BOOKS 東方同人誌

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[ クリエイター ]
肥溜め落ち太郎 / 水田アマガエル

Annus Horribilis 

2017年03月11日更新

カテゴリー
東方同人誌, 小説
発行イベント
紅楼夢10
ページ数
360
版型
新書
発売日
2014/10/12
価格
1400円

 死んでたまるか。私は知識と添い遂げる。
 多分、彼女が初めてそう思ったのは曽祖母の棺にかぶさる土を眺めていた時で、齢にして八の時分だった。世界に存在する不明の数と比較すれば、人間の寿命は余りにも短い。それは魔術師の家系である彼女を恐怖させるに十分な現実だった。
 彼女のゆりかごは魔術によって揺れていた。彼女の食事は小瓶から生成される炎で調理されていた。だから、物心の付いた彼女は、当たり前のようにグリモワールを開いた。
 魔術は彼女の楽しみだった。一つの新たな発見が一つの理解と新たな十の謎に繋がる。地平線のそのまた向こうを眺めてもまだ足りないのかとも思える研究の道。それが、魔術に触れ始めたばかりの彼女には嬉しくて仕方がなかった。紙片と有機溶媒の間を永遠に漂っていたい。
 だから、彼女にとって曽祖母の棺は眼前に突如として現れた通行止めの札だった。
 死んでたまるか。私は知識と添い遂げる。
 捨虫と捨食の法。それが唯一、研究から死を退ける。体の成長を停止させる捨虫の法と、食事や睡眠を不要とする捨食の法。二つの術式完成をもって彼女の悲願は達せられる。しかしそれは、エルサレム奪還を掲げる遠征が形骸化する前より続く彼女の家系で、いまだかつて一人として完成させた者がない術式だ。だから、秀才に過ぎない彼女が十年と掛からずに目標を達したのは、死に対する過剰な恐怖と、生来の研究者肌が幸いしたからだ。
 魔法使いとなってからの日々は美しく華やかだった。昼となく夜となく魔術研究に明け暮れても、腹も空かなければ眠くもならない。否。魔術研究こそが、彼女にとっての睡眠であり糧となっていた。十年か二十年か。もしかしたら数百年かもしれない。とにかく気が付いたらパチュリーは一人だったが、特にそれ自体を悲しいとは感じなかった。台所の床で埃を被った白骨を前にして思った事は一つ。
 死ななくて良かった。私は知識と添い遂げるのだから。
 だから、魔女が不死では無いと気が付いた時に彼女はただただ悲しみに暮れた。予兆はボヘミアの義勇兵が放った号砲。しばらくの時を置いてそれが本格化したのは、ビスマルクの演説を発端とする一連の戦争からだった。工業化された生産都市から漂う煤煙(ばいえん)が肺を冒し、大気に満ちる魔力濃度の低下が、症状を悪化させる。森の中に籠っていては死を待つばかりなのは明白だった。
 彼女は苦悩した。この場で魔術と枕を共にするのか、森を出るか。数か月後に彼女を決心させたのは、魔術詠唱の代わりに飛び出た黒い血液だった。濃厚な死の気配に追われるように、彼女は森を飛び出した。
 死んでたまるか。私は知識と添い遂げるんだ。
 それからの時間はカトリックの気狂いと、二度の大戦が巻き起こす戦火からの逃避に費やされた。長い長い逃避行の果てにユーラシアを放逐されたパチュリーが辿りついたのは新大陸。
 死んでたまるか、私はただ知識と添い遂げたいだけだ。
 たとえ、オカルトを裏切ろうとも。
 ただその一心が時代遅れの魔女を生かしていた。










第一章 パチュリー・ノーレッジ









 沈む船からは鼠だって逃げだす。
 危険察知能力に長けた動物だからこそできる芸当だ。簡単に死ぬ弱い動物ほど発達する傾向にあるが、人間にも多かれ少なかれそんな能力は備わっている。だから、大嵐のど真ん中を航海予定の船は人気がないし、オンボロの船に好き好んで乗り込む者は居ない。それが沈むと分かっているなら、なおさらである。
 だから、彼は思ったのだ。彼女はきっと人間以外のなにかだろうと。
 「彼女、今日も一人ですね」
 オフィス最上階にあるカフェテリアの一角。隣のビル屋上にある室外機とコンクリートがよく見渡せる角テーブルが彼女の定位置だった。
 彼女は一見すればどこにでも居るOLだ。だが、彼女の肌は病的なくらい白く、その背は発育不全を疑うほどに小さい。眠たげな表情から隈が消えた所を見た者は、誰一人として居ない。非凡であるはずの美貌が不気味という印象以外を与えないのも、ある種の必然だと彼は考えていた。
 「ああ、そうだな」
 淡々とした動作でクラブサンドを頬張るのは、数ヶ月間変わらない光景だ。
 「ああ、今日も体に悪そうな物ばっかり。あの子、日に日にやつれてる気がしてるんですよ。野菜食えって言ってんのに聞きやしないし。マルフロイからもなにか言ってやって下さいよ」
 「そうは言ってもなぁ……、リズ。私はあの子の雇用主であって、保護者じゃないんだ。そこまで干渉はできない」
 マルフロイと呼ばれた男が薄くなった頭皮を搔き、ため息を吐く。対面に座るリズが向けるのは非難するような視線。
 「ものは言いようね。雇ったのは貴方でしょうが」
 「優秀だろう? 彼女。今のユーカリオンにはあれくらいの人材が必要なんだよ」
 「G社から契約切られちゃいましたからね」
 「おかげで私達はすっからかんだ。ユーカリオン社が時代の寵児なんて言われたのも今は昔。優秀な人間は次々に居なくなって、残っているのは、君やドクトロウみたいに付き合いが古いのだけになってしまった」
 「だったら彼女は余程の変わり者って事になりますね。驚きましたよ。この期に及んであなたが人を雇うなんて言い出した時は」
 「言ったじゃないか。今のウチには彼女くらいの人材が必要なんだ」
 「確かに頭はずば抜けて良いと思います。でもね、私良くないと思うんです。いくらなんでも協調性に乏し過ぎるかと。彼女が影でなんて呼ばれているか知っています?」
 「……ああ。知っているよ」
 マルフロイは無言で席を立ち。彼女の元へと歩み寄った。
 「おはよう。ノーレッジさん。隣、良いかな?」
 魔女みたい。
 影でそう囁かれていることを、彼女はまだ知らない。




◇◇◇◇


 二〇〇〇年一月の空は暗く。降り注ぐ雪は雑音を吸い込む。ボストン、ハイウェイ一二八号線沿いのサイバーシティに彼女は潜んでいた。


 彼女は一人と読書が好きだった。
 読書とは筆者との対話である。対話に他の人間はノイズ以外のなんでもない。だから、彼女は今日もカフェテリアの一角でコーヒーをすすりながら窓の方向を向いている。極度の近視はお手軽に一人の空間を与えてくれるからだ。
 しかし、それも万全ではない。なぜならこのままでは本が読めない。
 「はぁ……、人間って不便」
 胸ポケットから取り出した分厚い眼鏡を鼻に引っ掛けて小説のスピンを手繰る。再開されるのは、主人公の勃起とロケットの軌跡を巡る物語。紙面に並ぶ文字を見る度、行間から漏れる思考を掬いとる度、穏やかな高揚感が胸の内に産まれる。
 もっと深く、もっと身近に世界を感じたい。なのに、紙面と体を隔てる分厚いガラス板がものすごく邪魔だ。もどかしさに耐えられるほど彼女は我慢強くない。だから彼女は外すことにした。
 「……いぃ」
 視界はクリアでどんな違和感も無い。つるが触れるむずがゆさも無い。
 「ノーレッジさん。隣、良いかな?」
 突然に視力が回復したわけではない。眼球表面に突如として出現した濃密な大気が光を屈折させているだけだ。それが無ければ、足元すら見えないだろう。
 「ノーレッジ……、さん?」
 魔法とは言えニッチな分野なら便利なことだってある。普段使わないのは人に見られたくないだけだ。もっとも、快感に酔いしれる彼女がそんな事を考えているはずもない。
 「いぃ……」
 「あぁ、すまんな」
 がりりと、イスがタイルを削る音に意識を戻した時、眼の前には呆れ顔のマルフロイがいた。
 「無断でレディーと相席なんて、ずいぶんと無作法な事をしますね」
 「いや、君さっき良いって」
 「……言ってません」
 睨みつけてもまるで手ごたえがない。それどころか、はす向かいの闖入者はカフェを事務所と勘違いしているとしか思えない自然さで、持参した缶二つと二アップ印刷した論文を広げはじめた。
 「缶入りのコーヒーは見た事があるかい?」
 「そんな所でケチるなら家で淹れてこられたらどうです?」
 「時は金なり、フランクリンも言ってるじゃないか」
 「その手にある物でチャラだから無意味じゃないでしょうか。なにしに来たんですか?」
 「おや、社員とコミュニケーションを取りに来ちゃ駄目かい?」
 「そんなのは暇な時間にでもやって下さい」
 困った様な顔で缶のプルタブをあける男。若干頭皮が薄いことを除けば精悍な印象を与える。彼、バーナード・マルフロイは、ユーカリオンの最高経営責任者(CEO)であり、つまりは彼女の雇い主である。
 「おっ、それ。僕も大学時代に読んだよ。懐かしいね、結局最後まで読み切れなかったけど」
 「予算取って来て設備投資しろつってんだよ、ハゲ」
 「入社した時の君はもう少し愛想が良かったと思う」
 「その時の貴方は私に知的興奮を与えてくれていた。それじゃ今の貴方は? 媚の対価になにがベットできるの?」
 「あー。缶コーヒー。要るかい?」
 ぼりぼりと頭を掻くマルフロイからは威厳が微塵も感じられない。無理もない。彼の性質は経営者と言うより研究者に近い。期待していなかったとはいえ、ため息を隠す事ができなかった。
 「馬鹿にしているんですか? 巷(ちまた)じゃ、ニューエコノミーだとか終わらない経済成長なんて噂をされてますけど、はじけるから泡なんですよ。現実に、G社はウチとの共同研究を打ち切った。期限内に臨床のフェーズⅠに進む目途が立たなかったことが名目ですが、明らかに経営上の判断です。早く成果を出さないと本当に身動きが取れなくなりますよ」
 あと、フタを開けてから下さい。そう付け加えて、彼女は本に眼を戻した。
 「身動きを取るお金がないから困ってるんだよ。ノーレッジさん」
 小気味の良い音と共に安っぽい香りが漂い始める。彼女はそれを受け取りおそるおそる口を付けた。
 「残念ですが、期待外れです」
 ユーカリオンはいわゆるバイオベンチャー企業だ。一九八〇年代に出現した彼らは、大企業(ビッグファーマ)とライセンス契約を結ぶことで成り立っている。確固とした経済基盤を持たず個人投資家や他企業からの出資に頼り切った彼らにとって、契約の喪失と倒産はあまりに近い概念だ。
 「……前から聞きたかったんだが、君はどうしてウチに入ろうと思ったんだい?」
 「知った顔の方が働きやすいかと思って」
 「昔、会ったことあったっけ?」
 「訂正。なんとなくですよ。さぁ、長年の夢が叶って満足したでしょう? とっとと、商談に向かわれたらどうですか」
 「そうだね。リズの視線がそろそろ痛い。お暇させて貰うよ。邪魔して悪かったねノーレッジさん」
 「いえいえ。健闘を祈ります」
 勝ち取った静寂を噛み締める間もなく、昼休憩は終わりを告げる。席を立ってから三度も足を出さない内に、カフェテリアの静寂は失われた。
 「つぅ……、人間のフリをするのも楽じゃないなぁ……」
 胸ポケットから分厚い眼鏡を取り出す。クリアになった視界に少しだけ安堵した。




◇◇◇◇


 なめらかな羊皮紙(スランク・ヴェラム)を膝に乗せ、ただただ無心に書きつづる。意識は指先にすら存在せず、思考が紙片と身体を巡り続ける。それが彼女の日常風景。ただ、それが昨日から続いているのか、二時間前なのかは分からない。
 学問に意識を溶け込ませ、昼と夜の区別もなく魔道書をつづる。書架を埋め尽くす自筆の書にもう何度破顔しただろうか。でもそんなのは当然だ。睡魔に中断されることもなく。空腹に注意を削がれることもなく探究を続けることは、魔女にとって至上の幸福だ。
 邪魔者を寄せ付けない、地下深くの工房。カンテラの揺れる灯りが部屋を照らし、冷たい石の壁に、耳をつんざく電子音が反響する。
 閉じた瞼に焼き付いているのは、自慢の工房。
 開いた瞳に映るのは、つけっぱなしの蛍光灯。
 「……ぅ、ぁ……、……ぁ?」
 とっさに掛け布団へ潜りこんでも、携帯電話(セルフォン)の目覚ましアラームは止んでくれない。決死の思いで伸ばした腕が掴み取る一時の平穏。続きを。早くあの仔牛の皮につづりかけの結界構築理論をまとめなければ。そんな淡い願いを胸に抱き、体は意識の底へと深く沈んでいた。
 その十分後。まだまだ寒い二〇〇〇年二月の朝は、予備のアラームと、魔女の呻きで始まった。
 「あーっ、もう。馬鹿か! クソか! 今日は早出だったじゃん」
 眠気も吹き飛ぶような焦燥感に突き動かされ、パチュリーは洗面台にへばり付く。焦りで震える指先が、めちゃくちゃなアイラインを目じりに落く描いた。
 心を落ち着かせるため深呼吸を一度、二度。そして、こんな状況に陥った自分を戒めるために神への祈りを。
 「クソが……、アホか……、もうせん。夜更かしなんて絶対に」
 不毛な三分間の祈りは数カ月欠かすことのない彼女の日課だ。それ自体に問題なんてなに一つない。誤算だったのは、デッドラインまでは数分も無かったことだけだ。
 「やばい、やばい、やばい、本気でヤバいって、阿呆か私は」
 目元の隈隠しも、朝一杯のコーヒーも、寝癖のついた髪を梳かす間もなく出勤用鞄とコートだけをひっつかむ。
 「行ってきます、マーリン」
 玄関脇にたたずむトーテムポールに別れを告げ、ドアノブを回したその時がジャストデッドライン。
 扉の隙間から吹き込む風がパチュリーの勝利を祝い、冷気が根こそぎ気力を奪った。


 パチュリーの自宅から最寄り駅までは遠くない。メインストリートを一本逸れた脇道を使えば十分といった所だろう。赤サビにまみれたフェンスを潜り、空き地の中を突っ切れば更に一分は縮む。脇道の途中にある広場では、変な態勢でホームレスが寝ていた。頭から血を流しているあたり、夜中に追い剥ぎか時代錯誤のオカルトに会ったのだろう。遅刻するのが面倒なので、そのまま素通りして出発直前の地下鉄に飛び乗った。
 コンプレッサーの排気音と共に、暖気が身体を包みこむ。ほっと一息。ユーカリオンまでの十五分を仮眠に充てようと、辺りを見回す。絶望。まばらな車内にも関わらず、人々は行儀よく一定間隔で座っている。誰かのパーソナルスペースに侵入しない限り、座る事は不可能だろう。
 十五分の棒立ちを覚悟したせいか、ぐぅと、大きくお腹が鳴った。鞄に忍ばせたはずのスニッカーズを探る。絶望。常備していたはずのスナックは空袋となり果てていた。
 大きなため息を吐く。なんの気なしに見やった電車のガラスに映るのは、病人みたいな顔をした女が一人。その目元の隈がいつから消えなくなったのか、思い出せなくなってもう久しい。
 科学に制圧された世界では魔力の回復が遅い。捨虫や捨食の法を維持していては、あっと言う間に干からびる。だから、パチュリーの選択肢はたった二つだった。
 ジリ貧の不死か、欠陥だらけの長命か。
 今も続く胃袋の主張がパチュリーの答えだった。やせっぽちの体には拍車がかかったし、喘息で死にかかったことは一度や二度でない。それでも、大多数のオカルトに比べれば幸運だ。少なくとも彼女自身はそう思っている。
 まだ生きている。科学に制圧されながらも、魔女として生き延びている。
 マニュファクチュアの発達から現代に至るまで。命を落とさなかったオカルトを数える方が圧倒的に早い。そんな中、病弱な彼女が生き延びられたのはもちろん偶然じゃない。
 「ねっみぃ……」
 それは、仮説にも満たない願望だった。疑似的に存在意義を満たし、魔女としての体を騙す。オカルトの潰えた世界にあって、体だけでもオカルトの世界に居ると錯覚させれば、多少なりとも魔力が回復するのではないか。そう言う訳で、現代の魔女は今日もユーカリオンの最寄り駅に降りる。
 科学だって、知識には違いない。
 そんな馬鹿げた仮説を、今日も証明するために。





◇◇◇◇


 駅を出てハイウェイ一二八号線沿いにしばらく歩けば、ユーカリオンは見えてくる。そこに立ち並ぶビルはどこか古びた印象があるし、所々には閉鎖された工場施設が見える。
 ここは一九〇〇年代の前半まで、ニューイングランド工業地帯の一角だった場所だ。かつては米国産業革命の心臓を担った地域であるが、施設の老朽化と平均賃金の上昇により撤退する企業が相次ぎ、一度は廃墟同前の姿を晒していた。
 そして現在。再開発局のプロジェクトにより、サイバーシティとして作りかえられたそこには、手厚い優遇制度を当てにした小規模な企業が数多く軒を連ねている。それは、金の無いユーカリオンも例外ではない。
 社屋を目の前にして、冷たい風が肌を刺す。冷えきった指先はしばらくまともに動かないだろう。自販機で買ったポタージュを取り出し、二度三度フタをひっかいた。
 「……む」
 寒空の下、数分もそんなことを繰り返してようやくプルタブを起こすことに成功する。暖かな液体が、身体の芯を溶かしていった。
 当たり前と思うかもしれないが、パチュリーは自分が魔女であることを隠している。
 未知への恐怖を糧とするオカルトが公になることは自殺にも等しい。少し前までなら一度姿を見られてしまったら殺すか殺される以外に選択肢がなかった。死に物狂いで隠ぺいに奔走した回数は一度や二度で済まないだろう。
 その点においてだけ現代の世は素晴らしい。魔女の実在なんて目の前で手から炎でも出さない限り誰も信じない。そう考えれば日常で魔法が使えないことも苦にならない。人間に紛れる限りどうせ使えないのだから。
 パチュリーは握ったコーンポタージュの缶をじっとみつめる。マフラーの内で漏れるため息は、仄かな温もりがもたらす安堵感か、こんなことすら科学に頼らなければならない情けなさ故か。二月の終わり。わずかばかり和らいだ寒気は、容赦なく露出する皮膚を刺した。
 「くっそ、飲み方ミスった……。超残ってるし……」
 到着の遅いことで有名なエレベーターを待つ間、ころころとスチール缶の底を踊る粒と格闘する。ふいに届いた背面からの物音がパチュリーの首をマフラーに埋めた。
 「お前、昨日ガレンテの発表を見に行ってたんだろ、どうだった?」
 間もなく耳に届き始めるのは下らない会話。聞くに堪えない言葉の羅列。
 「そんなもん、大盛況だったに決まってる。なにが、赤葡萄の汚い薬(レッドベリーのダーティードラック)だ。あんなもん、偶然か、せいぜい線虫を健康にしてやっただけに決まっている」
 当然のように続く言葉は、嫌でも耳を通過する。
 曰く、抗酸化物質に対する疑惑は強まる一方である。
 曰く、元から抗酸化物質による寿命延長には重大な問題が指摘されていた。
 曰く、抗酸化物質が持ち上げられたのは、好景気に舞い上がった投資家の眼に止まったからに過ぎない。
 曰く、ユーカリオン唯一の業績は、老化研究が金になることを証明したことである。
 曰く、ガレンテのサーチュイン遺伝子に注目が集まっている。
 曰く、アメリカ国立衛生研究所(NIH)も抗酸化物質の研究から手を引いた。
 曰く、ユーカリオンは捨て石にされた。
 曰く、曰く、曰く。
 耳孔に風防魔術を展開。ようやく世界から音が消える。
 それは、情報交換なんて建設的な行為とは程遠い。極めて不毛な感情のやりとり。愚痴と言われるものだ。体系化をベースとする彼女の思考とは絶望的に相性が悪い。
 魔女が知的探求によって命を繋いでいるのなら、彼ら人間は金によって命を繋ぐ存在だ。高度に発達した社会があまりに死をひた隠すから忘れがちになるが、彼らにとって金は食事で職とは縄張り。失ったら後に行きつく先は、朝に見たホームレスだ。
 人間も人間で大変そうねぇ。月並みな感想と共に捨てた空き缶が、ゴミ箱の中でカランと音を立てた。


 「あんた、ずっとスーツだよね」
 立てつけの悪いロッカーと格闘していたら、いつの間にか隣に人が立っていた。ずんと心が重くなるも無視する訳にもいかない。
 真横に居るのは素知らぬ顔でコートをしまう面長の顔。同僚のリザだった。
 「……なにか問題が?」
 「いや、めんどくね?」
 ユーカリオンにスーツ着用の義務は無い。外に出ない限りは私服勤務が許されていたし、実際ほとんどの者は私服だった。
 「選ぶ方が面倒でしょ。その時間で寝れば無駄にもならないし」
 「絶対私服ダサいよね」
 「うっせぇ黙れ」
 引きつった様に笑いながらリズが謝罪する。例え事実でもそれは不快だった。
 「冗談。でもさ、男にちやほやされるのは誰もが持つ権利よ。持っている駒を使わないで損するのは、ストイックじゃなくって無能よ。知ってる?」
 「私にとって、知りもしない人間に話しかけられる事がどれ程の苦痛と恐怖心を伴うか。多分貴女には分からないのでしょうね」
 「分からないし、分かる様になるのも難しいだろうね。多分、ものすごく」
 「これだから、最近の若い奴は……」
 再び笑いながら謝罪する同僚を横目に、パチュリーはロッカーとの格闘を再開する。勢いを付けて取っ手を引いたら、脱ぎかけのコートから『時計』が滑り落ちた。部屋に響くからりと乾いた金属音。
 「あんたが浮世離れしているのは、言動と雰囲気だけだと思っていた」
 「……なんでよ、カッコ良いじゃん」
 リノリウムのブラウンに黒ずんだ銀が横たわっている。最低限の構造を持った懐中時計は、一五分程の誤差を持って時を刻んでいた。
 「いやいや。洒落っ気が無さ過ぎでしょ。どこで買うのよこんなの。アンティーク・ショップだったらもう少しマシなのがあるでしょうに」
 「買ってねぇよ。喧嘩売ってんのか」
 「……おばあさんの形見? あぁ、うん。なんかごめん」
 それも違う。そう言いかけてやめた。まさか、一〇〇年以上前に自分で組んだとは言えない。「まぁ、そんなとこ」曖昧な返事を考えている内に、リズは部屋を出ていた。
 拾い上げた時計をポケットに突っ込む。掌に伝わる温もりがあんまりにも懐かしい。
 「保険は大事よね」
 ため息と同時に、ロッカーが開いた。




◇◇◇◇


 重い。重い。重い。
 てのひらの籠が重い。慣れないものを食べた胃袋が重い。自分への関心が重い。
 最新式の積層型キャピラリーシーケンサーから吐き出される生データと格闘した午後。作りかけの報告書にアラインサーチの結果を張り付ける。ただそれだけの作業ですらも、込み上げる嘔吐感が邪魔をした。
 始まりは午前の終わり。視床下部の中枢に導かれるまま、ブラックペッパーの効いた肉ばかりのクラブサンドを求めて席を立とうとした時。リザが突き出した小さなバケットが悪夢の起点だった。
 中に入っていたのは、野菜とは名ばかりの塩漬けにキノコやチーズ、豆腐が挟まったサンドウィッチ。うんこが出ないとの脅しと共に渡されたそれは、丁寧な処理をされたカフェのクラブサンドよりもよほど油分が多い。そして、受け取ったからには食べきらねばならないと思ってしまったことが、次の悪夢。
 長い胃痛との戦いの果て、ようやく巡り合えた定刻数分前の時計。厄日と呪う彼女の前に現れたのは、最後の悪夢だった。
 「君が料理をするなんて驚いたな」
 いつの間にか隣のデスクにはマルフロイが座り、紙片をめくっている。眼鏡をはずしていたのではっきりとは分からないが、どうやら新聞のようだ。
 「なにかのジョークにでも見えますか?」
 「中々良いセンスだと思うよ。ウチは老化研究を掲げてるからね」
 苦笑にも似た顔をしているのだろう。見えないが。
 「いっそ、『EUK-8』でも飲んで見せましょうか。五〇年もあれば結果が出ると思いますよ。多分」
 「それは違う。『EUK-8』は寿命を延長する物質じゃない。加齢による病を抑制する物質だ。だから、君にはぴったりだよ」
 『EUK-8』はマルフロイの発見した抗酸化物質であり、現在ユーカリオンが開発している抗酸化物質の原型である。
 ユーカリオンは老化学を主な研究領域とするバイオベンチャーである。
 しかし、この老化学は一昔前まで科学の分野ですら無かった。大きく変化したのは、五〇年前。それは、境界科学(フリンジサイエンス)ですら無かった老化研究が、初めて科学の分野に足を踏み入れた時である。
 一九五六年にコーネル大学のデナムハーマンが提唱した『老化のフリーラジカル仮説』から、マルフロイの研究はスタートしている。
 つい最近まで、オマハはネブラスカの大学医療センターで働いていた男が四〇の頃に提唱した仮説は、簡単に言うならば、ATP生産の際に発生するフリーラジカルが細胞を傷つけ、老化が進行すると言うものである。
 化学の分野で、フリーラジカルは対になっていない電子をもつ分子を指す。不対電子と呼ばれるそれを持つ原子や分子は、電子が一つ足りない状態を打破するために、近くの分子や原子から電子を一個横どりをする。原子間を繋ぐ化学結合は電子によって繋がれているため、ラジカルによる強奪を受けた分子は変形ないし崩壊してしまう。それだけに留まらず、フリーラジカルによって電子を奪われて傷を負った分子やその残骸自体も、電子が足りない状態になるためフリーラジカルとして働いてしまう。
 このマイクロ秒単位で起こる連鎖反応が、細胞内の様々な物質を傷つけ、老化を引き起こす原因であるとする説がフリーラジカル仮説である。
 補足するならば、生物学の分野で主に問題となるのは酸素原子と水素原子が一個ずつ結合したヒドロキシラジカルであり、これは活性酸素種とも呼ばれる。また、ヒドロキシラジカルはスーパーオキシドから活性酸素を経て発生する。
 そして抗酸化物質とは、ヒドロキシラジカルを始めとする電子が一つ足りないフリーラジカルに対して電子を与え、自身はフリーラジカルにならないと言う特徴をもつものを指す。フリーラジカルによる連鎖反応を止めることから、連鎖停止剤と呼ばれることもある。
 フリーラジカル仮説の登場直後に大きな反響が起きることはなかった。小さな分子が引き起こすマイクロ秒単位の現象が身体全体の老化に影響を与える等、にわかに信じられる話ではなかったからだ。
 それが、真実味を帯び始めたのは一九六八年。フリードヴィッチとマッコードが牛の赤血球から青緑色のタンパク質を単離したことが切っ掛けである。これは、後にスーパーオキシドディスムターゼ(SOD)と呼ばれ、スーパーオキシドを過酸化水素と酸素に変換する反応の触媒であることが分かった。それと期を同じくして、フリーラジカルが全身の活動により絶えず生み出されている事、SODがその有害な働きを抑える要である事も分かり始め、『老化のフリーラジカル仮説』は老化学の主流として成長を始めた。
 その後、発生した幾つかの矛盾点を取り込み、ミトコンドリア-フリーラジカル説として成熟したハーマンの主張は、一九八〇年から一九九〇年に掛けて数々の証拠によって補強され、時代の潮流と化した。
 そして、その波の最先端に居た企業こそがユーカリオンである。ユーカリオンの打ち立てたビジネスモデル――つまり、抗老化薬を老化に伴う病に対抗する処方薬として開発すること――は、従来の怪しげな健康食品を売る企業と一線を画する事に成功し、老化学を正当なビジネスの領域に引き上げた。そう言う理由で、ユーカリオンは老化研究の寵児と祭り上げられ、二十名程の研究者集団と言う小さな組織では考えられない程の輝かしい成果を上げるに至った。のは過去の話である。
 「それこそ面白い冗談ですね。人に使えたなら、今苦労してないでしょうに」
 『EUK-8』を元にした長命薬が、どれも臨床試験に到達できなかったこと。『フリーラジカル説』そのものに懐疑的な見方が出て来たこと。それらが、経済状況の悪化に重なってしまい、ユーカリオンはすっかり凋落してしまった。
 「痛い所を突くね。でも、ウチはヨソと違って人が少ないから。すぐに致命的な事態に陥ることは無い」
 「そうね。ヒトが少ないから、自分だけじゃたいしたこともできないですけれど」
 「そこは、そう。君に期待しているんじゃないか」
 「他人任せとか。ウチもいよいよ終わりかと思うので、勘弁して下さい」
 「もちろん。僕も全力を尽くして資金を取ってくる。各人は各人のできることを全力でやる。それだけのことさ」
 「そうですね。費用も施設も共同研究先も無い状況で、誰もが手放しで称賛する画期的成果を挙げる。もしくは、新たな支援企業か馬鹿で人の良い投資家(エンジェル)を取ってこれるように頑張れば何の問題もありませんね。私は帰ってジャーキーを齧ってますから」
 マルフロイが真面目な顔に戻る。しばらくして口を開いた。いつもの詩でも謳うような間延びした口調では無い。低く、自信と覚悟に満ちた男の声だ。
 「そうだねぇ。費用を掛けず、キャピタリストを納得させるだけの成果を得る。そんな方法が、あるとしたら、どうする?」
 「さっき言ったじゃないですか。それを判断するのは私の仕事じゃありませんよ」
 「真面目な話だ。君が手伝ってくれたら、ずいぶんと仕事が楽になる」
 唐突に静まり返る事務所。周りでは同僚がまだデータと格闘しているし、廊下は研究員が行きかっている。だから多分、それは錯覚だ。いつに無く真剣な中年男に面食らっただけに過ぎない。だから多分、これは錯覚だ。この中年男に畏れを感じているのは。
 冷静に、落ち着いて返す言葉を選ぶ。おそらくは、この男が話しているのは冗談だ。そんな都合の良い方法があるはずない。対価のない成果を得るなんて、オカルトの世界ですらオカルトだ。ましてや人間になどできるはずもない。ならば、選ぶべきは一つ。
 「あらそうですか。ロリコンの相手なら慣れていますよ。これを一発ズドンと。それで終わりですから」
 沈黙が続く。秒針が跳ねる音ばかりが鼓膜を震わせる。どうしてこんなに緊張しているのか。パチュリー自身も理解できない。一分、二分。主観時間が過ぎる。じわりとグラジエントする中年男の顔。いつも通りの苦笑した様な顔に、伸ばした人差し指の先を制された。
 「まぁ、その分なら大丈夫そうだね。でも、一応気を付けて帰った方が良い。最近通り魔が出るとの噂だから」
 ふと見た腕には、定刻を過ぎた時計。
 「なにそれ、聞いたことない。ソースは? 錠剤(タブロイド)なんて言わないで下さい」
 「それなりに信用できるスジだよ。なにせ、これだから」
 マルフロイが手に持った紙片をちらつかせる。
 「どういう意味ですか……」
 「まぁ、気を付けるに越したことはない。君は大切な社員の一人だから」
 ぽんと肩を叩き。時代錯誤な吟遊詩人が廊下へと消えて行く。厄日の終わりか、緊張からの解放か、全身にどっと疲労感が押し寄せた。
 先程までマルフロイが居た机には、幾つもの紙片が広がっていた。それは、何部もの何週間にも何種にもわたる。大衆紙の切り抜き帳(タブロイド・スクラップ)。
 「物好きな。こんな低俗な文字。眼に入れるだけで頭が痛く、——」
 人生で一度も見た事がないそれに視線を向けてしまったのは魔女の好奇心だ。そして、それを後悔したのは魔女の警戒心である。
 ぐるぐる天井が回る。くらくらと眼が揺れている。頭が重くて仕方ない。今日はもう帰ろう。そう、決意した




◇◇◇◇


 エア・コンプレッサーの無機質な音をきっかけに、冷気が世界に戻ってくる。首をマフラーに埋めてパチュリーはホームに降りた。
 帰宅ラッシュからそれ程遠くない時間帯。駅のホームには学生や、スーツ姿のサラリーマンが行き交っている。その顔の大体に見覚えはある。名前は知らない。興味も持てない。
 だから家に帰ろう。それで泥のような倦怠感と頭痛から解放される。裏道は使わない。急ぎもしないのに、悪路を行くほど物好きでは無い。
 駅前の通りを真っ直ぐに行けば、見えるのは小さな高架とその先にあるT字路。そこを右に曲がれば自宅へ続く道で左折すれば市街地だ。側頭部に迫る痛みに怯え、足を速めようとした時。ふと眼に入ったそれが、パチュリーの足を止めた。
 しばし黙考。品揃えの悪さで有名なセブンイレブンの店舗でも、晩酌の種を揃えるくらいなら不便しないだろう。財布を確認。使い道のないドル札が何枚か顔をのぞかせた。誘惑が足を動かすのには数秒も要らない。数分後の魔女は、店の前でお気に入りのバドワイザーと見慣れない銘柄のサラミが入った袋をぶら下げていた。
 厳しい冷気が身体を現実に引き戻す。びゅうと吹く北風に紛れる金切り声。
 幸福な重みに心を弾ませながら、高架下をくぐる。短い別世界(トンネル)。頼りない白熱灯が照らす世界にあるのは、段ボールに紛れて覗くホームレスと赤い水たまり。それを踏まないようにトンネルを抜ける。びゅうと吹く来た風邪に紛れる金切り声。
 高架下を抜けた道の突き当たりでパチュリーは足を止める。このT字路を右折すれば自宅。左折すれば市街地へ。
 側頭部に広がる鈍い痛み。ほんの少しでも油断したら吐いてしまうだろう。
 頭が重くて。身体が重くて。足が重くて。それでも、頭痛は止まってくれない。
 「本当に……、今日はろくなことがない」
 北風に紛れる、小さなため息一つ。
 それから暫くして、コンクリの壁に反響する足音が一つ。



◇◇◇◇


 いつにも増して穏やかな風と、仄かに香る磯臭さ。
 ふわぁと欠伸を一つ。頭上を流れる雲は穏やかで、F型フォードはせいぜい数分に一度足元を通るだけだ。驚くほどの田舎道。ふと空を見上げれば耳にも、肌にも、眼にも、人工物は入らない。三〇〇年前のヘッセンだって、もう少し栄えていただろう。
 地平の先まで道路は続くし、タワーは遥か遠方にしか無い。視界の端。ろくな手入れもされずに錆びた緑看板が示すのはこの場の地名。カリフォルニア州、オーシャンサイド。そのまた片田舎に彼女はもう何日も留まっている。
 控えめに言ってへんぴな場所を訪れたのだ。もちろん理由なんてない。言うなら暇つぶし。または、頑張った自分へのご褒美。以前の職場が潰れ、貯蓄が底を突き、行くあてもなくさまよっていたら、昼寝をするのにちょうど良いぼろ屋があった。ただそれだけの話だった。少なくとも最初はそうだった。
 ふいに鼻先を撫でた排ガスに思わずむせる。海からの凪が今日に限って穏やか過ぎたらしい。だから、ほんの少し居場所を移す。道路側から海側へ。石綿スレート(コロニアル)の屋根板を踏み音も無く生垣に入り込む。寄せては返す白波が枝の合間から潮風を届けた。
 遠ざかったエンジン音の代わりに、鼓膜を震わす生活音。
 とくん、と胸が弾む。
 小さな期待を胸に振り返った。閉じられないブラインドの向こう側。そこに居たのは忙しなく行き交う人々だった。
 とくん。また小さく弾む胸。
 若かったり、中年だったり、男だったり、女だったり。なにもかもがばらばらで、秩序からはほど遠い。だけど、そこはどうしようもなく芳しい香りで満ちている。
 とくん、とくん、とくん。胸のうずきは収まらない。
 いつものことだ。薄いガラスの向こう側に思いを馳せるだけでこの身体は初恋の少女みたいに高揚しはじめる。そして、気が付いたらもう何週間。こうして屋根と生垣を往復する生活を送っている。
 再び戻るエンジン音。垣根から少しだけ身を乗り出したら、埃だらけの小さなジープが小屋の横に着けていた。中からは、ウォルマートの袋を抱えた数名の男女が降りてくる。袋から顔を出すバドワイザーのロゴ。それは夜明けまで続く謎の会議の備えで、毎週金曜の恒例行事だ。長らく不明だったその行動は、彼らの雑談を盗み聞く内に、ホーホーと呼ばれる飲み会と知るに至った。
 彼女には募る想いがあった。冷静に考えて馬鹿みたいな感情。あまりに危険で、あまりに実入りが少ない。しかし、彼女を思い留まらせていたのが魔女の計算高い部分なら、それを我慢できなかったのもまた彼女の魔女だった。
 そして、その日の夜。彼女は実行する。
 やることは単純。ホーホー中、開きっぱなしになることの多い裏口から侵入するだけだ。おまじない程度に認識阻害の魔法を使うとしても、魔女に空き巣の経験なんてあるはずがない。一か八か酔っ払いのおぼつかない足取りと、散漫な注意力に期待するだけだ。だから、何度も肝を冷やした末にようやく屋根裏にたどり着けたのは、多分ラッキーに分類される。
 明け方。ようやく人の気配が消えたことを感じ取り、彼女は静かに降り立つ。閑散とした事務所の中心。これまで、ガラス越しにしか見たことのなかったその場所。思わず漏れる感嘆の声。目の前に広がるのは、壁一面の棚に収められた大量の書類。数え切れない論文と試験データの山。その時の彼女は、確かに全身を駆け巡る高揚を感じ取っていた。
 一心不乱に書類を漁っていれば、あっという間に陽が昇る。それでも問題はない。なぜなら、今日は休日。土日にこの場を訪れる人間は少ないし、居たとしても夕方が主だ。そう考えていたからこそ、彼女は油断していた。
 背面に感じる衣擦れの音。おそるおそる振り返ると黒い山がソファの上でうごめいていた。しまった、注意を払っていなかった。そう思った時にはもう遅い。山は見る間に盛り上がり人の形を為して彼女を見ていた。
 「今日は……、珍しいな。そんなのに興味があるのか。お前は」
 寝起きだと言うのに妙に背筋の良い精悍な男。詩でも詠うような調子で話すそれは、明らかに警戒している。どうしよう。そんな不毛な言葉ばかりが頭を駆け巡り、眼の前が真っ白になりそうだった。「にゃ、にゃぁ……」ばかか自分は。余程の馬鹿でもない限り、下手な泣きまねなんかでごまかせる訳がない。ぐるぐると回る視界の中で言い訳を考えていたら、男が声を掛けて来た。
 「ああ、好きにすると良い。世界は広いんだ。そんなのが居たって良い」
 余程の馬鹿だったらしい。そして彼女はブランケットに潜り込んだ男が眠りについたことを確認し、再び資料の山に頭を突っ込んだ。
 何をしているんだマルフロイ。あぁ、ちょっと飲み過ぎたから、休んでいたんだよ。それは? スパイだよ。ウチの業務に興味があるらしいからね。そうか、なら丁重に扱ってやらないとな。あぁ、面倒は私がみる。しばらくなら、まぁ、構わないだろう。そうか。ありがとう。みんなも喜ぶよ、多分。
 それからの彼女はオーシャンサイドにある小さな研究所・ジェネンテックでしばらくの時を過ごした。「飽きないな。お前は」呆れたようなテノールボイスが頭上から掛けられる。研究員は誰もが親切だった。実験室にこそ入れなかったが、文献の閲覧は許されていたし、棚の上にある論文も目線を送るだけで、誰かが取ってくれた。
 まるでお前の子供みたいだな。そんな相手が居ればどれ程良かったかと思うよ。彼女の頭上で男が苦い笑いを浮かべている。そんなことを気にする様子もなく、彼女は男の膝の上で論文を眺める。
 なにもかもが初めての知識。彼女の頭脳をもってすら初見での理解は難しかった。だが、幸運にも彼らは親切だった。男の膝の上。実験データを指させばテノールが詳細な解説や参考文献を教えてくれる。それはとても丁寧だった。なんの見返りもないというのに度重なる彼女の要求に根気良く付き合ってくれた。おそらく、男にとっては息抜きのつもりなのだろう。それを理解しても、彼女は嬉しさを感じずには居られなかった。
 テノールと知識に身体を包まれる時。酷く胸が落ち着いていた。どうしようもなく懐かしかった。少なくとも、男の膝に居る間だけは全てを忘れて知識だけと寄り添っていられた。だから、男の声はグリモワールのさえずり。膝の上は地下の工房。布越しの体温がカンテラの温もり。その何もかもが、古風な魔女に戻れると錯覚した数ヶ月の夢。
 その時私は、猫だった。


 ゆがむ視界と、おさまらない耳鳴り。
 じりじり、じりじり。無機質なアラームと、不快な振動が寝不足の頭を揺らす。
 じりじり、じりじり。携帯電話(セルフォン)が枕元で鳴り響いている。起きたいなんて微塵も思っていないのに、眠り続けることは不可能だった。
 「なんで今さら昔のことなんて」
 起きぬけの頭で、ディスプレイ上のデジタル時計を確認する。デッドラインまではいくらかの余裕がある時刻。今ならまだ夢の続きが見られるかもしれない。そんな淡い期待を籠めて、ブランケットを頭から被りなおす。
 「ままならないわね。ほんと……」
 まぶたを閉じて開いて。それで、次のアラームが鳴り響く。デッドラインぎりぎりなのは、時計を見なくたって分かった。鉛みたいに重い身体を引きずって、ようやくベッドから這い出る。机の上には出しっぱなしのフラスコと書物が散乱していた。
 「そういえば、片付けもせずに寝ちゃったんだっけ……」
 それは錬金術と精霊魔術の中間的な研究テーマ。属性を持った賢者の石の創造に関する実験で、森に住んでいた頃から求め続けた、魔女としての目標に関わるものだった。
 フラスコの内部には久々に手に入った魔力触媒とその培養液が満ちている。明け方近くまで魔力を注ぎ続けたそれは、成功しているならば液内部に極小の結晶が産まれているはずだ。落胆。成果なしと呟きながら、緑黄色の液をポリバケツへ捨てた。
 「境界科学(フリンジサイエンス)って言うのかしらね。人間的には。いや、境界魔術(フリンジマジック)か。それにしても、ちょっと溜まってきたかな。どっかに消石灰売ってたかな……」
 魔術研究には環境汚染が付き物だ。重金属のたっぷり入った廃液なんてものをシンクに流せばたちまちに騒ぎが起こって場所を追われるだろう。魔術工房の立地としてはこれ以上に悪い場所はない。そして、こんなろくに魔術的な加工を施されていない建材は研究施設としては及第点にも達していない。
 「こんな簡易的な工房になにを期待していたんだろう。あんな馬鹿な仮説をどうして信じたんだろう。はぁ……、ひさびさの素材だったのに……」
 洗面台の前に立ち、シトラス風味の洗口剤をべぇと吐き出して鏡を見た。目元の隈取りをなぞり、朝一のため息。その後に続くのは日課の祈りだった。
 「最初から分かり切っていた。日に二度も食事をして、四分の一は寝てなきゃ駄目なんて非効率なんて話じゃない。人間に魔女のまねごとができるのなら、いまごろ私はここに居ない。肝心の研究だってそう。なにかにつけて成果、成果、成果。二言目にはコストと法規制。その上、CEOはまるで仕事しない無能だなんて……。なにやってるんだろうなぁ、私」
 ぼやりと浮かぶ、栗毛の髪と精悍な顔。テノールボイス。そして、心からの笑顔。思わず鏡を殴りつけた拳が死ぬほど痛くて、正気に戻った。
 「なにもかも、あいつが悪い。あいつさえ居なければ——」
 あんなばかげた仮説を立てることもなかったし、オークの杖が、ギルソンのピペットマンにすり変わることもなかった。どうしてだ。続く思考を中断するように口が動く。
 「……あの時猫だったのは、人の体を維持する魔力が足りなかったから。放浪生活も限界だった。遅かれ早かれなんらかの策は必要だった。実際に、魔女の身体を維持できる程度の魔力は回収できている。これは一定の成功と言えるはず」
 ちがう。どうしてだ。やはりその思考が続く事はなく、ただただ無意味に口が動く。
 「情けない。手段と目的が入れ替わっていることにも気が付いていないのか。今の私は。実験に回す余剰魔力がでなければ意味がない。いっそ、国立公園にでも潜り込んで、魔術工房でも建てる? 魔術研究ができる環境さえ手に入れば、使った分の魔力くらいすぐに回収できる。いや、今のストックじゃ工房なんて夢のまた夢か……」
 今のパチュリーに残された魔力は、せいぜい数カ月死なずに居られるだけの体内魔力と、大昔に貯め込んだ外部魔力がいくらか。それも決して潤沢と言えず、現在の環境では一度消費すれば、補充できる見込みは殆どない。
 「あーあ。どっかに魔力の塊みたいなオカルトが都合よく転がってないかなぁ。そいつから絞り取ってやるのに。昨日みたいなのじゃなくってさ。まぁ、ないものねだりをしても仕方ないか。いまの世の中に、昔のまま純粋な魔力を蓄えた存在なんて居るわけがないし」
 大きく伸びをして洗面台を離れる。そして、デッドライン三〇秒前。ドアノブに手を掛けながら、パチュリーはパンプスに踵を収めた。少しの余裕がある。乱れた髪を整えようと玄関横の鏡を覗きこんだ。その時である。
 「……マーリン? いや、気のせいかな」
 拾い物から削りだしたトーテムポールは、いつもと同じように間抜けな視線を送っている。パチュリーの手作りだ。その瞳がわずかに震えているはずがない。
 「寝不足かな……。多分」
 眠いしお腹は空いたし、なけなしの魔力は身体の維持で消えて行く。
 「ふぅ。そろそろ、出なくちゃね」
 それでも、パチュリーにはこれしかない。人が奇跡と呼ぶものの正体が、ただ科学とベクトルの異なった技術体系に過ぎないことは、誰よりもよく知っているからだ。
 だから、明日も今日と同じ日が続く。なんの変化もなく、ただただ先細る日々だ。
 「いってきます。マーリン」
 また、つまらなくて不毛な一日が始まる。
 パチュリーはその事を誰よりもよく知っていた。




◇◇◇


 「連続通り魔撃退。謎の女の一部始終、か」
 「マルフロイ。頭でも打ちました?」
 頭痛が痛かった。白髪混じりの精悍な顔が隣の席でコーヒーを飲んでいる。紅の混じる瞳とさざ波が立つコーヒーは、軽度のカフェイン中毒症状を示していた。阿呆だと心の中で呟く。
 「ただの息抜きじゃないか。徹夜明けなんだよ、少し煮詰まっているんだ」
 ちらと見えたディスプレイには、比喩ではない混沌があった。
 「この二週間、ホームレスを中心に通り魔事件が連続しているのは知っているよね。あくまでこれは噂なんだが、どうも犯人はただの通り魔ではないらしい」
 「まるで、特別な通り魔が居るみたいな言い方ね」
 「確かに、二・三発撃たれても平然と犯行を繰り返す人間がそうでないなら。嘘になるかもしれないね」
 「あー、きっと最近の若者は頑丈なんですよ。もしくはすっごく……、あー、その、動きが……、早い?」
 「いつから君の中で若者がゴキブリになったのか知らないが。もしも、そんな人間がいたとしたら。それは、一種のメトシェラと呼べる。それは、とても興味深いことだとは思わないか?」
 「居たら、の話ですよ。線虫と人間とゴキブリは違う。そんな永遠の時を生きて、高い治癒力を持った生物が居るはずがない」
 「だが、ストルビのコウモリは実在した。そんなメトシェラを調べることには意義があるし、実際にそう珍しいことじゃない」
 「そうですね。ついでに、そんな噂も珍しくないですね。具体的には二・三カ月に一度は耳にする程度。つーか、一旦休まれたらどうですか?」
 首を縦に振るマルフロイに妙な胸騒ぎを覚える。こいつはこんな自然な笑顔を浮かべられるほど器用だっただろうか。
 「言われなくてもそうするよ。この資料を纏め終わったらね」
 「二徹目頑張って下さい。私は定時に帰りたいので、暇つぶしには付き合えません」
 「まぁまぁ、この話には続きがあるんだ。気分転換ついでに聞いて欲しい。実はね、最近このあたりで流れる噂はもう一つあるんだ」
 どくん。胸が波打ったのは気のせいじゃない。
 「あいにくですが、家でバドワイザーとジャーキーが待ってるのでこれで」
 「君は聞いたことがあるだろうか」
 張り付いた様な笑顔が。まるでどうでも良い噂話として受け取って欲しいと知らせているような表情が。パチュリーの足を止める。
 「夜の街には英雄(ヒーロー)が居ると」
 黄変した眼球がてらてらと輝いている。どくんと心臓が跳ねた。成熟した体が、この輝きを持つ意味をパチュリーは知っていた。
 「夜の街に現れる、英雄(ヒーロー)の話だ。その英雄は夜のスラム街にだけ現れて、街の暗がりに潜む化け物を狩るそうだ」
 「へ……、へぇ。きっと、そいつは観劇の帰りに両親を射殺されたんですね。浪漫はあると思いますけど、正直コミックの読み過ぎじゃないかと」
 「ああ。これは浮浪者の間でだけ流れる与太話(ゴシップ)だ。誰もがそう思っていた。しかし、ついに目撃者が出たらしいんだよ。連続通り魔の被害者だ。そいつは英雄に助けられたらしい。被害者曰く、英雄は、真っ黒いスーツを着ていたそうだ」
 「ずいぶん地味な英雄が居たものですね」
 「だが、その身体は病人を思わせるほどに華奢で、その横顔は童話から飛び出した様に美しく、それとは対照的なくらいに生気が無い。アーク灯に透ける長い髪は、グラデーションでも掛けられたみたいに輝いて見えたそうだ。だから彼は、不気味な英雄をこう表現した」
 蓄積したキューに応え、プリンターが白いコピー紙を吐き出す。無機質な音の隙間を縫うように、マルフロイの言葉が耳に届く。
 「まるで、魔女だった」
 「……なにか、私に聞きたいことがあるんですか?」
 「その手首のアザ。どうしたんだい?」
 手首に残る青色のアザ。どことなく手の形に見えるそれを、パチュリーは手のひらで覆い隠した。
 「まさか。私がその英雄だとでも言いたいんですか? 自分は脅かしただけで、ビビったホームレスが頭打って死んだものだから、話が大きくなって困ってるとか抜かす、首無しの化け物(ヘッドレス・ホースマン)を退治した。とか英雄の締まらない裏話を聞きたいと?」
 「……ウェストチェスターはもうすこし北じゃないかな」
 パチュリーがねめつける様な視線をマルフロイに送る。
 「ちなみに、さっきまでの話のソースは?」
 「タブロイドだよ」
 マルフロイの破顔に、あちこちの筋が弛緩を始める。返事代わりのため息が虚空に消えた。
 「君が、協力してくれるのなら、ずいぶん楽になるんだけど」
 「ずいぶんしつこいですね。私がオカルトマニアか何かに見えますか?」
 「そうだね。最近XファイルのDVDボックスを買っていそうな感じはする」
 「勘の良さは認めますが、オカルト分野に足を突っ込むとまた信用を失いますよ。自分で作ったものを自分で壊しちゃ、世話ありませんけど」
 これ以上マルフロイの気分転換に付き合う義理は無い。コーヒーカップに口を着けた隙を突いてドアノブに手をかけた時だ。
 ノーレッジさん。そんな声が筋繊維の収縮を阻んだ。
 「たとえばの話。道端の露店商人から貰った怪しい化石が、本物のメトシェラだと確信してしまったとして。君はそれを調べずにいられるかい?」
 「そんなのは居ない。こんな場所に居ていいはずがない」
 「私はそうは思わない。眼の前にブラックボックスがあれば開かずにいられない。それが科学者だ。少なくとも、私はそうだ。君は違うのか?」
 「そうですね。私は科学者で、オカルトマニアじゃないですから」
 「面白い冗談だよ。あくまで私見ではあるが」
 この現代の世に、オカルトが残っているはずない。
 そんなものが、まだ残れるような世の中だったら、今頃自分は苦労してない。
 続くその言葉を、口に出す事はしなかった。





◇◇◇◇


 星の灯りを受けた水たまりがぬらぬら輝く。台風一過の部屋の中は、ただただ生臭くて、鉄臭くて、そして硝煙臭い。思い出すのはいつだってそんなろくでもないことばかり。
 森を出て一番最初に宿を借りた家主は、翌日カトリックの印を身にまとう一団を連れてきた。逃避行に疲れ果て、雨にうたれるまま衰弱していた所を拾ってくれた老人は、震える体に仔羊のシチューと毛布を与えてくれた。いっしょに睡眠薬もだ。
 最初の数年間はどこを頼ってもそんな調子だった。だから、その後に続く光景も同じだ。むせ返るような鉄と、硝煙の香り。
 人間社会への苦手意識は強まる一方だったが、悲しいもので何度も繰り返す内に世渡りの術は身についてしまった。実際、隠匿の術を学んだ後からは、比較的平穏な形で人間に紛れて職を得ることができた。そして、変わらない外見を怪しまれ、かつてと同じ光景を繰り返すまでの数年間を謳歌する自由を手に入れた。
 それは彼女にとって数百年変わらない、ろくでもない日常だった。
 「そうはならないことを祈るけど……」
 トイレの鏡で眼の下にできた隈をなぞる。どす黒く変色したそれは、気持ち朝よりも悪化しているように感じられた。
 「なんたって、最近の警察は面倒だからなぁ。呪い殺したりなんかしたら変死扱いで余計にしつこく調べるし。普通に拳銃で撃ち殺して、魔術的に隠匿したってわけわからん検査で解析しやがるし。猫にでも化けなきゃやってらんないよ。ほんと」
 ちなみに最近のお気に入りは、小型拳銃による銃殺である。あれこれ工夫を凝らした暗殺よりも、ありふれた銃をつかってありふれた方法で殺した後に獣にでも化けて逃げた方が効果的と気がついたからだ。
 だが、今回もそうすべきかどうかは、まだ決めあぐねている。マルフロイは控えめに言って変人だ。あの天性の夢想家は、いつなんどき大真面目に突拍子もないことを言って周囲を驚かせるか分からない。だから、先程の露骨なアプローチが、彼なりのジョークである可能性は十分以上に残っている。
 「まぁ、今の所は。保留ってところかしらね……」
 小さな嘆息と共に手のひらサイズの拳銃をバッグにしまい、出口のドアノブを握る。
 ここを去るにしろ、残るにしろ。彼女がまた次の居場所を求めて人混みに紛れることは間違いない。食事と睡眠を取らなければ、魔力はあっという間に枯渇する。金がなければ、食事も睡眠も取れはしない。だから全ては死なないために。知識と共にあるために。
 背後の水音は、ほんのすこしも心の不安を洗い流さない。


