを捕まえに来た訳じゃない。むしろ、その逆。あんたを逃がしに来たんだよ」
 「……は?」
 「あたい達は立場上さとり妖怪を助けられ無い。だが、偶然逃げ出したあんたがさとりを止めてくれるなら、あたい達は喜んでその事実を受け入れるだろうと言う事さ」
 「win-winの関係……、ですか?」
 「その通りだ。頼む……、映姫様を救ってやってくれ。気丈に振る舞っていてもあの人が一番辛い筈だ」
 「小町姉さん……」
 「早く行きなさい。あたいが追跡するって言うんで、あんたには今追手が掛かっていない。だから、逃げるなら今の内さ」
 背中を蹴られるように旧都へ送り出される。恐らくは小町の能力だろう。何時もの数倍の速度で流れる周囲の景色に燐は小さくお辞儀をするのが精一杯だった。燐を旧都の市街区へと誘う流れに乗り、燐は更に体を躍動させ速度を重ねる。
 向かう先にあるのは絶望的な結論か、理想的な現実か。
 どちらにしろ選び取るのは自分の手以外には無い。丘を蹴って宙に浮く。風を切るのではない、風と同化し滑るように宙を駆ける。目指すは今も尚、噴煙と爆音の止まない中心区。彼岸の軍隊と旧都の住人との泥沼のゲリラ戦が繰り広げられる危険地帯に、燐は身を投じた。


 遠ざかる背を見つめる赤髪は一際大きな溜め息を吐くと鎌を地面に下ろし、近場の木に寄りかかった。たちまちに小さく震えだす体。両手で搔き抱いてもその震えは停まらない。荒い息を吐きながら小町は悲しい瞳を町へ向ける。
 「これは ”賭け” だ。覚悟を決めるんだよ。小野塚小町」
 震える唇から紡ぎだされた小さな呟き。誰に聞かせる訳でも無いその声は、遠方で発せられた榴弾の炸裂音に飲まれ虚空へと搔き消えた。


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 「待ちなさい……」
 「いいえ、私は待てません。行きますよ。お空」
 「はい」
 部屋の中央に蹲るパルスィ。足元に広がる血だまりは既に安全域を超えている。多量の出血をしながらも未だ戦意を失わない彼女は太股のホルスターからハンドガンを引き抜いた。
 「さとり様っ!?」
 唸りをあげる7.65x21mmパラベラム弾。しかし、それはさとりに到達する事無く空の作りだした熱によるバイザーで即座に融解した。荒い息を吐くパルスィは崩れ落ちる弾頭を見ても尚射撃を辞めない。次々と熱の障壁に触れて融解・蒸発する鉄の塊。全弾を打ちきり、虚しい引き金の空撃ち音が部屋に響いてもパルスィは濃厚な殺意を手放そうとはしなかった。
 「行くわよ。お空。援軍が迫っているわ」
 「さとり様……、いえ……。分かりました」
 「待ちな……、さい。貴女を今捕まえないと……、あいつが立ち直れないの……。あいつのあんな姿をこれ以上見たく無いっ……!」
 「御免なさい。私も今捕まると泣く子が居るの……、だから、御免なさい」
 背後で聞こえる声を無視してさとりは部屋を出る。ぽたり、と赤い染みが床の白いカーペットに広がった。さとりの怪我も決して浅くは無い。全身に見られる皮下出血はどす黒く変色をし始めている。先ほどから始まった赤い飛沫の飛ぶ咳は喀血に他ならない。古明地さとりは内部からの爆破を受けたかのように内臓へ深刻なダメージを負っていた。平然を装ってこそいるが歩くのがやっとの状態だろう。
 そんな主の姿を目にした空はぎりりと臍を噛む。これ程に主が傷ついていると言うのに、空は今の今まで手の一つを出す事すら禁じられていたのだ。能力の一つすらも使わず。ただ、己の妖弾と貧弱な素体のみで戦う主の姿。それをただ見つめ続ける苦痛に耐える為の傷跡が今でも掌には深く刻み込まれていた。
 自分が戦えば、即座に圧倒できただろう。橋姫は強力な妖怪ではあるが、それはさとりと同種。間接的な攻撃能力に特化した存在である。空であれば純粋な力押しで十分に圧倒できる。だがしかし、さとりはそれを禁じた。
 「御免なさいね。お空。」
 「いえ、さとり様がお望みなら私は何でも……」
 理由は分かっている。自分が戦えば目立ってしまうし、手加減が出来ない。己のやろうとしている事とは対照的にこの期に及んで主は非情に成り切れていない。なるべく戦闘を避けるような行動もそれが原因だろう。
 「代わりと言っては何だけど、これからは助けて貰おうかしら。ちょっと歩くのに疲れたの……、おぶって貰って良いかしら?」
 「……勿論です!」
 「ふふ……、ありがとう。さぁ、急ぎましょう。次が来る前にこのビルを抜けないと」
 背中に感じる主の体は血と汗に濡れ酷く冷たい。尚且つ心持ち何時もより軽い。一刻も早く体を休める場所を見つけたいが、迫る気配はそれを許してくれそうに無い。雑居ビルの一角。空達の居るフロアには分隊規模の武装集団が猛然と迫って来ていた。廊下を走り非常扉を目指す。緑のライトで照らされた鉄の門扉は赤く錆ついてしまっていたが、そんな事はお構いなしに蹴破って外へ出る。継ぎ接ぎだらけの脚場で作られた渡り廊下が、ビル風に揺れ軋みを上げている。吹けば飛びそうなその足場を空は覚えている。
 昔、旧都を遊びまわった時燐を連れて遊びに来た所。迷路の様な市街区を走りまわって何度も勇儀に注意された事。そして、偶然に見つけたお店で■■■■を選んで貰った事。
 「あぅ……、いやっ……、こんな時に……」
 それは、記憶の欠落。平穏な日常に突如として現れた虚ろは、暗黒穴のように空の精神を連鎖的に抉り取って行った。頭が割れる様に痛い。内側から圧迫される様な痛みが断続的に続く。辛うじて廊下を渡りきり、向こうのビルに映ったと同時に空は地面に蹲った。
 「大丈夫よ……、ほら……、落ち付いて。私はずっと一緒だから」
 さとりの手が頭に伸びる。背中から回された手は、さとりの胸の中へと空の頭を誘導した。包み込まれた様な感覚に空の痛みは少しだけ和らぐ。さとりは背後からの気配に注意を怠る事無く、空が落ち着くまで空を抱き続けた。
 情けない。心底情けない。自分よりも明らかに重症である主に心配を掛けさせている。助ける筈の力が逆にさとりを傷つけてしまっている。その事実が此処に来て空に重く圧し掛かっていた。胸の内の八咫烏が慰める様に穏やかな波動を返すが、そんな気遣いが更に空を落ち込ませる。
 空は既に記憶の多くを失いつつある。記憶の欠落は以前から自覚していたが、連鎖的な崩壊が始まったのはつい最近の事。その崩壊と共に始まった脳の痛み。 ”能力を行使する度に” 発生するこの痛みが、空の精神を徐々に蝕みつつあった。
 「……ありがとうございます。もうだいぶ楽になりました。行きましょう」
 「そう……。良かった」
 空は焦りを感じていた。少なくとも空の神である部分は確実に気が着いていたであろうし、元の空である部分も感づいてはいただろう。決めた筈なのだ、己がどうなろうとさとりだけは助けると。一刻も早く八咫烏と融合せねば自分の命すら脅かされかねない。恐らくこの騒動を切り抜けるのに己は己のままに居られないだろう。神と融合して能力を存分に行使しなければ到底主の目標は達成できないだろう。だと言うのに、空は未だ己を引きずっていた。
 さとりと二人きりで居られるこの状況を嬉しいとすら感じていた。今日が最後だ。そう考えて眠りにつき、またその次の日も苦悩しながら主に甘える。そんな逃避行を繰り返しながら、空は眼の前に迫ったデッドラインから眼を背け続けていた。
 頬を撫でる主の手の平はそんな自分の自己中心的な思いを聞かされているのにも関わらず何も言わない。ループする悲劇的な思考を断ち切るように頭を振った空は、さとりを優しく担ぎ上げた。隻腕のさとりが楽に掴まれるように片腕を腰に添えて一息に担ぎあげる。空はまたもやビルのドアを蹴破ると、中へと侵入した。
 ビルの中には冷たい空気が流れている。暫く使われていないのだろう。暗く埃っぽい室内にはどんな生命の気配も感じられ無かった。ビルの中でも目立たない個室に入り身を潜める。周囲に気配が無くなったのを確認してから空はゆっくりと外へと出た。
 「さとり……、様?」
 背中の気配は荒い息を吐くばかりで答えない。ゾッとする程に冷たい感触が背中に広がった。


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 「小町、現状を報告しなさい」
 「見て分からないですか? 最悪ですよ」
 「正確な情報を、現状を覆す為の新たな策を打ち出すには不可欠な物です。良いから早く」
 「門は完全に崩壊。捕獲していた燐は逃げ出し、他は全て東館に立て篭もっています。幸いと言うか、門以外は此方に被害は出ていません」
 「……今の所はですね」
 「否定しませんよ」
 防弾扉越しの睨み合いが続く前線を見下ろし、映姫は嘆息する。戦車砲すら防ぐ物理的、霊的に極めて頑健な壁は突如として館の東区画を隔離するように迫り出した。その様な機構を映姫は知らない。少なくとも嘗て地霊殿が是非曲直庁により建造された当時には無かった物だ。
 「どうします。身の軽い奴を選抜して突入しますか?」
 「いいえ。さとりのペットに危害を加える事は許可しません」
 「さとり様は殺害しても、ですか?」
 「最後の線引きです。そして死の先を祈っての事です」
 「かと言って放置もできませんよ。私達が居なくなれば彼らは旧都に出るでしょう。さとりを守る為に。その結果どうなるかは御存じですよね?」
 「……分かっています。最低限の人員をこの場に残し、残りは旧都へ移動。本陣を移しますよ」
 「補給も無い状態ですか?」
 「私も貴女も出ます。最早形振り構ってはいられない。最高速度でさとりを殺害。返す刀で旧都の頭を狙います。それ以外に方法は無い」
 「頭……、ですか」
 「何か言いましたか?」「いいえ、何も」軽く小町は頭を振って答える。閻魔の此岸介入。その意味を映姫が知らない筈が無い。だからこそ、小町は何も言わなかった。
 「これがアーカーシャの修正力……。正直、侮っていた」
 「いいや、違いますよ。これはさとり妖怪の実力です。感の良いあの方です。全てはこの時の為、力を蓄えさせ、自分達だけは一人も欠けずこの道を乗り切る為の、酷く自己中心的な願いの発露」
 映姫は首元に残る濃厚な青痣を摩る。親友にして同僚。そして何れは己らにとっての最高の存在へと至るポテンシャルを秘めた概念上の化け物。彼女の事を思い映姫はただ瞑目する。
 己は近い内、彼女の首を捕るのだ。取り返しの着かない事態になる前に。苦痛の生を終わらせ、安息な余生を与えるのだ。それが、自分が最低限果たすべき義務だ。為すべき事を為さねばならない。その為の力を自らは与えられたのだから。
 「小町、さとり妖怪の移動予想ルート。そして、旧都側の布陣を示しなさい」
 「了解ですよっと」
 傷だらけの木机の上に旧地獄の地図が広げられる。何度も書き直されボロボロになっているのは、無数の書き込みによる物だろう。地図に書き込まれた赤い印は恐らく旧都の、青は彼岸を現す。
 「まず、前提条件の確認ですが、さとり妖怪の目指す霊力プラントは此方、『大焦処区』に存在します」
 旧地獄の果て、荒野の端に赤い丸を付ける小町。
 「地霊殿は旧地獄の中心地ですから、この区域に向かうには『金剛骨処区』を抜けると思われます。が、しかし、『大焦処区』の前には旧都の本陣。偽装バラック街『一切人熟処区』が存在します。ここは恐らくさとりは独力で抜けられ無いでしょう」
 一際大きな赤い印が記された点を指す。旧都市街の果てに在る偽装バラック街は是非曲直庁の部隊が侵攻を止められた地点でもある。
 「故にさとり妖怪はこの地点を通る。ここは小規模な霊脈こそ有る物の、旧都部隊の展開は認められません。入り組んだ荒野は隠密行動にも適する筈です」
 『闇火風処区』、等高線の密度の濃い地点にはそう地名が刻まれていた。
 「待って下さい。ここには確か――」
 「そうです。ここにはあの河童が住んでいます」
 「嘗てあの河童とさとりの間には親交があったと聞きます。あの河童と接触する可能性は無いでしょうか?」
 「……恐らくないでしょう。あの河童の心の闇はそれ程に深い。さとり達との接触の禁を解く事は考え難い」
 「それならば良いですが。……では、今さとりは何処に居ると思われますか?」
 「正確な位置は分かりません。ですが、断片的な痕跡から推測するに恐らくは……」
 「『金剛骨処区』……、旧都の激戦区ですね。先に旧都側の手に落ちる事は避けねばなりません。行きますよ、我らの正義を為す為に」
 「……仰せのままに。四季様」


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 「勇儀……、星熊勇儀……、貴女はいつまでそうやって塞ぎ込んでいるつもり?」
 「放っておいてくれ……。私はもう、鬼でも何でもないただの抜け殻だ……」
 その部屋は暗かった。まるでこの世に現れた時から今に至るまで光による浸食を拒み続けた様に暗闇が広がり停滞した大気ばかりが空間を見たしている。暗黒の中で濃厚な死臭を放つ抜け殻は部屋の隅にただただ在る。ただ在ると言う以外に形容のしようが無い。何故ならその鬼の眼からは既に光が失われているからだ。深く刻まれた目の隈。殴られた様な頬の跡。血色の悪い顔色。闘気も無ければ生気も感じられない。生きているのにも関わらず驚くほど現実感の無い姿だった。
 「わかんないなぁ。そこまでして鬼である事に拘る理由がさ」
 「何を言っている……、妖怪とは元よりそう言う物じゃないか。存在理由を失った妖怪はただ消え逝く……。それだけだ」
 話しかける影は、全くもって影であった。それはそこに在って、そこには無い。水面に映る月も同じ、つまりは影である。それが影であったからこそ勇儀はそれに答えた。虚ろな自らと同じ存在に同調したのかもしれない。
 「ふぅん。私には分かんないね。一種族一妖怪何て別に珍しくも無い。人が妖怪に変じる様に、妖怪が別の妖怪に変じるなんて別に珍しくも無いと思うけどなぁ」
 「だから私はそう ”あろうと” したじゃないか……。鬼を捨て、他人の為に力を振るう ”何か” に変じようとした。否、そうある事で己の存在意義をぎりぎりの所で守っていたっ……、なのに……、私……、は」
 影は呆れたように大きな溜め息を吐く。鬼の中に灯った怒りの熱があまりにも不完全な燃焼であったから、影には溜め息を吐く事位しか抗議の手段を持たなかった。
 「そうやってまた同じ事を繰り返すんだ。折角変革と言う概念を一度は受け入れた貴女が、また同じ事を繰り返すんだ。自分の行ってきた変革が全て間違いだったと全面的に認めるんだ?」
 「あぁ、そうだ。私は間違っていた。私はあの瓦礫の海に埋もれ消えて行くべきだった……。誰にも看取られる事も無く、一人で……、消えれば良かった……!」
 「馬鹿らしい、自分が為した結果から眼を背け。ただ緩やかな自殺を選ぶ自分に陶酔しているだけでしょう? せめて自分の為した事に眼を向けてから消えようよ」
 部屋に灯りが灯る。床に横たわるのは深い傷を負った最愛の人物の姿。死んでいる訳ではない。しかし、酷く衰弱している。適切な治療が施され無ければ肉体の崩壊は免れないだろう。浅く早い呼吸が静かな部屋に不気味に響く。
 「これが、私の為した事の結果か……。これが、私が己を抑圧し、為すべき事も為さなかった結果だと言うのか」
 「その通りだよ、星熊勇儀。これあんたの為した事だ。このまま、あんたがこの先何も為さなかった時に起こる事実だ」
 「私が何も為さなければ、こいつは何の意味も無く傷を負った事になるのか?」
 「その通りだよ。水橋パルスィはただお前を思い。愚かにも先行してさとりに挑み敗北し瀕死の重傷を負った。重傷を負った覚り妖怪を間もなく、旧都か彼岸の本体が捕えるだろう。全くこの女の行動は無駄であって、寧ろ事態を悪化させる事にしかならなかった。それが事実だよ」
 「…………」
 「最後に一つだけ……。鬼としての貴女じゃない、 ”星熊勇儀はどうしたい” の?」
 夢遊病患者の様な動作で、勇儀は床に横たわる女性の元に歩み寄る。がさがさに荒れた手で、その額へと慈しむように手を添えた。その手を握り返そうとする女性は、しかし、手を動かそうとして直ぐに力尽きる。
 「パルスィ、済まない……。私はまた……、お前に負担を掛けた」
 「ゆ……、うぎ……」
 その体に覆い被さるように顔を寄せる。それは触れ合う様な浅い口付け。貰うのはほんの僅かな熱で良い。ほんの僅かでもそれは触媒の如く体内に作用し、燻りはやがて焔へと変わる。冷たい体から熱を受け取り、淀んでいた妖力をありったけに流し込んで、勇儀は再び立ち上がった。
 勇儀は振り返らない。全ての決着を付ける。ただ強い思いと荒れ狂う怒りを内包し勇儀は扉を開き外へ出た。足音が離れた直後。大地が震える。大気が轟く。彼女の怒りに世界が呼応した。
 「良いよ。星熊勇儀。お前は存分に力を振るえば良い。鬼が考えるな。ただ本能のままに暴虐に荒れ狂え。お前はただ ”他人の為” に動く異形の鬼であれ」


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 古来戦闘を左右するのは天・地・人、すなはち、天の利、地の利、人の和、と言われている。天のもたらす幸運は、地勢の有利さには及ばず、地勢の有利さは人心の一致には及ばないと言う事である。ここで言う人とは、指導者の道、外部からの援助、人員の士気等を表わす。
 是非曲直庁は開戦当初 ”人の和” を持って旧都の地の利を退けた。一時の撤退は相手方の予想を超える戦力とさとり妖怪と言う災害による物。その様な ”天の利” 程度では是非曲直庁と言う強大なバックボーンを覆すには到底不足である筈だったのだ。
 故に、『門』の破壊は致命的だった。再び大規模な軍勢を送り込めるほどの門を一から構築するには優に数カ月の期間が必要だろう。つまり、『門』の破壊は彼岸の軍勢にとって人の和の実質的な消失と言っても良い致命的な失態であった。
 もはや今の彼岸の軍勢にアドバンテージは無い。兵の質で勝る彼岸と、兵の数で勝る旧都はほぼ互角。両者は旧都における支配権を廻って激しい衝突を繰り返し続けていた。市街地区での戦闘は高所、つまりより高いビルからの支援を受けた側に軍配が上がる。彼らが獲得を目指すのは中央部のラジオ塔を中心とする高層ビル群、『金剛骨処区』。このラジオ等周辺は旧都内戦闘における最優先目標であり、両者が支配権獲得を目指す激戦区と化していた。


 「リロード!」
 瓦礫の裏に隠れた小鬼の少年が、空マグをガムテープで纏められたマガジンで押しだす様にしてマグチェンジ。
 親指でコッキングレバーを引きリロードを完了する。想像よりもずっと早く瓦礫の向こう側から忍び寄る死の気配。慣れない手つきでリロードを行う少女の為に子鬼は気配へ向けてブラインドファイアを行った。
 「何人釣れた?」
 「三人、だ。配備は?」
 「待て……、完了だ。もう良いぞ」
 「了解、ほんじゃいっちょ行って来るわ」
 「馬鹿野郎。お前みたいな小童だけに行かせられるか。私も付き合おう」
 若くはあるが、精悍な顔立ちをした海姫が小柄な体に不釣り合いな対物ライフルを構える。眼で合図をした二人は全く同時に瓦礫を飛び出ると二手に分かれてビル影へ駆けだした。飛び出した二人を獄卒鬼のARが狙う。背の後ろを掠める鉄の雨に肝を冷やしながら子鬼の少年はビル影に滑り込んだ。
 反対側の影では既に隠れおおせていた海姫が対物ライフルを瓦礫の向こうに隠れた獄卒鬼に向けて発砲する。膨大な妖力を消費して岩の壁を突破した鋼鉄の弾頭は彼岸の鬼を容易く吹き飛ばした。
 動揺が走る獄卒鬼の集団に便乗し、子鬼がその背後に回り込む。狙いも付けずに発砲した銃弾の嵐は彼岸の鬼を既定の位置へと追い込むのには十分過ぎる効果を生んだ。
 「目標、フォックストロットに到達」
 「了解」
 反応する隙など与えない。刹那の時の後に上空から広大で綿密な粘着質な捕縛網が飛来した。四体の大蜘蛛が協力して紡ぎあげた糸が、対象を絡め取って行く。もがくほどに手に足に絡まり付着する糸は対象を瞬く間に行動不能とした。
 「くっ……、迂闊」
 「装備を過信し過ぎたな。動けなくばどれだけ頑健なボディアーマーも正確な銃も意味を為さない。『一回休む』前に何か言いたい事はあるか? 機会があったら伝えておいてやるぞ」
 「……仏の威光に触れ死と向き合うが良い。生にしがみ付く貴様らでも、慈悲を下さるに違いない。私がお前達に伝えるのはそれだけだ」
 「そうか」
 眉間に銃を突きつけた子鬼と海姫が同時に引き金を引く。乾いた音と共に獄卒鬼の体がびくりと跳ねた。
 「……俺らを地下へ追いやった奴らが良く言う。ヒロイズムに酔った彼方者の分際で此岸を脅かすか。泳いで帰りな、ゾンビ野郎」
 獄卒鬼の体が自壊を始める。ぼろぼろと崩れ落ちる面の下から現れた、干からびた ”亡者の亡骸” は光と共に砕け散ると跡形も無く消失した。後に残るのは装備品と鬼の魂。火の玉と化した鬼の魂は地霊殿へと飛んで行った。
 「逃がして良かったの? またトラップがばれるよ」
 「馬鹿言うな。あんなちんけなトラップが通じたのはラッキーだ。もう使う事は無いだろうし、そもあんな魂を留めておく術は俺にもお前にも無い」
 「あんた変な所で潔いよね。下っ端の鬼もどきでも鬼は鬼なんだ」
 「お前が執念深過ぎるんだよ。何事にもな」
 「当たり前でしょ、海姫なんだから」
 先ほど兵を撃ち殺した少年少女が談笑をしながら拠点とするビルへと引き返して行く。戦場とは思えない程の和やかな会話。だが、その声がビルまで続く事は無かった。先に気が着いたのは子鬼の少年。少年の瞳にはきらりとガス灯の灯りに反射するレンズが映り込んだ。
 「おいっ、伏せ――」
 道の真ん中で倒れる二人。互いに庇いあう様に抱きあった二人は、周囲を彼岸の斥候部隊に取り囲まれ肉片へと変えられた。その亡骸を一瞥もせず、その先のビルへと突入作戦を遂行する彼岸の軍勢。周囲には断末魔と銃声が響き渡った。


 目の前で行われる激しい戦闘を遠巻きに眺めるのは黒い猫又。燐は配管の間に身を潜める様にして戦いの顛末を見ていた。周囲から気配が消えたのを確認して燐は静かに地面へと降り立つ。物言わぬ肉塊と化した二人に歩み寄ると燐はその脇に屈みこみその頬を指でつついた。
 「二ヶ月は起きられないか……。ねぇ、口は聞ける?」
 「……☆■……」
 「意識はあり……、か」
 体中に穴を開け、口の中が血で溢れながらも少年は口を開く。燐は掌に妖力を集めると少年の顎を持ち上げ口内の血液を掻き出してやる。激しくせき込みながらも辛うじて発声が可能になった少年の首を持ち上げ燐はその眼を正面から見た。
 「教えるんだ。さとり様とお空の居場所を掴んでいないか?」
 「あいつ……、を。あいつにも応急処置を……、頼む。俺程頑丈では……、無い……、んだ」
 「それを決めるのはあんた次第だよ。まずは質問に答えるんだ。さとり様と空の居場所を教えて欲しい」
 「教えたら……、あいつも助けて……、くれるか?」
 「約束する、だから」
 「……さとりと地獄鴉は、最後に闇火風処区の東で目撃された。水橋様の率いる部隊と交戦し、……以降の足取りは掴めない」
 「くっ……、そんな情報は既に持っている。役に立たない……」
 「だが……、さとり妖怪は水橋様との戦闘で重傷を負った。恐らくその場から大きくは動いていない筈だ」
 がつり、とハンマーで頭を殴られた様な衝撃。予想はしていた筈だ、このような非常時に置いて怪我を負う等当然ともいえる事態だ。それでも抑えきれない怒りが己の冷静な部分を次々と浸食し、赤に視界が染まって行った。
 「重傷……、だと? さとり様が?」
 「その通り……だ。水橋様も重傷で……、現在医療班の手当てを受けている。殆ど相打ちだった……」
 「生きているのか?! さとり様は、お空は無事なのか?!」
 「わ……、分からん。ただ、無事であるとしても付近に潜伏しているだろうと今、捜索隊を……」
 「追い打ちを掛けるつもりなんだな?!」
 「その通りだ。……さとり妖怪を見逃せば……、今度は私達が危険に晒される。……どうやって見逃せと言うのだ」
 「どうしてそう思う!? そんなに八咫烏の力が恐いのか!」
 「あぁ……、恐い……。お前はずっとあの中で、さとり妖怪の庇護を受けているから知らないのかもしれないが……、どれだけあの八咫烏とお前自身が脅威に思われていたと思っている……。それを擁するさとりがどれだけの脅威だったと思っている」
 「そんな……、自分勝手な……、さとり様がどれだけ旧都の発展に力を注いだと――」
 「知っている。感謝だってしている……。だから、今まで問題は表面化しなかった……。だがな、妖怪も人も己の感情に嘘は付けない。確かに負の感情は溜まっていた……。それが破裂したのがこの間の騒ぎだった……。切っ掛けは妙な連中だったが……。ただそれだけだ……」
 子鬼の少年の声には次第に熱が籠もり始める。その掠れるような小さな叫びは流れ込んだ妖力で多少なりとも回復しているとは言え、深い傷を負った彼にはまだ負担が大きい。体を折るようにして咳をする少年を見つめる燐の瞳に宿るのは一杯の怒りとほんの僅かな悲しみ。
 「だから……、この戦争が起こったって言うのかい? そんな下らない猜疑心の為に。さとり様もお空も傷ついて、あんた達もそんなにボロボロになるのを選ぶだなんて……。大馬鹿じゃないか」
 「俺もそう思う……。全くもって正し意見だ。私達は全くもって糞っ垂れた……、下らない理由の為に戦いを始めて、そして……、死んで行くんだ。だが一つだけ違う……、俺達は ”愚か” ではあるが……、 ”馬鹿” では無い」
 「一体……、何を……」
 「戦い始めた理由こそ一部の馬鹿どもの所為だが……。戦闘を実行するのは、……間違い無く私達の意志だ。いつだって悪役だった私達はそれを良く知っている……。一度始まった戦いは ”勇者” が ”魔王” を斃すまで終わらない。だから私達は戦い続ける……。私達が私達である為に……」
 「馬鹿……。そんな風に思考停止するから、悪役を押しつけられるんだよ……」
 「構わないさ……、私達とはそういう存在として生まれたんだ……。そう言う存在として死ねるなら本望。でも……、そこの海姫は違う。ただ、生者が羨ましかっただけの孤独な妖怪だ。こいつは地上の太陽の元で、人間の手に掛かって復讐されなければならぬ……。地下の穴倉は……、こいつの死に場所じゃない。まだ死なせないでやってくれ……」
 「……分かっているよ。あんたは大人しく寝ていな」
 「頼む」と言い残して少年は意識を手放した。一瞬慌ててその心音を確かめるが問題無く動作している。ほっと胸を撫で下ろしたさとりは隣で眠る少女に応急処置を施す。気付の妖力を口に流し込むと、少女は間もなく眼を覚ました。自分の姿を見ても特に慌てた様子は無い。状況から事情を把握したのだろう。彼女は唯礼を言い、燐に耳打ちをする。
 「古明地さとり討伐に旧都の本体が出動した。間もなく到着するだろう」と。
 燐にその事実を伝え終わると少年の手を握りまた眠りについた。
 バイタルの安定を見届け燐はすっくと立ち上がる。彼らを次に見つけるのが旧都の部隊なのか、彼岸の部隊なのか分からない。だが、燐は最早そんな事を気に掛けては居られなかった。
 「あんたらは馬鹿だよ。あの二人よりは ”マシ” な大馬鹿者達だ」
 寄り添い倒れる二人を後に燐はその場を去る。冷たい風の吹く、秋の日だった。


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 「お姉ちゃんも馬鹿だねぇ。もっと楽に生きる道は幾らでもあるだろうに」
 「いいえ。私が行わなければならない事は何時だってたった一つです。本来なら貴女だって……」
 「おっと、それは禁句だよ。だって現に私と貴女は一緒に居られないんだから。今のところはね」
 「そうね……、今の所はね」
 白いまどろみの中に浮かぶ何時もの人影。最早見慣れた人影に驚きは無い。ただ悲しみだけが胸を満たす。
 「大人になりなよ、 ”お姉ちゃん” 」
 「切り捨てるのが大人だって言うのなら、私からお断りよ」
 それはいつだって曖昧な笑みで私を見つめていた。
 何を考えているかなんて、分かる筈もない。


 「――とりさま。――さとり様。起きて下さい。さとり様」
 鮮明になる環境音に眼の隙間に刺さるガス灯の灯り。さとりは、今の状況を思いだす為に記憶のサルベージを試みる。『重傷』『潜伏』『包囲』碌でも無い単語が頭に次々と浮かぶ。
 「おはよ、お空。……良い朝ね」
 「はい、おはようございます。じゃ、なくて。さとり様と一緒に居られるのは幸せなんですが……。ちょっと困った事になってます」
 「あぁ、そうね。確か旧都の連中に包囲されて――?! お空、今の外の状況は?」
 「大丈夫です。さとり様がお休みの間は私が……。このビルへの侵入は許してません……。だけど……」
 「厄介な奴が来ました」窓枠に近寄り横目で外を覗く。
 いや、覗くまでも無かった。その圧倒的な気配を放つ事が出来る存在はこの地下世界でも一人しか居ない。その主を確認したさとりは安心して窓に身を乗り出す。下に居るその人物は、少なくとも表面上歓喜の表情を浮かべさとりの登場を迎えた。


 「来たぞ。古明地さとり。お前を止める。ただそれだけの為に私は今此処に来たぞ」
 圧倒的な存在感。生ある物を無条件に平伏させる平等で無慈悲な暴力の塊。生まれ持っての支配者にして、力の体現者。極東の地に根付く伝統的な恐怖の象徴。腕を組み、ビルを見上げる勇儀は旧都の大部隊を率いてかつての往来の中央に陣取っている。
 手には何も持っていない。銃の一丁も持たず、ボディアーマーの一つも見に纏わず、 ”星熊盃” も持っていない
 見に纏うのは普段通りの運動着。並の者なら近づくだけでも気を失いかねない程の殺気を放ちながら、勇儀は待ち構えていた。
 「出てこい、と」何よりも目でそう告げながら勇儀は待ち構えている。背後に率いるのはこれまでに見た事が無い程に統制が取られた旧都の部隊。彼らの腕章には八咫烏のマークは無い。何時か見たおかしな光はその眼に灯っていない。勇儀と言う一つの意志の元に集う精強で屈強な者達が己の意志を銃に代えて勇儀へと委ねている。
 「さとり様。あんまり顔を出すと危ないんじゃ……」
 「いいえ。大丈夫よ。恐らくはね。――久しぶりね。勇儀」
 「おはよう。古明地さとり。十分に休めたか?」
 「まだまだね。この所寝不足だし、一度ゆっくりベッドで休みたいわ」
 「そうか。私達の宿舎にベッドは用意されているぞ。ついでに食事もな。三食昼寝付きだ。悪くは無いと思うが?」
 「あら、それはとても魅力的な御提案だわ。……だけど、それは受けられないのよ。私も急ぎの用があってね」
 「奇遇だな。実は私も急ぎの用があるんだ」
 剥き出しの殺意がさとりへと向けられる。次々と砕け散る硝子の窓。地面にに毎い落ちる硝子の雨を引き起こしたのは単なる歩行だった。ただ無造作に出した足が地面に着く。それだけの動作でさとりの住むビルの硝子は全て砕け散った。
 「さぁ、早く出て来るが良い。この先へ進む事を望むなら、私を打ち倒すが良い」
 「残念よ、星熊勇儀。あなたは分かってくれると思っていた。私はこの先へ行かせて貰うわ。皆の為に」
 続いて二歩目で勇儀は地面を割る。三歩目と共に繰り出された拳はビルの柱の一つを粉々に砕け散らせた。バランスを崩したビルは緩やかに崩壊を始める。土煙りを上げて崩れるビルから飛び出るのは鴉と一人の影。
 このまま飛んで逃げるのは不可能だ。上空は霊力の配管で埋め尽くされている。低空を飛行するのは自殺行為だ。射撃演習の的にされるだけだろう。消極的な選択として二人は崩れるビルの瓦礫の上に舞い降りた。いつ襲いかかられても対処できるよう感覚を研ぎ澄ませ。旧都の部隊と対峙した。
 「古明地さとり。お前を無傷で捕獲できると思う程私は思い上がっていない。……悪い事は言わない、その鴉をまずは引き渡せ。さもないと巻き込むぞ」
 「あら、わたしのお空は誰にも渡しませんよ。それに、お空は自分の身も守れない程弱くはありません」
 「その通りです。さとり様。私はさとり様を守ります。その為にここに居るんです。たとえこの身に代えたとしても」
 「そうか……、手は抜かん。せいぜい全力で抵抗して見せろ。私を楽しませてくれよ、古明地さとり!」
 空の視界にはその姿は消えたようにしか映らなかった。次に襲って来るのが衝撃波と拳のぶつかり合う乾いた音。隣では、主が鬼の拳を片腕で受け止めていた。
 「ははっ、それでこそさとり妖怪。それでこそ、恐怖の象徴。あの時以来だ。本気を出して壊れない奴なんてなぁ!」
 「お褒めに預かり光栄。お空! 退路を作りなさい! 長居は無用よ」
 「はっ、はい!」
 横目にさとりの戦闘を見ながら、空は旧都の部隊へと空を駆ける。自分一人であれば銃など問題にならない。超高熱のバイザーを展開し触れる端から弾頭を蒸発さつつ制御棒へ熱エネルギーを集中させる。砲身内を加圧しつつ、安全域ぎりぎり三千度までエネルギーを充填。狙うのは敵軍後方のビル。
 直接は当てない。旧都住人の殺害はさとりの望みでは無いからだ。見た目の派手な空の弾幕は牽制としても十分な効果を発揮する。熱と衝撃で徐々に押し、軍を後退させる。空はそうやってさとりが目を覚ますまでビルを守っていた。
 飛来するHEAT弾。爆音を置き去りにしてバイザーに着弾する弾頭は更に超高熱高圧ガスを噴出した。鉄塊の装甲を貫く為のそれは、空の皮膚を僅かに焦がした物のかすり傷を負わせるに過ぎなかった。だが連続で受けるのは得策ではない。次々と飛来する弾頭を空は空中に飛んで交わし、旧都の兵の中央へと入り込んだ。懐に入り込めば、重火器は使えない。
 「死なない程度に頑張るけど、保証は出来ない、ごめん。――八咫烏君! お願い」
 空の胸の瞳が胎動する。同時、制御棒がその形を変じ始めた。射撃用照準が網膜から消え去る。太く無骨だったフォルムが持ち手を残して折りたたまれ一枚の強大な刃と化す。それは八咫烏の近接モード。これまでの核融合の副産物では無い。唯、戦闘を行う為だけに存在する形態。赤熱した刃に姿を変えた制御棒を手に、空は取り囲む子鬼の部隊へと斬りかかった。
 「やるじゃないか。あの世間知らずの小娘が。良く育てたな」
 「そりゃぁ、私の自慢のペットなんですから当然ですね」
 さとりと勇儀の戦いは全くの互角であった。瞬動術を用いて間合いを制圧する勇儀に対して、全ての攻撃・心理を読み切り未来へ向けて拳を突き出すさとり。隻腕と言うハンディを物ともせずさとりは勇儀の最も得意とするレンジで渡り合う。それは、本来なら異常とも取れる事態だった。
 「まったく、気味が悪い。まるで稽古か何かを付けられている気分だ」
 「あながち間違っては無いですね。最も、私には理解の及ばない無いようですが」
 武の化身。暴虐の具現。この世のありとあらゆる格闘技術を限界以上のレベルで使用する勇儀と渡り合える存在など妖怪でもそうは居ない。天魔クラスの大妖でも近接戦闘では数分と持たぬのだ。武神ならば兎も角。肉体的には貧弱、更に隻腕のさとりと勇儀の間には第三の眼だとかそんな物でカバーできるレベルでは無い程の隔絶がある。以前戦った時と同じだった。この妖怪は至極それが当然であるように自らと互角に渡り合うのだ。以前は奥義を出す前にさとりが負けを認め戦闘が終わった。だから今回は出し惜しみをしない。
 「時間も無い。鬼の頂点に伝えられる奥義を見せてやろう。光栄に思うが良い」
 「嬉しく無いわ。勇儀。汗臭いのは嫌いなのよ!」
 腕と脚に全ての力を籠める。四天王奥義。三歩で全てを灰燼に帰す破壊の奥義。避ける事も、受け切る事も不可能。
 ただ無慈悲に対象の息の根を止める為の力を放つ。腰を落とし小さくゆっくりと息を吐いて行く。掲げた足を地面につける。壊滅的な一歩の刻まれる直前にその声は往来に響き渡った。


