BOOKS 東方同人誌

肥溜め落ち太郎 / 水田アマガエル のアバター画像
[ クリエイター ]
肥溜め落ち太郎 / 水田アマガエル

Rabid Rabbit 

2017年03月11日更新

カテゴリー
東方同人誌, 小説
発行イベント
例大祭12
ページ数
135
版型
新書
発売日
2015/5/10
価格
700円

 『おはよう、レイセン』


 たどたどしい宣言に続いて、彼女の視界は真っ赤に塗りつぶされた。間もなくして網膜上に次々とウィンドウが投影される。終わることの無いウィンドウ展開と乱立するパラメーターに、彼女は慌てた様子で強制停止を指示した。それから、ふらふらと揺れて近くの柱にもたれ掛かる。脳内に流れこむ情報の濁流が、彼女に酔いを誘っていたからだ。
 受信感度、二十パーセントカット。
 機械音声が彼女の声を追随し、流入する情報が減少を始める。胸を抑え大きく息を吐いた彼女は、一つのウィンドウへ眼を向けた。歪な波の映るウィンドウだった。
 それはひどく不規則で、ひどく揺れの小さな波だった。弱々しい波打ちとは対象的に、彼女の鼓動は強まる一方だった。生命兆候、ウィンドウの上にはそう記されていた。
 それは、受信機を通して読み取った対象の生体情報だった。
 これは、一般的な玉兎に備わっている『玉兎通信』を応用した神経への干渉だった。
 本来は簡単なテキストデータの送受信程度にしか使えないそれの基幹構造はそのままに、新たな利用法を訓練することによって身につけた新たな能力だった。
 だから、数カ月前の網膜にはディスプレイなんて映っていなかった。
 だから、数カ月前の脳内には機械音声なんて響いていなかった。
 不意に届いた電子音に彼女は顔をしかめた。画面端に現れたウィンドウが、無機質なテキストデータを流し始めたからだ。


 名前:■■・■■■■
 年齢:■■歳
 性別:雌
 所属:月面機動部隊 第一分隊
 来歴:[削除済み]
 状況:■■■■は■■作戦に参加させるため雨の海に派遣していましたが、該当地にて■■■と交戦中、クレーター・アルテミス付近で狙撃を受け腹部を損傷しました。応急処置により一命はとりとめましたが、戦闘続行は不可能と判断し救護所へ移送しました。到着の直前に意識レベルがⅡへ移行しています。その他バイタルも低下傾向にあり、早急な『処置』をHQは求めています。


 そして彼女は大きく息を吸い、宣言した。
 接続開始。
 機械音声に追随し網膜投影ディスプレイが消失する。脳髄の揺れる不快感。そして脳内に構築された仮想三次元画像表示領域。三次元マッピングされた神経網が、そこに浮かび上がっていた。
 それは人型を取っていた。中枢神経、そして全身にくまなく存在する末梢神経網の更に末端までも漏らさずに可視化された光の線。彼女はその外形を目の当たりにした。
 強制切断。
 仮想領域が消え去り、開かれたままの両の目に可視光が映り込む。あまりに早すぎる視界の変化に、置いて行かれた神経網が重なった。
 彼女は両の腕で己の体を抱きしめた。周りの誰も彼女と眼を合わせようとしなかった。助けはなかった。あるのはただ『処置』をせよとの命令だけだった。
 彼女は医者ではない。形ばかりの講義で身につけた知識を幾ら漁った所で、『やるべきこと』など見つかるはずもなかった。
 時間ばかりが過ぎる中で、横たわる患者が眼を開いた。不運な患者には意識が残っていた。微睡んだ視線と呻くような声は、数分もしない内に壮絶なものへと変化するだろう。彼女は何度も似たような光景を目の当たりにしたことがあるので知っていた。
 患者は懇願するような瞳を彼女に向けた。
 彼女は『やるべきこと』を見つけた。ただしそれは消去法的に導き出された物だった。
 患者は相変わらず彼女に視線を送っていた。他の誰も彼女を見ていなかった。そして彼女は震える瞳孔で、患者に再接続した。
 宣言に続き仮設チャネル開設シークエンス―生体内微細構造体<>によりナノメスを構築。アクソン壁面を切開し、仮設チャネル構築する―が実行される。
 それは改変された玉兎通信の中核を為すシステムだった。ほとんどが自動で実行されるそれの制御は、決して難しくないはずだった。
 エラー。チャネル構造崩壊。壁面緊急縫合。失敗。
 排出されたメッセージに彼女は動揺した。制御を失った生体内微細構造体は異常なパルスを生んでいた。それが患者を犯しはじめていた。
 波長変換強度が急速に低下していた。既に受信感度は最大まで引き上げられていた。縫合シークエンスのエラーがウィンドウに映っていた。
 理由は分かっていた。
 接続限界。全シークエンス緊急停止。強制切断。
 赤味の抜けた視界の中で患者は彼女を見ていた。徐々に歪んでいく表情を前に、彼女は眼を閉じた。耳を塞いだ。悲鳴の無い世界に彼女は取り残された。
 真っ暗なそこに懇願するような視線は無かった。仲間の無責任な声は無かった。ただ無機質な機械音声だけが、いつまでも響いていた。
 『おはよう、レイセン』




 がんばれウドンゲ ぶらっく研修
 ~君がドクターになった理由~





 ひどい耳鳴りが頭の中を満たしていた。
 「■■■■」
 彼女の鼓膜はその声を確かに蝸牛へ届けていた。ただし、頭蓋の内側では灰白色がすっかり懸濁されてしまっていた。
 「■■■■!」
 胸の奥で心臓が飛び跳ねていた。
 通常の倍程の時間を掛けて、脳は誤った認識を正した。
 耳鳴りなど最初から起こっていなかった。脈打つ心臓が頭を揺らしていた。膝を揺らしていた。
 揺れる瞳孔が捉える光子は変質を重ねていた。
 赤味を帯びた視界に色が戻りつつあった。
 弾痕とほこりにまみれたコンクリートは清潔なPVC幕になっていた。曳光弾の照らす夜空には青白い蛍光灯が浮かんでいた。絶え間なく轟く爆音は、行き交う看護師達の喧騒だった。手術台に乗っているのは、浅い呼吸を繰り返す幼い少年だった。
 タングステン弾に貫かれた半身の兎はどこにも居なかった。
 「優曇華!! バイタルサイン危険域よ」
 彼女は確信した。ここは戦場じゃなけど、間違いなく戦場だ。
 「強心剤投与」
 「良いんです? 最後の一本ですけど」
 「構わないから。早く」
 そこに立つのは一人を除いて兎だった。あるものはガーゼを手に。あるものは計器を監視し。あるものは雑談に興じ。あるものは器具を帳簿と見比べていた。慌ただしさを増す戦場の中心で、彼女の横にシリンジを持った兎が歩み寄った。震える指先がそれを受け取り少年の腕に突き刺した。
 警告音は鳴り止まない。少年の顔に生気は無い。トーンの変わる警告音が生命反応の停止を告げた。
 それが呼び起こしたのは強烈な既視感。
 再び世界は歪んでいった。
 PVC幕はコンクリの壁に。看護師達の喧騒は爆裂音へ。
 手術台に乗っているのは、蒼白な顔をした半身の兎。
 込み上げる嘔吐感。地に落ちるガーゼ。意識よりも先に下がる踵。浅い呼吸が彼女の限界を告げていた。砕けた腰に引きずられるように、彼女は床にへたり込んだ。
 その背を包んだのは仄かな温もり。
 「落ち着きなさい。優曇華」
 彼女を捉えたのは力強い瞳。
 「その子は、あなたにしか救えない」
 それは子供に言い聞かせるみたいに。ゆっくりと時間を掛けて。揺らぐ瞳孔が落ち着きを取り戻していく。
 我に返った様に頭を振った彼女は深く頷いて、その瞳を見つめ返した。
 「心臓マッサージ、準備」
 兎達はほんの少しだけ慌てた後に、一糸乱れぬ動きで準備を進めた。
 ある者は少年を支え、あるものは少年に取り付けた開創器を取り外す。
 その光景を前にする彼女に先ほどまでの迷いは無い。
 蛍光灯が照らす手術室。
 鈴仙・優曇華院・イナバは大きく深呼吸をした後に、少年を真っ直ぐに見つめた。