 実験室では、クリーンベンチ前でリズが唸っていた。
 「あ、うんこでた?」気だるげな表情で首だけをこちらに向ける。
 「あぁ、でたでた。いっぱいでたよ」
 「そりゃ良かった。ところで、そこの廃液瓶。新しいの取って貰って良い?」
 「別に良いけど、昨日の夜にかえたばかりじゃなかったっけ?」
 「ちょっと最近、立て込んでいてね」
 ベンチ脇に置かれたガロン瓶に手を掛ければ、つんと塩素の香りが鼻を突いた。パチュリーが顔をしかめる。それは、廃棄した動物細胞を殺すために加えられた漂白剤だ。
 「あなた、線虫(C.elegans)をつっつく以外に興味があったのね」
 「意外でしょ?」
 線虫(C.elegans)はわずか数百の細胞からなる単純で原始的な生物にもかかわらず、人体と似通った構造を持っている。
 しかし、パチュリーはリズが動物細胞を触っているところを見たのは初めてだった。
 ユーカリオン内部には、ドクトロウを統括リーダーとする幾つかの小規模なチームがある。ドクトロウ直下のチームが推測した候補物質を、リズが所属するチームでスクリーニング。そして、パチュリーが所属するチームが分析を行う体制だ。
 字面だけを見れば大層に複雑な作業に思えるかもしれない。しかし、実際のところは、候補物質を添加した線虫(C.elegans)をニードルでつついて、身体をよじるかどうかで生存を見分けるだけの作業だ。単純で、途方も無い根気が必要とされる。
 「まぁ、それなりに」
 リズの手元では薄いシャーレに紅い液が揺れる。紅い液、DEME培地は動物細胞を培養するのに必要な栄養素を含んだ汎用的な培地だ。血のように鮮やかな紅は、添加されたフェノールレッドに由来する。それは、培地の異常を色の変化と言う形で表し、一般的な細胞にとって最適なpHである、六・八~七・二を維持するために加えられたものだ。
 例えば今、リズの前に並んでいる八つのシャーレの内、三つで見られる黄変は培地が酸性側に傾いたことを示している。つまり、細胞の過剰生育(オーバーグロース)か、コンタミネーションの起こった可能性があると言うことだ。液の透明度や、リズの意外な——まったくもって本当に意外な事に——几帳面さから考えて過剰生育と考える事が妥当だろう。
 過剰生育した細胞は継代しなければいずれ死んでしまう。
 「……これ、何?」
 「あんたは最近デスクワークばっかりだったから知らないと思う。最近仕入れたサンプルを株化してるんだけど、上手くクライシスが越えられなくて」
 五つの紅いシャーレをよくよく見れば、底に張り付いた細胞は青く染まっている。
 トリバンブルーによる判別を行ったのだろう。トリバンブルーは死細胞を判別する試薬だ。死んだ細胞は膜構造が壊れるため、タンパクが流出する。この試薬はそんなタンパクと結合し青く染めることで細胞の死を知らせてくれる。
 真っ青に染まる細胞が散見されるシャーレを前に、リズは小さくため息を吐いた。
 「業者に委託すれば?」
 「私、ちょっと今お金無いのよね。車のローンが残ってて」
 「まぁ、ファイルに挟まってるフローを見た時点で察してたけど。株化ってことは導入したのは、TERT? テロメラーゼ発現は確認しているの?」
 実験に利用するため細胞を株化する際に行われるのが不死化処理だ。
 TERT遺伝子は株化細胞樹立によく用いられるテロメラーゼ遺伝子の触媒サブユニットで、ほかにもSV40が良く使われる。特にTERT遺伝子を導入した株は長期間の継代を続けても、染色体数の大きな変化が認められず、正常細胞の特徴を損なわない細胞株が得られるとの触れ込みをパチュリーは聞いたことがある。
 「もちろん。転写、翻訳、ともに確認済み」
 「じゃ、培養条件が悪いんじゃない?」
 「クライシスまでは順調に培養できてる。これまで目立った変異も出てない。間違いなくこの細胞は、安定して分裂を繰り返している」
 「なのに、ヘイフリック限界を超えられないのはおかしい。そう言いたいと」
 「まぁ、そう。こんなことを言うと変に思うかもしれないけどさ。これだけ試しても、まったく整然と死ぬ様を見せられ続けるとさ。……なんだか、死にたがっているようにすら見えてくるわ」
 「今のご時世、人を殺すのは死なない細胞と、不景気でしょうに」
 「そうじゃない、……って。見て貰った方が早いか。ちょっと、顔を貸しなさい」
 「いくらで?」
 「こないだのクラブサンド」
 苦い顔をするパチュリーを尻目に、リズはインキュベーターから一枚のシャーレを取りだした。それはパチュリーにも見覚えがあるもの。世界中で使われている、HeLa系統の亜株だ。
 「こんなのを見せてどうしようっていうの?」
 「よく見て」
 「これ、老化してる?」
 一見正常に増えているように見えるHeLa細胞が、ところどころ青で染色されている。明らかに『クライシス』を迎えていた。
 「正解。これはね。少し前にちょっとした操作ミスであの細胞をコンタミさせてしまったみたいでね。数日前から突然に老い始めたの」
 リズはクリーンベンチ内に並ぶシャーレを指さしてそう言った。
 「HeLa細胞と入れ替わったったとでも言うつもり? ゴキブリ並みの生命力よ」
 「そうだった方が話は分かりやすいかもね。でも、これは間違いなくHeLa細胞そのものよ。少なくとも顕微鏡で確認した外観はそうだった。現にこいつはあいかわらずテロメラーゼを過剰発現している。そして、老い続けている」
 HeLa細胞は極めて増殖性の高い細胞で、コンタミしやすい。細胞株の管理体制をウリにする細胞バンクATCCですらもHeLa細胞によるコンタミ騒動を起こした過去があるくらいだ。
 「まぁこれは雑談なんだけど。もしも、この細胞がコンタミした結果がヘンリエッタの老化だとしたら。それはとても面白いと思わない?」
 「そうねぇ。確かに興味深くはある……?」
 それはほんのわずかな違和感。電気信号をそのままに送り付けられた様な不快感が頭を打ち、焦点がシャーレの底に張り付く細胞に合う。目玉の裏側がちりちりと焼ける様に熱かった。明滅する意識の狭間に見えたのは、明瞭な紅い瞳。
 『オマエハ……、ダレダ?』
 背筋が震えた。視界の端でひっくり返った椅子のキャスターがくるくる回っている。視界の端に、リズの青ざめた生首が浮いていた。薄いピンクの唇は気遣う言葉を紡いでいるが、言語野が認識を放棄していた。あまりの事に声が出ない。しかし、先程感じた感覚には確かな覚えがあった。笑ってしまうほど強大で、途方もなく傲慢な気配だ。
 「ね、ねぇ。リズ。これ、本当にATCCから取り寄せた……?」
 「やっと、落ち着いたかと思ったら。そんなことは言った覚えは無いけど?」
 ずんと、鈍痛がこめかみから脳全体へ広がっていく。
 混乱しかなかった。今の時代、それはこんな場所にいるはずがない。しかし、手元にある情報はどれもありえない事実ばかりを示して、何一つ頭痛を治めてくれなかった。
 「だったら、出所は……、その辺の野良ネコから取った訳じゃないでしょう?」
 いつも通り、リズの軽い口が開く。ただそれだけのことにパチュリーの拍動は強まり、痛みが増す。
 「これはね、マルフロイから受け取ったのよ」
 事実に補強された仮説が、頭痛がひどくさせる。聖堂の鐘みたいな耳鳴りに紛れて頭を回るのは、不愉快なテノールボイス。そして、詩でも読むみたいな口調。あの時の言葉。
 「そ、そう……、あ、あのさ。もう一個聞いても良い?」
 「はぁ、珍しいね。あんたがそんな積極的なのは」
 「偶にはそう言う日もある。だから、答えて。お願い」
 「いつにも増して理解しづらい思考回路ね。別に良いけど、その前に起きなさいな。ほら、手」
 「このサンプルの由来は、何?」
 「詳しくは。でも、『ヘッセン地方のチスイコウモリ』とか、その『メトシェラ』がどうとかいっていたような……」
 瞑目したパチュリーが小さく呻いた。頭をくるると回るテノールボイスはもはや、明瞭に同じ言葉を繰り返す
 「ど、どうしたのよ。パチュリー」
 「な、なんでも無い……。後、一人で大丈夫だから」
 ふらふらと歩くパチュリーがよほど奇妙に映ったのか、実験室を去る背中に掛けられる声は無かった。やっとの思いで閉じた扉に背中を預け、パチュリーは息を整える。
 一回二回。深呼吸を繰り返す間にも頭を回っていたのは、ユーカリオンが誇る変人CEOの顔。不自然なくらい自然にふざけた顔の、バーナード・マルフロイ。
 『もしも、露天商から買ったメトシェラが本物だと確信したとして』
 いいや、そんなはずはない。この時代にメトシェラは存在しない。そんなのはとっくの昔に死に絶えた。
 もしも仮に、そんなのがなにかの間違いで残っていたとして、
 『君は、調べずに居られるかい?』
 胃の中身が一緒に出てしまわないかと心配になる深いため息を一つ。気休め程度に収まった頭痛を抱えて、パチュリーはようやく実験室前を離れた。揺らめく足先が向かうのはロッカールーム。仕事なんて、とても続けられる気分ではなかった。
 「最悪よ。ほんと……、ろくでもないことばかりね。この場所は」




◇◇◇◇


 ある個体群の中で飛びぬけて高い寿命を持つ個体や、その身体的特徴から予想されるよりもはるかに長い寿命を持つ個体群。そんな非常に長命な者たちを指して『メトシェラ』という言葉は使われる。
 コウモリに『メトシェラ』が存在することは割合昔から知られていた。例えば、旧ソビエト時代、スターリンの設立した収容所管理局(グラーグ)が囚人を送り込んでいた村の一つにクラスノヤルスクがある。そこに送り込まれた囚人は、厳しい自然環境と、強制労働により短い生涯――平均にして五年程――を終える事が約束されるのだが、皮肉な事にその近郊。囚人達の墓場が見下ろすストルビの針葉樹林(タイガ)に、奇跡的な長命を誇るコウモリは潜んでいる。
 花崗岩の石柱に潜む、『ブラントオホヒゲコウモリ』だ。この『メトシェラ』は体格から推測される寿命を遥かに超える期間生存することが知られていた。ロシアの生態学者、アレクサンドル・クリタンコフ——その風貌からハグリットと言うあだ名を付けられている——の報告によれば、ある個体は四十一年の生を記録したと言う。これは体格から予想される寿命の実に十倍にあたり、全ての生物種を見まわしても例が無い。その様な研究もあり、針葉樹林(タイガ)の奥地でアンブロシアを呑み下した『ブラントオホヒゲコウモリ』は『メトシェラ』として、しばしばサンプルとして持ち帰られ、老化のメカニズム解析に利用されている。
 しかし、『チスイコウモリ』に『メトシェラ』が居た、なんて言う話をパチュリーは聞いたことが無い。よしんば、耳が遠くなっていたのだとしても、そんな得体の知れないサンプルを扱うコストをマルフロイが考えないとは思えない。新規の実験系を確立するには人と物と金が掛かる。そして、その三つを完ぺきに兼ね備えない現在のユーカリオンが、新たな系を確立するとは考えにくい。
 つまり、マルフロイとリズの言葉が正しいと仮定するならば、あのサンプルにはそれだけの価値が存在すると言う事だ。ならば、答えは一つだろう。
 「いいえ。そんな推測を抜きにして私は既に理解している。あれは間違いなくオカルトの領域だった。細胞の一つとなり果てて、継代を繰り返し、代謝を停止しても、信号を出し続けるなんて途方もない執念を持つ幻想種に、心当たりは一つしかない」
 そもそもが、『メトシェラ』はオカルトとの親和性が高い。存在理由に肉体があてはめられた彼らは、概ねその理由を全うするために長い寿命を持たされている。逆説、細胞の一片となり果てても信号を発し続ける馬鹿げた生命力は、肉体が収まっている『存在理由』が、途方も無く壮大で傲慢な物だということを示している。
 「あれがもしも本物だったら……、放っておくのはあり得ない。とはいえ。とはいえよ……、寒いわね……、暖房代ケチってるのかしら」
 嫌ね貧乏って。パチュリーはダクトの中で身をよじり、淀んだ血を心臓へと流した。
天井裏を巡るそこに潜り込んでから、もう三時間が経とうとしている。時刻はつい先程に日を跨いだばかりだ。
 帰宅したフリをして会社に留まることは大して難しくなかった。一通りの防犯設備があるとはいえ、実験の都合で夜中に会社を訪れる研究員も多い。有形無実化したそれはもう注意すべき存在でないし、鉢合わせする可能性がある同僚にしても生命探知の魔法を使えば問題ない。「一週間分の魔力が吹き飛ぶ以外はね」漏れ出たぼやきと共に、網膜へ魔術を施す。数節からなる式に定義され、網膜上に生命がイメージングされた。
 「今残ってるのは……、事務所の奥に一つ。って……、いや、考えるまでも無くマルフロイよね。ホントに資料作成ヤバかったんだ、本物のばかね。まぁ、あれは放っとくとして。他のは多分実験動物だろうけど、マウスにしては大きい。犬か兎かしら……」
 白い点として映るそれらが、真夜中のオフィスをまだらに照らす。
 「そろそろね。身体は痛いし、あいつはどうせ徹夜だろうし」
 事務所から離れた廊下の直上、ゆっくりとダクトから足を下ろす。
 音をたてないように。誰にも気取られないように。両手を吸気口のふちに掛け、ゆっくりと、指先へ体重を預ける。たぷたぷと震える二の腕が、二秒も経たず限界を告げた。鈍い音と共に、少女が廊下へ転がった。「にゃ、にゃあ……」ぴくりぴくりと二、三度震えて、起き上がる。
 「わ、私の鳴き真似は完ぺきだから誤魔化せたと思うけど、気をつけないと……、つつ……」
 痛む腰をさすりさすり、開いた扉からは重苦しいコンプレッサーの駆動音が出迎える。
 インキュベーターには昼間と変わらず、シャーレが収められていた。細胞塊がシャーレの底に付着しているのも変わらない。しかし、あの焼ける様な視線は、もうどこにもない。
 「シャーレは三つ。残りは処理したのかしらね。でも、これももう駄目ね」
 シャーレの一つ、培地が黄色く染まったそれからは、酷く弱い生命反応しか感じない。トリバンブルーを垂らすと、案の定青い反応を示した。間違い無くこれは『クライシス』を迎えている。
 「それにしても、ヘイフリック限界を超えられないなんて。ずいぶんネガティブな奴も居たものね。一体、どういう意味があるのかしら。まぁ、そんなことを考えるのは私の仕事じゃないか」
 ぽんと膝を叩き、ルーズリーフとノック式ボールペンを取りだす。そして、深呼吸を一つ二つ。精神を研ぎ澄まし、死に掛かった細胞を視界におさめる。彼女の網膜に映るのは光学的な情報とは全く別のもの。近代自然科学の勃興により人類が永遠に切り捨てた情報を、現代の魔女の感覚器は捉えていた。
 「やっぱりあった……。これは、私と同じ……、オカルトの細胞」
 細胞内部に感知された微弱な波長。パチュリーは固有のパターンを淡々とルーズリーフに記録していった。観察を続けていると、あるポイントで急速に信号が弱まる。恐らくはリソソームから漏れ出た酵素が、痕跡を残していた構造を侵し始めたのだろう。数秒後、ロストした信号を確認しボールペンの頭をノックした。
 「まぁ、十分ね。このパターンを生命探知結果に重ねれば……。数十メートル以内。予想以上に近いわね。いや、近いっていうかここは……、非常階段近くの……、壁の中?」
 照明の消えた廊下を、足元の非常灯だけを頼りに歩く。目指すのは、非常階段に続く廊下だ。どんな建物にも一か所はある誰も近寄らない、何に使われる訳でもない場所だ。
 確かにその場所はビルの壁に張り付く、錆びついた鉄骨の階段に用がない限り、誰も近づかないだろう。実際、数か月をユーカリオンで過ごしたパチュリーですら、脚を踏み入れた記憶がない。
 足元の非常灯だけを頼りに、暗い廊下を歩く。実験室を出てカフェへ続くエレベーターとは反対方向。物置か実験動物の保管室くらいしかない区域。暗さを増した非常階段へ続く廊下で、パチュリーはふと足を止めた。突きあたりの窓には、真っ暗な空がばかりが広がっている。
 「新月ね。妙に暗いわけだわ。これ、持ってきておいて良かったぁ」
 懐から取り出した赤縁の眼鏡には暗視の魔法が組み込まれている。魔道具は初期コストこそ高いものの、一度構築すれば半永久的に利用できる。暗視や望遠機能を付加した眼鏡は、数少ない魔術的な常備品の一つだった。
 突きあたりに向かって一歩、また一歩。探る様に歩く。改めてイメージングされた生命反応と固有パターンを照らし合わせると、それは階段とは丁度反対方向の壁に存在していた。
 黒く埃で変色した壁を手でなぞる。よく目を凝らすと、目立たない様にペンキで縁取られた扉が埋め込まれていた。隠されていると言うよりは、使い道が無く、長い間誰の目にも触れなかったと言う印象。見れば壁の一部には鉄製のノブが埋め込まれている。
 ごくり、と息をのみ込み。それに手を掛ける。ホコリにまみれた冷たい扉が、ぎぃと音を立てた。




◇◇◇◇


 ごぉんごぉんと、無機質な子守唄が今日も変わらず身体を包む。
 その片隅で古ぼけた毛布にくるまったコウモリは薄く眼を開ける。
 分厚いカーテンに遮られた部屋は真っ暗。いつから眠っていたのか。いまが昼か夜か。なにもかもが分からない。そも、今まで自分が眠っていたのかも定かでない。なにせ、もうここで眠り始めて一〇年だ。日中の感覚なんて残っているはずもない。
 どうせ起きてもやることなんてなに一つない。あいつらは用があるのかもしれないが、自分自身がなにかをする訳じゃない。
 だから、また眠る。眠って、夢の続きを見る。
 眼に見えて、触れば動かせて、暴れれば壊せるものが世界の全てと思っていたかつてのことを。
 不毛な努力を続けていればあの背中に手が届くと信じて疑わなかったかつてのことを。
 そして、ろくでもない年が今回で終わることを願いながら。
 コウモリは静かに瞳を閉じる。




◇◇◇◇


 ぶると体が震える。原因は部屋の寒さか、それとも明らかに非日常の領分と分かるそれのせいか。
 「恐れる意味なんてないわ。用があるのは私の方だし、いざとなったらアレがある。でも、念のために魔力は隠匿しておきましょう。非力な人間と思われた方が、騙し打ちには好都合だし」
 上着のポケットに収まっているものを握りしめて、二度三度深呼吸。それで、彼女の鼓動は収まった。
 次の吐息よりも早く肌を撫でたダダ漏れの気配に導かれ、倉庫の奥へ足を進めた。
 眼に入ってくる古い机や棚は、どれも前時代的で武骨なデザイン。その割に少ないホコリが不気味な印象に拍車を掛ける。あっちこっちに倒れる段ボールはまるで、この倉庫に誰かが住んでいるみたいだった。
 「何年前の資材かしら。患者服なんて、一体なにに使ってたんだか」
 地面に転がった緑の衣を、適当に畳んで段ボールへ放り込む。どこに向かえば良いかなんて、考えるまでもなかった。
 「輸血パックの空を辿るだけなんて、楽で良いけどさ……」
 床に散らかったそれを踏まないように、奥に居るだろうそれに気がつかれないように。ゆっくり、ゆっくり足を出す。
 一歩、事務机にこびりついたドス黒い跡に息を飲む。
 二歩、山と積み重なったコミックと事典に首を傾げる。
 三歩、人の耳が、微かな吐息を捉える。
 四歩、暗視の眼が、部屋の奥にある物を視認した。
 倉庫の一番奥まったところ。犬が毛布で寝床を作ったみたいに、何枚もの毛布が小高く積み上がっている。その中心から、それは聞こえていた。
 薄い毛布が、ゆっくりと上下している。魔力の中心も、生命反応の中心も間違いなくそこから発せられていた。
 跳ねる心臓を押さえ、細心の注意を払い、毛布を指でつまんだ。
 緊張で指先が震える。中身が予想通りのものだとしたら、なにをするか想像がつかない。しかし、この現代の世にあれが生きているなんて、実際に見なければ信じられないと叫ぶのは自分自身だ。ごくりと、唾を飲み、そっと毛布を引き剥がした。
 網膜が像を結び、大脳の腹側を駆け抜けた電気信号が、彼女を釘付けにした。
 一分、子犬みたいに身を丸まったシルエットはぴくりともしない。
 二分、隙間から覗くわき腹が生気の無い肌に包まれている。
 三分、小さく上下する肩がそれの生存を伝える。
 四分、寝返りをうった影の顔が露わになる。銀糸(アッシュ)の髪から覗くのは血のように紅い唇。象牙細工みたいに整った顔立ち。そして、異貌。
 彼女の瞳に映ったのは年端もいかぬ少女の寝顔だった。
 ただの少女ではない。紅い唇から覗く鋭い犬歯。そして、腰から生えるぼろぼろの翼。そのどれもが、少女を吸血鬼に分類していた。
 呼吸が浅く、早く。心臓が早鐘を打ち続ける。
 恐ろしい。忌わしい。しかし、それ以上に、美しい。間違いなく魔を帯びた美貌だ。ほんの少しでも気を緩めれば手を伸ばし、抱き寄せて、頬ずりをしてしまうだろう。
 伸ばした指先が唇に触れる直前。それは突如として動き出した。
 「ふにゅ?」
 臀部にどんと衝撃を受け、彼女は我に返る。しかし、その時既に少女の眼は彼女を捉えていた。
 三メートルも後ろに飛んだおかげで、地面にお尻を打った。患部をさすり、立ちあがった時には既に少女は立ち上がりいぶかしげな眼を向けていた。
 「お前は……、誰だ……?」
 眼をこすりながら、不機嫌にそう言葉を発する。たったそれだけのことで彼女の意識は吹き飛ばされる寸前だった。
 「先に名乗るのが礼儀じゃない?」震える唇を精一杯に抑えつける。
 「……それもそうだな。私はスカーレット家が嫡子、レミリア・スカーレット。この世で最も偉大な種族、吸血鬼を総べる一族だ」
 「あっそう。やっぱり吸血鬼だったんだ。ちなみに私はここの社員」
 「そうか。なら私はお前に用がない。お前がなにかあるなら、好きにしろ」
 不用心に背を見せる吸血鬼を前に、彼女は確信する。魔力隠匿は有効だ。
 「私の用? そうね。それじゃ私は遠慮なく用件を済まさせて貰おうかな」
 掌の中で、手製銀時計『The World』が震える。
 それは、使用者の『クオリア』を世界に対して『オーバーライト』する魔導具。彼女の奥の手にして最高傑作だ。
 全ての人間は現実の『世界』を、体中の各種感覚器官によって変換される『電気情報』として捉えている。この電気情報を解釈した結果が人間の『認識』である。『クオリア』はその中間層にあたる。各々が持つ感覚器によって歪められた『自分だけの世界』それが、『クオリア』であり、『The World』はそのクオリアに働きかけ一定範囲の『世界』に『オーバーライト』する。オカルトによって固有の形を取る領域を、『小世界(ドミニオン)』と呼び、中に入ったオカルトは『小国の領主(ドミネーター)』となる。このドミニオンは、主たるドミネーターにとって理想的な動きをもたらし、引きずり込まれた獲物には何の役にも立たない。
 なにが魔力不足だ。なにが詠唱による発動遅延だ。
 そんなのは、『世界』と『認識』の間が、肉体なんて迂遠な方法で繋がれているから起こる問題に過ぎない。魔女が持つ魔力検出に特化した感覚器官に歪められた、『小世界』は、主の意志一つで自在に形を変える魔力に満たされている。思考した時、既に魔術は発動するし、発動した魔術を再度魔力に変化すればほぼ無限に魔術行使ができる。
 何が動力機関だ。何が太陽光パネルだ。この世界の中ならエネルギー変換効率は相互に一〇〇%。今の人類には到底為し得ない夢の永久機関がここにはある。思い知るがいい、魔術だって限定条件下なら科学を上回る。
 精密な機構だけに、物理衝撃に弱いと言う弱点を除けば完ぺきな兵器だ。その奥の手は既に起動シークエンスを完了した。後はトリガーを引くだけで『世界』の展開は完了する。
 もう恐れは無い。今や立場は逆転した。この身は狼。寝起きの哀れな羊を前にした、飢えた狼だ。故に彼女は尊大に笑った。
 「そう用件。用件を言ってなかったな。私はお前を殺しに来たんだ」
 手のひらの『The World』が脈動する。百年ぶりの起動に、回路が焼きつかんばかりにうごめいている。起動用の魔力が中心に収束し、そして、『世界』へ向けて、霧散した。
 「……は?」
 おそるおそる見た手のひらの『The World』には、一筋の亀裂が走っている。血の気が引く音を耳元で感じる。心当たりなんて一つしかない。あのロッカー前で落とした時にもっと良く確認するべきだったのだ。
 どうする。次の一手は。魔女は最後まで全力を出し切らない。だから今回だって、まだ別の策が用意されているはずだ。ただ、冷静さを欠いたがために思い出せないだけだ。
 絡まった思考の糸をほぐす時間はない。思考を白紙にリセット。それから順を追って記憶を繰る。三秒、五秒、七秒。朝の目覚めから始めった追憶は未だ自宅を出ていない。一〇秒、一三秒。ようやく始業時刻に辿りついた時。不気味な沈黙を保っていた影が、おもむろに動き始めた。
 「今の、魔法だよね。私を殺しに来たってことは。あなたもしかして……、英雄さま?」
 口から飛び出しそうな心臓を押さえつける。声の主は、おどおどとでも形容すべき奇妙な動きで、彼女の前に居る。
 「み、見る人によっては……、そうかもね」
 「えっ、うそ……。そ、それは、うんって事で良いのよね? ど、どうしよう……」
 拍子抜けするくらいに気の抜けた声。その姿に見合ったあどけない柔らかな声がパチュリーに語りかけている。疑問ばかりが募り、策なんてとても思いだせる状況ではない。
 「だ、だったら、どうした」
 「ごっごめんね。私、全然気がつかなくって。あの……、まさか、こんな弱そうなのが英雄さまだなんて思わなかったから……」
 隠しきれない動揺がパチュリーにたたらを踏ませ、頭を満たす疑問が昏倒寸前にまで追い詰める。
 これではまるで少女じゃないか。偉大な吸血鬼が。西欧を数カ月に渡って闇で覆い尽した冥王が、まるで少女の様に頬を朱に染めている。まるで、数百年越しの想い人を前にして、照れているみたいに。
 「でっ、でも私なんかで良いの? 私、ここで寝てるだけだったし、まだなんにもしていないよ……?」
 「あんたみたいな大物が人に知られると迷惑。それだけで十分だ。私がお前を殺す理由は。主に私の平穏のために」
 「ふわぁぁぁ……!」
 吸血鬼が体を小刻みに震わせはじめる。それは、処女の絶頂とも、神経症の痙攣ともつかない。ビクビクと天井を見上げる姿に寒気を覚えた。
 「……へ?」
 「深呼吸、しろ、と言った。たぶん、気分が落ち着く」
 ああ、なにを言っているんだ。時間を稼ぐにしても他にもっと方法がある。こんな意味不明なことを言った所で、あの吸血鬼を逆上させるだけに違いない。
 「うん、そうだね」
 吸血鬼の気紛れに感謝しつつ、彼女は思考の整理を進めた。考えるべきは現状の把握。そして、次策のありかについてだ。
 たった今奥の手である銀時計は使用不能になった。残っているのは、自衛用のグリモワールのページが十数枚。どれも、詠唱無しで任意の魔術を発動できる優れものだが、使い切りだ。それから、銀のインゴットが一つ。後は、
 「ふぅ……、おまたせ。ごめんなさい、あまりに突然のことで頭が追い付かなくて。無様な姿を見せてしまって」
 「別に……、構わない」
 それとなく全身を探り現状を把握する。つまようじの一本でも良い、策に繋がるなにかが残っていないかと祈りを籠めて手を伸ばす。つりそうになるほど一杯に伸ばした指先が太ももに延びた時、ついに爪先はそれに触れた。
 緩んだ口元が、間抜けな吸血鬼に向けられる。
 朱が消えた顔に浮かぶのは、威厳と冥さ。夜を支配する者が持つそれ。時代遅れの魔王がパチュリーを見ていた。
 「さっきなにか大きな魔法を失敗したみたいだけど、大丈夫、安心して。きっと貴女も私と同じ。久々のことで緊張しているだけ。昔はそんなことも良くあった。だけど、勇者さまはね。ピンチに陥った時に本当の力を発揮するの。だから、きっと貴女にもそういうのがあると思う。だから、」
 深く地に沈んだ吸血鬼の顔に笑みは無い。殺意はない。闘争心もない。ただただ垂れ流される魔力の濃度に背筋が冷えた。
 「それまで死なない程度に追いつめてあげる」
 最悪だとパチュリーが吐き捨てる。こんな規格外を魔術なんてもので相手にしないといけないなんて。
 一歩。その重い足がこちらに出された。死の気配を纏って近づく少女を、パチュリーは冷静に見つめている。策はまだ使えない。あれの実力を見極めるまでは。
 二歩。構えの一つも取らずに近づく姿に、パチュリーは慄(おのの)いた。
 三歩。突如、視界から少女が消える。その意味を理解すると同時、ポケットのグリモワールを二枚まとめて握りつぶした。次の瞬間には理不尽な暴力が全身を襲う。ただの突進。それを防ぐのに、一年分の研究成果が吹き飛んだのだ。
 壁まで弾き飛ばされ、ぐぅとうめくパチュリーを吸血鬼が見下ろす。
 「ごめんね。久しぶりでうまく手加減ができなくて……」
 全身に激痛が走る。喉が焼けつくように痛くて、その場に吐いた。殺意すら籠らない、漏れているだけの魔力が更に嘔吐感を煽った。
 「あ、あやまる必要なんてない。もう、分かったから」
 「本当に? 全然変わった様に見えない。土地に仕込んだ大魔術の気配も無いし、エクスカリバーを届けにきた援軍も見当たらないよ?」
 「そうだ。今の手持ちであんたの相手をしてたら、きっと三分も生きていられない。それが分かった。だから、タイミングなんて待つのはやめた」
 「良く分からないけど、とても良い眼だよ。ありがとう、だから、早く見せてよ。貴女の本気を」
 「本気。そうだね、見せてあげる。これが私の、魔女の本気」
 太ももに捲きつけた固定具に手を伸ばし、無酸素的筋収縮に任せてそれを引き抜く。吸血鬼の眉間に突きつけられたのは、黒光りする銃口。
 ためらいもなく引き金を引いた。広がる硝煙と鉄の香り。倒れゆく少女を彼女は無感情な瞳でみつめた。
 「掠っただけか……!」
 「……これは。一体どういうつもりだ?」
 こめかみから覗く白い骨、ピンクの肉。怒りに燃える紅い瞳。
 「どういうことかと、聞いて——」
 続く渇いた破裂音。音の壁を突き破って進む鉛の槍が、少女の眉間に向かう。しかし、着弾の直前。神経伝達速度を冒涜する筋収縮が少女を動かし、風圧がパチュリーの手から銃を吹き飛ばした。
 「もしかしてお前は……、英雄じゃないのか……?」
 溢れだす魔力が殺意を孕む。全身が総毛立つよりも先に、彼女はグリモワール三枚を握りつぶしていた。頭上に集う大気が熱を帯び、見る間に超小型太陽へと成長する。それは吸血鬼にも有効な火属性最上位魔法。
 緩慢な動きで迫るそれに、吸血鬼は身動き一つしない。ただ、小さな肢体が紅い壁に飲まれるその直前まで、パチュリーを見つめていた。それは期待に満ちた光、子供のような瞳。
 「自分から入るなんて、何を考えてる」
 これは本来太陽の動きを再現、解析することを目的とした実験魔術だ。それはあらゆる生命を焼きつくすだけの熱量を備えているが、発生までは遅く移動も緩慢。罠として事前に展開しておくか、移動を制限する程度にしか使えないはずだった。
 壁として展開するはずだった太陽を前に、パチュリーは警戒を強める。その指先はグリモワールの羊皮紙を掴んでいる。
 「熱耐性の魔術障壁を事前に展開していたか、さっきのはただの影の一つで。本体は私の後ろに潜んでいるか」
 熱の余波が、パチュリーの傷んだ毛先を焦がす。数秒後、弱まった火勢の中心からそれ現れた。飲み込まれた時と同くパチュリーを見て。吸血鬼は立っていた。
 「悪いけど、あんたの策には付き合わない」
 グリモワールを四枚まとめて握り潰す。記されているのは金術。なけなしの魔力が倉庫の事務机を融解・成型した。コンクリの床をカステラみたいに砕きながら、鋼の龍が吸血鬼に迫る。
 その龍の行く末を、鋼の防壁越しに見届けパチュリーは呟く。
 「バケモノめ」
 動きを止めた龍の上にそれは立っていた。龍の爪を噛み砕き、転んで膝でも擦りむいたみたいに脚を引きずりながらも、それはパチュリーに向かってくる。
 「なんだ、やっぱり英雄さまじゃないか。悪くない魔力だよ。だけど、私を焦がすには足りない。大昔、お父様の居城に殴りこんできた英雄気取りは、もっと熱いのをくれた」
 ボロ布と化した緑衣を纏い、焦げた皮膚が組織液を垂れ流している。
 熱傷にはその重篤度により三つの段階があるが、皮膚の炭化は最も重いⅢ度に位置づけられる。組織液を垂れ流すⅡ度と合わせ、全身の二割を覆えば死は免れない傷を、あの吸血鬼は三割に受けてなお立っている。
 「悪くない魔力だ。さっきの不思議な道具といい。これ程の術、並大抵の努力で得られるものではないはずだ」
 「そりゃどうも」
 「なのに、どうしてあんなものに頼った。お前にプライドは無いのか」
 「実践で詠唱なんてしてられるか。炎で焼こうが、呪い殺そうが、死ぬと言う結果は変わらない。プロセスはこの場合重要じゃない」
 「だったらこれをどうにかして見せろ」
 引っこ抜かれた龍の肋(あばら)が、吸血鬼の手の中で赤熱する。崩れ落ちた龍が舞いあげる土煙がその姿を隠した。なにも見えなくても、膨れ上がる魔力は事態の深刻さを理解するのに十分だ。
 六枚のグリモワール片を握りつぶし、更に自身の詠唱も重ねる。全身すっからかんになるまで、練り上げた魔力で全力の障壁を構築した。属性を陽光に設定する。火と光の合算魔術だ。反対属性にすることで少しでも威力を削る。そうでもなければあれは、止められない。まもなく来るであろう衝撃に備え、身を固くした。
 奇妙な静寂が空間を満たし、煙の隙間から吸血鬼の口元だけが覗いた。血の様に紅い唇がゆっくりと動く。
 頼むよ英雄。私を——。
 懇願するような唇の意味を理解する間もなく、紅い閃光が、煙を裂く。三〇を超える魔術結界が何の抵抗もなく穿たれて行く。恥も外聞もなくその場に体を投げ出した次の瞬間。爆風が届き、自身の鉄柵にしこたま体を打ちつけた。
 指一本動かせなかった。頭の上にはひしゃげた鉄パイプが突き刺さっていた。
 「あんまりにも脆弱だ。これ以上失望させてくれるな。こんなのが英雄さまの本気なんて、私は信じたくない。大昔、私達を狩ろうとした誰も、ここまでは弱くなかった……!!」
 こっちのセリフだ。言葉を唇で噛みつぶし、次のグリモワールを握りつぶそうとして、気がついた。在庫切れだ。焦る間もなく、ぬらりと伸びた手が眼の前の鉄を飴細工の様に曲げる。赤い瞳がにじりよった。
 吸血鬼の手が迫る。指が首筋に這う。
 策を、策を。奥の手も、次策も、もう機能していない。逃走経路は全部潰れた。だが、それがどうしたと言うのだ。魔女は常に次の手を用意する。三の手は何だ。昨日までの自分は、こんな事態を想定してどんな三の手を、四の手を準備していた。
 「せめて、命乞いをしてみせろ」
 「それで見逃して貰えるならいくらでも」
 「そんな訳があるか……!」
 パチュリーの顎を掴む手に力が入る。みしり、みしりと歯が歪む。首筋が締めあげられる。喉が潰れ、頸椎が圧迫される。そして、口から洩れたあぶくがはじけた時、その手からぱっと鮮血が舞った。
 二発。三発。立て続けに打ち込むのは銀の槍。予め刻んでおいた術式により融解・成型・射出の三ステップで打ち出される、銀製対吸血鬼用弾頭。お守り代わりに持ち歩いているそれを全て撃ち込んでなお、吸血鬼は苦悶の顔ひとつ見せなかった。
 「弱点を突いてこの程度。残念だよ……、貧弱な人間」
 「誰が……、人間だ。私は……、魔女だ」
 「……へ?」
 何秒も間をおいて響いたのは、気の抜ける発音。コウモリが銀玉鉄砲をくらったみたいな顔がパチュリーを見つめ返していた。
 「それってまさか……、種族として魔女ってこと……? 人間じゃなくて……?」
 「クラークケントになった覚えは無い。その汚い手を離せ。化け物。ぶっ殺すぞ」
 滲み出そうな涙をこらえ、にらみ合うこと十秒。突然に吸血鬼は手を離した。
 「なーんだよ。お前、人間じゃないのかよ。くっそ。当てが外れた、ややこしいこと言うなよなぁ……」
 はぁとため息を一つ。それで、吸血鬼は巣へ帰って行く。あれ程に溢れていた魔力も、怒りも、失望も、どんな強い感情もそこにはない。油断しているのだろうか。もしかしたら、この無防備な頸椎に銀の槍をさせばしばらく動きを止められるだろうか。そんな期待的観測すら、もう否定できない。
 「まったく、どこまで面倒な奴だ。お前になんてもう興味はないんだよ」
 それを貯めそうにも銀弾の在庫とっくに枯渇していた。巣に足を進め続ける鬼に干渉する術はなに一つ無い。状況は飲み込めないが、これは好機だ。もしも逃げるのだとしたら今を置いて他には無いだろう
 「いや……、まてよ。お前、魔女で科学者とか言ってたな」
 吸血鬼の眼が突如パチュリーに向けられる。全身を駆け巡る怖気に、身体は出口へ駆けだしていたが、あまりにも遅すぎた。瞬きをする間もなく、吸血鬼に壁へ貼り付けられる。
 「待ってよ、折角良いことを思いついたんだ。聞いていってくれたまえよ。敗者は勝者に従うものなのだから」
 「さっき興味は無いって言ってただろ」
 「気が変わったんだ。はい決定。あー良かった。まさか、この期に及んで手下ができるとは思わなかった。神は私を見捨ててなかったのかな?」
 「誰が! いつ! あんたの! 手下になった!!」
 「あんたの意見は聞いてない。敗者は王の軍門に下るか、潔く死ぬかの二択しかないんだよ。お前は死にたくないんだろ? だったら黙って私に従え」
 睨みつけられた赤い瞳が戦意を奪う。強制的な支配力の行使、考えるまでもなく魔眼だ。とっさに防壁を張らなければ操り人形にされていただろう。
 「って、おもーじゃん? だめだよ。三流魔法使い。夜の王たる私だ。この距離なら精神防壁の突破なんて造作もない」
 「冗談。貧相な面ですごまれたって気が抜けるだけよ。私の防壁には傷一つない」
 「痕跡を残すのは三流だよ。まぁ、嘘だと思うなら。それでも構わないけどね。私は」
 暗闇に光る紅い眼、響く笑い声。吸血鬼の力を侮るべきではない。自身の工房内でも無ければ、戦うべきですら無いと言うのが常識だ。先の言葉が嘘と期待するのは分の悪い賭けだ。今は従うのが上策だと、冷静な自分が判断した。
 「結構。それじゃ、期待してるよ。境界科学者(フリンジサイエンティスト)」
 「誰が境界科学者だ」
 「だったらなんと呼べば良い?」
 「悪魔に名乗る名前は無い」
 「そうか。ところで、もう一度言うが私はレミリア・スカーレット。夜の王にして、お前の君主だ。それで、お前の名前は?」
 「……」
 「あー。名乗られたら名乗り返さないと駄目なんだぞー。お母さんに聞かなかったのか?」
 「パチュリー・ノーレッジ。それが、私の名前だ」
 「そう、パチュリーか。良い名前だ」
 微塵も疑っていないかの様に、吸血鬼があっさりと手を伸ばす。真名なんて教えるはずが無い。そんなことを知らないはずも無いのに。
 「それで、私はなにをさせられるんですか? 慰み者? 血袋? なんでも良いですよ。どうせ私に逃れる術は無いのだから」
 「腐るな。それなりの働きを見せたならその内に解放してやる。あと、手伝って貰う事だが、それはな……、一言で表すのは難しい。しかし、強いて言うなら、」
 この世界にもう一度暗闇を。
 低く落ち着いた声が言葉の真実を裏付ける。鈍痛が頭を襲い始めた。視界が、ぐるぐると回る。もう立っていられない。過去に体験したどの状況も、これより悪くは無かった。
 「嘘だ……、こんなのはとびっきりの悪夢よ……。こんなの……、最悪の年よ……」
 「同感だよ。これまでも、これからも」
 吐き捨てる様に、吸血鬼は言った。












第二章 レミリア・スカーレット




 一九九〇年某月某日。
 オーシャンサイドはジェネンテックの研究施設にて。


 この子を、救ってくれませんか?
 ホーホー明けの夜。枕元で聞いた声は、今でも良く覚えている。
 それは、マルフロイがジェネンテックに入社して間もない頃。まるで学生の様な雰囲気に飲まれ、柄にもなく深酒をした夜の事だ。事務所のソファーで一人眠っていたマルフロイは、妙な気配に目を覚まし、枕元に立つ東洋系の女性を見てしまった。その薄い朱のさされた唇が発した言葉は、一〇年経った今も頭に焼きついている。
 翌日、目を覚ましたマルフロイが見たのは、窓の外一杯に広がる曇天と、
 年端もいかぬ少女の、小さな寝息。


 二〇〇〇年二月某日。
 ユーカリオン社の事務室にて。


 「救いがありませんね」
 人気の消えた昼食時の事務所。デスク上でふてくされるパチュリーに、缶コーヒーを受け取る様子はない。
 「あの子が引き籠っているんだよ。どれだけ整えたベッドを用意しても、掃除の行き届いた部屋を与えても、綺麗な服を与えても。翌日にはなにもかもが壊れていて、ぼろをまとってその隅にうずくまっている。そんな事を五回も繰り返せば嫌でも気が付く」
 プルタブを起こし、再び差し出すと、ようやくパチュリーはそれを受け取ってくれた。
 「警察に引き渡すなり、病院に連れて行くなり。なんとでもやりようがあったんじゃないですか?」
 「それは難しかった。いくら調べても身元一つ分からないどころか、戸籍を調べたら私の子供として登録されていたんだ。当然、私には心当たりがないし、警察も取り合ってくれない。本人に素性をたずねても、私は吸血鬼だとしか言わないし。あまりに情報が無さ過ぎたんだよ」
 「だからって、子供を倉庫に閉じ込めますか?」言葉の後半にはわざとらしいアクセントが付いている。
 「私がセラピストか何かならどうにかなったのかもしれないが、あいにく私にできるのはニードルの先端でサンプルをつつきまわす事くらいだ」
 「そうでしょうか? 線虫と子供の違いなんて、あなたには些細なことでしょう」
 避難に満ちた視線が、マルフロイを射抜く。ばつが悪そうに白髪を描き上げた
 「あー、やめないか。こんな不毛なやり取りは。君が魔女と気が付いた上で、何度もカマを掛けたのは謝る。リズに頼んで吸血鬼に引き合わせたのもワザとだ。だが、君達があんな大立ち回りを始めるなんて思いもしなかった。あれは事故だよ」
 「戦闘自体は私の判断ミス……、と不注意です。それ自体に思うことなんて、あるわげかありません。しかし、よく思い至りましたね。オカルトの実在にだなんて」
 「あの異貌、十何年変わらない姿。あとは君が体験した事と似たようなことがあったと言えば十分か。とにかく、疑う方が難しいよ。今の私にとっては」
 「……これは後学のために聞きますが、いつから気がついていました?」
 「君、有名だよ。魔女みたいって」
 「そうではなく」
 「なんとなくだ。君の顔に見覚えがあったのかもしれないな」
 パチュリーが盛大にため息を吐く。
 「それで、その魔女を、貴方が捕えるでもなく、挑発するでもなく、怯えるでもないのなら。何を求めるんですか?」
 「協力を」
 「オカルトを暴くつもりですか。良い考えとは思えません」
 「なんてことだ。君は黒服の男(MIB)だったのか」
 「面白い冗談です」
 「そう? 最近の黒服の男(MIB)は口紅を塗っていることだってあるらしいよ」
 「違います。隠匿と自由がオカルトの本質。隠匿はともかく、オカルトを管理する団体なんて大した皮肉ですよ。それこそ、オカルトです」
 「そうかな。いつまでも、昔の常識でものを考えるのは危険なことだと。私は思うよ」
 「魔女は懐古主義なんですよ」
 「その結果として、君は今ここに居る。常にブレイクスルーを求め、幾つものパラダイムを超えた私は、今ここに居る。だから、私はあれを調べる。人型のメトシェラだ。どれ程の発見があるか検討も付かないが、少なくとも我が社の経営を立て直すには十分なはずだ」
 少し様子を窺う。怒った様子は無い。彼女は、静かに、考え込むように、ただ顎に手を当てていた。
 「これは君にとっても悪い話ではないはずだ。知っているよ、魔女はいつも魔力の枯渇と戦っているんだ。あの吸血鬼から魔力を分けて貰えば、ずいぶんと捗るんじゃないか。例えば、国立公園の奥に新たな魔術工房を立てて研究に没頭するとか」
 「ずいぶんこっちの事情に詳しいみたいですが、自分が言っていることの意味を理解していますか? 正体を明かされたオカルトは力を失う。それは、実質的にあれを殺すことですよ」
 「もちろん知っているよ。逆に聞くが、君はその何が問題と感じているんだい? 君はまた魔術を為せる。僕は科学を続けられる。みんなハッピーだ。それでなんの問題がある」
 「まったくその通りです。次に解体される第一候補が、私であろうことを除くのであれば」
 「なるほどそれは一理ある。しかし、そうであるならば尚の事だ。吸血鬼に手が出せないとわかった今。どうして君はまだここに居るんだい?」
 「まったくその通りです。本当に残念なことですが、私には事情があってまだしばらくこの場所を離れられません」
 それは数少ない救いだと、笑って見せたら、苦い顔が返ってくる。そんなものがどこにあると吐き捨て、彼女はあっという間に廊下の向こうへと消えてしまった。


 半開きの窓を背に、男はオールドジョーの描かれたシガレットケースを見つめていた。薄いひげの生える口が咥えるのは、火の付いていない紙巻きたばこ。
 「永遠の好景気はありえない。技術の進歩、偽物の万能感に。錯覚しているだけだ。そんなことは、数百の商談を断られ、矢継ぎ早に契約を切られれば嫌でも理解する。なぁ、パチュリー・ノーレッジ。君はもう気がついているだろうか。ウチはもう死んでいるんだ。少なくとも、今のまま研究を続ける限りはね」
 取り出したライターを口元によせる。じ、じと小気味の良い音と共に煙草が赤熱した。窓から顔をだす。びゅうと冷たい風が頬を撫でた。
 「ああ。薄暗いと思ったら今日も曇りなんだな」
 空いっぱいの雲に、吐き出した紫煙が混じって消える。あの時と同じ、分厚い雲を見ながら。抑えきれない痛切な顔の、闖入者を思い浮かべ、煙草を吸った。
 「すまない。ユーカリオンにだって、救いが必要なんだ」
 そんなつぶやきが灰色の空に広がって、霧散する。




◇◇◇◇


 「死ねよ。このクソ野郎」
 乾いた音に続いて、幼い少女が倒れる。まもなくして部屋に広がるのは、硝煙と鉄の香り。小さく痙攣を続けるそれを見下ろしているのに、心はちっとも晴れない。
 当然だ。この後に続く光景はもう分かり切っている。おそらく数分後、この視界は反転して天井が少し遠くなるのだろう。それからまもなくして、この身体は私の物ではないのだと教え込まれる。決して逃れられない屈辱に、自分は呟き。そして、意識が途切れる。
 それが、彼女に与えられた新たな日常。
 今日のそれが始まったのは、数分前。
 倉庫に入った彼女を待ち受けたのは、いつも通り濃密な魔力だった。現代にはあり得ないはずのそれに、大した感情を抱く事もなくただ足を前に動かす。
 地面に落ちた輸血パックを辿り、部屋の奥で待つのは布団の山。足音で目覚めたのか、もぞもぞとうごくそれからは、間もなくして頭が生えた。
 「ん……、あぁ……、んー……、なんか用か?」
 口紅もさしていないのに、血のように紅い唇が気だるい声を出す。びきと前頭葉付近で血管の破裂した音が鳴り響いた。
 「えぁ、えぇ大事な用事ですとも。わたくしめは吸血鬼さまと楽しいおしゃべりをしに来たのですから」
 「あぁ、そう言えばそうだったな。毎日来るようにと。前にいったものな」
 よっこいしょと、レミリアが立ちあがる。
 「さぁ、今日は何の話をしようか。お前、何か言うことあるか?」
 「何一つ。何一つありません。何一つですよ。吸血鬼さま」
 露骨に不機嫌な様子を見せるパチュリー。レミリアが困った様な顔をした。
 「ずいぶん不機嫌だな。今日はどうしたんだ。あの日か?」
 「今は昼休みだ。言ったよな。私は昼休みに飯食うから時間ないって! あんた、OLの昼休み奪うってのがどういう意味か理解はしてんの?」
 「なんでわたしがお前の事情を考えないといけないんだ?」
 「労働者には権利があるって言ってんだよ、あんたらの生きてた時代の荘園制とは違ってな」
 「お前は労働者では無い。私の所有物だ。お前は黙って私の言うことに従っていれば良い。それが、下僕って物だろう? そもそもお前はどうして不満を抱いているんだ? お前みたいな、へっぽこ魔導師をこの夜の王、オカルトの頂点が使ってやろうと言うんだ。喜びこそすれ、文句を言われる理由なんて無いと思うんだが?」
 「お前の手下になったつもりはない」
 「それを決めるのはお前じゃないぞ。パチュリー・ノーレッジ」
 「いいえ、私は帰る。無理矢理にでも」
 「どうやって?」
 太ももに捲きつけた固定具に手を伸ばし、無酸素的筋収縮に任せてそれを引き抜く。吸血鬼のこめかみに突きつけられたのは、黒光りする銃口。
 「死ねよ。このクソ野郎」
 渇いた発砲音。そして、広がる硝煙と鉄の匂い。
 地面に倒れた小さな身体の周りには、紅い血が広がっていく。
 「心臓狙ったんだけど。相変わらず、非常識な反射神経ね」
 裂けた胸から、ピンクの肉に絡まった緑の繊維が見え、血が湧き出ている。繰り返される浅い呼吸には、時折紅い霧が混じる。十分に酸素が吸えないのだろう。血液によって飾り付けられた唇にはチアノーゼが現れていた。
 白目と黒目が絶え間なく入れ替わり、何かに縋る様に空中へ伸ばした腕が空気を掴む。
 咳、喀血。呼吸。咳、喀血。失神。呼吸、咳、喀血。失神。そして覚醒。浅い呼吸が戻るにつれ、血の広がりは収まって行き、覚醒の割合が増える。それから数分後、それは何事も無かったみたいに立ちあがり。ばつが悪そうに笑った。
 「いてて……、なにをするんだ。頭を打ったじゃないか」
 胸にはぽっかりと穴が空いたままで、骨に食い込んだ弾丸がちらりと覗いている。しかし血は止まっているし、その吐息に紅い霧は混じらない。
 「分かっていたけど、悪い冗談だよ。チスイコウモリのメトシェラ」
 「あんまりその呼び方は好きじゃないし、それを向けるのは止めてくれ。当たったらどうするんだ」
 「嘘付け。失神状態から、ハンマー音に反応する奴がなにいってんだ」
 顎の下から、ねめつける様な紅い視線が刺さる。構えたはずの拳銃は、白い腕によって抑えつけられていた。
 だが、押さえ方が甘い。腹部に狙いを付け、人差し指に力を籠めた。
 「はぁ……、まだ躾が必要なのか」
 どくん、と心臓が跳ねた。呼吸が浅くなり、吐き気が込み上げる。紅い光が視界を埋め尽くす。
 視界が反転し、天井が少し遠くなる。それからまもなくして、身体にのしかかってきた血だらけの少女が不敵な笑みを浮かべる。首筋に添えられた指が、じわじわと狭まり始めた。最初は優しく、恋人の愛撫のように。そして徐々に気道を塞ぎ、それでも僅かに息は続けられる程度の隙間は残される。犬歯を覗かせた顔に銃口を向けても、不敵な笑みは消える気配もない。
 「その……、汚い手を、はなせ」
 「無駄だ、いくら抵抗しても私の呪いからは逃れられない。お前が屈服しない限り。お前は私に逆らう度、こんな眼に会い続ける」
 「てを……、はな、せ」
 酸欠と怒りでぐちゃぐちゃになった思考が、銃を構える以外にたった一つだけ情報を与える。
 「あきれた往生際の悪さ。何度目だと思ってるんだ。そうだ、二つ良い事教えてやろう。一つ、私は銃が嫌いだ」
 小さな違和感が、黒光りと一緒に部屋の向こうへ飛んで行く。確信と共に彼女は右手の行く末を見届けた。
 「二つ。思いあがるな、野良犬。お前なんて、私の手を汚すまでもない」
 喉を締め上げているのは自分だ。血塗れの吸血鬼はただ、不機嫌に跨っている。
 「服従しろ。そして誓え、私のために働くと。これは脅しやはったりじゃないぞ。本当なら、お前の指先の一本まで自由に操ったって良いんだ」
 「だ、れ、……! ……!」
 気道をふさがれ、声が途切れる。
 「首を縦に振れ。従順な犬は嫌いじゃないんだ。仲良くやろうじゃないか。私の愛しい、」
 優しい声が耳元を這い、脳の隅々まで蹂躙する。ぐちゃぐちゃにこんがらがった思考と視界の海に放り出されたパチュリーにできることはもう何もない。そして、パチュリーはおもちゃの笛みたいに息を吐き、全身の力を抜いた。
 それは、何度も何度も繰り返した解放への思考錯誤。あまりに決まり切ったこの先の展開は試す必要もない。意識が戻るまでの間、身体を好きにさせてやれば吸血鬼は機嫌を直すだろう。
 後はいつも通り。憂鬱なこの年とほんの少しの願いを籠めた呟きを残して意識を手放せば良い。
 あぁ、もう。本当に今年は——
 「あ、ちょっと待った」
 突如、気道が開き、貪欲に酸素を求める肺が、大気と一緒にホコリを吸い込む。激しい咳が、またもや気道を塞ぐ。慌てて取り出したピルケースは滑り落ちて地面に散らばる。喉にレミリアの手が当てられた。すぅと胸が楽になる。自然に酸素が送り込まれた。
 「忘れてた。今日は他にも用事があったんだ」
 全然似合ってない柔和な笑みを浮かべ、吸血鬼が手を差し伸べる。
 「必要ない」
 「素直じゃないなぁ」吸血鬼が苦い顔をする。
 「それで、用ってなに? 血袋? 慰み者?」
 「お前がそれを望むならやぶさかでも無いが。今日は最初の命令を出そうかと思ってな」
 「お断りだ、クソ吸血鬼」
 「それは賢い選択じゃないぞ。私がお前に掛けた暗示は、本来反抗的な従者への懲罰に使うものだ。それは私の命令を三つ実行するまでは絶対に解けることはない。つーか解き方忘れた」
 「ぶっ殺すぞ」
 「逆を言えば、私の命令に三回従えば呪いは解ける。そしたらお前は自由だ。逃げるのも、私の元に残るも好きにすれば良い。まぁ、話だけでも聞いていけ。あぁ、一つの命令についての話だ。いつもの楽しく有意義な、マルフロイの奇行についてじゃないぞ」
 あどけない顔には不釣り合いな表情。怒りとも歓びとも違う、支配者としての吸血鬼が持つ、生得的なもの。
 パチュリーの脳裏を過ぎるのは、大昔の欧州とその歴史、そして光景。オカルトが支配したと言われるそこですら、領土と領民を保有できたオカルトは吸血鬼を置いて他にない。その精神性は、時代が移り変わってなお変わらない——だからこそ、真っ先に死んでいったとも言えるが——。
 そして、知識人はいつだって権力者に搾取を受けて来た。おそらく、魔術のなんたるかをミジンコレベルも理解しない裸の権力者は言うのだろう。この無根拠な万能感に酔った顔で。魔女を『まほうつかい』かなにかと勘違いした、トンチンカンな要求を。
 「飯を持ってこい」
 「……は」
 「ごはん。持ってきてって言ったんだよ。聞こえただろう。敵地調査ってやつだよ。この土地の食い物を私は知らないからな。食文化から文明レベルを測ることは大事だよ。知らないのか?」
 「知らない。そんなのは」
 「そうか。なら勉強になったな。どうしたその顔は。まるで、この期におよんで子守りの真似事をするなんて夢にも思わなかったからって、呆れているみたいじゃないか」
 「分かっているなら、その言葉を下げろ。それは私が一番苦手なことだ」
 「駄目に決まってる。さぁ、首を縦に振れ。これは最大の譲歩だ。まさか、一日に二度も失神で済まされると思っている訳じゃなかろう?」
 顔を覗き込む紅い瞳、白い牙。頬を流れ落ちる雫は、気温のためではない。小さな球面に映る少女は小刻みに震えている。爪が食い込むほどに握りしめた手のひらからは、また別の雫が垂れた。長い沈黙を守った後、パチュリーはゆっくりとその唇を震わせた。
 「お前の稚拙な調教が成功したのは、私に並外れた知性があったからだ。断じて力の差に絶望した訳じゃない」
 「それで良いよ。魔女はそこ以外に期待すべき部分がない」
 鉛のように重い心を除いて、全身に圧し掛かっていたプレッシャーが瞬く間に消え去る。
 「ああもう、本当に今年は」
 ろくなことがない。そんな呟きを無視して、吸血鬼が笑う。
 子供みたいに無邪気な顔だった。




◇◇◇◇



 笑顔とは、どんな意味を持つものだったのか。一般的には相手への好意。信頼。特殊な場合においては、鼓舞。そして、
 脳内の辞書をめくりながら、パチュリーは目前の光景を眺めていた。
 「ふぅん、サンドイッチかな。少し野性的な味付け。まぁ……、美味しくはある。シゲキテキで。でも、量が多い」
 パチュリーが買って来たのはにんにくと玉ねぎマシマシバーガー。だから、テキサスソースをほっぺに付けた吸血鬼が浮かべる、天使の様な笑顔は、おそらく挑発だ。
 「えーっと……、目の前の吸血鬼を消極的に殺す方法は……」
 小さな口をめいっぱいにあけて、バーガーをひと齧り。満足げに咀嚼した。
 「相変わらず失礼な奴だな。美味しいと思ってるのは本当だ。一見、野蛮とも思える位に大胆で、それでいてまとまりは保った繊細な味。私にはぴったりじゃないか」
 フライド・ガーリックを、ぱりりと噛み砕く姿をみて、パチュリーは大きなため息を吐いた。
 もう何通りの方法で暗殺を試みたのか。容易に思い出せる段階は遠に過ぎている。手帳のメモによれば、銃殺、毒殺、刺殺、絞殺、撲殺、焼殺、轢殺——内、絞殺に関しては筋力の問題から、思考実験の段階で断念。毒殺に関しては水銀を始めとして数種しか試していないため、検証が十分とは言えない——が無駄に終わったことが記録されていた。
 いずれの試行においても致命傷となる障害を与えた後に蘇生する事から、物理的手法は有効でないと判断した。
 ならばと古典的な方法で試した結果が、現在の姿である。 倉庫のカーテンは常に閉じられていることから、日光は不得手であると推測される。高位の吸血種ですらも日光は苦手であるとパチュリーは記憶している。
 それにしてもと前置いて、吸血鬼が口を開いた。
 「ずいぶん過剰な飾り付けじゃないか。お前みたいな一般庶民がよく立ち入れたものだな」
 吸血鬼の視線の先にあるのは、床に転がったFIVE GUYSのボール紙。パチュリーが答えに詰まっていると、吸血鬼がにじり寄って来た。
 「そろそろ教えろ。これが、どんな風に売られているのか、誰が買っているのか。どうしてこれが産まれたのか。これはお願いじゃないぞ。そこまで含めての、命令だ」
 胸元からささやく瞳は、尊大をよそおっているが好奇心を隠し切れていない。だから、その姿がなにかにすがる子供に見えたのは、きっと気のせいだ。
 「残念だけど、これはこの国の一般層。どちらかと言えば社会的身分の低い人間の食べ物。これを扱う店は欧州全体よりも広いこの国のどこにでもあるし、車……、と言っても分からないか。まぁ、農作業の帰りによって問題無い程度には敷居が低い」
 瞳からゆっくりと好奇の色が消えるのを見届け、その身体を引き剥がした。
 「そうか、庶民がこれを食う時代か。この国は豊かなのだな」
 「それは人によって意見が別れるだろうけど、まぁ、おおむね間違ってない」
 「で、この辺りの公はどんなやつだ」
 「ここは連邦国家だけど王は居ない。それに当たるのは大統領で、この辺りの責任者は知事。共和党の所属だった気がするけど、誰だったか忘れた。政治には興味がないから」
 「キョウワトウ……、変わった名字だな。どこの家の者だ?」
 「貴族政治はもう終わった。今あるのは、民主制と言う名の世襲政治」
 「それのなにが違う」
 「全然違う。言葉の響きとか」
 吸血鬼が呆れた様にため息を吐いて、毛布の山に戻る。ぼんやりした様子で手元のハンバーガーに齧りつきはじめた。
 んくっ。と妙な鳴き声が聞こえて来たのは、そんな時だ。何かを訴える様な眼が、パチュリーを捉えている。そっと視線をそらした。意図なんて読み取りたくもない。
 「——っ! ——っ!」
 不気味なくらい白い肌には青が混じり始めている。一層に激しくなる呻きはまるで助けを求めているみたいだ。しかし冷静なパチュリーは、勘違いと思い直し、ポケット内のレモンキャンデーを口に放り込む。
 白衣の後ろを小さな手に掴まれる。凄い力で引き倒された。目前の唇は死者と見紛えるくらい青い。
 「何が言いたいのよ、その位じゃ死なないでしょうに」
 死なないけど、苦しいだろうが。
 「あ、念話はできるんだ。偉い人は言った。人生、死ぬこと以外はかすり傷ってね」
 こんのクソネクラメガネ。
 ちり、と前頭葉に焼けるような感覚を覚える。全身を駆け巡った嫌な予感が、慌ててペットボトルを投げた。無言でそれを受け取った吸血鬼が、不機嫌にキャップを引きちぎる。
 一気に五百ミリリットルを飲み干した吸血鬼は、しみじみと息を吐いた。
 「うっかり、忘れてたよ。私は喉が細いんだ。アメリカの野蛮な飯はちと合わん」
 繊細なんでな。そう言って笑う吸血鬼からは、一点の後ろめたさも感じられない。
 「あっそ。だったら輸血パックで我慢すれば?」
 「美味しくないんだよなぁ。あれ。水みたいで」
 「なら我慢するしか無いわね。あ、いっそ、なにも食べないとかどう?」
 「分かってないな、お前は。私に餓死なんて惨めな死に方が許されると思うのか? 水だけじゃ、十年と生きられる気がしない」
 「あー、それは大変ね」
 パチュリーが棒読みで答える。
 「さぁ、これで満足してくれた? できるなら、次の命令はもっと簡単であることを望むのだけど」
 何かを考え込むようなしぐさをするレミリア。
 「口直し」
 「……は?」
 「あふたーさーびすって奴だよ。気の利かない奴だな。確かに、一般庶民の飯から大体の予想は着いた。だけど、私の口はまだあぶらぎったままじゃないか。食後の紅茶くらい、用意してくれても罰は当たらないんじゃないの?」
 抗議をしようとして、止める。吸血鬼が浮かべるのは、屈託のない笑み。
 意味なんて考えたくも無い。
 「明日で良い?」