 「目標『穴倉の蛮族』他は私が相手をする。全軍、突撃」


 地平の果て、横一列に並ぶ黒い法衣の集団。そしてその最前線を行く戦車部隊。疾風怒涛の勢いで押し寄せるそれらが何であるかに気が付くのに時間はそれほど必要無かった。
 「総員、防御陣形。空に構うな! 優先すべきは 彼岸だ」
 慌てた様子で指示を飛ばす。だが、彼岸の軍はそんな隙を見逃す筈は無い。部隊編成が終わる前に、MBTの戦車砲は次々と火を噴いた。無防備な子鬼の軍勢に戦車砲が降り注ぐ。
 「くっ――」
 旧都部隊の中央で大立ち回りを繰り広げていた空はひらりと宙に舞い上がると、最前線に躍り出る。迫る戦車砲の弾頭を腕に付けた高熱の刃で一刀両断してみせた。
 「助けたつもりか?」
 「それが、さとり様の、望み、だからっ!」
 続く弾頭。五発同時に降り注ぐそれを切り伏せるのは不可能と判断した空は、ブレードの出力を警戒域まで引き上げる。摂氏五千度。色は橙からやがて白へ。刃から立ち上る熱気は、刃の外縁に新たな刃を作りだす。巨大な熱剣と化した制御棒は、迫る弾頭を一刀の元に全て蒸発せしめた。
 だがその空の硬直を狙った様に地獄の鬼はヴァジュラを手に低い姿勢から飛びかかる。迫るがしゃどくろの面を目前にしても空は動かない。
 見えていたからだ。溶けた鉄の雨を掻い潜り、空の脇を駆け抜け、彼岸の鬼と切り結ぶ子鬼の剣士の姿を瞳に映していたからだ。すぐに弾き飛ばされた子鬼は仲間に助けられ再び立ち上がる。アサルトライフルによる援護射撃を受けながら突っ込む子鬼と、戦車の援護を受けながら襲い来る彼岸の鬼。
 此処の戦力差は決定的だ。空がいなければ旧都軍は初撃で撤退を余儀なくされていただろう。だがしかし。偶然にも出来あがった奇妙な同盟関係は両者を拮抗状態に持ちこむ。三十にも満たぬ亡者の精鋭を、空と統率のとられた子鬼の混成部隊は互角の戦いを繰り広げた。
 「奇襲とは随分な挨拶だ。やってくれるじゃないか。四季映姫」
 「目標はさとりだったんですけれどね。貴方が居るとは予想外でした。星熊勇儀」
 背面で繰り広げられる戦闘とは別。星熊勇儀、古明地さとり、四季映姫の三名は睨みあいを続けていた。睨みあいと言うのは、正しく無いかもしれない。偶然にも各勢力の指導者が集ったこの状況。少なくとも二つの陣営にとって、既にその優先目標は古明地さとりの捕獲では無い。
 「この勝負預けたぞ。古明地さとり」
 「辞めなさい、勇儀。貴方達が彼岸と争う理由は無い」
 「さとり。もはや、理由を問うのはナンセンス。我らが考えるべきなのは、どうやってこの戦いが終わるのか。なぜならその問いは既に答えが決まっているのだから」
 勇儀と映姫は既にさとりを見ていない。これ程の大規模戦が行われる場に置いて、指導者同士が相見える機会が二度とあるだろうか。最小の被害で戦闘を終結させる機会が次に訪れるだろうか。故に二人は打倒すべきターゲットを変更する。その拳と、抜きはなった悔悟の棒にありったけの力を籠め小さく息を吐きながら互いに歩み寄る。
 「その通り」さとりの声は届かない。
 「理由など決まっている」否、聞く必要が無い。
 「大昔から変わらない」守られる筈の道理ばかりがその歩みに蹂躙され、止められぬ理不尽だけが世界を支配する。
 「最初からこうなるのは定められていた」皮肉な同調が、共鳴を生み更に歩みを加速する。
 「「何故ならば私達は」」世界を崩壊させるほどの力を籠めた拳と罪が、互いへ向けて無慈悲に放たれる。
 「正義だから」
 「悪だからだ」
 勇儀の拳と、映姫の悔悟の棒がぶつかり合う。勇儀の拳圧は映姫の周囲の瓦礫を粉々に打ち砕いた。受け止めた映姫の脚元から伝う衝撃波は地面を深々と抉り取る。巨大のクレーターの中心に佇む映姫はそれ程の衝撃を受けながらも、涼しい顔を崩す事は無かった。
 「暴虐の化身が、この世の理不尽が、私に勝てるとでも思いましたか? この世の理に勝てると、どうして思いますか?」
 「勝てるかどうかじゃない、やるかやらないかだ。だが、ついでに言うとだな……、割と思っているぞ。力で理を曲げるのが、私と言う鬼なのだからな」
 拳を打ち合わせていた筈の勇儀の姿が搔き消える。時間の隔絶を飛び越えて映姫の背後に現れた勇儀はその脚を掴む。軽く飛びあがった勇儀は配管のジャングルを引き千切り空へと昇る。重力と推進力が釣り合う刹那。その映姫の体を地面へと叩きつけた。
 煙の中。聞こえて来るのは歌う様な朗々とした声。眠気を誘う、しかし威厳に満ちた、安定感のある宣言。
 「――緊急時につき。私、四季映姫・ヤマザナドゥを『単身の裁判所』とする」
 膨れ上がる膨大な気配。膨大な恐怖が、明確な終焉のイメージが土煙の中から立ち上る。
 「罪人、星熊勇儀。罪。旧都の人民を扇動し闘争へと駆り立てた。平穏に暮らす住人から生活を奪った罪は重大」
 その宣言を終わらせてはならない。本能でそう感じ取った勇儀は、煙りの向こう側へ飛びかかる。だがその拳は届かない。逆に体が強大な結界により拘束される。
 「判決。有罪(ギルティー)。速やかな処分が妥当」
 「勝手言うんじゃねぇぞ! 四季映姫!」
 ――審判「ギルティ・オワ・ノットギルティ」
 御仏の光が地下の世界に満ちる。瞬く間に広がる極彩色の光に瘴気に塗れた大気が浄化されて行く。その光が収まった時。地面に立つのは厳つい冠であり、倒れ伏すのは一角の鬼であった。
 「己の罪を知り、悪である生を悔い、罪を灌ぎ、より良き次世を生きよ、星熊」
 それは限りなく世界の根幹に近い力の行使。悟りの境地に至った物しか眼にする事も叶わない筈の極楽浄土の光。その前に旧都の部隊は当然の如く。獄卒鬼ですらその腰を抜かし地面へとへたり込む。それ程に映姫の力は別格であった。
 動く物無くなった空間で映姫は静かに地平の果てを見つめる。視線の先、千里先を見通す閻魔の瞳に映るのは黒い鴉の翼。周囲を見渡した映姫は即座に状況を把握する。
 「……流石にさとりには逃げられましたか、八咫烏も居ない。しかし、鬼の四天王を斃せたのなら十分。まだ挽回は容易――」
 足元に感じる違和感。動く筈の無い敵が。生き物の形をとった罪と言う概念が、その執念を元に映姫の脚を掴む。
 「――それで、貴女はまだ、何かをするつもりなのですか?」
 「言った筈だ。私は力で理を曲げると。故に、私が縋るのは最期まで己の力だ。私の力で持って、私の民に手を出させはしない」
 それが映姫の勘違いで無いのならば、確かに足元から巻き起こる力の渦は先ほどを遥かに上回る。否、周囲から吸い寄せらる様に。この世界から力を奪い取り足元の存在は立ち上がった。あの光を受け何事も無いかのように勇儀は再び映姫に対峙して見せた。
 「そんな術を使えるとは正直以外ですよ。先ほど力に縋ると言ったのは嘘だったのですか?」
 「……私には術は使えない。術だけなら他に幾らでも得意な奴が居た。これは、私と言う『概念』だ。今お前に対して民が抱いた畏れが私の力になる。恐怖政治の元でこそ私の力は最大となる。――何たる皮肉! ――何たる好都合! 好きなだけ力を振るえ四季映姫。その圧倒的な力への畏敬が、私の目的の糧となるのだからな!」
 「何度でも立ち向かって来い。そして知るが良い。その恐怖を打倒する者こそが私だ。それが閻魔だ」


 正義と悪。対象的な言の葉が肉を着た災害が旧都の中心でぶつかり合う。最早その前に、獄卒鬼も、旧都の部隊も己の身を守る以上の活動は許されない。次々と倒壊するビルを目撃し、その配管の隙間に到達した黒猫が驚愕したのはそんな時だった。
 「嘘だ……、どうして四季映姫がこんな所まで?! それに、戦っているのは――、星熊勇儀?!」
 こんなにも早く両者が激突するのは完全に燐の予想の外であった。燐は窮地に追い込まれているであろうさとりを助けにこの場に来たのだ。だがしかし周囲にそれらしき気配は無い。この災害から逃れようと逃げ惑う滑稽な二つの軍勢が居ただけである。
 「さとり様、お空は……。いや、それもだけどこの状況は――」
 暴風の一端が燐の居たビルを掠める。ただそれだけ、中腹を抉られたビルは緩やかな死滅を開始した。それに気がついた燐は慌てずに隣のビルへ飛び移ろうとする。その程度猫にとって造作もない事であった。ただ一点。飛び移った先のビルが目前で灰燼に帰した事を除けばである。
 「しまっ――」
 瓦礫の雨に巻き込まれ地面への降下が始まる。如何に身体能力の優れた猫の妖獣と言えど、妖力翼を広げる事も叶わず、脚場も無く絶えず体に降り注ぐ礫片にバランスを崩されては為す術が無い。迫る地面。燐はその衝撃に備え体を丸くし、間もなく体を襲う恐怖から逃避する為に眼を閉じた。
 「お燐! こっちへ来い!」
 それは聞き慣れた声。それは、平穏な日常の昼を告げる旧都の顔。気の良い姉の様な存在、自分にとってのもう一人の目標。
 「ヤマメさん?! 生きて――」
 「糸を手繰れ! 押し潰されたいのか!」
 折り重なるように積もるビルの瓦礫。その日、旧都のビル街は地図から消失した。


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 「映姫様、お怪我の方はありませんか?」
 「アバラが数本持って行かれた。その程度よ。動くのに支障は無い」
 冠は落ち、彼岸の制服は見る影も無くぼろと成り果てている。彼女らの周りに在るのは最早建物とは言えない瓦礫の山ばかりだった。数十メートルに渡り深々と抉れたクレーターは、鬼の拳が軽く触れた跡。数百メートルに渡り深々と抉れた溝は、閻魔が穢れた地を浄化した跡。大陸の最前線ですらこれ程の巨大な力がぶつかり合う事は稀だろう。それ程に鬼と言う生き物は埒外の存在だった。
 色濃く残る激戦の跡。崩れ落ちる瓦礫の山から飛び降りた映姫は、下で待つ小町から手拭いを受け取ると頬に着いた泥を拭った。これ程の激戦を終えたと言うのに映姫の体には大きな傷は無い。小町から皺が増えると口うるさく言われるしかめっ面が、大きな青痣の残る首の上に着いたままである。
 「そんな事より小町。獄卒鬼達は無事に逃がしてくれたかしら?」
 「えぇ。数名怪我はしていますが、部隊員全員無事です。今は仮設陣地で休んでいますよ」
 「旧都の部隊は?」
 「同様に撤退しましたよ。この地区を制圧するメリットは無いと判断したのか本陣へ戻っています」
 「……せめて、ビルの一つは残しておくべきでした。これでは荒野と何も変わらない」
 「残ったのはラジオ塔周辺位ですか。派手にやりましたね」
 「手を抜けば私が斃されかねませんでした。仕方がありません」
 「それは良いのですが」小町は困った様な表情をすると視線を映姫の脚元に向ける。それは、おそらく人型の何かである。とそう小町の脳は告げる。確かに四肢が着いていて頭が乗って居ればそれは人型と判断しても良いのだろう。だが、それが人型の生命であるとはとても小町には思えなかった。
 「それはどうするんですか。まさか放置するとでも?」
 「それ以外にどうしろと言うの? 私の全力を持ってしても浄化は不能。殺しても端から再生。手元の道具では拘束すらままならない」
 「だからと言って、放っておくんですか? これが現れて以来旧都は急速に統率力を高めました。こいつを押さえれば再び奴らは烏合の衆に戻ります」
 「無論放置と言っても、そのまま打ち捨てるつもりはありません。限界まで力を使わせた後に、今ある全ての封術を用いて拘束。後はこの場に放置。せめてさとりを拘束するまで無力化できれば良い。鬼を斃すには心を折るしかない。己一人の力では覆せない差を起きるまでに作るしかないでしょう」
 ぞくり、と小町は背筋に冷たい感覚を覚える。驚いて脚元の鬼だった何かに眼を向ける。脚元にあるぼろ雑巾が、意識を失っている筈のそれから恐るべき視線を感じたからだ。だがそこにあったのは相変わらず意識の戻る気配の無い鬼の残りカス。胸の奥から湧きあがる嘔吐感にも近い不安を振り払ったのは、腰に付けた無線機の受信サインだった。
 『KO-12、こちら、ZG-41、レディオチェック、オーバー』
 『ZG-41、こちら、KO-12、レディオチェック、オーバー』
 『――――――――――』
 『――――――――――』
 伝えられた事実を理解するまで一拍以上の時が必要だった。全てが上手くいかない。仕組まれたかのように悪手をとらされ続ける、この勝負は一体何処へ向かうのだろうか。
 半ば呆然としながら無線を置く。唯事では無い気配を感じた映姫は、小町へ詰め寄りその頬に掌を添えた。
 「小町、どうしましたか? 先ほどの無線はなんだったのですか?」
 「……地霊殿の妖獣達が一転攻勢に出ました。包囲網が破られ掛かっています」
 「恐れていた事が起きましたか……」
 「通信を盗聴されていた様です。映姫様がさとり様の首を取りに行ったと聞いたとたんに、手が付けられなくなった。と……」
 「どうしますか?」小町は静かに映姫に問う。
 暫し瞑目し幾つかの選択肢をピックアップ、現状に照らし合わせて各々をシミュレート。本体を地霊殿に一部戻すか? 否、ただでさえ数で劣る軍をこれ以上分散させるのは得策ではない。ならば地霊殿を放棄し防衛隊を合流させるか? 否、旧都には対抗できるかもしれないが、出て来た妖獣達に挟みうちにされる可能性がある。 ”さとりの為” にもそんな事は絶対に出来ない。ならばどうする。答えは決まっている。
 「地霊殿防衛隊は徹底的な遅延作戦を。本体は旧都の本陣に強襲を掛けます。指揮は貴女に任せる。最大速度で旧都および、さとりを鎮圧します」
 「了解です」
 とるべき手段は唯一つ。惑わされる必要は無い。さとりを殺害せよ。一刻も早く妖獣の部隊に邪魔をされるその前にさとり妖怪を殺害せよ。己が為すべき事の為に。ただ己は為さねばならない。
 「あの……、映姫様」
 「なんですか?」
 「脚……、元……、居ません……! 鬼が、逃げました!」
 二人の傍の地面。先ほどまでぼろ雑巾の横たわっていたそこにはただ、黒ずんだ染みが残るのみ。忽然と消えたその姿もその気配も映姫の力を持ってしても探り当てる事は叶わなかった。映姫は己の見通しの甘さに心底呆れ果てる。あの鬼がそこまでの決意を固めているとは考えていなかった。ただ目的の為に、逃走の末の敗北と言う名誉を捨ててまで鬼が闘争を選ぶとは夢にも考えていなかった。
 「そこまでして貴女は何を望むのか。それは、私とも違う物なのか?」
 空に問うても、答えるべき者はこの世界に無い。
 末法の地に光は未だ射していないのだから。


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 ぼたり、ぼたりとどす黒い血が口元に垂れる。空が背に乗るさとりが激しい咳をする。咳と共に排出される血は、その肺がすでにまともに機能していない事を示す。
 無理も無い。パルスィに破壊された体内の再生も追いつかない内に鬼の四天王と戦ったのだ。体に無理が出ない筈が無い。塞がりかけた血管は激しい運動により再び破れ体内に血液が広がる。限界に近い能力の行使に、胸の第三の眼へ繋がるパイプからは霊力が漏れだす。
 霊力プラントへ向かう中間地点。『闇火風処区』まではまだ少し掛かる。現在地は旧都郊外。この先には荒野が広がり暫し進むとまばらに木の生える丘に出る。そこが『闇火風処区』の入口である。
 「お空、ちょっと……、ごめ……」
 「さとり様?」
 ぎゅっと胸に回された手が強く体を抱きしめる。背中から感じる苦しげな呼吸。痛みに耐えているのだろう。やがて堪え切れなくなった様に溢れだす咳は、肺を傷つけ更なる咳を呼び込む。首元にどろりとした生温かい液体が降りかかる事を感じた。さとりの咳は激しくなるばかりで一向に収まる気配を見せない。風に乗って飛んでくる肺や埃が今のさとりには辛いのだろう。
 「さとり様……、降りましょう。無理しないでください……」
 「そうね……、そうしましょうか」
 追っ手は気になるが今の所気配は感じない。なるべく人目に付きにくい岩の影になるべく衝撃を与えぬよう細心の注意を払い空は着地した。降り立った空は背のさとりに腕を伸ばしそのまま抱きかかえる。所謂横抱きの形にさとりは最初こそ抗議したものの、体の不調からすぐにそれを受け入れた。
 「お燐とか昔はよくこうやって抱っこしていましたよね」
 「あの子は好奇心旺盛だから……、子供の頃は手を焼いたわね」
 不気味な程静かな荒野を二人はただ静かに歩く。遮蔽物の無い空間は本来戦場に置いて危険極まりない物であるが、幸いな事に周囲一キロ近くに渡って生命の気配は無い。狙撃ポイントもこれだけ離れればコリオリと風が天然の防壁となる。恐れる必要は無いだろう。
 それから何時間歩いただろうか。アマテラスが落ち昼夜の概念が再び消え去った地下空間を淡々と進む。時間の感覚も薄れ始めた頃、目の前に見えて来たのは記憶にも残るまばらに木の生えた丘だった。
 「さとり様……、すこし休みましょう。この近くには湧き水があるんですよ。昔はお燐とよく遊びに来ました」
 「懐かしい……、わね。たしかみとりの住居もこの近くに……」
 「えぇ、もう長らく訪れて無いですけども」
 空は記憶を頼りに枯れ木のまばらに生える丘を歩く。それは昔青葉が茂る若木だった。地面から湧きだした地下水により育つその木は地下には珍しく、空が生まれて初めて見にした緑色だった。しかし、緑を教えてくれたのは赤色の河童。この場所に案内してくれたのはみとりだった。それは地下に初めての雨が降り、光の灯った始まりの日。その翌日にみとりはこの場所に案内し燐と空は初めての河遊びを満喫したのだ。


 みとりは河童だけあって、河遊びを良く知っていた。水きりで遊んだ。平べったい石を探すのが上手いみとりに最初は勝てなかったが、燐は次第にコツを掴み偶に勝てる様になった。泳ぎを学んだ。燐も空も、水は恐く無かったがてんで泳げるようにはならなかった。水をかけ合って遊んだ。水鉄砲の打ち合いが最高に楽しかった。
 昼食はみとりの作った手製の団子だった。工房の中で栽培したと言う豆や、貴重な砂糖を使って作られた餡子餅はこれまでに無い味わいで二人は夢中になって頬張った。腹を満たした三人は、日の光と言う初めての熱源を丘の上から浴びてみる。これまでの超高温の世界に慣れた二人には随分と寒く感じたのか、すぐに飽きてしまったけど、上から注ぐ光と言うのは全くもって新鮮な眺めだった。そこで二人は初めての緑を見た。みとりが工房から持って来た若木の苗。なぜそんな物を持っていたのかは分からない。だが、みとりは燐と空と共にその若木を丘に植えた。
 そして、アマテラスが設定に従い地平の果てに沈むまで三人は遊んだ。くたくたの体を引っ張りみとりの工房で風呂に入る。水が貴重だった頃は埃を被っていたと言うそれはみとりの手により完璧に整備され、肌にも心地良い温水が確保されている。汚れてしまった髪を、翼を、尻尾を互いに洗いあい、そんな様子をみとりは湯船につかりながら微笑まし気に眺めていた。風呂から上がった三人は今で団欒する。何を話したのかは覚えていない。恐らくは楽しい思い出を語り合っていたと思う。
 そして、そろそろ帰ろうかと言う時間になった時。ふいにみとりは真剣な面持ちで二人に告げたのだ。『もう二度と来るな』と。


 空は記憶を頼りに思い出の沢を目指す。今でもはっきりと覚えている。地下水が湧き出ており、済んだ水が流れる岩の隙間を。少し経ってから訪れた時に育っていた若葉の青さを。達磨のような奇妙な形をした岩を超えた先。双子岩の合間を縫うようにその沢は流れているのだ。枯れてしまってはいるが、記憶と同じ木がその脇には生えている。この手に掛けた岩の先にその沢は有る筈だ。
 さとりを胸に抱え、その自慢の光景を見せようと身を乗り出した時。期待に胸を膨らませた空とさとりは眼にする。
 どす黒く変色し異臭を放つ水溜まり。タールの様な黒くべたつく何かが河の縁を覆い絶えず河の底から泡が噴き出る。見る影も無く汚れどんな生命も存在しない。地獄に相応しい泥の河がそこには存在していた。
 「……そんな」
 「……仕方ないわ。採掘の影響でしょう。少なからずこう言う場所は出来てしまう」
 「だって、この辺りに採掘場なんて!」
 「お空。少し休みましょうか。この岩場は身を隠すには丁度良い場所よ」
 「……でも。いえ……、そうしましょう」
 「……お空。少し手当てをお願いできるかしら」
 岩場に腰掛けるさとりは懐から取り出した携帯用のメディキットを広げて行く。消毒用のアルコール、ガーゼ、メス、カテーテル……、等。さとりは無言で服を捲りあげるとその白い胸を露出した。
 「ぅ……」
 眼の前に広がった主の裸体を前に空は思わず眼を背ける。二つの小さな膨らみの下。腋腹の近くに浮き上がった紫の塊はその小さな体とは不釣り合いな程に膨れ上がっていた。それだけではない。腹部、鳩尾、背部、体中のあちこちに深刻な内出血が見られる。この主はこれだけの傷を抱えながら眉の根一つ動かさず鬼と向かい合ったのだ。どれほどの痛みに耐えていたのかなど想像に難くない。分かっていてもその事実から眼を背けずには居られなかった。
 「お願いよ。お空。貴女にしか頼めない」
 主に見つめられお空は小さく頷く。ガーゼにアルコールを含ませる。手先に感じるひやりとした感覚とアルコールの臭いに若干の緊張感を覚えながら腋の瘤の周囲を軽く拭いた。メスを手に取った時、初めてその手が震えている事に気がつく。それはさとりに教えられた通りに大きく三度深呼吸をすると収まった。呼吸を整えわき腹の下にある紫の瘤に刃を入れる。主の顔が僅かに苦痛に歪む。空はその顔を必死で見ない様にした。きっと、見てしまったら手が止まる。主の為にも早く終わらせねばならない。更に刃を瘤の内部へ突き入れ、僅かに切開する。
 どぼどぼと、地面に広がる真っ黒い血液。ゼリー状のそれは、乾いた地面に張り付きじわじわと広がって行く。みるみる萎んで行く瘤を見届け空はメスを引き抜き、代わりにガーゼをその患部に当てた。テープで貼り付け塵の侵入を防ぐ。処置が終わった時に心からの安堵の表情を浮かべていたのは何故か空の方であった。
 「ありがとう。お空。貴女が居てくれなかったらこんな風に休む事も傷をいやす事も出来なかったわ」
 「そんな事無いです。さとり様は私なんかよりもずっと強くって、頼りがいがあって……。助けられたのだって……」
 「過小評価はいけないわ。貴女は私の一番のペット。私の自慢の太陽よ。――ねぇ。お話をしましょう。久しぶりに。聞かせてちょうだい。貴女が最近見た事、感じた事」
 「はい……」
 窪んだ岩場に二人で並び、肩を寄せ合って座る。十分もしない内にさとりは眠ってしまった。吹き込む風は僅かに冷たい。空は翼でさとりの体を包み込み体温の低下を防ぐ事にした。今日はこれ以上の行軍は不可能だろう。さとりを守ってもう何日も眠っていない。さとりに覆いかぶさるようにして空も間もなく眼を閉じた。


 まどろみの中に現れる、もはや見慣れた黒い影。また来たのか、その程度の気持ちで私はそれに相対した。
 「 ”お姉ちゃん” 、何時まで恐がっているの?」
 「だって、私は ”これ” が無くなった時にどうしたら良いか知らない。どうやってこれを恐がるなと言うの?」
 「そんなの、誰だってそうに決まってるじゃない。未来なんて何時だって分からないのが当たり前でしょうに」
 「分からない。私には分からない。何故そんな不透明で分かり辛い世界に生きられるのかが。分からない」
 「はぁ……、呆れた。本当に弱虫なのね。貴女は」
 何について話しているのか自分でも分からない。口がまるで別の生き物のように動いている。だが、どうやら、相手の影は酷く落胆しているように見える。全く状況が掴めない。
 「慎重になる事の何が悪いんですか、全てを ”見て” それから判断したって遅くは無いでしょう」
 「 ”見ない” からこそ見える物がある。 ”見る” からこそ見えなくなる物がある。お姉ちゃんって、本当――、 ”子供” だよね」
 全てが曖昧なまどろみの空間の中。その言葉だけが鋭い棘の様に胸を貫いた。


 朝の気配に瞼が開く。体が妙に重い。怪我の所為かと思ったがそうでない事には直ぐに気がついた。愛するペットが己の体を布団にするようにさとりに寄りかかっている。安らかな顔で眠る空を無理やりに起こすつもりにもなれずさとりはそのままで居る事にした。
 暫く経っても空が眼を覚ます様子は無い。少々手持無沙汰になったさとりは、何か暇を潰せる者が無いかとポケットを探る。かちり、と言う固い感覚。取り出したそれは木製の櫛だった。これ幸いとペットのグルーミングに取り掛かるとする。
 どう贔屓目に見ても空は美人の部類に入る。人型は本来の姿で無いとは言え、妖獣は基本的に一つの姿しか取れないし鴉の姿も十分過ぎるほどに雄大で優美だ。だが、鴉としての性分か、その髪の手入れや肌のケアはさぼりがちな嫌いがある。それは八咫烏が融合し精神が退行してから特に顕著となった。
 枝下の多い黒髪に櫛を通す。すぐに引っ掛かってしまうが、二度三度と櫛を通す内に驚くほど素直に櫛を受け入れる様になる。元が良いのだ。それは当然の事と言える。打てば響くその容貌にさとりは久々に楽しい気分になって来た。
 普段はあまり触らせたがらない翼に手を付ける。櫛でその羽の一本一本を梳り、酷い汚れは布で拭って行く。不器用なさとりもグルーミングだけは得意だった。十分な実力が無いと触らせて貰えないので必死で練習したからである。血の滲む努力の結果職人芸の域に達しつつあるその繕いに空の翼は瞬く間に輝く様な艶を取り戻した。
 そうこうしている内に空が蠢きだす。もぞもぞと動いたかと思うと大きく伸びをした空は眠い目をこすりながらさとりに朝の挨拶をした。それは随分と久々だった気がする。さとりはおはようと微笑むと寝ぼけ眼の頭を搔き混ぜてやった。
 「むぅー。なんだから落ち付かないです」
 「良いじゃないですか、随分綺麗になりましたよ。お空。貴女だって女の子なんですから。着飾ったりお肌を磨いたりして、偶には雄の鴉を引っ掛けたりもしないといけませんよ」
 これまでに無い程ぴかぴかと光る翼を気にするように何度も背中を見る空。不満げな声を漏らしながらもその表情は満更でも無い。
 「残念でした。私はもう八咫烏君のお嫁さんなんですよ。最もこの子が弱虫なんでまだ何も無いんですけどね」
 「あらそれは残念ね。地獄鴉に良い人は居なかったんですか? 整備班とか」
 「あれは、お父さんっぽいって言うか何て言うか」
 「まぁ、でも少し安心しましたね。神様が伴侶だなんてこの上なく心強いじゃないですか」
 「まっさか、全然ですよ。弱虫で私に手を出してこないくせに、妙にしんぱいしょうで、余計な時ばっかりでしゃばってきて、そのくせ自分の制御すらできなくて……」
 その空の満足そうな顔にさとりは少しむっとする。もしも自分に娘が居て嫁に貰われて行くとすればこんな気持ちなのだろうか。それは歓迎すべきで事であると分かっていても中々に複雑なのだなと。場違いにもさとりは納得してしまった。だからと言って、胸の蟠りが消える訳でも無い。小さな意地悪をしようとさとりは思い切り嫌味な笑顔を作って見せた。
 「あー、はいはい。惚気は良いですから。さて、と。では行きましょうか」
 「そうですね。あまり同じ所に居るのも――」
 頬に触れるぴりりとした気配。それは、もう少しだけ続くと思っていた奇妙な平穏の終わり。増幅する不穏な気配の接近。
 「あ――、さとり様。非常に申し訳ないんですが。お先に行って貰って良いですか?」
 「どうしました? お花摘みなら待ちますよ?」
 「やだなぁ。察して下さい。二人きりで初めての逢引きって奴ですよ、さとり様」
 加速度的に膨らむ気配。どちらだろうかと刹那考えたが、特に考える意味は無いと気がつき思考を止めた。どうせ同じである。どちらが来てもやる事は同じで、どちらが来たとしても自分がやらなけらばならない事は決まっている。ただその対象が背負う肩書が正義であるか悪であるかと言う属性が変化するに過ぎない。
 「……来ているのね」
 「行って下さい。さとり様。私ではさとり様を守りきれません。さとり様はまだ戦える状態ではありません」
 「だったら尚の事よ、二人なら退けられる」
 「その通りです。私たちなら退けられる。行って下さい。さとり様。大丈夫です。『お空ちゃん』は絶対に守ります」
 空の雰囲気が変わる。荒々しく幼稚な気配。だが膨大な使命感と途方も無い力の奔流を感じる。この男の言葉に嘘は無い。確固たる根拠と自信を持ってこの者は空を守ろうとしている。その事を差し引いてもさとりは空を止めたかった。だがしかしそれは出来ない。これ程に強い瞳を持ったペットをさとりはこれまで見た事が無い。
 「さとり様、行って下さい。私はもう守られる為だけの弱い鴉ではありません。私はあなたの太陽です」
 「……お空に何かあったら承知しませんよ。必ず戻ってきなさい」
 ぎりりと、唇を噛んでさとりはその場を後にする。残された空と八咫烏。迫る気配に躊躇い無く空は八咫烏の力を解放する。
 異形へと変化する腕、脚、胸。元の姿に未練は無い。この数日間主との最後の思い出は十分過ぎる程作る事が出来た。ただ主の為に二度と戻れぬ覚悟をするのには十分だ。