 ◇◇◇
1.Resident Rabbit


 静かな夜だった。
 当然だった。時刻は深夜四時、襦袢一枚で過ごすにはあまりに寒い秋である。こんな時間に縁側に用事のある者など居るはずがない。物音がしないのは当然だ。
 だからそこをてゐが通り掛かったのは、まったくの偶然に決まっていた。
 「名月や、池をめぐりてなんとやら……、っと」
 行灯の揺れる縁側に、背筋を伸ばした兎が腰掛けていた。
 「月は綺麗だったけどさ。見とれて夜明けは、風邪の元じゃないかな」
 だから、彼女の隣にどっかりと腰掛けるのは、全くの偶然に決まっていた。
 真横に迫った瞳は真っ黒な空をみあげている。耳障りな電子音が、奥歯の裏から響き始めた。
 「あの子は?」
 普段通りの飾り気ない口調で、鈴仙が尋ねる。
 「霊安室――蓬莱山輝夜の能力を利用した停滞室。主に遺体や食品を保存する目的で使われている――に運んだよ。明日の朝には家族が迎えに来るってさ」
 そうとだけ答えて鈴仙は黙りこんだ。横顔が見上げる夜空に月は居ない。その馳せる思いの先を予感し、てゐは大きくため息を吐いた。
 「あの子はどうせ助からなかった。末期の癌だったんだ。お前のせいじゃない」
 「知ってる」
 「永遠亭に運ばれてくる人間は基本的に里じゃ対処できない難病患者ばかりじゃないか」
 「知ってる」
 小児がんは進行が極めて早い。鈴仙の担当した患者は、永遠亭に運ばれてきた時点で全身への転移が進んでいた。助かる見込みが薄いことは誰の眼にも明らかだった。
 それでも手術を試みたのは永琳のすすめがあったからである。
 そこには月の頭脳なりの考えがあったのだろう。しかし、その考えが明かされることも無いまま、鈴仙の施術と少年の人生は終わりを告げた。
 「二十七回目よ」
 「そうだな。執刀医として、お前はまだそれだけしかあの扉をくぐっていない」
 暗い廊下の向こう側、光の消えた扉がそこにはあった。
 「私が、看取ったのは」
 「知っているよ。だがそれがどうした。お前はお師匠様に従っただけじゃないか。ただその結果として患者が目を覚まさなかった。それが偶然に二十七回続いた。ただそれだけの話じゃないか」
 「決めたのは私よ」
 「承認したのはお師匠様だ」
 「助かる可能性はあった。より精度の高い腫瘍位置の予測、それから効率的なプランが立てられていれば、私が優秀な医者だったなら。きっと」
 軋む音がてゐの耳には届いていた。握りこぶしの横側に深い爪痕があったことに、てゐは気がついていた。
 「あんたは逃げてない。最後まで手術室に居たし、少年の死亡判定も出した。あんたは職務上果たすべき義務は果たした。それで十分じゃない?」
 露骨なまでに挑発的となっていた口調に、てゐは自身が苛立ちを覚えているのだと悟った。退くにも退けず、仕方なしにてゐは紅の双眸をにらみつける。
 「患者を救うことよ。私はお師匠様からそう教えられた」
 それは冷静な口調だった。しかし、その身は立ち上がっていた。それは愚直な瞳だった。己の考えを微塵も疑っていない者だけが見せる光だった。
 じぃじぃ。じじじ。にわかに激しさを増す電子音に、てゐは顔をしかめた。
 「鈴仙、私達は兎だよ」
 「いいえ、私は玉兎。地上の妖怪兎と一緒にしないで」
 「同じだよ、鈴仙。私達は自分以外のなにかを気にかけるようには出来てない」
 「いいえ。私は玉兎で……、今は医者」
 紅の瞳がてゐの目の前にあった。耳奥を這いずる電子音は激しくなる一方だった。しばらくそうした後、先に眼を逸らしたのは鈴仙だった。
 「てゐ、私はまだ頑張るからね」
 ふざけるな。反射的に出掛かった言葉は咽頭部で止まった。
 踵を返した背中をてゐはただ黙って見送ることしか出来なかった。
 「そんなことは、もっと明るい顔で言えよ」
 誰も居ない縁側に響くのはため息一つ。電子音はどこにもない。
 不気味なほどに静かな夜だった。




 ◇◇◇


 因幡てゐは誰より物を知っている自信があった。
 並の妖怪より長く生き、力の弱さを補うための知識と経験を磨き続けた彼女のそれには、確かな根拠があった。
 少なくとも彼らと出会う前のてゐは、そう思っていた。
 「なーにやってんだ、こいつは」
 大げさにため息を吐きながらてゐは言った。時刻はお昼前。兎通りの少ない縁側で鈴仙が眠りこけていたからだ。
 「まーたモデルガンのカタログか。好きだねぇ。ほんと」
 分厚い本に突っ伏す鈴仙の口元からは、だらしなく涎が垂れていた。見慣れた光景で、それでいて懐かしいそれにてゐは肩をすくめる。そして、手ぬぐいを片手に近寄った。
 しかし、その指先は筋を拭う寸前に止まる。
 「そっか、すっかり変わってしまったんだな。お前は。まぁ、私も暇だ。茶でも飲ませて貰うかね」
 てゐはそのまま鈴仙の隣に腰掛けると、懐から水筒を取り出した。揺れる笹の葉を眺めるてゐが見るのは、少し前の光景。それは十年程前で、六十年周期の花の異変のしばらく後のことだった。
 まぶたの裏の彼女は、縁側に寝転がりモデルガンのカタログを広げていた。

 「私は力が欲しい」
 脚をばたつかせながら彼女はそう語った。
 「あー、鈴仙。誰にでもそう言う時期はある。そう、私だって若い頃はスサノオ様に憧れて、その辺の枝にクサナギブレードなんて名づけたりしたもんだ」
 「マジかそれは恥ずかしいな」
 振りかぶられた拳はすんでの所で収められ、代わりにローキックが放たれる。造作もなく回避した鈴仙に、てゐは舌打ちを送った。返されたのは真面目腐った横顔だった。
 「閻魔様に怒られたのよ、私は地獄行き確定なんだってさ。まぁ、当たり前だよねー、軍人として殺すだけ殺して逃げたんだから」
 自嘲か諦めか。不自然なくらいに軽い口調の鈴仙に、てゐは苦い笑みを浮かべた。
 「だから、犯した罪を帳消しにするだけの善行を詰む、そのための力が欲しいって? その心意気は認める」
 「そうでしょう。そうでしょう。もーっと褒めても良いのよ」
 自慢気に鼻を鳴らす鈴仙にてゐは口をへの字に曲げる。
 「――けど、鉄砲のカタログなんて広げながら語ることじゃないと思うよ」
 「だ、だーってさぁ!! 久々のオフなんだよ? 二週間ぶりの休日なんだよ? 真っ昼間からだらだら縁側でモデルガンのカタログ眺めたって許されるよね? 数少ない趣味なんだよ?」
 「分かった。分かったから。くっつくな。気持ち悪い」
 そのあまりに見事な泣き顔に覚えた嗜虐心を、てゐは昨日のことのように思い出せた。
 それは鈴仙が突然に医者になると言い出した日の記憶。
 丁度今日と同じ、よく晴れた昼間。柔らかい風の吹く秋だった。