◇◇◇◇


 仮定と試行が魔女の呼吸で、執筆と考察がその言葉。種族魔法使い、パチュリー・ノーレッジは知識の習得なしには生きられない。
 だから今日も彼女は新たな発見をしてしまう。望む望まざるに関わらずにだ。
 「これ……、色つき水かなにか? 香りが全然しないんだけど……」
 これは、人を苛立たせる天才だ。
 「ぶっ殺すぞ。紅茶だ」
 薄暗い倉庫の中、蛍光灯に照らされた段ボールの上には小さなティーセットが置かれている。子供の様な姿をした暴君は、いぶかしげな眼で黄金色の液体を眺めていた。
 手で仰いだり、鼻を近づけたり。しかし、飲もうとはしない。次に吸血鬼が興味を示したのは、ティーカップの隣だ。指先でそれをつついたり、首をひねったり。考えるようなそぶりを見せるが、口をつける様子はやはりない。
 「それじゃこれはもしかして……、マカロンだったりする……、みたいね」
 本気で分からないと言わんばかりの迫真の演技。あまりに巧妙なそれが一層の不快感を駆り立てた。
 「悪かったね。気にいらないなら食べてくれなくて良い。これでも、真面目に作ったつもりなんだけど。おばあちゃんに習ったレシピメモを引っ張り出してまで」
 「ああ、うん。確かに私が知っているのとは違うみたいだね」
 確かに焼成時間と温度を僅かに間違えたのは事実だ。しかし、全体の二割が炭化した程度なら、取り除けば問題無く食べられる。試してはいないが、味への影響もないはずだ。
 だと言うのに、まるで炭でも見る様な眼がそれに向けられている。顔を青ざめさせる芸の細かさにも、この吸血鬼の性格の悪さが見て取れた。
 「別に投げ捨てて貰ったって構わない。あんたみたいなバケモノに飲んでもらった所で、別に嬉しくもないから」
 最初から不審に思っていた。米国の産まれではないパチュリーに茶など淹れさせたところで、土地調査の足しになるはずがない。吸血鬼の言葉を信じるにしても、既製品でこと足りる。むしろ、手作りなど、毒を盛ってくれと言うのと同義だ。
 そこまでの情報があれば予測は難しくない。これは、吸血鬼による意趣返しで。昨日の笑みの真意に違いない。そう、パチュリーは確信していた。
 だから、この吸血鬼は完ぺきに作られたティーセットを呆れた様な眼で見ているのだ。まるで、有機物の残骸を見る様な眼で。
 「まぁ、そう言うなって。一口くらいは貰うとするよ」
 パチュリーには吸血鬼の次に取る行動が、手に取る様に分かる。この粗暴な吸血鬼は取っ手すら使わずにカップを掴み、味わいもせずに呑みこんでこう言うのだ。
 「不味い」
 「あぁ、そうです……、か?」
 悪態をつく準備をしていた脳が、戸惑った。
 ガラスの様に白い喉が、二度三度波打っている。薄く朱の差した唇が白いカップに映える。ソーサーが透明感のある音を立てると同時に漏れたのは、仄かな色気すら籠った吸血鬼の吐息。
 あまりに洗練された一連の動作は、まるで本物の貴族。
 「香りが全然足りない。それにぬるい。お湯の温度は計ったの? 蒸らし時間は? あと、私はミルクティーが好きだ。覚えておけ」
 一瞬、眼を奪われていた。実際、それに気がついた時、眼の前にはいつも通りイヤミったらしい笑顔が戻っていた。
 「も、文句があるなら飲まなくて良い。仕置きがあるならどうぞご自由に」
 その言葉に答えるわけでも、言外に示すわけでもなく。吸血鬼はカップをかたむける。
 それは、先ほどと同じ光景。横顔は間違いなく幼児のあどけないもの。だと言うのに、指先の一つ、唇の隅々までに艶が宿っている。
 それが貴族教育を受けた者だけが持つものであると、パチュリーは気がついてしまう。忌むべき存在と理解しながらも、眼を離すことができなかった。
 いや、と前置いてから、透明感のある音が倉庫に響く。
 「私の教育係も、紅茶を淹れるのは下手くそだった」
 それは非難ですらない、ただの感想。これ程に穏やかな声を出す吸血鬼を、パチュリーは知らない。動揺と不気味さが胸を満たしていた。
 「この懐かしい感じ、下手くそな味が懐かしいだけじゃないな。入れただろう?」
 「あ、あぁ。触媒用に保存してある私の血を少し」
 「どうして、入れようと思った?」
 「ふ、不満とか言われて、何度も作り直すのは嫌だったから。で、それが何? 不味かった? 魔女みたいなヒトモドキの血を吸ったから気分を悪くした?」
 返事の代わりに吸血鬼はティーカップを傾ける。白磁の喉を波打たせ、ほんのり湿った紅い唇を開き、吸血鬼は告げた。
 「いや、とても美味しい」
 「そう、なら良かった」
 想定外の事態が続き、思考が散漫になっている。一旦落ち着こうと、窓の外を見た。分厚いカーテンから覗く外は、春を待ち望む木々が冬風に揺れていた。暖房がついているとはいえ、少し肌寒い。薄着でいれば風邪をひいてしまいそうだ。
 流れる雲を見ながら、パチュリーはそんなことを考えていた。
 「パチュリー」
 「なんだ。文句言ったって、これ以上のものは出せないよ」
 「褒めてつかわす。お前の誠意、伝わったぞ」
 パチュリーの時間が静止した。耳も、眼も正常に働いている。言語野は正しく音情報を言語に変換している。なのに、理解が追い付かない。その言葉は、彼女が築きあげてきた色んな仮説を破綻させる。だから、慎重に扱う必要があった。
 たっぷり十秒後、間を置いてパチュリーはようやく口を開く。
 「気色悪い……」
 「つれないなぁ、仲良くしようよ、仲良く」
 「だったら暗示を解けよ。クソ吸血鬼」
 「言っただろう。それは契約を果たすまで、私でも解けない。つーか、解き方なんて忘れた」
 「ぶちころすぞ」
 「後二つの命令でお前は自由なんだ。ちょっとでも楽な命令が下されるように、少しくらい媚を売っても損は無いと思うぞ」
 「それが本当なら、まぁ、そう言う選択肢も有りなんではないでしょうか」
 「吸血鬼は嘘を吐かない。それを知っていたから、お前は私にお茶を淹れてくれたんだろう?」
 吸血鬼の紅い眼が、真っ直ぐにパチュリーを捕える。久々に返ってきた嫌味な感情だ。だから、とても安心した。
 「でも、さすがにこのマカロンは頂けないな。知らないのか。焦げたものを食べるとガンの原因になるんだ」
 「マルフロイの入れ知恵だろうけど、ちょっと時代遅れの俗説。いわゆる、オカルトってやつだよ。それ」
 「そうか。なら、味だけでも」
 ちまちまと吸血鬼が茶菓子を食べはじめる。食が細いというだけあって、何時まで経っても食べ終わらない。さっきとはうって変わって、子供みたいな横顔。
 愛らしくないと言えば、嘘になる。脳裏をよぎるそんな妄言を、振り払うように、ぶんと首を振った。
 いや、やっぱ不味いな。舌を出し、これ見よがしに黒いマカロン様の塊を皿に出す。妄言は妄言と、思いなおし、パチュリーは安心した。
 「茶葉はどこで買ったんだ? まさか、自家製なんてことはないだろう」
 「この近くにあるドラッグストア。グラム単価に関しては黙秘」
 「それは驚いたな。この国では紅茶が薬なのか」
 「あぁ、そうそう。ポリフェノールとか入ってるし身体に良い。だから売ってるんですよ」
 「ポリフェノール?」
 「紅茶に入ってるのはフラボノイドの一種。シンナモイルCoAから出発して、マロニルCoAが縮合されたもの」
 「しんなも……、しゅくご……? あぁ、もう! お前の話は分かりにくいな。頭の良い人間はもっと分かりやすく話す。マルフロイの方がまだマシと思えるレベルだ」
 「実際、その分野に関してはマルフロイの方が詳しい。それに、魔女は情報の占有が命。子供の教育にはこの上なく向いてない」
 「こんな見目麗しい淑女を捕まえて、子供呼ばわりとは良い度胸だ」
 「はん、よく言う。私だってそれなりに生きてる。何歳か言ってみろよ」
 吸血鬼は黙考でもしてるみたいに腕を組む。
 「何歳だったかなぁ……」
 「呆れた……。なんか子供の頃で覚えてることとか無いの?」
 「そうだなぁ……。すっごい小さい時、スレイマンがウィーンを包囲したとかで、家中が大騒ぎだった気がする。しばらくお父さん、忙しそうだったもんなぁ……」
 胸の中に小さなしこりができたみたいに気持ちが悪い。
 「第一次ウィーン包囲って言うと……、四百年以上前? 年上? マジ?」
 「発育が悪いとでも言いたそうだけど、残念。お前もどっこいだ」
 「私は三百もいってない。だから、産まれた時にオスマンはもうアナトリアに引っ込み始めてたし、三十年戦争も終わってた。オーストリアの山間部に住んでたけど、ほんと静かなものだったよ」
 「へぇ、意外と近所だな。私はヘッセンの田舎に住んでいたんだ。お父様の封土だ。多くは無いけど領民も居たし、森にはゴブリンやピクシーが溢れる良い場所だ」
 やっと答えが分かった。さっきから昔話をするこの吸血鬼は、まるで主人の帰りを待つレトリーバー犬みたいな顔をしている。答えに辿り着き、爽快な気分になった矢先。
 「まぁ、でも。魔女に限っては教育係に一人居たくらいで、他には知らないけどね。あいつら、森を汚すから、あまり多くを同じ所に住まわせないようにしていたらしいからな」
 「ヘッセンにある吸血鬼の館に……、魔女?」
 自分でも知らぬ間に、口が開いていた。
 「そうだが。それがどうかしたのか? 別に珍しい話でも無いだろう。当時のお前たちは、諸侯の元に知識人として潜り込むのが一般的だったじゃないか」
 「そいつ、どんな研究をしていた?」
 「さぁ。興味が無かったから知らない。でも錬金術は齧ってたんじゃない? 当時、パトロンを募るのに、それ以上の餌はなかったから」
 「そいつ、どんな名前を名乗っていた?」
 「あー、どうだったかなぁ。忘れちゃったよ。どうせ偽名だろうし……。私は勝手に知識人(ノーレッジ)とか呼んでたけど、悪魔に真名教える馬鹿が居るわけないだろ……、って言うか。珍しいな。お前から話を振ってくるなんて」
 欠伸混じりに返ってきた答えに、パチュリーはっと口を閉じる。その頬が紅潮していたのは、言うまでもない。
 「こ、これは。幼い頃に出て行った母の残した資料が、私の研究の出発点で。なにかの役に立つとか思っただけで。べ、別にあんたと話したいと思ってる訳じゃない。あんたには微塵も興味がない。勘違いするな!」
 ふわぁ、と大きなあくびを一つ。天井を見上げながら、吸血鬼は答えた。
 「なんでも良いよ……。ふわぁ……、あいつ私の教育係でさ。ほんと……、話が長くて、すぐに眠くなるんだよなぁ。特に歴史の授業なんて……、起きていられるものじゃなかった……、し」
 「おっ、おい。私は別に話せなんて言ってない」
 「あいつに、魔法を教える、くらいだから、多分、優秀……。くやひいけど……」
 「だっ、だから——」
 良く見れば、その吸血鬼は船を漕いでいる。何事かを呟いているが、もはや言葉としての体はなしていなかった。
 「フランと……、喧嘩したら。いっつも……、わたしが怒られる……。ほんと……、むかつきゅ……」
 ついに吸血鬼が、ずるずると倒れまぶたを閉じる。小さな寝息が聞こえ始めたのは間もなくのことだ。
 「……不愉快なやつ。自分勝手も良い所だ。まぁ、良い。これでやっと解放されると思えば」
 吸血鬼が小さな寝息を立てている。仕事に戻るチャンスだ。帰ろうと、立ちあがり試験室に戻ろうとした時、その光景が目に入ってしまった。
 小さな子供が、掛け布団の一枚も無しに眠っている。服ははだけて肩口は空いてしまっているし、外には雪がちらついている。子供の様な寝顔だ。皮肉抜きに天使の寝顔だ。白いお腹が患者服から覗いている。
 このまま、放っておいたら風邪をひくかもしれない。良いきみだ、とパチュリーは判断したし、実際そう呟いた。だから、
 「……あんたはやっぱり天才だと思う」
 はぁ、と大きなため息をついて、部屋の端に転がっていた布切れを手に取った。




◇◇◇◇


 「行ってくるよ■■■■。留守の間、家をよろしくな。寂しいかもしれないけど、泣いたりしちゃ駄目だぞ。大丈夫だ——」
 その時の自分は、きっと誇らしげな顔をしていたに違いない。なにせ、何の力もない自分が、唯一親に頼ってもらえる瞬間なのだから。
 居城を囲む一面のオーク林は、私の遊び場だった。泉のそばでは悪戯好きの妖精がばればれのブービートラップを作っていたし、小川に居座る流れ者のケルピーとはよく無駄話をした。城には偉大な吸血鬼である両親とその従者が居て、朝日に追われるように戻る私を叱ってくれたものだ。
 私の父は、ヘッセンの片田舎で傭兵稼業を営む元騎士だった。滑降式マスケットの登場で没落していく騎士の中にあって、鉛弾よりも早く戦場を駆ける父の部隊は華々しい戦果を上げ続けることで、未だ自身の領地を守っていた。
 そんな理由もあって父は家をあけがちだったが、私はそれが悲しいと思ったことはない。そんな感情よりも、一〇〇余の部下を引き連れて出立する背中が大好きで堪らなかったからだ。あの一〇〇余名が一人として欠ける所を見たことがない。三十年戦争の間ですら、どれだけの傷を負い、疲弊しても必ず父は全員を連れて帰った。そんな父を見る部下達の視線が誇らしくて、うらやましくて仕方がなくて、いつか自分もあの隣に立ちたいと思っていた。
 そうやって父の背中を追いかけまわした幼年期の終わりは突然だった。ビスマルクの鉄血演説に続く一連の戦乱が、父に初めての敗北を与えたからだ。
 父が家を出て行った最後の日。精鋭を引き連れ出立する父の背は、朝陽に眼が眩んで全然見えなかった。
 「■■■にしていたら、必ず帰ってくるからな」
 あきれるくらいにいつも通りの言葉を除いて。


 ごぉん、ごぉんと素っ気ない音が頭をゆする。
 思考と視界には同じくらいにかすみが掛かっていて、眠っているのか起きているのか分からない。カーテンの隙間から覗いているのが、雑木林なのかビル壁と換気扇なのか、それすらも、同じように。
 真っ暗な倉庫。そこはもう十年近く人が殆ど立ち入らない彼女の住居。その中央で小さな影が丸まっている。コウモリみたいに小さくて、みすぼらしい影だ。
 それがなにかを理解した時、彼女は視線を逸らそうとした。しかし、首どころか眼球すらも動かせない。それは鎖で雁字搦めなんて生易しいものではない、意識だけを残して他全てを凍結されたみたいに、指一本動かすことができなかった。
 彼女が無駄な抵抗も虚しく、小さな影はもぞもぞと動き始めた。
 やめろ。やめろ。
 毛布の山から這いだした影が、アルミの盆に置かれた餌に喰らいつく。こくり、こくりと可愛らしい音を立てて飲み下すのは、パウチに入った紅い液。半分も飲み終わらない内に、それを地面に投げ捨て、影はまた毛布に戻る。
 やめてくれ。もう、これ以上は。
 影の隣に人がいる。人は影の衣服をはぎ取り、その皮膚の一部を切除した。むずがる影が頭を撫でられ、動きを止める。人が、その皮膚をシャーレに入れながら楽しげになにかを語る。影はそれを黙って聞いている。影だ。どんな顔をしているかなんて、わかるはずがない。それが隠しきれない笑みに気がつかないふりをして、ぎこちない相槌を打っている様に見えるのは、気のせいに違いない。
 やめろ、やめてくれ。そんな姿。あの人に見られでもしたら。
 いつの間にか、小さな影の隣にはもう一つの影が立っていた。ただの真っ黒なシルエットだ。それは、じっと小さな影を見下ろしている。冷たくて無関心な瞳だ。スレンダーなその男がだれかなんて、わかるはずがない。その広い背中やぴんと張った姿勢を見る程に胸が締め付けられていくのは、ただの考え過ぎた。
 やめてくれ。やめて。見ないで、見ないで。私の姿を。まだ見ないでいて。
 しばらくしてスレンダーな影は視線を逸らし、小さな影に背を向ける。そして、ゆっくりとその影は、小さな影から離れていった。
 待って、嫌だ、嫌だ。許して、ごめん。だから、待って。
 喉を裂くような勢いで、叫んで。それでも、声は出ない。無音の弁解は、微塵も影の歩みを妨げない。やっと掠れる声がこだましたのは、影が消えた後のことだ。
 お、とぅ……、さん……。
 閃光が視界に溢れ、鼓膜を震わす振動が意識を釣り上げる。
 ごぉんごぉんと、換気の音が部屋に響いていた。
 「……夢か」
 横髪が頬に張り付いている。真冬だと言うのに、全身汗でぐっしょりだ。このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。とりあえずの対処として、着ている服を脱ぎ捨てた。
 「夢なんて見るのは久しぶりだな……。あぁ、そう言えば今日はあの日か。どうりで……、気が重い」
 突然の気配に彼女が動きを止めたのは、着替えの入った段ボールに手を掛けようとした時だ。
 「驚いた。あんたも風邪なんてひくんだ」
 背後から聞こえたのは、聞き覚えのある声。支えを失った段ボールが倒れ、ばさりと緑衣が散らばった。
 「おはよう、チスイコウモリ。まだ解剖されてないみたいでなにより」
 錆びついたねじ巻き人形みたいな動きで声の元をたどる。あまりに予想通りの光景に、レミリアは頭を抱えた。
 「いつからだ……?」
 不機嫌な顔が、喉の潰れたゾンビみたいなものまねを始める。どうやらそれは本人なりの洒落であるらしく、くるりと踵を返した魔女は人の言葉を紡いだ。
 「ずいぶんうなされてたけど。あんたでも悪夢なんて見るんだね」
 「……繊細だからな。お前みたいな陰気な顔に見つめられていれば、悪夢の一つも見る」
 「だったら、繊細な魔女である私が、冥王様であらせられるあなたさまを前に日々を過ごす気持ちについて、どうかその御心を馳せて頂けると幸いです」
 「そりゃもちろん、王族に仕えられる喜びに日々打ち震えているのだろう。分かってる。これからは毎日呼び出してやるよ。特に用がなくてもね」
 「ぶっころすぞ」
 予想よりもずっと強い怒り。びっくりして呪いを使いそうになってしまった。
 「小型犬程よく吠える。それも愛情表現として受け取ってやるよ。私は心が広いからな」
 「まぁ……、良い。で、約一週間ぶりの再会なわけだけど、呼び出したのには、なにか理由があるんだろうな?」
 理由なんて決まりきっている。忘れていたのは今日があの日であることだけだ。
 「あー。そう言えばそうだったな。だが、今はちょっとタイミングが——、悪い。そうだな、しばらくその辺に落ちてるコミックでも読みながら待っていてくれ」
 仕事があるとでも言いたげな顔が、彼女に向けられる。「私の相手なら、マルフロイもサボりとは思わないんだろう」先んじて口を開くと、魔女が渋々といった様子で戸棚に腰掛けた。
 コミックを手に取る姿をみて、胸を撫で下ろす。とりあえずは、誤魔化せた。普段なら多少の運動くらいは気にもしない。しかし、今日はこの後三十分もせずにあれが来る。できるのなら、走り回って転んだりはしたくない。待たせる言い訳は、この時間で考えておけば良いだろう。
 どうにも手持無沙汰で、枕元の一冊を手に取る。産まれたのは、紙をめくる音だけが部屋を支配するしばしの時間。
 何度眼を通したかも忘れた。繰り広げられるのは、いつも通りの英雄譚。どこにでもいる超人が、馬鹿みたいに決まり切った格好で登場し、どう考えても大袈裟すぎる騒ぎを起こす悪を征伐する。何度読んでも、どれを読んでも同じように繰り広げられる予定調和の物語。ばかばかしくてワンパターンなその一切合切が、身を焼くほどに眩しい。
 視線を感じる。気がつけば、三白眼がコミック越しにレミリアを睨んでいた。
 「……そんなの、あんたが読んで面白いの?」
 「意外と面白いよ。かっこ良いじゃん。ヒーローって」
 「あんたは殴り飛ばされてる魔王の方なんだけど」
 「そんなのはささいなことだよ」
 「よく分からんな。吸血鬼の考えることは」
 「お互いさまだ」
 紙面に眼を戻せば、ブラックジョークばかり口にするピエロがヒーローをからかう物語が再開される。意識がそこにも見込まれるのに、数分も掛からない。だから、最後のページをめくり終わった時に定刻の三分前だったのは、ただのラッキーだ。
 「げっ、もう時間じゃないか」
 「驚いた。あんたにスケジュールなんて概念があったなんて」
 「大忙しだよ。昼寝とか食事とか、後は夜寝とか」
 「それは大変。変わってあげようか?」
 「今日はちょっと違う用事なんだよ! ちょっと行ってくる」
 「おい、ちょっと待て。私を呼んだ理由はなんだ? まさか、コミックを一緒に読むためじゃないだろうな?」
 「そんなわけないだろう! お前を呼んだのは……、お前を呼んだのはな……。えーっと……、その……」
 慌てて言葉を探したところで、良い言葉が浮かぶはずも無い。ねめつける様な視線に耐えきれず、レミリアは魔女の腕をひっ掴んだ。
 「今日は検診なんだよ!」
 半ばヤケクソ気味に答えて後悔する。魔女を引きずりながらレミリアは全力でそっぽを向き続ける。自分がどんな顔をしているかなんて、想像したくもなかった。
 「注射が怖いから着いてけって? 別に良いけど、服くらいは着れば?」
 顔面が、かぁとあつくなることを感じた。




◇◇◇◇


 「珍しいな。君から外に出てくるなんて」
 「お前には関係ない」
 試験室の一角。カーテンで簡単に仕切られたスペースで、吸血鬼がそっぽを向き、不機嫌な横顔がマルフロイを睨みつける。
 「珍しいな。君が着いてくるなんて」
 「知りませんでしたから」
 「それは勘違いだよ」
 「あなたがチャイルドマレスターだったなんて」
 「いくら吸血鬼の生命力が強いと言っても、濡れたままなら風邪は引くし、転べば怪我だってする。日常から栄養状態の確認は大切だよ」
 わけがわからないことの一つ目。先程までの奇妙な態度、なにかを渋る様なそぶりの原因を理解し、思わずため息が漏れた。
 人間に身体を弄られている姿を見られるのは、吸血鬼としては面白くないのだろう。その気持ちに共感はできた。だがしかし、パチュリーのため息はなればこそである。
 だったら連れてくるなよなぁ。
 口の中で呟き、代わりにマルフロイを睨みつけることが精一杯の抗議だった。
 「そのついでにサンプリングですか、流石ですね」
 「まぁ、こないだはそうだったな」
 「そう言えばあれは内胚葉系の細胞でしたね。あれ、どこから採取したんですか?」
 吸血鬼がされるがままに腕を掴まれている。曲げた状態、そして伸ばした状態で関節を固定され、そこを撫で回されている。マルフロイの口から出るのは痛みの有無に関する問いばかりで、それに答えるのは僅かな首の動きだけだ。
 ため息が出る。今日は変なことばかりだと、そんな思いが胸を満たしていた。
 「さぁ、次は前だ」
 「いくつか疑問があるんですが、聞いても良いですか? どうしてあなたが医師のまねごとを?」
 「マウスやモルモットの構造はよく理解しているし、後はまぁその辺の書籍で。簡単な健康診断だ。なにも特別なことはしてない。なんなら次からは君が担当すると良い。どうした、レミリア? 前を開けて。肩の力を抜いて」
 吸血鬼は返答を拒むようにうつむき、困った顔をしたマルフロイがそれに語りかけている。娘に対して使う、諭す様な言葉で。
 マルフロイの前に出てから、吸血鬼はずっとこんな調子だった。普段の尊大だったり無邪気だったりする態度が鳴りを潜め、代わりに沈黙と無感情が吸血鬼を支配している。屈辱に耐えているのだろう。そう考えることが自然だった。
 「レミリア、前を開けてくれ」
 おそるおそるとでも言うべきぎこちなさで、ボタンに手が掛けられる。緑衣の下にあったのは、透ける様な白い肌と、あまりにも生々しい弾痕。
 「穴は塞がっているが、弾が抜けていないな。あいつにやられたのか」
 「え、えぇ……」数秒の間を置いて、吸血鬼が返事をした。
 「人聞きが悪い。正当防衛ですよ」
 普段なら間違いなく返ってくるであろう非難の声は、当たり前のようにない。
 「大方、不意をつけばどうにかなると思ったんだろう。そして返り討ちにあった」
 代わりに挟まれるのは、沈黙を想定していた様なマルフロイの言葉。
 「吸血鬼の素材は貴重ですからね。しかし、相変わらずとんでもない治癒力です。撃ってから一週間も経ってないはずなんですけれどね。どうやったらあんたは死ぬんでしょうか? 後学のためにお聞かせ願えると嬉しいですね」
 吸血鬼の眼は泳いでいて、質問を聞いているかすらも怪しい。代わりに答えたのは、当然みたいにマルフロイだった。
 「過去の記録によると、頭部のみを破損しても数日で元に戻った。四肢が切断されても、一カ月足らずで完治した。四肢・頭部を完全に欠損しても再生した記録もあるな。その気になれば、細胞一個からでも蘇れるんじゃないかと私は思っているよ。流石に、そこまで破損するとフラスコかなにかで手厚く保護する必要があるだろうが。……どうした、ノーレッジさん」
 「いや、貴方よく今まで人間のふりができていましたね」
 「そんな青白い顔で私を見るのはやめてくれ。私は人間だ。間違いなく。自分で言うのもあれだが、一般的な感性や善悪観を持ち合わせているつもりだ。全てはこの子が自分でやったことだよ。私はただ小さじ一杯分ほどの好奇心でそれを調べさせて貰っただけだ」
 「あんたが、自分で……?」
 「あれだ……、ちょっと朝の体操をしていたら躓(つまづ)いてこけたんだ……」
 目を逸らしながら、努めてぶっきらぼうに振る舞おうとしているかみたいに吸血鬼は答えた。
 「その言葉が本当なら、治療なんて必要あるんですか?」
 「当然だ。だから、こうして定期的に検診をしている。ふむ……、これはやはりまずいな。レミリア身体の力を抜いて欲しい」
 少しだけ我慢するんだよ。そんな優しい言葉とは裏腹に、鋭利なメスが皮膚を這う。新雪の如き白に一本の紅い筋が浮かび上がった。
 掻き出されるピンク色の肉と溢れる血を気にも止めず、ラット相手に鍛えられたメス捌きが肉の奥深くへと進入する。二センチほど潜ったところで、肉の隙間から鈍色の塊が頭を出した。
 「いくら治癒力が高くても、体内の異物は自力で取り出せない。鉛は有毒だ。この子の身体を弱らせる。最低限の処置をしなければ、傷が化膿することだってある」
 弾頭をピンセットで摘む。原型を留めない程ひしゃげ、白骨に深々とめり込んだそれはゆっくりと持ち上げられ、そしてステンの皿を打ち鳴らした。
 「だから、こうして定期的に健診をしている。どういう訳が生傷が耐えないこの子には不可欠なものだ。まぁ、レミリアと君と出逢ってから劇的に傷が増えたことについては、今話すべきでないことを理解しているから安心して貰って構わない」
 ささいなお返しに気がつくこともなく、パチュリーは吸血鬼の傷口を観察していた。
 「どうだ、驚くべきことだろう? この大きな拳銃の傷がものの数日でふさがるんだ。微塵の傷跡も残さずに。人ならば絶対にありえないことだ。驚異的な治癒力だ、生命力だ。興味深いだろう? 君も研究したくならないか?」
 「なりませんよ。そもこれは医学の範疇で、私の専門じゃない」
 それは何度も繰り返し見た光景。つい先程切開したはずの傷口が、もう出血が止まっている。再生の第一段階。血小板による傷口の封鎖が完了していると言うことだ。ものの数秒も経たない内にである。
 「そうか。やはり君もこれを魔術的な機構とは見ないんだね」
 「全く無関係とは思わない。少なくとも記憶の保持や、魔術的な器官の再生。えーっと、こいつなら眼とか牙とか羽とか、には関わってると思う。だけど、傷口を塞ぐとか骨をつなげるとかそんな人間も当たり前に行っている働きには関わっていないはず。もしも関わっているのなら、こんな普通の生物みたいな修復過程を模倣する必要が無いはずだから」
 「そうか。つまり、この驚異的な治癒機構を解析できれば、人類の科学は一足飛ばしに進化すると言うことだね。もしかしたら私達はいずれ、道具を使わなくても君たちと同等の存在になれるのかもしれないね」
 マルフロイの言葉にパチュリーはひやりとする。そこに、吸血鬼に対するふくみは一切ない。少なくとも今のマルフロイには純粋な好奇心だけがあることくらい、パチュリーには分かっていた。しかし、それが空気の読めない吸血鬼にも通用するかは別の話だ。
 癇癪でも起こすのではないかと、おそるそる視線を動かす。ぼやりと言った様子の吸血鬼は、何も言葉を発するそぶりを見せない。何度か声を掛けて、やっと反応した。
 「吸血鬼。あんたはどう思う? マルフロイはああ言っているけれど」
 「あ、あぁ。人間の戯言は聞き流すのが王者の姿だ。それに、不可能なことをほざく人間と言うのは、見ていて楽しいじゃないか」
 「はぁ、そうね」
 「解析できるとは思って無いさ。ほんの断片でも利用できれば上々。こう言うのはね。さて、残りの弾を摘出しようか。しかし、数が多いから痛むかもしれないな。そうだ、終わったらキャンディーをあげよう。それで我慢してくれるね?」
 「いや、子供じゃないんですから」
 吸血鬼は喜ぶでもなく怒るでもなく、ただ小さく頷いてマルフロイに向き直る。計五発程の弾丸を取り出される間、吸血鬼は小さな呻きを漏らすだけで彼のどんな行為にも不満を漏らす事はなかった。
 検診を終え器具を片づけるマルフロイを横目に、吸血鬼はそそくさと服の前を止め、部屋を出て行こうとした。パチュリーも慌ててその後を追う。
 「戻るぞ、二つ目の命令がある」
 いつも通りの尊大な口調に、ほんの僅か安堵する。乱暴に開かれた扉から、圧力差によって大気が流れ込んできた。
 「どうしたんだ?」
 瞳に入ったそれの見間違いを疑って眼をこすり、考え違いを疑って頭(かぶり)をふる。
 もう吸血鬼は廊下のはるか向こうだ。その背中からはいつも通りの不機嫌さが漏れている。
 あんなプライドの塊がこの程度で心を乱すなんてありえない。だから、アッシュの隙間にのぞいたチークが、紅潮していたのはきっと気のせいだ。
 「いいえ……、なんでも」
 そう思い直し。パチュリーは吸血鬼の背を追った。




◇◇◇◇


 しかめっ面に球の様な汗が浮かぶ。リズからも皺になると言われるそれは、もうすっかり身体に染み付いてしまっていた。最後に笑ったのは多分、魔女になる前だったと記憶している。行方の知れない母の帰りを待ち、祖母に魔術を習う一般的な家庭。人であった頃の彼女はよく笑っていた。
 深夜を指す時計が見つめる机の上で、パチュリーは小さなため息を吐く。真冬だと言うのに額から滝の様な汗が流れ落ちる。炉から漏れる蒼白い炎は坩堝(るつぼ)と肌を同じくらいに容赦なく焼きつけていた。
 ゆらゆらと揺れる紅い水面にパチュリーが語りかける。それは魔道具に欠かせない魔力付与(エンチャント)を行っている訳ではない。ただの愚痴だ。
 「あー、もう適当で良いわよね。適当で……。どうせこんなのに意味なんて無いし。誰かを納得させるための道具作りなんて、ほんと無駄も良いとこ。ディスカウントストアで買いそろえた材料ですら勿体ない」
 思えば、役病神に出会ってから眉間の皺は深くなる一方だった。今もあの吸血鬼が傍迷惑な命令さえしなければ眠っている時間だ。だから、明日の朝、死ぬような思いをして布団を這い出す必要だってないはずだった。
 「あー、もう! そもそもなんで平日の夜にこんなことをしなきゃなんないのよ」
 鬱憤を晴らすように叫んでみても、特になにかが変わる訳でもない。部屋に満ちる熱気と相まって、一滴の汗が落ちただけだ。
 いつの間にか、坩堝(るつぼ)の中が真っ赤に満たされている。慌ててそれを鋳型に流し込み、再び空っぽになったそれに、古びたボール紙から取り出したインゴットを放り込んだ。
 「クソっ、これ一つでどれだけすると思ってんだか。絶対経費で落としてやる。あんの、役病神め……」
 火勢の落ちた炉に、ふいごで空気を送り込む。残りの作業を考えれば、それの完成は早くても朝方だろう。はぁ、と大きなため息をついて、何杯目かも分からないインスタントコーヒーを傾けた。ずきりと痛む胃を押さえ、パチュリーは作業に戻る。
 数時間後。死んだように眠るパチュリーの隣に、それは転がる。新品みたいに磨きあげられたそれは、朝陽に照らされ眩く輝いていた。


 吸血鬼の命令を実行するにあたり、マルフロイの提示した条件は三つだった。
 一つ、傍には常にパチュリーが居ること。
 二つ、目立つ行動は避け人に紛れさせること。
 三つ、何があっても、周囲の人間を傷つけさせないこと。
 「それを満たすためのこれか。いや、言いたいことは分かるし、実際有効だとも思う。だがな、もう少し他にやり方を考えなかったのか?」
 「だって仕方ないだろう。こうしないと、マルフロイが納得しないのだから」
 「私、あんた恨み買う様なことしたかなぁ」
 「抱腹絶倒間違いなしのギャグだな。持ちネタにすると良い。宴会で大人気だよ」
 「良いね、舞踏会。四〇〇年くらい前まではよく舞踏会に行ってたんだけど、最近はご無沙汰だよ……」
 吸血鬼の首には、純銀製の十字架があしらわれた首輪(チョーカー)がはまっている。パチュリーが一晩を費やして日用雑貨と銀のインゴットから作りだした、儀礼的な拘束具だ。
 パチュリーの予想通り、吸血鬼はなんともいえない顔をして首筋のそれをつついている。クリップボード越しにそれを眺め、ほんの僅かに不毛な努力が報われることを感じた。
 「しかしなぁ……、これはちょっと……」
 「銀は全部肌に当たらない様にしてある。特に問題は無いでしょう?」
 「ぞわぞわするんだけど」
 「問題無いわね」
 実際問題、間抜けな吸血鬼から漏れる魔力は少しも衰えていない。おそらく、首筋の違和感に気を取られている内に、不意打ちが入る事を祈るくらいの効果しかないだろう。
 「知らないんですか? 今の世の中、首輪(チョーカー)だって立派なファッションですよ。ルールに縛られない、俺たちはアウトローだって」
 「そ……、そうなのか? だったらまぁ良いか。ふふん。アウトローか。この私にぴったりだ。おっ、良く見たら中々よく出来ているじゃないか。手作りとは思えない細工だよ」
 それが野蛮で未熟な若者文化であることは伏せた。
 「……気に入って貰えたみたいでなにより。後はその格好か。悪いけど、私はまだ警察の世話になりたくないんだよね。ただでさえ、いろいろ面倒な身分だから」
 「あぁ、これ? 検査の時に着させられるから、面倒でそのままにしてるんだけど」
 吸血鬼が身にまとう患者服を広げ、その場でくるりと回る。替えもその辺にあるからと、指さした先のダンボールには、似たような布切れが大量に入っていた。
 「他の服を貰えよ」
 「くれたよ。だけど……。なんて言うの、その……」
 「すっげーダサかった、みたいな?」
 「そう。それだ。それからまぁ、色々あって、何回か引きちぎってやったら、なんにもくれなくなっちゃってね。もう何年この服以外着てないか」
 「自業自得ね」
 「あんな道化師(ジェスター)みたいな服を着させられるよりはマシだ」
 「あー……、ほんの少しだけ同情する。でもまぁ、安心はして良い。そんなこともあろうかと、準備はしてある」
 吸血鬼の横に放られた紙袋には、何着もの洋服が詰め込まれている。訝しげな瞳が、それを覗きこんだ。
 「正確にはリズが、だけれど。それで、あんたは何色が好き? 暖色系? 寒色系? 私のおすすめは黒よ。色白だから少し濃い目の色が合うと思う」
 赤だと吸血鬼が答えるや否や、次々と布切れが投げつけられる。あっという間に裸へ剥かれた吸血鬼は、白眼ばかりが目立つ瞳でパチュリーを見上げた。
 「な、なにをする——」
 「いや、着替えさせるから。ちょっと大人しくして」
 「そ、そのくらいなら自分で」
 「着方なんてわかんないでしょ。あんた日光にはどの程度耐えられる? 布で覆われてれば問題ない程度? どっちにしろ、タイツもあった方が良いわね。今は寒いし、なによりあんたの肌は白すぎる。見てる方が不安になる」
 命を吹き込まれた着せ替え人形(ドール)が、されるままに両腕を上げ、伏し目が魔女を睨みつける。
 「ず、ずいぶん楽しそうだな」
 「そんなこと無いわ、でも、」
 「お、おい。そこに触る——、ひゃっ?!」
 「前から気になってたのよね。やっぱりこれは腕が変化した物なんかじゃない。骨盤付近の肉が盛り上がり、魔力によって適当に補強されているだけ。でも、骨が無いなら腰に巻いても大丈夫よね」
 「とっ、飛べないくらいだけど——、あうっ」
 少女の様な嬌声を上げ、子犬の様に身をよじり、着せ替え人形はぐるぐると眼を回す。魔女による凌辱が終わった後に残っていたのは、魔女の荒い息だけだった。
 「こ、これで良いのか……?」
 「そこの鏡で見れば?」
 「見れないから頼んでいるんだよ。私は吸血鬼だからな。それとも、水を張った洗面器を運ぶほうが良いか?」
 胸に手をあて、息を整えた吸血鬼がパチュリーの前に立つ。くるりと一回転し、促す様に顎をしゃくった。
 「まぁまぁじゃないかな。贔屓目に見ても、その辺によく居る美少女だと思うけど」
 赤いスカートにピンクのダウンジャケット。黒いタイツは紫外線対策だ。オシャレとはお世辞にも言えないが、民衆に埋没するには十分な装束だった。
 「そうか、まぁ、当然だな」
 安堵したように毛布の山に倒れ込み、一度二度深呼吸。非人間的な動きで飛び起きたその顔にあったのは、いつも通りの尊大な笑顔。
 「よっし、気合い入れて行くか。太陽のあんちくしょうも今日は元気みたいだし」
 「ずいぶん楽しそうだな」
 少女が一層に口元を釣り上げくつくつと笑う。不機嫌な瞳から逃げる様に少女はパチュリーに背を向ける。扉の前でくるりと振り返った吸血鬼はパチュリーを見た。
 「そりゃな。従者にだって多少は影響も受ける」
 眩しい笑顔が廊下へ消える。
 念のために、手持ちのコンパクで口元を確認した。いつも通りの血色も愛想も無い顔のどこにも、おかしな所はなかった。そうこうしている内に、吸血鬼は廊下を駆け抜け、階段を落ちる軽快な音が響き渡っている。
 はぁ、とため息を吐いてパチュリーは後を追った。




◇◇◇◇


 玄関前に立つ吸血鬼が、今にも影と陽の境界を踏み越えそうな勢いで外を見渡している。その瞳と口は真ん丸に見開かれているし、もしも羽が出ていたのなら、千切れんばかりに振り回されていただろう。実際に見たことは無いが。
 「それで、どこまで行くんだ?」
 「驚いた。その様子だと、一度も外に出たこと無いって本当だったんだ。まぁ、今回は予行演習だから。近くのドラッグストアまで行って帰ってくる。ただそれだけ」
 「それだけ、か?」
 なにか忘れていないかと。そう言わんばかりに、吸血鬼が睨みつける。わざとらしくため息を吐いてみせてから、パチュリーは答えた。
 「キャンディーを買ってあげる。それで良いですか? 吸血鬼様」
 よかろうと、吸血鬼が手を組んで頷いた。
 「しかし、薬局か。久しぶりだな。天使の居る薬局には世話になったことあるぞ。人間にしては、良い奴だった」
 「天使薬局? あぁ、ダルムシュタットにあった薬局か。あそこはきれいな街らしいね。行ったことは無いけれど、噂くらいは聞いたことがある」
 「お父さんに連れられてよく歩いたよ。丁度こんな風に日傘をさしてね」
 ほんの僅かなためらいを超え、小さな影がアスファルトを踏む。二〇歩程進んでから立ち止まった吸血鬼は、空を見上げた。
 「明るい……」
 「珍しく良い天気。まだ三月になってないって言うのに。あんたは焦げないように気をつけた方が良い」
 「確かに、まぶしすぎて焦げそうだよ。ねぇ、パチュリー。曇りにできないの?」
 「無理に決まってんだろ。どんだけ魔力吸われると思ってんだ」
 「ケチだなぁ。でも、ほんとにまぶしっ——」
 「ちょちょちょ、太陽を見るな、馬鹿! 人間でも焦げるから」
 白眼まで真っ赤にしてしまった吸血鬼が地面にうずくまる。小刻みに揺れる背をさすってやろうと近寄ったパチュリーの耳に届いたのは、くぐもった笑い声だった。それは、徐々に大きな笑いに変わり、やがて周囲のビルに反響する程になる。
 「あははっ! 痛い。すっごく眼が痛いや! こりゃ、早く行かないと身体が持たないかもね!」
 「なにがおかしいんだよ……」
 「なにもおかしくないんだよ。陽の光は痛いんだ、昔と同じように!」
 浮かれた様な足取りは右へ左へと舵を取り、ありふれた公共物に好奇の視線を浴びせている。まるで、世界の全てを眼に焼きつけんとするように。
 「パチュリー。これはなんだ?」
 「ただの廃工場だよ。危ないから近づくな……、って。聞いちゃいないし」
 サイバーシティ内に点在する廃墟はどれも、かつて産業革命後に工業の中心を成していた。重工業が衰退し、ニューイングランド工業地帯が研究施設やハイテク企業の集まるサイバーシティーとして復興した現在でも、解体されずに残る工場は少なくない。
 ろくな手入れもされず、立ち入り禁止の看板すらも朽ちたその場所は当然の用に危険極まりなく、ホームレスですらも近寄らない。
 だから一足飛びにフェンスを飛び越えた吸血鬼が、興味深げに錆びついたダクトをつつく様子には頭を抱えずに居られない。
 パチュリーの記憶が正しければ、そこはかつての鉄工所だ。風化の果てに剥がれ落ちたトタンの隙間からは、放棄された資材と溶鉱炉が静かに空を見上げている。
 気が付けばその壁に据え付けられたはしごに小さな影がしがみ付いていた。今にも朽ち果てそうなそれだ、トタンに喰いつくボルトは半分以上外れかかっている。
 「危ないって言ってんだろ!」
 「ちょっと見るだけだって」
 根拠の無い自信を裏付ける様に、木枯らしがはしご丸ごと吸血鬼に襲いかかる。ぐらりと揺れるトタン壁、はしごと吸血鬼は一緒に揺さぶられていた。その背に戻れと叫ぶ声は虚しく響くばかりである。
 そして、吸血鬼は無責任な笑い声を残してまたはしごを登りはじめた。片手に日傘を持っていると言うのに、その動きには淀みがない。後数段で屋根という所でそれは起こった。
 突風。破砕音。金属音。そして宙を舞う錆びついたボルトと、白い日傘。
 錆びた鉄にしがみつく肢体と、優雅に舞う日傘。吸血鬼の小さく白い腕が虚空に延びる。透き通る様な白い肌に、光の雨が降り注いだ。
 「あっつぅ?!」
 「ばっか、なにやってる!!」
 焼ける皮膚の痛みか、それとも日傘を手放した動揺か。小さな肢体が宙を舞う。ふわりと空を翔けるそれは、そのまま屋根へと向かう様に見える。しかし、その焦った顔を見て、パチュリーは思い出した。そうだ、あの吸血鬼は羽を服の下に閉まっている。飛翔を意味する魔術器官が、折りたたまれてて役目を果たせる道理も無い。
 落ちる。その未来を幻視した時にはもうグリモワール片を握りつぶしていた。詠唱過程を飛ばした風術が発動する。そよぐ春の風が、しかし力強く吸血鬼を包み、傘と共に屋根の上へと送り届けた。
 「そこ、動くなよー」
 「あ、あぁ。大丈夫、だ」
 屋根の上から届く、たどたどしい声。ひとまずは胸を撫で下ろす。しかし、更なる面倒事を起こされてはたまらないと、パチュリーは目撃されるリスクに眼を瞑って飛翔した。
 視点が急速に上昇する。二月にしては温かい風が、袖口から入り込む。久々の感覚だった。人に紛れる限り空を飛ぶ機会など皆無に等しい。そも、高度に交通網の発達した現代においては、目撃されるリスクを無視したとしても飛翔の必要性は殆ど無いと言っても過言ではない。あんな非常識で無鉄砲な奴に振り回されでもしない限り。
 まったくもって厄介だ。ぼやきながら屋根に降り立ったパチュリーは、厄介者の手を引っ掴もうとして、思わず手を止めた。
 そこにあるのは、一枚の絵画だった。錆びついた鉄骨も、サイズの合って無い衣も、コンクリートの背景も、全てが全てちぐはぐだと言うのに、あまりに自然に溶け込んでいる。絵画の少女は遠くの景色を眺めている。視線の先にあるのは、コンクリートのビルばかりだと言うのに、まるでオーク林に潜む隣人を探すみたいに、真剣な瞳で眺めていた。
 「景色が、見たかった」
 数分後、ぽつりと呟いた吸血鬼が指を伸ばす。工場の隙間からはまだまだ先にあると思っていたドラッグストアが覗いていた。
 「そうだね。でも、まずは降りよう」
 ここは危ないから。吸血鬼が小さく頷いて、パチュリーにしがみつく。地面に降りるまでの間どんな言葉を発することも無かった吸血鬼は、地面に降りるやわざとらしいくらい明るい顔で駆けて行こうとする。見せなさいと、背後から掛けられた声に、ばつの悪い顔が返事をした。
 「やだなぁ、パチュリー。まるで私が陽に焼かれて大やけどしたみたいに聞こえるぞ。ほら、こんなに元気じゃないか」
 「問題無いんだったら、黙って見せろ。不安要素は消しておくに越したことは無い」
 「あっ、そうだ。さっきは助かったよ。いや、へっぽこ魔女だと思っていたが中々どうしてやるじゃないか。羽が使えないことをすっかり忘れていた。あのままなら頸椎に致命傷を負って数日寝込む所だった」
 「あぁそう。どういたしまして。で、その袖からちらちら覗いてる火傷跡を良く見せて貰いたいんですが、構いませんよね?」
 数分のにらみ合いの後、しぶしぶと言った様子で吸血鬼は腕を出す。予想通りの光景に、パチュリーはため息を吐かずに居られなかった。
 「さっさと帰るよ。消毒くらいはしてあげるから」
 雪の様だった肌が見る影も無いほどに赤く変色し、無数の水泡が浮き上がっている。袖を捲ると、黄色い結晶が地面に落ちる。潰れた水泡から組織液が滴っていた。
 「こ、こんなのは傷の内にも入らない。ほらみろ、もう治りはじめてる」
 もしも。低い声が吸血鬼の言葉を遮った。
 「もしもそれで傷口が化膿したら、その腕の骨だけ残して肉を全部削ぎ落してやる。吸血鬼だからと言って、全ての傷が瞬時に治る訳じゃない。あぁそうだ、マゴットセラピーって聞いたことある? 興味があるんだよね。蛆に這いまわられる吸血鬼が、どんな顔をするのか」
 「べ、別にそのくらい——」
 「今も昔も! 焦げ跡から煙を出して歩く子供なんて居ない。怪しまれる前に、帰った方が良い」
 パチュリーはそう言って吸血鬼の日傘を取りあげると、元来た道を引き返しはじめた。
 「なぁ、帰って消毒したら、また出かけるよな……?」
 「うーん。日傘の代わりを探してからでないと、ちょっと不安かなぁ……」
 「そ、それなら日焼け止めを使おう。引越しの時によく塗りたくられるが、あれをつけていて火傷をした記憶はない」
 「あっ、そう。でも今丁度切らしてるから、今度買っとく。私だって仕事があるし」
 この世の終わりみたいな顔がパチュリーに向けられる。耳元に届く歯ぎしりの音を無視していたら、突然に吸血鬼が陽の元へ飛び出した。クソネクラメガネ等と、貧弱な語彙で考えたらしい言葉を叫びながら。
 「馬鹿か……」
 三秒も持たずにとんぼ返りする吸血鬼の姿をみて、パチュリーは頭を抱えた。髪の毛の隙間から煙を上げる吸血鬼の口からは、隠そうともしない不満が止め処なくこぼれ出す。
 「あんた、どんだけ楽しみだったんだよ……」
 「ちっ、違うぞ! 楽しみなんじゃない。これはそう……、必要なんだ」
 曰く、世界を知るために流通は外せない。
 曰く、今の薬局がどんな姿をしているのか知れば、情勢の変遷を知る助けになる。
 曰く、時間を無駄にしただけ、世界を闇で包む日が遅れてしまう。
 曰く、これは主としての責任である。
 曰く、決してキャンディーが食べたい訳ではない。
 曰く。曰く。曰く。聞かれてもいないのに続く弁解に、パチュリーはため息を吐いた。
 「あぁ、そうですか。それはすみませんね……」
 「そっ、そうだ。分かれば良いんだよ。まったく」
 そう言うと、先程までとは一転して全く黙りこくってしまう。強がっている様な。真一文字に結ばれた口は、まるでなにかを押し留めているみたいに見える。自制という概念から最も遠い位置に居る吸血鬼のそんな様子に、パチュリーはどこか落ち着かないでいた。
 そうこうするうちに、二人は社屋に辿り着く。
 「ほら、ついたよ」
 事務所に戻ろうとした時、服の裾に感じた違和感がパチュリーの足を止めた。振り返った先に居たのはあたりまえながら吸血鬼だ。なのに、パチュリーは文句の一つも言えない。
 燃える様な紅が、揺らめく水面下に覗いている。唇をかみしめた吸血鬼がただ無言で見上げていたからだ。
 しばらくにらみ合った後。細く長い吐息と共に、やんわりと吸血鬼の手を払う。なおも縋ろうとする吸血鬼の手に、日傘が押しつけられた。
 「日焼け止め。買ってくるから」
 吸血鬼の返事を聞かず、くるりと踵を返す。尚も追いすがろうとする小さな吸血鬼と、だるまさんがころんだ(Red light Green light)をやりながら、ようやく振り切れた時には、もう薬局が見えていた。




◇◇◇◇


 「ここが薬局? 市場かなにかの間違いじゃないの?」
 広い通路のど真ん中。レタスとトマトの山に挟まれた吸血鬼が首を傾げている。きょとんとした表情に籠められているのは、子供の様に純粋な疑問だ。
 「あー、まぁ、この国で薬局(ドラッグストア)は、量販(ディスカウントストア)店(ディスカウントストア)に近いニュアンスがある。実際、ここだって、薬剤師が居るのは一日の限られた時間だけ。後はスーパーと変わらない」
 話を聞いているのか聞いていないのか。さっさと歩いて行ってしまった吸血鬼は、棚に並んだ牛乳のボトルをしげしげと眺める。そしてもう一度、店内を見渡した。
 「まぁ、最近はちょっと変わった形態のドラッグストアも出てきている。例えばあそこの看板だが、あそこには看護師が常駐していて健康診断が受けられる。保険制度の無いこの国ならではだとは……、思わないか」
 返事をするでもなく吸血鬼は天井に吊るされた看板を眺めている。苦笑しながらどうかしたのかと尋ねる。一拍の間を置いて、吸血鬼は答えた。
 「いいや。ずいぶんと、変わってしまったんだなと、思っただけだ」
 「理解の助けになったなら幸いですよ」
 あえてその横顔が寂しそうであったことには言及せず。パチュリーは答えた。
 「勉強がてら一周してみれば良い。店内はかなり広いけど、だいたいの種類は天井から垂れてる看板を見れば分かる。ここは食品、あそこは文房具みたいにね」
 「そうだ忘れていた。キャンディーはどこにある? 今日はそのために来たんだからな!」
 「あんたがそれで良いなら。もうそれで良いけど」
 態度と踵をひっ繰り返し、通路の向こうに背中が遠ざかる。
 小さくなった影が、チルドルームに手を突っ込んで眼を白黒させている。遠目にはまるで人間の子供にしか見えない姿に、ひとまず胸を撫で下ろした。
 正直な所、心のどこかに不安はあった。この従順なふりをした吸血鬼は人混みに入るや豹変し、周囲の人間を例外なくグールへ変えるつもりかもしれない。そんな馬鹿げた考えだ。
 冷静に考えれば即座に鎮圧されて終わりだ。いくら吸血鬼がオカルトの最強種であるとはいえ、組織立って動く人間には手も足も出ない。それを知らないオカルトが今日まで生き残れるはずがない。
 九割九分ない。が、その考えを捨て切れなかったのは吸血鬼が最初に言った言葉故だ。世界を闇に包む。あの幼稚な宣言の意味だけが心に引っ掛かっていた。もしかしたら、この吸血鬼の本質がどうしようもなく狂っていて、本当に世界を引っ繰り返せると信じているのだとしたら。
 だけど、それも思い違いだったみたいね。
 冷凍のチキンを指で突いて通りすがりの店員に怒られる。そんな姿にのどこにも狂気は感じられない。少々行き交う人の視線を惹き過ぎている気もするが、それは吸血鬼故の完成された容姿に起因するもので問題にはならない。その視線が心なしか首元に集まっているのも、気のせいだろう。
 「おい、パチュリー。凄いぞ。これ! すごく冷たいし、指がくっついた」
 「おい、頼むから私が行くまで大人しくしていろよ。絶対に無理やりはがそうとするんじゃないぞ。これは真剣な話だからな」
 散発的に飛んでくる吸血鬼の質問に半ばうんざりした頃、それは視界に飛び込んできた。
 驚きの声を呑みこみ、努めて平静を装って通り過ぎようとする。
 「こりゃなんだ? 園芸用の土かなにかか?」
 「あー、ドッグフードだ。とてもつまらなくて時間の無駄だろうから、さっさと次の輸入品コーナーに行こう」
 吸血鬼が山積みの袋をしげしげと眺め始める。しかし、まだあれには気が付いていない。まだ、遅くないはずだ。
 「ほら、とっとと、隣のコーナーに行くよ。早くしないと、太陽のアンチクショウが真上に来るから」
 「えー。もうほとんど真上だし別に良いよ。日焼け止めも塗ったしさ」
 渾身のスピーチは、無能で鈍感な主によって無駄になる。忘れていたが、こいつには気配りなんて概念はない。まさに繊細と言う概念の対岸の存在だ。当たり前にみたいに、吸血鬼の足はそれの元に向かっていた。
 「そっそうだ。向こうの方に、輸入物のブラッドソーセージの試食があったよ。見に行かない?」
 「そりゃ楽しみ。この後に行こう」
 「う、売り切れたら大変だ。今すぐ行かないと」
 「どうせ買ってくれないでしょう。今日はそれを買いに来たんじゃないんだから」
 「あっ、いやっ、別にソーセージの一本くらいな――」
 「へー。じゃ、楽しみにしようかな……、うん?」
 レミリアがとある棚に掛かる、とあるものを手に取る。「えっ、これ」戸惑いをそのまま文字にしたような声をあげ、吸血鬼が静止した。
 吸血鬼の視線が、首元のそれと棚に陳列されたそれを行ったり来たり。十回ほども似た事を繰り返した後、紅い瞳がパチュリーに向けられる。
 「おい、これ。なんか見覚えあるんだけど」
 「きっ……、気のせいじゃない?」パチュリーが露骨に視線を逸らす。
 「ねぇ、これさ。止め具のところのロゴが一緒なんだけど」
 「あら偶然。私のデザインセンスって、もしかして凄い?」
 「ここさ、ペット用品コーナーだよな……?」
 「あーっ、ハムが安売りしてる。ちょっくら買いに行ってくるわ」
 おおよそ五年ぶりの疾走。大腿四頭筋が引きつる事にも構わず三歩で通路へ飛び出し、隣の食肉コーナーへ逃げ込もうとする、が、その前に背後から襲撃を受ける。とっさに身をよじって交わしたものの、パチュリーはその場で尻もちをつく。眼の前にあるのは当然、怒りに燃える紅い瞳だ。
 「いー、度胸してんなぁ……、お前。主に犬の首輪付けさせるなんて」
 「あー、いや。すぐに手に入る材料っていったら、それが真っ先浮かんで、ね?」
 「問答無用だ。さぁ、この落とし前。どうつけてやろう」
 逃げるが勝ちだ。脱兎のごとく駆けだしたパチュリは―しかし。普段の運動不足がたたり、脚を滑らせてドッグフードの山にもたれかかる。
 眼の前には仁王立ちの吸血鬼。
 「きっ、気がつかない方が悪いに決まってんでしょ!」
 「お、お前なぁ。前々から思ってたけど、主に対する態度じゃないだろ!」
 「呪いで従わせてるだけなのに、主も糞もあるか!」
 「残念だよ。お前にはもうしつけは要らないと思っていたんだが……」
 吸血鬼が歩み寄ってくる。後じさりをしたら、背中が何かにぶつかる。ぐらり、と。不穏な振動が背中に広がった。
 地鳴りと共に視界が茶で埋まる。辺りは暗く、臭いは酷い。一瞬遅れて、ドッグフードに埋まっていると理解した。
 息ができない、助けてと叫ぶ三秒前。小さな白い手が視界に飛び込み、身体を引きあげた。吸血鬼のニヤケ顔が視界に広がる。
 「敬う気になったか? 私の優しさに土下座をする準備はできてる?」
 「そんなわけないだろ! ばーか!」
 「そもそもなぁ、ふつー気がつくだろ! そんなもん、どうみたって犬の首輪だって。嫌がらせのつもりだったんだよ、最初から。なのに、あんた全然気にせずにつけてるし、その顔で威張ってるし!」
 「お前が仕方ないって言うから、付けたんだろうが。犬用首輪に似てるとは思ってたけど、他に変わりがないって言うから、我慢してやってたんだよ!」
 「いくらでも、ほかにもやりようあるに決まってんだろ、この、ばーか!」
 「久々にキレちまったよ……、ちょっと屋上行こうぜ……」
 ぐらり。不審な振動がパチュリーの視線を誘導する。
 「おい、どこを見て——」
 潰されたカエルみたいな声を出して、吸血鬼の姿が視界から消えた。ざぁと音を立てて流れるのはドッグフードの雪崩。茶色い山の下からは、呻くような声が聞こえている。
 間もなくして山から顔を出した吸血鬼が、ふるふるを頭を振る。仕切り直す様に、吸血鬼が表情をひるがえす。アッシュの髪にドッグフードをぶら下げたままにして。
 「お前、今——」
 なにかを言おうとして大きく口を開いた吸血鬼が、きょとんとした表情を浮かべる。だんだんとそれは困った様なものに変わり、最後には呆れたような顔になった。わけのわからない様子に、パチュリーは混乱すら覚えた。どうしたのかと聞くと、急に怒り出しながら、吸血鬼は答えた。
 「笑ってないで、なんとか言えっていってんだよ!」
 言われるまま、慌てて口元を、次に聴覚を確認する。コンパクを取り出し、視覚でも確認し、結論付ける。どうやら自分は大声で笑っているらしい。言い訳をするのが馬鹿らしいくらいに。認識してしまったらもう抑えられない。お腹を抱えるように笑い始めたパチュリーは、しばらくその場で笑い転げていた。
 「だ、だってさ。あんた、髪からドッグフードなんてぶら下げて凄んでるし、首輪まで着けて。まるで犬みたい」
 そんな様子に、怒っていた吸血鬼も半ば呆れはじめている。
 転げ回るみたいにパチュリーが笑う。周りに人が集まり始めても、全く意に介する様子も無かった。吸血鬼が何度声を掛けても、それは止まない。普段の彼女から想像もできないほど、無防備で、邪気の無い表情。
 「わ、わるかったよ! わ、私が悪い。あ、謝るから、ちょ、ちょっとまって。止まんな、い」
 腹を抱えて頬を引きつらせ、息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。特大のため息が、頭上から吹き抜ける。
 「もう良いよ。なんか怒るのも馬鹿らしくなってきた……」
 もう、なにが面白いのかも忘れてしまったのに、それでも腹の痙攣(けいれん)は止まらない。滲んだ涙で視界もぼやけはじめたころ、ようやく立ち上がったパチュリーの前に吸血鬼は仁王立ちをする。不機嫌と呆れがないまぜになった様な表情だ。
 「ごめんごめん。今日はブラッドソーセージで許して。そっちは、こんど仕立て直してあげるから」
 ため息を一つ。頭を下げるパチュリーを置いて、吸血鬼は輸入品売り場へと言ってしまう。慌てて追いかけようとした時、背中は動きを止めた。
 「仕立て直しは良い。これはこれで、気に入っているから」
 もう一度噴き出すパチュリーのすねを吸血鬼が蹴りあげる。涙目になりながらも、パチュリーは笑う事を止めない。否、止め方を忘れてしまっていた。当然だ。
 実に百五十余年ぶりの経験だったのだから。