 岩間の影に消える主の背を見送り、鴉の夫婦は仁王立ちで怒れる気配に立ち向かう。牽制のつもりで熱線を放つ。射線場の巨岩を瞬く間に融解し単なるケイ素塊へと変える熱量の奔流。万物を焼き払うべく放たれたそれが雲散霧消したのは五百メートル程進んだ地点であった。豪炎とケイ素の霧が立ち昇る向こう側。鬼の追跡者は静かな殺意を持って空の前に現れた。
 「さとり妖怪は何処へ行った?」
 満身創痍、疲労困憊。身に纏うのはもはやぼろと成り果てた衣服。露わになった皮膚には傷が無い場所を探す方が難しい。その疲弊した様子とは対照的に眼だけは怖ろしい程に冷たく、そして怖ろしい程の威圧感を伴っていた。
 「さとり様は今大事な用事があってね、ちょっと貴女に会っている暇が無いんだ。帰って貰っても良いかな?」
 「奇遇だな。実は私もさとり妖怪に大事な用があるんだ。大事な大事な用でね。あまり待ってばかりも居られないんだよ。何時間はとらせない。ただお前は私の質問に答えてくれれば良い」
 流れる沈黙。互いにどんな言葉も発しない。感じるのは泥水の泡が弾ける深いな音と、マントルの対流する大蛇の這いずりにも似た振動。沈黙を破ったのは勇儀から。「場所を教えて貰えないか?」背筋の凍る様な低く威圧的な声が静寂を打ち破った。
 「その必要は無いよ。だって貴女は今ここで私に斃される。」
 「ならば押し通る」
 赤熱した刃が地表を突き破る。地脈を伝って流れる核熱は、岩盤の下に眠るマントルを地上へと激しく噴出させた。突如として出現する溶岩の壁。地下のテラフォーミングにより一度は眠り、久しく呼び起こされたマグマは安眠を邪魔された熊のように激しく怒り狂った。
 一辺が二十メートル、高さ五メートル。真っ赤に猛る摂氏千五百度の暴力的な熱は容赦なく勇儀を融解せんとその身を飲み込んだ。地獄で生まれた生命でもない限りそんな中で生存をするのは不可能。もしも平然と生きられるのならこの地は作り変えられる必要など無かったのだ。故にこの中から感じる気配は異常だ。微塵も怒りを衰えさせず、寧ろ膨れ上がり続ける圧倒的な暴力の気配は一体何だと言うのか。空はあり得る筈の無い暴力へ向けてその刃に新たな力を加え始めた。
 炸裂する溶岩塊。べたりと頬に張り付いた液化ケイ素が表皮を焦がし煙りを上げる。大した事は無い。もっと大きな脅威が目の前から迫っている。一瞬もそれから眼を離してはいけない。肉薄する死を回避する為に迫る気配を見据えた空はその刃を振り抜いた。
 「ははっ、良いぞ。霊烏路空。前に戦った時よりも随分マシになっている」
 「お褒めに預かり光栄。だけど私の力じゃない。私達の力。願いを叶えてくれた『神』と、受け入れてくれた『空』。そして、伴侶の愛する『主』の為に。私はお前を斃すぞ。星熊勇儀」
 「言葉で言うのは簡単だ、だから力で示してみろ。私も力で答えるからさっ!」
 制御棒内部に仕込まれたダイナモから発生する超高電圧と高熱。その刀身を素手で掴み勇儀は平然と此方へ殴りかかる。バイザーを容易く突き抜けた衝撃は空を大きく後方へと弾き飛ばした。
 翼を広げる事も叶わず地面へともんどり打って倒れる。岩にしこたま体を打ちつけ停まった空が体勢を立て直す暇も無く追撃を加えんと迫る気配。煙りを破った姿が見えると同時、空は無理やりに身を翻すと上空へ飛びあがり辛うじてその攻撃から逃れた。ざりざりと口の中に広がる気持ちの悪い砂の味。だがそんな事は気にしていられない。攻撃に映ろうと制御棒へ熱を籠め始めた時、地上の鬼が口角を大きく歪めた。
 「私が近接格闘だけの脳筋だと思うなよ?」
 鬼が拳を大地に放つ。それは、先ほど空が行った物を更に大規模にした悪夢の様な暴力。数百メートルに渡って割れた地面からは間欠泉のようにマグマが噴出した。
 「術は得意じゃないが、鬼火だけは辛うじて使う事ができた。ささやかな炎でも力と業と地を組み合わせれば大規模な術となり得る。――そう、鬼の友人から教えられた」
 「ぐっ……。不味いよ。八咫烏君、防御を――」
 異変はすぐに訪れる。空中を制圧するマグマの柱が俄かに形を取り始めた。台風の眼の様に渦巻き球体を形成するそれは互いに熱を吸収し合い莫大な火球の群れへと変貌を遂げた。渦巻く大気に翼が巻きとられる。熱の流れにバイザーが揺らぎ始める。そこは既に火球と言う名の台風の渦中。極限まで圧縮された熱の塊は、地獄の生命である空の肌すら焼き焦がし始めた。
 ――鬼火『超高密度燐禍術』
 バイザーの熱が周囲の火球に奪われる。それは核熱の力を取り込んだ豪炎の渦。闇の広がる地下世界の果てが紅蓮の炎で明るく照らされ、防護壁を失った空は自らの熱に撒かれ空中に縫い付けられた。
 「不味い……、このままでは『空』の体が持たない……!」
 「そう思うなら降参しろ。絶望し、地獄の縁で蹲っていろ。それなら私はそれ以上何もしない」
 「……なめるなよっ、鬼! そんな事ができるか! 熱の操作は私の本業だ。『空』、悪いけど我慢して!」
 「分かった」空の中で、空の意識が瞳を閉じ静かに頷く。空への多大な負担。それを覚悟した上で八咫烏は力を行使する。演算するのは周囲の熱、大気の流れ、そして重力。限定的な世界を空の意識領域を用いてシミュレート。導き出された答えに基づき現実世界へとオーバーライトする。
 それは理を捻じ曲げる訳では無い。ただ、都合の良い理への誘導を八咫烏は行った。
 突如逆回転を始める火炎の渦。時計回りに回転するのは八つの火球。空の周りを公転する天体へと姿を変えた紅蓮の台風はその熱を中央から外部への放出へと切り替え元の術者へと襲いかかった。
 「面白い事をするじゃないか。それもお前の能力か?」
 「何度も言わせるな私達の力だ。ここまで強引な力の使い方は私一人じゃ決してできない。――話は終わりだ。空が苦しがっている。早く決着を付けよう」
 大地を溶かし、木々を焼きながら落下する火球は次々に地面に落下し爆炎を上げる。燃える大地に再びマグマのドームそびえ立った。
 ――『ホットジュピター落下モデル』
 空は追撃の手を緩めない。鬼の姿が見えなくなっても尚、新たな火球を生みだし地面へと投下し続ける。二十四発目の火球が地面に降り立った時、八咫烏はその意識を空へと手渡した。
 揺れる大地。立ち昇る噴煙。広がるマグマの大海。それは、眠っていたマグマ層が大地に漏れ出たのか、それとも岩盤が融かされマグマに目覚めたのかは分からない。ただ一つ分かるのは、溶岩の海と化した中央にその人影は立っていたと言う事だ。
 「気は済んだか? 覚悟は終わったか?」
 「いいえ、まだよ。さとり様にはまだ着いている人が必要だ。私は約束したし必ずさとり様を送り届けると決めた。だから、まだ死ねないし、貴女を通す訳にもいかない。さとり様を救うのは私以外に居ない」
 「まるで子供の様だな……。自分のやっている事も理解せず、ただ現状に固執する」
 「何かを悟ったつもりになって、諦めて、ただ蹲っていた奴が何を言う。私は誰が何と言おうとさとり様を助ける。だったら、貴女は一体何を助けるって言うの?」
 蕩ける大地の中心で勇儀は悲しい眼を向ける。それは万人に灯りを与える為に己は孤独である事を強いられる憐れな太陽だ。同情は出来ない。どんな意志であれ、起こしてしまった結果の責任は誰かが追う事になるのだから。嘗て人間に裏切られ世界に失望した自分の瞳と目前の駄々っ子が妙に重なる。
 「受け入れる事にしたんだよ。私は。ただその変化をね」
 最初は諭すような穏やかな口調だった。それは腹の奥から湧きおこる同族嫌悪にも似た非常に苦手な感情。何かを押し殺すような口調はそれを抑える為なのだろう。
 「その為の犠牲を減らす。その為に私は全てを投げ打とう。……お前達はやっぱり駄々をこねる子供だよ。自分たちが悲劇のヒロインを気取って、全てを背負うだとか言う方便で全てを撒き込み戦火を拡大する。それをたちの悪い子供と言わず何と言えば良い。既にお前達の砂の城は崩れているんだよ。残念ながらね」
 激昂したのは空だった。勇儀の言葉はさとりの否定。空の行動、そして存在の否定。その怒りの矛先も見定めずに振るわれた一条の熱の柱は勇儀の居るマグマ溜まりを一刀両断した。
 「怒ると言う事は分かっているんだろう? 手遅れなんだよ。お前の主がやろうとしている事は相当な悪手だと言わざるを得ない」
 「違う、さとり様が霊力プラントに辿り着けば皆救われる。こんな馬鹿な戦争も終わる。誰も傷つかない!」
 「少なくともさとりにとっては違うな。あの女は地霊殿が救われれば他は壊滅しても構わないと考えている筈さ」
 「それでだって構わない! さとり様が救われるならそれで構わない!」
 何時の間にか空の背面に回り込んでいた勇儀と空が空中で切り結ぶ。空の赤熱した刃が勇儀の肩へ突き刺さる。強靭な筋肉で受け止められた穂先を掴み勇儀は空の鳩尾へと蹴足を正確に叩きこんだ。
 「だとしたら、滑稽だ。空、お前がやっているのは主の助けでは無い。主の死出の旅路の護衛に過ぎん」
 「……違う。私はさとり様の願いを叶える。それだけだ!」
 地平線の果てまで吹き飛ぶ空。空中で体勢を立て直した空は折れ曲がった刃を捨て、己の体そのものに熱を充填する。身が焦げる事を許容する。『危険域』摂氏九千度。レッドアラートが鳴り響く事も構わずに金色に輝いた空は猛然と勇儀へと突進した。
 「レミングと同じだ。主に思考を預け、己で考える事もせず、その背を押すお前は知らずに主を死へと駆り立てる。お前自身の善意が、お前の忠誠心が、お前の主を殺すのだ」
 空の瞼に走るばちばちとした青いチェレンコフ光が融合の脚の臨界を告げる。構う物か。主の敵を排除する。ただそれだけの為に空は更に加速する。更に熱を加える。炉の暴走への配慮等、最早頭の片隅にも無かった。
 「退け、空。お前ではさとりは救えない」
 「黙れ、勇儀。さとり様を救えるのは私だけだ」
 己の身を弾丸とする。熱を推進力に、推進力を破壊力に、余剰の熱も破壊力に。全ては迫る鬼を退ける為に。空は限界を超え音速の壁を突き破り熱風とソニックブームを伴って勇儀へと襲いかかる。その熱は既に体の末端部分を侵食し始めている。蕩けた制御棒の断片が脱落する音が後方に聞こえる。身を守るバイザーが自壊する音を聞く。だが空は過熱も加速も辞めようとしない。辞めるなどと言う選択肢は無い。
 「足り無い! 足り無い! 足り無い! 全然足り無いッ!」
 限界突破。摂氏一万二千度。警報機能も壊れ最早音はしない。後一歩、あと一息で鬼を打倒し得る力に達するだろう。だが空は同時に気がついていた。 ”限界はここ” であると。あまりの温度と速度に空の肉体が悲鳴を上げ始めている。加速に着いて行けぬ脳はブラックアウトを始めているし、焦げる手脚は既に機能を失っているだろう。このあまりに脆弱な体は、未だ余裕を残す炉の力を十分に発揮しきれない。
 「――貴女を超えるには、ぜんッぜんッ、たりないッッ!」


 潮時だった。


 空は胸の内の八咫烏に語りかける。それは精いっぱいの勇気を出した甘い声。八咫烏は声に答える。それは張り詰めた情けなくて弱々しい声。
 それまでに経験が無かった訳では無いが、少なくともさとりに飼われ始めてからは初の事。数百年前の記憶を呼び起こしぎこちなく八咫烏に接する空は酷く緊張していた。
 ついにその時が来たと言うのに、いざ面して見れば意外な程恐怖は無い。寧ろ羞恥の方が大きいだろう。
 だが、それも当然。肉体を介した性交など所詮は体液の交換に過ぎない。肉体の一部が物理的に交錯するに過ぎない深いスキンシップの一つだ。今から行うのはそれの更に何段階も上を行く行為。一方的に荒神が生贄を喰らうのとも訳が違う。間違い無く交合の最上位に位置するだろう。
 自らの全てを神に捧げる。これまでの記憶、感情、人格、肉体。その全てを神と言う己の伴侶に捧げる。当然空は消える。神を構成する要素として空は取り込まれる。打ち震え泣き崩れたっておかしくは無い。寧ろそう言う物だと蛙の様な神は言っていた。だと言うのに目の前の花嫁はあろう事か頬を赤らめ自らを受け入れようと懸命に努力している。そんな事実が八咫烏を酷く情けない気持ちにさせた。
 八咫烏の頬を空が優しく撫でる。勇気づける様にその耳元に睦言を囁く。その硝子玉の目玉から一筋の雫が流れ落ちる。自らの体の反応に驚きながらも八咫烏は空を搔き抱いた。その感触はさとりの物とは全く異なる。固くごつごつとした感触と突然の事に思わず強張る空の体。精いっぱいの愛情を籠めて優しく愛撫し、強張った筋肉を徐々に解す。ようやく空の体がほぐれた頃、その丸いびいだまの様な瞳が何かをせがむ様に八咫烏を見つめて来た。
 八咫烏は気がついている。だが、それをあえて口にする事は無い。ただ、空の求めに応じそっと空の頭に手を回した。近づくたびに空の瞳が大きく、はっきりと見える。その黒い虹彩が捉える、彼女の心が向く先に在る人物を映し出す。空の瞳の向こう映るのは、ただ愛しい主の姿。八咫烏では無い。そんな事実は最初から分かっている。だが、この瞬間だけは自分だけを見て欲しい。そんな願いが伝わったのか空はにこりと微笑むと小さく頷いて目を瞑った。
 五秒にも満たない時の中。二人は軽く触れ合う程のバードキスを交わした。無言で離れ、そして照れるように笑いあう。もうぎこちの無さは何処にも見られない。最後に問おうとした八咫烏の口を指で塞ぎ、空はただ笑顔で頷く。八咫烏は空を優しく押し倒した。
 涙ぐみながら八咫烏は花嫁の体に自らの物を差し込む。空の満面の笑みが少しだけ崩れ、小さな喘ぎが漏れる。八咫烏はそんな空を心配するように声を掛けるが空は笑顔で大丈夫だと告げるだけだった。これ以上の優しさはパートナーの苦痛を長引かせるだけだろう。八咫烏は空の顔を見るのを辞め、自らの残った物の挿入に集中する事にした。
 せめて痛みは一瞬に。固く目を閉じた八咫烏は一気に残りの全てを空の中に注ぎ込んだ。
 空の視界が白む。体の枠が曖昧になって行く。どこまでが自分で何処からが他人なのか。そんな当たり前の事すら今では分からない。「ありがとう」そう言って空は神と融け合い消えた。それは悲しい初夜だった。



 ――核熱『核反応制御不能ダイブ』


 白い光が世界を満たし、ぶれる羽が安定し始める。光の向こう側から現れたのは、最早空では無い。地獄鴉である筈が無い。肉体を持った生命が形を保って居られる筈の無い熱と速度の向こう側にそれは現れた。
 涼しげな白色の炎が地平を焦がしソニックブームが岩盤を抉る。あの閻魔にも匹敵する災害レベルの暴力だ。制御すら失い行き場を求める暴力の奔流だ。ただ鬼を打ち倒す為に全てを注ぎ込み作りだされた力は、回避するだけでも看過できぬ被害をもたらすだろう。
 「空、お前は馬鹿だよ。大馬鹿者だ。そんな概念と成り果てて、お前の力は一体誰が制御するんだ? 意志を持たない力は害悪に他ならない。……もう意識も無いだろうが、せめて主への忠誠心が残る内に安らかに眠れ」
 勇儀の握る拳はさとりを止める為に放とうとした鬼の秘術。それは決して勝負で使う事は無い。必ず殺すこの業は鬼の勝負とは本来相容れない。真の強者にのみ放つ必殺の一撃。己の矜持を握り潰してでも止めねばならぬ障壁を打ち砕く為。勇儀は必殺の三歩を歩く。
 それは三歩で世界を壊す。一歩目は地に足を付け、壊すべき世界を見定める為。二歩目は空間を消し飛ばし、壊すべき世界を駆け抜ける為。三歩目はただ世界を灰燼へと帰する為に。
 ――四天王奥義『三歩必殺』
 静寂の満ちる世界。勇儀は固く握り込んだ拳を解くと静かにその場を去った。スペルカード等と言う遊びとは根本的に異なる遊びでは無い戦いに美しき所など何一つ無い。高揚感は無い。ただ虚しさと使命感だけを胸に抱え勇儀は歩く。
 「さようなら霊烏路空。お前はこの地獄を生きるには少し……、愚直過ぎた」
 生命の気配の無い荒れ果てた大地。マグマの海に鴉のなれの果てがゆっくりと沈んで行った。


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 暗い天井を眺め刻まれた染みと埃を唯漫然と眺める。ベッドに寝転び、じつとそれを眺めていると、不思議と体が浮遊した感覚に襲われる。熱が頭に回っているのかもしれない。傷は回復に向かっているものの、大きな傷跡は未だ塞がり切っていない。動き回る事は出来ないが、かと言って寝たきりでいなければならない程辛い訳ではない。持て余した時間の使い道は思考以外に無い。だがその内容が手の掛かる馬鹿者への憂慮しか無いと言う事実が、彼女を更に憂鬱な気持ちにさせた。
 「おはようパルスィ」
 「おはよう。勇儀」
 据え付けられたガス灯が淡い橙の光を放つ。天井には見慣れた一角と、揺らめく人影が映し出された。パルスィが眠るのは旧都の本陣に作られた勇儀の私室兼救護所。ワンルームのこじんまりとした部屋の入口に勇儀は立っていた。
 「さとりはどうだった?」
 「すまない。とり逃したよ。少し準備が不足していた様だ。少し支度をしたらまた直ぐに出る」
 足早に部屋の奥に入って行く気配。その方向には勇儀の私物が入ったロッカーが置かれている。中に何が入れられているのかパルスィは知らない。その身に纏える物以外を殆ど持ち歩かない勇儀の私物とは何か。気にはなる所だが流石に勝手に中を覗くほど無神経にはなれない。ぼやりと浮かぶのは、勇儀が無事に帰宅した事の安堵感。そして、そんな私物に関する疑問点。取り留めも無い事を考えながら、ロッカーを漁る音を子守唄に天井を眺めているパルスィに勇儀からふいに声を掛けた。
 「そうだ、パルスィ。一つ頼まれてくれないか?」
 「なぁに。面倒事で無ければ良いわよ」
 「全面攻撃を仕掛ける。旧都に本隊を回してくれ。そして、『闇火焼処区』に僅かで良い部隊を。さとりを足止めせねばならん」
 「……軽く言ってくれるわね。急進派の残りはどうするの? 急進派から殆ど寝返ってくれたとは言え、未だ各地に孤立した残党が散らばっているのよ」
 「見捨てる。合流できればよし、さもなくば捨て置け。彼岸は本陣を捨てた。地霊殿でさとりのペット達が蜂起したからだ。今の奴らは孤立状態も同然だ。今攻撃を仕掛けなくて何時仕掛ける」
 「指揮は誰が執るの?」
 「総指揮は私が執る……。と言いたいが、私は恐らく再び ”出ねばならない” だろう。だから、」
 「私に総指揮をやれって? ……それが、久々に会ったけが人に言う台詞かしら。まったく、鬼と一緒にしないで欲しいわね」
 「済まないな……。だが、私は自分を何でもできる超人だとは思っていない。助けて貰わねば、都の代表にもなれないし、軍の指揮も取れない。犠牲の無い作戦を考える事も出来ないし、戦闘は……、まぁ、一人前に以上にできるかもしれないがそれだけだ」
 「……貴女でやっと一人前だと言うなら、他は一体どうなのかしらね。分かったわよ。着いて行ってあげる。だから、そんな殊勝な顔をするのを辞め――」
 ようやくベッドから起き上がり、初めて勇儀を見たパルスィはそのまま静止する。瞳に映るのは彼女の予想を超える光景。映ると言うのは正しくないかもしれない。映らなかったからこそ、それは彼女の予想を超えていたのだ。
 「勇儀。貴女一体……、その腕……、はっ!」
 「かすり傷だよ。予想よりも少し相手が強かった。ただそれだけだよ」
 「何がかすり傷よ。無いじゃない。――腕がっ!」
 その勇儀の右半身には着いているべき右腕が根元から欠損していた。良く見ればそれ以外も酷いあり様だ。肩口に掛けて広がる傷口は何によって害されたのかもわからぬ程炭化が進み、右目の周囲の皮膚は熱に犯されほぼ消失。それ程の重傷にも関わらずこの鬼は、何時もと何一つ変わらない自身に溢れた顔をして馬鹿みたいな笑みを浮かべている。
 「かすり傷だよ。鬼にとっては。何せ、まだ動けるし戦えるんだから」
 「まだ……、って。貴女死ぬ気なの?」
 「そのつもりは無いが、まぁ。もし死ぬ事になったら、……まぁそう言う事になるのかもしれんな」
 「立ち直ったかと思ったら今度は戦闘狂の真似事だなんて、……何処まで馬鹿なのよ。本当に」
 「責任を持って戦い抜く。それが私の罪を灌ぐ唯一の方法だ。故に私は戦闘を続行する。その為の方法を考える。それだけだよ、パルスィ」
 勇儀は “それ” をロッカーの中から取り出すと、灯りに掲げる様にして見定めた。迷い無く真っ直ぐに目的だけを見据えるその姿はどうしようもなく愚かで。同時に美しく感じてしまう。だから此方を振り返ってにこりと笑うその顔を殴ってやりたくなる衝動は自然な物だ。
 「私を死なせたくないなら、パルスィ。君が頑張るしかない。こればっかりは、ね。済まない」
 「言われるまでも無く分かってるわよ。この、大馬鹿っ……!」
 握り込んだ拳を抑えるのには随分と苦労したが結局それは徒労に終わる。殴りかかる前に勇儀の大きな掌が頭を包み込んでいた。その大きさとごつごつとした感触とは不釣り合いな程繊細な手つきでパルスィの金糸の如き髪の毛を櫛削る。包み込まれる感覚に消えてしまった苛立ちが妙に悔しい。パルスィはせめてもの抵抗に軽く胸を小突いてやり、後は勇儀の為すに任せた。
 「とは言え、さとり妖怪と閻魔相手に十全とは行かないのも事実。もう主義主張は良い。さとりを止められればそれで十分だ。……何年振りだろうな。これを使うのは」
 パルスィを胸に抱いたまま勇儀は妖しく光る刀身を見つめる。隻腕の鬼は腰に鞘を結わえつけると、その巨大な野太刀を挿し入れた。鍔鳴りと共に収められる刀身。隻腕を補うべく武器を手にした鬼は、真剣な瞳で己が右腕に相応しき得物を見定めていた。


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 その姿は燐の記憶に有った物と大きく異なる。間違い無く彼女は黒谷ヤマメだ。旧都のお昼の顔であり、ラジオ局員の女性である。美しい姿と洗練された振る舞いから、男女問わず羨望の眼差しを受ける、旧都でも珍しい人物。
 だと言うのに、今の彼女は全くもって異形だった。上半身は何時もと変わらない。馬鹿にした様なシニカルな笑みは何時も通りだし燐を抱く胸は腹が立つほどに豊満だ。違っていたのは下半身。腰から伸びる六本の黒く節くれだった脚からは剛毛が生え、統制を持って動く姿は不気味ですらある。その中心に在るのは、以前の彼女にも付いていた白い脚。完全に機能を失った片足と、腿が食いちぎられた痛々しい脚がそこには確かに着いていた
 「……行った?」
 「はい。外に気配は有りません。周りにも誰も居ない様です」
 「ふぅ、この所やけに彼岸の奴らが多いねぇ。このアジトもそろそろオサラバかねぇ」
 廃屋の窓から眼を離したヤマメは、何時も通り笑ってそう言う。ニヤケ面は変わらないが、その内に籠もる物はいつもよりも決定的に深刻であった。間一髪瓦礫の山から生還したのが昨日の事。そこから、ヤマメの潜伏拠点に連れて来られるまで彼女は言葉らしい言葉を紡ぐ事は無かった。
 その何か言いたげだが期を伺っている様な横顔に、燐はたまらず口を開いた。
 「あの……、ヤマメさん。一体今まで何処に行っていたんですか? あの時ラジオ塔で何が有ったんですか?」
 彼女は懐から煙管を取り出し火を付ける。妙に様になったその優雅な動作は紛う事無き、燐の憧れたヤマメの姿だった。どれだけ視線を叩きつけてもヤマメは語らない。ヤマメは無言で煙管を燐へ差し出した。
 「いいえ。私、煙草は……」
 「そうかい。残念だねぇ。考え事をするのには丁度良いんだが……」
 口に含んだ煙を静かに吐き出す。薄暗いへに薫る紫煙は不思議と不快では無い。仄かに薔薇のフレーバーが付けられた上品な香りは香にも似る。燐は心落ち着くその香りに一瞬誤魔化されそうになるが、即座に気を持ち直しヤマメを睨む。もう何度もこうやってはぐらかされて来た。何を迷っているのかは分からない。話してくれるまで待とうとも思っていたがもう燐は限界だった。
 「ヤマメさん。答えて下さい。貴女は一体今まで何処に居たんですか? どうして、出てきてくれなかったんですか?」
 「探しものさ……。大事な、大事なね。こんな時でも無い限り、まずは見つけられない探し物があったのさ」
 思わず詰め寄った燐に、ヤマメはぼそりと呟くようにしてようやく答える。ふぅと深呼吸をしたヤマメは何かを決心したように椅子に腰かけると、燐を正面の椅子に座る様に誘導した。
 「お燐。お前が取れる選択肢は二つだ。今すぐ此処を出てさとりを助けに行くか。再び全てを敵に回して私と共に逃げ回るか。お前はどちらを望む?」
 それは、先程とは全く異なるはっきりとした声。ニヤケ面は消えている。あるのはただ、薄いアンバーの瞳だけ。鋭い視線が真正面から燐を捕えた。
 「ヤマメさん。それだけじゃ判断できません。それを選んだ先に在る者はそれぞれ何ですか? 私は何が得られるんですか?」
 「 ”さとり” を助けるか。 ”全て” を救うか二つに一つ。前者を選べばこれまで通り。プラントに向かうさとりに追いすがり、止めるか手伝うかはお前次第だ。その結果、さとりがどうなるかは保証しない。後者は単純明快。上手くいけば全てが丸く収まる」
 「それは……。気持ちが悪い位都合が良いですね。で、その後者を選ぶと、一体あたいはどうなるんですか? 何をさせられるんですか?」
 「高い確率でお前は死ぬ。おそらくついでに私もな。分かりやすくて良いだろう?」
 「――っ! 本当、嫌になる位明快ですね、全く。でも、答える前に教えて貰っても良いですか? あの時、ヤマメさんの消えたあの日。旧都では何が有ったんですか?」
 黄色い瞳は一度だけ伏せられ、また直ぐに燐の視線へと戻るかと思うと斜め上に向かう。迷っているとも違う。何から話すべきか整理をしている様に天井を見るヤマメは間もなく燐へと向き直った。
 「……最終仕上げだよ。奴らによる洗脳操作のね」
 『サブリミナルコード』続いて発せられた言葉は燐にとっては、聞き覚えのある単語だった。遠い昔の記憶。彼岸の地で小町に教えを乞うた時に渡された資料。和綴じの古ぼけたテキストの一説にそれは確かに記されていた。
 「無意識化への、条件付け行動の書き込み……、ですか」
 「正解。意外だよ、まさかお燐ちゃんが知っているとは思わなかった」
 「妹様はその方面の専門家ですし、心理学は私の本職みたいな物でもあります」
 「そうかそうか。それなら話が早くて助かるよ。つまりはそう言う事だよ」
 「いや、分かんないですって。それと、ラジオ塔の事故は何の関係があるんですか?」
 「うーんとね、まずは条件づけには何が必要か思い出してみようか」
 それはまるでディスクジョッキーの如き軽妙な口ぶりと、愛らしい動作。嘗て旧都の顔は伊達では無く、その美貌が今はどうしようもなく腹立たしい。何時の間にやら戻っていたニヤケ顔を見るに、狙ってやっているのだろう。極力意識をしない様にして燐は錆ついた記憶をひっくり返していた。
 「うーん……、『信号』、『期間』、『号令』でしたっけ?」
 「大正解。賢いね。お燐ちゃん。撫で撫でして欲しい? ……いや、寧ろさせろ。猫に戻って、今すぐに」
 「嫌です。ほら、正解したんだから教えて下さいよ」
 「連れないなぁ。ほら、順番に考えよう。まず『信号』、良く使われるのはホワイトノイズに混じらせる手法だけど、そんなの町中に行き渡らせるのにどうすれば良いと思う?」
 心底がっかりとした様子で、溜め息を吐きながらヤマメはそう言う。何処までが本気か分からない。だが、恐らくはその態度は燐の不安を少しでも和らげようとしての事だろう。頭の中で意図して考えない様にしていた最悪の現実の一端が、嘔吐感を伴って緩やかに姿を現そうとしていた。
 「さぁ……、ラジオ塔ですか? 旧都全域をカバーするとなるとそれ位しか」
 「そうだね。私がラジオ塔職員として潜入した切っ掛けはそうだった。実際、今回の『号令』、つまりトリガーを引いたのはラジオ塔の電波だったよ。それは間違いない」
 「『トリガー』、つまり、主だった原因は別にあると」
 「その通りだ。そもこの話は、何時からこの作戦が実行に移されていたかと言う疑問に辿りつくんだよ」
 「つまり、旧都との戦争を望んだのが誰で、何時からその作戦を実行していたのか。と言う事ですか?」
 「うんにゃ。もっと前だ。何故に、この旧都は発展したのか。そしてその切っ掛けとはなんだったのか?」
 「……待って下さい。言いたい事が分かりません」
 からからとヤマメは笑う。空々と空虚な笑いをヤマメは実行する。そうとでもしないと話していられないからだ。己の全てを否定するかのような現実と向き合うだけの心を保っていられないからだ。軽妙な彼女の口調が、今の燐には酷く怖ろしい物にしか感じる事は出来なかった。
 「そうそう、一つ言い忘れていたね。『サブリミナルコード』は相手にそれと気付かれず仕込むのには非常に適する手法なんだが、一つ問題が有ったんだよ。刷り込みに非常に長い『期間』がいる事さ。それこそ数百年と言うね」
 「そうだとしたらますます理解できません、だって、あのラジオ塔ができてからまだ二十年も……!? え、嘘だ……、そんな……」
 「いいや。そう言う事だよ。とどのつまりはそう言う事さ。 “逆” なんだよ。全部ね。簡単な事さ。とどのつまりはこの旧都は――、奪い取られる為に作られたって事さ」
 声を出す事も出来ず固まる燐が我に代える間も与えずヤマメは更なる事実を告げる。
 そうだ、それは燐も可能性の一つとして考えていた事だ。あまりにも都合が良いと思っていた。何故あの時、あの人物は都合よくこの地下に居たのだ。どうして “あれ” は度重なる改修にも関わらずあんなにも異音を上げていたのだ。だが燐はあえてその可能性を頭から否定していた。そうで無ければ良いと、期待的な観測を抱いていた。それは少なくとも燐にとって当然の事。何故ならば『彼女』は――。
 「その為の仕掛けは当然、 ”最初” から施されていた。地下の人工太陽、『アマテラス』にな」
 『友達』だったから。


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 「これが過ぎたる力を持った獣の末路か……。これだから、馬鹿は嫌いなんだ……」
 マグマの海の縁。赤い少女は浮かぶ異形の物体を無感情な瞳で見つめている。滞留するマントルに流され、液面を漂う異形は再び地核へと向け下降を始める。赤い少女にとって、それは大した意味を持つ事ではない筈だった。自分にそれを助ける資格等何処にも有りはしない筈だった。踵を返し去ろうとする少女。だが、その背後で一際大きな水音が聞こえた。
 思わず振り向く赤い少女。そこにあったのは、最早顔だけになりながらも必死にマグマから逃れようともがく異形の姿があった。その眼に光は無い。意識等遠の昔に無くなっているのだろう。そうでなければこんな苦痛には耐えられる筈が無い。皮肉にも意識が無い事がその異形の少女の命を繋ぎ止めているのだ。それはつまりこの異形の少女は意識を無くしても尚苦しみを負い続ける事を意味する。それはじわりじわりと甚振られながら死んで行く事に他ならない。
 憐れだ。そう思いはしたが助ける事は出来ない。彼女を助ける資格はその赤い少女には無い。赤い筋が流れるまで唇を噛み締めた少女は思いを断ち切る様に駆け出し、その場を去ろうとする。
 『裏切り者の自分に彼女を助ける資格なんて有る筈が無い』『そんな物は偽善に過ぎない』『助けてはいけない』『助けたくない』頭の中に浮かんでは消える。余計な思考を塗りつぶす為に。脆弱な自分の心を覆い隠す為に必死で自己暗示を掛ける。耳を塞ぎ、思考を閉ざし、心を閉ざし、しかしその声ははっきりと、聞こえた。
 『ミ……、ト……。リ』
 はっきりと、そうみとりの耳には届いた。その後の事は覚えていない。気がつけばみとりの胸の中には異形と成り果てた嘗ての友の姿があった。