 「鈴仙、休める時に休むのは、健康の秘訣だぞ」
 ラテン文字と顕微鏡写真の踊る図鑑を撫でながら、てゐは湯呑みを傾けた。
 今日はその日と同じ診療所の休診日。本来なら鈴仙の研修に費やされるはずのそれは、永琳が早朝に一日ラボに篭もると宣言したことで文字通りの休暇を鈴仙にもたらしていた。
 「一人でお師匠様がやることなんて決まってるか。あの人の製剤技術についていける奴なんて。この永遠亭には誰も居ないだろうし」
 ずずり、ずずり。気が付けば縁側に響くのは茶をすする音ばかり。ふいに所在のなさを感じたてゐは、ボールペン――倉庫の奥から発掘されたもの――を握ったままの指先をそっと撫でた。
 てゐは知っている。
 それは鈴仙の努力の結晶であり、罪の証だ。
 「全くよくやるよ。こんな手でさ」
 細められた視線が向かう先は、親指の付け根に残る深い傷。それは鈴仙が決して短くない時を荒事と共に過ごした証明だった。
 その幾つかは末梢神経の細胞までを傷つけている。
 抹消神経を構成するニューロンの内、細胞体だけは再生能を持っていない。肉体への依存度が高い妖獣は、そうした傷害に極めて弱い。
 もしも鈴仙が通常の妖獣であったなら、嗅覚神経鞘細胞の一部――全身の神経の内唯一細胞体が再生する部位――を移植し再生を目指すこともできただろう。しかし、彼女は玉兎である。玉兎は地上とは全く異なる過程を経て成立した生命だ。特に顕著なのは玉兎通信に見られる生体情報網だが、それは生命の範疇を遥かに超えており皺寄せは玉兎の精神と肉体の各所を蝕んでいる。頭部全体における神経網の極めて高度な分化により嗅覚神経鞘細胞が再生能を失ったのはその一つである。
 その結果が引き起こすわずかな震えや感覚の麻痺は、日常生活を送る程度ならば問題にならず、医者にとっては致命的であるはずだった。
 「震えを抑えるだけでもやっとの癖にね……」
 しかし、実際に鈴仙は七年と少しの期間を費やしてメスを握った。
 損傷部位から発生するノイズにはいくつかのパターンがあり特有の予兆がある。それを常時モニタリングし、適切なアンチパルスを送ることで震えを低減する。
 喜色満面の笑みでそのシステムを解説する鈴仙を、てゐはよく覚えていた。
 それがどの程度の負担を鈴仙に与えるのかてゐは知らない。
 そこに辿り着くまでにあった苦悩をてゐは知っている。
 「壊れてくれるなよ。お前は私の大切な……、玩具だから」
 一際に大きな溜息。そして庭を抜ける秋風がぶるとてゐの体を震わせた。陽が差しているとはいえ、縁側で眠るのに適切な気温とは思えない。
 「全く手の焼ける。ブランケットあったかな」
 よっこらせと。重ねた歳を思わせる動きでてゐは立ち上がる。自室へ向けて出された足を止めたのは、太腿に感じる振動だった。小さな電子音に続いて、脳天気な声が鼓膜を震わせる。
 『おはろー、元気してた?』
 「すこぶる元気だよ、どっかの誰かのお陰でね。朝倉」
 『理香子と呼んでよ、てーちゃん』
 「うっせーちゃん付けんな、ころすぞ」
 手のひらサイズの機械へ向けて、てゐは毒づく。それは里と永遠亭で共同開発した小型通信端末だ。やりとりできるのは音声に限るが、同型端末を持っている限り幻想郷のいかなる場所でも会話できる。十年と少し前に開発されたばかりではあるが、古くから存在する念話やマジックアイテムと言った遠距離通信手段と比較しても圧倒的に簡便で汎用性に優れていることから、人里を中心として広く普及している。
 『せっかくで悪いんだけど、お願いがあるんだよね』
 「何度言えば分かる。私に掛けてくんな。里と永遠亭のホットラインは別にあるだろ」
 『だってさぁ、あんたん所の賢者様は電話取ってくれないじゃないのよ。助手の魔法使いは話通じないしさぁ』
 「お前くらいだよ。お師匠様が避ける人間なんて。つか、魔法使いって誰だよ」
 『心当たりないなぁ。私の才能に嫉妬してんのかしら。でも無理もないかしら。たった二十年で里の科学を外並まで持ち上げた傑物。朝倉理香子は皆の羨望の的だから。あぁ~、困っちゃう。天才って辛いわね』
 「お前……、友達少なそうだな……」
 『天才は孤独なのよ』
 電話口の向こうに、小鼻を膨らませる朝倉を幻視し、てゐは大きなため息を吐いた。朝倉理香子からの電話を永琳に繋ぐなとは、永遠亭の共通認識である。永琳が彼女の質問攻めに辟易していることは、永遠亭の誰もが知っているからだ。
 『患者を一人、受け入れて欲しい』
 「お前の所で対応しろ」
 『それができるのにこんな電話掛けると思う? 稗田の人脈を使って色んな医者を呼び寄せているけれど、全く手に負えない。悔しいけれど、里の医療水準じゃ対応できない』
 先ほどまでと一転した声色が、事態の重さを裏付けていた。お願いよ。続く言葉にてゐは頷く以外にない。
 「お師匠様には伝えておく」
 『明日の朝には輸送班をそちらへ向かわせる。いつもいつも悪いわね。嫌な仕事を押し付けちゃって』
 「別に良いよ。そう言う協定だしそれに、嫌な仕事を押し付けられているのは、お互い様でしょ?」
 『いや。私は連絡のついでに賢者様と話したいだけだよ』
 「ぶちころすぞ」
 赤いボタンを押し込むと同時に、耳元の音声は途絶える。小さくため息吐いた後、首を傾げた。
 里の医療水準で治療困難な患者が発生した場合、永遠亭がその治療義務を負う。それは永夜異変の後、里と永遠亭が結んだ数多くある協定の一つである。だから、重病人が永遠亭に運ばれるのは珍しくない。だが、その頻度が異常だった。平時であれば月に一件あれば多い依頼が、先月は二件。今月は既に三件である。
 「疫病か。幻想郷で新規の病が生まれるとも思えないけど。そういえば、運ばれた患者の症状は聞いてなかったな。今度、お師匠様に聞いとかないと……」
 てゐはあくまでも永遠亭の同盟者であり、妖怪兎の統率が主な仕事である。それに対して永遠亭の主業務は医療。鈴仙の修行本格化と共に兎角同盟を解散した今となっては、
ほとんど医療行為には関わっていない。
 「あ……。ブランケットを取りに行く手間、省けた……、かな」
 眼下に眼をやりてゐは小さく舌を打つ。その人影が、もぞりもぞりと動いていたからだ。
 「おはよう、鈴仙。休日まで熱心だね」
 「うにゃ……。おっしょー……、さま?」
 「そうよ。偉いわね、ほら撫で撫でしてあげる」
 「えへへ……。ごほーび、ごほーび……、欲しーな……」
 「プレゼントは用意してないなぁ。だから優曇華。きっとあなたは幸運よ」
 「らっきー……?」
 「ええ。ほら、庭の真ん中を見てご覧なさい?」
 蕩けた瞳をこすりごすり、兎は身を起こす。
 「にわとり」
 「そう。二羽のニワトリの隣よ」
 「うーん。スプリングフィールドM1873が落ちてる……」
 ゆっくりと背筋が伸び、それに従ってまぶたが開く。完全にそれが見開かれた時、兎はカタカタと肩を震わせた。
 「えっ、マジ? あのリトルビッグホーンの戦いで全滅した、ジョージ・アームストロング・カスター率いる第七騎兵隊が装備してたスプリングフィールドのカービン銃が?! もうほとんど残ってないはずなのに?!」
 そうよ。肯定の言葉も終わらぬ内に鈴仙は宙を舞っていた。美しいムーンサルト――永琳曰くは月の軍隊に古くから伝わる伝統的技術――にてゐは感嘆の息を漏らす。庭の中心へと降り立ったそれは、錆びついたバイヨネットとチェスナットブラウンのストックへ震える手を伸ばした。これ、貰っても良いのかな。もちろんよ。落ちてるんだからそれは拾ったあなたの物よ。甘い言葉に誘導されて、鈴仙の腕は伸びる。
 その指先がくすんだ銀を撫でる。節くれ立った手のひらが銃を掴む。兎の姿が庭から消える。二羽のニワトリがこけこっこと鳴いた。
 「ふがぁっ?!」
 潰れた蛙のような声が巨大な穴から響いた。
 「大丈夫かい、鈴仙。こんな所で地盤沈下だなんて、あなた余程の不運なのね」
 「人工的にな」
 「わたしゃ兎さ。鈴仙ちゃん?」
 当然と言うべきか強情と言うべきか。くつくつと笑いながら伸ばした手は何時まで経っても取られない。返ってくるのは恨めしげな瞳だけだった。
 「ケガがないようでなによりだよ? 鈴仙ちゃん」
 ふてくされた頬は膨らんだまま。泥だらけの腕はカービン銃を抱き込んだまま。
 「……そんなこと言って、また私を騙す気でしょ。同人誌みたいに」
 「や、やだなぁ。私がそんなことするわけないじゃん……?」
 疑いの色を増す一方の鈴仙に、てゐは少したじろいだ。
 因幡てゐは知っている。
 本気キレた鈴仙はワリと怖い。そして鈴仙がキレるタイミングはてゐですら予想がつかない。サプライズにしては少々の――本当にわずかではあるが――やり過ぎがあった事に反省を覚えつつ、てゐは短い両手を精一杯に伸ばした。
 「ほっ、ほら! それ見てよ。本物でしょ? 苦労してお師匠様の倉庫から見つけたんだよ?」
 いぶかしげな眼が双丘に埋もれるそれへ向けられる。大きな溜め息と共に鈴仙の腕が伸ばされた。
 「まぁ、確かに。怪我はない。ほんっと……。体にフィットし過ぎて気持ち悪いわ。この穴」
 「教えてやろうか、私得意なんだよ。墓穴(はかあな)掘るの」
 「あんたが得意なのは墓穴(ぼけつ)でしょ」
 「それ得意なのお前だろ。じゃなくてさ。兎は弱いから。たくさん生まれて、たくさん死ぬ。墓穴はそんな奴らの最後の寝床さ。上達だってするさ」
 「誰が騙されるか、そんなチビの癖して。そうやって良い話にもっていってはぐらかそうたってそうは行かないからね」
 「あら、バレてた? それじゃ私はこの辺で」
 「まぁ、ちょい待てって。お礼が終わってないだろう?」
 逃げようとしたてゐの首根っこが掴まれる。
 南無三。里で小耳に挟んだ祈りと共にてゐは眼を閉じる。その尋常ならざる気配に背筋が冷えていくことを感じていた。
 「鈴仙落ち着こう。ね、話しあえば分かる。悪かったから。ちょっとしたサプライズだったんだよ」
 鈴仙には背を向けたままで、必死で取り繕う。しかし来る時はいつまで経ってもやってこない。代わりに与えられたのは癖っ毛をかき回す小さな手のひら。
 「別に怒ってないわよ、そんなの。いつものことだしそれに、」
 ありがとう。あっけにとられるてゐに掛けられたのは、少し照れたような。その手つきにふさわしい言葉だった。
 「私を元気づけようと拾ってきてくれたんでしょ? 大変だったでしょうに。ありがとうね、てゐ」
 永遠亭の倉庫は輝夜の術によりほぼ無限の広さが与えられているが、結界と妙な形で干渉してしまっている。外からの道具が際限なく流れ込み、空間も滅茶苦茶に歪んでしまったそこの全容は、永琳ですらも把握できていない。
 「あ、そ、そう? まぁ、気に入ってくれたなら良かった……、けど。ね……、あのさ、鈴仙? 今日は休みなんだよね。時間……、あるよね? ちょっと里まで遊びに行かない? 実は新しくできた甘味処が――」
 振り返ると鈴仙は居ない。少し離れた廊下にぴんと伸びた背中があった。
 「ちょ、ちょっと待ってよ! どこ行くのさ、鈴仙! 今日はお休みでしょ、そっちはお師匠様のラボだよ」
 「夕方に少しだけ勉強会をしましょうって言われてるの。まだちょっと早いけど、予習しておこうかと思ってね。あんたも生活見なおした方が良いんじゃない? 健康で長生きしたいならさ」
 「ちょっとまてよバカ鈴仙! 今、十一時だぞ」
 「いいでしょー。私の勝手よー」
 てゐの言葉に振り向くこともなく、その背は廊下の向こうに消えてしまった。それを見送ったてゐは小さな溜息を吐いて腕を組んだ。
 「貴重な薬の合成時間をさいて、必要もない助手に勉強をね……。あのお師匠様が、か」
 胸の奥はじわりと疼きはじめていた。
 因幡てゐは知らなかった。
 どうして永琳は鈴仙に医術を教える気になったのか。
 永遠の寿命を持つ彼女に後継者など必要なはずがない。人知を超えた能力を持つ彼女に新たな手が必要なはずがない。
 たかが玉兎一匹。それも、医師への適性が皆無と言って良い鈴仙にリソースを裂く理由など、幾ら思索を巡らせても納得の行く答えを見つけられなかった。
 「……つまんね。姫様と将棋でもしにいこっと」
 因幡てゐの不安は膨れるばかりだった。