◇◇◇◇


 「あっ、私ここが良いなぁ」
 「こら。勝手に書きこまないで。あんたはなんも知らないでしょ」
 ボールペンを離す気配すら見せない背中に苛立ち、パチュリーがテーブル横のパウチを投げつける。実験室内を舞う紅い輸血パウチ。B型の輸血製剤を受け取ったレミリアは、ため息交じりに封を切る。物欲し気な顔を向けられたパチュリーが無言でストローを渡した。
 「不味いんだよなぁ。これ。薄くってさ。鉄臭い水を飲まされている気分だよ。一応お腹は膨れるけど、元気がまるで出ない」
 「そりゃまぁそうでしょうね。処理されているでしょうし、入っていて赤血球と保存溶液くらいしか入ってないんじゃない」
 「やだなぁ。死んだ後に、身体が腐らなかったらどうしよう。こんなんじゃなくてさ。私はもっと生き血が飲みたいよ。あっ、そうだ。パチュリー?」
 「それは命令? お願い? 対応が変わるんだけど」
 「お願いだよ」
 「却下する。貧血なのよ。私は」
 子供染みた罵倒の言葉を吐きながら、丸椅子上の吸血鬼が回る。それなりの回転数だ、三半規管が麻痺してもおかしくないと思いよく見れば、その瞳孔だけは常に一点を捉えている。器用な奴だとため息を吐き直した。
 「うっさい。ちゃんと服を着ろ。検診はもう終わったんだから」
 肌色を殆ど覆っていない緑衣に手を伸ばす度、それは右へ左へ逃げて行く。当然のことパチュリーはからかわれている事に気がつかぬほどに愚鈍ではない。バインダーを机へ叩きつけ両手で掴みかかる。実験室の扉が開いたのは丁度そんな頃合いだ。
 「悪いね。パチュリー。その子の検査を任せてしまって」
 「ええ全く。本当に任されるとは思いませんでした。最も、医師免許すら持たない中年男性に任せるよりは健全である事に異論はありませんが」
 困ったような笑みでマルフロイが二人を見わたす。マルフロイの視線の先。輸血パックをすする吸血鬼は、やはりそっぽを向いていた。いつの間にやら着衣を終えている。巻き付けたみたいに適当ではあるが。
 「あー……、まぁ、仲が良いようでなによりだ」
 「面白い冗談ですよ。今度リズにも聞かせてあげて下さい」
 大真面目だよ。そう言ってマルフロイは視線を横顔に向ける。
 「僕には口すらきいてくれなかった」
 「あんたはただの人間だ。ただの人間に語る言葉はない」
 不自然なくらいに無機質で、ぞっとする冷たい声だった。この声を聞くのは数度目だが、状況はいつも決まっている。
 「君は相変わらずだね。レミリア」
 「寝てくる。今週末の約束は忘れるんじゃないぞ」
 音も無く椅子から飛び降りたレミリアが実験室を後にする。風音と共に扉が閉まった後で部屋に残るのはシェーカーの駆動音、そして人間と魔女がそれぞれ一人。
 なんとも言えない居心地の悪さに、顔を歪める。
 レミリアと出会って以来、パチュリーはすっかりマルフロイが苦手になってしまった。あの日から感じ始めた違和感、それがパチュリーを遠ざけていたからだ。
 「不思議だよ。僕もドクトロウも、リズにさえも。もちろんその他の職員にもずっとこの様子だったんだ。それなのに、君だけには心を開いている。率直に聞くけど、君は何者なんだい?」
 「ただの魔女ですよ。だから、なにがレミリアのお眼鏡に適ったのかなんて。さっぱり見当もつきません」
 実際の所パチュリーも不思議に思っていた。吸血鬼なんてオカルトは、プライドが皮を着て歩いていると専らの噂だ。それが、科学へ寝返ったにも等しい自らを嬉々として従える理由に心当たりはない。しかし、同様のことはマルフロイにも言える。どういう理由かは予想もつかないが、この男はパチュリーを魔女と知って入社を許可している。そして、吸血鬼と接触する様に仕向けた。
 どうしてこいつは、魔女や吸血鬼の存在に驚きもせず、さも当たり前に対応している。
 それが、彼女の抱える違和感の根源だ。
 「それで、今日はなんの用事ですか? 今日は休日ですよ。まさか、少女の検診を覗きにきただけって事はないのでしょう?」
 「悪いニュースと良いニュースがある。どっちから聞きたい?」
 「悪いニュースから」
 「今日の昼。連邦準備制度理事会が利上げを発表した。もちろんNASDAQは直滑降だ」
 「泡が弾けましたって、ずいぶん今更ですね。それで、良いニュースは」
 「EUK-8類似物質。EUK-134が線虫の寿命を延ばす結果が得られた」
 「三十四個目で当たりを引いたんですか。ラッキーですね」
 「そうでもない。機能未知の画分『REM』から単離した、EUK-100番台はどれも一定の成果を上げていたよ。EUK-134はその中でも特に効果が高かったんだ」
 「思ったより早く結果が出ましたね。シャンパングラスにでも突っ込んだんですか?」
 「まぁ、そんな所だ。今の所は順調に進んでいる。このまま行けば後半年程度で論文として発表できる。その程度の期間なら我が社の資金も持つだろう。この時ばかりは心の底から思うよ。ユーカリオンを小規模の研究者集団に留めておいたのは正解だったと」
 「あの子が居なければなにもできなかったでしょうに、よく言いますね。私を巻きこむまでもなく論文は出せたんじゃなかったんですか?」
 「そんなことはない。君の構築した系が機能未知の因子群『REM』の分画を効率化したのは事実だ。『REM』の存在は以前から想定していた。私達はレミリアの細胞が、あのHeLaですらも例外なく侵食し、ヘイフリックの限界を植え付けることを知っていたからね。しかし、『REM』を実際に観測できたのはつい最近のことだ。もしも君がユーカリオンを去っていた。もしくは訪れなかったとしたら。九月頃のパブリッシュは難しかったかもしれないね」
 「因みに『REM』を見つけたのっていつ頃なんですか?」
 「二月だ。ちょうど、君とレミリアが出会った頃だよ。それからは君も知っての通り。トントン拍子に研究は進み、論文は目前。しかし分かってみれば単純な構造だよ。全く。わずかでも余剰資金があれば正道で導けたと言うのに……」
 「まるで、ぎりぎりまで吸血鬼を使いたく無かった。そんな言葉を続けそうな顔じゃないですか」
 みぞおちに産まれた違和感が漸増する。この男はその体型と同じくらい言葉の無駄を嫌う男だったはずだ。以前のマルフロイであれば、唄う様な調子で話していても過不足の無い情報伝達を行っていた。変わったのは、やはりパチュリーがレミリアと接触してからだ。
 この男はまだなにかを隠している。どうしようもなく広がった予感が、知らぬ間に口を動かしていた。あなたは、何者ですか。
 「人間だよ。そして科学者だ。だから、吸血鬼や魔女を当然の様に知っている」
 「誤解の無いように言っておきますが、私がレミリアに気にいられた理由に心当たりが無いのは本当ですよ」
 動揺したパチュリーの調子はずれな声色が、不自然な間を産む。マルフロイは苦笑した。
 「君。噂話は好きかい?」
 パチュリーは静かに首を振る。マルフロイは壁際のディープフリーザーに向かいながら言葉を続けた。
 「私が研究者になる前。フランスの大学でモラトリアムを満喫している時にこんな噂を聞いたことが有る。魔女が研究施設に潜り込んできたり、オカルトがそこに住みついているのは常識だ。なんてね。もちろんそんなのは、いつ眠っているのかも分からぬ気むずかしいドクターを皮肉る目的で作られた単なる噂だ。少なくとも私はそう思っていた。そんな時だよ。これを受け取ったのは」
 凍傷防止用の手袋を身に付け、マルフロイがディープフリーザーの最奥から一つの箱を取り出す。鈍い銀色をした立方体の箱。上蓋に施された刻印は、張り付いた霜で読めない。
 「なんですか、これは」
 「ユーカリオンを立ち上げて間もなく私の元に届けられた、とあるメトシェラの凍結サンプルだ。それがなにかについては、言わなくても分かるよね?」
 差し出された箱を手袋越しに掴む。そこから感じたのは、もうすっかり馴染んでしまった気配。それと酷似しながらも微妙に違うもの。おそるおそる上蓋の霜を払うと、懐かしい名と見慣れない名があらわれた。
 「旧G社と……、ユカリ?」
 「割と有名だよ。会った事はないがね。まぁ、君もおそらく近い内に耳にするだろう。とにかくこれは警告だと。私は推測した」
 警告とはどういう事か。そうパチュリーが聞くと、マルフロイが真っ直ぐにパチュリーを見た。大きく、長い息を吐いた後のことだ。
 「君は、魔術が科学にすっかりと置き換わってしまった時、どう感じた?」
 これは私にとっての分水嶺だ。だから真剣に答えてくれと言わんばかりの声色だ。ほんの少し迷ってから。パチュリーはありのままを告げる。
 「憎しみと、そして称賛を」
 予想と寸分違わずマルフロイは眼を見開き、そして元の苦笑した様な顔へ。
 「存外に素直なのだな。君は」
 「嘘を吐きました。最初は憎しみばかりです。森を追われ、強盗まがいの悪事を働きながら汚臭にまみれた煉瓦道をはいずり回っていた時は、少なくともそうでした」
 「それがどうして、称賛に繋がるのか。聞かせて貰えるかい? 現代に至ってもなお、科学は当時の君達が作り上げた魔術の末端すらも解析できていない。今でさえそうなのだ。当時の科学は今と比較にならない程に乱雑で、妄想と経験則の集合体でしかなかった。君はそのどこに価値を見出して、さっきの言葉を選んだのか。私はとても気になるんだ」
 「それでも、私は評価します」
 瞑目し、それから答える。腋に滲んだ汗が、ガラにもなく緊張しているのだと、パチュリーに告げていた。
 「私達が愚かだったのかもしれません。とにもかくにも、科学は魔術とは比較にならない程に多くの人員が協力し合って研究を進めていました。科学者たちはアカデメイアに集い、ありとあらゆる方法で情報を共有することで加速度的に技術を発展させ、ギルドを形成した技術者たちがそれを大量生産する。その組織力は私達が持たなかったものです。結果として科学は数百年分はあったはずの格差を飛び越え、私達を歴史の表舞台から退けました。当時は天界も魔界も大騒動でしたよ。しばらくは天下りの天使や使い魔共が眼に隈を作っていたくらい。でもそのくらいは当然です、それは神が作りだした他のどんな生命体にも成し遂げられなかったことですから。異例中の異例と言っても良い。しかし、後から思えばそんなのは必然だったんですよ。当時の魔術師達は個人主義を貫き、徹底的に研究結果を隠匿していました。不滅の肉体と人知を超えた頭脳に頼り切った研究形態です。それで科学に先行し続けられるはずがない。根拠を伴うロジックで貴方達は私達に先んじたんです。それを評価しないと言えば、私は魔女である資格がない」
 たとえそれが、正視に堪えないほど稚拙だったとしても。
 ともすれば睦言とも聞き違える声色でパチュリーがそう告げ、言葉を切る。
 そしておずおずと上目で科学者の様子をうかがい、彼女のひねくれた称賛が伝わっていないことを理解した。
 「だがそれだけで安心してしまった。神の思惑を離れ、自分の足で立ち上がったことに浮かれ、一時の繁栄を謳歌してしまった。だから、同じ事がもう一度起こると予想しなかった私達もまた、愚かだったのだ」
 哀愁の漂う顔だ。マルフロイのそんな表情がパチュリーの顔を曇らせる。
 「アカデミアに籠って研究を続けていた科学者達は、その外部で発展していたものに注意を払っていなかった。すなはち、大学や研究機関といった企業的性質を備える組織だ。もちろん、私とてそれらを利益追求の集団と言い切るつもりはない。しかし、成果主義によって予算を獲得しなければ研究すらもままならない集団に取り込まれた私達は、原動力に出資者の要望や成果の生み出す利益を含めずには居られなくなった。知識欲はその入口になり下がってしまった。君達があくまでも個人主義を貫き、外的要因に左右され辛い肉体の習得を第一に目指したのは、それを恐れたからじゃないのか?」
 「そこまで考えていたのかどうかは定かではありませんですがまぁ、可能性はありますね。しかし、それと今の状況。どう繋がるのか今一つ見えてきませんね」
 「噂を、聞いたことが有る」
 「また、噂ですか」
 「そうだ。ここから先は全て噂だ。推測と妄想の入り混じった、都合の良い解釈に過ぎない。君はそれを聞いても良いし、聞かなくても良い」
 「聞くだけタダなら。どうぞ」
 「コーヒーはセルフサービスだよ」
 マルフロイがにこりと笑う。
 「研究には金が掛かる。創薬を例にすれば、十億から二十億それと二十年程の期間。それが、一つの薬が上市されるまでに掛かる金額と時間だ。抗癌剤等の先進的な分野では更に跳ね上がるだろう。そうして、巨額の費用を投じて得た薬品の特許を管理する事で、企業はやっと資金を回収する事ができる。これが、通常の方法で研究を行った場合の話だ。マウス、線虫、ヒト等の一般的な系を使えばこの程度の期間と資金は避けられない。ならば、一般的でないものを使えば、その限りではなくなるのではないだろうか。そんな馬鹿な事を考えたものが大昔に居た。そんな噂がある」
 「なるほど、それがオカルト研究ですか」
 「ありがちな妄想だよ。魔法使いが現れて、行き詰まった論文や試験がなにもかもすっきり片付く。そんな類のものだ。しかし、ありがちだからこそ、人はオカルトを捕らえようとしてきたし、実際そうしていたんじゃないかと思う。それが長らく実現しなかったのは、経済主体としての研究機関が発達と同時、オカルトは身を潜めたからだ」
 「敗者は身を潜める。普通のことですよ」
 「幸か不幸か。それでしばらくは平穏な時代が続いていた。だから、その噂が流れたのは一九〇〇年台の中頃だった。イースター島で採取されたサンプルから同定された長命因子に関するものだ。幸いにもそれは、免疫抑制作用があることから人間に単純転用できるものではなく、現在も抗生物質や免疫抑制剤として開発が進められている。噂というのはね、パチュリーさん。このサンプルが土着神の少女だったというものなんですよ」
 「あの辺境の地なら、ありえなくはないと思いますが。どうにも突飛な話ですね」
 「私もそう思う。しかし、その後に起こった事実が私に一つの妄想をさせたんだ。それはつまり、その研究過程で得られたデータはオカルトが科学を革新させることを確信させるに十分過ぎるものだったのではないかと。そんな類のことだ。考えても見て欲しい。もしも人間と酷似した肉体及びDNAを有しながら人間を遥かに超える能力をもつ生命を好きに研究できるとしたら、膨大な特許と莫大な資金が一瞬の内に手に入ることは間違いない。そして、それ以上に膨大な数の特許が陳腐化する。過去に積み上げた特許は向こう数十年にわたって金を生み出し続ける。それらが消え去ることで発生する損失利益。そして、続く経済的な混乱は、天文学的な資金の喪失だ。そんなもの。乞食だって天秤に掛けたりしない。当然、発見主体である企業もだ」
 「でしょうね。それで、事実って何ですか? 実はもう大企業連合(ビッグファーマ)が創薬事業から撤退している……、とかだったら非常に興味深いですが」
 「近いが微妙に違う。経済主体は経済活動を行うからこそ経済主体たりうる。つまり、それからしばらくして大企業連合はこぞって議員に働きかけ、一連の法案を成立させたんだ。政府の補助金により行われた基礎研究を新製品へと転換するプロセスをスピードアップする。そんな題目でね。中でも有名なのは、バーチ・バイ上院議員とロバート・ドール上院議員が起案者であるバイ・ドール法だ。これによって、大学等の公的な研究施設や小規模な企業で行われる、政府からの助成金を元にした研究の成果に特許を取ることができるようになった。つまり、大企業連合に対して排他的ライセンス供与が可能になったと言うことだ。ただ、それだけと言えばそれまで。だが、それがもたらした企業への影響は計り知れない。これは、実質的な研究の経済支配といえる。大企業連合は研究活動をせずとも、取得したライセンスに基づく製剤から利益を取得できるようになったからだ。自らは研究を放棄し、研究者達に私的な利益と言う名の首輪を嵌めることに成功した訳だ。企業は金で動く。しかし、研究成果は科学者の手でしか生まれない。そうだったはずの大前提が崩れたのだ。研究を押しつけられる資金力の弱いベンチャーは一層成果に縛られる。大企業連合を特許管理に腐心し莫大な利益を生み出す。その一方で、豊富な資金を用いてオカルトを保護し他企業を威嚇している。オカルトを保有しているのはG社のみと限らない。少なくともF社は保有しているだろうし、ユーカリオンの様な例が他にあるとも限らない。故に、G社はこれを送りつけて来たし、他の企業も積極的にオカルトを保護している。全ては自らの利益を守るため。全ては経済のために」
 「オカルトの傘による平和って感じですか。あまりに突飛で判断に苦しみますね」
 「当然だ。これは私の妄想だからな。しかし、一九八〇年代以降大企業連合の収益はうなぎ登りにも関わらず、年間取得特許数は減少する一方だ。そして、今も彼らは大した新規性も無いゾロ新薬を出して小金を稼ぎ続けている。バイオベンチャーやNIHからのライセンス供与で儲けた多額の資金はどこへ行った? その一部が議員の懐に入っているのは疑いようもない事実だ。オカルトから利益を守る為に彼らが私設組織を作っていた、なんて尤もらしい理由じゃないか」
 「つまりあなたは、出所も怪しいサンプル一つから膨らませた妄想を信じて、最近までレミリアを使わなかったってことで良いんですね」
 「ああそうだ。私達のようなベンチャーは上から睨まれたらひとたまりもない。だから、彼女の利用は最終手段だった。妄想癖のある私はそう判断していたんだ」
 静まり返った部屋に、シェイカーの駆動音だけが響いていた。
 「だが、それを踏まえても、私はこの論文を形にしたいと思っている。君は協力してくれるかい?」
 「……その妄想家さんが、そこまでのリスクを背負い、吸血鬼の少女一人を犠牲にして、長命因子を作りだそうとする理由はなんですか?」
 瞳に魔力を籠めて男を見る。マルフロイはびりとも視線を動かさなかった。
 「私はフランスで生まれた。フランスで薬理学を修めた後に、カリフォルニアのジェネンテックで働き始めた。そして、今はこのユーカリオンのCEOだ。だが、私は自分の事を未だに科学者であると思っている。だから、このユーカリオンを研究者集団に留めたし、この研究室にも私専用のフリーザーや実験机がある」
 水音の隙間に呼吸音が浮かぶ。
 「君が前に住んでいた土地は知らないが、この国では全ての国民に銃器の所持が認められている。それは、建国以来、力の拮抗により平穏を勝ち取ってきた歴史を如実に表している。それは経済だって例外じゃない。必要なのは持続可能な成長、そして安定。革新ではない」
 マルフロイは詩を読み上げる様に呟いたきり、天井材の石膏ボードを見上げて黙ってしまった。つまりはどういうことですか。パチュリーの呼び水に、マルフロイは口を開いた。
 「そんなのはクソ食らえだ。私は科学者だ。科学者が科学を為してなにが悪い……、とかだったら。凄く格好良くないか?」
 パチュリーの眼をまっすぐに見つめながらマルフロイは言う。歳を重ね黄変したそれは、お世辞にも綺麗なんてものじゃないし、濁りきってすら見える。しかし、その瞳に灯っていたのは間違えようもない。どうしようもなく懐かしい、あの日オーシャンサイドで見た。それだ。
 「愚かですね。お互いに」
 パチュリーが笑った。まったくだとマルフロイも釣られた様に笑う。
 「貴方が私をユーカリオンに迎えた理由。少しだけ分かりましたよ」
 「ほとんどは噂だよ。真実はただ一つ。私が新たな長命因子を発見した。それだけで、後は全部妄想かもしれない」
 「そうですね笑ってしまうくらいの妄想です。鼻先で笑い飛ばしても良いんですが、全く残念なことにオカルトの実在だけは嫌と言うほど理解しています。だから、答えは保留させて下さい。そのリスクについては私なりに考える価値があると判断します。それに……。実は私、あの吸血鬼に呪いを掛けられておりまして。どうにも、彼女の意思には逆らえない様なんですよ。あまり良い返事はできないかもしれません」
 マルフロイが小さく首をすくめた。そろそろ、遠心分離が終わる頃だろうと思い至り、パチュリーは部屋の外に出ようと席を立った。数回足を動かした所でその動きが止まる。低く歌うような声の仕業だった。先程の返答の意味を問う言葉。続くであろう言葉から逃げるように、パチュリーはドアノブを回す。
 「変わったわね。パチュリー。君はもっと自己中心的な人だと思っていた」
 「なにも変わってないですよ。マルフロイ。私はいつも自分の身が一番かわいいですから」
 かたりと、ラッチが小さな音を立てて扉を閉じる。同時、大きな溜息を吐く。押し込めていた疲労が、纏めて襲いかかってきたみたいに、体が重かった。
 何気なく視線を落とした先。バインダー上に広がった地図に踊る、歪な赤い丸を見て、パチュリーはまた大きな溜息を吐いた。
 「ブロードウェイ……、って。あいつ。ミュージカルなんて分かるのな」




◇◇◇◇


 四月の空に浮かんでいるのは嫌みなくらい眩しい太陽。額ににじむ汗を拭って、人影はため息を吐いた。
 「くっそ。なんでよりにもよって休みの日に……」
 最悪と呟く声とは裏腹に、その足取りは軽い。今日は気紛れな吸血鬼との約束の日だ。極度の近眼が捉えた社屋の軒先には小さな影がある。
 おそらくは全身に日焼け止めを塗りたくり、丈の合わない服を着込んだあげく、べたつく肌の感触に文句を言ってくるのだろう。こちらの姿を捉えたらしい影が、急かすように跳ねていた。
 肺の中身を垂れ流す様な吐息の後、パチュリーは顔の横に見慣れた右腕があることに気がついて思わず苦笑した。仕切り直しのため息。そして、後頭部を掻く。それから改めて、パチュリーは手を振り返した。
 「飛び出してくんじゃないわよ。今日は日が強いから」
 「だったら早く行こう! 太陽の奴(にくいあんちくしょう)が真上に来ない内に」
 近づくにつれて明らかになるのは、半ば予想通りの光景。玄関の軒先、陽と影の境界でレミリアは待ち構えていた。
 「はいはい。そういう約束だからね。嫌でも行くって。でも、」
 どうして、あなたが居るんですか。そう続けるパチュリーの視線の先、レミリアの背後には、缶コーヒーを片手に持った男が柔和な笑みを浮かべていた。
 「見送りだよ。今日は遅くなるんだろう? 夜の街には神隠し(spirited away)が現れるそうだから。攫われない様にと念押しにね」
 「神隠し(spirited away)? なんですかそれは」
 「かみかくしだ。東の国の言葉ではそう言うらしい。黒いスーツを着た長髪の少女が、悪いオカルトをどこかへ連れ去るらしい。どこかの誰かみたいだね」
 「だってさ。レミリア。気をつけなさいよ」
 その違和感に気がつかなかったのは、その前にマルフロイが二つの缶をさしだしたからだ。マルフロイは言う。選別だ休日の早起きは辛いだろうと。
 「開けてから下さい。まぁ、今日はうってつけのが居るので良いですけど」
 そして、視線を下にやった時。レミリア既に居なかった。大急ぎで背後を振り返ると、不自然な大股で歩く背中がある。
 「行くぞ」
 そんな不機嫌な声が飛んできたのは、間もなくのことだ。
 「レミリア。この間も思ったけど、あまり人間を邪険に扱うべきじゃない。これから行く先には人間しか居ないんだから」
 レミリアは振り返るが答えない。そこにはただ、物言いたげな瞳があるだけだ。そんな様子が、急速にパチュリーの不安を駆り立てた。
 「外に出る時の約束。忘れてないでしょうね」頭を抱えながら、パチュリーが問う。
 「当たり前だ。一つ、人を傷つけさせないこと、パチュリーが。二つ、目立つ行動は避けさせること、パチュリーが。三つ、正体を悟らせないこと、パチュリーが。ほら、確かめるまでもない」
 「よくできました。でもね、その後ろに着いてる言葉は余計に決まってんでしょうが。私のカバーにも限度ってもんがあんのよ」
 それを踏まえてどうするべきなのか。指を突きつけられ、ばつの悪そうな顔をしたレミリアは、散々迷うそぶりを見せた後マルフロイへ向き直る。
 「行って……、くる」
 「行ってらっしゃい。二人とも、気をつけてな」
 レミリアが駆け足で陽の中へ出て行く。手短に挨拶を済ませたパチュリーもその後を追った。ようやく追いついたパチュリーがレミリアの横顔をじろじろと見る。
 「もしかして、日焼け止めが足りなかった?」
 慌てた様子で、レミリアは頬を押さえた。
 「なんでもない!」
 「ちょ、ちょっと!」
 レミリアが脱兎のごとく駆けて行ってしまう。
 火傷したみたいに真っ赤な頬を手で隠しながら。




 ◇◇◇


 「ちかてつ?」
 レミリアがきょとんとした顔でパチュリーを見る。それが名前なのかと聞いてくるのでそうだと答えたら、さらに首を傾げていた。そんな顔が面白かったかもしれない。ちょっとした悪戯心で、地下鉄駅へは道路わきのエレベーターを使うことにした。
 毎朝の様にごった返し、パチュリーの頭を悩ませるそこも、休日の今日は閑散としている。まばらに人の行き交うホームの真ん中で、レミリアは口と眼を真ん丸に開き、あたりを見渡している。まずい兆候だ。
 腕時計の針は定刻の五分前を指している。地下鉄(レッドライン)はともかく、乗り継ぐ予定のアムトラックは時間にルーズなことで有名だ。もしも乗り過ごす事があれば、今日の遠征は全くの無駄になる。
 売店へ駆けこもうとする首根っこをひっ掴み券売機まで引きずって行く。子供用切符を買ってやり——大人用を買うとだだを捏ねたのは言うまでも無い——、改札まで案内した。
 説明も聞かず突っ走って行く後ろ姿に、パチュリーは頭を抱えた。
 「へぶ?!」
 「切符をそこの隙間に入れて。そうしたら開く」
 先に言えよ。無責任な悪態を吐きながらも、レミリアがぎこちない手つきで切符を入れ、ひっと子栗鼠の様に飛び退いた。
 「……知ってだろ」不機嫌に歪んだ口の端から、犬歯が覗く。
 その問いには答えず、パチュリーはレミリアの手を引く。プラットホームへ続く下り階段に首を傾げる姿に、笑いがこみあげてくる。その感情の一切合切をかみ殺し、黒ずんだコンクリートに降り立った。
 決して広いとは言えないホームには、既に幾本かの電車が止まっていたが、乗車予定のそれはまだのようだ。パチュリーには見慣れた光景。しかし、レミリアにとってはカルチャーショックを伴う光景だろう。
 さぞ、驚いているのだろうと横目で確認し、そして疑問を覚える。
 「はぁ。これは大掛かりなホームだな。まるで空も見えないし、線路にまで壁を作ってあるなんて驚きだ」
 そこにあったのは、どこか納得するような表情。
 「そ、そうよねぇ。よくできたホームよねぇ」
 適当に相槌を打つ。どうやら、レミリアは汽車は知っていても、地下鉄を見た事が無いというのは事実のようだ。
 マルフロイ曰くは、パチュリーに出会う以前は殆ど寝てばかりでコミュニケーションは取れないに等しかったらしい。移動の時も日光を避けるため、専用の箱に入っていたそうだ。確かに、吸血鬼の制約の多さを考えれば、私の様な献身的な従者でも居ない限り外出は難しいだろう。
 だから驚かせてやろう。その程度の軽い気持ちだった。
 電光掲示板の到着予定時刻が『まもなく到着』へ切り替わる。足元の振動が強まるとともに、生臭い風が吹き抜ける。ひやりとする程の速度で侵入してきた電車はゆっくりと停止し、その扉を開いた。
 入って良いのか。レミリアが目線で訴えかける。まぁ、さすがに乗れば気がつくか。今さら説明するのも面倒だし。そう自分に言い聞かせ、パチュリーは小さく細い手を引いた。
 社内にはまばらにしか人が居ない。扉脇の椅子に二人分のスペースを見つけ、レミリアを座らせた。静かな車内にコンプレッサーの排気音が響き、一拍遅れて扉が閉まる。間もなくして、電車は動き始めた。
 「はぁ。疲れた。人混みは嫌いだ。ついでに、あのバタンと閉じる奴もだ」
 「お疲れ様。ほら、飴でも舐める?」
 「もらう」
 それは、血液成分を含んだ手製のキャンデー。体力消耗の激しい昼間の遠征へ向けて準備した物だが、案の定レミリアはこれを気にいったようで、嬉しそうに口の中で転がしている。鼻唄すらも聞こえてきそうだ。
 「しっかし、長い駅だな。まだ外が見えない」
 「そ、そうね。このまま次の駅に着いてしまうかも」
 「そんな馬鹿長い駅があってたまるか。そんなの作ったら邪魔過ぎるだろ。地面の下を走ってる訳じゃあるまいし」
 その横顔は本当に楽しそうで。ますます本当の事を言える雰囲気ではない。
 「しっかし、『ちかてつ』も存外大したことないな。エレベーターだとか改札だとか色々と見慣れない物があったから構えていたが、思ったよりは変わって無いじゃないか。昔と同じでよく揺れるし、この椅子は座り心地が悪い」
 スプリングの効かない椅子の上でレミリアが跳ねる。多分、その背中に羽が出ていれば、ちぎれんばかりに振り回されているだろう。
 「私が思うに、汽車なんて貧乏人か変人の乗り物なんだよ。おっそいし、揺れるし、けむいし、うるさいし。だいたいこれに乗って移動すると、お尻が痛くなるんだ。全く。普通に歩いた方が早いじゃないか」
 「そりゃ、フリードリヒはあんたみたいなのを想定していないでしょうし。人なんて荷物のついででしょう」
 「まーな。確かに、家の周辺が急速に栄え出したのも、鉄道網が発達してからだよ。だから、あーんま良い思い出はないんだよなぁ」
 つまらなそうにうつむいた後、レミリアは舌の上で飴をころと転がす。その時だ、ブレーキが掛かりがたん揺れた電車に、飴が床に転がる。残念そうな顔をするレミリアに、もう一粒飴を渡してやった。
 「そうね。ついでに言うと、座れるだけラッキーなのよ」
 「そりゃかわいそうだ。でも、一つだけ良い事がある。お父さんと二人、外の景色を眺めるのは楽しかった――」
 「……って」
 窓の外に広がるのは、黒いコンクリートの壁とまばらにある蛍光灯。そして、次の駅の看板。ガラスに映る収縮した瞳孔。
 「そうか、これが『地下鉄』という、言葉の意味か」
 しぼんでいく気配が、その身体まで一回り小さくなった様な錯覚を与える。
 「ごめん」
 謝罪の言葉と共に頭を下げるパチュリーを、レミリアはきょとんとした顔で見返す。
 「なんでお前が謝るんだ?」
 「いや、本当は驚かそうと思っただけなんだけど。まさか、そこまで落ち込むとは思わなくて……」
 疑問の表情がレミリアの顔に満ち。やがて、得心したように手を打ち鳴らす。
 「ちがうちがう。私は別に落ち込んでなんかいない。考え事をしていただけ。勘違いさせて、悪かった」
 にへらと笑って見せる。強がりでも、偽りでも無い。心からの言葉。何を考えていたのかと聞く、少しだけ間を置き。真っ直ぐにパチュリーを見て言った。
 「すげーな。人間って」
 そう思っただけ。そういったレミリアの顔が、あんまりにも眩しくて。
 精神に交じった夾雑物(きょうざつぶつ)に気が付かなかった。




◇◇◇◇


 パチュリーはすんと鼻を鳴らし顔をしかめる。
 川のせせらぎからは離れた通り。夕方の町並みは人でごったがえしているはずだ。
 「あー、最高につまらない歌劇(オペラ)だった」
 傾いた陽が、病的に白い彼女の肌に生気を与えている。三歩ほど先を行くその横顔には、隠し切れない笑みが浮かんでいた。
 「あっそ。じゃ、二度と連れて行かない」
 「あっ、あっ……、ま、まぁ。暇つぶしには丁度良かった」
 「世界は闇で覆うんじゃなかったの?」
 「覆う前に来るかもしれないだろ」
 悪びれた様子一つ見せず、レミリアが犬歯を覗かせる。いつも通りのそんな姿が、妙に心を落ち着かせる。
 マンハッタンでの一日は瞬く間に過ぎた。ブロードウェイのミュージカルを見て。ミッドタウンのパブリックスペースでクレープを食べて。ひやかしに店を巡って。それで当初予定のプランは終わった。屋台から屋台へ駆けまわる底なしの胃袋――最初の一口以外はパチュリーに収まる――の背を追っていたらこの時間だ。
 つまらなかった。そう言えば嘘になる。
 魔女は孤独を好む。こんな人の多い場所。少し前まではマンハッタンなど死んでも近寄りたくなかったはずだ。だと言うのに、今胸の中にあるのは気持ち悪いくらいに前向きな感情だ。らしくない。そう呟いてから、パチュリーはあたりを見渡した。
 人気のない通りに、浮浪者がたむろしている。
 「ところでさ。ここどこ?」
 「さぁ、知らない」
 「おい、ふざけんな。パチュリーが迷子になったらどうするんだよ」
 「私がこんなとこ来たことあるわけないでしょうが。まぁ、でも大丈夫でしょ。この辺は過度に区画が整理されてるし、標識の一つでも見つかれば」
 手近な標識に刻まれた文字を読み取り、パチュリーは合点した。
 それはかつて黒人の楽園だった場所。マンハッタンで最も悪名高く、最も荒廃した地区だ。ドットコムバブルのおり多額の公的資金が投下された結果、ずいぶんと改善したとはいえ、依然混沌とした様相を呈する場所である。
 糞尿とコカの香りなど、こんな場所でも無ければ薫るはずもない。
 「これはちょっと面度かもね。あんた、手を離さないでよ」
 「なにを言ってるんだ、お前は。こういう場所は私の庭じゃないか。むしろ心地が良いくらいだよ」
 いかにもな裏路地の入口を見つけ、レミリアが掛け込んでいく。こんな場所はさっさと抜けるべきだと言うのに、吸血鬼の瞳には輝きが増すばかりだ。たしかに、こんな吹き溜まりにはオカルトが集いやすい。だがしかし、今は昼間だ。昼に出るバケモノなんて相場が決まってる。
 しかし、そんなことをレミリアが知るはずもない。パチュリーは頭を抱え、小さく息を吐いた。
 「いいえ、違うのです。か弱い私めをこの荒くれ者(アウトロー)が集う地からお守りくださいと、僭越(せんえつ)ながら申し上げているのです」
 「なんだお前が弱気なんて珍しいな。だが、そこまで言われたら仕方が無い。ほら、手を伸ばせよ」
 ありがとうございます。渾身の力を籠めて握り返すも、レミリアは気にする様子も無い。鼻歌交じりに道脇のポリバケツをひっくり返すだけだ。
 「こういう都市部の路地裏には、低級の霊やゴブリンが住んているんだ。見つければ小間使いになるぞ」
 「まー、そりゃ住んでるかもしれないけど。それ以前の問題がね、」
 「おい。これ、ゴブリンじゃないのか?」
 雑居ビルの裏口にたむろする男を指さすレミリア。頭を抱えるパチュリー。それはただのヒッピーだ。なぜなら、しゃがんだフードの下には虫歯だらけの歯と血走った瞳がある。
 「おい、そこのゴブリン。ちょっと、私の靴を舐めてみせろ」
 どこかへ行けと促す瞳の前に、小さなスニーカーが差しださせれる。コンマ五秒後の未来に向け、パチュリーはレミリアの首根っこを掴み自身へと引き寄せた。
 ヤニのこびり着いた息がパチュリーの目前に迫る。
 「ずいぶんと態度のでかいガキだな。しつけくらいちゃんとしたらどうだい。お姉さん?」
 「そんなんじゃない。でも、そいつが無礼をしたことは謝る。だから、そこを退いてくれませんか?」
 来た道を塞ぐ二名。そして裏口から新たにあらわれる三名。気がつけば五名の男が、二人の周囲を取り囲んでいた。
 「自分から厄介事を抱き込むなんて。お客が離れるわよ」
 「なめられたらおわりなんでね。この商売も楽じゃないんだわ。まぁ、大人しくしていればお互いにとって幸せとだけは言っておく」
 「ずいぶん態度のでかいゴブリンだな。おい、跪けって言ってんだろっ!」
 パチュリーの声にならぬ制止も虚しく、レミリアの蹴足がヒッピーのすねに吸い込まれる。嗚呼と小さく呻き、腰に隠したそれに手を掛けた。
 「くそっ、ゴブリン風情までがそんなものを……!!」
 予想通り、レミリアは三つの銃口に駄々漏れの殺意を向けている。
 「馬鹿! 避けろ!」
 無駄とも知らず、レミリアは悠長に魔法障壁を構築している。そんなものが何の役に立つ。漏れそうになる悪態をこらえ、腰のそれを一気に引き抜いた。
 ビルの隙間に反響する一発の銃声。倒れたのは、ヒッピーの男。
 「や、やりやがったな! おい、撃て!」
 連続する発砲音。しかし、マズルフラッシュと煙の晴れた後にはポリバケツ以外のなにも残されてはいない。かわりに轟くのは一発の銃声。続く二発。それで、二人の男が地面に伏した。
 「陽の届かない場所で私に喧嘩を売るなんて、命知らずだな」
 「ちょっ、揺らさないでよ。狙えないでしょ」
 男たちの直上に居たのは入り組んだビルに張り付く吸血鬼と、小脇に抱えられた魔女だ。即座に向けられる銃口を、吸血鬼が鼻で笑った。
 吸血鬼を突き動かすのは、矮躯(わいく)からは到底発生し得ない運動エネルギーだ。疾風の如くビルの隙間を駆け抜ける非現実的軌道だ。銃撃など到底追い付けはしない。
 それはパチュリーも例外でない。ブラックアウト寸前の意識で無鉄砲の後頭部を殴りつけ、辛うじて抗議の意を示す。
 「うるさいなぁ、そこで黙って見ていろよ」
 「ちょっ、まっ——」
 放り込まれたのは使われているかも定かでないベランダ。一息の間すら置かず、身を翻す背中に溜息を吐かずには居られない。
 地面に降り立ったレミリアは恐らく自分では最高に格好良いと信じて疑っていないだろうポーズを取って越に入っている。がら空きの背をもう一人に向けてだ。
 「ほんっと、世話が焼ける」
 弾丸は音よりも早い。吸血鬼お得意の音響定位(エコロケーション)も、超人的反射神経(ブースト・コンダクション)も背後からの飛来物にはクソの役にも立たない。それを、あの馬鹿は理解しているのだろうか。
 眼球の前方に屈折魔術を二重に施す。狙うのは今にも引き金を引かんとする男の肩口。距離は一〇〇メートル程だ。拳銃とはいえ、見えているなら当てられる。
 轟く銃声。倒れたのは吸血鬼に襲いかからんとする男。劈く悲鳴。掲げられたのは胸から紅い槍を生やした男。
 やっとの思いで非常階段に飛び移り、路地へ降り立った時。待ち受けていたのは不満気な顔。赤熱した槍に刺さった男を投げ捨て、そっぽを向いたレミリアは地面に座り込んでしまった。
 「隙だらけなのが悪いんでしょう?」
 「違う。それ、私が嫌いだって言ってんのに。まだ持ち歩いていたのか」
 冷たい視線が注がれるのは、手元のそれ。そんな身勝手な感情に、湧き上がる怒りを抑えられなかった。
 「当たり前でしょ。この国は昔から自分の身は自分で守るものとされているのよ。そして、銃の相手は銃が一番。常識よ、これくらい」
 僅かに鼻に掛かった声で、吸血鬼を挑発する。
 「情けない。ほんっとに情けない。お前それでもオカルトか。こんなものに頼らないと満足に戦えないなんて」
 「なに一つ理のない精神論ね。相変わらず、吸血鬼の鋳型(テンプレート)に則ってしか動けないつまんないやつ」
 私は正真正銘の魔女だ。魔女だから、魔術が即応性に欠けて遭遇戦にはまるで不向きなことをよく知っているのだ。
 「それは数え切れないくらいのオカルトを殺した。憎むのは当然だ」
 「反論にすらなってないわよ。どこまで馬鹿なのよ。あんたは」
 もしも私がこれを持っていなければ。間違いなくあんたの頭蓋には風穴が開いていた。そうなれば、長いこと寝こむ羽目になるのは間違いないだろう。それが永遠か一ヶ月かは知らないが。
 「それが主に対する態度か。この無礼者がっ……!」
 馬鹿の一つ覚えみたいに呪いか。そんなんで着いてくる従者がいる訳ないだろう。
 「一丁だけで良いから持っててよ! これは、あんたの身を守る力なんだよ!」
 紅が散大し、半開きの口が空転する。
 「……は?」
 「……え?」
 慌てて口をつぐむが、あまりに遅過ぎた。そこに居たのは、つぶらな緋色一つ直視できないただの少女。
 らしくなく熱くなっていたのだ。普段の自分なら、こんな下らないお節介を他人に押し付けたりしない。その程度のことは気がついていた。ただ、その理由を考えもしなかっただけだ。
 「お前……、それって」
 その問いに答えようとしても、燃えるように顔面が赤くなるばかり。
 「そ、それは……」
 言葉が続かない。当たり前だ。自分にだって分からない。ただ一つはっきりしているのは胸の中にある正体不明の感情。泥のように濃く、地獄のように熱い。正体不明のそれを、パチュリーは押さえつけるだけで精一杯だということ。
 「それは?」
 ああとかううとか。パチュリーの喉が出すのはそんな呻きばかり。役に立たない思考なんてさっさと切ってしまうべきだ。ぶんと首を振り、頬を一叩きしてパチュリーは答えた。
 「あんたが……、あんまりにもドン臭くて見るに堪えない……、から」
 「大層な言い草だな」
 「まぁ、でも。よくよく考えると、銃なんて持たず。どこかで野垂れ死んでくれた方が色々と捗ったかもね」
 収束する瞳孔。溜息と共にレミリアがパチュリーへ歩み寄ってくる。
 目の前に迫る銀糸。白い腕がまっすぐに伸ばされた時、心臓が止まるかと思った。眼を閉じても気配の止まる様子は無い。また一歩分の距離が詰められ、鼓膜が振動した。
 「まぁ、考えておくよ。後、それはそれとしてな」
 鋭い風音の後、生々しい肉音が届く。振り返った先、起き上がり胸に空洞を作った男が呆然と立ち尽くしていた。紅い槍に貫かれた身体は、間もなく冷たい炎に包まれる。
 「詰めが甘いぞ。お前は復讐心を甘く見過ぎている」
 パチュリーに向けられているのは満面の笑み。意味なんて、考えるまでもない。
 「肝に……、命じておくわ」
 なんともばつが悪そうに、パチュリーが言った。




◇◇◇◇


 夕方の案件以来狂ってしまった調子がどうにも元に戻らないが、見当外れな考察で悦に入るレミリアは笑ってしまうくらいにいつも通りだ。
 そう思っていた。だから安心していた。ユーカリオンに到着する直前までは。数時間たっぷり電車に揺られ、地下鉄のホームに降り立つまでは。
 そこは終電間際特有の静寂に包まれていた。中央の柱には丁度ユーカリオンと自宅の中間地点を意味する駅名が記されている。赤い電光掲示板が、数分後に到着する電車の名前と予想時刻を表示していた。
 「そんじゃ、先に帰るわ。あんたも帰り道に気をつけなさいよ。いや、気をつけられないようにしなさいよ」
 返ってきたのはらしくない生返事だ。不審に思ったパチュリーが振り返った。
 どうした、と声を掛けても吸血鬼は口をまごつかせるばかりだった。そのまま一分が過ぎ二分が過ぎる。突風と共に、定刻よりも少し早い電車が、ホームに進入してきた。
 「……どうしたの? 聞こえない」
 ぎぃぎぃと鳴り響くブレーキ音に紛れ、吸血鬼の唇が震える。なぜかそれは、不気味なくらいにはっきりと聞き取れた。
 「最後の命令が、あるんだ」
 パチュリーの背後。コンプレッサーの駆動音と共にドアが開く。
 「なに言ってんの? 私もう帰るんだけど。明日にしてよ。あんたは壁でもなんでもよじ登って会社に帰れるかもしれないけど、私はこの電車逃したら野宿確定なんだよね」
 思いつめるような、押し殺すような表情は返事をしない。十秒、二十秒が過ぎる。痺れを切らしたパチュリーはガラガラの電車に乗り込んだ。
 「大事な、大事な……、話だ。できれば今日話したいんだ、……人眼に付かない所で」
 二人の間にあるのはホームと電車の僅かな隙間。吸血鬼の背後、向かい側ホームに眠るホームレスが白い影に隠れる。パチュリーの記憶が確かなら、あれがユーカリオンに向かう最後の便だったはずだ。
 「明日いくらでも聞いてあげるから。それで良いでしょう? ほら、あんたの乗る電車が、もう来てる」
 嫌な予感がしていた。おそらく今日は二人共がどこか正常でない。きっと初めての遠征で浮かれているのだろう。きっと今日決めてしまうなにもかもは、後日になって思い返せば馬鹿馬鹿しいと一蹴される類のものとなる。
 だからさっさと帰れ。そう告げたかった。
 「なぁ、パチュリー。……お前の家で話すのは、駄目だろうか」
 放たれた言葉に混じる震えは、決して気のせいなんかではない。腰を抜かさなかったのは、言語の理解が遅れたからだ。理解した後に平静を装えたのは、表情筋が退化していたからだ。
 だから、
 「……あんた。頭は大丈夫? 私は魔女で、そこは工房よ?」
 がらがらの車内も、うつむいてばかりの吸血鬼も、なにもかもが胸のしこりを膨らまそうとしている。ホームと車内。わずか一メートルに満たない距離はあまりに近い。
 「はぁ……、ばいばい。気を付けて帰りなさい。まぁ、思ったよりは悪くない一日だったよ」
 発車を告げるブザーが響く。踵を返して席に座ろうとしたら、服の裾がなにかに引っ張られた。パチュリーはその無情に頭を抱え、小さく呻いた。
 「まぁ、あんたが良いなら、私は別に」
 コンプレッサーの排気音を残して扉がゆっくりと閉まる。人影もまばらな車内には、たった二人だけが並んで座っていた。




◇◇◇◇


 「悪かったね。簡単なのしか無くて」
 「良いよ。急に押しかけた私に非がある。不味くて粗末な飯なのも、ある程度仕方がない」
 「ぶちころすぞ」
 食器を洗う水音に、無作法な声が混じる。それが、部屋に入ってから初めての会話だった。吸血鬼の少女はベットの上に寝転がってけらけらと笑っている。どちらが家主か分からないとのぼやきは、より大きな笑い声を産むだけだった。
 「他人に招かれたのは久しぶりだよ。確かに、すごく懐かしい気分だ」
 「あんた友達居なさそうだもんね。吸血鬼って迎えられないと家に入れないって本当?」
 本当だよ。存外に軽い調子で返ってくる声に、水音が一瞬静止した。
 「招かれずに入ったら侵略じゃないか。いくら入ると言い張っても、そりゃ、帰るになっちゃうからな」
 小さなため息を無視して、ベッドの上の吸血鬼がくるりと室内を見渡す。食事終わりのテーブルには途中のコンビニで買ったおつまみの袋とビールの缶が広げられている。カシューナッツがお気に入りのようで、おつまみだけが空っぽである。その他にはいつもと変わった所は無い。吸血鬼に荒らされたベッドが、無残な姿に変わっている程度である。空腹の満たされた吸血鬼の興味は別に移った様で、しきりに室内を見回している。
 「しっかし、あんたの家は本ばっかりだね」
 「そりゃ、これでも魔女ですんで」
 枕を抱きしめたまま仰向けになった吸血鬼が、横目で本棚を見ている。そして、枕元に置いてあった置物を手に取った。
 「そんでもって悪趣味だ」
 「そりゃ……、これでも魔女ですんで」
 吸血鬼の手遊ぶガラス玉の中央が、じっとパチュリーを睨みつける。玄関のトーテムポールが、がたがたと小刻みに揺れる。気がつけば、イスの手すりが毛羽立っていた。
 リサイクルよ、悪い? 真顔で答えると、吸血鬼が肩をすくめた。その家具達はオカルトの出涸らしに過ぎず、意志など残っていないはずだ。おそらくは冥王の濃厚な魔力にあてられて共鳴が起こったのだろう。
 「オカルトの解体は手っ取り早い魔力補充法だけど、ほどほどにしておいた方が良い。恨みを買うのは思ったよりリスキーだぞ。色々とな」
 「それ、鏡見て言えば良いと思うよ」
 「そうだね。それができれば、毎朝の身支度が、ずっと楽になるんだけどな」
 ごろごろと布団の上を転がっていた吸血鬼が、身体のばねとベッドのスプリングを使って起き上がる。
 「下の人に迷惑だから、控えて」
 「悪かったよ」
 吸血鬼は口元に笑みを浮かべながらも、眼だけはまっすぐにパチュリーを捉えている。子供が無理をして畏(かしこ)まっている、そんな印象を与えるものだ。
 「今日は楽しかったよ。パチュリー」
 「……吸血鬼が真っ昼間のデートを楽しんだって、ずいぶん面白いよ」
 パチュリーが目線を逸らす。
 「お前が貸してくれた日焼け止めクリームのおかげだよ。日差しが心地良く感じるなんて初めてだった」
 「それは、良かった」
 パチュリーのぶっきらぼうな返事に、気の抜けた笑顔が返ってくる。僅かに残っていた、厳めしさすら、そこからは感じられなかった。
 「なにも……、しないんだな」
 ぽつりと、吸血鬼が呟く。
 「どうせ、最後の命令が終わればあんたと会うことも無い。必要がないだけよ」
 「そうか」
 寂しさや残念さ、哀の感情に類するものが混じっている。そんな気がした。
 「それで、あんたの最後の命令ってなにさ」
 「まぁ、待ってよ。私にも心の準備という奴があるんだ」
 「……まるで少女ね。いっそのこと魔王を返上したら? そしたら私の呪いも解けるでしょうに」
 気のせいだと思えるくらいの一瞬だけ、レミリアの顔が曇る。それが見間違い無いと分かったのは数分後。沈黙を守ったレミリアが至極真面目な顔で口を開いたからだ。
 「あんたの初恋って。いつだった?」
 「そんな不毛なもん、これから先にも一生無いよ」
 「子供だなぁ、あんたは」
 「うっせぇ、チビ。まるで自分はとっくの昔に恋を済ませた大人だとでも言いたそうじゃない」
 「いいや違う。私はまだ恋の一つもしていない子供だよ」
 はっきりとした口調でレミリアが告げる。妙だ。このプライドの塊がこんなにも素直であるはずがない。眼をこすって見直しても、そこに居るのは真面目腐った顔をした吸血鬼だけだ。
 「ところで、パチュリー。お前は私達がどうして幼い少女の姿をとっているか考えたことがあるか?」
 嫌な予感がしていた。
 「あいにく。私は元から美少女だったもので」
 確信に近い予感があった。
 「そうではなく」
 「……そんなことを考えることに意味がない。少女の姿だったものが私達だった。トートロジーで構わない。進化なんてものは、もっと行き当たりばったりで無計画な場合がほとんど。だから、現実は拍子抜けするくらい下らない理由のはず。それこそ、たまたま最初に産まれたオカルトが、少女の姿だったとか、そんな程度の」
 こんな下らない話を続けていては、きっと取り返しのつかない事になる。
 「お前、浪漫がないって言われないか?」
 「魔女が浪漫求めてどうすんのよ。こちとら堅実と節制が服みたいなもんよ。そんな下らないことに理由を求めたって仕方ない」
 「それは違うと思う」
 それにも関わらず、レミリアの言葉は抵抗を許さない。
 「知らなければ失ってしまう。失ってからじゃ遅すぎる。もしも、失ってしまったら、私はもう私じゃない。なぜなら私達が少女の姿をしているのは……、誰よりも愛を求めているから」
 そう私は思う。告げられた言葉に、パチュリーは無情を嘆く。
 「私達は神に愛されなかった種族なんだ。闇から産まれ人に畏れられる私達は、世界のなにからも愛されていない。愛されていないからこそ、私達は誰よりも貪欲に愛を求めて恋をする。恋に恋して、馬鹿みたいに突っ張る。ただそれだけしか能のない、ただの少女。私達はオカルトであるが故に、他のなによりも少女なのよ。だからこそ、私達オカルトは、その恋を遂げることに執心する」
 紅潮した頬が艶を帯びて見える。唄うような口調は、どれだけ願っても止む気配がない。
 「そんな当たり前のことを。私はずっと、ずっと、忘れていたんだ。オカルトが科学に追われたあの日から。もう、恋が遂げられる事は無いと分かった日から。ずっと。いっそ、」
 消えてしまいたいと願うくらいに。そう告げる吸血鬼の眼が見ているのは、おそらく過去だ。話にだけは聞いている、レミリアが行っていた苛烈な自傷行為——彼女流に言うのなら、朝の体操で転んだ結果——。
 「ああそうよ。だけど、叶いもしない恋なんて、覚えていても仕方がないじゃない。だから、もう一度忘れましょう。記憶操作の魔術は難しいけど、気晴らしにどこかへ連れて行って上げることくらいはできる。また、今日みたいにね」
 静かに首を振ったレミリアがほほ笑む。天使のようなそれだ、含みなんてまるで感じられない。
 「だけど、全て変わったんだ。あの日に全て」
 「変わっていないわ。なに一つ。あんたと出会う前も後も、変わらずクソッ垂れた日常ばかりが続いてるじゃないか」
 「いいや違う。クソッ垂れた世界だからこそ、際立って輝くものがある。それを教えてくれたのはお前じゃないか。風化するはずだった丸石を拾い上げたのはお前だよ」
 だから、ありがとう。
 吸血鬼の言葉に背筋が震えた。
 「私の前に現れてくれて。私に、思い出させてくれて」
 あんまりにも眩しいそれと反比例して、嘔吐感が込み上げる。
 「そうだ、パチュリー。最後の命令、まだいってなかったね」
 もうその頬は白い所を探す方が難しい。潤んだ瞳と艶を増した唇の放つ色香は、もう子供の領域を超えている。
 濡れた唇が開き、一瞬だけその隙間を伸展した皮膚が埋める。条件反射で耳に風防魔術を施す。それでも、外せない視線が唇の動きを読み取ってしまう。
 「好きな人が居るんだ」
 ほんの少しだけ大人びた瞳がまっすぐにパチュリーを見つめている。
 最悪の年と確信して長いため息を吐く。諦めと同時、パチュリーは静かに瞑目した。


 同年、九月。
 サイエンス誌上に掲載されたユーカリオンの論文に、世間は湧きたった。
 『Extension of life-span with superoxide dismutase / catalase mimetics.(SOD・カタラーゼ模倣物質による寿命延長)』