 ごうんごうんとと鳴り響く蒸気機関のトルク音。妙に安心する腹に響く低音を確かに覚えている。瞼を透過する柔らかな炎。熱く、頼り無いその炎は未だに網膜に焼き付いている。鉄と油の臭いの充満する部屋。だけど、最低限の手入れはされていて決して不快なレベルでは無いその香りを懐かしいと感じる。眩しさに耐えられず目を開いた。視界に入る古ぼけたスターリング式エンジンの模型。女っ毛の無いこの部屋は確かに記憶の中に強く残っている。遠い昔の記憶に残っている。
 「気が着いたか。馬鹿鴉」
 「……ここは?」
 「私の工房だよ。お前が占領しているのは私のベッドだ」
 桶に水を入れた赤い少女が、手拭を額に当てて来る。一体どんな意味があるのかは分からない。『熱を覚ます行為』『風邪等で体が熱を持った時に行う行為』。思考に混じるのは脳の奥から湧きあがる『彼女』の記憶の断片。何はともあれ『彼』はその行為を理解した。
 「お空……、で良いのかな?」
 彼は無言で首を振る。現在の状況も。記憶も不明瞭なまま。一つだけ分かるのは自分の身に起こった事だけ。
 「そうか。お前はもう鴉を辞めてしまったんだな」
 「そうだとも言えるし、そうでないとも言える。今の私は『彼女』の皮を着た八咫烏。『彼女』は僕と完全に交じり合ってしまった」
 「お空と呼べばよいのかな? それとも別の名が良い?」
 「いや、お空で良いよ。『私』の記憶を今拾い上げている所だから」
 空の脳内では、猛烈な速度で記憶のサルベージが行われる。早回しの様に流れる風景は、これまで空と共に見て来た物。同じ体の中にありながらも、驚くほど印象の異なるそれらに大きな驚きを感じていた。
 「……私の名前は分かるか?」
 「河城……、みとり。だね」
 「そうだよ、私は河城みとりだ。嘗てお前の友 “だった” 、忌み嫌われる赤河童だ」
 『河城みとり』浮かびあがった単語に関連する記憶をピックアップ。学術書を開き二人で顔を寄せ合っている。地獄の上空から廃墟の灯りを眺めている。とんちんかんな質問にみとりが呆れ顔を浮かべながら嬉しそうに解説している。何かを受け取り困ったような顔をしたみとりが頬を赤く染めている。場面は浮かぶ。時系列も把握できる。自分がその時何をしていたのかも分かる。明晰に思い出せる記憶とは対照的に、それだけは酷く曖昧でどれだけ頭を捻ろうと思い出す事は叶わなかった。
 「友……、達?」
 「……本当にお空は、全て忘れてしまったんだね」
 「ううん。違う。覚えている。全て覚えているんだ……、だけど、その時に感じていた感情が。 “心の感触” が思い出せないんだよ」
 「少なくとも私への感情は忘れてしまったも問題ないさ。……全ては過去の事さ」
 「寂しい事を言わないで。私の中の『私』はみとりの事を大切な友達だって言っているよ。私の中の『貴女』は、皮肉屋で、捻くれ者で、自分勝手だけど、優しくて思いやりのある人だったじゃない」
 「思い出したばかりの半ば他人の記憶でよくぞそこまで言えた物だ。……人を素直に信じ過ぎだったんだよ。昔のあんたは。今も変わらないかもしれないけどね」
 自嘲気味に笑ったみとりが額の上の布を取り換える。ひやりとした感触に心地良さを覚える。頭の熱がまた少し下がり体が楽になるが相変わらず頭は霞が掛かった様に働かない。何かを忘れている気がする。こんな所で寝ている訳には行かない重要な使命が自分にはあった気がする。幾ら思い出そうとしても、次々と湧きおこってくる記憶の泉が正常な思考を妨げる。恐らくこれは、記憶の整理が着くまで暫く続くだろう。
 「何にせよ、まだ暫くは眠って行くが良い。見た所まだお前には休息が必要だ。その位の間はベッドを貸してやろう」
 『睡眠』脳を休め記憶を整理する行為。今の自分には最も必要な行為だ。体は傷だらけだし、記憶はぐちゃぐちゃだ。恐らくこの体が発しているのは睡眠への欲求と言う物なのだろう。
 「そうだね。なんか凄く疲れているし、お言葉に甘えて――」
 「どうした、お空?」
 「待って。私は何で傷だらけなの? どうして私はこんな事になっているの? どうして私は、 ”さとり様の元” じゃなくって、こんな所で ”呑気に眠っている”の?!」
 「おい、待て。まだ起きるんじゃない!」
 完全に思い出した。何故自分はこんなにも疲労し。そして、 ”愛すべき彼女を取り込まねばならなかった” のか。布団を跳ねのける様にしてベッドから立ち上がる空。空を舞う白いシーツ。玄関へ向けて駆け出そうとした空は、その一歩目すら踏み出す事が出来ずに足をもつれさせた。為すすべも無く床に倒れそうになる空。だがその情けない顔が地面に打ち付けられる前にその体はみとりによって抱きとめられた。
 「馬鹿かお前は? 無理をしちゃいけない。お前は死に掛けていたんだから」
 「……御免。ありがとう」
 「そう思うなら少なくとも今日一日はそこでゆっくり眠るんだ。その後は好きにしろ」
 「ううん。そのお願いは聞けない。後少しだけ休んだら出掛けさせて。これは一刻を争う事。私はさとり様の元に行かないといけない。約束したから」
 「……全く。神に成り果てても心の中はさとりで一杯か。呆れた奴だ。そうだね、確かに前のお前もそう言う奴だったよ。だけどな、こればっかりは譲れない。見送って直ぐに倒れられたりしたら私の寝覚めが悪いだろう? それに、そんな体でさとりの元に居た所で何が出来る? 足手まといになるのが関の山じゃなのか?」
 「確かに……、そうかもしれないけど……」
 ベッドの中で唇を噛む空の姿はとてもさとりに対する感情を忘れているとは思えない。眼元に涙を浮かべながら、うわ言の様に何事かを呟きつつ必死に何かを耐えている。その姿はどうしようもなく空だった。その姿は変わり果ててしまっていても本質は何一つ変わらない。真っ直ぐで馬鹿正直な、あの地獄鴉だった。
 「……分かったよ。看病しててやるよ。でも、半日は安静だからな。絶対だからな」
 「――っ! ありがとうっ! みとり」
 みとりはその笑顔にくすぐったさを感じつつ、ベッドの脇に腰掛けて掌に妖力を集める。神と成り果てた身なら妖獣よりも効果的に肉体を回復させられるだろう。まずは損傷の酷い部分。歯車の露出した脇腹に手を当て、優しく撫で摩ってやった。
 「……優しいね。みとりは」
 「あんたが馬鹿すぎるから、放っておけなかったんだよ。本当は助けるつもりも無かったさ」
 「でもみとりは助けてくれた。私からは貴女に何もあげられないのに。こうやって私の体を気遣ってくれる。……なんだか胸があったかいな。これが『友達』と居る時の感触なの?」
 「……」
 みとりの顔が俄かに曇る。空の硝子玉の瞳はそれを不思議に感じた。目の前の河童の表情そして言動。未だ整理が終わらぬ頭では確信は持てないが、それらがあまりにもちぐはぐに見えて仕方が無かったのだ。
 「いいや。違うよ。確かにその感情は正しい。君は私に親しみを抱いているのかもしれないけど、私はもう『友達』じゃない。私には……、君の友達である資格うなんて……、無い……」
 「みとり……。ねぇ、良かったら聞かせてくれないかな。まだ、良く思い出せないのだけど。私の中の貴女は紛れも無く親友だった。私の中の空は貴女の事が大好きだと言っている。ねぇ、なのにどうして貴女はそんなに『悲しそう』なの? どうして貴女はあの時、私達を拒絶したの?」
 「言った所で意味のある話じゃない。私とお前はもうこの後会う事は無いんだ。言う必要も、聞く必要も無いだろう」
 何かを押し殺すようにみとりは告げる。みとりはその瞳をとても見続けては居られなかった。硝子玉の瞳は正確に己の姿を映し出す。記憶の混濁により、皮肉にもどんな縛りも無く率直な言葉をぶつける空が今のみとりには酷く怖ろしかったのだ。
 「ううん。私はもっといろんな感情を知らないといけない。私の友達だった人の事をもっと良く知らないといけない。そうでないと、私のこのさとり様に対する気持ちの正体も分からない」
 「それはお前の理論だ。私には関係が無い」
 「その通り……、だけど。どんな気の迷いでも、偶然でも、みとりが私を助けてくれたのは真実。だから、私からも何かをしてあげたい。何かをしてあげられる保証は無いけど、少なくとも今の貴女は私から見てさえ酷く歪に見える。……放っておけないよ」
 「そんな姿になってまで他人の心配か? だからお前は馬鹿だと言われるんだよ」
 「馬鹿で構わない。友達や愛する人を切り捨てるのが賢くなる事なら私は馬鹿で良い。少なくとも『空』はそう思っていたよ」
 「私が真実を話した時はもう、私とお前は友人では無くなるさ……。いや、嫌われるも何も今の君にとって私は会ったばかりの他人だったか。……うん。一人もそろそろ飽きてきたし。少し昔話に付き合って貰って良いかな?」
 「みとり……。いいえ。私は全てを受け止めるよ。だって『彼女』は自分の大好きな物を失わない為にこの姿を受け入れたんだもの」
 「まぁ、期待はしないよ」シニカルな笑みを浮かべたみとりはふぅと溜め息を吐きもういちどベッドに腰掛け直した。みとりの瞳が濁った水晶体が空を見つめる。覆い隠した蓋を取り払いみとりは泥の様な感情の沼への入り口を開く。薄汚くエゴに塗れた脆弱な意志を初めて空に明かす。
 「何処から話したら良いだろう。まずは、この地に私が来た理由の話をしようか……」
 みとりが語るのはそれまで誰にも明かした事が無い己の過去。清涼な川に住む河童が埃と熱と死ばかりが支配する溶岩の川に流れ着くまでの物語。
 「私の記憶は暗く冷たい地下の牢獄から始まっている。周りには度重なる暴力に衰弱し、考える事を辞めた河童が山ほど居たよ。私の母はきっとその内のどれかだったんだろうけど、結局分からなかったね。その前に処分されてしまったから」
 一つみとりが言葉を紡ぐ度、一つ部屋の温度が下がる。一つみとりが呼吸をする度、大気の粘度が上がる。そんな感覚に空は囚われていた。
 「私は嘗て人間に鹵獲され技術を盗まれ犯された末に生まれた河童だった。妖怪に生まれながら妖怪にあらず。人と暮らし技術を搾取する為だけに行かされた家畜だった。来る日も来る日も、城の地下で技術の開発に追われる日々。研究させられるのは工学に限らない。医療も、薬学も、農学も。人間達に必要とされる物は何だって研究させられた。自由なんて一切無い生活だったし、逃げ出そうとして殺された仲間を何人も見て来た。でもね、当時の私は実の所そんなに不満は抱えて居なかったんだ。河童だから研究は好きだったし、命令に従えば食事も休息もちゃんと貰えた。……まぁ、好き物のお偉いさんの夜伽に駆り出されるのには閉口したけど」
 「夜伽って……。酷い話だね。それじゃ物だよ……」
 「回教世界じゃ女性は物扱いだし、当時のお国柄も考えるとかなり有情な方さ。ともかく、低空飛行でも私にとっては平和な日々だった。でもそんな日常も何れ終わる。私にとってのそれは割と唐突だった。昼間にね、何時も通り実験用作物に水をやってたらお偉いさんが来て言ったのさ。『武器を作れ』って」
 『武器』殺傷、損傷、捕縛、破壊、無力化を元来の目的とした攻撃能力を有する道具。主な用途は戦闘と狩猟。広義では、戦争や軍隊で用いる兵器や武装、さらには人員・物資までも含める。赤黒い瞳から灯りが消える。何の感情も籠もらない平坦な声でみとりは淡々と事実を告げる。
 「そこからは酷いもんさ。日に日にノルマはきつくなるし、食事も粗末になる。外にも出して貰えなかったから、事態を把握したのは最期の瞬間だったね。何はともあれ私は兵器開発を進める以外に生きる道は無かった。割と仲の良かった私の世話役ですら血走った眼を向けて来たからね。今から思えば非常に妙な研究だった。変に細切れに実験指示が飛んできて全く何を研究させられていたのか実態が掴めない。分かったのは外に出た時さ。栄養と睡眠不足で朦朧とした頭でフラスコを振っていた私の元に見慣れない洋服を来た兵が掛け込んで来たのさ。訳も分からず外に連れ出された私が目にしたのは一面の荒野だった。木は死に絶え、土壌は流出し、大気は汚染され、水は腐っている。私は悟ったよ。『毒ガス』だったって。散布した区域を何者も住めない土地に変える兵器を私は作っていたんだ」
 『河童』清涼な川に住まい、水を操る事で人を驚かし糧とする種族。手先の器用さから技術を学ぶ物が多い。己のレーゾンデートルを根底から覆された妖怪がどうなるか等考えるまでも無い。それを己に当てはめる事すら空の脳は拒否している。
 「死体ばかりが転がる荒野を私は連行された。何処に連れて行くつもりだったのかは知らないし興味も無かったね。正直どうにでもなれって思ってた。でも、そんな私を救ったのは皮肉過ぎる事に死神だったんだ。名前も聞かなかったけど、どうにも不真面目な死神でね。仕事をサボって此岸を散歩していたって言うじゃないか。とにかく私は訳も分からない内に連れ去られて井戸に放り込まれた。今から思えばそれは異界の門だったんだろう。太古の昔に作られ忘れられた異界の門さ。そうして気がつけば私は――、再び荒野の中心に居た」
 「そこが、地下世界。打ち捨てられた旧い地獄。私の……、故郷」
 「その通りだ。廃墟と高温高圧の世界に途方に暮れた私に義理を感じたのか食事はその死神が持ってきてくれた。住居として穴倉も提供してくれた。だと言うのに……。なぁ、お空。お前の好物は何だ?」
 「突然だね。好きな物か……、さとり様かな?」
 「じゃぁ、そのさとりの事を思い出す度に ”吐く” としたらどうする? 最も愛する者と、最も嫌悪する者が限りなく肉薄していたとしたら、お前はどう思う?」
 「…………」
 空は答えるべき言葉を持たない。ただ、その胸の奥から込上げる吐き気がそれに対する答えを教えてくれる。慎重に言葉を選び、空はみとりへ語りかける。
 「でも貴女は私達に協力してくれた。貴女がいなければアマテラスは完成しなかった。私達と初めて会った時と地獄に来た当時のみとり。その二人を繋ぐ鎖は一体何なの?」
 「簡単過ぎる答えだよ。そんなになっても、私が伸ばした手の先にはレンチしか無かったのさ。結局、人から捨てられ、地上を捨て、地下に移り済んでも私が縋ったのが技術だった。汚れた川が、汚染された大気が私を技術に縛り付ける。何の目的も無くただ膨大なデータを取得し、そして纏めるだけの日々。誰にも公表する事も無くただ、掘った穴を資料と嘔吐物で埋める日々。孤独に、無意味に研究を続ける私の前に現れたのが是非曲直庁の使者だった」
 「それが、あの時なんだね……」
 「接触自体はその前からあったけどね。兎に角、彼女は私に意味を与えてくれた。この力を、大地を穢す以外に生かすチャンスをくれた。私にとっての技術の意味を問い直す機会を与えてくれた。そうやって何年かぶりに扉のノブに手を掛け、――私は君たちと出会ったんだ」
 そこでみとりは言葉を止める。「少し……、休もうか」みとりは立ち上がると水差しから直接水を飲んだ。グラスに水を注ぐとそれを空に手渡した。「飲めるか?」空は返事の代わりにグラスを傾ける。生温かい液体は優しく体に染み渡り乾いた体を潤していく。ひりついていた喉の熱が少しだけ取れた気がした。
 「分かっただろう。私は別に善意で君達に手を貸した訳じゃない。ただ自分の欲の為に君達との接触を望んだんだ」
 空は疑問を感じる。純粋にみとりの言葉の意味が今の空には理解し難かったのだ。みとりは唯、為したい事を為しただけだ。その結果自分達は大いに助けられた。こちらから礼を言う事はあっても、謝罪をされる謂れなどある筈も無い。そんな疑問を口にするとみとりは苦しむ様なとびきりの笑顔を作った。
 「そんな甘い話があると思うか?」
 嫌な予感を感じる。みとりから止め処無くおぞましい気配が溢れ出る。それは誰にでもある自然な感情だと、記憶は知らせる。ただ、その規模が常人とは遥かに異なっている。常識と理解を超える程に膨れ上がった膨大なエゴがこの河童の内面には満ちている。
 「是非曲直庁の使者が、工場の建設費用、その研究費その他諸々。その一切合財を提供する代償に私に求めた事は何だったと思う? 答えは、一度だけ指示に従う事さ。どんな内容であってもね」
 「……どんな? その指示が私達と何か関係があるの?」
 「おお有りさ。その指示に従い。私は君達の持って来た図面に線を書き加えたんだ」
 「線?」
 「おぞましい線さ。『お空』特に君にとってはね。最初その線を引いた時、私は特に何も感じなかった。その意味も分かっていなかったし、技術を使える事にそれ以上の喜びを感じていた」
 「みとり、ちょっと待って。私に関係がある事ってどういう意味? 線の意味って何?」
 「だからそれで良いと私は思っていた。でもな、お前達の、お燐とお空の温かさに触れてしまって、私は知ってしまったんだよ。技術以外で心が満たされる感覚を。盟友が居る事の幸福を!」
 空の言葉はみとりに届いていない。それは唯ひたすらに己の内に向けて投げられ続ける自虐的な言葉に他ならない。己を傷つけ、罪深い己を正当化する極度に矮小で脆弱な意志によってみとりは言葉を紡ぎ続ける。
 「本当は、アマテラスが完成したら地霊殿に厄介になるつもりだったんだ……。隠していた事も話すつもりだったし、あれだけの仲間に囲まれれば技術への依存も薄れると思ったんだ。もしも……、もしも、もう少しだけ早く気が付いていれば。あるいは別の未来もあったのかもしれない。だが現実は違う。私がそれに気が着いたのはあまりにも遅すぎたんだよ」
 あまりに辛そうな表情に空は止めようとするも口を挟む隙は与えられ無い。彼女を落ち付かせるべき腕も体も、今は起こす事もままならない。己の言葉で体を傷つけて行く姿を眺める以外、空に出来る事は無かった。
 「私は気が着いてしまった。是非曲直庁から頼まれた仕掛けを図面に従って組み立てる内に。原寸モデル作成の為に計算を進める内に。そこに『隠された暗号』の意味を私は解いてしまった」
 「暗号……?」
 「心が震えたよ。あんな明確な悪意を私は久々に見た。『空の殺害』を扇動するコードが、八咫烏を崇める狂信者を生む暗号が、そこには入れられていたんだ」
 空は絶句する。浮かびあがる記憶は、『空』の中でも最も深く忌々しい部分に刻まれている。終わりの始まり。星熊による統治の終焉。旧都失墜の開始。空とさとりの逃避行の始まりの日。連鎖的に呼び起こされる記憶の中、新たに湧きあがって来たのは更なる絶望的な疑問だった。
 「ねぇ、ちょっと待って……、でもさ、さっきそれに気付いたのは……」
 「その通りなんだよ。私は、自分の友達が、旧都の住人たちが良い様に犠牲になる事を分かっていたのに。その作成を辞められ無かったんだよ」
 過去の空も、今の空も。その悲痛なまでの嘲笑に掛けるべき言葉は持ち合わせていなかった。
 「罵ってくれ。好きなように……、君にはその権利がある」
 「……教えて欲しい。私の中のみとりがそんな事をするとは思えない。今の私がみとりを罵るには圧倒的に情報が足りない」
 冷静な言葉を紡ぐしかない。それは乏しい経験の中で正しい感情を選び取る為の消極的な決断。
 「確かに当時の私は感じていたんだ。地霊殿の皆と触れあう内に、私は心の隙間を友達が埋められると。そして、それが錯覚であると思い知らされた。
……破壊しようとはしたんだ。その事に気が付いた夜に、アマテラスの元に行きスパナを振り上げた事もあった。――だができなかった。猛烈な嘔吐感がそれを阻害した。……私は吐いた。君達と出会って以来、久しぶりの感覚だった。……分かっただろう。私の体はもうどうしようもない位技術に依存してしまっている。技術無しに存在が保てない程に癒着してしまっている……!」
 「じゃ、貴女があの日私達を遠ざけたのは……」
 「見せたくなかったんだ……、意地汚く技術に縋る自分の姿を。友達だったから……、初めての友達だったから……ッ!」
 「それが……、みとりの ”歪” の正体何だね」
 「理解しただろう。私と言う妖怪の本質を。嫌いになっただろう。私の事を」
 空は無言で首を振る。怒りが無かった訳ではない。だが、それ以上に空にはそのみとりの感情が理解できてしまった。みとりの歪がどうしようもなく重なってしまう。それは空にも確かに存在する感情。瞼の裏に映るのは他の全てを投げうとうとも守らねばならぬ主の姿。扉の外、遥か遠方で爆音が轟いた。
 「旧都の人たちの武装。あれを開発したのはみとりなんだね」
 「……良く分かったね」
 「基本的な機構が、前にみとりの工房で見た物と一致していたから……」
 「嬉しいよ。覚えていてくれたんだね。その通り。私は、私の意志でこの地下に武力を提供した。強かっただろう。私の子達は」
 「うん。とても強かった。力を使わないと防ぎきれない位に……」
 「ありがとう、そう言ってくれるだけで心が救われる気がするよ……」
 「みとり。己の愛する者に全てを掛けるのは何も間違っていないよ。胸を張った方が良い。……安心したよ。みとりはやっぱりみとりだった。私の知っているみとりもそう言う奴だった。だから間違い無い。今でも貴女は私の友達だ」
 激しさを増す戦闘音。音の方角は旧都方面。恐らくは彼岸の部隊と旧都の部隊が衝突しているのだろう。大気が揺れる度。水差しの水面が揺れる度。みとりの肩が震えている。その事実に空は気が付いていた。
 怒りは無い。己が為すべき事は怒る事では無い。それは神と融合した事で新たに芽生えた感情。神としてのプリミティブなその感情は、寝たきりのお空に上半身を起こすだけの力を与えた。緩慢な動作でベッドから起き上がり、みとりの顔を覗きこむ。「だからさ」そう言って空は言葉を続けた。
 「私に恩返しの仕方を教えて。貴女の望みを教えて。今の私は神様だからね。皆の願いを叶えるのが私の仕事なんだ」
 「嫌なんだ……。私は自分の技術に誇りを持っている筈なのに……。私の作り出した子らが……、暴力を振るう様が、どうしようもなく……、恐い」
 「それが……、みとりの願いだね」
 みとりは無言で頷く。その瞳の中に濁りは無い。瞳を曇らせるべき闇も、内包するエゴもとっくの昔に全て晒け出されている。分厚い雲の取り払われた瞳の奥から現れたのはみとりの真なる願いの光。それは神となった空に揺ぎ無き力を与える。空っぽになってしまった空の体に再び立ち上がるだけ力を戻す。
 「頼むよお空。もう私の子らは、私の手では止められないんだ……。これ以上、私の子らに誰かを傷つけさせないでくれ。もう二度と……、私の技術で誰も傷つけないと誓うから……!
 「……分かったよ。みとり。貴女の子達も。さとり様も必ず助ける。だからそこで待っていて」
 空は力強くベッドから立ち上がると、無言で扉に手を掛ける。背後を一瞥する事もしない。その思いさえあれば空には十分過ぎる。閉じられた扉の向こうに止め処無く零れる涙は枯れる事を知らない。乾ききった地下の大地に黒い染みが広がって行った。


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 「怨霊はそのカモフラージュだね。感謝しなよー。あの時私が止めて無かったら貴女多分事故に巻き込まれて犯人扱いだったよ」
 「いや、まぁ、結局犯人扱いでしたけどね」
 「あー。まぁ、なんだ。済まないな。足は一杯あっても手は二本しか無い物でね。全てには手が回らない事もあるさ。まぁ、とにかく私はラジオ塔の一部倒壊後、身を隠す事にしたんだ。丁度良い機会だと思ったんだよ。刷り込みを行ったのはみとりでも、その引き金を引いたのはみとりではない。他に糸を引いている者が居る。それを燻りだすには丁度良いと思ったんだ」
 「ヤマメさん。それ、嘘でしょ? 本当はその黒幕も分かっているんじゃないの」
 燐以外であればそれには気が付かなかっただろう。だが、操霊術を学んだ燐は他人の感情を読みとる力を極限まで高めている。その言葉の裏に隠された心理を読みとる術を燐は知っている。
 「予想は付いている。だが確証は無い。そして、証拠が無ければ意味が無いんだ。この戦闘を終わらせるには揺ぎ無き証拠が無ければならない」
 「……見たんですね。その犯人を」
 「いいや。見ていないよ。そう、見たけれど、見ていない。つまりは ”そう言う事” さ」
 「分かる様で分かんないですね。でも、つまりは ”是非曲直庁” が、旧都に介入をしていた証拠を探せば勝ちと言う事ですね」
 「まぁ、その通りだ」
 「それで、お前はどうするんだい?」ヤマメは至極真面目な顔に戻りそう尋ねた。重要な質問だ。己らの今後を左右しこの地下世界全ての運命を変えるかもしれない。だと言うのに目の前の猫は、拍子抜けするほどの笑顔で即答した。
 「愚問ですね。後者です。選択肢はそれだけしか無いじゃないですか」
 「お燐。選択の意味は分かっているね。私達のやろうとする事はつまり、是非曲直庁と旧都の部隊が混戦を繰り広げる旧都の中心地に自ら突っ込んで行くと言う事だ。ついでに言えば、高い確率で是非曲直の裏役に狙われるだろう」
 「裏役?」
 「いくらあの閻魔が任務に忠実とは言え、こんな裏工作を是とするとは思えないんだよ。恐らくはあの閻魔を傀儡として操る者が居る」
 「だとしても、あたいの気持ちに変わりは有りません。だって、さとり様を救うにはそれしか無いじゃないですか。あの閻魔様を引かせるに足る情報がそこにある。それが分かっているのに、踏みとどまる理由は有りません」
 「言う様になったじゃないか。ならば、早く行け! 向かうべき場所は自分の胸に聞け! 急げ、お空は恐らく決断する。そうなったら確実にさとりの願いを叶えるだろう。そこで、さとりが何をするのかも考えずにな」
 スパイダーウェブを窓際に展開したヤマメは燐の前に立ちはだかる。事態を掴めず困惑する燐の眼の前に鉛の砲弾が飛び込み、そして糸に絡め取られた。
 「お燐。善悪をひっくり返してやれ。多分こんな正義はあのお子様閻魔だってのぞんじゃぁいない」
 破裂するように扉が開きがしゃどくろの面がなだれ込む。黒猫へと変じた燐はその隙間を縫うように部屋の外に飛び出した。追っ手の掛かる気配は無い。燐の背後、バラックが崩れ落ちる音が轟いた。


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 遠方に感じる僅かな気配。息遣いまで聞こえそうなほど静まり返ったビルの廊下。窓外から流れて来る爆音とは対象的なビルの中を燐は息を殺して歩いていた。T字路が正面に見える。足音を殺し目一杯右側に膨らんで左の廊下の人影を確認。間髪をいれず、右の壁に張り付くようにして廊下を曲る。猫の眼で、四つの耳で気配を探る。とたとた、と僅かな足音を聴覚が捉える。
 「――ッ!?」
 全身を緊張させ警戒態勢を取る。だが、相変わらず周囲に気配は無い。暫くして、ちゅうと言う鳴き声と共に天上裏から軽い足音が聞こえてきた。音の主を確認し全身の緊張を解く燐。肩で息をする燐は全身の疲れから廊下に座り込んだ。
 「ヤマメさん……。本当にこんな所に何かあるんですか……」
 燐は胸のポケットから取り出した一枚の紙片を眺める。そして、深いため息を再び吐いた。乱雑な文字で走り書きされたそのメモに書かれているのは全くもってシンプルでアバウトな一つの言葉。『アマテラスの残照』聞き覚えはある。心当たりもある。だが、肝心の部分が抜けている。一体自分は何を取ってくれば良いのか。決定的な証拠とは何なのか。十分な手がかりも無いまま、燐はもう幾つものビルに潜り込み、関係のありそうな書類を漁っている。
 今潜り込んでいるのもそんな場所の一つ。アマテラス建造の際に資材の搬入に携わった工務店。その事務所が入る雑居ビルの一つに燐は忍びこんでいる。継ぎ足す様に作られたビルの内部は複雑に入り組んでおり、下手をすれば今自分の居るフロアが何階であるのかも定かでは無くなる。目的の工務店に入り無駄足を踏んだ燐は遠方から忍び寄る彼岸の気配に怯えながらビルの脱出を目指していた。
 感じる気配は三つ程。何れも今自分の居るフロアよりも上から感じるが何階に居るのかまでは分からない。恐らくまだ燐には気が付いていないのだろう。燐を探している訳では無い様だが、ビル内を移動し何か作業をしている様に思える。
 「うっそ。やば……」
 燐の耳が新たな気配を捉える。エントランスに展開した彼岸の気配が新たに三。この雑居ビルの出口は限られている。非常口すら碌に作られていないこのフロアから出るにはそのエントランスを通らずには居られない。それは計らずも挟み打ちの形になる。更に運の悪い事に、合流を目指しているのか二か所の気配はそれぞれ燐の居るフロアに向かい接近を始めた。燐は狼狽した。来た道を引き返せば階段がある。遭遇は避けられないだろう。進んだ所で正面は雑貨店の扉があるばかりだ。それこそ完全に逃げ場は無くなる。だが背に腹は代えられぬ。ままよと駆けだした燐は突きあたりの扉に手を掛け店内に逃げ込んだ。
 暗い店内の様子を掴む事は出来ない。目を慣らすのには今しばらく時間がかかるだろう。埃っぽくどこか香ばしい香りの漂う店の中を燐は手探りで進んで行った。目指すのは身を隠せる小さな空間。猫の姿で入れる様な隙間を燐は探す。部屋の奥。何やら低い壁で囲まれたスペースの中に木箱の様な物を見つけた燐はその中に入れないかと大きさを探っていた。
 黒猫の姿に戻れば丁度良い大きさだろう。場違いな事に体を包むだろう心地良いフィット感に思いを巡らせた燐は一瞬警戒を緩めてしまった。故に背後から伸ばされた手に燐は気が付く事が出来なかった。
 「――ッ?!」
 口元に手を当てられる。体を後方に抱き寄せられる。抵抗の暇も無い。声を上げる事も出来ずに拘束された燐は、せめて襲撃者を確かめようと後ろを振り返る。それは燐にとって相当に意外な人物だった。
 「しーっ、静かに」
 「え? 雑貨屋のおじさん?」
 振り返った先に居たのは壮年の男。空の行きつけのお店の店主。煙管の洗浄に付き合い、暇を持て余した燐にシガレットチョコをくれた優しい店主がそこには居た。
 「久しぶりだね。お燐ちゃん、すっかり美人さんになって」
 「お久しぶりです……。じゃなくて、どうしてここに?」
 「んなもん。お前。俺が俺の店に居て何が悪いって言うんだよ」
 「……へ?」
 言われて周りを見渡してみる。ようやくロドプシン合成の終わった瞳は部屋の様子を網膜に映し出した。壁に掛けられた古ぼけた時計や乱雑に置かれた珈琲豆ケースに並べられた煙管等、全ては燐の記憶の通りであった。
 「おじさん、まだ此処に居たんだ……。独立運動に同調しようと思わなかったの?」
 「馬鹿を言うな。私をあんな若造共と一緒にするな。……と言いたい所だが、実の所は私も加わろうとしたんだ。家を出ようとした時に丁度、修理依頼の煙管の事を思い出してな。久々に見る程の手の凝った作りでつい夢中になって直していたら、加わるタイミングを逸してしまって」
 「それはまぁ……、なんとも」
 苦笑するその姿は特段悔しそうには見えない。やはり既に洗脳の影響は抜けているのだろう。今彼らが戦っているのは退けないというただそれだけの理由なのだ。
 「しかし、お燐ちゃんこんな所にどうしたんだい? 今の今まで留まっている俺が言う事じゃないが、此処は安全とは言えないぞ?」
 「本当におじさんに言われたくないよ。どうして、まだ此処に居るのさ」
 「俺は店を開ける訳には行かん。まぁ、危なくなったら逃げるつもりではあるが、今の所はまだこの場所は激戦区にはなっていないからな」
 「……気を付けて下さいね。 ”お空” が悲しみますから」
 「はは、お得意さんを泣かせる訳には行かないね。善処しよう。……で、お燐ちゃん。君は一体どんな用事で此処に来たんだい?」
 「あー、まぁ。逃げて来たのが直接の用事何ですけど……」
 ドアの外に彼岸の気配が近づく。拍子抜けするほどあっさりと通り過ぎた彼らは合流後に再び何処かへ行ってしまった。彼らは非戦闘員を攻撃しない。そういう風にプログラムされているのか単なる指示なのかは不明だが、とにかくこの場に居れば安全だろう。ほっと、胸をなで降ろした燐は主人に促されるままに椅子に座ると手渡された緑茶を口にした。口に広がる程良い渋み。久方ぶりの水分が体に染み渡った。
 「この旧都がおかしくなった原因の調査……、かな?」
 「……良く分かるね。その通りだけどさ」
 「地霊殿に囚われている筈のお燐ちゃんがこんな所に居れば大体察しはつくさ。ついでに、俺だってこの旧都には長く住んでいる。何かが起こっている事位は感じ取れているしな……」
 「……おじさん、もしかして自分が操られていたって気が付いてる?」
 「なんとなくはね。お空ちゃんは俺にとっても長い付き合いだ。邪な考えを持つような子じゃないのは良く知っている。娘みたいに可愛い常連さんさ。商売人としてそんな得難い常連さんを一瞬でも憎んだ自分が信じられ無くてね……。しかも、それは突然に起きたと来た。どう考えても普通じゃない」
 「ありがとう」燐の口からは自然に感謝の言葉が漏れ出ていた。こんな状況になっても、空がどれだけ変わり果てても。空の築いた人脈は、信頼関係は未だ残っている。その事実が燐には嬉しくて仕方がなった。感極まるあまり涙が出そうになる燐の背を壮年の男は優しく摩る。それは燐が久々に感じた温もりであった。暫し後。涙の波も過ぎ去り気分も落ち付いた頃に燐は男に問いかけた。
 「ねぇ、おじさん。聞いて良いかな。あの、撃ち落とされたアマテラスについて何か知っている事は無い?」
 「アマテラスについてかい? うーん……、そう言えば残骸を片付けようとした時にえらい剣幕で怒鳴られたな。何でも解析するとか何とか言って」
 「それっ、それだよ! 何処に、その残骸は何処に持って行かれたの!」
 「待ってくれよ……、確か。 ”ラジオ塔の東館” だかに運ぶとかなんとか……」
 店主の話が終わる前に燐の姿は扉の向こうに消えていた。