 ◇◇◇


 「ひめさまー。将棋やりま――」
 「ふ、ぐふふふ。ふふふふ」
 その部屋の中央には黒い塊があった。壊れたからくり人形みたいにケタケタと笑うそれは、首だけを百八十度回しててゐを見る。
 「なぁに、因幡。私忙しいのだけど」
 ぎぎし。ぶちり。軋みを上げる骨組織と続く断裂音。あまりにカジュアルな脊髄の損傷にてゐは眼を覆った。
 「姫様、健康は大事ですよ」
 見てて辛い。指の隙間で彼女はからからと笑った。腕を二、三度動かした後ぱたりと突っ伏した。起き上がれないのであろうことは予想できたが、あえて手を延ばすことはしなかった。張り付いた優雅な笑みが事態を誤魔化す気満々だったからだ。
 彼女の名は蓬莱山輝夜、永遠亭の長でありかつては月の姫だった。その肩書に違わぬ美貌と高貴さは畳の上に突っ伏してなお衰えない。
 「将棋なんてのは時間と体力を持て余した暇人がボケ予防に行うリハビリツールよ。全く。明確な寿命のない妖怪だからこそ心の老化には気をつけないといけないのに情けない。健康自慢が泣いてるわ」
 「で、その名誉盆栽剪定師様は昼間っから自室で寝転んでなにやってるんですか」
 よくぞ聞いてくれた。てゐの問いかけに輝夜は無邪気な笑顔で答えた。
 「妹紅を彼岸送りにする機械よ」
 「旅券かなんか送った方が早くないですか」
 違う違う。輝夜が差し出したのはサイコロ状の物体。それは、一見したところではサイコロだった。ただしその側面には小さなスイッチが付いており、所々に剥き出しの基板が覗いている。
 「蓬莱の薬なんて結局のところ量子サーバーへのアクセス権じゃない。通信できなくするか、分子組換機を大気中から除去してしまえば簡単に妨害できる」
 「なるほど」
 「これは小型のECM。永琳は妨害電波の発生装置とか言ってたっけ。アクセス権限を持ったアカウントが損壊した時に発生する特定信号を認識、妨害する事で量子サーバーとの通信を妨げるんだってさ。これの影響範囲内にあるかぎり、蓬莱の薬は役に立たないわ」
 「なるほど」
 「永琳に頼んで作ってもらったのよ。ずいぶん渋ったけど隠し撮りしといた一人ファッションショー動画ちらつかせたらすぐにOKしてくれたわ」
 「なるほど」
 それにしても。てゐは受け取ったそれをまじまじと見る。隙間から覗く基板はいくつかが組み合わさっているがその数は携帯電話よりもずっと少ない。輝夜の話から予想されるよりはずっと簡素なそれに、心の内で嘆息した。
 「お師匠様も器用ですね。お薬以外にもこんなのが作れるなんて」
 「あら、永琳は工学は嫌いであんま詳しくないわよ。単純な妨害信号を出すだけだから小さくて済んでるんだってさ」
 驚きと同時に疑問を覚えた。八意永琳は蓬莱人である。人とは比べ物にならない程の知識と経験を重ね、大抵の感覚は平均化してしまっている。そんな彼女にも選り好みがあることに、てゐは驚きを隠せなかったのだ。
 「まぁ、お師匠様にも人間らしい所はあるってことかな……」
 「そうかもね。知らないけど」
 よっこらせと。ようやく起き上がった輝夜は片手を差し出す。ECMを返せと眼が告げていた。
 おそらくECMを渡せば輝夜は妹紅を殺しに行くだろう。別にそれを止める義理はてゐに無い。妹紅自体は永遠亭の協力者の一人ではあるが、代替不可能な存在ではない。
 だからてゐがECMを持つ手を引っ込めるのは、ただの個人的事情だ。
 「早く妹紅をぶっ殺しに行きたいの」
 「姫様。それじゃ、姫様もリザレクションできないんじゃないの? 妹紅の奴って主に姫様のせいで相打ちの達人みたいになってるじゃないですか」
 びいだまの様な瞳がてゐを真正面から見据えた。
 「そこに気がつくとは。やはり因幡。天才……」
 「これ、貰っときますね……。お師匠様に返しておきます」
 ポケットにサイコロを突っ込み。てゐはふすまに手を掛ける。
 「ねぇ、てゐ。将棋。やらない?」
 悪辣に歪んだ笑みを浮かべ、てゐは振り返った。