第三章 フランドール・スカーレット




 二〇〇〇年十月某日。
 マンハッタン、ブラッドハースト区の裏路地にて。


 女は背面を振り返り、唾を吐いた。
 追ってくるのは男は三人。いずれも手には拳銃が握られている。そこはセントラルハーレムの中心部、ブラッドハースト区域の裏路地。かつてハーレム区で最悪の治安と言われた区域は、度重なる資本投下の結果、大幅に改善されたとはいえ、それでも夜に女が一人で歩く場所ではない。男に追われているのならなおさらだ。
 全力疾走に近いにも関わらず、その女は息一つ切らしていない。その顔は眠たげですらある。ふわぁと、欠伸を一つして、ゴミ袋を枕に眠っていたホームレスを飛び越え、通行止めのフェンスをよじ登り、一五〇番ストリートに飛び出して、また次の路地へ逃げ込む。追ってくる男の胸には一揃いの紋章が刻まれている。NYPD、ニューヨーク市警の警官を示す記号。女が想定していた中でも、最悪に近い状況と言えた。
 「ちげぇな、今から最悪になるんだ。あぁ、まったく悪い冗談だ。よりにもよってあんな奴らが運命の人だってのか」
 ことの始まりは一時間ほど前、迂闊にも大通りを変装もせずに歩いていたら、巡邏中の警察官と眼が会ってしまったのだ。それは、数件の不審死についての重要参考人になっている彼女にとっては致命的だった。
 「くっそ、あの魔女め。絶対に許さんからな。本当に人相書きなんぞ渡しやがって。マサチューセッツから逃げればどうにかなると思ったが、ここは輪を掛けて酷い。尾行されない日が無いぞ。全くウェストチェスターは静かだったのに」
 それから、女は逃げ続けている。数名の警察官、一台のパトカー、二台のバイクに追われながらも、その脚力のみで逃げ続けていた。もちろん、その眠たげな顔をした女は人間ではない。
 「やっべ、しくった」
 女の前にはレンガの壁が広がっている。左右は雑居ビルであるが、人が入り込めるほどの窓は無い。背後は三人の男によって塞がれている。手を上げろと、警官が拳銃を構えて言い放つ。
 そんな言葉をもう聞き飽きた彼女だ。壁を越えようと伸ばした腕が、走る激痛に引っ込められる。八ヶ月経っても癒えぬ傷は、あの夜マサチューセッツでつけられたものだ。
 「覚悟の決め時かねぇ」
 振り返った女の顔には不敵な笑みと、一筋の汗がある。その金色の瞳が、赤く輝いた次の瞬間。女周辺の大気が陽炎のように揺らめく。警官が瞬きを終えた時、女の居た場所には、巨大な甲冑がたたずんでいた。
 「ば、化け物……!!」
 甲冑に頭部は無い。あちこち錆びつき、凹んだ鏡面が蒼白く光るだけだ。
 「その通りだ。私はバケモノだ。バケモノが人間を襲ってなにが悪い」
 首なしの甲冑が、その巨躯と重量からは予想もできない速度で地面を蹴る。同時、銃声が人気のない裏路地に轟く。狼狽した警官の放った銃弾は、甲冑の胴を掠め、装甲を破壊した。ぐぅと、うなった甲冑が警官の居た地面をたたき割る。舞い散るコンクリート片が、三人の警官を道路へ吹き飛ばした。
 「くっそ……、どいつもこいつも。銃なんかに頼りやがって」
 荒い息を吐き、腹部を押さえた甲冑は膝を着いた。よろめいて立ちあがった警官の拳銃が再び甲冑に向けられる。甲冑は手に持つ槍を形ばかりに構えて見せる。
 震える切っ先を、警官の脂ぎった鼻が笑う。
 「バケモノのくせに銃を怖がるのか」
 「そうだ。私は銃が怖い。怖くて怖くて仕方ない。それには何の心も、信念も、葛藤もない。ただ指先に力を入れるだけで、体を貫かれ、命を奪われる。なんの勇気も持たないただの一般人であるお前らに純潔を奪われてしまう。それが怖くて仕方ない。だから震えてるんだ。今にもちびりそうだって言うのにね」
 「なに言ってんだお前。だったら大人しくしろ」
 「ありえない。それだけはありえない。無抵抗で終わるのだけは駄目だ」
 警官が口々に警告の言葉を吐く。それでも、甲冑は退く訳にいかない。せめて、一矢を報いて自身の心の慰めに変えよう。
 誓ったそんな覚悟を胸に突進した巨躯は、三つの銃声の後に崩れ落ちた。路地裏に静寂が戻る。
 「な、なんだったんだ。あいつは」
 「知らん。とりあえず、無線で連絡を」
 腰を抜かした警官の向こう側、濃厚な鉄の香りはうずくまる鉄屑から発せられている。その鏡面は未だに僅か上下し、警官達に警戒を促している。
 「どうした? 連絡はまだか? こいつ、まだ生きてるぞ」
 「おかしいんだ。全然繋がらない。まるで妨害電波が近くから発生でもしてるみたいだ」
 「オカルトを見た俺達の口封じってか? TVの見過ぎだ。MIBが実在するなんて噂を真に受けるのはお前だけだぞ、スティーブン」
 そんな冗談を言い合う三人の銃口は、僅かに震えている。落ち着いてしまったが故に、眼の前のものが受け入れられないのだ。首無しの騎士がマンハッタンを歩いているはずなど、無いのだから。
 蠢くばかりの甲冑を前に警戒を続ける三人の男。その背後が突然眩いハロゲンライトが照射された。続けざまに、一五〇番ストリートには黒塗りの車(クラウン・ビクトリア)が次々に停車する。どよめく三人の声に答える様に、先頭車両のドアが開く。
 「久しぶりに空振りじゃ無かったわね」
 「最近多いよね。同業者が居るのかな」
 場違いなほど呑気な声が車から漏れる。黒いスーツに身を包んだ親子ほどの身長差のある二人組が警官の前に降り立った。
 「まぁ、可能性はあるわね。このご時世。どこだってオカルトは一匹でも多く欲しいでしょうから」
 「おい、お前達、何者だ。一般人なら今すぐ退去しろ」
 警官たちは突然の闖入者に警戒を強めるが、二人組は表情一つ変えない。
 「私たち……? 私たちは、移民管理局六課の者だよ。ご苦労だったね。こいつは私たちが追っていたんだ。君たちは帰っていいぞ」
 二人組が、警官を無視して地面に倒れる甲冑の傍へ寄る。
 「スリーピィーホロウとはイマドキ珍しい。こんな都心部で出会うとは思わなかったけど、よかった。まだ息がある」
 甲冑の破断面が端から砂へと変じ崩れ落ちようとしているが、肌にはまだぬくもりがある。黒服の顔に安堵の表情が浮かんだ。
 「ちょっ、ちょっと待て。移民管理局は五課までのはずだ。六課など聞いたこともない」
 警官の中でも、僅かに冷静を保っていた男が強い剣幕で黒スーツの男に迫る。
 「あぁ~、たぶん色々あって、少し混乱してると思うし、疲れてるんでしょう。でも、安心して。この子の瞳が放つ波長が君達の記憶を消去してくれる」
 言葉の意味を取り兼ねる。そんな表情を浮かべる三名を放置して、続々と到着するトラックから降りる男達が、手なれた様子で周囲の封鎖を始めた。
 「ごくろうね。ヒト払いが終わったら、対象の回収と、現場の復帰をよろしく」
 了解。と簡潔に返事をした男達が各々の役を果たすために散開する。数分も立たない内に、荒れた現場は元の状態へと戻ろうとしていた。
 「これは何事だ、一体何をやっている?」
 「良い質問ね、それはこの子の瞳を見れば分かるわ」
 黒服の背後からひょっこり頭を出したもう一人の黒服。黒いサングラスとキャスケットで顔は隠されているが、僅かに覗く髪の毛はぞっとするほど美しい金糸だった。
 「なにを言っているんだ。お前たちは、何者だ」
 「私? 私達は君達の見た幻想よ」
 金髪の黒服が警官達の前に出る。刹那、凄まじい閃光が走りそして消えた。そうやって産まれた静寂を、上がり調子の芝居がかった声が切り裂いた。
 「いやー、君達。お手柄だったね。強盗犯を取り押さえるなんて。犯人の身柄はもう確保されたから、君達は帰って報告書をまとめると良い」
 言われるがまま、虚ろな顔をした二人の警官は派出所へ向けて歩きだし、残る一人は首を傾げてその場に残る。
 「おい、ちょっと待て。なんださっきのは?! 騙される訳ないだろ」
 「今はふざける時じゃないわよ」
 「あぁ、ごめんごめん。久しぶり過ぎて」
 中々の剣幕で怒る男を無視し、黒服は見つめ合う。口元に小さな笑みを浮かべた金髪は、甘ったるい声で男を呼んだ。おにーさん。おにーさん。こっち向いて。疑問符を増やす顔が近付くにつれ、金髪の口元が大きく歪む。
 響く鈍い音。金髪の頭突きに倒れた男は、即座に背後のワゴンへ運び込まれた。
 「頭脳労働の方がお好み?」
 「まぁ、運動は嫌いかな」
 そして残されたのは甲冑と黒服が二人。甲冑の脇に座り込んだ小さな影は、顔のあるであろう場所に手を置き、優しく語りかけた。
 「危なかったね。ほら、怪我を直してあげる。だから、私達と一緒に来てもらえるかな」
 「お、お前たちは一体……?」
 陽炎のように空間が揺らめき、隠れていた顔が現れる。眠たげな顔の女が息も絶え絶えに返事をした。
 「うん、新聞とかで見たことない? オカルトを保護、隠匿する黒服の集団が居るって」
 「そんな……、あれはゴシップじゃ……」
 俄にざわめきたつ、くすんだ鈍色に黒服が身構える。
 「いけない。興奮している。出血が激しくなってる、大人しくさせて貰えるかしら」
 「おっけー」
 「や、やめろ。お前たちは一体なにものだ……?」
 「だから、何度も言ってるでしょう」
 小さな黒服がサングラスを外す。紅い瞳に眠たげな顔が映り込む。大丈夫。掛けられたのは背丈からは想像もできないほど落ち着いた声。次に外された黒いキャスケット帽の下から現れたのは、金糸のようなサイドテール。
 透明感のある金が街燈に輝き、辺りに甘い血の香りが広がる。
 「名も無き黒服の男(U.N.オーエン)は彼女だったのだよ」
 甲冑の女は小さくほほ笑み、瞳を閉じた。




◇◇◇◇


 低くうねった機械音にベッドを揺らされ、彼女が目を覚ます。固まった関節をぎこちなく動かして首を上げると、かすんだ視界の向こう側に分厚い書籍が見えた。食後に読書を楽しもうとして、眠り込んでしまった結果だ。彼女は一瞬残念な表情を浮かべ、手元のハードカバーを開いた。
 それは幾度となく繰り返された定型的な動作。首に違和感を覚え、くるりと回す。視界には見慣れた部屋の景色が映り込んだ。物が少なく、灰色の壁で覆われた部屋には窓の一つも無い。何度見ても退屈で、だけど同じくらいに嬉しかった。
 次に視界に入るのは七色の宝石。それは折れ曲がった骨のようなものから垂れていた。傍から見れば神秘性や、畏怖を覚えるのかもしれないが、少なくとも持ち主である彼女から言わせれば寝ころぶ時に邪魔なものでしかない。そう、彼女は人間ではないのだ。
 ぐぅとお腹が鳴る。ベッド脇のサイドボードからブラッドキャンディを一つ掴んで口に放り込む。口の中一杯に広がる蕩けるような甘みと仄かな鉄に頬が落ちそうになる。整った顔立ちを恍惚に歪め、彼女は口を開いた。
 「はぁぁぁー。ニートって、さいっ……、こう……」
 「ふざけんな働け」
 いつの間にか出入り口には女が立っている。 その呆れ顔も、肌と同化しかかっている黒スーツ姿も。彼女にとっては見慣れたものだ。
 「あ、お帰り。ユカリ。頼んでたの買って来てくれた?」
 振り向きすらせずに告げる彼女の姿に、ため息を漏らしながらも、ユカリと呼ばれた女は取り出した茶色い紙袋を投げた。
 「ほら。頼まれた奴と、ついでに、いつものも」
 ぼふと。バーンズ&ノーブルの包みがベッドに跳ねる。中から出て来たのはこの国に住むものなら誰もが一度は目に通したコミックの一つ。蝙蝠男の英雄譚と、日本製ゲームカセットだ。
 「フラン。ゲームはほどほどにね。目が悪くなっちゃうから」
 聞く耳などまるで持たず、フランと呼ばれた少女は黄色いモンスターの描かれたパッケージに目を輝かせた。
 ポケットに入りそうな大きさのゲームコンソールにそれを突っ込めば、始まるのはクリーチャー同士の戦闘デモ。スタート画面が表示され、興奮が高まると同時に、画面がホワイトアウトした。液晶横の赤ランプ点灯が無い。電池切れである。
 「ユカリー。電池の買い置き無いのー?」
 ユカリが戸棚の奥を探る。使いかけの乾電池のパックがフランに差し出された。
 「それで最後」
 「ちょっと、待ってよ。これ一個でどうクリアしろって言うのよ。どっかに予備は無いの?」
 「あー、私の机に一パックだけあった気がする。だけど、私も使うと思うから。必要になったら呼んでくれる?」
 ユカリが指差すのはベッド脇に置かれた小さなボタン。ナースコールを改造して作られたそれは、音と光で離れたオフィスに用事を知らせるものだ。主にユカリを呼び出すために使っている。
 「りょーかい。ありがとね、そんじゃばいばい」
 「ばいばい。……じゃなくて。その前に何かやることがあるんじゃなくて?」
 「なんかあったっけ……?」
 腕を組み、真剣な様子で考えこむフラン。
 「あっ、そうそう。ありがとうね。ユカリ。いつもいつもお使いばっかり頼んじゃってさ」
 「良いんですよ。これも私の仕事ですから。でも、今言いたいのはそれじゃなくてよ」
 ユカリの米上に浮かぶ青筋から、わざとらしく眼を逸らす。
 「困ったなぁ。全く憶えがないわ……」
 「てめーに、仕事だっつってんだよ。クソニート」
 なんのことか分からない。その意を眼で訴えた後でフランはベッドに寝転がる。一泊遅れてケラケラと笑い出した。
 「なーんだ。そんなつまんないことかー。ユカリが処理しといてよー。私みたいなもやしが行ってなんの役に立つのさー」
 そしてフランは、サイドボード上のポテトチップをかじり始める。ユカリの肩が震えていることには、気が付く様子もなしにである。
 「ねぇ、フラン。働かずに食べるご飯は美味しい?」
 「むっちゃ美味しい」
 「……休日はね。働いた五日間があるからこそ待ち遠しい物だとは思わない?」
 「私、毎日楽しいわよ」
 「社会へ貢献していると言う実感が、精神の健康を」
 「誰かの役に立つなんて反吐が出るわ」
 唐突に訪れる沈黙の時間。肩を震わし黙りこくってしまったユカリを前に、フランはどうしたものかと思案を始める。しかし、数秒後。面倒だと適当に浮かべた満面の笑みが、ユカリの怒りを爆発させた。
 「この……、糞ニートが!」
 「ニートで何が悪い!」
 「全部だよ!!」
 それから起こるのはいつも通りの喧嘩だ。取っ組み合った後に、根負けしたフランドールが首根っこを掴まれ、引きずられながら現場へと向かう。
 無機質な長い廊下の途中。すれ違う同僚の苦笑いも、延々続くユカリの小言も、いつものことだ。不満気な表情をしながらも、こんな日常がフランは嫌いでなかった。
 たまの出勤を除けば、勝手にご飯が出てくるし、戦わなくても場所を終われない。
 あぁ、世界って素晴らしい。
 見上げた天井にぶら下がるのは青白い蛍光灯。





◇◇◇◇


 フランドールは吸血鬼だ。
 それも貴族階級と言える程の名家出身である。それだけに、オカルトと科学の力が逆転した時には真っ先に狙われ、捉えられてしまったが、幸運なことに彼女を捕獲したものは理性的な判断のできるものだった。
 人語を介し人と打ち解け、反抗する様子も見せない彼女に、あらゆる暴力を向けることを禁じ、一個の生命体として組織の中に居場所を与えたのだ。時代とともに、所属する組織も役割も度々変わったが、待遇はほぼ変わらなかった。どれも共通して、大した意味の無い作業をほんの稀にまかされるだけである。
 なにかの折にその理由を問うた時には、二体しか現存しない吸血鬼を安易には動かせないとか。居てくれるだけでありがたい。そう聞かされた。早い話がフランは極めて貴重なサンプルと言うことだ。もっとも、そんな些細なことで傷つくプライドの持ち合わせがないフランにとっては、この上なくどうでも良いことだ。
 現在の組織においても、概ねフランの扱いは変わらなかった。近年になって発足した、オカルトを専門に扱う部署ということで、定期的な巡回や、極稀に緊急出勤(スクランブル)が掛かる程度である。以前より少しだけハードな業務だが、出勤頻度は多く無かったのであまり気にしていなかった。
 しかし、最近は少し様子が違う。今年に入ったくらいから妙に出勤回数が増えている。十年前は三か月に一度もなかった出勤が、ほぼ月に一度ペースに近づいている。今月に至ってはもう三度目である。これはもう過労死の危険が見えてくる。だから今日はもう休んで部屋で昼寝の続きをすべきである。そう主張したら、ユカリに殴られた。
 「ひどいよユカリー。最近忙しいのは本当じゃーん?」
 「この子はどうして……。ほんと……。人の気も知らないで。頼むから真面目に働けよ……」
 「なによ。この間、働いたばっかりじゃん」
 「あんたが出たのは十日前でしょうが。私はどっかの誰かのせいで、週に七日働いてんのよ、月に数度の出勤くらいはまともにやりなさい」
 いやだ。はっきりとそう答える彼女に、人差し指が突きつけられる。ユカリと呼ばれた黒スーツの女は、苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
 「この間、あんたと回収したスリーピィ・ホロウが居たでしょう。あいつが眼を覚まさないのよ。あんた、間違って呪いでも掛けたんじゃないでしょうね」
 「まさか。私が掛けたのは間違いなく精神に対する麻痺の魔法だよ。まぁ、あいつはずいぶん取り乱していたしちょい強めに掛けた気はするけど」
 「強めねぇ……」
 二人が歩くのは長い廊下だ。窓の一つもなく、蛍光灯だけが点々と灯るだけのそこを延々歩けば、目的の部屋は見えてくる。番号札だけが掛けられた部屋の中で、その女は静かに眠っていた。漏れる魔力が、彼女が人でないことを示している。
 そばに駆け寄ったフランドールが、女のまぶたをつまんで瞳孔を覗きこむ。数秒唸った後に、ばつの悪い顔をユカリへ向けた。
 「あー、これ完全にキマってるね。早く言ってくれたらよかったのに」
 「二日前から言ってたけどな」
 そうだっけ。子供の様な無邪気な笑みを浮かべ、フランが指を鳴らす。数秒後、小さな呻き声を上げて女が身をよじった。
 「……ここは」
 「ウチのオカルト収容施設。街中で暴れてる馬鹿が居るって連絡を受けて、私達が回収した」
 「回収……? お前たちが? 私を?」
 女の頭上で増えるばかりの疑問符に笑いをかみ殺す。まい
フランはそんな顔を見るのが好きだった。ついでに言えば、なにが分からないのか分からないとでも言わんばかりの呆れ顔を見せるユカリを含めて、である
 「なにが分からないのか分からない。まぁ、良いけど。それで、あんたはなんであんな所に」
 「オカルトはいつだって、夜と都市の合間に挟まってるのが好きなんさ。黒人が集う貧民街に私(オカルト)が居ちゃ、不自然かな?」
 「不自然も不自然。今のマンハッタンに居るオカルトは一五〇〇。ほとんどはどこかの研究施設に所属しているし、そうでないのも定期的な居住区域の報告を義務付けている。あんたはそのどちらでもない」
 「あれま。じゃ、その調査やり直した方が良いんじゃないかな」
 「そんな訳が無いでしょう。まさかあなた。今の世の中で自分が隠れ潜んでいられる理由が、人のものまねがうまいからだなんて思っていないでしょうね? 今の世の中。オカルトの役割は奪われたの。夜の闇に潜んでいるのは、狼男でもなければゾンビでも無い。コカインの売人や、強盗の類。それこそ、偽装戸籍でも取得して、就職して、どっかに定住でもするくらい徹底してなきゃ、見落とすはずがないわ」
 あなたは、そのどれかなの?
 奥の知れない緋色の眼が覗きこむ。眠たげな顔は無言で首を振った。
 「私達は企業の出資によって運営される、公共福祉団体。我々に法は適用されない。誰も我々を知らない。黒いスーツが私の服。名もなき男が我らの呼び名、それが私達よ。噂じゃMIBなんて呼ばれてるらしいけど、まぁ、その辺はお好きにどうぞ」
 女の前に、ユカリが歩み寄る。警戒する女を前に、柔和な笑みを作った。
 「いらっしゃい。M社の首なし騎士様。ジョージが帰りを待ち望んでおられましたよ」
 手を伸ばしながらユカリは言う。しかし、女はその手を取る様子もない。
 「ずいぶん詳しいんだな」
 「噂ですよ。北米M社設立者、ジョージの護衛にオカルトがいたなんて馬鹿馬鹿しい妄言を真に受ける人種も存在するってことです。そして、それと前後するようにヘッドレス・ホースマンが米国で話題になり始めたことも。根拠なんかありません、ただの推測です」
 女が一瞬目を見開き、そして破顔する。差しのべられた手を握り、上半身を起こした。
 「私は最近ウェストチェスターから越して来た。確かに……、転入届けは出していなかった。それで、MIBだっけ? そこに居るのは吸血鬼だろう? お前たちは何をしている。どうして、オカルトが組織などに所属している」
 「なんでって……、あんたそりゃ生活のために決まってんでしょうが。働かずに飯が食えるのは貴族だけよ」
 「はいはーい。私貴族でーす」
 頭上の圧力によって、フランの視界がベッドの下までずり落ちる。頭上から響く咳払い。届くのは胡散臭くすら感じられるアクセントの強い語り口。
 「まぁ、ちょっと話は省くけど。今の貴女を野に放つのは少しリスキーなのよ。それは、口で説明しても良いんだけど、多分見て貰った方が早い。丁度明日に定期の見回りがある。よかったら着いてくる?」
 「そんな台詞は、選択を与えてから言え。……しかし、助けてもらった恩もある。一応、付き合わせて貰うよ」
 「いってらっしゃーい」
 「あんたも行くに決まってんでしょ」
 深い悲しみがフランを包む。絶望に沈む顔が、ユカリに向けられる。今にも涙を零さんとする瞳が、切実にその心情を伝えていた。
 「……好きなだけお菓子買って良いから」
 満面の笑みに返される、今日一番のため息。




◇◇◇◇


 「どいつもこいつも貧相な顔してんなぁ」
 「まぁ、こんなご時世だしねぇ……」
 雑踏の中、行き交う人々の顔はどこか暗い。前を行くフランの背を一瞥しユカリは呟いた。秋晴れの空がフランの肌を焼く。じとりと首筋に滲む汗を拭い、ルビーみたいな瞳が、ユカリを恨めしそうに睨みつけた。
 「無駄よ。明日も昨日もどうせ熱い。だから、スネを蹴る足を止めなさい」
 後でチョコソフト買ってあげるから。続くその言葉を待って、フランはつま先を地面に収める。
 雑踏の真ん中で繰り広げられる寸劇に、思わずため息が漏れた。
 「あのさぁ、私はいつまで親子ごっこを見ていれば良いんだ?」
 呆れた様な顔でホロウ——驚くべき事に彼女はそう名乗った——が口を開く。
 「何度言わせれば気が済むの。これは、駄々っ子に振り回される母親ロールじゃなくて、定期の見回り。中央通りを中心に登録されたオカルトの様子を確認して回っているのよ」
 「そうそう。これは、お仕事中毒(ワーカーホリック)の親を前に子供ぶった態度を見せてあげる気の効いた子供ロールじゃなくて、見回り。オカルトなんて自分勝手だからさ。たまに見て回らないと好き勝手やったり大けがしてたりするからさ」
 「帰りたい……」
 頭を抱えるホロウの真横で、吸血鬼は日焼け止めのクリームを塗りたくられている。ユカリのなすがまま。顎の下を摩られ眼を細める姿はまるで猫の様だ。
 もう一時間近くこんな光景を見せつけられている。見回りと言いながら、二人のやっていることはただの観光だ。都会に出て来た田舎者みたいに、その辺の店から店を飛び回っているだけにしか見えない。
 こうしている間にも、フランドールが道端のタブロイド売りに絡みつき顰蹙(ひんしゅく)を買っている。ユカリはユカリで悠長にため息を吐き、慌てた様子もない。
 「おっちゃん。それとこれとあれ、一部ずつ頂戴」
 「あいよ、料金はあっちのねーさんにツケとけば良いね」
 「それで」
 「ちょっと待って、財務になんて説明させるつもりよ」
 「情報収集で良いんじゃない?」
 わざとらしく首を振り、無言で財布を開く。しかし、紙幣を受け取った店主はなおも手を引っ込めない。ただ無言で値札を指さしていた。
 「値上げって? タブロイド風情がなに言ってのよ」
 「ちょっと前までと違って、今は誰もかれも暗い顔をしているからね。こんな、馬鹿らしいことばかりの書かれた紙っきれがよく売れる。嫌なら買わなければ良いんだ。そこのお嬢さんは違うようだけどね」
 売り子の男が、皺だらけの手で指さす。輝く様な瞳がユカリに向けられていた。更に大きなため息を一つ、そして財布に手を掛けた。景気の良い返事にユカリが苦笑する。
 「商売ばっかり上手くなって……」
 「やってみたら意外と楽しくてね。まぁ、多分。読めば分かるよ。ところでそこのお姉さんは誰だい? この辺じゃ見ない顔だが」
 「ウェストチェスターから旅行に来た客人だよ。今時珍しい、ヘッドレス・ホースマンだから、握手でもして貰えば良いんじゃない?」
 「お、おい。なに言ってんだ、あんた」
 狼狽するのはホロウただ一人。不自然なくらい淀みの無い動きで、男は黒ずんだ手を伸ばした。
 「そうか。ゆっくりして行くと良い。歩きまわる場所には困らないだろうから」
 全身に疑問を溢れさせながらも、ホロウはその手を握る。滑らかな感触。肉こそ少ないが、骨は太目だ。斧で断ち切ればさぞ気持ちの良いことだろう。
 大きな疑問と共に、ホロウはその手をまじまじと見る。その先端にあるのは紅いマニキュア。驚き顔を上げると、そこには年若い栗毛の女性が白い歯を見せていた。
 「驚いた。シェイプシフターなんて何百年ぶりに見ただろう」
 それは一度見た者へ姿を変える能力をもったオカルトだ。同種の能力をもったオカルトは各地に存在するが、ホロウの住んでいた土地ではそう呼ばれていた。
 「私はずっと居たよ。貴女が気がつかなかっただけで」
 瞬きを一つ。たったそれだけの間に栗毛の女は消えている。同じ場所に居たのは、小汚い皺だらけの男。
 「それ、一体誰の姿? むさ苦しいから辞めた方が良いんじゃない?」
 「飽きるんだよねぇ。ずっと同じカッコしてると。最近は五十代のヒスパニックがマイブームでしてね」
 「衣装代だって安くないでしょうに。まさかあんた、悪いことやってるんじゃないでしょうね」
 「変なことを言うじゃない。わるいことするのが、私らの仕事じゃなかったっけ?」
 「こそ泥や詐欺は人間の仕事、って言ってんのよ。とぼけてると頭ふっ飛ばすわよ」
 フランドールとシェイプシフターが顔を見合わせて大笑いする。
 「ちゃんと働いて稼いだ金で買ってるんだよ、ほら、これ。おニューの屋台」
 タブロイドを売る移動式店舗を自慢気に見せる。
 「こんな紙くずを高値で売りつけてれば、そら小金も稼げるか。正直、こんなに続くとは思って無かったけど」
 「そりゃ、最初はつまんなかったけどね。なんて言うの? 身の安全と最低限の生活が保障されているなら、最後はやりがいに戻ってくる訳よ」
 「あんたがただの人間ならどれだけ良かったか。全く、ぞっとしないわ」
 男は答えず、不気味な笑みを浮かべてホロウへ紙片を差し出した。お土産だと、男はそう言って屋台を引いてウォール街方面へ消えた。
 「変な奴が多い場所だなここは」
 「そう? あいつはトラブルメーカーだけど、別に珍しくは無いんじゃないかな」
 ホロウが眼でユカリに確認する。意地の悪い笑みに、ホロウは小さな呻きを上げた。
 「見回りねぇ……」
 「不満そうね。だけど、時も場所も変わってしまって、それでも昔と同じように暮らすなんて、可能なはずがないでしょう」
 「私は森の中にずっと籠っていた。偶に迷い込む人間を驚かして生きながらえていた」
 「どうしてその森が切り倒されなかったか。どうしてそんな辺鄙な森に人が入り込むのか。そこに考えを巡らせたことは無かった? そして、あなたを見守っている者達が居たからできたことよ。それが誰なのか、いって欲しい?」
 「あー、言わなくて良い。ジョージの差し金か。ほんっと、お節介なんだから……」
 なにかを懐かしむ様にホロウが目を逸らす。妙齢の女性を思わせる穏やかな横顔がそこにあった。
 「さぁ、次に行きましょう。日が暮れてしまう」
 ユカリはフランから奪い取ったタブロイドを鞄に突っ込み、さっさと歩きだしてしまう。二人の背を追いながら、ホロウは何気なく渡された紙面に目を通し。そして、眼を細めた
 「イマドキのオカルトか」
 ドッペルゲンガー現る。紙面に踊るゴシックフォントが、そんな男の勇姿を綴っていた。




◇◇◇◇


 「ひさしぶりー。元気してた?」
 「おー、フランちゃんにユカリさんじゃないか。そっちの姉さんは新顔だな、観光中ってところか。俺らはいつも元気に決まっているぜ」
 ヒッピー風の男がフード越しに人懐っこい視線を向ける。それは、みすぼらしい外見からは想像もつかない程に生気に満ちた瞳だ。
 差し伸べられた手を握り、ホロウは思わずはにかんだ。
 「はじめまして。あなたはゴブリンね」
 「そうだ。俺はここで、商売をやらせて貰ってる。あんたの連れ達のおかげでね、まぁ、それなりに良い商売さ」
 ホロウの手の中にはパラフィン紙の包みが一つ。ヤニの染み付いた歯をのぞかせたゴブリンが、にかりと笑った。
 「景気の良い時はホワイトカラーが買っていく。景気の悪い時はホワイトカラーとジプシーが買ってくれる。どっちにしても大儲けさ。最近は配達サービスを始めたんだ。電話一本でオフィスから自宅までどこでも持って行きますぜ」
 「遠慮しとくわ。そんなことよりあなた。その怪我はどうしたの?」
 なんでもない。そう言う男の動きはどこかぎこちない。無遠慮に間を詰めたユカリは、男の服をまくりあげた。
 「ちょっとした傷だ、たいしたこたぁねぇ。ちょっと前に気の触れた吸血鬼に絡まれたんだよ」
 血の滲む包帯が腹にぐるぐると巻かれている。かすり傷と言うには、いささか無理のあるそれに、ユカリは眉を潜めた。
 「駄目でしょ、フラン。勝手に出歩いたら。小遣い減らすわよ」
 「小遣い払ってから言えよ。つーか、最近抜けだしてないし」
 「あぁ、フランちゃんじゃない。あいつの髪はアッシュだった。だが……」
 ゴブリンが向ける視線の先にあるのは、キャスケットからはみ出る金糸と紅の瞳。どちらも人形染みた造形だが特段珍しい訳でも無い。
 どことなく雰囲気は似ているかもしれない。まじまじとフランを見つめた後で、男はそう呟いた。
 「ユカリさん。俺らが言うのも変な話だが、気をつけた方が良い。多分ありゃ、大昔の遺物かなにかだ。大方、どこか好事家の倉庫に死蔵されていた棺が、最近になってこじ開けられたんだろう。流れ者が騒ぎを起こすなんて珍しくもないが、吸血鬼となると話は別だ。まったく情けない。あんたらの仕事は増やしたくない。そう思ったんだが、このザマだよ」
 「気持ちは嬉しいけどそれは私達の仕事よ。それに吸血鬼を相手にするなら、少なくとも同格以上の吸血鬼か、武装した一個分隊が必要。ゴブリンのあなた達に対処できないのも仕方がない」
 ゴブリンは首を振る。それから片手の指を全て開き、ユカリへ掲げた。
 「俺らは五人居たんだ。それも、全員拳銃を持っていた。普通に考えて、吸血鬼一人くらいはどうにでもなるはずだった。実際、あの吸血鬼は銃を持ってなかったし、警戒もしていなかった。あの女が居なければ、俺たちだけで対処できたはずだったんだよ」
 「女……、って。もしかして、ちょっとウマヅラのコウモリとか?」
 「いんや。ジャージーデビルじゃない。魔女だ。魔女が俺らを撃ったんだ。あの吸血鬼を守るみたいにして」
 「どうして魔女だと?」
 「拳銃弾が魔術付与(エンチャント)されていた。おかげで一発ノックアウトだったよ。あんなハイカラなことをするのは魔女くらいだろ」
 「吸血鬼に魔女がねぇ……。まぁ、なにはともあれ、夜にでもウチへ来なさい。簡単な手当と部屋くらいは用意するわ」
 「いつもすまないな、ユカリさん。お言葉に甘えさせて貰うよ。フランちゃんみたいな巨大なオカルトが傍にいてくれると傷の治りも早いんだ」
 「ふふん。でしょー? もーっと、褒めなさい」
 調子に乗るな。叱責されたフランが唇を尖らせ、ゴブリンが馬鹿笑いを始める。釣られる様に笑顔を見せるユカリとフラン。それはまるで大昔に置いてきた忘れ物みたいで、ホロウの頬もいつの間にか緩んでいた。
 陽も少し傾く、十月の末のことだ。


 「例えばさ。人が微塵も闇を恐れなくなって。世界中のどこにも居場所が無くなったとしたら。あんたはどうする? 根元から折れた枝と一緒に心中する?」
 「難しい質問だ。潔い奴ならそうするだろうね。でも私は元傭兵だ。まずは、本当に居場所が無いのか探すだろうね」
 夕方の帰り道。住処へ帰る人ごみに混じり、ユカリとホロウが言葉を交わす。
 「終わらない好景気(ニューエコノミー)なんて言ってさ。巷ではそんな噂が流れていたわけよ。技術革新で不景気を遠ざけられると誰もが夢を見ていたのね。でも、実際は違った。いくら通信網が発達して、物資流通の淀みが減ったと言っても、それで景気の循環が無くなるわけじゃない。貨幣経済を採用する限り、不景気は避けられない」
 「確かに。この町は夜でも明るい。闇を恐れないというか、闇なんかあいつらにはもう無いも同然。その上、拳銃までありふれてると来たら。もうどうすれば良いんだか」
 「誰だって野垂れ死には嫌よ。ほとんどのオカルトにとってすらね。だから私たちは考えた。今、人は何を恐れているのか」
 「そして行きついたのがこれってこと?」
 「そうよ。変に見える? だけどね、私達にはもうここにしか行き場がないの。私達はね。こうやって行き場のないオカルトに職を与え、問題を起こしたオカルトを保護し、証拠を隠滅している。そうやってオカルトの居場所を守っている」
 ホロウは腕を組み、小さく唸りを上げている。
 「不満って感じね」
 「いんや。お前たちがオカルトを助けているのは分かったし信じてやっても良い。だけど、お前らの母体は企業だろう? 企業がオカルトを助ける理由はなんだ。言っとくが私は元傭兵だ。義理や人情なんて陳腐な言葉を聞かせてくれるなよ」
 「安心して、お金のためよ。私達は全くの偶然で一致したオカルトと企業の利害の隙間に、たまたま入り込めた。ただそれだけの存在だから」
 フランもユカリもホロウも。誰一人言葉を発しない。沈黙を埋めるのは交差点の喧騒。
 「一旦、戻りましょうか。私達の家に。あなたにもそろそろ決めて貰わないとだしね」




◇◇◇◇


 古びたビルの中には新聞を持った男が居る。簡単なあいさつを交わし先へ進むと、錆びついたエレベーターがあった。三人を乗せたままどこまでも下がる箱。回数表示が消え、代わりに歪な記号が表示される。その扉がようやく開いたのは、ホロウの顔が青ざめはじめた頃だ。
 「ようこそ。私達のオフィスへ。団体はあなたの来訪を歓迎するわ」
 そこは白く清潔な空間だ。吹き抜けになったホールの下では、多くの人が行き交っている。おっかなびっくりといった様子で、ホロウはその床板を踏んだ。
 「ここに居るのは八割が人間。その皆が皆、オカルトのために働いてくれているわ。彼らは経済活動には忠実だから、信じてくれて良い。そして残りの二割。多くはないけど、団体に所属し、オカルトの保護に携わるオカルトも居る。あら、丁度良い所に。おはよう。キルロイ」
 正面から向かってくるのは、背の低いゴブリンのような異形。その鼻は長く、手足は異様に短い。それでいて、どこか愛嬌のある顔つきはまるでどこかで会った事があるような感覚を生む。手だけを振り返し、男はゆったりとした歩調で後方に歩き去った。
 「多重存在のキルロイ。あの子はどこにでも居て、どこにも居ない。落書きが趣味でね、しょっちゅう旅行へ出かけてしまうのよ」
 「キルロイ・ワズ・ヒア? まぁ、言われてみれば確かに見覚えが——?!」
 ホロウの振りかえった先。エレベーターへ続くはずの一本道に男の姿は無い。丁度到着したばかりのエレベーターも空っぽだ。恐る恐る正面を向く。遥かかなたの壁越しに、愛嬌のある顔が覗いていた。彼なりのあいさつよ。ほら、手を振ってる。狼狽するホロウの肩に手を置いたユカリが代わりに手を振り返す。一拍遅れて手を振り返したホロウに満足したのか、キルロイはにこりと笑って姿を消した。
 「オカルトには専任の担当官が一人つく。私とフランみたいな感じでね、あの子もその一人で、私が管理を担当しているの」
 「お前、もしかしてオカルトじゃなかったのか? いや、ずいぶん人間くさかったし、迷ってはいたんだが」
 「まぁ……、少なくとも登録上は人間ですけれど」
 「そうだよ、ユカリはすっごい胡散臭いオカルトなんだよ。私も稀に人かオカルトかどうか分かんなくなるくらい」
 「フラン。あんたって子は……。まぁ、私はオカルトよ。出自が少しだけ特殊で、私自身どっち寄りか分かんない時もあるんだけどね」
 三人が向かっているのは、ホールの最奥。資料室と書かれたプレートの前で足を止めた。
 まっ暗な部屋に明かりが灯される。所狭しと並ぶ棚に収まっているのは数え切れぬファイルの山。ホロウは真ん中の小さなミーティングスペースに座るよう促された。
 「さて。大体はさっき説明した通りよ。私達の母体となっているのはG社。主な活動はマンハッタンを中心としたオカルトの管理及び保護そして、隠匿。簡単に言えば、あんたみたいな流れのオカルトを他の企業に取られる前に回収するのがお仕事」
 「私が協力してるのはご飯がただで貰えるからだよ。つまり、今の時代はオカルトだって寄り集まらなきゃ生きていけないってこと。昔と同じ方法じゃ人に恐怖してもらえないからさ」
 「まぁ、寄り集まった所で。私たちの居場所が奇跡的なバランスで成り立つ利害関係によって作られた事実は揺るがない。ジリ貧ではあるけれど、だからこそ一日でも長生きできるように、あなたには大人しくして貰いたいと思ってる。この居場所は簡単に崩れてしまうだろうから。もっとも、どうするかは貴方次第だけど」
 「言っただろう。質問は選択を与えてからしろ」
 「いいえ。もし断っても、私は別にあなたをどうもしません。強いて言うなら、なにがあっても私は貴女を助けない。それだけです。最も、貴女自身が自ら均衡を崩そうと言うのなら、隠匿と言う形で関わる事もありましょうが」
 脅すとは違う。しかし、ホロウの前にあるのは真意の掴みかねる眼だ。ただ息を飲むことしかできない。机の下で服の裾が引かれる。犯人と思しき者は柔らかな笑みを浮かべていた。
 「ホロウ。ユカリはね、こーんな胡散臭いけどあんまり嘘は言わないよ。ユカリは約束を守る。そりゃ私が規則を破れば怒るし、不機嫌で八つ当たりしてきたり、いい加減な所もあるけれど、最低限のラインは守ってくれる。これまで一度だってユカリは私を裏切らなかった」
 珍しく真剣な様子のフランとは対照的に、黒スーツはなんとも言えない表情を浮かべる。言葉が続くほどに、それは苦笑いに近いものへと変じていった。こそばゆい空気に耐えられず、ホロウは両手を上げる。
 「分かった分かった。私はまた地元の博物館で飼われることにするよ。これ以上ここで暴れたり変な騒ぎも起こさない。だから、そんな眼をするな。安心しろ、私はもう一生分の恋をした。内心は、あいつの墓を参るだけの余生も悪くないと思っていたところだよ」
 「聞きわけが良くて助かりますよ。とりあえず、M社への連絡は済ませておきます」
 「助かるよ。もう何百年帰ってないし、知っている奴は居ないだろうけどさ」
 「大切にされるわよ。貴女がオカルトである限り」
 そうであれば良いけれどね。安堵の表情を浮かべたユカリが、コップの水を飲み干す。
 同様にコップを傾けながらホロウは関心していた。こいつでも緊張するのかと。
 「それにしても恋か。貴女達はよくそんな言葉を使うわね」
 「人間っぽいお前には分からないだろうさ」
 「全くわかりませんよ。なんでそんなものに命を掛けるのか」
 世間話でもするような軽い口調で、ユカリが話す。コップ内の氷を見つめながら。
 「ただ、オカルトと企業の関わりも最初は無邪気な恋だった。そんな噂なら聞いたことがあります」
 「噂?」
 「そうよ、噂話。都市伝説。眉唾ものの与太話。そう思いながら聞いて貰って結構。フラン。後ろの資料、取ってくれる?」
 フランが振り向きもせずに椅子を傾け――血相を変えてユカリが椅子の足を掴みに走ったのは言うまでも無い――、背後の棚からファイルを取り出す。
 机の上に広げられたファイルには、幾つかのレポートと数枚の写真が載っていた。映っているのは、真っ白い防護服を着た男達と年の端も行かぬ裸足の少女。その民族風の装束と完成された容姿は、黄ばんだ写真越しにも分かる非人間性の片鱗だ。土着神。その一種である事は疑いの余地も無いだろう。一九六五年、イースター島にて。走り書きのメモで写真の下にはそう記されていた。
 「私達が入手したのはこの詳細も真偽も不明瞭なこの一枚のレポートだけ。そして史実は放線菌の一種から、長命因子……、いえ、抗生物質が同定されたこと。それが、後に抗癌剤や免疫抑制剤として研究が進められたこと。ただそれだけ」
 だから、この二つの関連について巡らせる思索が推測の域を出ることは決してない。そう続けるにはあまりに真剣な口調だ。ユカリは黄ばんだレポート用紙のスペルを指で追う。
 「経過報告(プログレスレポート)なんて大層な体を取っているけど、中身は土着神と研究者達の交流記録。幼く愚かな土着神が研究者達といかにして打ち解け、自ら身体を差し出すに至ったか。身体の構造や遺伝は人間と大差がなく。しかし、無数のブラックボックスが組み込まれたそれがどれだけ研究者達に笑顔を与えたか。そんなことが綴られています」
 「よほど嬉しかったんだろうな。その研究者達は。新しいおもちゃを見つけて」
 ユカリは無言で首をふる。
 「これは追悼と懺悔の文章です。突然に始まった神力の低下と研究進行の因果関係に気がつきながらも、彼女が望んだから。ただそれだけの理由で続行した自らへの懺悔と言い訳の記録。事実レポートの後半は日々悪化の一途を辿る彼女の容体についてで埋め尽くされています。研究の後半では、日常動作がやっとで奇跡を産むことは殆どできなくなっていたそうです。必要なデータ採取が終わり、検査を中止してもその低下が止まる事はありませんでした。そして、論文が発表され因子が公となった時。彼女は全ての力を失い衰弱死しました。おそらくは、」
 「——あまりに多くの人間から神ではなく肉を持ったただの一個体と認識されてしまったから。だろう? 少し切ないな。そんな方法でしか、そいつは人と触れ合えなかったのか……」
 ホロウの声色に混じる温もり。冷たかったはずの瞳が天井を見上げ、追憶するのは一人の男。ただの傭兵と雇用主。それ以上でもそれ以下でもない関係だったはずの人間の顔だ。
 「普通に考えれば、ボルヘスだかマルケルスだかの影響でどこぞのアーティストが作った創作物よ。本当かどうかなんて。誰にも分からない。むしろ、偽物である可能性の方がずっと高い」
 「それが噂かどうかは置いといて。そんな話を今したってことは、お前はこう言いたいんだろう。今の時代、恋をしたオカルトは解析されてしまう、とかそんなことを」
 そんなホロウの投げかけに、怪しい笑みが返ってくる。
 「意外ですね。あなたは時代遅れの脳筋かと思っていました」
 「失礼な奴だ。生き残る傭兵は、損得計算のできる小悪党か、退治した相手が動揺するくらいの突き抜けた馬鹿かのどっちかだよ」
 「それであなたは?」
 「決まってる」
 二人分の盛大な笑い声に溜息を一つ。ユカリはチューブファイルを笑い転げる吸血鬼に押し付けた。
 「考えても見て下さい。この現代に至ってすら、科学は魔術の一端を解明したに過ぎない。もちろん、結果として魔術以上の出力を得ることはできています。ただ魔術の再現と解明に関しては大企業が湯水のように金を注ぎ込んでも、毛の先程の結果しか得られていない。これは、本当に全てが企業間相互作用の仕業なのでしょうか?」
 「お前はさっきそう言ってたが」
 「その補足ですよ。私としては、あまりにオカルトは複雑かつ非効率的で科学と相性が悪いだけ。だから、膨大な金のある大企業にしか解析できる可能性がない。そうであって欲しいとすら思っています。ですから、これもまた推測です。私は科学者じゃないし、魔女でも無い。ただ少し結界が扱える程度のオカルト。だけどね、結界って奴は。科学で言う量子力学と類似した学問を基盤としているらしいのよ。実際に私が……、部下に結界術を教えるには数学のテキストを使った記憶がある」
 「そーいえば、私の先生もスコラ学派の出張ってた時代は苦労したって言ってたなぁ。あの引き籠りが、わざわざビザンツまで足を運んだって言うくらいだし」
 「暗黒時代は人もオカルトもそれなりに苦労したものよ。まぁ、それはともかくね。ホロウ。これを見て貰えるかしら」
 無数の文字が書き込まれた符が、万年筆の周囲に配置される。紅いリップが紡ぐ数節の式に呼応して、虚空に紋様が刻まれた。数秒後、浮き上がった万年筆は忽然と掻き消える。
 鈍い衝撃。頭の上にあったのは先程の万年筆だ。
 「これば結界術における中等技術『亜空穴』、簡単に言えば、零時間移動(テレポート)よ。これは結局のところ量子テレポート技術の応用よ。結界術を学べば人間にだって使いこなせる。もちろん、科学は量子テレポートの基礎的理論を七年も前に確立しているわ。なのに、量子一つを飛ばせたのがつい三年前。遅すぎるとは思わない?」
 「因みににお前の部下は何年掛かったんだ?」
 「三十年よ」
 「馬鹿なんだな」
 「努力家なのよ」
 そこが可愛いんだけど。隠しきれない笑みをこぼしながら語るユカリにため息が漏れる。
 「亜空穴くらいは大昔から科学に知られているわ。キルロイだって似た様な力を持ってる。シェイプシフターにしたって、その実は極めて精巧なホログラムに過ぎない。だけど、その対応関係に気がついているのが私みたいな平や極一部の変人だけってのは不自然だと思わない? まるで、」
 オカルトのアウトプットはそのプロセスが徹底的にマスキングされているみたいに。
 淡々と告げられる言葉に、ホロウは背筋が冷えた。それはまるで、眼の前の黒スーツから異界が漏れだすような錯覚だ。眼の前の女は別次元から顔を覗かさせているに過ぎないと言う妄念だ。
 「馬鹿な、そんなことができるとしたら。それこそ神だ。空の上でふんぞり返ってる人類の近縁種とは違う。スパゲッティ状の方だ」
 「そうね普通なら不可能。だから私達はこの地球丸ごと。もしかしたら宇宙丸ごとを覆う様なとてつもなく巨大な誰かの世界に住んでいるのかもね。科学とオカルトは交錯しないと言う世界律の元に創造主の作りあげた、世界(ドミニオン)に」
 「……それは壮大な妄想だな。しかもできが悪い。さっきの話と食い違うじゃないか。長命物質は土着神から発見されたんじゃなかったか?」
 「だから言ったでしょ。勘。妄想。噂。私が今しているのは、そんな類のもの。だから整合性なんて適当なのを後付けして合わせれば良い。たとえば、人もオカルトをも超える力を持ってしまった鬼が、人に倒されるために自らを縛るみたいに。現代を生きるオカルトは、人に倒されるために法則を乗り越える力を持ってるんじゃないかって。だからこの後に繋がるのは、拍子抜けするくらいメルヘンチックな言葉よ。つまり、そんなとんでもない力の源泉は恋なんじゃないかって。言うじゃない? 恋する乙女は無敵だって」
 その顔をなんと形容すれば良いのか分からない。ただ少し安堵した。恋なら仕方ない。そう、心から思ったのだ。
 「珍しいねぇ、愛だの恋だの。ユカリには縁遠そうなのに」
 そう言いながらフランは、逆しまのチューブファイルを棚に突っ込む。
 「お子様に言われたくない。まぁ、でもね。あそこの最近の動向を見ていると、そんなことを考えたくもなるわ」
 「あぁ、九月に出たユーカリオンの論文ね」
 「所内じゃそれに吸血鬼が関与しているともっぱらの噂よ。あそこはオカルトを二人も擁していることから、以前から注意は向けていた。だからこそ私は本社に働きかけて、出資と監視を続けていた。なのに、ちょっと資金繰りが厳しくなったからって早々に打ち切りやがって。その矢先にこのニュースですよ、疑わずに居られるものですか」
 「無理にでも出資を続ければ良かったのにね」
 「何度も私は延長を進言しました。でも、あんな小さな企業一つに吸血鬼をどうにかできるはずがない。そう言われてしまったんですよ。そして、私に出資を打ち切る決定書類に判を押させた。えぇ、ご想像の通りなにかあったら私とフランで対処しろって事ですよ」
 「吸血鬼ブランドも堕ちたねぇ。ユカリが最近小遣いを渋るわけだ。吸血鬼に対応するには吸血鬼が一番適当。隠匿にも限度はあるし、理解はできるけどね」
 吸血鬼は確かにずば抜けた力を持つオカルトだ。その羽は大陸を数時間で横断し、腕は山を穿ち、魔力は街を丸ごと飲み込む。だが、そのどれもがありふれた力だ。数時間で地球を一回りする疾風も、山を消し飛ばす強力も、大陸を飲み込むほどの魔力を誇る魔導師も存在する。決して、吸血鬼は無敵ではないし、代替不可能な存在ではない。
 「ねぇ、教えて欲しいんだけど。あんた達にとっての恋って何なの? それは命を掛けてでも遂げなければならないものなの?」
 今度は人間みたいな情けない顔だった。ホロウですらもユカリの様子には戸惑いを覚える。この僅かな期間で、この黒スーツは何度オカルトと人間を行き来するのだろうか。
 自分は曖昧だ。ユカリのそんな言葉を今更になって反駁した。
 「そこのに聞けば良いんじゃないの?」
 「フランはまだ子供よ? 恋なんて分かる訳ない」
 金髪はあいまいな笑みを浮かべている。少なくとも答える意思は感じられない。
 「だって、科学に身を売ったらいずれ死んでしまうのよ。貴女達は、命が惜しくないの?」
 どんな言葉も介さない。ホロウはただ首を振った。
 「だったらどうして——」
 「科学だけじゃない。恋をしたオカルトは例外なく命を危険に晒す。もちろんそれはとても怖いことだ。私は憶病だったから、恋をしている途中ですら何度も逃げ出したくなったくらいだ」
 「なにそれ。だったらやめれば良いのに」
 「逆だよ。どうにもならないことを。それでもどうにかしたいと願ってしまった」
 だから、私達は恋をするんだ。ホロウは胸に手を添えながら答える。そこにあるのはDNAよりも深く刻まれた感情だ。それを扱うにはオカルトは少しばかり不器用が過ぎる。
 「難儀ね。子を為すこともできない身体も、無限と思える寿命も全ては、その不器用を埋めるためのものだとでも言うの?」
 「ああそうだよ。だから、あんた達流に言うのなら、私達を作った奴はきっと眼が悪くて手先ばかりが器用だったんだろうさ」
 一杯の皮肉を籠めて破顔した先、複雑な顔をした金糸がそこにあった。
 「それにさ、いくら不器用とは言え恋をしたからって死ぬとは限らない。可愛いじゃないか。初恋はいつだってほろ苦くて、多少なりとも傷つく。でも、そうやってオカルトは一人前になるのよ。私みたいにね」
 金糸の表情は変わらない。代わりに漏れた溜息はユカリのものだった。
 「お気に召さないって感じね」
 「昔ならともかく。現代じゃそれは殆ど自殺と変わらない。守っているはずのものたちに、堂々と自殺宣言をされて喜ぶ保護者は居ませんよ」
 「まぁ、そう暗い顔をなさるなって。お隣の奴はそうじゃないみたいだから」
 「ありがとう、フラン。貴女は私の癒しだわ……」
 掻き回される髪の毛を意に介さず、フランは壁掛け時計の長針の行く末を見守っている。ほんの僅かに眉を潜めてユカリに耳打ちをした。
 「忘れていた。検診の時間だったわね。気をつけて」
 「うん。ありがと、ユカリ」
 視界の真ん中。フランの背中に揺れる極彩色が、強烈な既視感(デジャブ)を呼び起こす。ぼやけた輪郭へ向けてホロウは口を開いた。
 「知っているぞ。それは検診にかこつけた、サンプリングだろう?」
 「そうだけど、それが何か問題?」
 「上がうるさいのよ。なにせ、集団というものは誠意や理性からは程遠い存在ですから。ポーズだけでもデータ採取をしておかないと抑止力としての価値を失ってしまう。必要なんですよ。たとえそれが魔力減衰を招きかねないとしても」
 もう彼らの居場所はここにしか無いのですから。そうユカリが続ける。
 「もう、私は気にしてないって言ってるでしょ」
 「あぁ、すまん。話が回りくどかった。私が聞きたいのは、そんなまじめな話じゃなかったよ。たぶん、そっちの紫色の口調が伝染(うつ)ったんだ。私がしたいのは、もっと単純で楽しいお話さ」
 悪戯っぽい笑みがフランに話しかける。
 「言えよ、あんたは誰に恋してるんだ?」
 未成熟な美貌に張り付いた笑みが、しばらくの時を置いて再開する。
 「吸血鬼ほどのオカルトが、プライドも何もかもを捨ててそこまで献身するってことは。よほど熱い恋をしているんだろう? 言えよ、私はそういう話の方が好きだ」
 「そうね。あなたは好いた男をおっかけてはるばる海を渡った位ですものね。でも、あんたみたいな、色ボケとフランを一緒にしないで」
 中枢の神経までもが凍りついた。そんな錯覚がホロウを襲う。そこに籠められているのは余りにも濃厚な感情であったように思う。しかし、それを認識する前にそれは雲散霧消していた。
 「私は、自分が好きだよ。かわいい私が大好き。それとあと、私を食べさせてくれる皆も大好きだよ。だから蚊に刺される程度のことなんて、私は深く考えても無いよ」
 ね、ユカリ。それはあまりにも普通の笑み。無邪気で子供みたいなそれ。ユカリが胸を撫で下ろしているのは見間違いではないだろう。
 「だから私は検診も受け入れるよ。それで、私の予算が増えるなら万々歳。多少の魔力減衰なんて安い安い」
 かんらかんらと笑うフランにホロウは呆然とした表情を浮かべた。それは徐々に別のものへと変わっていく。
 「あきれたね。そりゃ、喜んで人に飼われるわけだ」
 とびっきりの笑顔でフランドールは答える。
 「当たり前じゃん。だって私は、働きたくないもん」
 眠たげな顔の女が、苦々しげに笑った。




◇◇◇◇


 おおよそまともな人間なら寝静まった時間。定期的に届くエンジン音の他に生物の活動音が聞こえない室内で、彼女は蒼白いCRTモニタに向かう。かたりかたりとお世辞にも軽快とは言えない歪なリズムで画面上には文章が綴られていた。
 趣味や娯楽でモニタに向かっている訳でないのは、彼女がスーツを着たままであることから分かる。彼女が肉体体に万全でないのは、血走った瞳と、茶色い染みのこびりついたマグが三つ無造作に置かれていることから分かる。しかし、そこまでしても会社のオフィスに留まり続けなければならない理由は、彼女自身にも分からなかった。
 「最近……、忘れっぽくなった気がする。まさか、歳? いやいやそんな馬鹿な」
 椅子に背を預け、彼女が伸びをする。その長く美しい金糸が、重力に従って垂れ下がった。全身にまとわりつく泥の様な疲労感。最期に休暇を貰った日付を思い出そうとして、止める。そんな行為は頭痛を悪化させるだけと気がついたからだ。
 「コーヒー飲み過ぎたわね……」
 波の様に押し寄せる鈍痛に、うんざりしながらもキーボードを叩く作業に戻る。そうしなければならないと、体が訴えていた。泥水の様な意識の向こう側に、明滅する赤ランプとビープ音がある。それに気がつき、手が伸びる前に、それは消えていた。
 「えーっと……、そうだ。報告書の続きを……」
 飾り気のないモニタに表示されているのは、簡素なタイトル。
 『フランドール・スカーレット観察記録20001013』
 数分前の彼女が入力した文章。テキストエディタ付属の汎用フォントが、無機質に情報を記していた。


 フランドールに魔力減衰の兆候あり。
 前回の業務中において、フランドールによる記憶の改ざん(ニューラライズ)が正常に動作しなかった。記憶の改ざんは、吸血鬼の持つ作用機序不明の現象—— 一般に魔法と呼称される——を利用したものであり、副作用が確認されないことから汎用的に利用されている。しかし、確実性には疑問が残り、正常に改ざんが行われない現象は通算で五回目。内二回は今年に入ってから発生している。
 過去の研究から、検体として使用された個体は、次第に魔力が減衰し、オカルト種特有の機能に一部障害が発生する例が報告されている。死に至った例は、一般への公表を伴う事例以外に報告されていないが、今回のことは魔法機能の障害にあたる可能性がある。
 これらのことから、フランドールの研究利用はしばらく控え、作業へ継続的に従事させることを提案する。適度に外部に接触させ、精神面の安定をはかり長く保有することが将来的な利益に繋がると考える。