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 『古明地さとりを足止めせよ』私の部隊が受けた任務はただそれだけだった。此処は大焼処区と闇火風処区の丁度境界。後方に霊力プラントを背負う小高い丘である。
 岩間の影の平坦な地面に並んでいるのは市街戦には向かない虎の子の主力戦車が二に、そして大量の機銃、迫撃砲、対物ライフル。
 たった一人の妖怪を止める為にはあまりにも大袈裟と言える兵器。少なくとも最初はそう思っていた。その考えは前方の平野に対象が現れた事により容易く覆された。
 まるで空気か何かを相手に射撃をしているような感覚。暖簾に腕押しと言うのが最も的確だろう。幾ら弾を撃とうと、如何なる弾幕を築こうともまるで命中する気配が無い。嘗て地上より襲来した二人の襲撃者。あの内の一人と極めて近い感覚である。
 何故『足止めなのか』どうして『拘束』や『殺害』では無いのか。その理由を私達は嫌という程理解した。『不可能』だ。この少女を、物量を持って制圧するのは不可能に近い。逆を言えば、制圧される事も無ければ突破される事も無い。只管回避に徹する対象に出来る事はまさに足止め以外に無かった。
 「Fire!  Fire!  Fire!  Fire!  Fire!  Fire!  Fire!」
 「Fire!  Fire!  Fire!  Fire!  Fire!  Fire!  Fire!」
 耳をつんざく様な銃声のオーケストラ。私達は後の事等一切考えずにトリガーハッピーに徹する。それだけが使命だ。彼女を止められるだけの力を持った存在が到着するまでこの場を持たせられれば良い。
 焼き付いた銃身を捨て、新たな銃身を据え付ける。木箱に入れられた弾薬帯が瞬く間に消える。妖力を使いきり疲弊した者が後ろに下がり、救護班から補給を受ける。榴弾が炸裂する。白煙と共に高温高圧のガスと鉄片が周囲に飛散するも対象は岩を盾に回避。足の停まった所を狙う狙撃班は、さとり妖怪の思念波によってトリガーを引く事すらままならない。
 撃つべき弾を撃たせず、撃たざるべき弾ばかりを撃たされる。だが無駄弾で結構だ。無線で勇儀様の到着は間近と告げられた。後もう五分、この不毛な膠着が続けば良い。何も事態が動かなければ良い。故にそんな私のささやかな願いをあっさりと否定する現実には、糞っ垂れと叫ばずには居られなかった。
 「上空から高速で接近する物体を確認。詳細は不明!」
 偵察に出ていた釣瓶落としが慌てた様子で告げる。
 それが何であるのかは即座に理解した。忘れる筈も無い。どれだけの年月が経とうとも忘れる訳が無い。今では朧気な記憶だが確か最初はその気配を求めて自分は戦いに加わったのだ。
 では今はどうなのか? 真なる威光を目にした私は自然心が跪いていた。幾ら地下に逃げ延びたとは言え自分達は太陽の元で生まれたのだ。どれだけその威光を否定しようとその純然たる事実は変わる事が無い。畏敬にも近い念はその接近に伴って大きくなるばかりだった。
 「さとり様に……、手を、出すな……」
 勝てない。数百年ぶりに見た地上の灯りに目が眩む。対空射撃を掻い潜り飛来するのは真鍮の鴉。唸りを上げる対物ライフルの撃鉄は身を捻って回避する鴉に虚しく空を切り続ける。力を誇示したかったのか、避けるのが面倒になったのかは分からな。ガラクタの鴉は急に回避行動を放棄する。代わりに高熱のバイザーを伴って一直線に突き進み始めた。ならばそれを正面から止めようとMBTが主砲を放つ。射出するのは彼岸の軍との決戦の為に極秘裏に開発していたDU弾。衝撃により自己先鋭化する砲弾はバイザーに突き刺さる程に鋭さを増し、剥がれ落ちた侵徹体が次々と融解していく。微細化し撒き散らされたそれは、激しく燃焼し空へと振り注いだ。
 装甲を貫通して行くDU弾を見ても空は眉の根一つ寄せない。戦車装甲を打ち抜く為に作られたその恐るべき弾丸はついにバイザーを突き破り空の眉間に直撃した。だと言うのに空には傷一つ着かない。砕け散ったDU弾が虚しく燃え上がり地面に落ちて行くだけである。何事も無く地面にランディングしたのは変わり果てた姿の地獄鴉。その身から膨大な力を立ち昇らせながら。アンバランスな程に弱々しく張り詰めた瞳を持った鴉が泣きそうな硝子玉で部隊を見据えた。
 「その武器で……、さとり様を狙わないで、お願い……、だからっ!」
 太陽の化身。真実の灯り。地下の黒い太陽。熱かい悩む少女。地獄鴉の少女。鳥頭。だが目の前の機械はそのどちらとも似つかない。完全なる融合を遂げた八咫烏の少女が部隊の前に立ちはだかった。


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 「なぁ、早苗。神って何だと思う?」
 「どうしたんですか。いきなり」
 「いや、少し覗いていたら気になってしまってね」
 「趣味悪いですよ。程程にして下さいね」
 「善処するよ。で、質問だが……」
 「人の信仰が意志を持ち受肉した存在……、じゃありませんでしたっけ?」


 「その通りだ。その通りなんだけど、今聞きたいのはどうやって神が出来上がるかじゃない。神が何で出来ているかだよ」
 「だから、信仰が……」
 「信仰とは何だ? 人の願いとはそもそも何だ? ――要はエゴだよ。妖怪が畏れから生まれるのなら私達は人のエゴから生まれる。願いと言う形を取った信仰からね」
 「神様自身が、エゴと言い切りますか。トレンドに合わせる為とは言えフランク過ぎはしませんか?」


 「私はまどろっこしいのは嫌いなのさ。ここで別の話をしよう。この世界は物理法則に従って動いている。だから、転がったボールは摩擦で停まるし、重力に引かれてリンゴは下に落ちる」
 「私生物選択だったので物理の話はちょっと」
 「まぁ、聞きなさいよ。その枠に囚われずに動ける私達は一体何者だと思う?」
 「神様なんだから奇跡を起こせるのはあたりまえじゃないんですか?」
 「そうだ。私達は奇跡を起こせる。そして妖怪は怪異を起こす。つまりこれは、神と、妖怪が本質的に同じ物である事を示すんだ」
 「なんとなくそれは分かりますね。妖怪と神が酒を酌み交わして、酔って暴れて、揃って人間に頭下げてる所なんて見たらそう思わざるを得ませんよ」
 「あの時の霊夢は恐かったな……。まぁ、つまりはそう言う事さ。神と妖怪はスタンスの違いに過ぎない。妖怪が世界のバグを利用した挙動を行う存在だとすれば、神はその世界の一部なのさ」
 「世界の構成要素と言う事ですか?」
 「その通り。生命のエゴが世界を作り動かす。生命の畏怖が世界を変える。神と言うのは、つまりコンポーネントの一つ。世界の枠を作る事を許された者が神なのだ」


 「世界の枠を作るですか……。確かに神奈子様や諏訪子様はそれに近い事を普段からなさっていますね。神なら誰でもそう言う事が出来ると言う事ですか?」
 「変えられる世界の権限は神によりけり、さ。私達はその権限が大きいだけ。その権限を与える側。世界その物みたいな正真正銘の ”化け物” も存在はするがね。神で同一なのは、その役割と変化のさせ方さ。神は歪みを修正し生命を正しき方向へ導く者。その手段として世界を組み替える為に膨大な量の演算を常に行っているのさ」
 「でも神奈子様、数学は苦手でしたよね? 数Ⅲの区分求積法聞いても教えてくれた試しが無いじゃないですか」
 「あれは私の知っている数学と違う」


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 それは燐が配管の一つに降り立った時だった。激戦の続く旧都中心区。廃墟と化した金剛骨処区の周辺のビルの合間を抜けている時に突如として周囲から悲鳴が上がり始める。遅れて聞こえて来る大規模な爆発音。旧都の軍と彼岸の軍の両方から聞こえて来るそれは次第にその頻度を増していった。
 ぞわりと燐も空気の変化を感じ取る。自分の居る世界が根底の部分で弄られた様な妙な感覚だ。胸の奥で嫌な予感が膨れ上がって行く。その燐の思いを肯定するように周囲のビルが、脚元の配管が異音を発し始めた。
 「……なんだって言うんだい。これは……!」
 燐が理解をしなくても世界はその変化を辞めたりはしない。容赦のない現実は狼狽する燐の瞼をこじ開ける様にして変化を見せつけた。燐が脚を掛けるエルボに微細なヒビが入り始めたのだ。瞬く間に広がる亀裂は配管の倒壊を招く。燐の重みで傾いた配管の一つは連鎖的な崩壊を始めた。
 「何でこんな時におかしな事が起こるんだよっ……! もう一息何だよ。どうして神様の癖に意地悪をするんだよ。この……、糞ったれっ!」
 吐き捨てるようにして燐は隣のビルへ飛ぶ。周囲より頭一つ大きなビルは旧都の中をある程度見渡す事が出来た。燐が見据えるのは旧都で最も高い建造物。嘗ての旧都では並び立つその建造物は都市のシンボル的存在だった。だが今燐の瞳に映る塔は片方しか無い。先日の閻魔と鬼の闘争で倒壊した東館は無残に地面に横たわっていた。燐が目指すのはその西館だ。ラジオ塔の西館にこの戦乱をひっくり返すジョーカーが眠っている。それを目当てに燐は走るのだ。
 崖下を戸惑った様子の獄卒鬼が走り抜けて行く。恐らくは気がつかれたと思うのだが、特に此方を追って来る様子は無かった。まるで、より重大な何かを伝える為に走っている様に獄卒鬼はお燐とは反対方向に駆けて行く。燐はその事実を不可思議と感じる余裕も無かった。
 何かが分からないがこの旧都で何かが起こっている。それどころでは無いのかもしれない。詳細なんて必要ない。この世界自体が変わり始めている。その事実だけでも燐を焦らせるには十分過ぎる。眼の前に現れた子鬼の隙間を滑り込むようにして一息に抜け、そのまま向かいのビルへと跳躍した。
 もう見つかったって構わない。最大の速度でラジオ塔を目指す。燐の頭にはそれ以外の選択肢が残っていない。そんな燐が、風になびく紅いお下げに気が付く筈も無い。遠くで燐を監視する恐るべき影に気が付く筈も無い。軋みを上げる旧都の中心。鈍い色の鎌がぎらりと輝いた。


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 次々と暴発を始める近代兵装。『神の力』の前に瓦落苦多と成り果てた鉄の筒を手に茫然と立ち尽くす旧都の軍勢。ヒビの入った銃身は最早発砲の衝撃に耐える事は出来ないだろう。鉄の塊と化した主力戦車から入道が降りて来る。年老い黒く煤けた入道はそれが使えぬ事がどうしたと言わんばかりに自らの肉体を持ってして鴉の前に対峙した。
 その姿に続くように旧都の部隊は重火器を捨て久々の妖術を展開し始める。当然だ。彼らは武器が無ければ何もできぬ人間とは違う。己の牙で、爪で、能力で、妖術で、己への脅威を振り払うだけの力が生まれつき与えられている。数十メートルの距離で静かに対峙する鴉と旧都の軍勢。暫しの睨み合いの後空はゆっくりと口を開いた。
 「みとりの子達はもう ”死んだ” 。だから……、諦めて。私とさとり様を通して。お願い」
 それは彼女の本来の見た目相応の切実で儚い声。本来の彼女の姿で放たれたのであれば、旧都の妖怪達の心を僅かばかりも動かしたのかもしれない。情に訴えるには彼女の姿は既に変わり過ぎていた。最早地獄鴉であった原型を留めていないその姿は、彼らの眼に畏怖と畏敬以外の感情を抱かせない。純然たる使命感を誘発するその感情は寧ろ抵抗を促進する。圧倒的な力の差を前にして、別次元の存在を前にしても彼らが無謀に立ち向かおうとするのはそう言う理屈である。
 戦闘の不可避を悟った空は、制御棒を構え内部に熱を充填し始める。安全域。摂氏一万二千度。以前とは比較にならぬエネルギー充填速度に空自身も驚く。排熱パイプから放出される過剰な熱。揺らぐ大気を見た空は照準器で旧都部隊の少し上方に狙いを付ける。
 「いいえ。その必要は無いわよ」
 旧都部隊の背後から聞こえる声。どんな護衛も引き連れていない。空間転移を行ったかのように忽然と現れた気配はゆっくりとこちらに迫る。それは悪なる物を唯一人の例外も無く竦みあがらせる気配。獄卒鬼や牛頭馬頭ですらこれ程の気配を有していない。現在の地下世界にそのような者は一人を覗いて存在しない。舞い踊る砂煙の向こう側。楽園の最高裁判長。四季映姫が再び空の前に現れた。
 「良く見なさい。貴女が守ろうとしている者を。貴女達が止めようとしている者を」
 「……?」
 しかし、吐き気がする程の清浄な殺意が今の閻魔からは微塵も感じられない。そもその気配は自分達に一部程も向けられていない。彼女はゆっくりと腕を上げると一つの方向を示す。それは、空でも旧都の部隊でも無い。その後方。さとりの居る穴ぼこだらけになった平野を白い指が指し示していた。
 「何……、これ……?」
 ゆっくりと振り返った空が、硝子玉の瞳に移すのは愛する主人である筈だった。神と成り果てた空の最期の拠り所である。彼女はどんな窮地でも余裕のある表情で皮肉を言ってくれなければならなかった。穏やかな笑みを常に湛え。増長した時は叱り、しかし愛を持って自分を包み込んでくれる人でなければならなかった。だから、彼女は断じてこの様な空っぽの藁人形である筈が無かった。
 「自前の能力を複合した幻影魔法と式神の応用かしらね。器用な事をする。何時の間にこんな勉強をしたんだか……」
 岩の影で役目を終え倒れる藁束を見据え、映姫は冷静に分析する。映姫の言葉の通りその藁人形の顔にあたる部分には複雑な計算式の書かれた札が張り付けられている。その事実を認識したとたん。先ほどまで確かに感じていた愛する主人の気配が胸から忽然と消え失せた。
 「さとり……、様……?」
 これが主の能力である。直接的な戦闘能力は恐らく燐にも劣る。人間並みの肉体に一般的な妖怪並の妖力。しかし彼女の脅威はそのようなカタログ的なスペックに現せる類では無い。己の能力を十全に活用し巧みに相手の心理を操り味方までも欺いて動く。本気になった時の主は鬼をも凌ぐ脅威へと変貌する。恐らくはこの藁人形が持つ役割は自らがこの包囲網を突破する為の囮だけでは無いのだろう。
 周囲の気配を探るとほんの僅かだがプラントの方面から懐かしい香りが漂って来る。これ程の仄かな香りは、先程までなら意識しても嗅ぎ分ける事は出来なかった。この間抜けな藁人形はわざとらしく撒き散らした気配によって本来の気配を打ち消す煙幕だ。この場で行われた全ての戦闘行為はさとり妖怪の時間稼ぎに利用されたに過ぎない。
 映姫は事実を悟ると静かにプラントへ向けて歩みを進める。茫然と立ち尽くす空はその動きに気が付くと慌てて翼を広げた。
 「何処へ行くの。四季映姫」
 「プラントですよ。貴女の主を殺しに行かないといけませんから」
 彼女の中の『空』は激昂した。冷徹に残酷に当然の様に告げる閻魔の声に怒りの感情が記憶の奥から自然と湧きあがってくる。融合して以来、全ての感情と記憶の連結は曖昧になってしまっている。しかし不思議とこれだけは変わらない。揺ぎ無き感情から生まれるのは切なる願い。神として己に身を捧げた少女の願いを叶える為に空は大地を蹴った。
 真鍮の翼で風を切り、炉の余剰熱をジェットに変えて加速する。茫然とする旧都の気配を飛び越え、悠々と歩くその小さな背を強襲する。目標までは後三百メートル。衝突までは後刹那。その筈だった。
 「糞……、死神か。何処だ?!」
 即座に空は異変に気が付く。この身は際限なく加速を続けている。音速を五回追い抜ける速度で風を切り、既に三秒は飛び続けている。だと言うのに一向に閻魔との距離が縮まらない。相対距離が無限になったかのような感覚を受ける。誰の仕業かは明白だ。この閻魔の傍に常にあり空や燐が幾度も世話になった人物。『死神の船頭の力』が空の行く手を阻んでいた。
 「待て、四季映姫! 私と戦え」
 「いいえ。待ちません。私が一歩待っただけこの地下世界が一歩後退する。足を止める自由すら私と言う正義には残されていない」
 「勝手な事を言うな。お前の与える未来なんて私は望んでない!」
 空中に縫い付けられた空が発する悲痛な叫び。安全域。摂氏十三万度。我武者羅に溜めた熱量を碌に成形もせずに放出する。ただ虚空を焦がすだけの熱の塊に一瞥も向ける事も無く映姫はプラントへと到達した。
 「結界ですか。しかし、この構造は……、ふむ。鬼も良く考えた物ですね」
 何かを確かめるように虚空に手を触れる映姫。ノックをするように何度か結界を叩いただけで結界には人一人が通れるほどの穴が開く。
 「待て、四季映姫! さとり様に手を出さ……、無いで……。……お願いっ、だからっ……、映姫、さまっ……!」
 「霊烏路空。神となっても尚、貴女の意志は純粋過ぎる。神の声をもっと聞きなさい。世界を理解しなさい。……貴女を裁くのはそれからです」
 彼女は最期まで振り返る事は無い。彼女が結界を通り抜け再びそれが閉じられると同時。空を縫い付けていた力の奔流が忽然と消失した。緊縛が溶けた空はプラントに向けて猛然と突撃する。当然、空を待つのはプラントの鉄臭い香りでも無ければ、ましてや主の温かい胸などでは無い。空中で結界に激突した空は錐揉み状態で地面へと墜落した。
 「何でよ……。なんで、私はさとり様に会う事すら出来ないのよ……。全部……、全部捨てて……、さとり様の為に……、なれる……、と思ったのに」
 「それはお前の前に ”私と言う障壁” が残っているからだ。お前と言う矮小な意志がその膨大な力に順応しきれていないからだ。真にさとりを助けたいと願うなら。私を退けて見せろ。八咫烏」
 大粒の涙を流して強固な結界を叩く空の背後に先ほどは正反対の強大な気配が迫る。隻腕の鬼は地面を揺らして空に近づく。その腰と背に四つの金棒を背負い鍔鳴りの音を伴って空の前に再び立ちはだかった。


 「決着を付けよう。お互いそれ以外の道は無い」
 「……望む所だ。前と同じだと思うなよ!」


 目尻に溜まる雫を拭う事も無く空は最大出力の熱源を吐き出す。プラントを飲み込む程の爆炎が周囲に広がって行った。


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 妖力翼を格納し崩れ落ちた壁から内部へ侵入する。その床に足を付けるのは正直に言って恐かった。自分のような軽量の物ですらこの床は支えてくれないのでは無いか。そんな疑念を振り払う事ができなかったからだ。そんな燐の不安を裏切る様に床は確かな抗力を返してくれる。胸を撫で下ろした燐はゆっくりとその部屋に向けて歩み出した。
 「このラジオ塔で見られちゃ困る物を入れておく所なんて限られている。きっと……、倉庫を虱潰しに当たれば……」
 燐はヤマメに連れられてこの塔を幾度か見学した事がある。スタジオや職員向けの商店の並ぶ西館とは対照的に東館は殆どが事務室や職員の詰め所だ。まさか、戦時中とは言えそんな人の出入りする可能性の高い所に機密物資を隠しはしないだろう。恐らくは倉庫。数か所しか無い倉庫の何処かにジョーカーは眠っている。
 拙い記憶を掘り返し、燐はラジオ塔の倉庫の位置を思い出す。エントランス脇の階段下に一つ。四階の廊下突きあたりに一つ。八階の仮眠室の隣に一つ。屋上に一つ。計四つ。
 「全部順に見て回る時間なんて……、無いよねぇ?」
 天井から舞い降りる埃と電灯がその問いに答える。すぅと深呼吸をした燐はが施行するのは、これまで目立つ事を畏れ使っていなかった技術。生まれついての力では無い。燐と言う個人が血の滲む努力によって身に付けたもう一つの力。
 「おいで。久しぶりに遊ぼう。今日はかくれんぼだ」
 一つ二つ。順に燐の周りに光の玉が集っていく。それはしゃれこうべでは無い。怨霊は探し物等と言う繊細な作業には向かない。幾ら燐が怨霊を使役できるとは言え強制力を持っている訳ではないのだ。彼らが嫌がる事をさせる事は出来ない。だから、燐が呼ぶのはもっと、遊びが好きな存在だ。もっと無邪気で、無価値な存在が燐の周囲には集いつつあった。
 「久しぶりだね。皆。悪かったね、この所忙しくってさ」
 場違いな程呑気な声が燐の周囲に木霊する。まるで人里の寺子屋の休み時間の様だ。薄暗い室内とは対象的に彼女らは明るく好き勝手にはしゃいでいる。そんな様子に燐は思わず笑みを零した。燐が呼んだのは怨霊では無く妖精。地獄の地で生まれた旧都在住の妖精たちである。
 例え近代化した都市であっても、荒廃した大地であっても。それが生命の相互作用の中で生まれたのならそれは自然現象である。自然現象の中にこそ妖精は生まれる。故にこの旧都内に妖精が居る事は何もおかしくない。そう燐は考えているが、実際の所堂どうであるのかは燐自身も知らない。より正しく言うのならば興味が無い。であるが。
 「今日は皆とかくれんぼをして遊びたいんだ。実はね、この建物の中に ”ある物” が隠れているんだ。正確な形は分からないんだけどね。恐らくは黒い箱の様な形をしていると思う。このビルの倉庫のどれかに眠っている筈だ。だからあたいと皆で競争をしよう。あたいよりも先に妖しい物を見つけられたら皆の勝ち。あたいが先に妖しい物を見つけたらあたいの勝ち。良いね?」
 幼児の様な姿をした妖精たちはそんな燐を好奇心溢れる瞳で見つめている。それは使役などと言う上等な技術では無い。ただの遊びだ。幼稚園の保母が幼児を遊ばせるのと何も変わりはしない。
 「それじゃ、よーい。スタートだ」
 先走って飛び出した妖精を見て、燐は手を打ち鳴らしてゲームの開始を告げる。思い思いの方向に飛び去った妖精たちは次ビルの中に散らばって行った。
 「さて……、と。後は視るだけだね」
 燐はその場から動かず何事か術を唱えると深く瞑目する。閉じられた網膜に映し出されたのは妖精たちが見る視界、では無く正確には彼女らにくっつけて置いた簡易的な式神である。地上に遊びに行った際に出会った黒猫から教えて貰った術で使い勝手の良さから燐は愛用している。妖精は子供の様な物だ。自然と同じく気まぐれで決して誰の言う事も聞きはしないし学習もしない。だから燐はその体と視界を借りる。妖精が飽きてもその視界に対象物を捕えれば問題ない。十以上に分割した視界を同時に確認しながら燐は妖しい物が無いか探した。
 五分も経過した頃だろうか。四階の倉庫に入り込んだ妖精の視界にそれらしきものが移り込む。部屋の隅に置かれた場違いに巨大な金庫。周りの大道具は全て埃を被っているのに金庫の天板にはうっすらとしか埃が積もっていない。
 「ビンゴ」燐は思わずガッツポーズをする。上機嫌な様子で此方へ突っ込んでくる妖精の姿が見えたのは間もなくの事だった。
 「そっかー。四階の倉庫にあったのかー。あたい負けちゃったなー。皆凄いよ!」
 見事かくれんぼに勝利した妖精にお礼の飴を上げる。こうやって僅かでも報酬を与える事で彼らはまた次回も手伝ってくれる。だからこれは欠かせない作業だ。燐は解散を告げると足早にその倉庫の中へと入って行った。
 「これが彼女の見た “箱” か」
 間近で見ると予想以上に大きい。十畳ほどの物置きには舞台セットらしき書き割りや使われ無くなった机等が放置されていたが、その中でもとりわけ大きいのがその金庫である。ダイヤル式の金庫は見るからに頑健で普段なら決して破壊する事は叶わなかっただろう。
 だから燐はこの瞬間だけ世界の変化に感謝した。鋼鉄製の扉には幾つも亀裂が入っており、少しの力を入れるだけであっさりと壊れてしまった。緊張しながらも燐は中身を傷つけないように慎重に扉を取り外す。
 「パルス発生ユニット? いや、これは増幅器かな。どっちでも良いけど……」
 金庫の中に入っていたのは黒いボックス。内部の機構が見えない様に覆いの被せられているのは黒い鋼板。本来内部機構を秘匿する為に掛けられるそれは、亀裂により真っ二つに裂け内側が露わになっていた。並ぶのは大量のコンデンサとICチップ。作られた当時の事を思えばオーバーテクノロジーにも程があるのかもしれない。彼岸の支援を受けた河童ならそれも可能かもしれないと思わせる事実に燐は背筋が寒くなった。
 「これは……。写真を取るしかないか。何か持っていけるような物は……」
 これ程に脆くなった金属製品は触れば容易に崩壊してしまうだろう。持ち出す事は困難を極める事が予想される。ヤマメから渡された原始的なカメラでそれを撮影し燐は別の物的証拠を探った。そしてそれは、驚くほどあっさりと見つかる。金庫内部。僅かにずれた底板を不審に思った燐が動かすと下から茶色の書類封筒が現れた。その中に入れられていた書類に燐は腕が震える。そこにあったのは紛れも無く、『サブリミナルコード』発生ユニットの設計図とそして、
 「是非曲直の……、それも秦広王の判か。全く……、予想以上の大物が釣れちゃったねぇ!」
 図面の右下に記されていたのは是非曲直庁の判。さとりの執務室で何度も目にしたそれを見間違える筈も無い。この書類を解析すればこのブラックボックスが騒動の原因であると突き止められるだろう。この地下世界に介入した正義の刃は、その大義を失い脆くも崩れ去るだろう。そして、さとりは。これ以上戦わなくても済む。空も苦しみから解放される。この書類さえ持ち替える事ができれば――。
 「駄目だよ。あたい達はまだ正義で居なければならないんだ。世界がそうである事を強いているのだから」


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 「あーあ。お姉ちゃん。やっぱり駄目だったじゃない。ここからどうやってひっくり返すつもりなの?」
 「勝負は最後まで諦めなかった者が勝つのよ。フィードバックは全てが終わった後で十分。今はただこの先に為すべき事を考えるだけで良いのです」
 「その結果がこれでしょう。お姉ちゃん。コンコルドの理論って知っている?」
 「……知っていますよ。今ここで退いた時と続行し目的を成し遂げた時に得られる者を比べて、未だ後者が勝っているからこそ私はまだ歩いているんです」
 「ばーっかじゃないの? その幸福とやらってお姉ちゃんの視点でしか計って無いんじゃないの?」
 「姉に向けてあまり馬鹿馬鹿言う物じゃありません。……知っていますよ。そんな事位」


 「ふぅ……、仕方ないなぁ……。そんなさ、薄っぺらな理屈を振り回す位だったらさ。もっと素直な言葉にすれば良いじゃない。そうした方がまだ『伝わる』よ」
 「素直な言葉……、ですか?」
 「皆大好きだよ! 一生離れたくないよ! 『だってみんな家族だもん!』って」
 「……貴女がそれを言いますか」


 プラント内部でさとりは泥の様な眠りに着いていた。たび重なる負傷。能力の酷使。それらは人間とさほど耐久度の変わらぬこの身には余りにも過酷な環境だった。
 まどろみの中で懐かしい人影が陽炎のように揺らめいて消える。白い視界が黒く染まり直し、奇妙な現実感が現れる。ごおんごおんと、排気熱がダクトを揺らす音で目が覚めたのはそんな時だ。油と錆の臭いが充満するボイラー室。その金網の一つにもたれかかったままさとりは眠ってしまっていた。周囲に生ある物の気配は無い。ただ亡者のみがこの場を満たしている。
 「少し……、眠り過ぎてしまったかしらね」
 もう何日も横になって眠っていない。柔らかなベッドで眠る体はあちこちが強張ってしまっている。是非曲直庁に拾われる前は野宿が当たり前だったのだ、この程度は直ぐになれる。そう考えていた自分の見通しの甘さにさとりは少しだけ自分が嫌になる。だが、そんな余計な事を考えている暇は無い。
 為すべき事の為に。さとりは再び霊力プラントの奥部へと足を進めた。疲労によって幾分か注意力が薄れていたのだろう。その背後にくすくすと小さな笑い声が追っていた事にさとりは気がつかない。
 膨大な熱の流れを感じる。それは機械化されたプラントとその奥の心臓部を繋ぐ洞窟の入り口。大地が裂け、開いた隙間から覗くのは途方も無い深さの空洞。底に覗くマントルが飴玉に見える竪穴の壁にはらせん状の階段が伸びていた。
 かつり、かつりとインフラレッドが照らす暗闇をさとりは歩く。壁を切りだして作られた足場は長い年月の内に風化し崩落している箇所も珍しく無い。飛ぶ事は出来ない。これ程濃密な霊力の渦の中で妖力翼を広げれば容易く巻きとられ、底のマグマへと引きずり込まれるだろう。若干の緊張を感じる。音の反響と風の流れだけを頼りにさとりは奥部へと足を運んだ。
 「何故これ程に莫大な霊力がこの地下に埋まっているのか。このプラントの職員は考えた事も無かったのでしょうね」
 竪穴は降りる程に幅が広がるフラスコ状の構造をしている。壁を抉る様に作られた歩道は、緩やかなカーブを描いてさとりをその奥へと誘った。増大を続ける熱線に辟易しながらも全貌を現し始めたそれにさとりは眼を向ける。
 「世界が歪む程の力の残り粕。大昔の奇跡の残照。恐らくは、この極東の地が世界に生まれ出でた時の余り物」
 崖下に広がる雲海。見上げる程の滝。自らの矮小さを感じる程の大規模な自然を前にした時の感覚に近いだろう。
 背筋の寒さとも違う。足が竦むとも違う。下腹に響く様なその感覚。目前に広がるのは大きさを形容するのが馬鹿馬鹿しい程の霊力の塊。その存在を目にした時、さとりは暫し言葉を止めた。
 「或いは創造主の忘れ物」
 最期の一段を降り切り、背後の人物に道を譲る。そこは竪穴の最深部。マグマの覗く地底湖の脇に果て無く広がる空洞が続いている。正確にそれは空洞などでは無い。地核に近いこの地に働くのは地上の数倍の圧力。長い年月の内に押し固められた霊力の塊がそこには満ちていた。薄暗い大地の底。ついに映姫とさとりは対峙する。
 「……こんな物が最初から無ければ彼女達は静かに暮らせていた。こんな物が無ければあの子達は、『駒』にされなくて済んだ」
 「ならば壊せば元に戻るとでも思いましたか? 元を無くせば無かった事になるとでも思いましたか?」
 「少なくとも、貴女達がこの地下世界に介入する理由を失わせる事ができる。私の居なくなった後の世界にあの子達が平穏な暮らしを営めるように。私達の勝手に巻きこんでしまった責任を果たす為に。私はこれを消滅させなければならない。それが私の『為すべき事』」
 気がつけばあの日以来。彼女と決別した日以来こうして互いに向き合うのは初めての事だ。その前はこうして話をする事は当たり前だった。傲慢で理不尽な道理ばかりを押しつけられる是非曲直庁の業務で磨り減る精神を癒せる数少ない相手だった。隠し事があったとは言え本音を話す事の出来る得難い友人。その時はもっと近いと思っていた。同じ人物だとは思えない。目の前に居るのに手が届く気がしない。腕を伸ばせば届くのにそれが出来る気がしない。
 「さとり、どうしてそこまで彼岸の統治を拒むの? 貴女が事態を混乱させなければより少ない犠牲で力が統治する時代を終わらせられた。法の光の元、この地下世界は更なる発展を遂げる事が出来た。その世界が不満であったと言うの?」
 「幸福の定義なんて時代にも人によっても常に移り変わる。確かに是非曲直庁の支配を受け入れれば全ては平穏に終わったのかもしれない。でもその先に私達の幸福は無い。お燐やお空の欠けた私達にとって、それは幸福とは鳴り得ない」
 洞窟の中を駆け抜ける熱風が映姫の右髪を揺らす。露わになった首筋には未だ青い手形の痣がはっきりと残っていた。それは彼女の罪の証。閻魔と言うこの世で最も罪深い業務に従事する彼女が背負う罪のほんの一端が具現化した物。傷跡が酷く痛い。首筋から伝わる締め付けられるような痛みは胸の奥にも波及した。
 「……さとり。アーカーシャの記録を書き換えるのには大変な労力がいる。仕方が無かったのです。私に出来る事はせめてこの地下の被害を最小に留める事だけだった」
 「その為なら何をしても許されると? その為ならば洗脳をしても許されると? 空を弄んでも構わないとでも思っているの?」
 「……私の把握する限り彼岸の介入は、八咫烏の提供と技術者の派遣。そして火焔猫への操霊術の指導のみです。私は最小の被害で動乱を乗り切る為に動いている。決して最小の被害に押さえる為に動乱を起こしたりはしていない」
 その言葉は映姫にしては珍しく歯切れの悪い物だった。閻魔は嘘をつかない。故にこの言葉は嘘では無い。しかし、だからと言って閻魔が真実以外を話さないと言う証拠にはなりはしない。彼女は知っていた。その事実に辿りつく事が出来ると言う事実を知りながら目を背けていた。故にこれは彼女の心の脆弱性だった。
 「私は自らの罪深さを知っています。我らは正義と言う最大の罪を自ら被る為の機関なのだから当然の事。だとしても、貴女の望みは認める訳にはいかない。貴女と言う少数の意志で ”地下全体を焼き尽くす事” 等断じて認められない」
 「元よりこの地下世界に妖獣達以外の生命は存在しなかった。そうなったとしても地下世界があるべき姿に戻る。ただそれだけの事よ」
 さとりの気配が変わった事を感じる。向けられる視線。彼女が改めて映姫を排除すべき障害と認識し明確な殺意を持った事を感じる。映姫は静かに腰に下げた悔悟の棒をさとりへと突き付けた。
 「……さとり。あなたは此処で私に殺されなさい。止められないならせめて死後の安息を与えるのが私の役割」
 さとりが両の眼を閉じたのとは対照的に胸の瞳は一際大きく見開かれる。それはさとり妖怪の本質に最も近い力の発露。圧倒的な妖力を伴い胸の瞳が映姫を捕えた。心の眼が見るのは閻魔と言う存在の本質。その構造、在り方、物質的、霊的、精神的、全ての要素を解析し結論を作り出す。
 全てが終わった時、さとりの手には ”一本の木の板” が握られていた。