 ◇◇◇


 ししおどしの合間に乾いた音が二つ。それが寸分の狂いもなく繰り返されるたび、戦場に怒号が轟いた。西方と東方に分かれて陣取る勢力は、見たところ不自然なくらい対照的だった。
 戦況は西軍が有利。
 西軍の動きは王者のそれ。卓越した戦術と猛烈な士気をもって真正面から東軍を蹂躙している。
 対する東軍は不可解な動きを見せていた。平野にも関わらず正面からの戦闘を避けて防衛に終始している。そんな戦闘行動が生み出すのは無駄な損耗ばかり、少なくとも西軍にはそう見えていた。
 実際西軍の苛烈な攻めの前に、東軍は守勢を強いられていた。同様に進めば半刻も経たない内に東軍の王はボールほどのサイズになるだろう。
 しかし数度目にししおどしが鳴り響いた時、西軍は奇襲を受けた。
 少数ながらも機動力に長けた騎兵を中心とした部隊である。主戦力が出払った西軍にそれを止める術は無かった。本丸になだれ込んだ騎兵を前に、王の盾となった近衛が倒れる。
 物言わぬ駒と成り果てた兵は、たおやかな指に導かれ戦場から消え去った。
 「聞いた? 竹林の獣に変な病気が流行ってるって?」
 「うん? 姫様も知ってたんだ。ウチの兎にはまだ被害が無いから、特に報告してなかったんだけど」
 「妹紅から聞いたのよ。最近様子のおかしい獣がうろついてるって」
 突然の奇襲にたじろいだ王が後方へ転身する。殿を請け負うべき猛将は慌てて反転するもあまりに遅い。追い打ちを掛ける様に成り上がりの雑兵が王の側近を討ち取った。
 「流行病か。広がるようならお師匠様に調査をお願いしないといけないかな」
 「手が回るかしら。永琳も忙しいだろうし。里の患者さんと違って、獣相手じゃお金も取れないしね」
 「ま、その辺は私が交渉するさ。必要があると判断すればね」
 騎兵を前にした王が浮かべるのは尊大な笑み。軽やかな手つきは、混乱を極める本陣へと槍兵を切り込ませた。孤立した王は長大な太刀を引き抜き、それを迎え撃つ。
 「それにしてもあなた、」
 「なんですか姫」
 王は一歩も引かず迫る雑兵を次々に切り捨てた。しかし、多勢に無勢。数に任せた包囲を前に、じりじりと壁際へ追い詰められていく。
 「最近よく私の所にくるわよね」
 こぉん、こぉんと鹿威しが二度、それから乾いた音が部屋を満たす。王手。待った。待ったなし。敗軍の王は両手を上げた。
 「あー、負けた負けた。早指しじゃ敵わないのかー」
 ぬれた黒髪の隙間で、輝夜はため息を漏らした。
 「これで私の六勝四敗だね。倉庫にある月の自走車、貰って行くよ」
 「……ずるいのよ。早指しに強いなんて、言ってなかったじゃない」
 「聞かなかったじゃん。兎みたいな弱い動物は身の危険に敏感なんでね。瞬間的な判断力には少しだけ秀でているのさ。て言うか、姫様達に考える時間なんて与えて私が勝てる訳ないし」
 「あー、騙された。因幡に掛けなんて挑むんじゃなかったー」
 そう言って輝夜は四肢を畳に投げ出し、子供のようにだだをこねはじめる。
 それは外の者が見れば間違いなく眼を疑っただろう。
 この場に永琳が居ればそれをたしなめただろう。
 鈴仙を始めとするイナバが居ればそもこんな姿を見せないだろう。
 しかし、こにはてゐしか居ない。
 永遠亭の姫は、それが自然と言わんばかりに手足――その体躯に見合う小さなもの――を投げ出していた。
 「イナバのことでしょ?」
 「なんの話さ。いきなり」
 「分かってるくせに」
 濡れた瞳が枕越しに向けられていた。しかし、その視線と口元に籠められた悪意に気が付かない程てゐは若くない。
 『なんでお師匠様はあんなドン臭い奴を医者にしたがるんだか……』
 「顔で心を読むのは勘弁してよ。姫様」
 先ほどまでの様子はどこへやら。どこかで見た悪辣な笑みに、てゐは吐息を胸に溜めた。
 「鈴仙が遊んでくれないから私が姫様に愚痴ってるって? 悪い冗談だよ。大体兎のリーダーである私は忙しいの。あいつは人見知りで世間知らずだからちょっと他の兎より眼をかけてやってるだけで。あいつが相手してくれないから寂しいだなんて」
 「あー、はいはいごちそうさま」
 あっさりと悪意を崩し、輝夜はおかきを口に放り込む。そんな仕草を前に今度こそ大きなため息を吐いた。
 「お師匠様に怒られますよ」
 「大丈夫よ。今日、永琳は忙しいはずだもの」
 どこにも姫と言う文字は感じられないその姿。
 それは外の者が見れば間違いなく眼を疑っただろう。
 この場に永琳が居ればそれをたしなめただろう。
 鈴仙を始めとするイナバが居ればそもこんな姿を見せないだろう。
 しかし、それは当然である。
 こには、てゐしか居ない。
 それは、てゐの前でだけ露わになる輝夜の一面だった。
 「まぁ。私は暇つぶしの相手ができて嬉しいわ」
 輝夜はまたひとつあられを噛み砕く。返事の代わりと言わんばかりに、てゐは煎餅のはしっこを湿らせた。不思議なことに因幡てゐは輝夜と馬が合った。出自も立場も違えど、根っこの部分で悪戯好きと言う共通点があるからだと、てゐは推測していた。
 だからこそ残念に思っていた。
 「地上の兎は見上げることしか出来ないけど、」
 二人にとって菓子をかじるのは一種の合図だった。こうしている間だけは軽口を叩き合おう。こうしている間だけは同じ視線で話をしよう。そう言う取決めだった。
 「月っていうのは余程お気楽な場所なんだろうね」
 「どうしてそう思うの?」
 「あなたみたいなのが姫様をやってられるなんて」
 「まぁ、否定しないわ」
 「それに人手不足が深刻なんだろうね」
 「どうしてそう思うの?」
 「鈴仙みたいにドン臭い奴を軍に引っ張るなんて」
 それはいつも通りの軽口のつもりだった。期待していたのは軽い皮肉と小気味の良い笑い声だった。しかし、輝夜の顔に浮かぶものをてゐは知らなかった。つまりは月の概念だ。
 「月の軍隊は高度に機械化されているわ。月の軍隊は高度に機械化されているわ。玉兎は奴隷階級だけれど、軍隊だけは志願制をとっていて、厳しい審査と高い倍率をくぐり抜けて軍隊に入れた兎には相応の権利が与えられるわ。それこそ、一般的な月人に匹敵するほどのね。こちらの言葉で言うならエリート中のエリートよ」
 「へぇ……。意外に現金なんだね。あいつって。あんな臆病者が軍に志願して、あんたの言う厳しい審査をパスするなんてさ。……ってか、めずらしいね。あんた達が月の話をするなんて」
 「まぁ、確かに思い出して楽しいものでもないけれど、可愛いペットが聞きたそうにしているのものですから」
 「その通りですから、聞かせてくださいよ」
 良い交渉材料になるから。続けた言葉は清々しい程に上辺だけのものだった。
 「あの子はね。特例中の特例なのよ。聞いた話だけど、スカウトだったのよ。依姫が押しかけた時、あの子は人参生産工場で蛍光灯を取り替えていた」
 「あ、そこ人力なんだ」
 「ええ。つまりあの子はマニピュレーターの隙間にしか居場所が無かったのよ」
 「そっちの方がイメージ通りではあるけど」
 「だから、あの子は特別だった。特別であるが故に軍はあの子に眼を付け、強制的に兵士として……、訓練を施した」
 「ひっでぇ話。やっぱり月ってのはロクな所じゃないね。皆に言い聞かせておかないと」
 月の軍隊がどのような体制をとっているのかてゐは知らない。興味も無かった。当然だった。月に対してどれだけの情報を得ようと無駄だとてゐは知っていたからだ。
 「ずいぶん心配するのねぇ」
 「まぁ、そりゃねぇ」
 「一人だけの友達だものね」
 ふいに向けられた言葉に、てゐは二度三度ぱちくりとまばたきを返す。四度目に開けた視界に映る輝夜を見て苦々しげに笑った。
 「玩具さ。あれは。だから、誰かに取られるのは嫌なんだ」
 「ぼっちなのは否定しないんだ」
 「うっせ」
 小気味の良い笑い声に特大のため息が続く。これは将棋に負けた腹いせだ。輝夜の顔はそう告げていた。
 「いいのいいの。私だって友達居ないんだから」
 「わっ、私には一杯の部下が、」
 「あなたにしては面白い冗談ね。因幡。部下と友達は違う。長く生き過ぎたり群衆から離れ過ぎると誰も彼もが羨望の眼しか向けてくれなくなる。意識的にしろ無意識的にしろ上役としての振る舞いを期待しはじめる。そうなったらもう友達にはなれない。私達の隣には誰も立ってくれない」
 しみじみと語る輝夜の横顔を、てゐは静かに見つめる。
 「どこまで行っても部下は守るべきものでしか無い。彼らはそれ以外の何もあなたに期待しない。そんなの知らないはず無いと思うのだけど」
 「私の生きた時は、あなたの何分の一かも分かりませんよ」
 「相変わらず冗談が上手いわね。でも、肩が凝ることに変わりない。だから、」
 「私のは三味線だよ。冗談が上手いっていうのはそう。例えば、」
 「あなたが友だちになってくれない?」
 「そう。そういうこと」
 二人はしばらく視線を交わすが、先に根を上げたのは輝夜だった。くすりと笑う横顔に、てゐは舌を出した。
 「お姫様と友人になれるのは純朴な田舎者と大昔から決まってる。それか、余程自分が大好きで。他人なんてこれっぽっちも見てない奴。どっちも私は嫌いじゃないけど、私はそのどっちでもない。遠慮させて貰いますよ」
 振られちゃったかー。畳に転がる輝夜は過剰なまでにわざとらしく言った。しかし、時を置かずして仕切りなおすように背中のバネで起き上がる。ざんねん。そんな言葉と共に、輝夜は静かに煎餅を器へと戻した。
 「あなた、耐えられるの?」
 どくん。と心臓が跳ね上がった。腹の底に響く蠱惑的なそれにてゐは思わず息を呑んだ。目の前に輝夜の口があった。瑞々しい唇がぷるんと弾けた。
 逃げなければいけない。とどまってはいけない。深入りをしてはいけない。てゐの経験と知識は全力でそう告げていた。
 「私ならあなたの寂しさを埋めてあげられる。私ならいつまでもあなたの側に居てあげられる。私以外のだれにも、そんなことは出来ない」
 耳元で囁かれるのは麻痺性の毒だった。鎖でがんじがらめにされた様に、てゐは動けなかった。
 恐怖が胸の底から湧き上がっていた。見慣れたはずの黒髪は極彩色に近い色――電磁波の関与なしに生み出されたとすればこんな色になるのだろうか――へと変貌していた。
 「だってただの玉兎は、まばたきをする内に死んでしまうから」
 やめろ。我を忘れて突き出された両の手は、輝夜を視界から消していた。向かい側の壁にもたれ掛かる輝夜は薄い笑みでてゐを見ていた。
 「……姫様。戯れは止めて下さい。私は嫌なんですよ。月人と喧嘩なんて馬鹿なことをするのは」
 「悪かったわ。怒らないでよ、イナバ」
 月に対して行われるあらゆる努力は等しく無駄である。ただ月人であると言うだけで地上の民は彼女らに敵わない。地上と月の差はそれ程に絶望的であると、てゐは誰よりもよく知っていた。
 「姫様と同盟を組んでから、兎の暮らしは相応以上に良くなってしまいました。だから、これ以上は求めさせないで下さい」
 わざとらし両手を上げ輝夜は謝罪の意を述べる。そそくさとコタツに戻った彼女は、静かに煎餅を手にとった。
 怒られますよ。永琳は今日ラボから出てこない。舞い戻った日常に、てゐは平坦な胸を撫で下ろした。
 「そういえば。永琳から伝言貰ってたの忘れてたわ」
 「伝言?」
 「原料採集に行ってきてくれないかって。別にあなたじゃなくて良いと思うけど」
 「私が出るよ。今このタイミングってことは、よほど重要で希少な材料が切れたんでしょ? そんなの私じゃないと取りにいけない。それに今日は休みの日だ。皆にはしっかり休んでもらわないと私が困る」
 全く。現場仕事は辛いね。壁にかけてあった上着に手をかけ、てゐは肩をすくめてみせた。
 「こんな寒いのに外へ出るだなんて。わたしゃあんたが羨ましいよ。兎の首領って言ったって実体はお守りみたいなもんさ。毎日忙しいったらありゃしない」
 「そうかしら?」
 遠くから間抜けな声が届く。その甲高く、そして傲慢な声をてゐはよく知っている。
 「私はあなたが羨ましい。あなたはまだ同僚だと思われている。あなたには対等だと思ってもらえる相手がいる」
 どこに居るの。手伝ってあげるから出てきなさいよ。てゐにそんな言葉を掛けるのは、世界広しといえど一人しか居ない。
 「生意気だよねぇ。もう腹もたたないけど」
 「良かったわね。あなたは知られていなくて。己が全く別次元の存在だと」
 またもや、輝夜の姿がぶれ始めていた。だから、てゐは背を向けた。近づいてきた気配へと向かうために障子へ手を掛けた。
 「大切にしなさい。私の経験上、あんな子はもう二度と現れない」
 大きなお世話さ。白い障子の向こう側で、てゐはそうつぶやいた。