 「それで止めてくれるなら、苦労はしてないって……、っつ……、頭いってぇ……」
 エンターキーを押して、印刷をする。間もなくして排出された紙束を分厚いファイルに閉じ、棚にしまった。ふぅと一息をつき、冷めてしまったコーヒーを一すすり。何度となく繰り返した気がする動作。いつも通りの激しい頭痛。
 そんないつも通りの動作を繰り返せば思い出せる気がしたからだ。なぜ自分がこんな夜中までオフィスに居なければならないのか。自分はなにをしたいのか。
 「紫様。お時間、宜しいでしょうか」
 言語野への直接入力。バカバカしいくらい丁寧な言葉。理解する前に、心が懐かしさを感じていた。そうだ、それが私の名だ。
 「藍。前にも言ったでしょう。ちゃんと『携帯』から掛けてきなさいって。傍から見たら独り言なのよ。これ。変な人だとおもわれちゃうわ」
 「しかし、この『けーたい』という物にはどうにも慣れません。どうやって使うのですか?」
 「橙に聞きなさいな。あの子なら知ってるでしょうに」
 「いや、しかしですね。私にも主としてのプライドってものが」
 「知らないわ。一度で覚えなかった自分を呪いなさい。じゃ、私疲れてるから切るわね」
 「ちょ、ちょっと待って下さい! 話をはぐらかしたでしょう」
 「あら、ばれてた? えーっと。用件はあれよね。この間頼んで改良して貰ったサブルーチンはうまく働いているかしら?」
 「はい、今のところは辛うじて。しかし、これ程緻密に組まれた式を改変し続けるのは、中々に難しく……」
 「藍。私は貴女を信用している。貴女ならできるはずよ」
 「紫様、それは買いかぶりすぎです。私は、貴女に力を与えられた獣に、」
 「——お願い。私には、もう少しだけ時間が必要なの」
 一拍の間。念話越しにすら、ため息が聞こえる。
 「あれの観察ですか。紫様、お言葉ですが、他にも相手にすべきオカルトはいくらでも居るのでは。そんなもの、迎える前にさっさと消してしまえば良いでしょう」
 「それを判断する時間よ。そして、私はこれが時間を掛けるに値することだと信じている。藍、だから、お願い」
 「承服しかねます。コストパフォマンスとまでは言いませんが、紫様がそのオカルト一匹に構っている時間で、何体のオカルトを救えたか考えたことはありますか?」
 「大丈夫よ。だって私が居なくても貴女が居る。大丈夫よ、貴女にはそれだけの力と知恵を与えてきましたから」
 「勿体ないお言葉です。ですが、紫様が出て行ってからもう五十年です。最近では毎日のように魔界から侵入者がやってきては、好き放題に暴れています。正直、もう私一人じゃ……。頼みます。そろそろ戻ってきて下さい。橙なんて、毎日不安で一日三食、ご飯一杯にメザシ三匹しか食べられないって……」
 「昼間は帰っているし、私のバックアップが貴女でしょうが」
 「ここ数年は全然帰って来てないじゃないですか! 偶に返って来ても、数時間で出かけられるし——」
 「橙にあんたが嫉妬心メラメラで鬱陶しいって言いつけるわよ」
 「——?!」
 声にならない声が紫の脳を蹂躙する。予想通りの反応に、思わず噴き出しそうになった。
 「分かりました。分かりましたよ。やれば良いんでしょ、やれば。はいやりますとも。十年でも二十年でもおまかせあれ。金毛白面九尾をナメんでくださいよ!!」
 顔は見えない。しかし、彼女の顔に浮かぶ表情はまぶたの裏に浮かんでいる。長い付き合いだ。出会った頃とはずいぶん様子が変わってしまったが、動揺した時の反応だけは昔から変わらない。
 「素直でよろしい。」
 声はない。視線と言うのも正しくない。ただ、続く言葉をかみ殺し続けるような息遣いが脳へ届いている。それはまるで子犬の様な気配だ。CRTモニタが照らす部屋にため息が一つ浮かんで消えた。
 「まぁ、年内は少し立て込みそうだけど、年明けにはしばらくそっちに帰るわ。久しぶりに藍のご飯が食べたくなっちゃった」
 「……心より。お待ちしています」
 静寂が部屋に戻る。落差に耳が少しだけ痛い。そんな錯覚をした。
 胸を満たしている懐かしさが、あまりに大きい。何かが溢れてしまわないように、何度も、何度も大きな息を吐いて、ただ余韻に浸った。
 「嫌ね。優雅でなきゃ、多忙に心を殺されるのは人間に限ったことじゃない。私も、精進が足りない。こんな大事なことさえ、偶にだけど忘れそうになるなんて」
 無作法に光りだしたランプに、思わず苦笑する。ユカリはためらわずに受信確認の応答ボタンを押すと、勢い良く席を立った。
 「分かったわよ。フラン。今行くからちょっと待ってなさい」
 ユカリを急かす様に、繰り返し、繰り返し、ビープ音が鳴る。
 今日も家には帰れそうにはない。




◇◇◇◇


 「……まったく。今日も紫様は」
 「また、紫様は出られないんですか?」
 「いや。そもそも呼び出しの音すら聞こえないのだ。故障だろうか……」
 「ちょっと聞かせて貰って良いですか」
 石鹸とマタタビの香りが耳元に寄せられる。その頭を掻きまわしたい衝動を抑え、手元のそれを傾けた。
 「ああ、これは通話中の音ですよ。後で掛け直さないと駄目ですね」
 「不便だなぁ。この『ケータイ』とやらは。同時通話もできないのか」
 手のひらサイズの銀箱を、八雲藍は途方に暮れた顔で見つめている。主のそんな様子に、橙は耐えきれない微笑を口頭に浮かべていた。
 「藍様も中々慣れませんね」
 「むしろ、お前はどうしてこんなに外の機械の扱いに詳しいんだ?」
 「にとりが教えてくれますから。最近こんなのも借りたんですよ」
 小銭やら丸石やらが覗く肩掛け鞄から、橙が灰色の箱を取り出す。手あかにまみれたそれには、河童により施されたたと思しき修繕の跡が無数に残っていた。
 「あー。ゲームは程々にな。お前を山に出しているのは遊ばせるためじゃないんだから」
 「わかっていますよ。だから、今日だって勉強に来たんじゃないですか」
 「そうだったな。ドリルの採点はもう少しで終わる。しばらく、その辺のテキストでも眺めていてくれ」
 「えーっ。もう読み飽きましたよ。『亜空穴』だって先週成功したじゃないですか。そろそろ結界を触らせてくれても良いじゃないですか!」
 「基本が大事なんだ。二年や三年で、理解できたつもりになっちゃいけないよ」
 「そーいう、藍様は。何年でできるようになったんですか?」
 「そうだ、橙。お前でも触れそうなほころびを見繕っておいたんだ、そこの穴を覗いてごらん」
 屈託のない笑顔を浮かべ、橙が空間の亀裂に頭を突っ込んだ。揺れる尻尾の先を眺めつつ、藍は採点の作業へと戻る。胸にあるのは一抹の安堵だ。
 外の世界で理工系の大学生へ向けて作られたそれは、実用性が高く基礎を学ぶにはもってこいのものだ。試行錯誤に埋め尽くされた解答欄に苦笑しながら、藍は筆をはしらせる。出来はまぁ、七割といったところだろう。上々だ。
 「藍様、藍様!」
 不意に届く声が、藍の意識を紙上から引き剥がす。振り返ると、空間からはみ出た尻尾が疑問符を形作っていた。
 「藍様。この数式は何を表わしているんですか」
 橙に任せた位置のコードを想起しながら藍は答える。確かそこは、結界内部の浸透圧を調整する部位だったはずだ。
 だが、一緒に頭を突っ込んでみれば、橙の目はてんで違うセクションへ向けられている。頼んだ綻びはどうしたと聞けば、もう終わったとの返事が返ってくる。確かにエラーを吐いていた箇所は修正されていた。
 改めて橙の視線の先を追う。そこは比較的最近、十数年前に後付されたサブルーチンだ。
 「これは例外処理だよ。幻と実体の境界システムが、中に入れてはいけないものを定義しているんだ」
 「結界に例外……? 現実と幻想のふるい分けは数万行にわたる条件式であらわされています。それじゃ、まるで、迎え入れてはいけない幻想が居るみたいじゃないですか」
 あまりに純粋な瞳を向けられ、答えに窮する。迂闊だったと、心の中で悔いた。
 「藍様は悪い人です。橙は、こうやって紫様の言いつけを守ってまじめに勉強をしているのに、藍様はそうやって楽しようとして。そんなだから、魔神に好き勝手されるんですよ」
 「橙。これはね——、」
 この式神は優秀だがまだ未熟だ、紫様の指示とは口が裂けても言えない。
 言い訳の言葉を探して長期記憶(LTM)にサーチを掛けるも数秒で無駄を悟る。藍は嘆息と共に眼を伏した。
 「そうだったな。お前は異変後の生まれだったな……」
 「異変……、って。何ですか?」
 「いいんだ。お前は知る必要のないことだよ。そんなことよりも——、そうだ。これは私の遊びだ。すまんな。紫様があんまり相手をしてくれないんで、自分でどこまで結界に手を加えられるか試していたんだ」
 「やっぱり。藍様は悪いお人です。なら早く直しましょう。紫様に怒られます」
 「いやいや。橙。橙だって悪いことをしたら、お仕置きを受けるだろう? 今の紫様だって同じだ」
 「でも、これじゃ、吸血鬼さんが中に入ってこれません。困ってるかもしれませんよ、吸血鬼さん」
 その視線に耐え切れず小さな体を抱きしめる。びいだまのような瞳に映り込んでいたのは、なんとも情けない顔だった。
 「——大丈夫だよ。吸血鬼なんて外にはもう誰も残ってない。だから、これは遊びなんだよ、誰も傷つかない。ただの遊び」
 言い聞かせるようなその言葉は、果たして誰へ向けられたものなのか。そんな思考を放棄して、藍は橙の頭をかき回した。




◇◇◇◇


 誰も居ない部屋。コンプレッサーの駆動音に耳を傾けながら、フランは大きく伸びをした。時刻は午後の二時。良い子の吸血鬼であれば、深い眠りについている時間だ。つまり、こんな時間に昼寝をしようとしているフランが良い子であるはずがない。
 フランはごろんと横になると、サイドチェストに置かれていた新聞を手に取る。眠りに落ちるまでの僅かな時間で読書をするのが、彼女の日課だった。
 ぼんやりと文字を追う。大衆に向けて大きなフォントと平易な単語により構成された紙面は酷く読みやすく、眺めるだけで心地が良い。すぅっと眼を閉じようとする前に、視界が影が落ちた。
 「フラン。タブロイドなんて低俗な物を読むのは、頭のおかしいやつだけよ」
 頭上からの声。その主が誰であるかなど、考えるまでもない。そも、過去に室内へ入った来たものは、ユカリ以外に存在しない。
 「仕方ないでしょー。オカルトに関しちゃ、タブロイドの方が正確なことが多いんだから。ほら、こないだの眠そうな首なし騎士(スリーピィ・ホロウ)もここに乗ってる」
 「あらほんとだ」
 ベッドに身を乗り出し、ユカリが覗きこんでくる。
 「キルロイの奴。ホワイトハウスは不味いでしょ……、今度叱っておかなきゃ」
 ユカリの腕から雪崩れそうになる資料にフランは顔をしかめた。
 「あのさユカリ。聞いて良い?」
 「うん? 別に良いけど」
 「暇なの……? 今って業務時間内だよね……?」
 「いや、今日は妙に大人しいから、なにか悪いことでも企んでるんじゃないかと思って」
 後、次の出張についての書類を渡しておこうかと。
 ぽりぽりと横顔を掻く黒スーツの目的が、サボりであることをフランは知っている。胸に抱えている大量の資料と目の下の隈が、どうでも良い――本人曰く、クロスワードパズルの捗る――会議に向かう途中であることを物語っているからだ。
 「やだなぁ、私がいつ悪いことなんてしたのよ。精々が、あなたの財布盗んで分身使って散財したくらいじゃない」
 「惜しい。その後、魔眼を使って紙切れを百ドル札に見せかけて荒稼ぎしてた所を巡回中の警官に見つかって追い回された挙句、ウチの部署総出でもみ消しに行くはめになった所が抜けている」
 「そんなこともあったねぇ。すっかり改心した私には、遠い昔のことだよ」
 「どの口がそんな事を。わたしが知らないとでも?」
 「あっはっは。ユカリは心配しすぎだよ。このくらいのことは誰でもやってる。私は特別大人しいくらいだよ」
 「知った風な口を聞くわね」
 「私の方が先輩だもんね」
 「そりゃ、私はここに来てまだ十年と少しだけど。あなたは、ずっとここで寝てるだけじゃない」
 「失礼な。最近は色々やってるよ。ゲームとか読書とか、ゲームとか、ゲームとか」
 「……甘やかし過ぎたかしら」
 「ユカリって絶対子育て苦手なタイプだよね」
 「うっせぇ」
 不機嫌な横顔に思わず噴き出す。ユカリが来てから待遇が良くなったのは事実だ。衣食住の完備といえば聞こえは良いが、その実は飼い殺し。実験や衣食住以外のことでフランに接触し、あまつさえ娯楽を提供しようと言う物好きはこれまで居なかった。
 「ユカリって変わってるよねー。オカルトのクセに妙に人間くさいって言うか」
 「なに言ってんの、私は正真正銘のオカルト。人間なんて、私達の糧でしか——」
 「あっ、ほらほらこれ見て。夜の街に現れる英雄について書いてあるよ」
 フランが指さすのはタブロイドの片隅。そこはゴシップ好きの者ですら、鼻で笑い飛ばすような、取るに足らない類のそれが載せられる場所だ。
 ため息混じりに覗きこんできた横顔が、眉根を潜める。
 「ええ、聞いたことある。最近そいつのおかげでオカルトを取り逃す事も多いわね」
 「違う。よく読んで」
 そこ記されていたのは、よくある特集記事。知る人ぞ知る噂、夜の街に現れるヒーローの裏側について、そう題された記事をフランは指差していた。前半には夜の街に現れ、人を襲うオカルトを始末するヒーロー。その過去の活動についてを、どこか聞き覚えのある無責任な筆致により綴られている。
 しかし、その中盤に視線が到達した時。ユカリの動きが止まる。そこに記されていたのは太字(ボールド)で強調されたフォント。
 「神隠し(spirited away)」
 聞き慣れない単語を呟いたきり、ユカリは言葉を止めた。
 「なんでもそいつは、殺していると見せかけて、オカルトを別の世界へ飛ばしているそうだよ。ね。面白いよね。もしかしたらそいつ。実はどこかの山間にでも平穏で自然にあふれたオカルトにとっての理想郷でも作ってるのかもね。まるで、私達みたいに」
 それはわざとらしいくらいにおどけた口調。冗談のつもりだった。いつもと変わらない軽口の延長だ。だから、ユカリもいつも通りに呆れるか苦笑してくれると思っていた。
 「……珍しいわね。フラン。貴女がそんなファンタジーな事を言い出すなんて」
 そこにあった顔からはどんな感情も汲み取れない。曖昧で全てを煙に巻こうとするそれに、戸惑いすらも覚えた。
 「ユカリ……? どうしたの。こんなのはただの噂だよ。ユカリもよく言ってる。その口から出るどんなことも妄想とか推測の域は出ないよ」
 「……そうね。悪かったわ。夜の街に現れる英雄には、何度も煮え湯を飲まされてきたから。少し敏感になっていたかもしれない。でも、あなたの妄想は中々興味深いわね。ついでに聞かせて欲しいのだけど、もしもそいつが本当にオカルトを別の世界へ送っているとして。貴女なら喜んで送られる?」
 まさか。フランは即答する。
 「誰一人戻ってこないんじゃ、殺されたのか別の世界へ送られたかの違いがあんまりにも些細よ。理想郷なんて言われても、ただただ不気味でしかない。実際出会ったとして、そんなのを信じるのは、ちょっと頭のおかしい奴だけだよ」
 「ふふ、いつものフランらしくて安心した。……おっと、そろそろ会議の時間だわ。それじゃ、また明日。何かあればいつものスイッチで」
 「はいはい。お疲れ様。あ、約束忘れないでよ」
 「はいはい。次の休みは映画に連れて行ってあげる。でも、その前に次の出張はきちんとこなすこと。いいわね」
 後ろ手に渡された書類を受け取ったフランが生返事を返す。いつの間にか振り向いていたユカリが避難の籠った視線を向けていた。
 「私の貴重な休日を潰すんだからね。そこんとこ、よーく覚えておくこと」
 「はいはい。ほら、さっさと行かないと時間だよ」
 「やっべ」
 慌ただしく去っていくユカリの背を見送り、フランは改めて紙面を広げる。大衆に向けた大きなフォントと平易な単語が、扇動的な記事を綴っている。
 ひとしきりそれを眺めた後、大息を漏らして四肢を投げ出した。
 「頭のおかしくなった奴だけかぁ。……でも、私って。タブロイド読むの割と日課なんだよね」
 不規則に明滅する切れかけの蛍光灯の下。
 伸ばした腕は空を掴むばかり。




◇◇◇◇


 この子を救ってくれませんか。
 耳障りの良い台詞は、言っていて反吐が出そうだった。
 「――カリ」
 そんなものは方便に過ぎず、実質的な切り捨てであることは百も承知だ。
 しかし、選択の余地は殆どなかった。封鎖し放棄された倉庫の奥でそれを見つけた時、周りには同僚の調査チームが大量に居た。そして、彼らにそれを渡す訳にはいかなかった。
 「――ユカリ」
 希少性に利用価値の多くを依存するオカルトを一か所に固めるのはあまりに危険だった。だから、すぐ近所に研究施設があり当時急成長を遂げていた、とあるバイオベンチャーに眼を付けた。
 「——ユカリ。——て」
 仕方の無いことだ。それ以外に選択肢は無かった。仕方がないと納得していた。
 できることは、その子に利用価値を見出す可能性が高い人物を選んで託すことくらいだ。あとは、彼らが理性的であることを祈るだけ。
 「——ユカリ? 寝てるの?」
 土曜日の早朝。ソファで寝転がっていたフランス人にそれを託し、彼女は同僚達の元へ何食わぬ顔で合流した。
 最後に見たのは、朝陽に照らされ透けた銀髪。
 今も胸に残るのは、小さじ一杯程度の罪悪感。
 「……おはよう。フラン」
 意識が現実に戻る。ユカリの横顔を、フランドールが覗きこんでいた。
 ここは二〇〇〇年のマサチューセッツだ。オーシャンサイドではない。寝ぼける頭はそれだけを認識していた。
 「珍しいね。会場で居眠りなんて。同僚に見つかってたらヤバかったんじゃないの?」
 「昨日徹夜だったのよ。おかげでろくでもない夢を見たわ」
 そんな雑談をしながら、スーツ姿の行き交う廊下を歩く。そこはマサチューセッツのとあるキャンパス内。カンファレンスの最中だけあって、かなりのにぎわいを見せていた。
 「でもさ、なんか微妙に生気が無いね。この辺を歩いてる奴らって」
 「そりゃ、次はわが身でしょうから。あのユーカリオンの凋落を見せつけられればねぇ。
ユーカリオン。『EUK-8』の発見で長命研究を経済の土台に押し上げた張本人。だけど、抗酸化物質はデナムハーマンの説に基づいている。当時から疑問点が挙げられ、今では傍流の一つ。沈むのは時間の問題だったのよ」
 「ところが難破したはずの船(フライングダッチマン)が、今度は『134』を乗せて帰って来たってことね。時代遅れだよねぇ。この老化遺伝子説全盛時代に抗酸化物質なんて」
 「提携を打ち切るや否やこれよ、どんな手を使ったのか分からないけど、あの吸血鬼が無関係だと信じきれるほど、私は能天気じゃない」
 視線と指でフランに合図を送る。フランの紅が向けられるのは視界の果て。渡り廊下の途中に並んで立つ二人組。それがなにかを確認し、フランは小さく頷いた。
 「久しぶり。お姉さま」
 「ユーカリオンの講演まで後一時間と少し。だから隣に居るのは……、多分演者のパチュリー・ノーレッジでしょう。思ったより若い。魔女なんて噂は眉唾と思った方が適当かしら。まぁ、それはともかくとして。あれが一人になるタイミングがどこかにあるかしら」
 「あるよ。あいつこらえ性が無いからさ。長くて退屈な講演を最後まで聞いてられるはずが無い。始まったら多分暇つぶしにどっかへ行くよ。人混みを嫌って、静かな場所へ」
 「だと良いけど。まったく、余計な仕事を増やしてくれたのだから、このくらいはサービスしなさいっての」
 「だったら、契約切らなければ良かったのに。ユカリ、結構苦労して掛け合ってたよね」
 「内部的にはどんな理由があろうとも、公には将来有望なベンチャーへ投資した。ただそれだけの案件でしかない。成果無しに契約の延長は不可能よ。個人は自由に動けても、集団だとそうはいかない。それだけのことよ」
 不便だねぇ。興味なさ気に呟く姿は、まるで他人事だと言わんばかりだ。
 「意外ね。あれ、多分お姉さんなんでしょ? もっと気に掛けると思ってた」
 「姉妹って言ったって、もうお互い良い歳だしね。あいつが、どこでなにやってても、あいつの勝手だよ。私がどーこー言うもんじゃない。まっ、そんな貧乏企業に拾われてるって言うのは、ちょーっと同情するけどさ」
 「良い歳って、あんたも十分子供でしょう?」
 あんまりにも軽い口調にユカリが思わず苦笑する。半分閉じたまぶたから見えたフランが、どこか慌てた様子だったのは恐らく気のせいだろう。
 「その点、私は良かったよ。こーんなお金持ちに拾われて、好き勝手できるからさ」
 「好き勝手させた覚えもないし、働かなくて良いと言った覚えもないことを除けば良い返事ね」
 フランが真面目な顔をユカリに向ける。珍しいことだった。
 「ありがと、ユカリ」
 フランがニッコリと笑う。ユカリは一拍も二拍も遅れて返事をした。
 「どういたしまして。珍しく殊勝じゃない。槍でも降るんじゃないかしら」
 「なに言ってんの、私はいつもユカリに感謝してるよ」
 揺れるサイドテールが、構内に設けられた売店の前で止まる。黒スーツの隙間に見えた白い歯が、眩いくらいに光った。
 「はいはい。なんでも好きなモノを好きなだけどうぞ。お姫様」
 子供の用に無邪気に跳ねる姿に、ユカリが思わず苦笑する。鼓膜が震えたのはその時だ。
 「久しいな。ユカリ」
 耳元に掛けられる声。深いあごひげをたくわえた男が、二人の前に立っていた。
 「あなた、なんでここに?」
 「多分、君達と同じだ。噂を聞いて、顔だけでも見ておこうかと」
 「ねぇ、ユカリ。これ、なに?」
 「変人よ。ついでに、私の知り合い」
 「良いの? これ、放っといて」
 「失礼だな。君と同程度にはまともな人間だと言うのに。まぁ、良い、込み入った話になる。場所を変えよう」
 「あっ、私ここのカフェテリアが前から——」
 言語の断絶と共に、世界から色が消え失せた。その灰色の世界に居るのはたった二人、魔法使いの様な男とユカリだけだ。後は全部、忘我の果てで立ち尽くす物体に過ぎない。
 「招かれざる者はただ茫然としているだけです。なにも聞いていないし見ていない」
 「今は昼よ。無茶をするわね。デグレイ」
 「人の見る世界は、全て感覚器を介した電気情報として脳が処理した物に過ぎない。そして科学は世界を体系化する。魔法の様に見えても分かってみればあっけのないこと。私が見ている世界を電機情報として書き起こし、狭い範囲に上書きしただけだ。こんなのはね、とるにたらないことですよ」
 痩せっぽちの顎鬚が、世界の中央でユカリに語りかける。そして踏み出す一歩。革靴に打ち鳴らされた床板は驚くほど明瞭に廊下へ反響する。当たり前だ、この世界には音一つ無い。静寂の中を男は歩いた。銀色の髪へ向けてゆっくりと。その背をユカリは静かに見つめる。
 「最も、私には自分を中心とした範囲に作るのが精いっぱいだ。お前の用に器用なことはできんよ。警戒しなくて良い。これは無害だ。私はただ静かな場所で話を聞いて貰いたいだけなのだから」
 「その言葉が嘘だった時、飛ぶのはあなたの首よ。その点は忘れないで」
 動揺する素振りすらも見せず、デグレイは窓に寄りかかる銀糸の側に立った。
 くすんだ銀髪が窓から吹き込む秋風に揺れている。光に反応して飛散する微量の粒子がチンダル現象を引き起こす。輝きを纏う吸血鬼にユカリは眼を奪われていた。
 「ユーカリオンの吸血鬼が恋をしたようだな。ユカリ」
 いぶかしげな眼が呟く。
 「認めたくはありませんが、おそらくは」
 「大変なことだぞこれは。ユーカリオンはおそらくこの先も吸血鬼の細胞を利用して抗酸化物質の開発を続けるだろう。そこに留まっている今ならまだ良い。そこまでは老化学の延長線上。私のセンスある戦略の一部だ。しかし、問題はその次だな。吸血鬼の持つ驚異的再生力、不死性をもたらす因子を取りだしたとしたら。オカルトをオカルトたらしめる領域を解き明かし、公表をしたとしたら。世界には瞬く間に不死者が満ちる。そこにあるのは、不死の存在を前提としない社会基板と。貧弱な基礎研究に基づく、医療の蔓延だ。そんなものは我々に対する冒涜だ。科学の徒として、それだけは見過ごす訳にいかない」
 「それで、あなたはどうしようと言うの?」
 「オカルトの恋は宿命だ。止める方法なんてたった一つしかない。例えば今、ここで」
 デグレイが銀の髪に手を伸ばす。しかし、その指先が届く前にユカリがその腕を掴んだ。
 「変な冗談は辞めてくださる? 貴方程度の力では、無抵抗のオカルトすら殺すことなんてできやしないんですから」
 「オカルトの原動力。魔力はオカルトへの信仰心とでも言うべきものから生み出されている。人は分かり切ったものに恐怖心も興味も抱かないぞ。丁度お前が、携帯電話をなんの疑問も無くつかいこなす程度に。そうなってしまった彼らが行きつく先は」
 「そうならないように、私たちはあらゆる手を尽くしています」
 ユカリはフランの方を振り返り、言葉を続ける。
 「人の……、法の範囲内で」
 デグレイは大きな溜息を吐き、手の力を抜いた。
 「あの子……、お前の連れていた金髪は人間では無いね」
 「分かりますか。フランドールは吸血鬼です。我が社の所属ですよ」
 「健康的な肌色、髪の毛の艶。どちらもそこの銀髪とは似ても似つかない。お前の仕事だな」
 ユカリは静かにうなずく。デグレイは言葉を続ける。
 「良い笑顔だ。幸福そうだな、このオカルトは」
 また静かにうなずく。
 「だが、死ぬぞ。このままでは間違いなく。オカルトの恋は宿命だ。そして、あまりに人が強くなりすぎたこの世で恋はあまりにも死と近い。例外はない。こいつもいずれは恋をして、無数のオカルトを巻き込んで死ぬ。こんな形だけの幸福を与えても無駄だ」
 そんなことはない。ユカリの言葉を遮るようにデグレイが首を振った。
 「どうして連れて行ってやらない?」
 「……あなたには関係ない」
 ユカリの視線がデグレイと反発する。間もなくして眼を逸らしたのは、ユカリの方だった。
 「こんな渇いた世界だから、こいつらは無謀な恋に走るのだ。だから、渇いていなければそのおそれも減るんじゃないのか。そう、例えば豊かな土地と魔力に溢れた場所。昔彼らの住んでいた場所のコピーでもあれば、きっといつまでも平和に——」
 「なにも知らない癖に……!!」
 全身に激情を纏うユカリとは対照的に、デグレイは怜悧な瞳で分析を続けていた。顎鬚を撫で、デグレイは小さく頷く。
 「そうか。お前がその金髪を手元に置き続けるのは、そう言うことか。お前が銀髪を見殺しにするのは、そういう理由か」
 顎鬚の言葉が、ユカリの胸を締め付ける。
 「ここ以外に世界なんて無い。オカルトはマンハッタンの隙間にしか居場所はないのよ。だからもう、放っておいてよ……」
 頭を垂れるユカリに対し、追いうちを掛ける様に髭は言葉を続ける。
 「そこの銀髪はその世界を否定している。不運なことにそれは吸血鬼だ。ただの自殺で済まないだろう。何人巻き込まれて消えるか想像もつかん。ならばお前のやるべき事は決まってるんじゃないのか?」
 「生きることを望まない生命なんて、今存在している事が矛盾よ。ありえない。だけどね。もしも、それが事実なのだとしたら。それならもう——」
 震えるユカリの手が銀髪に延びる。その指先が、首筋に触れる。
 瞬間。壮絶な悪寒がユカリの全身を巡る。どうしようもない居心地の悪さ。全身を探られるような気配を確かに感じた。無理やりに顔をその気配の元へと向ける。
 そこにあったのは灰白色の世界に浮かぶ、紫色の眼球。
 どうかしたのかと、訪ねるデグレイにより、金縛りは嘘のように解けた。
 「今……、これが動かなかった?」
 「そんなはずはない。事前対策も無しに回避できるほど、私の世界は脆弱ではない」
 「それもそうね……。悪かったわね。私の気のせいだったみたい。
 銀髪の吸血鬼の隣に立つ、生気のない女を見る。他の人間と同じく、立ったまま意識を失っている。魔力の痕跡すら発見できない。どこからどうみても、ただの人間だった。
 「それなら——、どうするんだ?」
 「まだ覚えていたんですか」
 「煙に巻くのは君の得意技だからな」
 「私は、どうもしない。ただそれを止めるだけ」
 「そうか。他人勝手とでも言うべきか、ある種それもオカルトらしいと言えなくはないか。何にせよどう私が思った所で、この問題の主導権はお前たちの側にある。お前がそう言うのなら、私はこの先に起こる事実を受け止めよう」
 「そう言ってくれると助かります」
 革靴の乾いた音を残し、顎鬚は廊下の先へと消える。間もなくして灰白色の世界に絵の具が降り注ぐ。静かな世界は去り、喧騒が戻ってきた。
 「——気になってたんだよね。……って、うん?」
 フランが少し不思議そうに周りを見渡す。当然底には、誰も居ない。
 「ねぇ、ユカリ。今そこに」
 「さぁ、行きましょう。もうすぐ混み始める時間だわ。講演の前にお昼にしましょう。——その、カフェテリアで」
 フランが着いてこない。振り返れば、フランの視線は二人に向けられている。丁度、ユーカリオンの吸血鬼が一人で裏口から出て行く所だった。
 「あっ、ごめん。ユカリ。私、急用ができたみたい。先、行ってて貰って良い?」
 「危なくなったらすぐに行くからね」
 「大丈夫よ。今日は話すだけ。そのために私を連れてきたんでしょ?」
 揺れるサイドテールを見送る。急に不安になっていた。
 「フラン」
 「なに? ユカリ」
 「その……、気を付けて。あなたの分も先に頼んでおくから、冷めない内に、ね」
 「うん。ありがと」
 はみ出した金糸が目一杯に光を反射して、己の存在を主張している。いつもは憎らしい背中が、ほんの少しだけ頼もしく見えてしまう。
 だからかもしれない。いつか見た同僚がそうしていたように。見よう見まねで両の手を胸の前で組み合わせていた。
 神の子でない自分には意味のないことと分かっている。自分に資格が無いことは知っている。それでも何かの間違いで聞き届けられるのならば。彼女が願うのはたった一つ。
 どうか、フランがあの子を救ってくれますようにと。



◇◇◇◇


 室外機がごうんごうんと音を立てている。辺りに人の気配はない。
 「こういうところって。なんだか落ち着くなぁ……」
 薄曇りの空も、こんな隙間空間までは届かない。影に脚を踏み入れれば肌に感じる刺激も幾分和らぐ。フランは日傘を畳み、煤けた赤レンガの隙間を歩く。かつりかつりと響く足音の行き先にあるのは黒い人影。相変わらず人の気配はどこにも感じられなかった。朽ち果てたプラスチック片がぱきりと音を立てて砕け散る。砂利を踏む音が室外機の回転音に混じった。
 「こんなに物があふれてるのに、オカルトはどこにもない。悲しいなぁ。ほんの二百年前ならこのあたりも森だっただろうに」
 室外機に腰掛けた黒い人影が、空を見上げて独り言をつぶやいた。
 「残念。二百年前ならここらはもう開拓済み」
 黒い影の言うとおり、どこを見渡しても緑は無い。あるのは排気ガスに黒ずんだレンガの壁と苔の生えた雨どいだけだった。
 「そりゃ、つまらない話だよ。なにが楽しくて人間はこんな物を作るんだろうな」
 「そうかしら? あなたはそのコンクリートがなにから作られているか知っている? そこのレモンティーがどうして腐らないのか説明できる?」
 「知らないし、興味ない」
 首を振った少女の横髪が、差しこんだ光にさらされる。僅かにくすみ、それでもなお光に透き通る銀糸は息を飲むほどに美しい。座ってはいるが背格好はフランと同じくらいだろう。そしてなによりも、その顔は嫌というほど見覚えがある。
 「その裏にオカルトはあるの。見つけたのが科学者か魔術師かなんて関係ないわ。その時に見つかっていなかったものが、オカルトと呼ばれるのよ」
 「それじゃ、私達は二人ともただのコウモリと言うことになるな、フランドール」
 「ええそうよ。私達はもうコウモリなのよ、だから、偶に血を吸ってぐーたら寝てるだけでも許される」
 久しぶりね、お姉さま。四百年ぶりかしらとフランドールは言葉を続ける。小さな吸血鬼はぷいとそっぽを向いた。ずきりと胸が痛む。簡単に予想できる昔通りの姉だった。室外機横の壁にもたれる。それから続くのは気まずい沈黙。
 「なにしに来たんだよ。今更」
 「聞いたよ。初恋らしいじゃん」
 「なんだ。知ってたのか」
 当たり前だと、フランが告げる。嬉しそうなその横顔が見たくなくて、フランは空を見上げ、わざとらしいくらい弾んだ調子で言葉を紡いでみせる。
 「ほんと。わっかんないなぁ。なんでそんなに死にたがるのさ」
 「お前はお子様だから分からないのさ。この胸の中にある熱い思いは」
 悟った様な。落ち着いた声が、フランの神経を逆なでる。
 「良いじゃない。人に飼われてなにが悪い。楽しいよ。朝起きればご飯があるし、アイロンの当てられた服が枕元に置いてある。欲しいものはメモ一つで配達よ。サイコーじゃない」
 「吸血鬼の誇りも忘れたのか。呆れ果てたぞ」
 「誇り? そんなの、スパイスを付けたって食べられないよ」
 無機質な回転音が戻ってくる。意を決したように、フランは姉を見た。
 「私達は生まれた時から誰にも愛されていなかったけれど、今はもう恨まれてもいない。だったら、もう愛を求めなくたって良いはずじゃない。だからもう後は楽しんで生きれば良い。他の生き物と同じように。この今の世界を。まるで動物(ペット)みたいに飼われながら。そうすれば私達は満たされないかもしれないけど、飢えもしない」
 いつまでもいつまでも楽しく。そう続けるフランにぞっとする程冷たい視線が向けられる。心が霜焼けてしまいそうな錯覚がフランを襲った。
 「私は英雄への愛を遂げる。それは全てのオカルトの望みで。最初に言った通りだ」
 「……何を言っているのか分からない。あんたが今やろうとしている事は科学への加担じゃないか。それでオカルトの誇りを語るなんて、面白い冗談よ」
 「科学への加担? 違う。これは言うならば間接的な叛逆だよ。ミニエー弾とブリーチローダーの登場でオカルトは敗北した。そして、人類は穴倉での戦いを強いられ、戦争から英雄は消え去った。だけど、科学の繁栄した今の世の中を見ろ。人は単純なプログラムと流言に左右される棒グラフばかりに怯えて暮らしてるじゃないか。ありふれすぎた拳銃なんかじゃなくってね。今、人の恐怖を埋めているのは科学ですらないよ。かつてオカルトがそうであったように。科学もまたその役割を追いやられ、内に取り込まれようとしている。だから、私は科学へ加担するんだ。私達がかつて占めていた地位を侵略する存在を駆逐し、私達がこの世界に影響を与えられることを、今一度世界に知らしめるために」
 これはカウンターアタックだよ。息継ぎの僅かな静寂に余韻が反響した。
 「オカルトの地位を侵略した者への一矢を誇りとして胸に抱き、私はついに王子様に抱かれる権利を得る。あぁ、なんて素晴らしい」
 頬を紅潮させた吸血鬼が、忘我と快楽のないまぜになった笑みを浮かべている。フランは背筋に覚える寒気を隠す事ができなかった。
 「どんだけ……、どれだけ優等生なのよ……。あんたは」
 「私は真面目だからな。お前と違って」
 あまりに真剣なその顔を、いつまでも見つめられなくて。フランはそっぽを向いた。
 「いっつもそうだよね。お姉さまは。自分勝手で。無鉄砲で。人の気も知らずに、私の先ばっかり行く」
 「そうか? ついぞ何かでお前に勝った覚えが無いんだけど」
 「でも、最近従者ができたらしいじゃない」
 「そうそう。そいつだよ。今どき珍しい古典的な魔女なんだが、生意気だわ、言うこと聞かないわ、気が利かないわ、本当にろくでもないやつだ。初めての従者だというのに、情けないばかりだよ」
 その後に続いたのは従者に関する悪口の数々。レミリアの顔に浮かぶのは八割の不満と二割ほどの満足だ。
 「私は——」
 言葉の隙間を縫うように、フランが口を開く。
 「ずいぶん、便利な時代になったと思う。娯楽には困らないし、熱いのも寒いのも殆ど無いし、何より働かなくてもご飯が食べられる。お姉さま、私は今、幸せよ」
 レミリアの悪口はまだまだ続く。数分間語った後、はぁ、と一拍を置いてぽつりとつぶやいた。
 「お前は相変わらずだな。相変わらず、吸血鬼の恥さらしだ」
 酷く懐かしい思いがフランの胸を満たしている。それは大昔、あまりに幼く純粋だった頃の記憶。やんちゃで、トラブルメーカーで、大嫌いだった吸血鬼の姿。
 「そうね。私は良い子じゃないからね。それじゃ、私は帰るよ。邪魔して悪かったわね」
 「ああ、そうだな」
 それが胸からあふれだす前にとフランは雑踏へと歩を進める。しかし、雑踏に合流する直前で脚は止まる。目の前に広がるのは光の壁。暗闇に慣れた眼にはそれがあんまりにも眩しい。
 「お姉さま」
 「なんだ」
 あんまりにも眩しいから。目が慣れるまでの暇つぶしが必要だった。
 「どうか、いつまでもお元気で」
 「それは嫌みか?」
 「そうだよ」
 振り返って、べぇと舌を出す。拳銃弾並みの速度で小石が飛んできたので、逃げるように日向へ足を踏み出した。突然に襲いかかる眩しい日差しに慌てて日傘を取り出す。
 「本当にまぶしい。まぶしくて涙が出そう……」
 ユカリの待つカフェが視界の端に映った。




◇◇◇◇


 「おかえり」
 冷えたパスタを目の前に、ユカリが食後のコーヒーをすする。
 「良かったの? もっと話さなくて。四百年ぶりの再会なんでしょう」
 「良いよ、あいつ。なんだか楽しそうだったしそれに、」
 昔から嫌われている。そう続けたフランは寂しげな顔を見せる。しかし、すぐにいつもの笑顔を戻し、パスタに手も付けることもなくメニューを開いた。注文するのはプレーンのホットケーキと、一杯のアールグレイ。
 「ねぇ、ユカリ」
 「なに?」
 「私達って、本当にもうここ以外に行き場がないのかな」
 ぼそりとフランが呟く。いつもとは違う。真剣なそれだ。
 「急にどうしたの? お小遣いが少ないのが不満?」
 「そういう訳じゃない……、けど」
 胸騒ぎをごまかすため、ユカリはコーヒーを傾けた。
 「あのさ、夜の街に現れる神隠し(Spirited Away)の噂ってあるじゃない。そいつは、オカルトを攫って別の世界に——」
 「フラン。都市伝説は都市伝説よ。それを生み出す側の私達が、それに惑わされてどうするの」
 曖昧な笑みを覆う薄い影に、ざわと心が揺れた。
 それは危険な思想だ。
 その思想に染まった吸血鬼は■■しなければならない。いや、その思想に染まる前に■■すべきだ。いいや違う。そうさせないために自分はここに居るんじゃないか。
 脳内に轟く機械的警告音を一笑に付し、ユカリは金糸を真っ直ぐに捉える。
 静止する風と無音のカフェテリア。別世界の孤島に迷い込む錯覚の中でユカリは口を開いた。
 「あなたは今の生活を大切に思う? あなたを慕う仲間達が居る今の環境を守りたいと思う?」
 金糸の束がふわりと靡く。
 「大切な一人のために、その全てを捨ててここではない場所に行く勇気がある? そこが全くの期待外れだったとしても、受け入れる覚悟がある?」
 また、金糸の束がふわりと靡く。先程よりも一層に強く。
 「そこが、大切な人にとっての地獄だったとしても、あなたは支えられる?」
 金糸は答えない。ただ俯いている。真っ赤な瞳を光らせ。なにかを堪える様な。そんな表情だ。食いしばった奥歯が口の端から覗く。十秒。二十秒。もしかたらもっと長く。
 そして、金糸の束は横に振れる。
 「一度逃すとやっかいなことになるわね。期って奴は」
 「……だから頼み直したじゃん。もうすぐ来るって」
 びゅうと頬をなぜた秋風が、ユカリの首をすくめさせた。
 「お菓子ばっかりじゃ、体に悪いわ」
 ユカリが差しだしたサラダを、フランは一口ほおばった。酸味の効いたドレッシングが鼻に抜けたのだろう。くすん、と小さなくしゃみをしたフランが、照れ隠しのように小さく笑った。
 空には薄く雲が掛かっている。いつもと変わらない静かな町並みには、嵐の気配なんてどこにもない。




◇◇◇◇


 低くうねった機械音にベッドを揺らされ、彼女が目を覚ます。固まった関節をぎこちなく動かして首を上げると、かすんだ視界の向こう側に分厚い書籍が見えた。食後に読書を楽しもうとして、眠り込んでしまった結果だ。彼女は一瞬残念な表情を浮かべ、手元のハードカバーを開いた。
 それは幾度となく繰り返された定型的な動作。首に違和感を覚え、くるりと回す。視界には見慣れた部屋の景色が映り込んだ。物が少なく、灰色の壁で覆われた部屋には窓の一つも無い。何度見ても退屈で、だけど同じくらいに嬉しかった。
 次に視界に入るのは七色の宝石。それは折れ曲がった骨の様なものから垂れていた。傍から見れば神秘性や、畏怖を覚えるのかもしれないが、少なくとも持ち主である彼女から言わせれば寝ころぶ時に邪魔なものでしかない。そう、彼女は人間ではないのだ。
 ぐぅとお腹が鳴る。ベッド脇のサイドボードからブラッドキャンディを一つ掴んで口に放り込む。口の中一杯に広がる蕩けるような甘みと仄かな鉄に頬が落ちそうになる。整った顔立ちを恍惚に歪め、彼女は口を開いた。
 「はぁぁぁー。ニートって、さいっ……、こう……」
 「フラン、仕事よ」
 いつの間にか出入り口には女が立っている。
 その呆れ顔も、肌と同化しかかっている黒スーツ姿も。彼女にとっては見慣れたものだ。
 「あ、お帰り。ユカリ。頼んでたの買って来てくれた?」
 普段なら返ってくるだろう、呆れ混じりのため息が聞こえない。
 違和感。恐る恐る振り向くと、無感情な瞳がフランに向けられていた。
 「ゲームはしばらくおあずけよ」
 「どうしてよ。私、最近なんか悪いことした?」
 ユカリが無言で紙束を机に置く。ワープロソフトで打ち出された報告書には、どこか見覚えのある写真がクリップで止められている。そのヘッダに記されていたのは、これまた見覚えのある単語『ユーカリオン』、その動向についてのものだった。
 「噂を、聞いた事はあるかしら?」
 「……うん」
 「話が早くて助かるわ、それじゃ」
 「やだ」
 「なんでよ」
 ベッド脇の丸椅子に座ったフランが、興味なさげにくるりと回る。
 「だってさ、十日前に働いたばっかじゃん。月に二回以上の出勤とかちょっと洒落ならんのですけど……」
 からりからりと打ち鳴らされる羽の結晶。拗ねたように、フランがユカリに背を向けた。
 「フラン。行きたくない気持ちは分かる。だけど、今行かなくっちゃ、あなたにも関わることなんだから」
 「えー。だったら、ユカリがどうにかしてよー。私はここで寝てるからさ」
 なにも聞きたくなかった。できるなら眼を背けていたかった。そこへ行けば、多かれ少なかれ何かが変わってしまう。そんな確信がフランにはあった。
 「大事件だって言ってるでしょ!! あんたらみたいなのが市場に流れたら、あんたを飼う予算だって削られるのよ」
 「それをどうにかするのが、ユカリの仕事でしょ」
 「どうにもならないから、私はこうして——!」
 その声には怒りが混じっている。もっと巨大な感情を押し殺した結果、自分への怒りが漏れでた様な方向性のないそれだ。
 「あなたにできなければ、誰にもできない。そうなったらもう処分しに行くしかない……」
 「なにを言い出すのかと思ったら……」
 それっきり黙ってしまったユカリをフランは直視できない。
 それなりの付き合いだ。見なくても分かってしまう。おそらくこの身勝手な保護者は、大人びた諦めと決意に満ちたそれを浮かべている。これが偏執的にオカルトの保護にこだわる姿を何度も目の当たりにした。己の能力も身分も弁えずに無茶をする背中を何度も見送った。その後は、決まってあらゆる意味でボロボロなったユカリを出迎えることになる。
 これまではボロボロになるだけで済んでいた。しかし、今回はそれで済むだろうか。
 長い長い深呼吸。それから静かに眼を伏してフランは答えた。
 「それはそれは。また、タブロイドの三面が賑わってしまうわね。あぁ、困るわ。また予算が削られてしまう。もしそうなったら、ご飯はどうなるのかな? おもちゃは買って貰えるのかな」
 「ご飯くらいは出ると思うけど、今ほど豪華じゃないと思うし、おもちゃは……、買えなくなるかも……」
 「それは困る。ユカリ、大事なことは先に言いなさいよね」
 「言ったわよ。このニート……」
 目元を拭い、ユカリが小さく笑った。
 嗚呼と心に溜息を留め、フランも笑い返す。
 これでもう後戻りはできない。しかし、これで良い。変わってしまうかもしれない。だけど、すっかり無くなってしまうよりははるかにマシだ。
 「さぁ、行くわよ。ユカリ。明日の私のご飯のために。素晴らしいニート生活のために」
 「いや、準備もあるから明後日出発の予定——」
 「はやくして! 明日の夜に」
 「はいはい……」
 この素晴らしい。私の世界。
 誰にも、何にも奪わせはしない。
 「たとえ、お姉さまにだって」


 沈んだはずの難破船(フライングダッチマン)が、ゾンビを載せて戻ってきた。そんな噂が流れ始めたのは、止まらない株価下落と、ITベンチャー倒産の嵐の最中。
 二〇〇〇年十一月初頭。冷たい雨の降るある日のことだった。












第四章 Annus horribilis?




 自嘲気味にそんな事を言う横顔を、パチュリーは見返した。
 「だってさ、年の初めにはお前みたいなボンクラ従者に叩き起こされるし、首輪なんて着けられてペット扱いされたと思ったら、最後には妹を殺すハメになった。これを最悪と言わずしてなんと言えば良いんだか」
 「知らないわ、そんなのは」
 なおも続くレミリアの愚痴。とても最後まで聞いていられず、パチュリーはさっきコンビニで買った缶コーヒーを袋から出した。部屋の鍵で缶を開き、それを一口。終電を逃し、途中の駅から寒空を歩いて冷え切った身体に、熱が沁み渡る。
 「あんた、苦いのは大丈夫だっけ?」
 「あぁ、無理。違う方をちょうだい」
 吸血鬼が受け取ったコーンポタージュを両手で転がした。
 「ただ、あれは必要なことだった。唯一の不安要素、あなたの妹を殺害することは。あなたの恋を遂げるためにどうしても必要だった。要はプライオリティの問題。そうでしょう?」
 「そうだな。英雄は一人で良い」
 「研究を続ければいずれ妨害には来ただろうけど、来る時期が予想できれば対策が打てる。対策が打てるなら」
 「負けないって? 私の時はずいぶん焦ってたけど?」
 「想定外に弱いのよ。魔女は」
 「便利だな魔女って」
 かすり、かすり、とかすれた様な音が隣でした。アスファルトを叩く音。かすれるような音。アスファルトを叩く音。かすれるような音。かすり。かすり。かすり。虚脱してく胸に耐えられず伸ばした腕には、温もりが返ってきた。慣れた手つきキーホルダーを滑りこませプルタブを起こす。小さな音と共に甘い香りが鼻腔をくすぐった。
 「ごめん」
 「別に」
 美味そうにコーンポタージュを流し込むレミリアを横目に、無言で歩を進める。家のある住宅地までは残り五百メートルほど。街の灯りはもう目の前に迫っていた。
 「肌。焼け無くなったね」
 「さぁ、どうだろう。曇りだったからかも。雨もパラついていたじゃないか」
 「それもそうか」
 「お前こそ、眼の隈が無くなったな」
 「そういえばそうね」
 「私の傍に居るからだよ。濃厚な魔力が漏れているから、身体の負担が減ったんだ」
 「そう。悪いわね」
 「別に」
 冷え切った缶が突き返される。パチュリーはおおよそ先ほどと変らない重みを気にも留めずに、道路脇でそれを引っ繰り返した。いつものことだと言わんばかりの手慣れた動作だ。
 当たり前だ。日に日に食が細るレミリアを前にパチュリーができることなど、気がつかぬフリをする以外にあるはずがない。
 「ねぇ、レミリア」
 だから、声を出してしまったことを後悔した。
 「なんだよ」
 「なんでもないよ」
 気遣いの言葉なんて不要だ。これは夜の王で自分は従者。過度な慣れ合いは誰も幸福にしない。自分は魔女でこれは研究用サンプル。この吸血鬼を殺すためだけに働く知識の奴隷に過ぎないのだから。
 十二月の風が頬を撫でる。帰宅を急ごうと足を早めた矢先、服の袖が引かれた。
 「ねぇ、パチュリー」
 「なんだよ」
 「帰ったらセックスしようか」
 意地の悪い笑みに、長い吐息が重なる。



◇◇◇◇


 骨と皮ばかりの身体が弓のようにしなる。その枯れ枝の様な腕が折れやしないか、屹立する乳頭が落ちやしないかと心配になる。この小さな体のどこにあれ程の力が収まっていたのだろう。生命の出せる力は筋肉の断面積に比例する。本当ならこの枯れ枝は子供を持ちあげるのもやっとなはずだ。そして今のこれは、パチュリーの腕一つ持ち上げられやしない。
 さりげなく腹を押す。整った顔が苦痛に歪む。内臓の修復が間に合っていないのだ。これは飯を食わないのではなく、食えないのだ。だから点滴を受けろと。そうパチュリーが言うと、レミリアは痩せ我慢の笑みを浮かべた。
 「使い捨ての体説って知ってるか?」
 「カークウッドとロビンホリデーの説だっけ? 細胞の品質管理に回せるエネルギーの総量は常に一定であって、このトレードオフが寿命を決めるって」
 丁度パチュリーに覆いかぶさる形。眼の前の貧相な乳房も細い腕も小刻みに震えている。吐息を漏らしその身体を抱きとめてやった。
 「生殖にエネルギーを回すほど、寿命が縮む」
 「違う、生殖器官の品質維持にエネルギーを回したらよ。後天的なものじゃない。まぁ、吸血鬼の子供が希少であるのは事実だけど」
 「そんなのやってみなきゃ分かんないよ」
 「だからするって? 獣か」
 「オカルトが好色であるのは、終わらない生を憂いていつか勇者に滅ぼされることを夢見る心の現れさ。だからセックスしよう、パチュリー。見た目は十代の少女よ。ロリコンのあんたには、不足ないと思うけど」
 「誰がロリコンだ」
 「白々しい。こんな首輪付けて、外を引きずりまわして。今さらなに言ってんの?」
 「それは必要だったからだろうが——」
 吸血鬼の顔が急接近する。
 「二つ良い事教えてやろう。一つ、私は理屈っぽい奴が嫌いだ」
 威圧感のない凄み顔だ。
 「二つ。お前に拒否権は無い」
 「ほんと……、今年は最後までろくなことがないわね」
 からかうような笑い声が耳殻をなぞる。パチュリーを覗きこむのは、露悪的な顔とは不釣り合いに静かな瞳だ。あぁ、こいつはどこまで悪役が好きなんだ。
 いつまでも顔を見ていられず、レミリアを引き剥がしてシーツに潜り込んだ。
 「ねぇ、パチュリー」
 薄い布越しにレミリアの顔が見える。落ち着いたそれは、ベッドの脇に腰掛け窓の外を見つめていた。
 「英雄の胸に抱かれて愛を遂げる。恋をして私達は初めて一人前になれる」
 夜空に浮かぶ真ん丸の月。その月光を帯びてなお、この吸血鬼に昂る様子はない。
 「それこそがオカルトの悲願。それが私の望み」
 それはきっと独り言だ。月夜に照らされた室内から、暗いシーツの内側なんて見える訳がない。だから、微妙に逸れた視線をパチュリー受け止めてやらない。
 「大人にでもなりたいの? 私から言わせれば馬鹿だとしか思えないのだけれど」
 「もう……、子供なのは嫌なんだ」
 寒さに負けたのか、矮躯がシーツに潜り込んでくる。それはごく自然な動作で乳房に取りついた。決して豊満とは言えないそれに、一心不乱に吸いついている。五分、十分。もしかしたらそれ以上。我に返ったかのように動きを止めたそれは、胸に顔を埋め小さく鼻を啜りはじめた。
 パチュリーはただ無言でそれを撫でる。ぎこちない手つきだ。何度も髪に指を絡めて何本が抜けたかも分からない。そんな不器用な慰めでも、数分も続ければ銀糸の声は収まった。
 「だってそうしなきゃ、なにも守れないじゃないか」
 子供みたいにそう呟いたきり、レミリアが言葉を発する事はない。
 その後はただの獣だ。言葉も思考も介さず、肉体だけで語らう時間だ。そして疲れ切った頃に二人は、ベッドの中に倒れ込んだ。
 夢も見ないくらい、深い眠りへつくために。




◇◇◇◇


 真冬だと言うのに汗を含んだシーツが肌にはりついている。
 気持ちの悪さよりも、泥の様な疲労が勝っている。寝返りを打つてば、隣に感じるもう一つの温もり。一足先に眠りへついた彼女が何を見ているのかわからない。うなされていることを考えればろくな夢ではないのだろう。
 脳はしきりに睡眠を求めている。この眼を閉じればすぐにでも休眠へ移ってしまうだろう。それが、彼女には気重で仕方が無かった。
 今日もあの夢を見るのだろうか。そんなの分かるはずもない。しかし、最近見るのはそればかりだ。だからきっと、今日も似た様な夢を見るのだろう。
 ろくでもない夢だ。
 寝返りをうったのか、細い腕に身体を包まれる。仄かな熱を背中に感じる。
 情けない。安堵と共に。彼女は眠りへ落ちた。
 そして夢は始まる。いつもと同じ夢。時は先月。二〇〇〇年十一月。場所はユーカリオンの倉庫。
 夢の始まりは停電から。


 全ての社員が帰宅した後、警報システムも消えた倉庫の中でレミリアは確信めいた予感とともに客人を待っていた。
 一時間、二時間。もしくは十分か二十分。ともかく、レミリアがまばたきをする間にそれは忽然と現れた。
 張り付いた様な笑顔に対し、視線で座る様に促したレミリアはその場を立つ。
 明滅する蛍光灯が照らす倉庫の中、まもなくして硬質な音が断続的に響きはじめる。音の中心にあるのは、白磁のカップと黄金色の液体。段ボール製の机に並べられたそれを、向かい合う二人は何を言う事も無く見つめていた。
 レミリアの取り出した小瓶に、闖入者の視線は釘付けになる。紅で少しどろりとしたそれが揺れる度、小瓶の隙間から洩れる臭いがそうさせているのだ。
 傾けられた小瓶から雫が落ち、黄金色の王冠を作る。渦を巻く液面を紅い雫がなぞると共に、芳醇で香ばしい香りに野暮ったいそれが混じっていった。
 「ずいぶん上手くなったね。昔はお湯だって沸かせなかったのに」
 「言っただろ、従者がへったクソでね。自分で淹れないとまともな紅茶も飲めやしない」
 「それは災難。ユカリは上手なのに」
 金糸のサイドテールがソーサーでカップを打ち鳴らす。私ほどじゃないけど。そう付け足して、フランドールは笑った。
 「二人で茶を飲むのも久しぶりだな」
 「えぇ、お姉さま。遊び回ってばかりでお茶の時間にほとんど居なかったものね」
 「あれはマナーに煩い奴が居たからだ。紅茶なんて、自由に楽しんで飲めば良いんだよ」
 「人前以外ではね」
 「人なんて居ないじゃないか」
 金糸がけらけらと笑う。レミリアは釣られた様に小さく笑う。
 「変わったね。昔のお姉さまはもっと子供っぽかった」
 「お前が子供なんだよ。いつまで経ってもね」
 レミリアが一気にカップを傾け、残りを流し込む。しばらく部屋を無言で満たした。
 「ねぇ、これ私の勘なんだけど。多分、私達同じことを考えてると思う」
 「奇遇だな。私もそう思っていた」
 二人の吸血鬼は立ち上がり、各々に伸びをする。筋を伸ばし、牙を磨き、羽を広げる。
 同時に開かれる口。重なる声、そして、視線。
 互いに驚いた様な顔をして、そして笑い会う。それはまるで、
 「気が合うわね。仲の良い姉妹みたい」
 向かい合った二人がにっこりと笑い、部屋の反対側へと離れて行く。
 「どうしてお前は私の死を願う?」
 重なる声が、部屋の中央でぶつかって消える。
 「主に私の、恋路のために」
 「どうしてお前は私の死を願う?」
 またもや繰り返された言葉が、今度は共鳴し蛍光灯の一つを震わせる。
 「主に私の、生活のために」
 紅い光が、暗闇を照らす。




◇◇◇◇


 真冬だと言うのに汗を含んだシーツが肌にはりついている。
 気持ちの悪さよりも、泥の様な疲労が勝っていた。
 寝返りを打つ、隣に感じるもう一つの温もり。一足先に眠りへついた彼女が何をみているのか分からない。小刻みに震えている所を見るにろくな夢ではないのだろう。
 身体は疲れているのに、脳が休眠を受け付けない。コーヒーを飲み過ぎたのだ。眼を閉じたところでちっとも睡魔はやってこない。それが、彼女には気重で仕方が無かった。
 背中の震えが大きくなっている。居ても立っても居られず、その背をそっと包んでやった。震えが静まり、それは小さな寝息を立てる。それに釣られる様に彼女も眠りへ落ちた。
 そして夢は始まる。いつもと同じ夢。時は先月。二〇〇〇年十一月。場所はユーカリオン最寄りの駅近く。
 夢の始まりはサイバーシティを出た辺りから。