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 爆炎の中心に続けざまに火球を落す。それは炎などと言う生易しい物では無い。それ自体が単独で核融合を行い万に迫る温度を叩きだす超小型融合炉。たった一つで旧都を壊滅に追い込み得るほどの熱源を闇雲に生みだしてはその爆心地へと投げつけた。十個目が着弾した所でその火球のドームが真っ二つに裂ける。不死鳥の如く炎の卵から生まれ出でるのは一角の鬼。跳躍した鬼は迎撃の火球をまたもや叩き割り空へと迫った。
 「……良い熱だ。あの焦熱地獄と同じだ。物理的にだけでは無い。精神も霊魂も全てを平等に焼き尽くす熱。……嬉しいよ。これ程の強敵と出会えたのは何年振りだろう」
 「『燃焼』なんてまどろっこしい物じゃない。どうして酸素と逐一化合させる必要がある。炭素が残ってしまうじゃないか。私のは『分解』だ。消えろ、その腕と同じように。この世界からクォークもレプトンも残さずに。ただのエネルギー体となって消え失せろ」
 「喜んで。ただしその前に私を超えて見せるんだ。でないと私は塵の一つとなってもお前を殺しにかからねばならぬぞ」
 鬼の剛腕で振るわれる太刀は意外な程に美しい剣線を描いて空へと迫る。遠心力、腕力、重力。全てを無駄なく切断のためのエネルギーへと変換し刃へと集めた斬撃に悠長な対応はできない。制御棒の近接モードへの変更を破棄。射撃モードのまま真鍮の砲身で斬撃をいなす。しかし、鬼に対して近接戦闘を挑むのは無謀。インパクトと同時。空中に散布した霊力により小規模なサーモバリックを起こし、強制的に鬼と距離を取った。
 代償として空の体は地面と言う名の浅いマントルの海に叩きつけられる。溶岩の飛沫を散らしながら空は地面に転がった。少し離れた位置で勇儀も地面に降り立つ。手元には根元から折れた刀の柄が握られていた。
 「ふふ……、鬼の鍛えた刀がたったの一撃でへし折られるんだ。面白いなぁ。つくづく面白い」
 空中で煌めいた刀身が紅い地面に突き刺さる。勇儀はそれを一瞥すると折れた刀を鞘に戻し、背負った無骨な鞘から新たな野太刀を引き抜く。先ほどの刀よりも二回りも大きなそれは幅広で、だんびらと呼ばれる物に近い。とても手入れが行き届いているとは言えず刃毀れが散見される。そんな状態では切れ味など到底望めない。ただ己の重量と力で撲殺する為の金棒が鬼の手に握られた。
 「以外だね……。貴女は武器も使えるんだ。己の拳、それと爪と牙。それ以外に興味は無いと思っていた」
 「これまで使うに値する好敵手が居なかっただけさ。必要に駆られれば何でも使う。私と言う力を最大限に引き出してくれる物ならね」
 普段の勇儀は常に手加減をする事で戦闘を楽しんでいる。弾幕ごっこと言うルールを貸し、片手に星熊盃を持ち、手錠を付けて戦いに挑む。今の勇儀は星熊盃を持って居ない。何時もの運動着から和装に着替え隻腕の腰に二本、背中に更に二本の計四本もの太刀をひっさげて空の前に立っていた。勇儀がだんびらを正眼に構える。その鬼の異変に気が付いたのはまさにその直後であった。
 「面白い刀。妖刀か何か?」
 「うんにゃ、それも混じってるが色々さ。刀匠も違うし数打ちも混ざっている。ただ私の旧友達が使っていた物を肩身代わりに譲り受けた物さ」
 「成程。つまりは天狗と鬼への畏怖の念が封じられた刀ってわけだ」
 「殆どは正解。正しくは人への畏怖もだ。地上がまだ妖怪と神に支配されていた頃。神話の時代から妖怪の山が人間達と繰り広げた無数の闘争の中、壮絶な戦闘の末に人と神を恨みながら死んで行った友がその手に握っていた刀達だ。一本が内包する畏怖と怨念は小規模な戦乱で得られる全てにも匹敵する。折れば折る程力を増し、切れ味を増し、切れる物が増える。人を切る為の刃が妖怪を切り裂く。妖怪を切る刃が神を切り裂く。それでも構わないなら掛かって来い」
 「妖刀でも呪物でも使える物は何でも使えば良い。そんな尊大な心毎全て折ってやれば関係無い」
 警戒域。摂氏二百五十万度。炉心内部は未だ正常稼働。砲身の内部に僅かな損傷を発見。許容範囲内と判断し加圧を続行。一部の熱を推進用に変換し純粋な熱エネルギーの塊を一気に射出した。
 ――爆符『メガフレア』
 射出と同時、砲身側面排熱パネルを全開放。砲身を急速冷却。迫る次撃に対処すべく、砲身の形状を近接戦闘仕様にシェイプシフト。急がねばならない。先ほど射出した二百万度超の火球は ”既に真っ二つに割られている” 。
 両断された火球の間を縫うようにすり抜けて鬼が強襲した。熱により形成したブレードはその衝撃を受けて次々と崩壊して行く。それは予想された事。受ける一方なのだから鬼に壊されるのは自明の理だ。ならば壊れ切る前に相手にも痛手を負わせれば良い。空は真鍮の翼の隙間からジェットを噴射する。鍔迫り合いのまま刀にその運動エネルギーを上乗せした。
 「鬼と力比べか。覚悟はあるんだろうな」
 「当然だ、太陽が浮かぶのは『空』。だから此処は私のホームグラウンドだ。例え怪力乱心の鬼にだって負けてやれない」
 「そうだ私は怪力乱心だ、全くもって正しい。それを知って挑むお前の無謀に敬意を表するぞ。見せてやろう。私の名前の由来を」
 瞬間勇儀の体が何倍にも膨れ上がる。神社で出会った事のある様なあの酔っ払いの鬼とは違う。眼が異常を訴えていないのにも関わらず脳が彼女の巨大化を主張している。膨張した気配が浸食するのは熱エネルギーで形成された刀身。驚くべき事に熱エネルギーが如何なる術式も機関も介さずに運動エネルギーへと変えられている。己の発した熱を運動エネルギーとして取り込み、更に力を増した刀が制御棒を押し返し始める。
 ――鬼符『怪力乱神』



衰退挿絵1


 その鬼の振り下ろしは大気を断裂した。刀身の崩壊と共に地面に叩きつけられた燐は上空で発生した爆発を眼にする。真空に集まった熱エネルギーの残滓が圧縮の末行き場を失ったのだろう。追撃の衝撃波が体を蝕む。心臓部のギアが三個程吹き飛んだ。熱供給用のパイプが二か所で破裂している。だから空は安心した。未だ炉心は無傷。制御棒の右腕は健在。戦闘の続行に何の問題も無い。空を串刺しにしようと迫るだんびらを空は身を捻って辛うじて回避。使用可能な回路の検索と次の攻撃の為の演算をバックグラウンドで行いながら空へ地面に突き刺さるだんびらの刀身を見た。
 「流石に一発が限度か。金熊の愛用品だったんだが」
 「当たり前だ、そんな力に耐える金属を私は金属等と認めない」
 「鬼の気に当てられて半ば妖怪化した刀身だ。もしやとも思ったがそう上手くは行かなかったな。次は河童の剣を使おうか。ところで――」
 それが起こったのは水の様に透き通った刀身をもつ細身の刀を腰から引き抜いた時だ。二人の背負うプラントから地響きが起こる。思わず振り返った空が眼にしたのは排熱用パイプの一つが音を立てて崩れ去る光景だった。
 「――あれは、お前の仕事か?」
 「しまった……、建築物にも影響が……?」
 「やはり鉄を殺していたのか。操ったのは水素か? 念の為結界を張っていて良かった。戦わずして折れてしまっては刀も浮かばれんからな。――それと、その結界は私の生命とリンクさせている。私を遠ざけるか斃さぬ限り中に入れるとは思わない事だ」
 勇儀の背後で天蓋を割ろうかと言う程の長大な熱の刀身がプラントに向けて振り下ろされる。白色の刀身はその結界に触れその表層を消し飛ばしていく。だがそれだけだ。先端が内部に到達する事も叶わずそれは空中に雲散霧消する。空の刀はただ周囲の大気を温めたに過ぎなかった。
 「そっか、じゃあ早く決着を付けないといけないよね?」
 「否定はしない」
 結界の前で座り込み俯く空は背後に迫る鬼の気配を睨みつける。鬼はびりびりと叩きつけられるその威圧を物ともせずに進む。刹那の後。鬼の視界から瓦落苦多鴉の姿が消失した。それは鬼の動体視力をもってしもて捉えきれぬ急上昇。上空から勇儀を見下ろす空は大気中を爆炎で制圧した。天蓋が火球で覆われる。膨大な熱が地表を溶かす。空の周囲を渦巻く火炎の海は次第に十の塊に収束し空を中心として公転を開始した。
 それは以前に見せたただ地面に向けて落ちるしかない無能な火球とは根本的に異なる。ただ莫大な熱を持って相手を焼く意志の無い暴力とは違う。十の火球その全てが明確な殺意を持って自ら熱を生みだし勇儀へと新たな火球を射出する。何重もの公転軌道を持つ天体は太陽に隷属し大地を侵略せんと力を振るい始めた。
 ――焔星『十凶星』
 「サーバントタイプを十個同時召喚か。器用な事をする。それが真なる神の力の一端か」
 「私……、は……、さとり……、様を……、たすけ……、る!」
 膨大な負荷が空の脳内に降りかかる。十に分裂させた炉心を全て制御しなけらばならないのだ。その負担が軽い筈も無い。焼き切れるべきニューロンが残っていたのなら全て灰と変わっていただろう。消えるべき記憶域がまだあったのなら全て塗りつぶされていただろう。今の空はただの瓦落苦多だ。神としての肉体に物理的な演算の制限は無い。精神への負荷を許容したからこそ、空にこの演算は可能となった。
 「残念だよ。お前が神と至れば、悟るかとも思っていたんだが……」
 天体の軌道が次第に同調し始める。ゆっくりと縦に九十度ほどずれて重なって行く二つの軌道はついに完全な十字を形成した。空と言う太陽を中心とした偉大なる十字架がそれぞに発した熱を主人へと受け渡す。
 危険域。摂氏一億度。炉心未だ正常動作中。紫を超え透明へと近づくプラズマが空の周囲に集う。エネルギーの収束を確認、十の凶星を砲身へと変更し紫色のプラズマを勇儀へ向けて装填した。それは天体による大砲だ。星系を消し飛ばすほどの力を持った大砲が勇儀へと狙いを付けていた。
 「……たかが妖獣が。たかが神を取り込んだだけで鬼に勝てると思ったのか? 戦神ですらない、たかが ”太陽” の力で鬼に届くとどうして思った?」
 勇儀は深く大地に沈み込む。地の力。霊脈の力。大気の力。畏怖の力。全てを自らの腕にのみ集め刀を振るう。しかしそれは力任せ等では無い。優雅とすら形容できるだろう。その極端な先鋭化はただでさえ細身の刀剣の形を歪めより細く長く引き伸ばした。鋼鉄のワイヤーの如き水の刃は禍々しき大砲を一閃。爆炎と共に全ての天体が自壊を開始した。
 「う……、そ……?!」
 空の顔が驚愕に歪む。胴体が深々と切り裂かれ、ギアやクランクがばらばらと砕け散って行く。体内に残っていたなけなしの血液が宙に舞う。何が起こったのかも理解しない内に空は地面に突き落とされ、そして。
 「これが最期の一本だ。受け取れ」
 胸の赤い瞳に真っ黒い刀身が突き立てられた。同時に空中から降って来た青い刀身が地面に突き刺さる。鈴の様な音を立てて大地を切り裂いた刀身は淡く輝いていた。
 「――■▲○▼×◆※!!」
 「阿武利山の大天狗の刀だ。いけすかない奴だが呪術の腕だけは確かだった。萃香の奴と五分五分の勝負に持ち込める奴はそうそう居ない。だからお前は嘆く事は無い。鬼をも縛る力がお前を縫い付けるのだから」
 地面に突き刺さる四つの刀身が共鳴し合う様に煌めきを放つ。その身に流れ込む異変に声にならぬ声が地獄の空洞へ木霊する。空の叫びをあざ笑う様に周囲の刀の共鳴は加速して行った。
 「天を支配するのは一なる恒星。恒星の灯りが世界を満たし、世界を灯りで支配する。だがそれがどうした。鬼はお前の支配する空を天蓋ごと割るぞ。お前は支配する者でも無ければ、鬼を狩る者でも無い。ただの狩られる者だ。力とは私で、私とは力だ」
 黒い刀身に呪いの言葉が浮かび上がる。言葉は輪となり連なり合い鎖へと変貌を遂げる。日の元の国の妖怪。その頂点に近い部分に立つ鬼と天狗に虐げられてきた数千年分の怨念が空へと巻き付く。体を縛る枷として概念が鋼鉄へと姿を変える。脚に腕に首に翼に。一切の動きを許さぬようにそのと枷は空をその場に縫い付けた。
 ――枷符『咎人の外さぬ枷』
 「言っておくが、彼岸の閻魔は更に強いぞ。私が世界を構成する要素の一つ力の化身だとするなら、奴は世界その物だ。七界を分ける境界を管理し、全てを平等に平らげる為の力を持った者。この世界の法則を決めるのがあの閻魔だ。奴を打倒する事はつまり、世界と言うシステムを敵に回す事に他ならない。お前の力では理を多少歪める事はできても覆す事は出来ない。閻魔を相手取るのにお前の力はあまりにちんけだ」
 「だから……、それが……、どうした! 願いも叶えずして何が神か……、この力を持った私に……、何が出来るかだ」
 「さとりの為……、か。やはりお前は何処まで行ってもさとりと言う存在を中心として動く惑星なのだな……」
 空を縛りつける鎖の一つが軋みを上げる。彼女の瞳には勇儀の姿等映っていない。彼女が見るのはその背後プラントの内部。最深部へと向かうさとりの姿。ただ彼女の元へ向かうと言う意志が鬼をも縛る鎖の一つに亀裂を入れた。勇儀は感嘆する。神の心力に。空と言う神の元となった素体の意志に胸に湧き上がる敬意を押さえずに居られなかった。それ故に勇儀は再認識する。この ”意志” の暴走を止めねばならないと。
 「さとり妖怪の強さは何処にあると思う? 卓越した妖術か、違う。発達した肉体か、違う。途方も無い精神力だ。無数の怨嗟の声を休むことなく生ある限り聞き続け、それでも正気を保ち続ける。精神に依存する妖怪にとってそれがどれだけ驚異的な事か考えた事は無かったか?」
 (知っていた。だから私は彼女の盾になろうと力を求めた。だからお燐は怨霊を鎮める術を求めた)
 燃える紅が勇儀を射抜く。空は完全に折れた脚のシャフトを熱で無理やりに繋げる。流れ出る血液にも構わず上体を縫い付ける鎖を引き千切った。
 「閻魔の唯一の弱点は何だと思う? この世の事割の体現者。システムの最も根幹に近い部分に位置するアレを唯一殺し得るのは何だと思う? 答えは罪だ。あらゆる罪を裁く為。あらゆる苦痛に耐えられるように作られた体も己の罪による損害は抵抗できない」
 (知っている。神となったその瞬間にシステム要件は自然と理解した)
 思考は言葉に変じない。声を出す余力すら惜しい。決して解けぬ筈の拘束を破壊し空は立ち上がる。しかし、破壊した呪言の鎖は再び形を無し立ったままに空を再び拘束する。
 「閻魔を殺し切れるとしたら、それは同じ閻魔か、もしくはさとり妖怪だけだ。相手の心象世界を現実世界にオーバーライトして戦う事のできるさとり妖怪以外に存在しない」
 (知っている。知っている。知っている。知っている。ずっと前から分かっていた)
 声は爆音にかき消される。空と勇儀の背後プラントから莫大な光が立ち昇る。光の奔流は見る見るうちにプラント全体を呑みこみ、結界の中を埋め尽くした。しかし、それも束の間。収束を始めた光は鉄屑と化した上物を残し再び竪穴の中に戻り始める。
 「いい加減に気が付け、お前の忠誠心はさとりを追い立てる。さとりの事を真に思うのならさとりをプラント内部へ入れてはいけなかった。あいつは友人を斃し、自らも消えるつもりだ」
 「知っていたよ! そんな事は! どれだけ長い付き合いだと思っている! 顔を見ればそれ位分かるっ!」
 空の絶叫が再び地獄に木霊した。鬼の枷を完全に破壊したのは神の激情。制御棒も排熱パイプもターゲットスコープもまともに機能しない。それでも構わない、むしろ好都合。使えなくなった回路は全て切り捨てて、炉心に全てのエネルギーを回し強制的に暴走状態に移行させる。危険域。摂氏八千万度。あらゆる物を溶融する熱を持って空はついに枷を全て弾き飛ばした。
 「だったらどうして正してやらない! お前の『家族』だろうが!!」
 「お前に何が分かる! 助けられる事を強いられ。助けさせて貰う事すら許され無かった『この子』の気持ちの、何が分かる!」
 拘束から解き放たれた空を再び勇儀は必殺の奥義で仕留める。理解する必要も無い。彼我の距離を縮める必要も無い。一歩目も二歩目も。熱も光も怒りも全てを破壊に変えて唯単に打ち抜く。己の概念と魂を全て練り込み前も後も考えない全力の拳が空を迎え撃った。
 ――四天王奥義『三歩必殺』
 「……助ける内容くらい自分で考えやがれ、馬鹿鴉」
 勇儀の背後に残されたのは真の瓦落苦多と成り果てた鴉の姿。胴を半分吹き飛ばされ、最早立つ事もままならない。体を構成するギアが、リベットが、パイプが、シリンダーが、次々と崩落を始める。継ぎ接ぎだらけの板金が剥がれ鉄屑の山に姿を変えて行く。
 「が……、ぅ……。ぁ……」
 脳内に鳴り響く猛烈なアラート音。焼き付いた回路の向こうに埋もれて行く空の意識を繋ぎとめたのはやはり主への思いに他ならなかった。素体となった鴉が、地獄鴉の少女が抱いたさとりへの思いが。さとりの切なる願いが、鉄屑と成り果てたその体の結合を辛うじて保つ。全ての力を持って指先を一つ動かす。それが精いっぱい。だがそれで十分過ぎる。準備は既に整っている。たったそれだけの僅かな動作でも今の空には十分過ぎるほどの意味を持つ。鬼を超える最期の一手に手が届く。
 「やっ……、と……、届い……、た……。よ……、うやく……、貴女……、の体……、に……、 “触れ……、た”」
 勇儀の腕に胸に脚に腹に七つの光が灯る。それは彼女の腕を消し飛ばした空の奥の手。体中に付着したマイクロブラックホールが無間の空間への収束を開始した。さらさら、さらさらと体が崩れる音がする。鬼の空が緩やかに崩壊へ向かい始めた。
 「……参ったね。同じ失敗を繰り返すなんて」


 ――七星『セプテントリオン』


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 正直な所燐は手の内の動かぬ証拠を持ってしても心の中の何処かで疑問を持っていた。もしかしたらこれは彼ら以外の裏役が勝手にやった事なのかもしれない。今だってあの公正名大な閻魔がそのような利己的な理由を根底に持っているとは信じられない。あの優しい小町がそのような邪な理由の為に閻魔を支え自分たちに刃を突き付ける等考えられない。だが、恐らくそれは事実なのだ。だって、今。 ”自分の眼の前を塞いでいる” のは見慣れた赤髪で鎌を担いだトラッドな死神なんだから。
 「本当に……、残念だよ……」
 「何でだよ……。何でなの?! 小町姉さん!」
 そんな冷たい瞳をした小町を燐はこれまで見た事が無い。倉庫の入り口。燐の逃走経路を塞ぐように立ちはだかった小町は波打った刃をぎらつかせながら感情の無い瞳を燐に向けている。
 「貴女は私を応援してくれた。戦争を終わらせてくれって言ったじゃないですか! 信じていたのに。貴女は善意で私に稽古を付けてくれていると思っていた。さとり様の為にこの力をあたいに教えてくれていると思っていた。あれは、私を生贄にする為のだったんですか? あたいは信じていました……、なのに、どうして、どうして、貴女がここに居るんですか」
 「お燐ちゃん。あんたを行かせたのは、さとりの足止めになるやもと思ったからだ。でも、こっちに行きついてしまうのは……。本当に残念だよ。組織に入るって事はね。自分だけの意志では動けなくなるって事なんだよ。お前にも分かるだろう?」
 「分かんないよっ! 嘘だと言ってよ。小町姉さんは是非曲直庁の裏役を追ってここに来たんだよね! この不正を暴きに来たんだよね!」
 願望に近い言葉だった。状況を考えれば小町がその裏役である事は明白だ。彼女が何の為にこの場に現れ、何の為に自分に語りかけているのかはすでに分かっている。だとしても砂粒程の希望にでもすがらずには居られなかった。現実は燐の希望を残酷に、毅然とそして実にあっさりと打ち砕く。「いいや違う。私が全ての犯人だ」と。
 「言い訳はしない。この旧都のテラフォーミングを発端にした一連の事変の真犯人は紛れもなく私だ。――ああ、良い。言いたい事は分かっている。だが、この案件はどれだけ言葉を尽くそうとも意味の無い事だ。なぜなら、お燐ちゃんと私の価値観が根底から違うのだからね。万の言葉よりも一の武力で。真相を知りたいと切に願うなら、あたいを斃せ、火焔猫燐」
 「小町姉さん……」
 頭が理解しても感情が追い付いていない。しかし進み始めた現実は後退を許さない。首元に感じる鉄の冷たさは彼女を無理やりに現実へと追い立てた。小町によって首に添えられた鎌は僅かな力で燐の頭部と胴体と分けるだろう。幾らシンボルとしての鎌だと言っても肉と骨を絶てるだけの切れ味は保っている。逃げなければいけないと脳が告げているのにも関わらず燐はその場から動く事が出来なかった。
 「……嫌だなぁ。そんなに悲しい眼をされたらやり辛いじゃないか」
 おどけた様な口調とは対照的にその瞳と表情にはどんな感情も浮かんでいない。ぞっとする程無感情な彼女の優しさに燐は思わず息を呑んだ。
 「お燐ちゃん。あんたがとれる選択肢は二つだ。一つが今すぐそれを捨てて大人しく地霊殿に戻る事。当然以降何があっても一切手を出してはならない。二つ目はあたいを斃し、その証拠をえのちびっこ閻魔様に届ける事。正義感の強い閻魔様の事さ。きっとこんな不正を耐える事は出来ないだろう」
 「あたい……、はこれをさとり様と映姫様の所……、に」
 「ならば話が早い。殺し合おう。お燐ちゃん。あたいには ”事情” があってそれを閻魔様に見せる事も、公にする事も許されない。だから、それが公にされる時はあたいが死ぬ時だ」
 「でもっ……。あたいは……っ!」
 執拗に食い下がる猫の態度に対して小町は明らかに苛立ちを感じている。彼女の被る無感情と言う仮面はその下にある物を覆い隠す為の物だ。包むのは舞台に上がる事を望まなかった燐と言う役者に対する怒りだ。首に掛かった鎌が下げられる。それを持つ小町の手は僅かに震えていた。
 「子供は帰りな。あたいは本気だ。必要ならお燐ちゃんの首を刎ねる事を躊躇わない。だけど、子供を殺すのは趣味じゃないんだ。せめて覚悟を持ってあたいに立ち向かってくれ。そうでなければ帰れ」
 「……帰らない。あたいは、あの馬鹿達を殴ってやるまで、帰れない……」
 「その割には気が引けているね。はぁ、やり辛い……。なぁ、少しだけ話をしようか。昔の話だよ。あんた達にとっては恐らく始まりの話さ」
 唐突に彼女は語りだす。彼女の意図を燐は掴みきれない。しかし、一時的とはいえ訪れた現実からの逃避は燐に奇妙な安心感とそれを上回る不定形の感情を生みだした。
 「この地下の成立についての話だ。古明地さとりはこの地下に足を踏み入れ、そして間もなく『アマテラス計画』を開始した。しかし、それは決して平坦な道のりでは無かった。数多くの異変があんた達には降りかかり、乗り越え、そして今に至っている。――おそらくあんた達にとって最初の異変は焦熱地獄の温度異常だったんじゃないのかな?」
 「……確かにそうだけど、一体何の関係が」
 燐の問いには答えない。小町は倉庫の壁に掛かった数年前のカレンダーを眺めながら言葉を続ける。
 「そこから事件は加速した筈だ。発展後は怨霊が ”現れる筈も無い所” に出現を始め収まる事は無かった。『アマテラス計画』が是非曲直庁の上層部に報告されさとり妖怪が査問会にかけられたりもしたね。そして、八咫烏の二度に渡る暴走。後は怨霊の不正流入もあの閻魔様は気が付いていたね。そして最期、お燐ちゃんの握っている ”それ” によって、撃鉄は降りた。旧都の指導者は失墜し私達は旧地獄に侵攻する口実が出来上がった訳だね」
 「それらを全部小町姉さんがやったって言うの? 正直……、信じられないよ」
 「世界と言うのはね。全てが好き勝手に動いているように見えて全てが密接な相互作用によって結ばれている。己の行動とそれが引き越す演算が可能なユニットがあれば、小さなアクションで大きな結果を生む事ができる。私のしたのはどれも些細な事ばかりさ。例えば ”霊魂を地下世界に横流し” したりね」
 「小町姉さん、あんたのやった事って……」
 部屋全体が僅かに傾いて見える。それは普段なら錯覚として気にも留めない僅かな変化。しかし、部屋全体から響き渡る異音はそれが現実である事を肯定していた。
 「ふふ、分かってきたみたいだね。知っているかい? 怨霊って凄く良い燃料になるんだよ。怨念は良く燃え上がるからね」
 「貴女がやったんですか。あのお空を倒れさせた最初の異変は、貴女の仕業だったんですか」
 「でも助かっただろう? 結果的に排熱システムのヒントになった訳だ。あれがなければ間欠泉を使うなんて発想が湧いてきたかい?」
 「あたい達は……、ずっと、自分の脚で歩いていると思っていたんだ。どんな苦労も、自分の手で乗り越えたと――」
 「その認識は正しいよ。視点によって現実の解釈は幾通りも存在し得る。あんた達は間違いなく自分の脚で歩いていた。ただ、その道を作っていたのがあたい達だったと言うだけでね。おかしいとは思わなかったのか? こんな地下にどうして都合よく技術者が居る。どうして都合よく日照機なんて設計図が残っている。どうして都合良く『神の力が暴走』したりする」
 異音は留まる事を知らない。強まる一方のそれは次第に建物全体に波及した。遠方の廊下で天井が崩れ落ちた音がする。闘争を告げる筈の脳が怒りに満たされていなければ燐は即座に逃げ出しただろう。露悪的な笑みを浮かべた小町が燐の脚をこの部屋の中に縫い付けていた。
 「――ッ?!」
 「ははっ、簡単な仕事だったよ。神なんて案外脆い物さ。上位権限でトラフィックを与えてやれば容易にオーバーフローする。やろうと思えば何時だってあの神様を暴走させられたよ!」
 「……貴女は最低だ。軽蔑する。もう……、貴女を師とは思わない」
 「それで良い! 魂を彼岸に送る死神と魂を勝手に盗む火焔猫。あたい達にとっちゃあんたらなんて害獣に過ぎない。これがあるべき形だ。さぁ、死合おう。あんたの願いを叶えたいなら、あたいを殺せ!」
 気が付いた時には燐は小町に躍りかかっていた。その攻撃は燐の学んだ技術による物では無い。ただ己の獣としての本能に従い、怒りのままに振り下ろされた白刃の爪である。火花による閃光、そして数合撃ち合った後燐は後方へ飛び四肢で衝撃を殺す。人間形態時の爪は人のそれとは比べ物にならぬとは言えそれ程頑丈では無い。力の全てを注ぎ込んだ衝撃に耐えきれず十の内三の爪は根元から折れてしまった。だが指先から滴る血液など大した事では無い。唯一の出口を塞ぐ死神を突破する為、間髪を入れず燐は飛びかかった。
 迎撃しようと待ちかまえる小町の目前で燐の姿は消える。刹那の後に燐が現れたのは小町の側面。上空に、脚元に、側面に。空間も含め予想が困難な動きは小町を翻弄した。それは火焔猫としてのしなやかな体が可能にする能力。視覚の認識を超える速度で体をずらし消えたように見せかける。死神から死体を掠める為の火焔猫の力の一つ。
 ――猫符『怨霊猫乱歩』
 ――薄命『余命幾許も無し』
 「ぁ……、か……、は……」
 腹から突き出た鎌の先端を驚愕の瞳で見つめ燐は口から血を吐き出す。逃げた筈だった。小町の視界の外に移動した筈の体は待ちうける様に現れた鎌の先端に自ら吸い込まれてしまった。鎌を介して傷口から妖力が吸い取られる。力が抜けきる前に燐は力任せに鎌に手を掛けるとそれを引き抜いた。
 「それが、死神に対抗する力なら、これが死体泥棒に対抗する私の力だ。知らない訳は無いだろう?」
 「知ってたよ……。相変わらず……、出鱈目……、だ」
 根こそぎ奪われた妖力は体を酷く重くする。だが、不幸中の幸いか同時に頭に昇っていた血が抜け冷静な思考が燐に戻り始めていた。初めから分かっていた事だ。近接格闘で小町に勝つのは不可能に近い。突き詰めれば間合いの制圧戦となる近接戦を間合いの概念が無い小町に挑んだ所で戦闘が成立しない。己の能力は封じられたにも等しい。ならば技術ではどうか。だが、それは当に眼の前の打倒すべき障害から教わった物だ。操霊術では小町に一日の長がある。
 「……忘れてたよ。あたいとした事が。目的を忘れちゃいけない。良く言われた筈なのにね」
 燐が狙うのは大きな亀裂の走る倉庫の壁の一つ。塔全体が傾きつつある今だからこそ生まれた新たな逃走経路。後ろ手に今練る事ができるありったけの妖力を集め、力任せにコンクリートの壁にぶつける。噴煙に紛れ燐は小町と向き合ったまま外へと飛んだ。
 「別にあんたに勝つ必要は無いんだ、。御免だけど、逃げ切らせて貰うよ」
 「……良い度胸だ。死神から逃げ切れるのは仙人か天人だけだ。逃げるだけ逃げて見ろ。その果てにお前は身の程を知るだろう」
 狭い倉庫から死神の姿が消える。直後空っぽの倉庫が天井に押し潰される。自重を支えきれなくなったラジオ塔が急速に崩壊を始めていた。都市の悲鳴が暗い地下に満ちて行く。