 ◇◇◇
 Rabbit Rabbit



 鈴仙・優曇華院・イナバは友人が少ない。
 それは当たり前のことだった。極度のコミュニケーション能力不足に加え、月の者にありがちな選民思想を捨てきれずにいる。
 それは自然なことだった。見下すか、見下されるか。それ以外のコミュニケーションをこれは知らない。
 恩着せがましくため息をつく背中を見ながら、てゐはそんなことを考えていた。
 「お前が勝手に着いてきたんだろ」
 「あー疲れた。なんで休みの日にまでこんなこと。んー……。あぁ、そうそう。私はそれが言いたかった」
 伸びた背筋が柱の一つにもたれ掛かる。ぎぃという大きな軋みに鈴仙は大げさなまでに――ほんとうに大げさに――驚き飛び上がった。
 「あんた一人に任せてられないでしょ。妖獣にでも襲われたら、逃げるしか無いくせに」
 「見た感じ五十年は放置されてる。気をつけたほうが良いよ」
 指先でふるぼけたそれを突く背中に、てゐは忠告する。いくら兎とはいえ、鈴仙もてゐも妖獣だ。人間のために作られた小屋、ましてや老朽化しているなら意図せずとも破壊しかねない。
 「その割にはあんま埃が溜まってないように見えるけど」
 「狸かなにかが寝床にしてるんだろうさ」
 「狼じゃなきゃ良いけど」
 一段高くなった床の間に腰掛け、てゐは背中の籠を下ろした。吐いた息が白く煙って消えて行く。
 「楽観的ねぇ……。折角早めに薬草採取が終わったのに。狼に追っかけ回されでもしたら最悪じゃん」
 「私も歳だからねぇ。走り続けるのも歩き続けるのもそろそろしんどいんだよ。こうやって休憩でも取らなきゃ明日筋肉痛で寝込むに違いない」
 そこは妖怪の山ふもとに佇む一軒の廃屋だった。はぐれ里の一部らしく周囲には朽ちた建造物がいくつも存在した。こうした廃屋群は大抵の場合白狼天狗や智慧を付けた妖獣の休憩所となっている場合が多い。何方にせよ、問答無用で襲われる可能性は低いことから、てゐはこの場での休憩を提案した。
 汁粉の入った水筒――鈍色のフォルムには永琳印が光る――を取り出し、鈴仙に差し出した。
 「逆効果にならないことを祈りなさい。ただでさえ危ない所なんだから」
 それは臆病ではなく事実であるとてゐは知っている。なぜならそんな場所に生えているからこそ、その原料は希少とされているからだ。
 「だからさ、もしもの時は頼むよ。鈴仙ちゃん?」
 「全くこの子は……」
 くつくつと笑いながら、手元の器に広がる白黒の――白玉は鈴仙の好物だ――液体を口にふくむ。その芳醇な香りに頬を緩ませるてゐとは対照的に、鈴仙はなぜか俯いたままだった。そして、てゐは液面に映る何かを言いたげな瞳に気がついていなかった。
 「言われなくても、守ってあげるわよ。そのために着いてきてあげたんだから……」
 口から飛び出た小豆が土間を跳ねる。激しく咳き込むてゐは、無我夢中で差し出された手ぬぐいを掴んだ。
 「まったく。最近は冗談の上手い奴が多いな……」
 咳き込みうずくまるてゐに赤い光が落ちる。それがなにかに気がついた時、既に鈴仙の顔は真横にあった。
 「あぁ、いや今のはそう言う意味じゃ――」
 怒りに燃えた瞳がてゐを突き刺していた。
 「私が貴重な休みを削ってやったって言うのに……。ひ弱なあんたがこんな危ない所に行くなんて聞いたから!」
 「ばっ……、馬鹿言っちゃいけないなぁ、鈴仙。わたしゃこう見えて長く生きてるし、この辺の地理は把握している。撒くくらいは訳ないね。むしろ、社会勉強になったと思ってもらっても良いくらいだ」
 「さっき頼むって言っただろ起きろ」
 三味線だよ、どっかの誰かさんを持ち上げるための。その引きつり切った笑みが未だ消えていないのは、てゐに意地があったからだ。そんな睨み合いを三分か四分程も続けた頃、特大のため息がてゐの耳に届き、続けて焼けつく視線が和らいだ。口の減らない奴。そんな捨て台詞に、てゐはピンク色の舌で答える。
 そして二人の間に沈黙が訪れる。小屋の中は薄暗く、時折汁粉をすする音が聞こえる以外は全く静かだった。
 「ずいぶん久しぶりな気がする」
 「ずいぶん久しぶりだからなぁ」
 しみじみとそう呟きてゐは手元の汁粉を一気に流し込んだ。
 「前はよく二人で薬草取りに行ってたよね」
 「前にこうして薬草採りに行った時は、まだ白黒の魔女が生きてたっけね」
 「あの頃は私にばっかり働かせて。あんたは後ろで口出すだけだった」
 「そうそう。今は聞き分けの良い部下が着いてきてくれるから、ずいぶん楽させてもらってるよ」
 「居ないじゃん」
 「今日は休日だからね」
 「私が居なかったらどうするつもりだったんだよ」
 「頑張るのさ」
 一人なら一人なりにね。からからと笑ってからてゐはそう続けた。兎と月人が同盟を結んで以来、薬草採集はてゐを筆頭とする地上の兎の仕事だった。今日のように鈴仙が同行することは極めて珍しい。
 「まぁ、今日お師匠様の指定した原料。全部一日で揃えようと思ったらこの辺に来るしか無いのは分かるけどさ」
 「急ぎなんでしょ? 事情は分かってるし文句もない。そう言う協定さ。私たちと姫さまたちって言うのはさ」
 私と言う部分を殊更に強調してゐは鈴仙を指さした。兎角同盟は鈴仙が医者として教育を受け始めた後に解散した。現在永遠亭の兎はてゐとてゐを中心とする兎古参の兎が管理している。
 「うん。正直……、助かってる。いつもありがとう、てゐ」
 眼を真ん丸にしたてゐが静止する。ごまかしが効かない程度に赤くなった頬を手のひらで隠し、てゐはうつむいた。
 「礼なんて言われる筋合いは無いよ。労働力及び場所の提供と引き換えに、安全と温かい食事を保証される。ついでにお小遣いまで貰えると来たもんだ。これが兎にとってどれだけ幸せか。お前に分からないはずがない」
 「分かってる。一度着いて行きたかっただけ。原料採取がどのくらい皆に負担を掛けているのか。知っておかなきゃいけないと思ったから」
 「お前ってさ。変なところで律儀だよな」
 「そうかな? 私的には当たり前なんだけど」
 「そうだな。お前はそういう奴だったな。ま、私も正直言えば助かったよ。おかげで半日もせずにお仕事終了。ゆっくりおやつを食べる時間すらもある」
 「へ? まだなんか持ってるの?」
 空っぽの器を鈴仙が掲げる。
 「いんや。さっきので終わりだけど?」
 「あぁ、そう。そういうこと。ほら、私の分けてあげる」