 ユーカリオンの最寄り駅からそれ程離れていないと言うのに、まるで人の気配が無い。ホームレスのたむろする路地裏にも、非生産的な営業を続ける雑居ビルにも、人の姿が見えない。笑ってしまうくらいあからさまな視線が背中に突き刺さるだけだ。少しだけ歩調を早め、角を曲がるタイミングで元へ戻す。もう何度目かも分からない探りにも関わらず、背後の気配は馬鹿正直に一定の距離を保っていた。
 歩きながら思索に耽る。端的に彼女は困り果てていた。いつまでたっても視線に動きが無い。路地に追いこむ訳でも無ければ、他の仲間を待つ様子もなかった。このまま駅に着いて電車に乗れてしまった非常にまずい。折角の準備が無駄になってしまう。ポイントは一キロも過ぎてしまったと言うのに。
 胸の内にため息が宿ることを感じつつ、パチュリーは角を曲がった。努めて無防備に。煮え切らない追跡者だ。温室育ちのイエネコにだって採れると錯覚させられるくらいでなければいけない。
 選ぶ道はなるべく人通りが少なく、細いものを。誰の目にも付かず、逃げ場も無いような路地を選び続けること五分。遥か背後の曲がり角に、突如として気配の主があらわれた。隠そうともしない敵意と共に。
 「こんばんは、ユーカリオンの魔女さん」
 蒼白のアークライトに浮かぶ光の島。中央に立つのは黒いスーツを着た紫髪の女。
 「はじめまして。MIBさん。真っ赤な口紅でおめかしなんてして、どこかへ出かけるんですか?」
 「とても大事です。なににも代えがたいくらい、大切な。だから、」
 ここで大人しく拘束されて貰えませんか。そんな丁寧な口調とは裏腹に、輪郭を歪ませる程の膨大な魔力が女から滲みだしていた。コンマ数秒後、周囲の空間に亀裂が走った。
 形を為した亀裂が、空間に紋様を刻む。正方形を幾つも組み合わせ東国の言葉が綴られたそれは、パチュリーの周囲を取り囲み怪しげに明滅した。一瞬膨れた四角が魔女へ向けて殺到し、そして砕け散る。
 「驚いた。本当に魔女だったんですね。それも中々やる」
 「そう? こんな使い捨ての障壁。不意打ちを防ぐくらいにしか仕えない。魔術は本来戦闘には不向きだから。ところであなた、このあたりの人払いはちゃんとやってるんでしょうね?」
 「もちろん。お金と少々の実力行使で皆さんホテルに泊まっていただいます。スイートではないけど、一流のそれ。不満はないかと」
 だったら安心と続け、パチュリーは拳銃を引き抜く。続けざまに四発、黒服の眉間に向けて放たれた弾頭は、そのどれもが白い肌を抉る前に運動エネルギーを失った。揺らいだ空間が不可視の壁の存在を暗示する。
 「これの恐ろしさはよーく知っているから。これを受け止める結界の作り方は特に良く研究した。まぁ、専用の結界を使って尚数発耐えるのがやっとなんだけど」
 「え、マジ?」
 五発目の銃声が轟き、空間に無数の亀裂が走る。舌打ちとともに黒スーツが飛び退いた。
 「ほんとだ。凄いね。今度教えてよ。色々便利そうだ」
 「あ、あなたがそれを使うなんて想定外だったけど。それが分かったのなら、私はそのつもりで動くだけ」
 肩で息をする情けない姿とは裏腹に、黒スーツが纏う魔力は増大し続ける。そのありえない魔力量に内心舌を巻いた。純粋な容量だけなら間違いなくレミリアを上回る。
 「凄いね。なにもの?」
 「オカルトよ。オカルトを守るのが趣味なだけ」
 「私を襲ってるじゃない」
 「聞き分けのない子供にはお仕置きが必要だと思わない?」
 「あー。確かに。私そいつに凄い心当たりがある」
 「なら話が早い。私と一緒に、あの夢見がちな馬鹿のお尻を叩きに行きましょう」
 差し伸べられた腕を一瞥し、パチュリーは鼻で笑う。
 「お断りよ。あんた、子供を叱るのが下手そうだし、それに——」
 無警戒に女は笑っている。まるで底の見えない余裕に満ちた表情だ。
 先ほどの短い時間で読み取れた情報は僅かだ。能力の性質はどんなものだろうか。作戦の成功率はどれほどか。一体どれ程の実力差があるのだろうか。その思考の各々に答えを出し、そして破顔。パチュリーが浮かべるのは、女に負けないくらいに余裕の笑みだ。
 「私がお前を足止めするんだ。勘違いするな」
 左手で抜いていた拳銃を一発。砕け散る結界の破片を突きぬけて飛来するのは無数の光だ。わずかな熱しか持たないはずのそれに地面のアスファルトが抉られていく。頬を掠める小石に、パチュリーは息を飲んだ。
 まだまだ情報が足りない。ポイントまで逃げられる確率を上げるために、可能な限り不安要素をつぶさなければならない。それが彼女の答え。目下の目標はただ一つ。生き残ること。
 「端から期待はしてない。安心して。私はオカルトを守る側の存在。貴女の命は奪わない。ただ少しの間、眠ってもらうかもしれないけれど」
 「それは残念ね。私、昼間にコーヒーを飲み過ぎちゃったんだよね」
 真冬だというのに頬に一筋の汗が流れる。眼の前に居るのは間違いなく吸血鬼に匹敵するバケモノだ。身体能力が劣る部分が唯一の救いかもしれないが、それはパチュリーも同じこと。絶望的な差が多少ましになった程度に過ぎない。
 悪態をこらえて地面を蹴る。年始の吸血鬼と言い、このバケモノと言い。どれもこれも魔術等で相手にできる存在ではない。三百年以上の時を生きながら、これ程の規格外に立て続けに出会うのは生まれて初めてだ。
 「ほんっと。最悪ね、今年は。いったい私がなにをしたって言うのかしら」
 ポケットの中の魔導書片で障壁を貼り直し、パチュリーは糞尿の匂いがする裏路地に飛び込んだ。
 コンクリートの壁越しに感じる気配は急ぐ様子もなく近づいてくる。逃がすはずがない。恐らくはそんな確信を持たせるような能力が、あれには備わっているのだ。例えば零時間移動(テレポート)に類似したなにかが。
 足もとで光が炸裂する。飛んで逃げようにも、頭上は無数の光弾が展開されていた。弾幕魔術。大昔の記憶を引っ張り出し、頭上のそれを分析する。
 「無茶苦茶ね。まるで二十一世紀を前にした時代の戦闘とは思えない」
 「拳銃の扱いが得意じゃないのよ。言うじゃない。本当に大事な時ほど使い慣れた技術に頼るべきだって」
 「はっ、月へでも行きたいの? そんな無茶な魔力の使い方をして、ガス欠になったって知らないわよ」
 「ご心配どうも。ただ、私。魔力貯蔵量には自信がありまして。多分、一晩くらいなら問題ないかと」
 頭上を掠める弾丸を地に伏してかわし、ポリバケツを倒しながら駆け出す。そんなことを数回繰り返して気が付く。このオカルトは、わざと急所を外している。
 無数の弾は殆ど目晦まし。本命が狙うのも足のみ。甘い奴だと唾を吐き、拳を握りこむ。
 情けなかった。そんな者を相手に逃げることもままならないのがパチュリーと言う魔女だ。ほぞを噛みながら半ばヤケクソ気味に発砲する。無数に飛来する光の中を、乾いた音が切り裂く。ほんの一瞬。頭上には暗い夜空が戻っていた。
 それに気がついたとき、パチュリーの足は自然と止まっていた。
 「あら、足止めするつもりになったの?」
 「ええ。忘れていましたが、そろそろ反撃の一つもしないとあいつに怒られるかと。逃げてばかりで、さっきみたいに零時間移動(テレポート)でもされると面倒だし」
 「あらばれました。と、言う事はもしかして、フランがユーカリオンに潜入していることもご存じなのかしら。フランを送ったのも私なんですけれど」
 「ええ。そのために流した噂です。そして、そんな便利な能力を持ちながら私に奇襲をしなかったのは、何らかの制約があるんじゃないか。私は今、そんなことを考えている。例えば——」
 乾いた発砲音とともに、光弾の雨が鎮まる。その一瞬の隙に、パチュリーは女の脇を駆け抜けた。
 「零時間移動中は無防備な姿を晒すとか」
 空間に浮かぶ亀裂を前に、女が小さく笑った。
 「仕方ないですよ、『狂想穴』はこの場所では使えませんからね」
 魔術は望みを全て叶える魔法の技術では無い。系統樹上の理論に基づいて発生する現象だ。だから、あれは弾幕と障壁を同時に張る事ができない。
 「あなたが零時間移動しようとするなら、即座に私が撃つ。だから、このゲームのルールは単純よ。逃げる私を捕まえて愛しの姫君の元へ辿りつければ貴女の勝ち。そして、レミリアがフランドールを殺すまでの間、襲ってくる貴女を凌ぎ切れば私の勝ち。分かりやすくて良いでしょう?」
 「そうね。とても分かりやすい。だけど、一つ勘違いをしているわ」
 「私はフランドールを助けに来たんじゃない。貴女を殺しにきたのよ。気狂いの魔女さん」
 女の背後で魔法陣が歪(ひずみ)を貯める。それがおどろおどろしい亀裂へと変貌した直後、焼き付くような感覚と共に頬に雫が流れた。
 殺到する光弾の雨を前に、パチュリーは口元が僅か緩むことを感じる。




 ◇◇◇


 「良い月ね。お姉さま」
 「ああ、この辺りは旧工業地帯だが研究施設が主だしそれほど密集していない。マンハッタンなんかより、よほど綺麗な夜空が見える」
 私もこの月は好きだ。レミリアの呟きに、フランは深く頷いた。
 「それで、どういうつもりだ。月を見ようなんて。戦場にはふさわしくない行いじゃないか」
 「まぁ、まぁ。そんな殺気立たないでさ。長い現代生活で私もお姉さまも万全とは言えない状態でしょ。今日は満月。月光を浴びてスズメの涙ばかりの魔力を補給しても罰は当たらないって」
 「まぁ、それもそうか」
 その言葉の通り今のところフランからは殺気の片鱗すら感じられない。だから二人は今、缶入りのポタージュスープを間に置いて、屋上の縁に腰掛けている。もちろん、ユーカリオンの施設を傷つけたくないというのもあるのだが。
 羽の魔力結晶が触れ合うたび、透き通った音が闇夜に響く。両足をぶらつかせる姿はまるで無防備に見えるが、これが全く油断ならないことをレミリアは知っている。
 「満月は私達に魔力を与えてくれる。あの月の上にはなにがあるのかな」
 迂闊にもフランが伸ばした手のひらの先を直視して思わず眼を伏せる。久々に見た満月は長い引き籠もり生活の身によく染みる。
 「プラシーボだよ。あそこにあるのはアポロ計画の残照と砂だけさ」
 以前、夜遊びからの帰り道でパチュリーがそう言っていた。
 「分かんないよ。人間には見えないし入れない裏側の月があったりして」
 「じゃあそんなものは存在しないな。私にはなにも見えない」
 「お姉さま。月って地球からじゃ半面しか見えないんだよ」
 「全体の五割も観測できるんだ。もう半分を推測するには十分過ぎるサンプルだろう」
 パチュリーがそう言った時の自慢げな顔は今でも良く覚えている。あんまり悔しくて記憶に残っていたのだが、フランはと見ればかみ殺したように笑いながらポタージュを手に取るだけだ。
 「懐かしいなぁ。そのお姉さまの自慢げな顔。根拠なんて微塵も籠ってないあたりも昔のまんまだ」
 「喧嘩売ってんのか」
 「いんや。懐かしんでるの。何百年ぶりなんだから良いじゃない、このくらい」
 「なにしに来たんだよ。お前」
 「お姉さまを殺しに来たんだよ。……っと。そう言えばお姉さま。お姉さまはさ。なんで私に死んでほしいの?」
 「なんでって……。そりゃあんた決まってるだろ。私はこのクソッ垂れた世界で英雄の胸に抱かれる。オカルトの悲願を果たすんだ。だって言うのに、妹が人間に飼い殺されているなんて。あんまりに可哀そうじゃないか」
 だから殺してやるんだよ。そう続けるレミリアを出迎えたのは、ピンク色の舌をのぞかせ、まぶたの下側を捲りあげたフランだった。
 「ふざけんなって?」
 思わず脱力しその手のポタージュをぶんどった。
 「いんや違う」
 存外に落ち着いた声。先ほどまでの軽薄なそれとは決定的に異なる色がレミリアの前にある。
 「そういう自分勝手なところ。お姉さま全然変わってないねって」
 斜向かいのビルを見るフランの目はあまりにも優しく穏やかだった。胸の奥に灯る温もりに気がついた時、レミリアは頭を抱えた。これではまるで久々の再開に喜ぶ姉のようではないか。
 「でも、それが迷惑なんだよねぇ。私は今の生活が好きだからさぁ。あんたに勝手なことされて、予算でも減らされたらたまったものじゃない。なにするのも勝手だけど、せめて一人でやって欲しいんだよねぇ」
 だから、安堵した。この嫌味な気配は。隠し切れない殺気の片鱗は。これまで散々煮え湯を飲まされてきたそれだ。
 「格が下がるんだよ。夜の支配者たる私たちが飼われてどうする。生きているとは言えないよ。そんなのは」
 「あんた。ほんっと~、に自分勝手だよね。私とは大違いだ」
 「お前に言われたらお終いだ。流石に少し反省しようかと思うよ」
 胸の中に心地の良い怒気が生まれ始めたことを感じる。仕掛けるタイミングは近い。そう思い始めた矢先のことだ。またしても、落ち着いた声が静寂を破る。
 冷えてきた手のひらを温もりが包み込む。
 「ねぇ、お姉さま。噂話をしましょう」
 フランに手を握られている。ただそれだけの事実が、レミリアの体を貼り付けにした。
 「確かにこの世界からはオカルトの居場所なんてとっくの昔に消え去っている。控えめに言っても、科学やら経済やらに支配されてしまったクソッ垂れた世界よ。だけどね、ここではない場所があったとしたら。そこはここと同じ環境なのかしら」
 真っ白になった頭で、レミリアはそれを聞いている。開いた左手で、フランがポタージュをひと啜りした。
 「もしもそこが人の干渉を受け付けず、中世の自然と魔力を保持したままだとしたら。そこでは既に何百と言うオカルトが移り住んでいて、昔と同じように静かに暮らしているとしたら。そこに混じって私達も、自然に囲まれた森で昼寝して、お屋敷でお茶を飲めるとしたら。お姉さま、貴女なら——」
 不意に途切れた言葉がきっかけだった。訴えるような視線を無視して残りのポタージュを全て胃へ流し込む。空のスチール缶が、硬い金属音を立てた。
 「興味が無い」
 はっきりとそう告げ、レミリアは手を振り払う。
 「どうして?」
 「だってそんなもの、私には必要ないじゃない」
 無言で見つめ返すフランを、レミリアは鼻で笑ってみせた。
 そんなものは噂に過ぎない。ただ、自分の中だけで否定するのは不安だっただけだ。
 「私に必要なのはただ一つ。英雄様の腕の温もりだけだよ」
 頭はすっきりとしている。夢から覚めたような、淡く抱いていた願望を目の前にして安堵したような。そんな感情があるだけだ。
 「ほんと……、自分勝手。自分勝手に……」
 フランから怒りが立ち昇ることを感じる。だが、それも仕方のないことだ。
 「人のことばっかり」
 そも、別の世界があろうが無かろうが。レミリアには関係が無いのだから。




◇◇◇◇


 下水の匂いが鼻をつく。都会は魔女にとって過酷な環境だ。ましてや走るなんてとんでもない。大昔に興味本位で作った丹薬が残っていなければ今頃喘息で倒れていただろう。
 「本当。ろくでも無い場所よね。ここは」
 ポイントへ続く曲がり角。パチュリーの記憶が正しければその袋小路の最奥に、あれはある。
 「空気は悪いし、身の程も知らず襲いかかってくる人間が山ほどいる」
 弾幕をかいくぐりながら、パチュリーは逃走を開始する。
 まっすぐの直線をはいずるように駆けて、駆けて、駆けて。アクトミオシンを限界まで収縮させてそれを飛び越える。
 「だけど、——」
 振り向きざま。殺意の籠った弾幕を薄氷の傾斜障壁をもって受けとめる。砕け散る魔力片が髪に絡まった。
 「危ないな。死んでしまったらどうする」
 「そう思うのなら、今すぐ両手を上げて論文と関連する試験データを破棄すると誓いなさい」
 「断ると言ったら?」
 「さっき言った通りよ。あなたを処理して全てを隠滅する。どうするのが一番利益を大きくするか。魔女であるあなたには分かるはず」
 袋小路の入り口。相変わらず気配には怒りを伴っているが、口調にはそれを抑えようとした形跡が認められる。交渉は可能だ。冷静な魔女はそう判断した。
 「どこかの馬鹿と違って魔女は損得を判断できる。だから、断るに決まってる。私あの吸血鬼に呪いを掛けられちゃってさ。裏切ったら殺されるんだよね」
 「その点は問題ない。貴女の身の安全は私が保証する。あの吸血鬼はね。急に現代に触れてしまって気が動転しているだけなの。しばらく眠らせて、ゆっくり慣らせばきっとこの世を楽しむようになるわ。フランみたいに。信じてくれて良い。私達は全てのオカルトの味方だから」
 「ずいぶん寛容なのね。あんまりにも都合が良くて。うっかりしていたら首を縦に振ってしまいそう。でも、私の答えは変わらない。魔女は慎重なのよ。今会った相手、加えて殺意を向けてきたやつの言葉を、裏付けも無しに信用できない。それに、私一度やってみたかったのよね。吸血鬼の解剖って」
 予想通り頭へ向けて飛んできた光弾は、身をよじって回避した。オカルトは概して単純だ。行動を読むのは難しくない。女もそれに気がついたのだろう。殺気はそのままにゆっくりと近づいてくる。その無数の銃口を喉元に突き付けるために。
 「あなたは自分のやっている事を自覚しているの? 確かに貴女は気休め程度の糧食を得られるかもしれないけれど、その代わりに何万という人間が職を失い、数百のオカルトが魔力減衰で飢渇にあえぐ。そうなれば私達の保護下にあるオカルトだってやがては同じ運命を辿ってしまう」
 「その言い方は、自分たちに従っていれば平穏に暮らせると取れてしまうんじゃない? 笑わせる。規模が少し違うだけよ、私と貴女は。やっていることにどれだけの違いもない。企業間の経済的均衡の隙間にオカルトをねじ込むって言ったって、人に管理されたオカルトが恐怖されるはずがない。恐怖されないオカルトは減衰するだけよ。そんな袋小路を指して、なにが平穏。なにがオカルト保護団体」
 女を挑発するための言葉は、しかしその足を止めてしまう。想定外の動揺を隠し、パチュリーは静かに後退さった。
 「袋小路? ジリ貧? これはそんな生易しいものじゃない。これはね、砂上の楼閣よ。人間と私達の利害が、いまこの瞬間偶然にも一致しただけ。だから、守らなければならない。どんな汚名をかぶっても。どんな犠牲を払ってでも。この世界にオカルトの居場所はもう残っていないのだから」
 静かな声色でありながら、その顔に浮かぶものはあまりに痛切。誕生日にプレゼントが貰えないと聞いた子供のそれを前に、パチュリーはほぞを噛む。
 「だからと言って助けてくれと頼んだ覚えはない。現に私は魔力を補充できている」
 「……そう。だから、あんたの助けは要らない。迷惑だと。貴女もそう言うのね」
 「その通りよ」
 どうして。泣きそうな、そんな印象をパチュリーは受ける。実際には何かを押し殺した、胸の奥から吐き出される声だ。気がつかれないように一歩だけ足を引く。
 「大した理由なんて無い。そうね、結局のところはクソッ垂れでも、最悪と思いながらも、慣れてしまえば存外に嫌では無いのよ。通勤ってやつも。科学ってやつも。ユーカリオンと言う場所もね。だから、私はその代償を理解した上でユーカリオンを数年ばかり延命させることを望む。それで、逆に聞くけれどあなたの与える楽園とやらは、誰が望んでいるの?」
 「フランは、生きられることが嬉しいと言ってくれた」
 「なんとかに付ける薬は無いってね」
 膨れ上がる魔力を検知しパチュリーは銃を構える。そうすればあの女は障壁へと魔力を回すため、攻撃ができない。予測ではそのはずだった。だから、適当に狙いをつけて引き金を引いた。
 直後、胸に衝撃を覚え、パチュリーの体は紙屑のように吹き飛ぶ。フェンスにぶつかってようやく止まった身体はまるで言うことを聞かない。
 「私だって、予測の一つくらいはする」
 霞む視界の向こう側、袋小路の中ほどに明滅する光の島に人影がある。突如として猛烈な嘔吐感に襲われる。滝のように溢れ出す吐しゃ物は鮮血の色を帯びていた。
 「肋骨……、やられたかな……」
 立ち上がることもできないパチュリーの元へ、その人影は歩み寄る。満身創痍の自身とは対照的に、その足取りは確かだ。弾が掠ったらしく後ろ髪のバレッタが破損している程度で、黒スーツには乱れ一つない。
 「狙いもせずに撃った拳銃弾なんて、当たる方が難しい。ましてやこんな夜道では。そんなことを忘れていた私は。確かに馬鹿かもしれません」
 冷たい目がパチュリーに向けられた。逃げようにも足は動かない。だから、這った。あの場所の後ろへと。
 「さぁ、ここまでよ。ユーカリオンの魔女さん。勝負は私の勝ち。だけど、私は正義の味方だから。選ばせてあげる。ここで死ぬか。すべての研究データを破棄するか。あんまりにも簡単な選択だと、個人的には思うけどね」
 返事の代わりに銃口を向ける。殺到する弾丸はしかし、虚空の亀裂に当たって静止した。続けて二発、三発。障壁の崩壊を悟り、女が身をよじると同時にバレッタが砕け散った。
 小さな声が漏れる。絹のごとき髪が電灯にさらされる。青白い光の島にそれは浮かんでいた。
 その身体は病人を思わせるほどに華奢で、
 その横顔は童話から飛び出した様に美しく、
 それとは対照的なくらいに生気が無い。
 アーク灯に透ける長い髪は、グラデーションでも掛けられたみたいに輝いて見えた。
 魔女の様な妖艶な笑みを、パチュリーは浮かべた。
 「ねぇ、噂話をしましょう。夜の街に現れる英雄のお話を」
 「それが助けに来るとでも? どっちにしろ手短にお願いしたいわね。フランが待っていますから」
 「そいつは、夜に人を襲う悪いオカルトの前に現れて、人を救う。これは下らない都市伝説だけど、あまり知られていない続きがある。実は、夜の街に現れる英雄は二人居て、一人は哀れ獲物となった人間を救っているのだけど、もう一人は退治すると見せかけてオカルトを楽園へと導くことで救っている。そんな下らない噂」
 「ずいぶん詳しいのね」
 「ちょっと知り合いに似たようなのが居てね。だから、私はそいつの名前まで知っている。その英雄もどきの名前は——」
 神隠し(Spirited Away)。
 倍音が袋小路を満たす。紫色の瞳が霞んだ視界に浮かんでいた。
 「東の国は『神隠(かみかく)し』と呼ばれる者。それが私の正体。でも、よくわかったわね。黒いスーツと長髪だけで」
 「単純な消去法よ。子供にだって分かる理論。だって、私にオカルトを助ける趣味は無いもの」
 そしてパチュリーは笑う。無防備に、女へ警戒をすることもなくただただ笑った。呆れ顔に殺気がこもり始めた頃合いで、やっとパチュリーは女へ向き直る。
 「さて、確信も持てた所で、楽しい楽しい長話はここまでにしましょう」
 「それは良い心がけね。勝負はあなたの負けで終了。早く選んでもらえると助かります」
 「いいや。私の勝ちで終わりだよ」
 女の足元に文様が浮かび上がる。無数のルーン文字が刻まれたそれは瞬く間に女を取り囲み、体へとまとわり付いた。
 大気が震え、風が流れ込む。天空には無数の亀裂が走り、場違いな山が顔を覗かせる。夜はまたたくまに、昼へと変わり。木枯らしは春風に駆逐されていく。見渡す限りの森と渓谷が、周囲に広がっていった。
 彼女の世界が、夜の街に上書き(オーバーライド)されていく。




◇◇◇◇


 フランドールとは昔から仲が悪かった。
 その証拠に記憶をどれだけ遡っても、喧嘩をしていた場面ばかりが思い出される。
 「別の世界なんて、お前らしい夢想だよ。フランドール」
 理由なんて覚えていないが、多分悔しかったのだと思う。親にも騎士見習いにも呆れられるくらい何度も喧嘩をしたはずなのに、勝った記憶は一度も無い。
 「夢でなにが悪いのさ。私達はその正体だよ」
 「少なくとも殺し合いの前にするような話ではないな。興が削がれそうだよ」
 フランドールは強い。
 母親譲りの魔力と父親の強靭な肉体を色濃く受け継いだ上に、魔術の才にも恵まれている。
 父親の肉体しか受け継がなかったレミリアと比べれば、魔術の扱いには天と地の差が付いてしまった。
 明晰な妹とお転婆な姉。昔の自分はそんな揶揄を何度鼻で笑い飛ばしただろうか。
 「真面目に聞いて」
 眉宇を釣り上げたフランドールが目の前に居る。そんな顔が酷く懐かしく、冷たい笑みでも浮かべなければざわつく心を静められそうになかった。
 「真面目に聞く要素なんて何一つない。もうこの世界にはオカルトの住む場所はない。タブロイドの読み過ぎだ。幻想郷なんてオカルトだ」
 「どうしてそんな事が言えるの? 私から見れば夜の街にあらわれる英雄も、MIBも実在しているって言うのに」
 「私も見たからだよ。この一年間でいろんな所を見て回った。コンクリートでできた林に地下を走る列車。何度も立ち入り禁止の看板を乗り越えたり、下水の匂いがする場所に足を運んだよ。そのどこにも切れかけの蛍光灯がついていた。闇なんてどこににも無かったんだよ、フランドール。この排気ガスにまみれた薄墨色の空がかつて私達の生きていた世界。そこは科学に侵略されて消えたんだ」
 なんにも無いんだよ、フラン。伸ばした腕の先で、薄雲が月光を遮り、仄かな星灯りが取り残されている。何か返事がある訳ではない。予想通りの顔でフランは空を見上げるだけだ。だったら別の世界に行こうと。そう言わんばかりの顔で。
 それは、噂に流される夢想家か、それとも盲信の気狂いか。どちらにせよ、レミリアが告げるシンプルな事実が変わることは無い。
 「フランドール。お前は聞いたことがあるか。夜の街には英雄が現れる。そんな下らない噂のことを」
 「当たり前。私を誰だと思ってるの。だから、その続きも知っている。その英雄は——」
 「——実は、オカルトを退治すると見せかけて別の世界に送っている。そこは中世の魔力と自然に包まれた山間部で、何体ものオカルトが暮らす楽園だ。そして、そいつの名前は、神隠し(Spirited Away)、その主犯」
 びいだまの眼が見開かれ、数度のまばたきが時を刻む。
 「よく知ってるね。私達みたいなのか、よほどオカルトマニアでないと知らないと思ってたんだけど」
 知らないはずがない、その親戚が身内に居るのだから。知っているからこそ、それに夢なんて見ることはない。思いを胸にレミリアは瞑目した。
 「神隠しはどこまで行っても神隠しなんだよ。フラン」
 「神隠しでもなんでも良いじゃない。そこに可能性があるのなら」
 願望ばかりが先行する。そんな視線をレミリアは感じている。
 「誰がそれを観測するんだ。一度入れば二度と出ることは叶わない。外から内側を観測することも叶わない。そんな場所の中身をどうやって判断すれば良い? 五割どころじゃない。たった一つのサンプルもないんだ。それが暗黒郷(ディストピア)か、理想郷(ユートピア)かなんて。あんまりにも些細な違いじゃないか」
 「いいえ違う、ユカリはそんな奴じゃない。ユカリの作る世界が。そんな非情なものであるはずがない」
 俯いたフランから搾り出されるのはあまりにも一本調子な悲嘆の声。
 「いいや、違わない」
 懇願するように伸ばされた腕を払いのけ、レミリアは冷たい目を向ける。それでもう、確信してしまった。
 「もし仮に、そこがお前の言う楽園だったとしたら。私はそんなのお断りだ」
 「どうして? 豊富な魔力、豊かな自然、平穏な日常。そのなにが不満だというの?!」
 「全部だ。私はそんなの、微塵も欲しくない」
 それをフランが知らないはずがない。だから眼の前のこれは、安易な絶望に身を任せ夢想を盲信する妹だったなにかだ。紅の奥に灯るそれを一瞥し、レミリアは長い息を吐いた。
 「フラン。お前は狂ってしまったな」
 「ええそうよ。でも、それが問題だとでも言いたいの?」
 妙に心は落ちついていた。加速度的に膨れ上がる殺気は心地よくすらある。
 「私達は吸血鬼だ。そして私はスカーレット家最後の当主。だから、例え世界の燃え滓の上であろうとも。私は優雅に踊らなければならない。居ないはずの勇者をでっちあげて、パートナーを務めさせてでもだ」
 だから大きな問題だよフランドール。絶対零度の声に呼応したかの様に、歪な宝玉の一つが砕け散る。溢れだすのは空間を揺るがす程のふざけた魔力だ。小世界の創生と終焉を三度繰り返しても到底使いきれない魔力なんてものは、主神級の暇人だけが持つことを許されたはずだ。
 その理由をレミリアだけは知っている。
 オカルトだからと見過ごされ続ける羽の中には、小宇宙が収められている。
 それは、彼女の師匠が託した積層型魔力結晶だ。中世を生きた無数のオカルトに、吸血鬼の濃厚な魔力が青天井に蓄積され続ける。両羽合わせて十と四。その全てを帰依させた時、吸血鬼は現実を超越するだろう。酒の席でそんなことを呟く魔術師の横顔をレミリアは知っている。
 魔術師曰く、昼の支配者。
 魔術師曰く、吸血鬼の終着点。
 魔術師曰く、オカルトの最終兵器。
 それは吸血鬼から見てもバケモノだった。
 「そんなのは不可能よ。だって、貴女の眼の前には私が居る」
 あふれだす膨大な魔力が頬の薄皮を消し飛ばす。しかし、未だ心は水面のごとく静かだ。子供の頃、何度も脚を震わせたはずのそれに、今は平然と立ち向かうことができる。その事が嬉しくて仕方がなかった。
 「どうにもならないことが分かっていて。それでも動かずにいられない。お前だって分かってるだろう」
 「私は子供だから分かんないよ。そんなこと。私に分かるのはお姉さまが笑っちゃうくらいの優等生だってことだけ。だけど、予言してあげる。あなたの命ひとつなんかじゃ、願いは何一つ叶わない。忘れたとは言わせない。私はこれまで一度だってお姉さまに負けたことないのに」
 その言葉は事実だ。ほんの僅か身体能力で勝る以外に、すべての面でフランドールが上回っている。一人の力ではどうにもならないことをレミリアは嫌というほど知っている。
 「いいや勝てる。どうにもならないことをどうにかするための力を。お前から身を守るための力を、私は借りている」
 躍り出た黒金が、禍々しい緋色の中間を捉える。
 一瞬の間を置いて、静寂を乾いた音が切り裂いた。




◇◇◇◇


 「ずいぶんとのどかな理想郷ね。あの木造建築は極東のものかしら」
 吹き抜けた薫風に、鼻の奥が少しうずく。二百年前の森だってこれ程濃厚な香りでは無かっただろう。風に紛れて飛んでくる花粉は自然の魔力を帯びていた。
 崖の上から世界を見渡すパチュリーの背に、鋭い視線が突き刺さる。
 「幻想郷(げんそうきょう)だ。私の……、私だけの世界……」
 「ゲンソウキョウ。そう、良い名前ね」
 地平の彼方。天にそびえる山から、カラスが飛び立つ。遠近法を冒涜し、自在に空を舞う姿は、間違いなく現実ではありえない。
 「どうやって日本へ……」
 「ここは日本じゃないし、もちろんマサチューセッツでもない。貴女の中よ。壊れた魔道具を使って、貴女の世界を強制的に開かせて貰った。修復にあなたの魔力を使わせて貰ってね。まぁ、一時的なものだし、貴女の魔力を吸い尽せば自然にこの世界も消滅するでしょうけれど」
 地面に転がる女の頭上に無数の魔法陣が浮かび上がる。しかし、そこから放たれる光弾は数メートルも持たずに霧散した。その魔力の行先は銀時計。女の真上に浮かぶそれが、発生する魔力を端から全て吸い上げていた。
 「心配しなくても、命なんて取らない。私はここで貴女がすっからかんになるのを見ているだけ。世界が消えたらそれでさようなら。私はユーカリオンに戻る。あなたはここでおやすみなさい」
 恨みは買いたくないからね。続けるパチュリーの言葉に、光弾の勢いは一層強まった。
 「諦めが悪いわね。こんな魔力ばっかり使って派手なだけの花火で何ができるって言うの」
 やがて光弾は止む。後に残るのは、小さな。本当に小さなすすり泣く声。
 どうにもばつが悪く。パチュリーは頬を掻く。
 「あー、あれよ。ずいぶんきれいな場所じゃない。見たところ貴女は本来、定点に世界を構築するタイプみたいだし、これの本物が日本にはあるのよね?」
 女は泣くばかりで答えない。
 「あなたは少し勧誘が下手だけど、まぁその内に良い噂が流れればみんな来てくれるわよ。だから、そんなに落ち込まないで良い……、んじゃない、……かな?」
 不器用な笑顔を女が見ることはない。涙が止まり春風の音だけが世界に満ちただけだ。
 「だめ……、だった。何度試しても駄目だった。最初はうまく行っても、必ずどこかでこの世界は破綻する。それは、魔人の暴走だったり。狂気の蔓延だったり。時代遅れの吸血鬼だったり」
 腫れた目と泥にまみれた顔が向けられる。
 「私はただオカルトを救ってあげたかった。それなのに、貴女達はいつも私の手を拒む……。みんな言うことは同じよ。恋がしたい。もう人間に英雄なんて一人だって居ないって言うのに。ねぇ、教えて欲しいんだけど。どうにもならないことを、それでもどうにかしようとする。それが、あなたたちの恋だとでも言うの?」
 「私にはよく分からないんだけどさ、オカルトって多分みんな子供なのよ。子供だからみんな必死で大人になろうとして背伸びの恋をして、大やけどする。どっかの誰かさんみたいにね」
 「どうすれば貴女達は……、幸せに生きられるの……」
 その問いの答えをパチュリーは持ち合わせていない。彼女は元人間の魔女だ。魔術と科学以外に目を向けてこなかった彼女が、恋のいろはなど知るはずもない。
 ごまかし半分で見上げた空にブロックノイズが混じっている。天空からそびえ立つビルが、幻想の終わりを告げていた。
 「わたしはあの辺の裂け目からお暇するわ。貴女はお仲間にでも拾って貰えば良い」
 昼に紛れ込んだ真夜中の路地へ向けて、パチュリーは進む。女の声が鼓膜を震わせたのは、丁度アスファルトを踏もうとした時だった。
 「あなた、もしも私が悪心を抱いていたらどうするつもりだったの? この世界そのものが、入ったもの全てに敵意を向ける様なそれだったら、」
 「死ぬわね。私も、レミリアも」
 「あなた、まさか」
 ユカリの瞳孔が開く。絶望を見る様な眼だ。死人に向けられるそれだ。
 「なに言ってんの、あの子は殺されるために戦っている。そんでもって私は、死なせてやるために助けてる。どっちにしたって目的は達せられる」
 簡単なロジックよ。そう続けようとして、戦慄が走った。天空のブロックノイズが地面に落ちる。連鎖崩壊を始めた世界のはざまで。パチュリーは立ち尽くした。
 「だめよ、だめ……。オカルトが英雄の真似事なんて」
 マスキングが剥がれるように、その矛盾は既存の知識を浸食していく。
 「私は……、魔女よ。魔女は知識を求める。これまでも。これから先も。ただそれだけ……」
 今のパチュリーにできることはただ一つ。逃げることを置いて他にはない。
 背後では空を飛ぶ烏天狗が風と同化し、集落が砂となって崩れる。太陽が月に飲み込まれると同時、裂け目の向こうへ魔女が消えた。
 「さようなら。オカルトの救世主さま」




◇◇◇◇


 「初めてだよ……、お姉さまに喧嘩で負けたの……」
 「当たり前だ。このくらいは。恋する乙女は無敵なんだから」
 「でも卑怯だ……、銃を使うなんて」
 「お前だって使ったじゃないか」
 腕の中にあるのは妹の身体。掌にあるのはその心臓。何度これを燃やしただろうか。しかしようやく限界を迎えたのか、身体は羽の先から灰へと変わり始めている。青い炎で心臓を包みながら、レミリアはその金髪に指を通した。
 「だけどね、お姉さま。恋ってそんなに辛いの? そんなに悲しいの?」
 「あぁ……、辛いよ。悲しいよ。必死で堪えていないと、涙が出てしまいそうなくらい」
 「それでも、恋を遂げたいの?」
 「当たり前だ。それが私達の。一人前のオカルトの証なんだから」
 頬に温もりを感じ。思わずそれを手に取る。腕の中のフランが薄くほほ笑んだ。
 「そっか……、お姉さま。私はやっぱり子供だ。そんな辛いのとても耐えられる気がしない。寂しくって多分泣いちゃうよ」
 「そうだな。お前は昔から泣き虫だ。苛められているお前を何度助けに行ったかなんて、とっくの昔に忘れてしまった」
 「お姉さまがぼっこぼこにされて、私が助けるまでがテンプレだったよね」
 「そうだな。格好悪かっただろう? あの時は子供だったんだよ。子供の私は弱くて、とても情けなかったから」
 まっすぐにレミリアを見つめて、フランが首を振った。
 「嬉しかった。格好良かったよ。あの時のお姉さま。そして、今のあなたは強い。凄く強い。私も家族もみんな。纏めて守れそうなくらいに。いつかのお父さんみたいに」
 もうその身体は六割以上が灰へと変じている。軽くなっていく腕の感触に比例して、胸の奥が重くなることを感じていた。それが何かなんて、わかるわけがない。
 「そんな顔をしないでお姉さま。あなたは立派よ。こんな世界に居ても絶望すらせず、オカルトの夢を追いかけるなんて、誰にでもできることじゃない」
 「ああ、その通りだ。だからお前は安心して逝け。私は最後まで見ていてやる」
 ひと際強く抱きしめ。その頬を撫でる。こうしてやらねばフランが不安を覚える。そう自分に言い聞かせながら。強く強く。ほとんど上半身だけになってしまった身体を抱きしめる。
 「大丈夫よ、お姉さま。貴女は本当に良い子。だから——」
 消失した肺は声を紡がず、空しく動く唇だけが残る。間もなくして、レミリアの手のひらで最後の一片が灰へと変わった。
 満月の夜に降り注ぐ滴を見たものは、誰も居ない。




◇◇◇◇


 『——お父様に必ず、また会えると思う』
 声にならない叫びと同時に、彼女は飛び起きる。鼓膜を震わす小鳥のさえずり、肌を刺す乾燥した空気。朝だ。ぼんやりとした頭のまま何気なく目元を指でなぞったら、空色の結晶が指先に付着した。
 「なにやってんだ。私は」
 不健康な魔女の眠りを妨げないようにベッドを抜け出し、洗面台へと向かう。冷水の滴る顔を拭おうと頭を上げた時、それは眼に入った。
 「まるでお人形だとか、良く言われたけど。なるほど確かにそうだ」
 初めて見たそれが存外に幼かったことが彼女の心に影を落とす。出征前に部下を鼓舞する父親のそれとは似ても似つかない。
 胸に広がるのは藍色の情念。
 吸血鬼としての性質が失われる度に寂しさは募るばかりだ。頭痛の種だった厄介な制約に、こんなにも愛着を覚えていたことは、彼女自身も意外だった。
 だから、その口元から笑みを零させたのは、あくまでも鏡の中の姿である。
 「受け継いだのは髪色と眼だけか」
 愛おしげに手櫛を通す彼女の鼻を擽ったのは、嗅ぎ慣れた香り。
 臭いを辿って部屋に戻ると、目を覚ましたパチュリーがティーカップを傾けていた。差し出されたそれを受け取り、一口啜る。水みたいに薄くて、カルキ臭かった。
 「だったら自分で淹れろ」
 無気力な指がポットから引きあげて見せるのは、紙パックに入る茶葉。時間の無い朝なのだからインスタントに決まってる。そんな意味が籠められているのだろう。
 「口に合わなければ飲まなくて良い」
 へっぽこ従者が命令も無しにお茶を淹れてくれるようになったのはつい最近のこと。
 仄かに温もった胸はその何百年ぶりの感覚か、色水の様なカップの中身のせいか。返事の代わりに一息で飲み干し、流しへとカップを放り込んだ。
 パチュリーとの関係は主従ごっこだ。呪いで従わせただけの仮初の契約に過ぎない。そんな事は理解している。
 それがどんな心情の変化があったのか。あの夜の一件以来まるで本当の従者のように尽くしてくれている。嘘でも真でも、嬉しさを覚えないはずが無い。父はこの位置に居たのだから。
 時計を見る。出勤までにそれ程の余裕は無い時刻だ。ずずと音を立てて飲み干したそれを流しへと放り込んだ。昨夜の疲れが残っているのか身体が鉛のように重い。出発までもう一寝入りしようと踵を返した時、背中に視線を感じた。
 「なんだ? 私の顔になにか付いてるのか?」
 「レミリア。その……、身体とか。辛い所があったら言いなさいよ」
 「大丈夫だ。この身体のどこにも問題は無いよ」
 「……そう」
 純粋に嬉しかった。恋を遂げることに後悔はなくても、不安は少なからずある。逃げ出したくなる弱い自分を支えてくれる者が傍に居る。それがどうしようもなく心強かった。
 「気持ち悪い。なにをニヤついてんのよ」
 そんな心の内がいつの間にやら溢れていたらしい。
 「なに。運命と言うものを信じてみたくなったんだ。オカルトが科学に敗北して以来、最悪以外の何かがあったことなんて無いけれど、こうして最後の最後にお前と巡り合えた。私を狩るために現れた強欲な魔女が、まさか英雄の下に送り届けてくれるなんて、最初は思いもしなかった」
 「私は私のためにやってるだけよ。あなたの呪いから解放される。ただそれだけのためにね」
 曖昧な笑みを返しておく。投げやりな言葉だ。本心でないことは瞭然(りょうぜん)だ。決して長くない付き間いだが、一番身近な存在だ。パチュリーが素直な言葉を苦手とするのはよく理解している。だけど、
 「そういえばそうだったな。魔力の強かった頃に掛けた呪いだ。多分、今でもちゃんと働いているはずだ」
 それが分かって尚、心は痛い。一度は引っ込んだ不安が胸に溢れてくる。弱い自分を押し籠める為に、彼女は精一杯胸を張って見せた。
 「パチュリー。命令だ。私を一人前のオカルトにしろ。私を暴き、クソッ垂れた世界を引っ繰り返して、私を英雄の腕へと導いてくれ」
 「当たり前でしょ、そうしなきゃ殺されるんだから」
 ちょっと顔洗ってくるから、あんたも服着といてね。パチュリーはそんな言葉を残して欠伸をしながら洗面台へと向かった。その背が消え、水音が届いたと同時。
 天地がひっくり返るくらいの目まいが彼女を襲った。どうにも立って居られずベッドに倒れ込む。
 「なさけないな。私は。たった一人の部下の前でふんぞり返るのが精一杯か」
 ぐるぐると回転を続ける視界に眼を開けていられず、仕方なしにまぶたを閉じる。左右も天地も分からない暗闇の世界。誰も居ないはずのそこに居たのは、地面に蹲る小さな子供だ。それが誰かなんて考えるまでも無い。父親と家族を失った夜。留守を任せれたのに、誰一人守れなかったあの日の吸血鬼だ。
 「そうだ……、私が子供だったから。皆失ってしまった……」
 次に現れるのは大きな背中。百幾千の戦場を掛け、ただ一度の敗北もなく舞い戻って来た頼もしき背中だ。それが何かの言葉を紡いでいる。聞き取れなくても、もう既に知っている。それは、最期の戦場へ向けて出発する時に任された仕事だ。最期のそれを、忘れることなんて生涯ないだろう。
 「わたしは早く一人前になりたい。一人前にならなきゃ、誰も守れない。そうでないと……」
 明瞭な野太い声が再生される。涙が出るほど懐かしい声だ。
 『行ってくるよレミリア。留守の間、家をよろしくな。寂しいかもしれないけど、泣いたりしちゃ駄目だぞ。大丈夫だ。良い子にしていたなら私は必ず帰ってくる。だから——、』
 そうでないと、お父様に叱られてしまう。
 『——お前は、皆を、妹を、フランドールを守るんだぞ』
 父の最期に残した言葉が頭の中で反響する。いつまでも。何度でも。







◇◇◇◇



 被験体R観察記録2000830
 研究が与える被験体Rへの影響について。
 レミリア・スカーレット——以下、被検体Rと記する——に肉体的衰弱の兆候が認められた。科学研究がオカルトの心身に悪影響を与えることは、出典根拠ともに不明の情報として広く知られているが、今回被検体Rにおいても情報と類似の症状が認められた。
 今回の検査に置いて異常が認められたのは被検体Rの筋力である。握力に五パーセント程の低下が見られたが、特に顕著だったのは羽である。随意的に羽ばたくことは可能だが、感情に応じて発生する無随意的な運動は殆ど見られなくなっていた。痛覚、触覚にも鈍化が認められ中程度の機能障害が発生していると結論した。
 パチュリー・ノーレッジ研究員によれば、オカルトとはそも通常の生命体に魔術的な構造がまとわりつくことで形成されており、翼や牙、魔眼と言ったオカルトを象徴する部位には特にそれが密集しているとのことである。
 ノーレッジ研究員の推測では、科学研究は直接的には魔術的な構造にしか影響を与えない可能性が高いとのことである。そして、肉体へそれが伝播するのは、見かけ上強化された肉体はその実、魔術的構造に依存しきった一種の衰弱状態であり、それが露呈することで引き起こされた現象と解釈できるとのことだ。しかし、この推測はまだ根拠が薄弱であり、今後はより一層、魔術器官の機能低下には注意を払う必要がある。
 追記 : 一周間の観察の結果、経時的な体重と筋力の減少が起こっている可能性が高いと結論付ける。そこで本文書は被検体Rの身体への影響を記録し、論文の発表(パブリッシュ)まで生存する可能性を高めるためのものとして、今後も継続的に作成する。





◇◇◇◇


 魔女とはつくづく業の深いオカルトであると思う。
 他のオカルトのような行動上の制約こそ少ないが、その生存には少なからず他のオカルトの犠牲を必要とする。魔道具の素材とするため妖獣を狩り、知的探求のためにオカルトを生きたまま解体する。そして最期には己を魔導書(グリモワール)の一冊へ変えることで一生を終える。
 誰にも祝福されず、卑怯者と呼ばれ、そのほとんどは怨嗟の声に見送られて世界に別れを告げる。陰険で、神経質で、未熟な精神を貧弱な肉体に詰め込んだだけの出来損ない。それが魔女だ。
 だからきっと、こんなことをしているのはパチュリーの中にある陰険な魔女の仕業に違いない。
 「どうした? パチュリー。急に黙りこくったりして」
 「あぁ、おはようレミリア。ちょっと昨日遅かったのでね」
 「それは余程だな。定期報告の途中に寝落ちるだなんて」
 資料室の中。向かいのレミリアは呆れた顔で紙ヒコーキを折っている。尾翼にプリントされた写真を見るに、材料は今日のレジュメだろう
 定期報告会。吸血鬼の解析結果をまとめ、進捗状況の確認と共に意見交換を行う場。少なくとも一般的にはそのような意味を持つイベントのために、二人は今ここに居る。
 「それじゃ、続きね。えーっと、どこまで話したっけ」
 「忘れたよ、ずいぶん黙っていたから。もう最初からで良いんじゃない?」
 「悪かったわ。それじゃ、最初からもう一度」
 こんなやり取りに何の意味もない。レミリアは完全な素人だ。ただの研究用サンプルでしか無い。この様な報告会の対象はレミリアではなく、マルフロイやドクトロウであるはずなのだ。
 「うん。早く教えてよ、ホント、楽しみ過ぎて寝ちゃいそうだから」
 そして大きな欠伸を一つ。隠そうともしない無関心がそこにはあった。
 いつからこんな無意味な報告会が始まったのかパチュリーは知らない。つい最近、気が付いたら始まっていた。しかし、理由を予想する事は簡単だ。陰険なパチュリーの魔女が、レミリアを怖がらせてより多く魔力を回収しようとしたのだろう。
 ならば今は報告に集中すれば良い。精一杯脅かしてやらなければ、今日と言うこの時間が無駄になる。それは合理的な判断だ。
 そして白衣の魔女は吸血鬼に問う。
 「どうして生命は永遠を生きないのだと思う?」
 「必要ないからさ」
 「その通り。永遠を生きるメリットが無いのよ。子孫を残し、育て上げた後の抜けがらを養った所でメリットが無い。DNAの存続に焦点を絞ればそう言う答えが導かれる。そして、死ぬ理由は幾らでもある。ミトコンドリアやDNAの変異蓄積。ゴミの集積(ガーベッジカタストロフ)、他にも色々。なにせ、時間の経過で発生するエラーへの処理が追い付かなくなると生命は老いて、やがて死ぬ」
 「私は違うぞ。オカルトは闇から産まれる。子供を作ることもほとんど不可能だ。だから、私達のような例は非常に稀だ」
 「そうね。でも、ここから先はやっぱり推測に過ぎない。もしも種の存続とは異なる理由で生み出された生命があるのだとしたら。それらは通常の生命とは全く異なるコンセプトで進化を遂げている可能性があるのではないか。例えば、数少ない人間の英雄に恋するチャンスを得るため、一秒でも長く生きるための機構を備えている、とかね」
 「それは大した妄想だ。それで、それを元に解析した私の細胞はどんな姿をしていたの?」
 机の上に山と積み上がったファイルの一つが開かれる。無数の実験記録の狭間に、乱雑なメモが挟まっていた。被検体R由来細胞コンタミの可能性。見覚えのあるマルフロイの筆跡だ。
 「私がユーカリオンを訪れる以前から、吸血鬼の細胞が他の株化細胞を老化させることは知られていた。一連の実験によれば細胞株の系統に関係なくどれも一律にヘイフリック限界を越えられなくなっていたと、記録されている。そして八月。ユーカリオンは機能未知の因子群『REM』から強力なSODを発見し、それを一報の論文にまとめた。サイエンス誌にも掲載され、ユーカリオン復活の号砲になるはずだったものね。だけど、全く不思議なことに『REM』は、私がプロジェクトに参加するまでその存在が示唆されるだけに留まっていた。私に言わせれば、多少魔力を帯びているし人間の細胞とは明らかに異なる特徴が散見されるのだけど。とにかく、そのせいもあって十分に解析が進んでいないのよ。つまり、あれに含まれている長命因子は『EUK-134』以外にも存在する可能性は十分にある。実際に、『REM』を添加した細胞はヘイフリック限界を越えられず、線虫(C.elegans)はその最大寿命を大きく伸ばした」
 話しに飽きて来たのだろう。欠伸を噛み殺しているレミリアの前に、簡易のクーラーボックスを置く。発泡スチロールの隙間から漏れる冷気に、びいだまの瞳が興味を示した。
 「そこから推測を進めて解析を行った。期間が短かったこともあって、めぼしいものは一つしか発見できなかったけれど」
 ドライアイスの隙間に立方体のアルミが顔をのぞかせる。無機質な金属光沢の向こう側に隠れていたのは、数本のエッペンドルフチューブだった。
 「前提条件。吸血鬼を始めとするオカルトは人間と非常に類似した構造を持っている。事実私は何度もあなたの怪我の治療をする過程で中身を……、観察させて貰ったけど、その構造も組織が再生する過程そのものも、基本的に人間と大差なかった。もちろん、魔術的な器官は至る所に確認されるけれど、それはあくまで補助的な役割を果たしているのでしょう。これは私から言わせれば驚くべきことよ。魔女は魔術的に代謝を止めているだけだから、怪我の修復にも体力の回復にも魔力とそれを行使する器官が欠かせない。だから私は、吸血鬼が細胞がもともと持っている修復機構を極限まで活性化させる事で長寿を達成していると推測した」
 緋色の瞳にポリプロピレンが映り込んでいる。しかし、グリセロール内部に保存されたそれを、今の彼女に見抜くことはできないだろう。
 「これは非常に単純な構造を持ち、科学の世界にも馴染みが深い。だからこそこの短期間で単離ができた。結論から言えばこれはウィルスに近い。解析の結果、あなたの細胞と……、そう共生しているウィルスは特殊な膜で包まれていることが分かった。あぁ、これはいわゆるエンベロープではないわ。通常細胞の細胞膜を突破するためのエンベロープ類似構造とでも言うべきものかしら。これは微量の魔力を帯びているけれど、魔術的な構造は持ってない。つまり、機能への関与は無いと考えて良いわ。そして、このウィルスが感染した細胞は、どんなものであれ無限増殖性を失う。以前から報告されていた通り、ヘンリエッタも例外なく。……って。話し聞けよ」
 興味深々と言った様子でドライアイスに指を突っ込むレミリアに、パチュリーは嘆息する。慌てて指を引っ込めたのを確認してから、ボックスを取りあげた。
 「へぇ。じゃ、このウィルスを人間に感染させれば不老になるの?」
 赤くなった指先に息を吹きかけながら、レミリアが聞いた。
 「無理に決まってる。だって、これはあくまでも無秩序な増殖を抑制する監視機構の一つだもの。このウィルスが持つ役割はとてもシンプル。細胞でテロメラーゼが発現した際、増殖して細胞を殺す。ただそれだけ」
 「なにそれ、なんでそんなのが長寿につながるの?」
 「言ったでしょ。老化は体内に蓄積した多種多様なエラーが積み重なって起こる現象。そして、エラーの原因となる外部刺激——ATP合成過程に発生するフリーラジカル、紫外線等——は生きている限り避けることはできない。細胞は元からそんなエラーに対処する仕組みを持っているわけだけど、いくら細胞の保持している修復機構を極限まで活性化させた所で、DNAの損傷だけはどうにもならない。いくら大工が優秀でも、設計図なしにはどうしようもないのよ。実際に、DNAに蓄積したエラーが引き起こす癌化——無秩序な細胞増殖——は老化研究が直面する最後にして最大の壁と言われている。つまり、あなたのウィルスは癌に対する強力な対抗策で、同時に老化研究の切り札でもある」
 「へぇ、凄いじゃない。私。健康的で。そのウィルスのおかげで私は長寿なんだね」
 「そんな訳ないでしょ。このウィルスは全身の細胞に存在していて、テロメラーゼ発現を抑制し幹細胞すらも含めた全ての細胞は規則正しく死んでしまうようにしている。普通に考えたら二十年くらいで寿命を迎えるでしょう」
 「おい」
 「だから、もしかしたらサンプルのコンタミがヘンリエッタの細胞にもたらしたのは、クライシスだけじゃないのかもね。例えば、逆転写酵素か何かでDNAを丸ごと乗っ取っているとか。ほら、貴女達はオカルトの割に妙に血肉を欲しがるじゃない? それは遺伝子を取り込み、それを乗っ取ることでストックを得るための本能的行動だったりして」
 冗談のつもりだったその言葉を、レミリアは思ったより真面目な顔で聞いている。顎に手を当て——まるでどこかの苦笑顔のように——、散々唸っている。
 「まったく。神というのはとことん私達が嫌いらしいな」
 そんな、いつも通りの突拍子もない内容を。あどけなさの残る輪郭が告げる。
 「この間、パチュリーの話を聞いてから少し調べたんだけどさ。ヘイフリック限界を超えるにはテロメラーゼが何らかの理由で活性化される必要があるそうだな。それを防止するなんて、まるで死にたがっているみたいじゃないか。だから、多分テロメラーゼの完全抑制は、英雄に抱かれたいと言う私達の願いを神様が立ち聞きして、大いに曲解した結果なんだよ」
 「眼が見えないのよ。多分」
 「だったら時計でも作ってろって話だな」
 「それか、嫉妬ね。無数の共生体による維持システムの活性化。これほど理想的に動作する構造物は神でさえも作り出せなかった。だから、やきもちを焼いた。貴女達の願いを聞き届けるふりをした、とか」
 そうか。とだけ答えて小さなコウモリは黙考する。マイブームらしきポーズと一緒だ。
 「おかげでずいぶんと遠回りをするはめになった」
 言葉とは裏腹に口調も表情も全てが落ち着きはらっている。レミリアが見た目通りの少女なら決して浮かぶはずの無い、堆積を感じさせるそれだ。
 「以上が今回の報告かしらね。レビュー的な内容だけれど。データ詳細なんて聞いても楽しくないでしょ?」
 「ああ。十分な内容だったよ。よく分かんなかったけどね」
 投げつけたレジュメにレミリアが囚われている内に、手早く机を片づける。どういう訳かざわつきはじめた心が、そうすべきだと告げていたからだ。
 背後から声が届いたのは、丁度ノブに手を掛けた時。
 「ねぇ、パチュリー」
 どくん、と心臓が跳ねる。悪寒に近い何かが体中を這い回る。
 「返事くらいしてくれたって罰は当たらないと思うんだけど」
 それから目を逸らしていたい。早鐘を打つ心臓だけに耳を傾けていたい。パチュリーの儚い願いを打ち破らんと、小さな身体がまとわりついてくる。
 しなやかな筋肉の律動と揺れる髪の毛先にパチュリーは眼を覆った。これは研究用のサンプルで自分は小狡い魔女。そして、これは魔力を引き出すための嫌がらせ。未発達なコンコルドと屈辱を天秤に掛けた後、パチュリーは盛大な溜息を吐いた。
 「ねぇ、レミリア。あんたはどうやって暴かれたい?」
 わざとらしいくらい鼻に掛かった声でパチュリーは告げる。彼女の精一杯にも関わらず、愚かな吸血鬼に変わった様子は見られない。
 「盛大なのが良いね。地味なのは嫌いだ」
 「例えば?」
 「うーん。よく考えてないけど、一大イベントの最中とかが良いな。パチュリー、考えといてよ」
 そのくらいなら。精一杯の嫌味も無駄に終わったことを悟り、パチュリーはノブを回そうとする。そんな健気な抵抗すらも手のひらを包む小さな温もりは許さない。
 「ねぇ、パチュリー。こっち向いてくれない?」
 パチュリーは無言で振り返る。どくん、と心臓が跳ねた。
 自分は小狡い魔女で良い。この吸血鬼から魔力を絞れるだけ絞って、巻き添えを食う前にとんずらする。そして、これはただのサンプル。願いを遂げることもできず、ただ搾取され、死の瞬間まで怨嗟の声を上げ続けるだけの有象無象以外の何かであって良いはずがない。
 「私の勇者様を作れるのはお前しか居ない。世界の鼻を明かしてやってよ。長命を成し遂げるのは、赤ワインの汚い薬(レッドベリーのダーティードラッグ)なんかじゃない。ユーカリオンのSOD(アンブロシア)だって」
 精一杯の悪辣な笑みで返事をしてやる。私は魔女だ。恨みを呪いに変えて自らの糧とし、怨嗟の声を子守唄にベッドへ潜り込むことが必然なのだ。だから、
 「ありがとうな、パチュリー」
 そんな眼で、私を見るな。