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 四季映姫は生まれて初めて痛みの意味を知った。痛みや苦痛その物には慣れ親しんでいる。罪人を裁けば閻魔にはそれと同等の罪が降り注ぐ。その為に日々閻魔は自らを罰する。己の下を己で抜く。溶けた鉄を呑む。爪を剥がす。身を切り刻む。肉を削ぎ落す。歯を砕く。八大地獄で行われている苦痛は閻魔も全て同等に受けている。それらの苦しみは此岸の苦しみを全て合わせた物を遥かに上回る。閻魔の肉体はその苦痛全てを纏めて耐えなければならない。その為の物理的強度を有した肉体が与えられた結果が非常識なまでの頑健さに繋がっている。
 故に映姫は、苦痛は知っていてもその苦痛が与える本来の意味を知らなかった。苦痛とは本来生命が生きる為に肉体を危険から遠ざける物だ。痛みによってその存在を忌避する事ができ、結果的に生き残る事ができる。だが閻魔はどうだ。閻魔にとって苦痛とは受け入れる物だ。苦痛を忌避する閻魔は閻魔足り得ない。映姫は苦痛から逃げなけらばならないと言う事をこれまで知らなかった。
 閻魔となる前は地蔵であり、どんな苦痛も回避する手段が無く。閻魔となった後は苦痛を受け入れる以外の選択肢が無かった。しかし、それは大きな問題では無かったのだ。閻魔の肉体は物理的な衝撃で滅びる事は有り得ない。そのように世界の枠に定められている。たった ”一つの例外” を除いて彼女の体は致命的な損傷を負う事は無い。
 「何て重さ……。貴女は普段からこんな物を背負って生きていたのね」
 「そういう仕事よ。でも、貴女も人の事言えない位重い。以前より格段に増えている」
 映姫の体が宙を舞う。鳩尾に深々と突き刺さった ”さとりの悔悟の棒” は傷つかぬ筈の映姫の体を貫き、揺るがぬ筈の体を吹き飛ばした。さとりの持つ棒には閻魔、四季映姫の名が刻まれている。如何に頑健な肉体を持ち不滅が定義されていたとしても、己自身の罪を用いた攻撃は肉体と精神を同等に削り取る。縁は人と人とを引き合わせる。縁によって罪と引き合わせられた四季映姫の肉体と精神は皮肉にもこの世で最も罪に弱い存在に成り果てた。滅亡と言う結末に向け自ら歩むかの如く、さとりの繰り出す悔悟の棒による打撃は映姫の体に吸い込まれて行った。
 「これが私の罪。これが私の罰の形。嬉しいよ、古明地さとり。貴女のお陰で私は初めて苦痛を真の意味で味わう事が出来たのだ。喜んで受け入れよう! だから、あなたも自らの罪を味わいなさい!」
 「――!?」
 突如として周囲の景色が変じて行く。暗い地下空間は、和風の民家が立ち並ぶ農村の一角へ。さとりの背後には幾人もの鍬や鋤を持った農民の姿。怯えと怒り駆られ狂気へと至った彼らの瞳は例外なくさとり妖怪へと向けられる。
 逃げようとするも体は何かに縫い付けられたように動かない。茫然と立ち尽くすさとりの胸に目がけて鋤が突き立てられる。続いて鍬が頭を割る。首に鉈が刺さる。足を釘で打たれる。臓物をスコップで抉りだされる。目を箸で突き刺される。
 少女を肉塊へと変えた所でようやく彼らは去る。考える筈の脳も魂の寄る辺も失われた筈なのに不思議と意識は連続している。不可思議な感覚に包まれたさとりは気がつけば元の地下空間に立ちずさんでいた。
 ――罪符『彷徨える大罪』
 一拍の後にさとりの耳から一筋の血液が垂れる。見る間に皮膚下に赤い班が広がって行く。茨へと変じた己の精神により貫かれた毛細血管は次々と破裂して行った。
 「おぞましい事をしてきたのですね……。あれは嘗ての貴女でしょう?」
 「妖怪が人を食べて何がおかしい。妖怪が人から退治されて何の問題がある。こんな物は罪と言うのにはあまりにちんけよ」
 「そうね。貴女に精神攻撃は無駄。だったら」
 妖怪は本来精神攻撃に弱い。畏怖と言う感情が先行して存在する彼女達は精神の変化が肉体へフィードバックしてしまう。妖獣等の一部の例外を除き避けられない現象の筈だった。精神へのダメージを、トラウマを喰って生きる彼女らにとってそれはぬるま湯にも等しい。
 「ただこの拳と罪を持ってのみ貴女を打倒して見せよう」
 「同じ事よ、四季映姫」
 故に彼女らが行き着くのは単なる殴り合いだった。片や妖怪化らすら忌み嫌われる恐るべき覚りの少女。片や彼岸の閻魔。単騎でパワーバランスを揺るがし得る二人は如何なる銃器も、如何なる部下も、如何なる術も用いずにただ悔悟の棒と拳で殴り合う。原始的ともいえるその光景。しかし、この二人にとっては身を抉り合う何よりも壮絶な闘争の手段であった。
 さとりの痩躯が洞窟の壁に叩きつけられる。頭から血を流しながらも立ち上がったさとりは映姫に組着くとその頭を何度も地面に打ち付けた。白く美しい肌が血と泥に染まって行く。七度目に鋭利な岩へ頭を突き刺そうとした時に、映姫は関節が外れる事も構わず身を捻りさとりを弾き飛ばした。片足を引きずりながら映姫がさとりの元に歩み寄る。互いに血で視界が十分に確保できていない。
 「さとり……、自分の身を犠牲にしてでも助ける。それは一見とても尊い行為に聞こえます。しかし、その実は単なる自己満足に過ぎない。自分を犠牲にして助ける。聞こえは良くてもその本質は自己満足。貴女に残された者の心は一体誰が救うのですか!」
 映姫の拳打がさとりの脇腹を砕く。さとりの蹴足が映姫の子宮を抉る。防御を捨て互いに互いを意地のままに殴りつける。意識レベルの低下が始まっている。痛覚など遠の昔に無くなった。さとりは思い切り頭を振りかぶると額を映姫の頭へと振り下ろした。ごつり、と鈍い音が頭に響く。頭蓋にヒビが入ってしまったのかもしれない。脳へと伝った強い衝撃は平衡感覚を失わせ為す術も無くその場で地面に倒れ込んだ。
 「私にあの子達が必要でも、あの子達に私は必要無い! 元よりこの世界に私は居なかった」
 しかし、それは映姫も同じ事。荒い息を吐きながら辛うじて上半身を起こした映姫は震える膝を押さえながら拙い足取りでさとりへと迫った。
 「笑わせるな覚り妖怪。貴女のペット達が貴女にどんな感情を抱いているのか、私ですら分かると言うのに覚り妖怪の貴女に分からない筈が無いだろう! 貴女の地獄鴉は貴女の為に体も魂も神に差しだした! それでも、無責任に救う等と言うつもりなのですか!」
 さとりの胸倉をつかんだ映姫が恫喝する。血に塗れた額を打ち合わせその眼を正面から見据える。何処までも済み渡った透明の瞳は、血に汚れても尚一切の輝きを失っていない。鏡面に移る自分の姿をさとりは直視する事が出来なかった。真っ黒い自己中心的な欲に塗れた自分の姿をさとりは心の中で肯定してしまった。
 「貴女の身勝手な保護欲が貴女の守るべき者達を傷つけている。貴女の罪深い意志が貴女の守るべき者達を死地に誘っている」
 「……が、……い、のよ……」
 心を抉るのは再び己の為に庇護すべき者が己の為に身を差し出したと言う事実。彼女のたった一人の肉親と同様に。命を掛けて守ろうとした者が己の為に消えて行った精神的外傷が彼女の心の壁を内部から深く抉り取る。
 「何が悪いのよ! 家族を助けたいと思って何が悪いのよ! 嫌なのよ、誰が何と言ったって。こいしに……、家族に置いて行かれる悲しみを背負うのは、もう二度と嫌なのよ!」
 「その思いがこいしを遠ざけている事に何故気がつかないのですか!」
 それは瞼に焼き付いた雨に煙る夜の記憶。冷たくなっていく手。浅い呼吸。止め処なく流れる大量の血液。一人は全身から血を流し、一人は狂ったように涙を流しながら。
 ゆっくりと閉じられていく瞳をこじ開けようとでもするかの様に狂ったように開いた瞳は、弱まる思念波をさとりの脳に刻み込んだ。
 「違う。不可能なのよ。虚ろは私の心を映し出す。私の力が彼女の虚ろに反射して、彼女の姿を覆い隠す。私が私である限り、私とこいしは出会う事は無い」
 「それは貴女が心を読もうとするからよ。心が読めないなんて当たり前の事。貴女は瞳を閉じる勇気も無ければ自分に向き合う事も出来ない。まるで子供よ。貴女は!」
 「子供である程度で家族を守れるなら私は何でもやろう。そも、私を子どもと言うが貴女はどうなの? 犠牲を減らすだの、平和を地下に齎すだの貴女は言うが、その本質はこの霊脈の強奪じゃないの!」
 さとりの拳が映姫の顎を打ち抜く。骨を伝わり、脳を揺らした衝撃に映姫は思わずたたらを踏んだ。
 「何が、アーカーシャ。何が決定事項。現実などと言う不確定要素の集合体がそんな遠方の未来を一つに定める物か。旧都勢力の蜂起、八咫烏の暴走そんな物はこの地下世界が行き着く可能性の内の一つに過ぎなかった。それらが確定したのは霊脈の回帰を選択した結果に過ぎない。違うの? 四季映姫。」
 未だ体勢を立て直せずに居る映姫目掛けて続けざまに拳を振るう。映姫はそれを防ぐ事が出来ない。彼女の罪を乗せた拳は悔悟の棒などと言う物を介す必要も無く映姫と言う存在を抉り取った。
 「全ての始まりは廃仏毀釈。あの混乱で失われた霊脈の支配権を取り返す。全てはただその為だけに事を動かした。それが貴女と言う正義の本質だ」
 「……否定しない。私はアーカーシャから選び取られた未来の執行者。だけど、その範囲の中では常に正義であろうとした。それだけは信じて欲しい」
 「抜本的な解決策があるのにそれを実行しようとしない。目先の権益に囚われて真の正義を見捨てる。それでもお前達は ”正義と言えるのか” 」
 殴りかかった映姫の拳を映姫が掴む。さとりの眼を見る事もせずにそのまま壁に向けて放り投げた。妖力翼を広げる暇も無い。轟音を立て岩肌に叩きつけられたさとりは地面に這いながら映姫を睨みつける。
 「認めざるを得ない。私達はこの世で最も罪深い正義の機関だ。だけど、誰かが選び取らなければならない。誰かがら選び取らないと世界は先に進まない。だから私達が進んで正義を引き受ける。その為の是非曲直庁。この世界は私達に正義を強いているのだから」
 何かを堪えるような表情をした後に映姫はさとりに背を向ける。尊大で有り続けなければならぬ閻魔の背。だが、今の映姫の背は姿相応の少女の物にしか見えなかった。
 「その為なら私は悪と呼ばれても構わない。忌み嫌われようと、畏れられようと。私は私の正義を実行する。それだけの存在だと私は思っていた。……私は一つだけ嘘を言いました。被害を最小限に留める為に全てを優先したと言いましたがそれは嘘です。たった一点において、私は私情を優先した」
 「それは、旧都の建造物の保護ですか? それとも地霊殿の妖獣達の保護ですか? 前者なら偽善としか言いようが無い。後者なら一応感謝はしているわ」
 「違う! まだ分からないのですか。私が私の正義よりも優先する者はたった一つしか無い。せめて、正義の御旗の元に社会を一つ消す事になろうとも、この小さな掌に収まるだけの人は絶対に守ると心に決めた。閻魔である前に、四季映姫と言う個人として!」
 口元を押さえた映姫は言葉を詰まらせる。それは久しく無かった感覚。爆発するような感情が映姫の口を突き動かした。
 「アーカーシャが予言したのはあなたの消滅だ! ……嫌なのよ、これ以上『友達』を失うのは!」
 それはさとりですら初めて耳にする映姫の慟哭。これ程に悲しげで儚い姿の彼女をさとりは見た事が無かった。振り返った彼女の瞳には大粒の涙が浮かんでいる。血液と涙でぐちゃぐちゃになった顔で映姫は叫んだ。
 「言いなさい、古明地さとり。貴女の本当の願いは何なのですか! 守りたい? 違うでしょう。貴女は何の為に『家族』を守りたいの?」
 「そんなの決まっているじゃない! 私は――、私は――っ!」

 ――家族と一緒に居たい。

 零れ出す大粒の涙を抑える術をさとりは持ち得ない。それはずっと押さえていた筈の、さとりの願いの本質。
 一度自覚すれば心に迷いが出ると思った。だからこそ、さとりはそれに気がつかないふりをしていた。溢れだし始めた感情は連鎖的にさとりの心を無防備にする。最早さとりは自分が何を言っているのかさえも把握できていなかった。
 「あたりまえでしょう。ずっと……、ずっとお話をしたい。一緒にご飯を食べていたい。一緒に眠りたい。でも、そんな些細な……、ただそれだけの願いが……、どうしようもなく……、遠いのよっ……!」
 「馬鹿……、そんな事はもっと早くに言いなさい……!」
 さとりと映姫は全く同時に宣言する。この地獄の最深部。この戦乱の最終局面を収めるべき最期の審判を下す為の術を起動する。空中に浮かびあがるのは巨大な曼陀羅。突き合わせるのは互いの罪と罰の具現。激しく光を放つ刻み込まれた経典を背後に二人は対峙する。光に満たされた空間は瞬く間に二人の視界を奪っていく。刹那の後、視界が完全にホワイトアウトした。

 ――審判『ラストジャッジメント』
 ――想起『ラストジャッジメント』

 それは、二人の犯した罪に対する最終審判。片やこの世の罪を一手に引き受ける彼岸の閻魔。片や妖怪からすら畏怖される身勝手な地獄の少女。罪の重さはほぼ同等。ならばその命運を分けるのは、その視線の先への執念に他ならない。結果等始まる前に分かっていた。彼女は既に概念上の化け物と成り掛けていたのだから。


 世界を静寂が包む。竪穴の外に響く轟音も、洞窟を流れる風音もの何もかもが不気味に静まり返っている。光が収まった後。地獄の最果てには地獄の閻魔が横たわっていた。
 「……映姫。この世の終わりに友達と会えてよかった。私の家族を……、よろしくね」
 「この分からずや……。絶対に地獄に落としてやる……、絶対に地獄に落としてあげるから、だからっ……! 絶対に帰ってきなさいよ……!」
 「……ありがとう」
 さとりは柔和に微笑むと洞窟の奥へと歩く。地獄の果ての果て。最果ての向こうに彼女は膨大な力の渦を前にする。広がるのは深淵に続くかの様な更なる竪穴。その縁に立ったさとりは霊脈の中心部へと身を投げた。


 「ばいばい。皆。元気でね」


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 轟音が支配する地獄の中心。その世界の果てで突如として光が膨れ上がった事に気が付いた者はまだ限られる。その数少ない者の内の二人は今、地獄の命運を決定付ける壮絶な撤退戦を繰り広げていた。
 「始まったよ……。この一連の長い悪夢の終焉の印だ。駄目だよ。お燐ちゃん。こうなったからにはまだ映姫様には動いて貰わないといけない。ちっぽけな正義と言う細枝にすがって立って居て貰わないと困るんだ」
 雑居ビルのベランダを蹴り落とし上空から落下する硝子の破片を回避する。鎌の風圧だけでそれを吹き飛ばした小町に迫るのはデフォルメされた蛙の印字された置き薬看板。距離を操って辛うじてかわした小町は横目で遠くの異変を眺めた。遥か彼方。霊力プラントに満ちるのは莫大な光の球。半球ドーム状に広がる光は何かに押し留められるように内部でその密度を増して行った。
 「退いて小町姉さん。さとり様がっ! さとり様がっ!」
 「あれは、貴女の主の望みだよ。私の主が勝っていたならあのような光は放出されない。お燐ちゃん達の勝ちだよの証だよ。喜びなさい。それが従者の務めだよ」
 「違う! 私とさとりさまは主従じゃない、家族だ! だから、あの馬鹿野郎達を私はぶん殴らないといけないんだ」
 燐は半ば鳴き叫ぶようにしてビルの屋上を駆け抜ける。行く手を遮るコンクリート片を爪で砕き斜めになったビルを蹴って宙へと飛び出す。地面に着地した時、直情にはすでに小町の鎌が迫っていた。
 「そうか。どうしても止めたいのか。ならば、まずは私を止めて見ろ。それすら出来ぬものにあの二人を止める事等不可能だ」
 「言われなくても!」
 地面に深く沈み込んだお燐は小町の鎌を限界まで引き付ける。首元に感じる冷たい風。極度に鋭敏な風圧が皮膚を引き裂く瞬間に燐は大きく宙を舞った。燐が初めてとらえた小町の上空。だが燐が狙うのは打撃でも無ければ斬撃でも無い。小町にがっしとしがみついた燐はそのまま地面に小町を組み伏せた。
 「小町姉さん。あなたの弱点は体に触れた物全てを同時にテレポートさせてしまう事だ。体に張り付いた者からは離れられない」
 「その通りだよ。良く覚えていたね」
 小町は燐をぶら下げたまま空中に飛び出す。腕を掴まれたままの小町は不安定な体制もお構いなしに攻撃に転ずる燐を迎撃する事すらままならなかった。目にもとまらぬ打撃が小町の体に叩きこまれる。腹をけられ空中に打ち上げられた体を上空から蹴り下ろし地面に叩きつける。鳩尾を正拳で突かれ、折れまがった体を膝で蹴りあげる。上空へ小町を抱え上げた燐はその胸を拳で貫いた。
 地面に落ちた小町を一瞥もせずに燐はその場を去る。小町はあれで死神だ。暫くは動けないだろうが、あの程度なら放置しても死にはしない。行く共の手合わせで互いの実力を知っているからこそ本気の拳を叩きこむ事に躊躇は無かった。留めまでは刺さない、だが自分にはもう振り返っている時間は無い。早足にその場を去ろうと燐はしていた。
 しかし燐はそこでまたもや自らの考えの甘さを恨む事になる。突如として全身から抜ける力。胸から溢れ出る血液。心臓の拍動に合わせ噴き出る赤いシャワーの正体を瞬時に理解できなかった。手に着いたそれから濃厚な血の気配を感じて自分が瀕死の重傷を負った事に気が付く。燐の背後には鎌を手に平然と立つ小町の姿があった。
 ――換命『不惜身命、可惜身命』
 「でも忘れてはいけない。あたいが操れるのは物理的な距離だけでは無い。魂の距離もだ。限り無く魂を近づければ体の損傷を錯覚させる事もできる。言った筈だよ。あたいから逃げ切れると思わない事だと」
 小町もまた無傷では無い。彼女の腹にはぱっくりと傷口が開いている。だが燐の怪我に比べれば遥かに軽微な損傷に過ぎない。燐は最早動く事もままならないだろう。腹を押さえて蹲る燐の無防備な背中は殺してくれと言わんばかりだった。小町は覚悟を決めて鎌を燐の首に掛ける。
 「お燐ちゃん。あんた一人が頑張った所で何も変わらないんだ。アーカーシャの定める未来には幾つかの確定事項が存在する。その内の一つでも欠ければ未来は別の物へと変わる。逆説、決まってしまった未来は ”確定した事項を現実に強いる” 。たとえさとりが霊脈を己の魂を賭して崩壊させようとも、その前に映姫様がさとりの魂を壊す。霊脈の奪取もさとり妖怪の消失も既に確定事項だ。ここからは何をしようと変わらない。このままじゃあんたは無駄死にだ。諦めろ。お燐。今ならまだ見逃してやれる。それをあたいに渡して此処を去れ」
 静かに首を振る燐。「残念だ」そう呟いた小町は鎌を握る手に力を籠めた。ざくり、と肉と骨を切り裂く慣れた感触。静かに目を閉じた小町が念仏を唱える。しかし、小町はすぐにその違和感に気が付いた。
 「……何だ?」
 小町の顔に驚きが混じる。小町はこれまでに数限りない生者の首を刈って来た。命乞いをし、財布を開き、咽び泣く。憐れな生者の首を無慈悲に刈って来た。どれだけの力を掛ければ苦しまずに命を刈り取れるか。どれだけ力を抜けば最大の苦しみを味あわせる事ができるのか小町は全て知っている。そして、今は苦しまず一息に首を刎ね飛ばすだけの力を加えた筈だった。声を発する間も無く安楽の死を与えられる筈だった。
 「……小町姉さん。それは前提がおかしいよ。お空は必ずさとり様を助ける。世界を捻じ曲げ、決まった未来を破壊してもさとり様を救うさ。だからあたいはあの ”馬鹿達”を迎えに行ってやらなきゃ駄目なんだ。迎えに行って殴ってやらなきゃいけないんだ。あいつもあたいも寂しがり屋だから!」
 鎌がびくりとも動かない。刃に骨までくれてやった燐の掌がその進行を妨げている。燐の手に更に力が籠もる。胸の穴と掌から滝の様な血が流れ出すのも構わず、燐はその鎌の先端をへし折って見せた。宙に舞う切先に眼を奪われる。その一瞬の隙が燐を小町の鎌の範囲からの脱出の絶好の機会となる、。大量の血液を流しほうほうの体で崩れ落ちるビルの群れに入り込んだ燐。その背中を小町は半ば呆然と見守っていた。
 「お燐ちゃん。貴女の真っ直ぐさは正直羨ましいよ。あたいもそんな風に動けたのならどれだけ良かっただろう」


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 「『私』は貴女の事が『大っ嫌い』だ」
 勇儀の生命力の減衰と共にプラントを覆う結界が崩壊を始めている。硝子の様に次々と砕け散る薄くなった結界。内部から滲みでる光の塊は地下世界を瞬く間に飲み込むかと思われた。しかし、その光はあるプラント周囲の荒野を少し浸食しただけで、寧ろ内部への減衰を始める。
 「出会い頭に他人のトラウマを弄って『この子達』はとばっちりを喰らうし、貴女の遊びで『この子達』は隠し事の一つも出来ない」
 空は崩れ落ちる翼にも構わず空を掛ける。目指すのは愛すべき主の気配。何処に居るかなんて探す必要も無い。主人の気配は探すまでも自然に分かる。器に染みついた感覚が機械の鴉に自らが向かうべき場所を知らせる。
 「勝手に不味いご飯を作って『この子達』に食べさせようとするし、看病の仕方も分からない癖に病人の傍に居たがる」
 力の奔流の中心。近寄るだけで体を分解されかねない程の猛烈なうねりの中にその気配は確かにある。器がそれを激しく望んでいる。意識と記憶を受け渡した後の空っぽの筈の体に残った魂の欠片が鴉へと激しく呼びかけている。
 「正直迷惑なんですよ。貴女の勝手に着き合わされて、どれだけ『皆』が苦労して来たと思っているんですか?」
 背中の翼からマフラーとブレードが二つ脱落した。健在のブレードは最早三分の一も無い。足りない揚力は辛うじて動く炉心から補えば良い。足りない部品は不要な物を使い回せば良い。用済みの脚部駆動系の部品を再溶融し背面のブレードに再構成する。鴉は動かなくなった片足をパージし、軽くなった体で目的地上空へと一気に駆け上がった。
 「そして、また貴女は最期まで『この子達』に迷惑を掛けるつもりなんですか。……身勝手もいい加減にしろ。あなたは何時もそうじゃないか! 貴女の事を思う『この子達』の心を ”知っている” 癖に ”理解” しない。理解しようとしない。鬼と初めて会った時だって、彼岸へ呼ばれた時だって、何時も身勝手に一人で突っ走っていた。ぼろぼろになる貴女の姿を見て悲しむ者の気持ちなんて ”微塵も考えず” に」
 崖下に広がる膨大な力の渦。脱落したリベットがその飛沫に触れただけでばらばらに分解して行くのが見える。
 だがそれがどうしたと言うのか。この体は神の体。『この子』の願いを叶える為だけに作りだされた。全てはこの瞬間の為の力。躊躇なんて無い。鴉は魂の叫びと共に急降下して行った。
 「貴女は身勝手だ。何時も身勝手に ”他人の事ばかり考える” !」
 霊力の渦に体が触れる。次々と分解されて行く体。元の鉄の塊へとその姿を戻して行く。その体を無理やり繋ぎとめる様に感情が制御域を超えてオーバーフローした。次々と浸食される意識。それは魂の欠片の咆哮だ。主の魂に呼応して空の魂の残滓が最期の焔を盛大に立ち昇らせた。
 「また自分だけが犠牲になればこの場を収められると思っているのか!? ふざけるな! 行くぞ、『八咫烏君』。私達の所為でこうなったのなら、私達の力であの馬鹿を救おう。それが『私の願い』! 『私』と一緒に願いに答えなさい。行こう、黒い太陽『八咫烏』!」
 『空』は一気に力の中心点。主の居場所へと滑り込んだ。その点を中心として神ですら理解を超える途方も無い力が渦を巻いている。その魂はまさにその点に存在した。まるで外へ出ようとする子供を引きとどめる様に、膨大な負荷を受けながらもその場に踏み留まっていた。
 「さとり様! 帰ってきました。お空が貴女の元に返ってきましたよ!」
 膨大な力の渦が空の接近を阻む。手を触れようと伸ばした腕からパイプの残骸とシリンダーの破片が次々と脱落する。それはまるで点から空を遠ざけようとするかの様に突風が体を押しながした。
 「「どうして来たのかって?」馬鹿じゃないんですか。必ず戻ってきなさいと言ったのは何処の誰ですか!」
 言葉を持たぬ魂が空に語りかける。袋小路の未来に着いて来た愚かな子どもに向けて『さとり』が怒っている。だから『空』も言ってやる。その言葉を言ってやる為に空は此処に来たのだ。あの身勝手な主にひと泡吹かせてやる為にこんな世界の果てまで着いて来た。羽が使えなくなる事も覚悟して全出力をジェットに回す。衝撃に耐えられず崩壊するブレードを代償に空の体は大きく前進した。
 「当たり前じゃないですか。だって私は――、さとり様の『家族』だから」
 激しくなる風に体の分解が加速する。既に体の半分は崩壊済みだ。各所から内部機関が丸見えであり下半身も吹き飛んでいる。だがそんな事は関係無い。この手で主の魂を抱え込めるだけの力が残っていればそれで良いのだから。
 「家族だから当然平等です。これでおあいこですよ。さとり様。私達に迷惑をかけ続けた罰です」
 羽も使えない。脚も無い。視覚も聴覚も働かない。体の殆どの機能と引き換えに空は点に飛び込んだ。眼の前に現れる一つの魂。さとりの魂を胸にそっと抱え込み、空の体はこの霊脈の渦に融け合って行った。


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 プラントから立ち上る光の柱が内部へ向けて収束して行く。竪穴の中に吸い込まれて行った光の奔流は輝きを増して再び上空へ向けて立ち昇り始めた。それは当に恒星。膨大な光を放つ光の球体は疑似太陽を失って以来、暗闇に包まれていた地下に眩いばかりの灯りを与えた。だがそれは太陽ではない。太陽などと言う生易しい灯りでは無い。地下を遍く焼き尽くさんとする光の暴力が大地を蹂躙している。不安定に揺れ小規模な爆発を繰り返す光の球は、いつ爆発してもおかしくない程に膨大な力を放ち続けていた。


 「あれが、未来を壊した結果、か? 。神の力を取り込んだ力の源泉が、融合の果てに暴走しつつある。時空が歪む程の力の奔流を抑え込みきれず、力が外部へ向けて崩壊しようとしている」
 「……お空。あんたはさとり様に会えたんだね。でも、それだけじゃ駄目じゃないか。人様に迷惑を掛けちゃあいけない」
 「霊脈崩壊に伴い、避けられない大規模な爆発。それを最小限に食い止める為に、鬼は結界を張った。あんたの主人は力の渦に消滅する事を望んだ。映姫様はその魂を救おうとした。ならばあの愚かな神は何をした? 事態を大きくする為か? あんな力の塊に手を出すのは最早閻魔ですら不可能だ」
 「あたいは二人を信じている。だから、早く迎えに行かなくちゃならないんだ」
 網膜が焼きつく事も構わずにその天体を眺めていた燐がゆっくりと小町へ振り向く。この期に及んで不思議な程に燐の心は落ち付いている。それは一種の空に対する信用だ。これまでに構築されて来た二人の信頼関係だ。小規模な爆発。轟音と共に衝撃波が二人の周囲の瓦礫を吹き飛ばして行った。
 「ここからどうやって未来を捻じ曲げるって言うんだい? お燐ちゃん。あんたはあの超新星を前に何をするって言うんだい?」
 「決まってんだろ! 何度も言っている!  “迎えに行って” “殴ってでも連れて帰る” んだよ! あたいの『家族』を!」
 旧都中に轟かんばかりの声で燐は叫ぶ。具体案等燐の中には何も無い。あるのは不思議な確信。使命感を履き違えているのかもしれない。あの地に行かねばならぬと言う意志が燐の頭に焼きついて離れなかったのだ。「だから退いて」燐ははっきりと小町に告げる。次々と産生されるアドレナリンは体の傷を忘れされる。疲労感も絶望感も今は棚の上で良い。少し内臓がはみ出ている事も気にしない。妖獣には良くある事だ。全てを忘れ目前の気配に全力を注ぐ。
 「論理の欠片も無い。……だが不思議だな。妙に説得力はあるよ。もうその書類は良い。私達が目的とした霊脈は失われた。足止めする理由ももう無いのかもしれない。だけどね、死にに行く奴を見過ごすのは死神として絶対に出来ない。あの二人を助けたいとお前が願うなら。実力を見せろ。あたいを乗り越えて行け」
 静かに頷くと同時、燐はその気配に気が付いた。死の臭い。燐はその気配をそう呼ぶ。小町が本気になった時の気配は鬼とはまた別種のうすら寒さを持つ。悪寒と共にゼロタイムで迫る恐るべき気配は他に形容のしようも無かった。
 怖気を感じる。火焔猫は本来戦闘向きの種族では無い。死体を漁り、死神から逃げ、細々と暮らすスカベンジャーに過ぎない。故に燐の最大の攻撃は技術、つまり操霊術だ。それはつまり頼りの綱が小町の下位互換である事を示す。だからと言って諦める訳には行かない。今行う事は事態を分析して悲観する事では無い。理屈をこねまわして勝つ為の方法を模索する事でも無い。ただ馬鹿正直に。愚直に。己の出し切れる全力を恐るべき死神にぶつけるだけだ。
 「……行きます」
 燐はこの地下世界に旧い地獄が作られる前からこの土地に生きて来た。
 昔の地獄は所構わず怨霊が徘徊していた。管理する者もおらずただ放り込まれる怨霊が地獄中を闊歩し浮浪者も地獄の獣も平等にその脅威を感じていた。今の光景は昔と似ている。この荒廃しきった旧都は、嘗ての怨霊が支配した地獄と驚くほど酷似している。
 当時の燐には怨霊を操る力は無かった。だから、この状態で怨霊を操ればどうなるのかは分からない。だが確信はある。この力は眼の前の超えるべき相手が教えてくれた力だ。その意志がどうであったとしても、この技術だけは揺らぐ事の無い現実である。この技術を用いてこの地下世界で生きて来た燐の軌跡が燐に強い勇気を与える。
 荒廃しきった旧都の中で燐は全ての力を解放し怨霊を呼び寄せる。大地から、建造物の隙間から虚空から。それは燐の予想すら超える程の膨大な数の怨霊群。それは長い年月の中で大地に同化してしまった旧い怨霊達だ。誰の目のも止まらず、危害を加える事もなければ、加えられる事も無い。彼岸へ渡る事も出来ず。此岸からも離れ。真に孤独を噛み締めた霊と唯一会話をしていたのが燐だ。
 彼らと地獄の唯一の接点。完全なる消滅を免れていたのは燐の存在があったからに過ぎない。彼らは燐に操られているのでは無い。自ら協力しているのだ。燐以外の誰に見えぬ彼らを積極的に連れ歩き存在を肯定してくれた彼女を助けようとその霊達は燐の呼びかけに答えたのだ。
 ――『死灰復燃』
 消えた筈の旧い怨霊が世界を満たす。灰と消える筈だった怨霊がその恩に答えようと、己以外の者の為にその力を振るっている。個々の髑髏は倒れたビルを抉り取り、瓦礫を吹き飛ばし、一つの奔流と姿を変え怨霊達は小町へと迫った。
 「お燐。あんたは本当に強くなったね。心も体も。あたいが保障してやる。家の閻魔様より余程しっかりしているよ」
 小町はそれを見ても慌てる様子は無い。鎌を振り上げその大きさから目測、奔流の先端との距離は約二百メートル。淡々と機械の様に淀みの無い動作で何時も通りに鎌を振り下ろした。
 鎌の先端から魂が溢れだす。回転運動が加わった鎌は更に多量の霊魂を排出しはじめた。それは小町と言う死神がこれまで蓄えて来た霊魂のストック。刈り取った命の中で、三途の河を渡りきれぬ者、つまり渡し賃を持たぬ極悪人を鎌の中に蓄える事で小町は彼らを消滅から救っていた。果て無い歴史の中で匿い続けた彼らの中で、小町の元を離れる事を望まなかった霊魂がその正体だ。
 小町と言う個人への奉仕により渡し賃を得られても転生を望まず。彼女を助ける為に霊魂としてある事を望んだどうしようもない者達だ。彼らは小町を守る為に存在する霊魂の精鋭だ。数は少なくともその一魂一魂が桁外れの力を持つ。百に満たない霊魂の精鋭が、莫大な怨霊の群れを向かい討った。
 ――魂符『生魂流離の鎌』
 二つの奔流が正面からぶつかり合う。それは一見全くの互角に見えた。一進一退の攻防は丁度お燐と小町の中間地点で繰り広げられている。魂の力は長い年月を生きた霊魂が上。数は怨霊が上。だが決定的に異なるのはそれを指揮する者の経験だ。圧倒的なキャリアに裏打ちされた小町の指揮は的確であり、じりじりと数千にも及ぶ怨霊の流れを押し返し始めた。
 「ぐ……、頑張って、皆。あたいはこの先に行かなくちゃいけないんだ」
 気合い一つで動く類の戦闘では無い。徐々に脱落を始めた怨霊の群れの先端は徐々にお燐へと迫る。だが燐は諦めない。その場を一歩も動く事無く、操る怨霊の群れが数十体にまで減少してもその瞳が敗北の色に染まる事は無かった。
 (私達正義の陣営は理由無しに意志を変えられない。暴走した正義を止められるのはお前だけだったんだよ……、強くなったね。お燐)
 怨霊の群れが弾き飛ばされ、燐への射線が完全にクリアされた時に燐はその声を聞く。次に気が付いた時。怨霊の群れが ”小町” を呑みこんでいた。
 「え……?」
 ぼろ雑巾のような姿で地面に倒れ伏す小町を燐は茫然と見下ろす。それは場所の入れ替え。紛れも無く『小町の力』だった。そんな燐に小町は嘗ての快活な笑みを浮かべる。場違いだとも思えるそれが燐にはどうしてか非常に申し訳無く感じた。
 「あーあ。しくじったねぇ。お燐ちゃんが思ったより強かったもんで油断しちまったよ」
 「小町姉さん……」
 嘘の得意な小町かれすれば非常にらしくないワザとらしい演技。露骨に見せる悔しそうな表情は滑稽ですらあった。その彼女の意図が分かっているだけに燐には掛けるべき上手い言葉が見当たらない。困った様子の燐をみて小町はまた見かねた様子で口を開いた。
 「やられちまった物は仕方ないねぇ。あたいにはもうあんたを止める力は無い。ついでに、あの爆発を止める方法もね」
 小町の視線の先にはあるのは相変わらず小規模な爆発を繰り返す恒星。狂ったように地下の大地を照らす天体をどこか憂いを帯びた目で見つめていた。視線が燐の眼を真っ直ぐに射抜く。ふざけている様な小町の表情が至極真面目な物に変わっていた。
 「お燐……。未来を選ぶのは力だが、そこに進むのは意志だ。お前達はあたい達の握っていた未来を握りつぶした。今世界の未来は確定していない。だから、進んで見せろ。あの馬鹿な鴉が決めた未来へ進んで見せろ!」
 「小町姉さん……。ありがとう。あたい、頑張るよ」
 「違う。お燐、あんたがあたいに掛けるべき言葉は恨み節だ。感謝の言葉じゃない。無責任な大人を非難するとびきりの暴言をぶつける権利があんたにはある」
 それは全てを受け入れるかのような顔。たとえ殴られようと唾を吐き掛けられようと構わない。汚れる事を許容した者だけが持つ無責任な達観が見受けられた。腹立ちを覚えない訳ではない。実際小町の言う通り厚顔無恥な言い草だと思う。だがそんな事は良い。もっと優先すべき事が自分にはある。
 「言いたい事は一杯ありますけどね。今あたいの暴言は『あの馬鹿達』に取ってあるんです。……全部終わったらまた稽古を付けて下さい。下らない世間話に付き合って下さい。だから、行ってきます」
 「……そうだね。約束しよう。行ってらっしゃい」
 燐の気配が旧都から消える。彼女は微塵の迷いも無く天蓋の恒星へと一直線に駆け抜ける。小さな影が天蓋の恒星に飛び込んだのはその直後の事だった。