 「おっ、団子じゃん。さっすが鈴仙」
 鈴仙が懐から取り出した笹の葉には、団子がくるまれていた。
 渡されたびいだまくらいのそれを口に放り込むと、中から甘辛い醤油だれが滲み出した。しばし鼻腔を抜ける甘い香りを楽しんでいると、不意に鈴仙が頭をあげた。
 「どうした?」
 その視線の先にあったのは、廃屋の戸口と小さな影。
 「山猫。いや、ただの野良か」
 「か、かわいい……」
 それは子猫だった。山に多いものではない。人里や放棄された集落に巣食う小型のそれ――家畜化されたヤマネコ――である。
 軽快な足取りはゆっくりと二羽に近づいてきた。ふと思い立ったてゐは団子の一つを手に取り、差し出した。膝に掛かる羽のように軽い重量にてゐの細眉が垂れる。
 「たくさん食べるんだよ。しっかり太らないと冬を越せないからね」
 小さな口一杯に団子を頬張る猫の背をてゐは優しく撫でる。瞬く間に平らげた猫は次の団子を所望するようににゃぁと鳴いた。その喉に人差し指を這わせ、次の団子を口元に持ってく。
 「あんたって子供に好かれるよねぇ……。まるでお母さんみたい」
 「そりゃ実際数えきれないくらい育ててきてるからな――、うぉ?!」
 萎れた餅の様な耳をぴんと伸ばし、てゐはおもむろに上着の裾をまくり上げた。
 「悪いけど、乳は出ないんだよ」
 そこに居たのは猫だった。ほんのわずか眼を離した隙に潜り込んだ猫が、てゐの薄い乳房に吸い付いていた。
 「全く。吸い付くなら隣のヤツにしろって」
 「あっ、ちょっ」
 押し付けられた猫に困惑する兎に、てゐはくすりと笑った。
 怯える手が毛皮に伸ばされる。
 温もりに驚いた指先が跳ねる。
 再び伸びた手のひらが毛先をなぞる。
 おっかなびっくりな鈴仙とは対照的に、子猫は目を細めて喉を鳴らしている。そんな姿に安心したのか、ぎこちのない手つきは自然なものへと変わっていた。
 鈴仙の口元が弛緩した時、赤黒い光が毛皮を照らした。
 その瞬間。金切り声と共に子猫が飛び上がる。膝の上で激しく鈴仙を威嚇する猫に、てゐは眼を丸くした。
 「あっ……、すまん。忘れてた」
 「ほんとにね。私がなにしたっていうのよ」
 鈴仙の見つめる手の先には、一筋の紅い線が浮かんでいる。自身の迂闊を悟ったてゐは、ちぢれた髪をかき回した。
 「あー、あんたがあんまり獣らしくないから。人かなにかと勘違いされたんだ。多分」
 「まぁ、月生まれは珍しいから。畏れられるのは仕方ないかもしれないけど」
 「忘れていたんだ。私は。あんたのことを。歳だから」
 「なに生意気言ってんのよ。別に良い。いつものことだし。なにより久しぶりだし」
 興奮気味の猫を持て余し、てゐは苦笑する。沈めようか。おい止めろ。そんなくだらない掛け合いをしながらも、確かな手つきで喉に手を這わせた。
 ようやく猫が落ち着きを取り戻した頃、大きな物音が二人分の視線を引きよせた。
 「こらー! 猫をイジめるなー!」
 戸口から届くのは、気の抜けた声。
 間もなく姿を表したのは、小さなシルエット。
 それは橙色の道士服に身を包んだネコミミの少女だった。無造作に歩み寄った三白眼は、床の間の二人を威圧する。鈴仙ほどでは無いものの、ぴんと伸びた背筋は彼女を見た目以上に大きく見せていた。滲みだす妖力の断片は、その自信が無根拠ではないことを物語っている。
 むき出しの怒りを前に、てゐは和やかに手を振った。
 「橙じゃん。ひさしぶりー」
 「あー、てゐちゃんだ。久しぶりー。元気してた?」
 「元気も元気さ。それだけが取り柄だからね」
 「なんか、てゐちゃん少し小さくなったんじゃない?」
 「私は変わらないよ。だから、あんたが大きくなったんだ」
 「ふふん。この間藍様にも同じこと言われたよ」
 「全く。その調子じゃ、あんたも元気そうだね。今年の冬は寒い。風邪ひくんじゃないよ」
 「うん、気をつけるよ。それじゃ、ばいばーいね」
 「あぁ。ばいばい」
 踵を返した背に揺れるのは三叉の尻尾。上機嫌な足音が廃屋の外に消えたかと思うと、猛烈な速度で再度二人の前に現れた。
 肩で息をする化け猫がてゐの鼻先に指を突きつける。
 「今のは騙されたフリだ」
 「演技派だな……」
 「さっきの金切り声はなんだ! お前ら、なんかやっただろ!」
 「なんかやったっけ? てゐ」
 「さぁ? 私にはさっぱりだよ」
 てゐは遠い瞳でそう答えた。
 「っていうかさ。てゐ、そいつ。誰?」
 「コミュ症の引き籠もりだってさ」
 「今は働いてるだろ。ふざけんな」
 橙の活動域は主に山とマヨヒガである。里にすら滅多に出ない鈴仙を知らないのも無理はない。月出身の兎であること、現在医師として修行中であること等をてゐが説明すると、橙は得心したように手を打った。
 そして橙は深呼吸をした後に何事かつぶやく。まもなくして瞳に仄かに淡い輝きが生まれ、そして収束した。
 「ふーん。あんたが月の兎なんだ。藍様の言った通りだ……」
 「どういう意味?」
 「あんたみたいな化け物に近寄られたらこの子が可哀想だなって」
 胸に抱えた子猫の頭を撫でながら橙はつぶやく。ぞっとするほど冷たい眼だった。
 「喧嘩売ってるの?」
 「いいや。私はあんたになにも求めない。謝罪も、暴力も。ただ尻尾を巻いて逃げるよ。情けないけど、そうするしかない。私は昔よりは少しだけ賢くなったからさ」
 そうして橙は去り、後にはじっと手を見つめる鈴仙が残される。
 「ねぇ、てゐ。やっぱり私って怖いのかな私の――」
 「いや、そんなことは――」
 「私の手ってさ」
 「そうだな。そんな不器用な手で撫で回された怖いだろうな」
 「やっぱりかー。あれ、しんどいのよね。すごく神経を使うから普段はあんまやりたくないんだけど」
 そんなだから。てゐは大げさな動作でため息を吐き、そして言葉を続けた。
 「自分の事ばっかじゃないか。そんなだからお前は友達ができないんだ」
 「うっせ、性悪兎」
 なんだと根暗兎。若い奴がお前にビビって胃腸炎になりまくってんだよ。しらねーよクソが。あんたこそ陰で悪口言われまくってるじゃない。馬鹿が悪口気にしてて詐欺師が務まるかよ。仔兎達に。まじかよつらいな。
 無益ないがみ合いに終わりが訪れたのは突然だった。
 それは、ピンク色の舌二枚ともが乾ききり、いい加減面倒になってきた頃。
 二人の間を悲鳴が駆け抜けた。