◇◇◇◇



 被験体R観察記録20001120.
 魔術的器官で発生している壊疽について。
 長らく緩やかな体力の低下に留まっていた研究の影響が、急激に強まろうとしてる。
 十一月の終わりに行われた検査で、被検体Rにわずかな異臭が認められた。精密検査の結果、発生源は翼・牙・眼球であることが分かった。これらは、いずれも通常の生命体には存在しない特長を備えた器官——ノーレッジ研究員に習い魔術的器官と呼称する——であり、研究転用の影響である可能性が高い。
 現在の所は、魔術的器官を覆う外側の物理的器官が腐敗しているのみであり、魔術行使や視力そのものへは大きな障害が出ていない。しかし、放置しておけば細菌が他器官に伝播し致命的な事態に陥る事は明白であり早急な対処が求められた。
 応急的な処置として、魔術的器官の凍結処理——作用機序不明の技術、一般的に魔法と呼称される——を施した。
 この施術により被検体Rは、ほぼ外見上の肉体年齢と同レベルまで身体機能が低下すると予測されるが、当面の肉体的衰弱は抑えられる。一方で、魔術的衰弱は一層加速すると考えられ、予断を許さない状況には変わりない。
追記 : 凍結魔術器官の凍結維持に必要な魔力は被検体Rの内部に存在する魔力貯蔵器官より供給することとした。
追記2 :魔術器官の長期凍結はそれ自体が被験体Rの負担となる恐れもある。今後、必要であれば解除を検討しなければならない。





◇◇◇◇


 十二月十日の朝刊が小さな吐息に揺れる。
 「うー、寒い寒い」
 「こんな良い天気なのに寒いの? これだからもやしは」
 「おう、だったらそのジャケット返せや。ちんちくりん」
 「マフラーは残しただろ」
 両手を擦り合わせ、指先に息を吹き掛ける。朝から町中を連れ回されてすっかり冷えきった身体に、缶コーヒー一本分の温もりは余りにささやかだ。
 熱源を求めて彷徨う片手は、膝の上でニヤつくクソ饅頭へたどりつく。
 「寒いんだったら家に籠れば良い。外に出たいなら自分の防寒具くらい持ってこい。嫌ならこんな真冬に外へ行きたがるな」
 「私のダウンジャケットはクリーニング中だ。それに、こんな冬には珍しい快晴じゃないか。外に出ないなんて、もったいない」
 「あつくて、寒くて。なにが良いんだか」
 新聞を閉じ、パチュリーは季節外れな日差しに手をかざす。それが良いんだよ。一息で日傘の下を飛び出したレミリアは、右頬を摩りながら公園の中央に駆けて行った。
 「見ろ、パチュリー。もう煙も出ない」
 「それはそれで便利じゃない? ビタミンが合成できるわよ」
 「健康になれそうだ」
 くるくると回る吸血鬼の頭上には日傘なんて無いし、その肌には日焼け止めのクリームも塗りたくられていない。それでも、レミリアは嬉しそうに笑っている。直の太陽光を受けたことなんて無いのだろう。
 気がついたら、それはあまりに自然な動作で舞い始めた。
 きっかけはどこからか逃げ出したヨウムの下手くそな円舞曲。その頭が地面へ垂らされた時には、彼女の足はあまりにも自然な三拍子を刻んでいた。
 これ程に孤独で幸福な舞踏会をパチュリーは知らない。見た事もないくらい穏やかな瞳には何が映っているのだろう。その腕は誰に掴まれているのだろう。これほどの馬鹿を抱え込む背中は一体どれほど広いのだろう。見惚れる合間にそんな考えが浮かんでは消えて行った。
 しかし、真昼の舞踏会は突然の終焉を迎える。嫌な予感がして駆け寄る前に子犬のシルエットはふらりと傾いた。
 「無理のし過ぎよ」
 「ただの立ち眩みだよ」
 芝生の上、大の字になって寝転ぶレミリアは満面の笑みを浮かべていた。
 「一度やってみたかったんだよ。日向ぼっこってやつ」
 芝生の上を転がる様子を見る限り、それは見た目通りの子供に過ぎない。嘆息しつつ見下ろしていたら、ふいに腕部を引かれて地面へ引き倒された。
押し潰されたレミリアが潰れたカエルみたいに呻く。
 見上げた空にビルはない。芝生を抜けて来た風と青い空が世界の全てだ。「どうだった?」突然の問いかけに、パチュリーはとりあえず悪くないと伝えておいた。どうしてそんなことを聞くのかと問い返すと、どうせやったことないだろうとレミリアは言った。確かにその通りだ。得心と共にパチュリーは日光を浴びる。
 冷たい風は吹いたままだが、全身で受け止める日光は存外に温かい。長らく感じていなかった穏やかな時間が、それに拍車を掛けていたのだろう。
 だから、首筋を撫でる突風は背筋を殊更に震えさせた。寒い。熱を奪われた血液が全身に廻り、毛細血管が見る間に収縮を始める。凍える体に比例して燃え上がる心はパチュリーの背中を蹴り飛ばし、それを捉えた。視界の彼方。小さなシルエットが手に布をはためかせている。
 悪態を吐いて走りだす。それから始まるのは下らない追いかけっこだ。散歩中の老婆に笑われ、いつの間にか混じっていた野良犬を追い返し、子供連れに白い眼で見られ始めた頃にようやく犯人を押し倒した。
 「一度やってみたかったんだよ。鬼ごっこの逃げる方」
 地面に倒れた鬼が、揺れもしない胸を上下させている。
 「どうだった? その感想は」
 「思ったより楽しくないな。やっぱり私は追い掛ける方が性に合ってる」
 「あっそう」
 無防備にはだけたジャケットの裾を持ちパチュリーは大きく口元を歪ませる。一気にそれを引き剥がし、そのまま公園の端へと逃げ去った。間もなくして背後に迫るのは、弾んだ気配だ。始まるのは先程と寸分違わない光景。数分後地面に倒れていたのがパチュリーだったという点以外に、なにも違いは無い。
 「一度やってみたかったのよね。鬼ごっこの逃げる方」
 地面に倒れた鬼が、揺れもしない胸を上下させている。
 「どうだった? その感想は」
 「思ったより楽しくない。魔女に運動なんて似合わないのよ」
 「このもやしが」
 細枝のような腕が差し伸べられる。身体中に着いた枯れ草を払い、パチュリーは伸びをした。
 「あー、疲れた。帰りましょうか」
 「えー。まだ良いじゃん」
 「はしゃぎ過ぎると明日筋肉痛で辛いよ」
 「もやしとは違うのよ。もやしとは」
 戦利品を胸に抱えた横顔は、ちらちらと公園端に設けられた奇抜なオブジェを見ている。パチュリーは毅然として溜息した。
 「私は今日も仕事があんのよ」
 当然のように押し黙った吸血鬼は頬を膨らませるばかりでその場から動こうとしない。仕方なしにジャケットを奪い取り、パチュリーは背中を向けた。最初の一歩は警告の意味で小さく。しかし、決断の二歩は何者かに引かれる服の裾に阻まれた。
 振り返った所でレミリアが言葉を発するわけではない。ただただ純粋な哀を全身に纏うだけだ。こうなったらもう意地の比べ合いである。先に動いたほうが負け。そんな単純な根比べに勝利したのは、当然のようにレミリアだった。
 「次、晴れたら。また、付き合ってあげるから」
 忌々しげに口元を痙攣させ、パチュリーは手を伸ばす。目一杯開かれた瞳孔が全身に纏うものを吹き飛ばし、飛び跳ねるようにして腕にしがみついた。
 「■■■■!」
 弾む声が告げる言葉は木枯らしに遮られて届かない。
 そのことに心から感謝した。




◇◇◇◇



 被験体R観察記録20001130
 進行の続く肉体的衰弱と魔術的衰弱について
 被検体Rの肉体的衰弱が深刻化している。先日の検査で凍結したはずの翼膜において壊疽の進行が見られた。ノーレッジ研究員が調べた所、一部の区域で魔術器官の凍結が緩んでおり、その箇所で壊疽の進行が見られた。しかし、凍結術式自体には損傷が無く、魔力供給の停止が直接の原因と考えられる。魔力を貯める器官のバルブ様構造が破損した可能性が高い。緊急の対処として腐敗の進み過ぎた翼膜の一部にデブリードメントを施した後に、ノーレッジ研究員によって外部から魔力を供給する事で凍結を再度実行した。
追記 : 現時点で既に被験体Rに対する医学的な処置は限界を迎えており、今後は凍結維持用の魔力供給と容体急変への対処のため、ノーレッジ研究員を側に置くことする。
追記2 : ノーレッジ研究員による被験体Rへの過度の干渉の起こる可能性がある。当該研究員への投稿日時の連絡は一時保留とする。


 押し下げられたパンタグラフが時を刻む部屋の中、白衣の魔女はマグを傾ける。CRTモニタが無機質な汎用フォントで表示するのは、作者すら記されていない実験記録。余程暇な職員が記したと思われるそれは、今なお社内サーバーの片隅に投棄され続けている。
 年初めから続くバックログを漁りはじめてもう一時間が過ぎた。噂か法螺話と思える読み物は、丁度今の気を紛らわせるのに良いと思ったからだ。
 乱暴に置かれたマグから、アイヴォリーブラックの塊が跳ねる。レポートの端にこびりついたそれに、パチュリーは無感情な眼を向けた。長い一日の終わりにとびっきり濃いコーヒーを飲んで、悪夢も見えない浅い眠りにつく。いつから始めたかも忘れたその行為は、すっかり日課になってしまった。
 終電の時間まではしばらくある。ぼんやりとモニタを眺めながら、読み終えたテキストファイルを閉じていくと、バックグラウンドで開かれていたwebブラウザが顔をのぞかせた。開かれていたのは海外の掲示板。日本語で記された下らない噂を扱うフォーラムだ。


 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 00:26:30 ID:xxxxxxxxx
 なぁ、前スレで追っかけてたウサ耳なんだけど、最近様子がおかしいんだよ。
 誰か居たら聞いてくれないか。

 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 00:27:23 ID:xxxxxxxxx
 クソスレ埋め

 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 00:27:26 ID:xxxxxxxxx
 2ゲット

 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 00:30:18 ID:xxxxxxxxx
 あいつ、ドアノブカバーと噂を調べに行ったらしいんだ。
 お前らも聞いたことあるだろ。神隠しのやつだよ。

 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 00:32:56 ID:xxxxxxxxx
 >>1の暇人ぶりに涙が出てくるな……。

 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 00:44:24 ID:xxxxxxxxx
 前スレでウサ耳はガチレズ確定だって結論出ただろ。目ぇ覚ませよ。>>1

 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 00:56:24 ID:xxxxxxxxx
 そんなことよりタイターの話しようぜ

 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 02:10:44 ID:xxxxxxxxx
 聞いたことあるぞ。
 真夜中に日傘持った女があらわれて訪ねるんだろ。
 楽園に連れてってあげましょうとか

 どうして調べたのかも覚えていないそれを、気がついたら無心でスクロールしていた。身を乗り出した視界は真っ白い掲示板に埋め尽くされている。

 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 07:13:35 ID:xxxxxxxxx
 あ~、俺も連れってくんねーかなー。幻想郷とやら
 そしたら仕事辞めれんのに

 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 09:20:45 ID:xxxxxxxxx
 そう言えば京都の大学生が行方不明って今朝のニュースで聞いたな。

 xxx 名前:>>1 [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 10:25:58 ID:xxxxxxxxx
 そうなんだよ。ここ最近ドアノブカバーが無断欠席してるんだよ。
 ウサ耳はウサ耳で凄い顔して街中歩いてるのを見た奴が何人も居てさ。俺見てらん無くて

 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 10:27:39 ID:xxxxxxxxx
 なんだそれ。結界に飲まれただけだろ。

 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 11:50:12 ID:xxxxxxxxx
 『幻想郷』とかいう楽園に連れて行かれたら最後。戻れないって専らの噂だよな。

 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 13:28:06 ID:xxxxxxxxx
 でも、ドアノブカバーは異世界の境界が見えるって話じゃなかったっけ?
 前も数日後にひょっこり顔出しただろ。

 xxx 名前:>>1 [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 16:31:36 ID:xxxxxxxxx
 わかんねぇよ。帰ってきてからずっとこうなんだ。
 何べん話しかけても無視されるし、何があったかなんてまったくわかんねぇよ。

 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 16:31:38 ID:xxxxxxxxx
 ああなんだ。そりゃ、聞く必要もないだろ。
 まったく、やっぱ妖怪の作るもんなんてろくなもんじゃねーな

 xxx 名前:>>1 [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 16:32:46 ID:xxxxxxxxx
 おいっ、お前ら真面目に聞けよ! ウサ耳は大切なゼミ仲間なんだよ!

 xxx 名前:名無しさん@ [age] 投稿日:2000 /xx/ xx (xx) 16:32:47 ID:xxxxxxxxx
 そりゃそうだ。人に親切な妖怪なんて、座敷わらしくらいのもんだ

 スレッドはそこで終了している。類似のスレッドは幾つか漁ったが、そのふたり組のその後について記されたものは何一つ無い。
 「私、いつの間にこんなサイト……」
 根拠の無い噂のごった煮。そう比喩することが最も適切だろう。こんな妄念と狂信が入り混じった場所で情報を集めることに何の価値があるのだろうか。冷静になって考えれば数秒でたどり着く答え。しかし、どういう訳かそれが頭に浮かんだのは終電に間に合うか否かの瀬戸際の時刻だった。
 「なにやってんだ……、私は……」
 ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き回し、パチュリー・ノーレッジは白衣を翻した。




◇◇◇◇


 赤い帯がどこまでも伸びていく。より細く、薄く、連綿と続くかに見える帯はある地点でぷつりと途切れ、ビニール袋へと吸い込まれてしまった。
 「それでさぁ、私は言ってやったんだよ」
 「この馬鹿夫婦が。でしょ。雇い主の旦那に手を出すとか。あんたの教育係。ずいぶん頭ぶっ飛んでるわ」
 「なんで知ってんの?」
 「この間、聞いたからね」
 「そうか悪いね」
 最近の日課はこうしてリンゴを剥きながら、レミリアの昔話に耳を傾けることだ。
 レミリアへ魔力供給をしなければならない関係上、長時間離れることもままならないし、魔力的にも余裕が無くなりつつある。体力消耗を避けるために研究チームからも外されたパチュリーの仕事は、もうこれ以外に残っていない。
 「でもさぁ、お父様はお母様に先立たれて長かったし、文句なんて言える訳ないのよね。私としては」
 「確かに、当時の魔女としては勝ち組よね。吸血鬼なんて最高のパトロンに養って貰えるんだから」
 「だが、いけすかない奴だ。そいつが最初にやったのは何だったと思う? フランの籠絡だよ。飴で釣りやがったんだ」
 「……あんたの魔術下手な理由が透けて見えてるわ」
 「良いんだよ。吸血鬼が撃てばメラだってメラゾーマだ。それが普通だ、あいつが変わってるんだ」
 紅い帯が伸びていく。魔女はただ機械的な動きでナイフを滑らせた。
 「そういえばフランは元気にしてるだろうか。しばらく会ってない気がするが」
 「さぁね。今頃は遊び疲れて寝てるんじゃないかしら。どっかの誰かみたいに」
 「それもそうか。あいつ、喧嘩は強いけど、体力無いからなぁ」
 静謐(せいひつ)を埋めるのは単調なリズム。銀の穂先から細く薄い道程が際限なく生み出されていた。
 「フランはさ、私なんかとは大違いに優秀な吸血鬼なんだよ。先祖返りって奴? 多分、真祖の次くらいに完成された吸血鬼だよ。ほんの少し体が丈夫なこと以外で勝ったことなくってさ。悔しくって悔しくって、何度喧嘩を売ったかも分からない。とにかく、優等生なんだよ。あいつは」
 乾いた音がリズムを崩す。ビニールの底には紅い帯が積み重なっていた。
 「だけど優しすぎるんだ。滅茶苦茶強いくせに、真面目で、純粋で、騙されやすくて。その癖誰よりも繊細で。頭が良いだけの大馬鹿者だ。そんな奴が才能に恵まれてしまうなんて。まったく、滑稽以外になんて言ったら良いんだろうな」
 「大嫌いなのね」
 「あぁ、私自慢の妹だからな」
 震えるリンゴを押さえつけて芯を抉る。その一片を差し出すが、レミリアはただ静かに首を振るだけだった。食欲が無い。小さく告げられた言葉に、ただそうとだけ返して手元のそれを口に運ぶ。甘酸っぱい香りが口の中いっぱいに広がった。
 「お父さんに言いつけられたんだ。守ってやれって。初めての約束だった。お姉ちゃんなんだからって。だから決めたんだ。転ぶのも、失敗するのも、家を継ぐのも。全部が全部私の義務。あんな奴には一つだって任せてやらない。だから、私は皆とフランを守る。お父さんが帰ってくるまで。たとえ、どんなことをしてでも」
 奥歯の割れる音が脳に響く。酷く歪なリンゴの欠片が皿に転がった。
 「あなたは……、強いわね。本当に」
 「そんなことはない。お前が居てくれるから私は強くなれるんだ」
 嗚呼、これは一体何年物の妄執だ。レミリアに取り憑いてるのは恋だった何かだ。気が遠くなるほどのリフレインを経て変わり果てた願いの残照だ。これを一般的な恋と定義するなら、世界中のオカルトは数百年前に死に絶えているだろう。
 パチュリーには検討もつかなかった。一体なにが高貴な吸血鬼をここまで磨き上げてしまったのか。一体なにが幼い吸血鬼をここまで駆り立ててしまったのか。
 なにが知識の魔女だ。白痴の無鉄砲の方が幾らか役に立つ。心の内側に悪態を吐き捨てた所で何が変わるはずもない。吸血鬼(レミリア・スカーレット)のルーツに興味もなく、その生き様を見届けた経験もなく、グリモワールに眼を伏して自分以外のオカルトから眼を背け続けた彼女が導き出せる答えは無い。
 いいや、ただ一つだけあった。どうにもならない。自分にできることは何一つ無い。そんなシンプルで明解な答えは最初から用意されていた。
 「英雄さまとの恋を遂げて。それでも生きていられた時、私は一人前になれる。なんの才能もない私が皆を守れるくらい強くなるには、それ以外に無い」
 本当にそうだろうか?
 「ど、どうした……? パチュリー」
 「いえ……」
 背筋を走る怖気を感じ、パチュリーは思考の強制停止を試みた。正体すらも分からない立入禁止の標識が、そこには掲げられている。先へ進んではならない。そう理解して視線も意識も目の前の白いリンゴと果物ナイフに集中させているはずなのに、頭脳だけは勝手な全力疾走を止めようとしなかった。
 恋をしたオカルトが命を危険にさらすこと自体は珍しいことではない。DNAより奥深く刻まれたそれに抗うことは絶対にできない。
 例えそれが、どんなに歪んだ恋であっても。
 例えそれが、確実に命を落とすような無謀であったとしても。
 しかし、もしも命を危険に晒さずに恋を遂げる方法があるのだとしたら。それはこの世界では絶対にありえないことだ。あらゆる世界はことごとく被造物であり、世界には固有の法則がある。そしてここは、運悪くオカルトは恋をするなんて下らない法則が支配する世界だ。だから、この世界に居る以上。レミリアの迷い込んだ路地がどこにも続かないことは確定済みの未来だ。
 それがどうしたと言うのだろう。
 ドラスティックな解決法を模索せずして何が魔女か。前提条件に問題があるのなら、そこを正すだけのことだ。だから、望まない世界なんて全部否定して、袋小路ごと作り替えてしまえば良い。
 どうにもならないことを、どうにかするための力なら、内ポケットにあるじゃないか。
 『どうにもならないことを、それでもどうにかしようとする。それが——、』
 脳と指先に生じた熱が思考を中断する。視界の中央に広がっていたのは紅い染みだった。
 「……っ」
 繊維に沿って広がるそれが白紙のカンバスに描き出したのは、緋色のロールシャッハテスト。なおも指先に膨らむ紅の珠を、パチュリーは差し出した。
 「……舐める?」
 「別に良いよ。今さら血なんて飲んだって仕方ない。あんたを貧血にしても悪いし」
 その横顔に指を押し付ける。それでもレミリアは首を振り続けた。仕方なしに引っ込めた指先を、パチュリーは静かに見つめる。青白色の光に反射するそれは存外に美しい。ごく自然な動作で、パチュリーはそれを口に運んでいた。
 不味い。鉄臭く、泥臭く、薬品臭い。
 当たり前だ。薬と魔術と重金属に漬け込まれたこの体が美味である理由など何一つ無い。血の着いてしまったものをゴミ袋に放り込もうとして、小さな手に遮られる。病的に白く糸のように細い指先が、ロールシャッハの描かれたカンバスをつまみ上げた。
 震える指先がそれを唇に運び、小指の先ほどの赤を齧り取る。咀嚼すること一度、二度。ガラスのような喉を鳴らし、仏蘭西人形は一息を吐いた。
 「……美味しい」
 「そう」
 それは数週間ぶりに見た、吸血鬼の食事風景。そして、最期になるであろうそれ。胸の奥から湧き上がる不明の感情。いや、不明だった感情。猛烈な後悔。あまりに遅すぎる理解。己の愚鈍さに呆れ、それでも身体を止められなかった。
 「ど、どうした? パチュリー」
 なぜかその小さな肢体はパチュリーの腕の中で目を白黒させている。
 なぜかその温もりは一生離したくないと思える程度に心地よく感じる。
 「なんでもないわ。ただの立ち眩みよ」
 「……そうか。立ち眩みなら、しかたないな」
 貧血に狭まった視界の中には、吸血鬼以外の何も映っていない。今の自分にはそれが幸福に感じられて仕方がない。私はどこまで馬鹿なのだ。彼女は小さく呻き、愛しいそれを一層の力を籠めて抱きしめた。
 十二月二十九日の夜。
 吸血鬼の命日まで、後三日のことである。




◇◇◇◇



 被検体R観察記録20001220
 論文の投稿(サブミット)とその後の被検体の扱いについて
 試験の進捗から考えて『(仮題)チスイコウモリ由来の因子はがん細胞の増殖を抑制する』の投稿は十二月の三十一日とする。受理(アクセプト)は早くて春前と考えられるが、投稿後は被検体Rの衰弱の加速が予測されている。長期間の魔力供給でノーレッジ研究員は消耗しており、医学的にも魔術的にもこれ以上の延命は困難と判断。可能な限り多くのサンプルを採取後、凍結をはじめとする全ての処置を停止することを決定した。よって観察は本日をもって中止とし、記録文書はこれを最終とする。
追記 : 年明けに予想されるレミリア・スカーレットの葬儀及び、死亡診断書の偽造依頼はG社を介して行うこととする
追記2 : 仲介人として訪れたユカリ氏による提案である。
追記3 : 事件後、G社は沈黙を守っており、このタイミングでの接触は無関係を装う意図があると考えられる





◇◇◇◇


 椅子の上で猫がなぁごと鳴く。
 その光景に、彼はただ苦笑するしかなかった。
 「まったく。私の職場には猫が入り込む呪いでも掛けられているのか」
 ある休日、彼はいつも通りに事務所で作業をしていた。小用で席を外したわずか五分間の内に、椅子の占拠は行われた。
 不器用に喉を鳴らす猫を前に、マルフロイは苦笑する以外に無い。灰色のビロードの毛並みの美しい子猫だ。なんとも不安で落ち着かぬ様子を浮かべている。
 このままでは作業もままならないと、何度も椅子から下ろそうと試みるが、そのことごとくは失敗した。止む無しと抱きあげてご退場を願うも、するりと膝へ飛び乗って来た猫は、ここが自分の居場所と主張せんばかりに毛づくろいを始めた。
 「まったく。懐かしいな」
 苦笑いしながらも、マルフロイはその猫を手慣れた手つきで撫でる。
 「昔もこうして夢を語ったことがあったな。いつか自分の研究で科学の常識を覆してやりたい。疑似科学(ジャンクサイエンス)なんて笑われた不労長命を、境界科学(フリンジサイエンス)も前科学(プロトサイエンス)もすっとばして科学(サイエンス)の領域にねじ込んでやりたいなんて。同僚には恥ずかしくて語れない様な随分と青臭い夢を。思えば、ずいぶん近くまで来たものだ。昔は遥か彼方と思っていたんだがな」
 言葉の区切りを見計らったみたいに猫がにゃあと鳴く。相槌でも打つみたいなそれに、マルフロイは嘆息した。
 「そうだ私は素晴らしい研究成果を手に入れた。『REM』は我らにとって金塊を遥かに超える価値を持つ。このわずかな期間だけでも、向こう十年は開発されないだろう物質が幾つも見つかった。驚くべきことだよ、これは」
 猫が悲しい眼を向けている。物欲しげな、クリスマスプレゼントを受け取り損ねた子供みたいな眼だ。少なくともマルフロイはそう思った。しばらくそれを見つめた後に、男は白髪交じりの頭を掻いた。
 「私の部下にも、君と似た様な眼をする奴が居るんだ」
 猫の肩口を押さえつける様に撫でつける。
 「ひたむきな奴だ。人付き合いが苦手で愛想もないが知識への欲望だけには誠実だ。あれほどにひたむきな奴を私は他に知らない。だが、どういう訳か私は彼女を一目見たとたんに分かってしまったんだ。彼女が人でないと」
 どういう理由かも分からないが、マルフロイには確信があった。洞察力は科学者の命である。潜在意識下の情報が、彼女の採用を決定させたことは想像に難くない。
 「本当に聡明で。笑ってしまう程に愚かな奴だよ。オカルトは科学の餌でしか無いというのに、虎の懐は安全だと思い込んでいる。慢心したオカルト程利用しやすいものはないと言うのに」
 逆立つ猫の毛をマルフロイは黙って手のひらで包みこむ。もちろん、オカルトの利用に疑いを持たなかった訳ではない。あくまで噂と推測の範囲でしか無かったそこに手を出すためには、魔術と科学に精通した人材が必要だった。ただそれだけの理由だ。
 「リズは科学者である前によき友人だ。危険な目には会わせられない。だから、あれに眼を付けた。あれに研究をさせるよう仕向け、あれに障害を排除させる。全てはうまく行っていた」
 男は黙って猫の瞳を覗きこむ。今度はどんな感情も読みとれない。随分と情けない顔をした男が映り込んでいるだけだ。
 「だから、私が今気にしている事はあれの様子だ。どうにもレミリアの傍に長い間置き過ぎたようだ。素人じゃあるまいし、実験動物に愛着を持つなんてありえない。そう思って油断していたのだが。全く、とんだ見込み違いだったのかもしれないな」
 猫はぴくりとも動かない。ただ一言も聞き逃さないと言う様に耳を立てるだけだ。
 「だから、あれの処分は早めに頼んでおかないとな。私よりはパチュリーさんの方が適切に処理をしてくれるだろう。ああ、一応業務命令にはしておこうかな。心配だからね。サボって放置されたりでもしたら、退職金を払わないといけないかもしれないから」
 マルフロイは膝の猫を優しく地面に下ろし、席を立つ。胸ポケットのシガレットケースを確認してドアノブに手を掛けた。
 「なんで……、とか聞かれるんだろうな」
 背後に感じる一人分の気配へ向けてその言葉は放たれる。そのまま扉を開けると、マルフロイは廊下の窓によりかかった。
 「良い年してあんな子供にうつつを抜かしてちゃ、女房と子供に愛想を尽かされる——」
 頬を撫でる新鮮な風。赤熱する紙巻き煙草。数日ぶりの日光の中へ男は頭を突きだした。
 「そう思ったんだ」
 眼に滲みる光の向こう側。
 久々に見上げた空は一面の青に包まれていた。




◇◇◇◇


 油断すれば自己嫌悪で喉を掻き切ってしまいそうだった。
 だから帰るなり部屋中の刃物は全部鍵付きのロッカーに放り込んだし、凶器となりそうなものは護身用の拳銃一丁を除いて全部眼の届かない所に隠した。
 嘔吐を繰り返した胃袋には胃液すら残っていないし、口も喉も焼け付くみたいに痛む。世界中の全てが敵に回ったかの様な錯覚がまとわりついて離れない。
 そんなのは当然の報いだ。
 魔女は陰険だ。魔女は卑怯だ。魔女は強欲だ。
 そんな侮辱は聞き飽きた。全てその通りだ。魔女は自分のためにしか動かない。魔女は魔術のためにしか生きない。そのために必要なことは、どんな倫理を無視して平然と実行する。それができなければ魔女ではない。
 私は英雄では無い。私は救世主ではない。私はただの強欲な魔女だ。
 他人のために何かをするなんてことは許されない。それは己に対する重大な罪だ。そんなことをすれば十中八九身を滅ぼすことになる。だから、この身体の生み出す一挙手一投足のひとかけらにだって思いやりは籠っていない。全ては己の欲に従って行われる結果に過ぎない。
 そんな魔女がもしも何かを願うなら。
 何一つ望んではならない。
 どんな言葉を受け取る資格もなく。どんな結果も受け取らなくてはならない。それらは魔女としての私に果たすべき最低限の責務。できてあたりまえの事だ。
 だけど、もしもこの世界の神様がほんの気まぐれを起こしたとして。たった一つ何かを望む事が許されたとしたら。
 ただ、罵倒して欲しい。
 私は愚かな魔女なのだから。




◇◇◇◇



 「今日はずいぶん静かだな」
 「そりゃ年越しだからね。みんな街へカウントダウンイベントに繰り出してるのよ」
 部屋の中には十一時の時計と一台のパソコン。そして蒼白い光に照らされた二人以外に誰も居ない。
 「お前は行かないのか?」
 「相手が居ないって? うっせーわ」
 薄い笑みを浮かべるのは車いすに乗った少女。上品ぶっている訳ではない。それが彼女にとっての最大限なのだ。その雪のように白い肌は、低下した心肺機能が血を巡らせることすらもままならない事実を示している。
 「パチュリー。まだなの?」
 節の目立つ指先がモニタを指さす。映し出されているのは、とある雑誌の投稿受け付けフォーム。ユーカリオンが論文掲載を目指すそれ。
 「もう少しで、論文ファイルのアップロードが終わる。そしたら送信して全部終わり」
 投稿用のフォームには既に必要な情報が入力されている。進捗バーは論文ファイルのアップロードが六〇%程完了したことを示していた。これが一〇〇%を示した後に、エンターキーを押すことで投稿は完了する。
 遅々として進まないそれを前に、パチュリーは二度三度深呼吸をして早鐘を打ち始めた心臓を収めた。
 「ねぇ、レミリア。多分まだ時間が掛かると思う」
 「そうだな。このペースだとまだ結構掛かりそうだ」
 「あのさ、お茶会(ティータイム)にしない? 蒼白い画面を見つめるのが趣味だなんて話は聞いたことが無いけれど」
 「まぁ、そう……、だな」
 名残惜しげな様子で画面から眼を離しレミリアは相槌を打つ。席を立ったパチュリーが二組のティーセットを持って現れたのは、十分ほど後のことだ。
 横目で確認したモニタには七〇%の進捗が表示されている。
 パチュリーはただ無言でお茶を淹れる。慣れない作業だ。見た目だけは立派なそれがどんな味をしているのか予想はついている。レミリアの反応は手に取るように分かる。
 「うっすい。香りがまるでしない。ポットは温めた? 蒸らし時間は測ってるの?」
 膝の上にティーカップを置き尊大な顔で文句を言う。
 「やってるわけ無いだろ」
 「お前って奴は最期までポンコツだったな」
 「うっさいわね。あんた魔女をなんだと思ってんの」
 「やたらに口うるさい、話し相手」
 「よく分かってるじゃん」
 わずかに緩んだ口元を視界に入れない様に細心の注意を払う。きっとそれを見た自分は冷静で居られない。パチュリーはそう判断した。続けるのはいつも通りの軽口で良い。湿っぽい雰囲気をこの吸血鬼は望まない。それをパチュリーは知っている。
 「そっちのはデザートか?」
 「後で開けようと思って」
 「多分、食べられないぞ」
 「見るだけならただよ。後のお楽しみってね」
 レミリアが机の端に置かれた紙箱を指して言う。パチュリーは黙って横目でモニタを確認した。進捗は八〇%。
 「まだ時間があるみたいだし。ちょっと昔話でもしない?
 「別に良いが何の話をするんだ?」
 「森を出た魔女のお話よ」
 押し殺したような声が部屋を埋める。いつに無く真剣な顔が、パチュリーの前にはあった。
 「そいつは森を出て以来、数え切れないくらいのオカルトを殺した。なぜなら魔女は本質的に他のオカルトの犠牲無しに成り立たないから。その研究に使われる素材の内少なくない割合でオカルトの身体の一部が含まれる。錬金術の研究は多量の重金属を排出する。その結果、工房の周囲は汚染されるし弱いオカルトは死ぬかないしは住処を追われる。だから魔女は嫌われる。強欲と言われ、陰険と蔑まれ、卑怯者と揶揄される。そして、そいつの持った忌わしい傾向は、外の世界に放り出されてから極めて顕著になってしまった」
 消え入るような語尾を恥じ、心の中で己を叱責する。これから続くのは哀れな実験体へ向けた犯罪予告なのだから。
 「そいつは死にたくなかった。だから、失われ続ける魔力と補給する当ての無い現状を照らし合わせて、存在意義を擬似的に満たし魔力を回復する手法を生み出すのに時間は掛からなかった。実際にそれは一部上手くいった。だけど、捨虫と捨の法を維持するにはわずかに足りなかった。だからそいつはオカルトを狩った。数え切れないほどのオカルトを生きたまま捕獲して、生きたまま解体した。泣き叫ぶ声に耳線をして、指の先から少しずつ解体して。余すところなく素材を取り髄まで魔力を絞り取った」
 残酷だと思う? パチュリーの問いに対し、レミリアは首を横に振る。
 「そいつはサディストだった訳じゃない。むしろ、必要外の闘争は避けるべきとすら思っていた。だけど、そいつは喜んで受け入れていた。だって、魔女にとっては生きて知識を吸収し続けることが全てだから。魔女にとって魔術研究は魔力という糧を得る手段でもあり、存在する理由でもある」
 横目で確認した進捗は九〇%を示す。強まり始めた拍動を抑えるため、気取られない程度に深呼吸をした。
 「つまるところさ、そいつにとって魔術と添い遂げられなくなるのは、死ぬよりもずっと辛いのよ」
 レミリアはただ大きく頷いてその話を聞いていた。まったくその通りだ。よき暇つぶしの話題を提供してくれてありがとうと言わんばかりの笑みを浮かべて。
 表示された進捗は一〇〇%だ。準備は整った。
 パチュリーは露悪的に顔を歪める。彼女の何もかもを打ち砕く言葉を紡ぐためだ。
 「だから、私が今からする事は多分これまでで一番残酷な事なんだと思う」
 レミリアの前に置かれたケーキの箱が、独りでに開いていく。
 「レミリア。それが、私から貴女への、最初のプレゼント。どうか、受け取って欲しい」
 中から現れたのは、鮮やかな赤い液の満ちる一枚のシャーレ。
 その底面に張り付くのはあまりに美しく、あまりに整然とした細胞。
 「こんなものがどうしたと——」
 手のひらの上でそれは呼吸を始める。貪欲にレミリアから漏れるものを吸い取り、見る間に一度の分裂をしてみせた。
 絶対に有り得ない光景を前に、レミリアの顔は絶望に満ちる。震える腕がシャーレを机に戻した。
 「そうよ。それは世界にたった一つだけ残った。彼女の断片」
 「それがどうしたと言うんだ……!」
 どこから湧き出したのか。命を削る怒りが少女の脚を動かし、瞳に紅を灯す。
 「私はこれから英雄の胸に抱かれる。英雄の胸に抱かれて大人になった私は、皆を守りに戻る。言ったはずだ。私は立ち止まらない。こんなものを見せて、一体なんの意味があるんだ」
 「私の魔力は枯渇した。オカルトの救世主は私が退けた。もう一人の吸血鬼はあなたが殺した。この世でそれを培養できる程の魔力を残しているのは、もうたった一人だけしか居ない」
 「待ち望んだんだぞ。私は、この一瞬のために。何十年も、何百年も生きながらえて。どんな恥にも耐えて……! 英雄さまの胸に抱かれることだけを望んで……、今日まで」
 烈火の如き怒りをもって掴みかかるレミリアに、パチュリーはただ冷たい眼を向ける。心を止めてもなお胸が焼き付くように痛かった。
 「だったらどうして貴女はそんな顔をしているの?」
 殴りかかろうとしたのだろう。片手を胸倉から離した瞬間にレミリアの身体は崩れ落ちる。弱り切った身体は無様に地面へ転がるだけだった。嗚咽にも似た声を漏らす背を助け起こそうとしたその時。それはパチュリーに向けられた。
 「お前なんて、お前なんて……!」
 腰にあった拳銃が消えている。その代わり眼の前にあるのは、震える銃口と決壊寸前の瞳だ。パチュリーはその現状を冷静に分析し、ただそうとだけ答えた。
 因果応報。最初からなにも望んではいない。高い確率でこうなることは予想していた。この状況への対応策は幾つも用意していた。しかし、どうしてかそのどれもを試す気にはなれなかった。だから、口元に小さな笑みだけを浮かべてまぶたを閉じる。暗黒が訪れる刹那に、枯れ枝の指が引き金(トリガー)に掛けられる様を見た。
 同時、時間が何倍にも引き伸ばされる感覚が訪れる。これが世に聞く走馬灯か。真っ黒のスクリーンに映し出されるのは意外にも最近の記憶ばかりだ。
 自分の淹れた紅茶を色水と笑う生意気な顔。
 首輪の違和感に閉口する羞恥心に満ちた顔。
 初めての外出にはしゃぐ無邪気な顔。
 なんだこれは今年の記憶ばかりじゃないか。そう悪態をつこうとして、パチュリーは気がついた。ああそうか。誰かと過ごして楽しかったなんて、今年より前には一度だって無かったんだ。だから、当たり前だ。こいつにやられるならそれも悪くないなんて思うのは。だって、魔法以外に幸せがあることを教えてくれたのは、お前なんだから。
 間近に轟く轟音が鼓膜を震わせる。無限に引き延ばされた重低音はゆっくりと部屋を満たして壁で跳ね返る。しかし、それを何度観測しても意識の終わりはやってこない。
 代わりに鼓膜を震わすのは啜り泣くような声。
 おそるおそる開いた瞳に映ったのは煙を吐くPCと地面に落ちた拳銃。そして、シャーレを胸に抱いてうずくまる吸血鬼。
 リノリウムには黒い染みが増え続けていた。
 「ごめん……、ごめんな……、さい。お父さん。レミリアは駄目な子でした……、良い子で……、居られませんでした……」
 鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった顔は、ただただシャーレの中身で分裂を始めた細胞へ向けられている。
 「レミリア……」
 「さわんな、近寄んな。お前が近くに居ると、私は私で居られなくなってしまう。私が壊されてしまう。全部、お前が悪いんだ。この裏切り者……!」
 涙でいっぱいの緋色がパチュリーに詰め寄る。小刻みに震える背中をパチュリーは静かに抱き寄せた。
 「ありがとう。私を怨んでくれて。私を罵ってくれて。本当に……、私はあなたの何もかもを奪ってしまった。だから誓う。私はもう二度とあなたを裏切らない。必ずあなたの暮らす場所を見つけてみせる。奪った願いを叶えてみせる。私の愛しい、ご主人様のために」
 元から丸い目玉をさらに真ん丸にして吸血鬼はパチュリーを見つめている。顔から出るものが全て出ていた。人型の出せる感情がそこには全て含まれていた。一切のためらいもなく、ぐちゃぐちゃになった顔がパチュリーに押し付けられた。
 「お断りだ。お前なんか、大っ嫌いだ。最悪だ。今年は何一つ良いことなんて無かった。お前みたいな従者なんて、もう要らない……!」
 鼻水を服の裾に押し付け。それでも隠し切れない雫が床に水たまりをつくる。パチュリーは銀糸の頭を優しく手のひらで包んだ。
 「そうね。私は悪い魔女。怨んでくれて良い。呪ってくれて良い。でも、部下じゃないんだったらそんな命令は聞いてやらない。私は自分勝手な魔女。嫌われたって離れてやらない」
 力の篭もらない拳が何度も叩きつけられる。逃げようと伸ばされる腕も、すり抜けようと曲げられる脚も。全ては無駄に終わる。
 「どうやってだよ……。お前のせいで全部滅茶苦茶だ。もう終わっちゃったんだよ。何もかも……」
 全身を弛緩させ、思いつめたような表情で告げられる言葉。それに、パチュリーは思い切り首を横に振ってみせた。
 「そんなこと。あるわけないじゃない」
 どういうことだとか細い声で答える吸血鬼にそっと微笑みかける。
 「あんた言ってたでしょ。最悪だって。だったら大丈夫よ。だって、今年が最悪なんだったら、きっと——」
 悪戯っぽい笑みで告げるパチュリーにレミリアは眼を一瞬眼を丸くする。洪水によって洗い流された感情はもう残っていない。陽の光に燃え上がる激情は消えてしまった。
 だから、そこに残っているのはたった一つ。
 止まない雨はない。洪水に押し流された木々も、運ばれた土砂も生き物だった残骸も。時が過ぎれば全てが土へと還る。そして新芽が森の再生を告げる。終わらない過去を洗い流した彼女が浮かべるのは。
 ばかみたいに明るい、子供のような笑顔。












 終章 Annus mirabilis!





 そんな期待的なことを書けば貴方は意外だと苦笑するのでしょう。もしくは、詩でも詠うみたいにして来年を素晴らしいものにするであろう要素を並べ立てる。どちらにせよ、私にとっては面白く無い答えが返ってくると確信しています。だから今日は事務的に近況を綴るに止めようと思います。
 まずは、お久しぶりです。例的引用をするのならば。おそらく二年前はユーカリオンにとっても最悪の年(Annus horribilis)だったと思いますが、この二年間はとても多くの事が変わってしまいました。まず、最初に言わなければならないことは——』


 「パチュリーさん。お手紙の進捗はいかがですか?」
 「うおっ?! 急に話しかけないでよ『紫』。つか、さりげなく見ようとすんな」
 「良いじゃありませんか。どうせ私が運ぶんですから」
 「プライバシーも糞もあったもんじゃないわね。この管理者さまに掛かれば」
 「人間にこの場所を知られる訳には行きませんから。我ながら譲歩していると思いますよ。こうして手紙を届けたり、携帯(セルフォン)を貸し出したり」
 「そこを突かれると辛いわね。あっ、その携帯だけどちょっと充電切れそうだから、予備の電池くれない?」
 「発電くらいできないんですか? 七曜の魔女の名が泣きますよ」
 「工学は専門外なのよ」
 わざとらしく嘆息を残し背後の気配はどこかへと消えてしまった。机の上には真新しいバッテリーと、どこへ繋がっているかも分からない充電器が置かれている。
 あまりにもいつも通りな紫の対応に、パチュリーはもはや感嘆すら覚える。
 紫——当人曰く、G社所属のユカリと容姿と能力が瓜二つな他人——は、この土地。幻想郷の管理者を名乗った。管理者と言う肩書きにはあまりに不似合いな自由な気質に、最初こそ戸惑ったものの、最近はすっかり慣れてしまった。
 今日は手紙を渡す約束になっている。訳あってユーカリオンを離れたパチュリーが、久々の手紙を出すために協力を依頼したのだ。因みに、先ほどの催促は本日五回目のものである。
 気を取り直してパチュリーは羽ペンを手に取り、書きかけの手紙に向かう。


 私達は引っ越しをしました。私達が今住んでいるのはマンハッタンでもなければアメリカでもありません。日本のある土地を間借りした別世界、幻想郷と呼ばれる土地です。ここは特殊な結界が張られている様で、普通の人間には認識できないし入ることもできません。なので、今日まで手紙の一つも出せませんでした。
 と、畏まって綴りましたが、そんなことくらいは知ってますよね。ケータイの電波は届くし、何度か電話もしましたものね。リズから聞きましたよ。ユーカリオンはオーストラリアの企業への売却が半ば決まったらしいですね。昨年末に起こった事件で後遺症を負った患者に薬を提供するのは良いですが、体には気を付けて下さい。あなたは人間ですから、私と違って眠らず食べずでは体を壊してしまいます。因みに、このことをレミリアに伝えたら相変わらずめげない男だと鼻で笑っていましたとだけ追加でお伝えしておきます


 そこまで書いて彼女が追憶するのは引っ越しの道程について。わがままな二人の子供を連れた二ヶ月間の旅行を追憶していた。それは物見遊山にユーラシア大陸を経由した結果、軽い冒険小説が書けそうな体験をするはめになってしまった。だが、それは手紙でつづるには長すぎるし何より本筋と関係がない。全省略を決意すると同時。騒がしい二つの足音が近づいてきた。
 軽く手を打ち、先に彼女達について書こうと筆を走らせた。
 「おねーさまー。待ってよー」
 「フラン。主が時間に遅れるなんてもっての他だ。そんなんじゃ、下の者が着いてこないぞ」
 「先に起きたの、私でしょ!」
 「身支度はお前のほうが遅かっただろ!」


 レミリアとフランドールはすこぶる元気です。元気過ぎて頭が痛い節があるのは認めざるを得ませんが。
 レミリアは今、幻想郷で紅魔館の当主として暮らしています。この後に記しますが、それなりの所帯になってきたので、本人的にはやりがいのある日々だそうですよ。
 フランドールを冷凍サンプル片一つから再生させるのには苦労しましたね。とは言っても、抱卵中の鶏みたいにフラスコを抱えるレミリアに一番苦笑していたのは貴方ですから、ご存知とは思いますが。
 二人の仲については、まず予想通りと綴っておきます。毎日元気に喧嘩ばかりをしていますが、当人は満更でもなさそうなので良いんじゃないでしょうか


 「急ぎなさいよっ! とにかく今日はこれからお茶会(ティータイム)なんだから」
 「ま、待ってよ、お姉さま! スペルカードの登録って明日まででしょ? このラストスペルだけでも作っとかないと間に合わないの!」
 「あー、まどろっこしい! 私が名前考えたげるから見せなさい!」
 「ふざけんな、私まで変な眼で見られるじゃないの!」
 「なにをー!」
 『スペルカード』ここ最近で急に身近になった単語にパチュリーはまたもや唸る。


 因みに、私達の済む館、紅魔館ですが。これは命名決闘法(スペルカードルール)の試験に付きあうことを引き換えに譲り受けたものです。命名決闘法(スペルカードルール)に関してはまだ私も把握しきれていない部分が多いので割愛しますが。まぁ、食料も提供されるし、中々由緒ある館らしく住み心地も悪くなく。何よりも図書館が併設されている素晴らしい場所ですよ。悪戯好きのサキュバスまで着いてきたのが玉にキズと言えばそうですが。
 あ、私パチュリー・ノーレッジはその図書館に住んでます。魔法の研究し放題なのでサイコーです。以上


 「パチェ。あんたもいつまでも手紙なんか書いてないで座んなさいよ」
 「私は別に準備もないし最後で良いでしょ。今筆が乗ってるのよ」
 フランとレミリアは図書館のど真ん中に設置された長机に向かって脚をぶらつかせている。お茶会に合わせて臨時で設置したものだ。
 「お嬢さま。妹さま。お茶会までしばらくあります。軽いクッキーなどはいかがでしょうか」
 「うむ。ありがたく頂くぞ。咲夜」
 手際よくお茶会のセットをしながら、二人の前にクッキーの乗った小皿を差し出すのは古典的なメイド服。
 「あ、居た居た。咲夜さーん。庭掃除終わりましたよー」
 「ありがとう美鈴。でも、服のホコリと泥くらい払ってから来るべきじゃないかしら」
 「えへへ。それもそうでした」
 ゆったりとした足取りで階段を降りてきたのは、大陸風の衣装を来た女性。頬には泥と頭や裾に枯れ草が絡みついてる。素早く駆け寄った咲夜がそれを正す間、終始はにかんだような笑みを浮かべていた。彼女たちは新しく加わった家族だ。


 あと、新しい家族が二人ほど増えました。一人は十六夜咲夜。幻想郷に来てすぐの頃に身一つで紅魔館の扉を叩いた変わった人間の女の子です。異常に手先が器用なのと、几帳面な性格なのでメイドをやらせています。レミィ曰くは吸血鬼ハンターの臭いがするとか楽しそうに言ってますが、まぁ、当人たちが楽しそうだし良いのではないでしょうか
 もう一人は紅美鈴。日本に来る途中で出会った、中華系のオカルトです。こっちは普通にレミィに喧嘩を売って、コテンパンにやられた挙句無理やり部下にされた可哀想な奴。気の利くやつだし、武術の心得もあって隙の少ない妖怪だから紅魔館の門番兼受付をやらされています。まぁ、当人も満更でもなさそうだし良いんのではないでしょうか


 突き刺さる視線を感じて筆を置く。どうやら主賓がクッキーを食べ終えたらしい。配膳台に置かれたショートケーキを横目で三秒おきに確認しつつ。早く来いと眼で訴えてくる。
 「まだお茶会の準備が終わってないじゃない。出来てからで良いでしょう」
 「申し訳ありません。今すぐにでも終わらせますので……」
 「あー。良い良い。元はといえば、この時間にルーズなんだかシビアなんだか分からん気まぐれな連中が悪いのよ。そもそもまだ予定の時間まで十分以上あるし」
 足音と、食器の触れ合う音が軽快なリズムを刻む。咲夜は極めて優秀なメイドだ。時間を縮めでもしたみたいに全ての仕事を迅速かつ完璧にこなしてのける。
 その彼女の腰には銀色の時計が輝いている。つい先日に、彼女がメイド長に就任した折。パチュリーからプレゼントしたものだ。肌身離さず持ち歩いてくれるのは嬉しいが、過去の記憶が蘇り不安な気持ちを抑えきれない。
 パチュリーが咲夜を視界に入れる度に、手招きをして動作確認を行うのはもう病気のようなものである。
 「そう言えば咲夜には銀時計を持たせたんだな。大丈夫なのか、あんな制御の難しい魔導具を人間に持たせても」
 「レミィじゃあるまいし。大丈夫よ。ねぇ、咲夜」
 「は、はぁ。一応使い方はご指導いただけましたのでひと通りは。しかし、良いのでしょうか? 一介のメイド。しかもただの人間である私がこんな大事のものを頂いた上に、大事な儀式に参加などをしても」
 「良いの良いの。ウチ人手不足だし。それに咲夜には英雄さまを私のところまで案内するって大切な役目があるじゃない」
 俯いた横顔には咲夜には珍しい弱気が浮かんでいる。
 「大丈夫よ。あなたの世界は人の扱う力としては破格で、オカルトとしてはありふれた範囲のもの。余程の相手じゃない限り引けは取らない。折角なんだから見せびらかせば良いのよ。あなたの人間離れした集中力が反映された世界をね」
 普段の鉄面皮ばかりを見ていると忘れそうになるが、彼女も年頃の少女だ。揺れ易い心を常に抑えつけられる訳ではないのだろう。
 彼女はまだ十分に知らないのだ。己がどれだけの才能に満ち溢れているのか。己がどれだけ大切にされているのか。どれだけ皆から愛されているのか。その幼さ故に。
 相も変わらず俯いたままの頭をとりあえず掻き回しておく。おもちゃを取るなと訴えかける吸血鬼の視線はとりあえず無視をした。
 「ねぇ、美鈴。あなたは門番の役割よ。紅魔館の顔なんだから派手にかましてやりなさい!」
 「お任せを。初仕事ですからはりきって行きますよ」
 「ねー、お姉さま。私は? 私は?」
 「あんたは裏ボスよ。一度は征服したはずの魔王の城が再び闇に包まれる。不審に思った英雄が再び訪れた城で遭遇したのは、地下に幽閉された狂気の吸血鬼。人を見たこともなく、生まれてずっと一人だった彼女は、遊びにでも誘うみたいに初めて見た人間に襲いかかるの。なーんて、格好良いでしょ? 昨日頑張って考えたのよ」
 「うわっ……、ひくわ……」
 「ちょっと、表出ようか。久々にキレちまった……」
 睨み合う二人の間に、現れたのは焼きたてのストロベリータルト。素知らぬ顔で咲夜がそれを切り分ける内に、険悪なムードは掻き消えてしまった。
 「パチェ。そうえいばあんたはどうやって戦うの?」
 「喧嘩売ってんの? ここなら魔法はずっと楽に使えるし。奥の手は他にもある」
 「へぇ。まぁ、安心したから良いよ」
 

 最近の研究を報告するなら、賢者の石の製造法を確立したことが、一番の成果かもしれません。この賢者の石は一般にイメージされる卑金属を金に変えるといった単純なものでなく、五属性を閉じ込めたもので、術としては魔力蓄積の技術に近く——


 その魔術的構造と現代工学的手法の応用について解説しようとした所で筆が止まる。
 違う。そもそもあの夢想家になにを報告した所で、同じなのだ。もう知っていたとでも言わんばかりの顔で苦笑されるだけだ。そんな下らないことのために腕を痛めてまで仔細な近況を記すのは癪(しゃく)だろう。
 急に沸き上がってきた怒りを、手紙と一緒に丸めて捨てる。再び白紙になってしまった手紙を前に、またパチュリーは唸りだした。
 「どうせなに書いたって、あいつは詩でも謳うみたいに読み上げて馬鹿にするだろうし——、あぁ。そうか、詩か」
 口元を歪ませ警戒に羽ペンを走らせ始める。
 それはひたすらに情緒的で具体性の欠片もない一文だ。どう頑張ったって意味なんて汲み取れるわけがない。それで良いのだ。次に携帯で話した時にでも、馬鹿にするネタになれば十分なのだから。
 『私はただただ恋願う——』
 短い手紙を綴り終え、羽ペンを置くと同時にサキュバスに腕を引かれる。
 「はいはい。分かりましたよ。貴女は座らないの?」
 無言で首を振る。恥ずかしがり屋なのか、すぐに姿を消してしまった。あのサキュバスは長い間図書館の中で空間を共にしているが未だに意思疎通が取れない。照れ屋なだけで悪意の無いことが分かっているだけに残念だとパチュリーは感じていた。
 机の上では既にお茶会が始まっていた。ある者は茶を飲み、ある者はスペルカードを前に唸り、ある者はお代わりの茶を淹れている。
 騒がしい机の中、人数分用意された椅子の内空いていたのはレミリアの隣だけだった。仕方なしにそこへ座り、食べかけのストロベリータルトを強奪する。
 「お前な……、うん? 髪留め、新しいのに変えたのか?」
 「よく気がついたわね。可愛いでしょ」
 それはなけなしの貴金属から鋳造した一点もののアクセサリ。おまじない程度ではあるが魔術付与もされている。数日前の夜中に完成させたばかりの自信作である。
 「珍しいな。パチェが服飾に気を使うなんて」
 「久々にキレちまったよ……」
 咲夜の冷たい視線を感じてパチュリーは苦笑する。
 「英雄さまと会うんだし。エスコート役とはいえ粗相の無い様にしようかとは思ってね。まぁ、安心しなさい。あんたの英雄を独り占めしようなんて思ってないからさ」
 「私の英雄さま……、か。そうだな。だが、私は英雄に勝てるだろうか」
 テーブルが俄に静まり返る。静寂の中、皆の視点は俯き気味の魔王へと注がれていた。
 「どうでしょう。それはお嬢さま次第では」
 「お姉さま弱っちい上に魔法は苦手だもんねー」
 「油断さえしなければお強いと思うんですが……」
 「だってさ。レミィ」
 吹き出しそうになる笑いを堪え、辛うじて返事をする。だが震える肩を隠しているのは自分だけではない。レミリアの死角に回りこんだ鉄面皮を睨みつけたら、朗らかな笑みが返された。
 「あんたらちょっと酷くない?」
 「そんだけあんたに期待してんのよ。ほらっ、しっかりしなさい。ラスボスがそんな調子じゃ、英雄さまも拍子抜けよ」
 「うるさいなぁ。待ちに待った日なんだよ。一杯におめかしして、王子様に迎えにきて貰う日なんだから。少しくらいナーバスになるのは仕方ないだろう」
 膝の隙間から三白眼を覗かせるレミリアに、パチュリーは溜息を吐いた。
 「その通り。だけど、ごっこ遊びよ。気負いすぎても仕方ないでしょ?」
 「そうだな。これはごっこ遊びだ。誰も傷つかない。ただの遊びだ。だけど、限りなく本物に近いごっこ遊びだ。誰かが死ぬ可能性だって十分にある」
 誰もそれに答えようとはしない。誰もが眼を背けていたい事実で、それに触れないことは暗黙の了解。
 「本物の悪役に仕立てあげられて、永遠に幻想郷を追放される恐れもある」
 最初に紫がその魅力的な提案を持ってきた時から、リスクは予想されていた。それをあえて口にしなかったのは、必要が無かったからだ。
 「それでも、私は明日宣戦布告しようと思う」
 知っていようがいまいが。レミリアに退くなんて選択肢は最初から無い。ならばこの思いつめたような顔を黙って眺めることはパチュリーの義務だ。もう二度と裏切らない。そう決めたのは彼女自身なのだから。
 「明日の朝。この幻想郷全ては紅い霧に覆い尽くされる。真昼でも私が散歩できるくらいの霧だ。人里は大混乱間違い無しだろう。そうなれば英雄はこれを異変と断定し動き始めだろう。これは命名決闘法(スペルカードルール)に乗っ取った初めての異変だ。命のやり取りは無い。そういう触れ込みだが、この世界のどこにもそれを保証する奴は居ない。考案者である博麗の巫女や八雲紫ですらだ。そして、英雄としてやってくる当代の巫女はオカルトに容赦がないと評判だ。一度腰を上げれば解決するまで止まることはなく、鬼神の如き強さは単騎で魔界を制圧せしめる」
 声質の一片からすらもレミリアの緊張は読み取れる。あれはこの場の誰よりも英雄の偉大さを知っているはずだ。手を握ってやろうとして、止めた。確かに手には汗をかいている。声には震えすらある。しかしそれは過去のことになりつつあったからだ。
 気負いが抜けたのか、頬を掻く姿にパチュリーは思わず苦笑した。
 「あー……、違うよなぁ。私が言いたいのはそんなつまんないことじゃないんだよ。なんて言えば良いのかな。確かに、生半可な覚悟で対峙するのは良くないと思うんだよ。あー、なんだ。だけどさ、恋のためとか。私のためとか。そんな小難しい話は一旦置いといて良いと思うんだよ。結局の所、私は咲夜の紅茶が大好きなんだ。毎朝美鈴と体操をするのが楽しくて仕方がないし、パチェが居ないとお茶の時間が暇で仕方ない。フランは私が居なきゃ寂しがるだろうしな」
 聞く者の反応は様々だ。一人は瀟洒に頭を垂れ、一人は朗らかに笑い、一人はガッツポーズを取り、人は悪態をつき、一人は中指を立てる。共通しているのは口元に笑みが浮かんでいることくらいだろう。
 「だからさ……、うまい紅茶を飲めるのは生きてる間だけだから。みんな、怪我しないように異変を闘い抜こう。そんで、終わったら英雄様を交えて、みんなでもう一度お茶会を開こう。咲夜の焼いたスコーンを食べながら、異変のことを笑い合うじゃないか」
 それは、随分と遠回りをした彼女の願い。数限りない挫折を超えてやっと手にした、正真正銘最後のチャンス。その言葉に異論なんてある訳ない。
 各々が顔を見合わせ、各々がうなずく。フランだけはそっぽを向いていたが、羽は上下に揺れている。
 返礼としてレミリアが浮かべるのは、大人びたそれでいて子供のような無邪気さをはらんだ笑顔。
 何者にも奪わせてなるものか。そんな決意を籠めて、パチュリーは微笑み返す。
 二〇〇三年の夏。紅い月の浮かぶ夜の事だった。
 『
 ——私はただただ恋願う。
 ——この永遠に紅き少女の初恋が、今度こそどうか良き形で実りますようにと。
 』