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 「八咫烏君、御免ね。最期まで私のわがままに突き合わせちゃって」
 「ううん。僕は君から十分過ぎるほど多くの物を貰えたよ。誰かを愛する気持ちを教えてくれた。孤独だった僕に家族の温かみを教えてくれた」
 「そう素直に言われると何だか照れちゃうなぁ。うん。私も楽しかったよ。君と出会えて、本当に良かったと思う」
 恒星の中で二人は静かに語らう。神の体が混じった光の中で姿を持った空の魂の残滓は、神と成り果てた自分と対峙する。ここはもはや神の胎内。外でどれだけ力の暴風が吹き荒れようとこの場所だけは台風の眼だ。音も無い、苦痛も無い。ただ温もりだけが体を包む。
 「さとり様の次に……、だよね?」
 「当然だよ。……嫉妬する?」
 「出来る訳無いよ。お空ちゃんと一緒になって、あまりにも君の事を知り過ぎてしまった。お空ちゃん一番はさとり様の物さ。でもそれで良いよ。僕は二番でも三番でも良い。……僕と一緒に居る時だけは、僕の事を見てくれるのなら。それで十分満たされる」
 「君から貰ったこの感情は大切にするね」でも、と続けて鴉はそう口にする。空と融け合った彼は、奇形の鴉や神として得る事が出来なかった多くの感情を学んだ。胸の奥から湧きあがる焦がすような感情もその一つ。そんな人間らしい心の動きが、孤独な太陽には嬉しくて仕方が無かった。
 「そんな顔しないでよ。可愛いなぁもう。これからはずっと一緒なんだから安心して良いよ。……さぁ、さとり様を外に逃がそう。『分子再構成』で補完できるのは肉体だけ。魂が無くなってしまったらどうしようもない」
 ギュッと彼を抱きしめた空の魂はその瞳に灯る妖しげな色に気が付く。見覚えのあるその硝子玉の瞳に空は胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。「ううん。違う」彼女の不安を肯定するように鴉が首を振る。
 「どう言う事? もしかして演算ユニットが壊れちゃったの? それとも怒った?」
 「違う。 ”さとり様” と “お空ちゃん” だ。僕が此処には残るから。お空ちゃんはさとり様と居てあげて」
 「……寂しがり屋の君にそんな事出来る訳無いでしょ。意地を張らないで。一緒に居てあげるよ」
 大丈夫だと告げる彼の瞳には相変わらず妖しい炎が灯っている。半分は自分だからこそ分かる。その瞳は碌でも無い事を考えている時に灯る物だ。自覚している。それは悔しくも主に似てしまった部分。身勝手な事を考えている時の自分がする瞳だ。
 「お空ちゃんと居た日々は長く無かったけど楽しかった。神としての仕事もやり遂げようとしている。神としても一羽の鴉としても僕はもう満たされているんだ。でもお空ちゃん。君はこれからだ。君はまだまだこれからいろんな経験をしないといけない。僕みたいな作り物の神じゃない。子を為せる伴侶を持って自分の家族を作って幸せに暮らさないといけない。そして、その家族と共に君の主を守り続けなければいけない」
 彼の言わんとする所を察する。それは彼の優しさかそれとも考えあっての事か。どちらにしても空の魂にとって、それはあまりに残酷な問いに思えた。
 「……そんな寂しくなる事言わないでよ。こんな魂の欠片の私が。どうやって外に出るのよ。ほら。もうこんなに体が崩れちゃっているのに。私はもう此処から出たら存在できない。君に残してきちゃった魂の部分が多過ぎる。気遣ってくれてありがとうね、八咫烏君。嬉しいよ。でも、私はずっと君と一緒に居てあげる」
 「ううん。違うよ。僕の居場所は此処だ。この場所は僕だけの物だ。ここに居るのは僕一人で良い。だってお空ちゃん。『君達』には帰りを待っている人が居るじゃないか。ほら、迎えが来たよ」
 呼び声が聞こえる。
 空とさとりを下界と繋ぐ縁の受肉が世界の果てにやってくる。
 呼び声が聞こえる。
 涙が出るほど懐かしい声が聞こえる。
 呼び声が聞こえる。
 あの寂しがり屋の猫の鳴き声が聞こえる。
 呼び声が聞こえる。
 自分の名前を呼ぶ友の声が聞こえる。

 「お空!」
 「お燐! 馬鹿っ! どうして来たの!」

 力の流れに翻弄され、分解する体を必死に押さえながら燐は空の眼の前に現れた。神でも魂でも無いその体はこの力の流れの中で余りにも無力だ。空がそうであったように体が暴風に流されて大きく揺らめく。喰らいつくように腕を伸ばした燐は引き千切られそうになる腕にも構わずに絶叫した。
 「決まってるだろう! 迎えに来た。あんた達をね! さとり様は助けられたか!?」
 「当然よ、魂だけだけど。直ぐにでも送り返せる準備は整っている。今なら元通りになる!」
 「そうか、良くやった。それすらできてないって言うんだったら殴りとばしてやる所だよ! じゃ、その馬鹿者一号をしっかり抱えておくんだ。一緒に帰るぞ、お空!」
 流れて来た力の塊に獣の耳が一つ消し飛ばされる。髪を纏めていたリボンが全て弾け紅い髪が視界の端に映る。必死に伸ばした腕はまだ空には届かない。分厚い力の風が燐の行く手を阻んでいた。
 「駄目、私は此処から出られない」
 「下らない事を言っているんじゃない! お空、あんたがさとり様を救ったのなら、今度はあたいがあんたを救う番だ。あんただけ身勝手に救っておいて、救われるのが嫌だなんて言わせない!」
 「違う! そうじゃない。私はもう出られないの。この太陽の中以外だと魂の量が足り無さ過ぎる。この外で私は存在できない!」
 尻尾の一つが吹き飛ばされたが、今は大事ではない。馬鹿馬鹿しい事で脚を止めた馬鹿の尻を叩いてやる。その為に燐は笑ってやらねばならない。口角を上げた燐の顔に浮かぶのはヤマメと小町仕込みのとびきりの軽薄な笑み。今自分にできる精いっぱいの感情を籠めて、馬鹿の悩みを笑い飛ばしてやった。そうやってから燐は再び絶叫する。
 「それがどうした! その姿が、あんたがさとり様を助ける為に命を投げ出した結果だと言うのなら、あんたを救いだすのはあたいと言う存在だ。でもね、あたいはあんた達にみたいに馬鹿じゃない。あたいはあんた達と違う。一緒に救われて見せる! だから手を伸ばしてくれ、お空! あたい一人じゃ、全部は救えない!」
 「どうしろって言うのよ! どう足掻いたって絶対量が足りない! どうしようもないのよ!」
 はらりと落ちた雫が風に乗って消えて行く。その顔はあの夜に見た物と同じ物だ。気丈で頼れる姉の様な彼女も助けを求めている事を知ったあの夜と同じ物だ。こんな情けない顔をした奴を置いて行けない。太陽なんぞにくれてやるのはあまりに勿体ない。あの夜の誓いを胸に、燐はもう一度腕を力の塊へ差し入れた。
 「『帰りたい』と言え! 後はあたいに任せろ! 魂が足りないなんて関係ない! あたいが連れ帰ってやる! そして、私の手を取れ。そうやってあたいを救ってくれ! 霊烏路空!」
 空の居る恒星の中心部に燐の腕がようやく到達した。みしみしと音を立てて腕の骨が砕かれて行く。皮膚が切り裂かれ血が噴き出す。歯を食いしばって痛みに耐えた燐はもう一度友の名を呼ぶ。
 「お空!!」
 燐の魂の叫びに答え、差し出された指先が燐に届く直前。横合いから特大の暴風に殴りつけられた燐が中心の外へ吹き飛ばされる。血を吐きながら風に撒かれる燐。その姿を見た空はついにその中心から力の吹き荒れる外へと飛び出した。

 「お燐……、お燐っ!」
 「お空! 嗚呼、この馬鹿鴉! ……会いたかった!」

 中心部の外では燐も空もその力に翻弄される事には変わらない。風に力に撒かれながら二人は必死で手を伸ばす。つりそうになる程指をのばしようやくその先端を触れ合わせる事が出来た。絶対にもう離さない。離したくない。意地にも近い思いで燐はその手を固く固く握り返す。膨大な力の渦の中心。二人は数週間ぶりの抱擁を交わしあった。


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 「恒星が……、安定化して行く」
 「いいや違う、あれは ”神” だ。霊力により形成された力の渦が神の力を借りて恒星の形をとったならばあれは神が恒星を呑みこんだ姿だ。黒い太陽が力を呑みこみ、人の形を捨てて太陽と同化した。あれは、私達を照らす新たな ”太陽” だ」
 霊力プラント付近の荒野。上空に浮かぶ太陽の変化を眺めるのは二人の鬼。片方は何かをやり遂げたような満足した表情。片方は眉を潜めそんな相方に訝しげな眼を向けた。

 「所であんた……、なにやってんの?」
 「いや、動けないんだよ。持って行ってくれよ」

 至る所に存在するクレーターと焼け焦げた跡。周りでは旧都の子鬼達が茫然と空を見上げている。その中でも一際異彩を放つのがそれらの首領であった筈の鬼の姿。首だけになった勇儀が空を見上げていた。深々と溜め息を吐いたパルスィがその首を抱え上げる。死んでいない。どう言う理屈か想像もしたくないがこの鬼は首だけでも未だ動き会話すら可能だ。その馬鹿馬鹿しい生命力にパルスィはただ溜め息を吐くしか無かった。
 「旧都の方はどうなっている?」
 「どうもこうも無い。戦闘どころじゃないわよ。お互いに。皆荒野へ避難しているわ。当然停戦中よ」
 「そうか……。全軍に通達しろ。この今後の一切の戦闘行為を禁ずると」
 「……良いの? 全ての兵装が使えない今。数で上回る私達は彼岸を完全に撃退するチャンスだと思うけど。
 「あれを見ろ。どこに戦い続ける理由が残っている。霊脈が失われた今。奴らが戦う意味は失われた。この戦争が個人の勝手な欲で生みだされたのなら、この戦争を終結させるのは個人の勝手な欲だ。そうでなければ筋が通らない」
 「はいはい。分かりましたよ」
 パルスィに運ばれて勇儀は子鬼達の元へ歩みを進める。
 「忙しくなるな。復興に、彼岸との交渉。それに地霊殿との関係修復か」
 「後は技術開発もね。霊脈も電気も使わない新しい力を見つけないと」
 「なぁに心配は要らないさ。私達には太陽が付いている」
 パルスィと勇儀。そして子鬼達の舞台は揃って空の灯りを眺めていた。本物ではないが、偽物でも無い。限り無く太陽に近い恒星の灯りを手に入れた。殆どの物を失った旧都にとって、それは闘争の果てに手に入れた数少ない物の内の一つである。
 「所でパルスィ」
 「なぁに?」
 「当然それだけの仕事をするとなると動けないと困る訳だ」
 「まぁそうね、で?」
 「直るまでの間、分身の体暫く貸してくれたりしないか」
 「利息は高いわよ?」
 「……お手柔らかに頼むよ」
 背筋の凍る程の笑みが勇儀を貫く。勇儀は思わず苦笑した。


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 「理解した。この胸の瞳の本質を」
 「唐突ね。しかも本質? 私の経験上そう言う小難しい言葉を使う人って、大抵表層を掬って分かったつもりになってる場合が多いわよ」
 「そうですね。私がそう信じたいだけかもしれません。ですが、私はこの答えに自分で辿りつきました。間違っていてもそのこと自体に悔いは有りません」
 「安心してよ、そうだとしたら私が笑ってあげるから。……それで、答えは?」
 「これは目隠しです。見え過ぎる私達の両の眼を隠す為の心の眼隠し」
 「……今頃気が付いたんだ」
 「正解しても呆れられるんだったら、私は一体どうすれば良かったのよ」
 「それ位お姉ちゃんの鈍感さには呆れてたって事よ。私からしたらどうして殴られないのか不思議なくらい」
 「 ”殴られた” んですよ。だから分かったんです。……感謝しないといけませんね。皆には」
 「こんな物を持っているから私は見えなかった。最初から全て持っていたのに、一度は失って。そしてまた失いかけた」
 「…………」
 「結局、家族を求めた私の代償行為は代償行為ですら無かった。私が渇望し続けた物は全部掌に収まっていた」
 「当たり前でしょ。血の繋がりが無くても家族にはなり得る。共同生活をする上での最小のコミュニティ、それを『家族』と私達は呼ぶのだから」
 「灯台元暗しねぇ……」
 「お姉ちゃんが鈍すぎるだけよ。そんな事私は何百年も前から分かってた……。だから私は早々に『閉じた』。なのに貴女って人は……」


 「『こいし』?」
 「何、『さとり』お姉ちゃん」
 「ありがとうね。後、御免なさい。心配をかけて」
 「……気持ち悪い。急に感謝しないでよ。私は貴女を嘲笑う為に貴女の夢に顔を出していただけなんだから」
 「構いません。大好きですよ。こいし」
 「こっちくんな。 おい、私にその気持ち悪い笑顔を向けるな。……くっつくな!」




 瞼を透過する強い灯り。その眩しさに意識が現実へと引き戻される。
 「お燐! 気が着いたか?」
 「貴方……、は。ここ……は?」
 「地霊殿だ。大焼処区で倒れていた ”二人” を運んできたんだ」
 どこか懐かしい。それは見慣れた暑苦しい顔。地獄鴉の男がこちらを不安げに覗きこんでいる。視線の端に入る自分の腕には傷らしい物が見えない。体中が痛いしとんでもない疲労感があるが四肢は無事だし耳も尻尾も健在だ。恐らくはこれが空の言っていた準備とやらなのだろう。
 ぼやりとそんな事を考えながら自分の掌を眺めていると一つの事実に気が付いた。自分の手が何かを持っている事に。それは意識するまで自分でも気が付かなかった事。それがさも当然であるかのように渾身の力を籠めて ”それ” を握っていたそれに気が付くと同時。地獄鴉の男が悲しげな瞳を自分に向けて来る。
 「最初からお前が握っていたんだ……。何度も取ろうとしたんだが、お前はそれを離さなくてな……」
 それが何であるかは、掌で覆いきれない部分を見ただけで殆ど予想は着いていた。それでも確かめずには居られない。凝り固まった筋肉をほぐす様にしてそっとてを開く。見間違える筈が無い。緑の刺繍がされた大きなリボン。空の黒いダメージヘアーを飾っていた緑のリボンが燐の掌には握られていた。
 「お空! お空はどうしたの?!」
 「残念だが……、お燐ちゃんとさとり様以外はどんな人影も存在しなかったよ」
 「嘘……。だって……、私は確かにっ……! ちゃんと調べてよ。あいつ方向音痴だからどっかで迷っているのかも!」
 「……もう二人をこの地霊殿に運んで来て二日が過ぎている。何度も探した。でも、お空は居なかった」
 燐は気が付いていた。そのリボンから感じる気配に。このリボンの正体が何であるかに気が付いてしまっていた。
 残酷な現実だった。彼女は間違いなく目的を完璧に果たしたのだ。さとりを連れ帰り、自らも生還し、爆発も止めた。彼女も間違いなく連れ帰った。この掌に感じる気配紛れも無く彼女の物だ。あの時搔き抱いた空を燐は確かに連れ帰っていた。
 「嘘だ……、だって――!」
 「落ち付け! 燐。体に触る! おい、医療班呼んで来い!」
 ベッドから飛び起きようとする燐を地獄鴉が押さえる。胸に抱いたリボンから感じるどうしようも無く愛おしい気配が燐の心を締め付ける。友をリボンなどと言う寄り代に付着した気配にしてしまった罪の意識が燐を容赦なく追いつめた。
 「いえ、大丈夫ですよ。貴女は正しい事をしました。誇って良い」
 燐の体が男では無い別の何かに包み込まれる。その香りを燐は忘れる筈も無い。何週間こうやって抱きしめられてこなかっただろう。その気配は燐を肯定する。誰よりも空の消滅が辛い筈の気配が燐を肯定していた。
 「お空は必ず帰ってきます。あの子と彼は強い子ですから。だから、今は ”信じて待ちましょう” 大丈夫すぐに帰ってきますよ」
 「さとり……、様っ!」
 恥も外聞も無く子供の様にさとりに抱きつき泣きじゃくる。子供をあやす様に背中をさする主の体がどうしようもなく懐かしく。そして嬉しかった。鼻をすする音が収まって来た頃を見計らってさとりが燐の顔を覗き込む。「信じましょう」小さく微笑んださとりはそう繰り返した。
 「彼はね私に約束してくれたんです。だから信用しようと思う。それがこれまで信用すると言う事の本当の意味を知らなかった私への罰だと思うから。正直な所を言えば私も不安です。あまりに色んな事が変わってしまいましたから。だから……、お燐。貴女も一緒に信用して貰えないでしょうか?」
 「……はい」
 燐はその主の姿に小さな違和感を覚える。何時も主から感じていたあの全てを見通される様な感覚。気のせいかそれが薄い様に感じたのだ。その違和感の正体を確かめる為、燐はさとりの居る方へ振り返る。
 「さて……、と。そうと決まったら散歩にでも行きましょうかね」
 「さとり……、様? え、ちょっと、どうしたんですか、その胸の――」
 「ふふ。ちょっと ”自分の眼” で見ておきたいのです。あれを。だから、ちょっと散歩に行ってきます。着いて来たいなら着いて来ても良いですよ」
 「あっ、ちょっと! さとり様! それはどういう――」
 驚く燐を置いておいてさとりは部屋を出る。


 外に出た彼女が見るのは地平線の向こう。
 地獄の果ての更に果て。
 最果ての向こうの地平線に紅い太陽が沈もうとしていた。

















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 「良いのですか。映姫様。さとり様に声を掛けずに行ってしまっても」
 「今の私に彼女に掛けるべき言葉は有りません。その資格が無い」
 地下世界の果て。紅い太陽を眺めるもう一つの集団が荒野に立っていた。誰一人として無傷の者は居らず、誰一人笑顔は無い。
 「資格……、ですか。でも、別れの言葉一つ掛けるのに資格が必要ならこの戦場でそんな物を持っているのは何人居るんでしょうね」
 「誰もが自分の意志で戦いました。己のエゴの為に。そうやって戦った者達にはその資格が有ります」
 「貴女は違うんですか?」
 「私が戦ったのは他人のエゴの為だ。私以上に罪深い物が、この戦場に ”居て良い筈が無い” 」
 破れた帽子を脱ぎ棄て映姫はその陽に背を向ける。その小さな背に見えるのはあまりにも不釣り合いな程の決意。放っておけば潰れてしまいそうな程に儚く、何処までも誠実なそれに小町は思わず嘆息する。これだ。この背中が見たくて私はこのお子様閻魔に着き従っているのだ。
 「帰りましょう小町。私達の戦場へ彼女らの為にも戦わないといけない。それだけの義務を負ってしまいました。精神を削り合う糞っ垂れた日常に戻りましょう」
 小町は静かに頷き。そして、閻魔を追いかけ始める。これから始まるであろう。彼女の戦いを傍らで支える為に。


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 それは、彼が最後に見た光景。
 地獄の鴉と添い遂げた神が見た最後の奇跡。
 真っ白い空間で八咫烏は神と対峙する。


 『愚かな八咫烏。苦悩の満ちるこの地で良くぞ生き抜いた。そして最期のこの時に問おう。君はこの地下に来た事を後悔しているか?』


 彼は小さく首を振る。後悔などある筈も無い。この地下に来なければ彼女に出会う事も無かった。孤独に消えて行く八百万の神の一柱。何処にでも居るそんな存在の一つとなっていただろう。彼女は自分に全てを与えてくれた。彼女と出会った時に私は神としての神生を歩み始めたのだから。


 『そうか。それではもう一つ質問だ。お前はこの地下の世界で永遠の孤独を受け入れ皆の太陽となる事を許容するか』


 彼は小さく首肯する。この場に残ったのは自らの意志。彼女から貰った温かみと比べれば些細な事に過ぎない。元よりこの身は、太陽となるべき存在。彼女達の礎となれるならこれ以上の幸福は無い。だけど、一つだけ心残りはある。


 『君の覚悟に敬意を表する。一つだけ願いを叶えよう。たった一つ。君の思いを実現してみせる。黒い太陽・八咫烏。君は最期のこの地で何を望む?』


 彼は歓喜した。これ程の恵まれた神生があっただろうか。運命的に伴侶と出会い。そして添い遂げ最期のこの地でも神の加護を得られるのだ。全くもって幸福者だ。彼は迷わず口を開く。それは、永遠の孤独の開始では無い。世界と共に生きる新たなステージ始まりだ。
 胸の中のもう一つの温もり。その行く先に幸有らん事を。


 『僕は、僕が望むのは、僕の中の ”彼女” を――』











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 萌芽 – sun light –



 しんしんと降り積もる綿の様な雪。張り詰めた様な静寂は降り積もった雪化粧の所為だろう。縁側越しに見る石灯籠が白い雪の帽子を被り、地面には幾つかの足跡が残っている。肌に感じる刺すような冷たさ。それは当然の事。今は師走、四季の明確な極東のこの地では真冬にあたる。
 「寒いわねぇ……」
 「えぇ。寒いわねぇ……」
 「おい。掃除はどうしたんだ。まだまだ掃除する所は残っているんだぞ」
 はぁと自然に漏れ出た、その光景に対する感嘆が白い霧になった。あまりの寒さに意を決して炬燵から出る。身を切る風に閉口しながら障子を閉めると滑り込むように炬燵に戻った。
 「ねぇ、そっちの蜜柑とってよ」
 「ほいっと。どうぞ、お姉ちゃん」
 「おい、君達」
 何か声を掛けられた気がする。しかし今重要なのは炬燵で食べる蜜柑だ。ヒーターで暖めた手で皮を剥いて行く。取りだした一房を口に運ぶと心地の良い酸味が口内に広がって行った。
 「あー。これよねぇ。全く」
 「冬の醍醐味よねぇ」
 「おい君ら。無視しないでくれ」
 「だって寒いんですもん。雪も降っているし今日はお休みにしましょうよ」
 「お前らなぁ……。まぁ、確かにその気持ちも分かるんだが――」
 不機嫌そうな顔を見せるのは鼠の少女。微妙にぴくりぴくりと動く尻尾が彼女の苛立ちを如実に表していた。鼠の少女は手に持った雑巾を炬燵にしがみつくさとりへと強引に握らせた。
 「冷たっ!」
 「掃除だって精神修行の一つだ。サボらずやる事。それが大事なんだよ」
 「仕方ないわねぇ……」
 「ナズーリーン! この廊下の書簡は何処にしまいますかー!」
 「あー。ご主人。直ぐに行くからそのまま置いておいてくれー」
 寺の本尊の監視役。小さな賢将は主人呼びかけに従って部屋を出て行く。去り際に彼女が押し付けて行ったのは一番寒い縁側の雑巾がけ。正直やりたくは無かったが、やらない訳にもいかない。渋々と言った様子で二人は炬燵から抜け出す。若干の名残惜しさを感じながらも、いち早く戻ってくるために外へと続く襖を開いた。
 「あーあぁ。めんどくさい。めんどくさい。あ、お姉ちゃん。因みに私が今何考えているか分かる?」
 「ん? 掃除がしたくて仕方が無い。たのしいなぁ。ですか」
 「お姉ちゃん。良い性格になってきたわよね」
 「ありがとう。褒め言葉として受け取っておくわ」
 彼女らの胸には大きな瞳が鎮座する。しかし閉じられた瞳はその本来の役割を果たす事は無い。瞑った瞳でその持ち主を優しく見守る体の一部。あの事件の後、さとりは胸の瞳を閉じた。心を覗かずに他人を慮る術を手に入れる必要があると痛感したからだ。
 「でもこいし。貴女はなんで私を呼んでくれたの? すっかり嫌われた物と諦めてたんですけど」
 「放浪生活の過酷さは知ってるからね。お姉ちゃん。何にも用意しないで行こうとしてたでしょ」
 「……ありがとうね。こいし」
 「まぁ、素直に受け取っておくわ。それに頼らなくなった事については一定認めてあげても良いかなぁって。そうは思ってるから」
 今の彼女らが身を寄せるのは地上の寺院。妖怪の尼僧が住職を務める妙蓮寺で日々精神修行に励んでいる。是非曲直庁から離脱をしたさとりが、その二つの眼で外の世界を見ようと考えた結果である。廊下に置かれた桶を拾い二人は離れた縁側へと歩く。びゅびゅうと隙間風の吹き込む廊下は外と変わらない程冷たい。思わず服の袖手を入れ指先の冷たさに二度驚く羽目になってしまった。
 「さむぅ……」
 「お姉ちゃん体の鍛え方が足り無いんじゃないの?」
 「いやいや。これはそんなレベルじゃないわ。むしろこいしは寒くないの?」
 「お姉ちゃんよりは体鍛えているからね。これでも」
 「その割には震えてるんじゃない?」
 「武者震いよ」
 「何に対するよ……」
 廊下に置かれたバケツの水は身を切る様に冷たい。思わず口から声が漏れる。覚悟を決める為に一度深呼吸をする。一息にバケツの中に漂う雑巾を取り上げるときつく絞りあげた。力を籠めた手がふるふると震えるのに合わせて小さな雫が滴り落ちた。薄く砂と埃が溜まった縁側の廊下を、二人は肩を並べて雑巾がけする。一人でなら時間の掛かる作業も二人であれば随分と楽だ。ものの数分でその縁側の廊下は顔が移り込む程に磨き上げられたが、それでも体の芯まで冷えてしまった。
 一刻も早く冷えた体を温めようと、二人は炬燵の待つ居間へと小走りに向かった。今はすぐに見えたが、襖の向こう側には幾人かの話声がする。もしかしたら炬燵は占領されてしまったのかもしれない。そんな悲観的に未来を思いながらさとりはがらりと襖を開いた。
 「おかえりー。おつかれさん」
 「おっつかれさーん。二人とも」
 案の定、炬燵に包まり蜜柑を食んでいたのはぬえと村沙。彼女らも掃除をさぼっているのだろう。頭には白い頭巾が掛けられたままだ。ぐでりと顎を机の縁に乗せる姿は非常にだらしない。聖や星が見れば説教の一つも始まりそうな光景だが、今ここにその人物はいない。その仲間の一人になろうとさとりとこいしはいそいそと炬燵に潜りこんだ。
 「ほれほれ、こっち来て蜜柑食おうよ。丁度剥いてあるのもあったぞ」
 「それ、私の食べさし。取らないでよね」
 「残ってるだけでもありがたや。ま、それは ”空" だけどね」
 「むーらーさー」
 「おいっ、ぬえ! バラすとか卑怯だぞ」
 「人の役割取ろうなんて百年早いのよ」
 怒りながらも何処か間延びした喧嘩。寒いのに元気だなぁ、等とぼやりと考えながら新しい蜜柑に手を掛けた所で何かを思い出した様に村沙がさとりを読んだ。
 「ん、何?」
 「実はね。さっきお客さんが来たよ。二人にね」
 「お客? 私達に――」
 「――うわっ!?」
 その言葉と同時に炬燵の中で何者かがもぞもぞと動き出す。八本の脚の合間を書きわける様にして布団から頭を出したのは見覚えのある黒猫だった。
 「お燐……?」
 「さとり様! こいし様! お久しぶりですねぇ」
 「おりーん。久しぶりー」
 快活な笑みを浮かべて人化したのは火焔猫燐。黒いドレスに ”緑のリボン” を付けた彼女は他の二人にも軽く挨拶をしたかと思うといそいそと炬燵に潜り込んだ。比較的に小柄な二人は身を寄せ合う様にしてその温もりの恩恵を分かち合った。
 「……なんで炬燵の中に?」
 「いや、外が寒かったんでつい。」
 「そんな薄着で外に来るからよ。地下は寒いと言っても雪が積もる事は有りませんでしたからねぇ……」
 「最近は太陽が近い物で雪が降る事も稀ですね。でも、おかげで食料には困らないんですよ」
 「好きな物ばっかり食べて無いでしょうね? 栄養偏るわよ」
 「へへー。料理ベタなさとり様が居ないので、調理班も心おきなく腕が振るえるみたいで、割と良い物食べさせて貰ってますよ」
 「失礼ね。素材の味を生かしていると言って欲しいわ。……そう言えば最近来なかったじゃない。向こう、忙しかったの?」
 「そうですねぇ。ちょっと、勇儀の奴がパルスィにそっぽ向かれたみたいで最近仕事しないんですよ」
 現在の地霊殿は燐を始めとする古参の妖獣達で運営が行われている。基本は焦熱地獄の管理だけだが、最近復興してきた旧都の支援にも回っているようだ
 「……いつになったらくっつくのかしらあそこ」
 「さぁ、ヤマメさんがくっつけようと彼是手を回しているみたいですけど。実際の所どうなんだか」
 「ヤマメって言えば、最近地下からの波を拾うんだけどもしかして電波塔動き出したの?」
 「あ、耳聡いですね。その通りです。みとりの奴が外の知識を元に太陽光パネルを発明しましてね。弱いですけど電力が復活したんですよ」
 「へぇ、相変わらずの腕前ねぇ。あれで対人恐怖症じゃなきゃ、完璧なのに」
 「本人的には克服したらしいですよ。何でも鬼の半径十メートルに入る事に成功したとか何とか」
 「……まぁ、成長には変わりないわよね」
 こうやって地下の様子を聞くのはさとりの楽しみの一つである。離れて見て初めて分かる事もある。自分が居なくても地霊殿はどうにかなる物だし、自分が居無ければ出来ない事もある。そんな違いに思いを馳せて昔を振り返るのが最近のお気に入りだ。眼を閉じてにやにやと笑うさとりを、脇でこいしがにやにやと見つめる。最早おなじみと言った光景だ。しかし、今日の燐はどうにもそんな様子を眺めに来た訳では無い。別件を持ちだそうと燐は机の上に一枚の便せんを置いた。
 「これは……?」
 「昨日の夜届いたんですよ。自室に帰ったら机の上に置いてありましてね。宛先も差し出し人も無いので捨てようかと思ったんですが……」
 「それは不気味ねぇ。で、それと私達とどんな関係が?」
 「うーん。多分見て貰うのが早いかなぁと」
 さとりが懐から白い便せんを取り出す。飾り気は無くあくまでもシンプルなデザイン。そこには手書きの文字が記されていた。
 「『妖怪の山。守矢神社にて待つ』ですか。いや、そんな事よりこれは……」
 「このみみずがのたくった様な字……。見覚えがあるわね」
 「ですよね。これ、やっぱりさとり様も見覚えがありますよね」
 さとりと燐は顔を見合わせる。この手紙の差出人に確証は持てないが、少なくとも確かめる価値はある。守矢神社と言う場所と、この文字は偶然として括るにはあまりにも出来過ぎていると思ったからだ。
 「こうしちゃ居られないわね。生きましょう。お燐」
 「分かりました。さとり様」
 「 ”行ってらっしゃい” 。二人とも」
 「……こいしは行かないのですか?」
 「私は空気を読むのよ。あんたら ”三人” 。水入らずで会いに行ってきなよ」
 「あぁ、寒いのね」
 「そうね。それも一つの正解だわ」
 二人して悪戯っぽく笑い合うと、さとりは炬燵から出た。今の時期に山に行くのならばそれなりの防寒着を用意しなくてはならない。一度自室に戻り厚手の洋服に着替えたさとりは燐と共に山へと飛び立った。


 妖怪の山は部外者の侵入を禁じていると言えど、参道は開放されている。そこさえ外れ無ければだれでも自由に参拝が出来る仕組みだ。寒空を駆けた二人はその神社の石段に降り立った。
 「うー、さとり様。寒いですよ上着持って無いですか」
 「うーん手袋位は持ってくるべきだったかしらね」
 さとりは自然な動作で燐の手を繋ぐ。さとりの手もまた冷たかったが暫くするとじわりとした温もりが掌に広がって行った。特に急ぐ訳でも無いがその取り居の向こうには確かに何かが居る気配がある。はやる気持ちを抑え二人は雪で滑る石段を踏み外さぬ様、ゆっくりと石段を昇っていた。
 かつりかつりと足音だけが山に響く。この一歩一歩が山彦となったと錯覚しそうな程に辺りに音と言う物が欠落していた。かつりかつりと石段を昇る。境内までは後数段。謎の手紙が待つと言っていた場所が視線に入る。そこには、確かに何者かの姿が有った。
 かつりかつりと石段を昇る。
 一歩脚を踏み出す毎に胸の中に浮かんだ気付きが形を為し始める。
 一歩脚を踏み出す度に気付きが確信へと繋がる。
 最期の一歩。境内へと脚を踏み入れた二人はその気配の主を視界に捉え、そして。

 『ここは神の居所ぞ、妖なるものが何用か?』

 世界が静止した。厳かな気配を伴った人影が二人に威厳たっぷり問いかけているが、耳に入って来ない。頭が現実に置いて行かれ返事をする事もままならなかった。
 それは予想通りの光景。
 予想はしていたが信じる事は出来なかった。
 眼を見開いたまま静止するさとり。燐がさとりに飛び付きぱくぱくと口を開けるが言葉にならない。
 それは本来なら果たされない筈だった邂逅。
 鴉の少女に恋した神が起こした最期の奇跡。
 唯只管に再会を願い、長い年月を掛け受肉に成功した神の努力の結晶。


 新米の神様は一向に動き出さない二人に根負けをして、子供の様にぷっと吹き出した。少女が浮かべるのは朗らかな笑み。酷く懐かしくそして優しい笑み。
 さとりが自然に流れ出した涙に気が付いたのは、その雫が地面の雪を溶かしてからの事だった。




 「ただいまです、さとり様」