 ◇◇◇


 「鈴仙。もう森が終わる」
 「知ってる」
 「鈴仙。こんな所に人間は来ない」
 「知ってる」
 てゐの身長程もある濃い黄色の草本群――ここ数年で爆発的に増えた雑草で、これが増えた場所では他の植物が育たないことをてゐは知っている。全く迷惑なことだ――を掻き分ける。開けた視界に映る鈴仙の背はずいぶんと離れてしまっていた。
 飛ぶよりも早く、てゐのしなやかな脚は一歩で数メートルを縮めた。風を追い越し、枝と草の隙間を掻い潜って二羽は跳ぶ。
 「鈴仙。この先は危険だ」
 「知ってる」
 突然に駆け出した鈴仙の目指す場所をてゐは知らない。しかし辿り着く場所の検討は着いていた。この先が森でも山でも竹林でもないことを、てゐはよく知っているからだ。
 「鈴仙。ラッキーで間に合うほど甘くはないよ」
 「知ってる。玉兎通信使うよ」
 「……マジ? まぁ、落ち着こうよ鈴仙。ほらさ。私この辺の地理詳しいし、耳も良いしさ。ほら……、大体の方向は分かるような気がしないでもないから、そんなの使わなくたって――、ちょ、落ち着け――」
 定位機能、選択。
 てゐの静止も聞かず、鈴仙は宣言する。不気味に輝く瞳にてゐは身を震わせた。
 「てゐ。チャンネルを開いて」
 「うげぇ……、苦手なんだよなぁ、これ」
 口内のインプラント――虫歯の治療後、気がついたらそこにあったのは言うまでもない――を舌で押し込む。
 じいじじじ。じじじじぃ。てゐの脳内を激しいノイズが駆け抜けると同時、網膜上に画像が投影される。付加情報に地図と記されたそれは、モザイクの様にぼやけていた。
 「うぅ……、れいせん。解像度低すぎてなにも見えないでござるよ……」
 「分かってるよ。ほら、こっちを向いて。私の眼を見て」
 赤黒い瞳がてゐの前で見開かれていた。じぃじぃ。じじじ。一層激しくなった電子音が鼓膜にひびく。脳髄をゆさぶる圧倒的な不快感と共に、網膜上の画像は一気に塗り替えられた。
 「次、解析データ行くよ」
 「ちょ、ちょっと……、待って。うぁ……」
 ウィンドウ上に表示された音響サンプリングデータが記憶領域から引っ張りだされた情報と照合されて行く。滝のように流れるログと脳髄の不快感に吐き気を催したてゐは、大勢を崩して地面に転がった。
 「ちょっ、エラー吐いてる。視線ずらさないで」
 「無茶……、言うなって、走りながらだよ……、吐きそう……」
 「ああもうだったら」
 足を止めた鈴仙が額を押し付ける。息のかかる距離に近づいた瞳に、データ解析は一瞬で終了した。照合データがマップ上に赤く灯る。
 「七百メートル先。ここは……」
 「あー……、うー……、そこは、大樹の虚だ。少し前の落雷で折れた」
 網膜上のマップに低木とかつて大樹の林床であった広場が追加される。それはてゐの記憶と食い違ってはいたが、概ね間違いでもなかった。
 「データと一致しない音響反応がある。複数。囲まれてる」
 「そっ。そうか。わかったぞ。私はその情報をちゃんと聞いたからな。もうこれ以上更新しなくても――、うおぉぉ……」
 コナラ推定樹齢十五年、ブナ推定樹齢三十年。マップ上に次々と樹木の詳細が追加されていく。際限無く続くノイズに、てゐの顔は歪み切っていた。
 その通信能力は本来なら玉兎だけが持つ物だ。地上の兎であるてゐがそれを使用できるのは、口内のインプラントが玉兎特有の器官を代替しているからだ。鈴仙と玉兎通信が行えれば便利だろうという永琳の提案により、永遠亭全ての兎に同様のインプラントが――いつの間にか――埋め込まれていた。
 元より近距離通信のみは異種間でも可能なのだが、鈴仙の場合は通信能力に障害を抱えているため、インプラントが不可欠なのだとも聞かされていた。もっとも、無理やりに実装されたそれは処理能力・通信速度共に劣悪なものであり、使用者への負担が非常に大きい。
 「ら、らめぇ……、回線パンクしちゃうよぉ……」
 だと言うのに鈴仙はお構いなしに情報を叩きつけていた。知らない訳ではない。だが、鈴仙はそんなことで加減をする性格ではない。ただそれだけのことだ。
 そういう訳でてゐは玉兎通信が苦手だった。
 「ほ……、ほんと玉兎通信って奴は不便だな……。こんなのを月じゃ通信に使ってるなんて、信じられん……」
 「てゐ、情報は行ったでしょ。先行くよ。囲まれてる。急がないと、」
 通信がスタンバイモードに移行し、脳内のノイズは収まる。ぐるぐると回る視界に閉口しながらも、てゐは伸びた背を追い始めた。
 「はぁ……、はぁ……。ちょっと、待って……。囲まれてる……? そいつは、なにに囲まれてるんだ。こんな場所に集団で来る奴ってなんだ……?」
 「知らない。ねぇ、てゐ。それは今考えなきゃ駄目?」
 ディスプレイの隙間から覗く現実の景色には、もう広場が映っていた。低く恐ろしい唸り声を耳が捉えていた。
 それが急を要するのは明白だった。
 「いいや。ただ……、気になった」
 てゐはほんの一瞬だけ眼を伏す。再び開けた視界の中で、鈴仙は空を舞っていた。それは半回転を加えた芸樹的軌道――月の軍隊に代々伝わる儀礼的運動。永琳曰くはムーンサルト――だった。
 それが唸り声の元に降り立ったことを見届け、てゐは手近な物陰に身を潜めた。
 広場の中心、そこに居たのは年端も行かない少女とそれを取り囲む巨大な狼だった。七体の狼は、突然の闖入者に気を取られ少女から視線を外している。だというのに、少女は倒れたまま逃げる様子も無い。身を屈め、襲いかからんとする狼を前に鈴仙もまた動く様子はない。
 「ああもう。無茶しやがって」
 がりがりと頭を掻いた後にてゐは跳躍した。狼の群れに迫る軌道は決して素早くない。四つ足の隙間をくぐり抜ける体は少女よりも更に小さい。だが、不規則な軌道は全方位から迫る鋭い牙や爪を全て紙一重で避けていた。
 しかし、群れを抜け少女の下にたどり着く直前。兎の首筋に牙が突き立てられた。力なく四肢が垂れ下がり、脊椎が音を立てて砕ける。地面に広がる血だまりに狼が群がった瞬間爆音とともに兎は弾け、代わりに煙が広場を満たした。
 数秒後、広場の外に少女を抱えたてゐが立っていた。困惑しながらも飛びかかろうとする狼を止めたのは、小さく穿たれた地面だった。
 「後は頼むよ。鈴仙」
 おっけーてゐ。背後の騒音に振り返ることもせず、てゐは少し離れた木の根元で少女を下ろす。泥と地に塗れた頬を優しくなでた。
 「生きてるな」
 血塗れの少女はわずかにうなずく。弱いながらも、その胸は確かに上下していた。
 震える唇がわずかに開かれる。ありがとう。おそらくはそんな類の言葉を紡ごうとしているのだろう。しかし、声帯を震わせるにはあまりに細い息は、少女の顔を歪めるだけだった。
 「礼を言う相手は私じゃない。お前がすべきはそんなことじゃない」
 少女はなにかに気がついたように、てゐの背後を見る。黒光りする爪を蹴足で受け、牙を拳で反らし、背面の狼を視線でけん制する鈴仙がそこには居た。
 「……あ、あいつら。ただの狼じゃない。妖獣……、よ。絶対、喰われる」
 「そうだね。普通なら兎は狼に勝てない」
 「そうです。だから早く。私を置いて……」
 「大丈夫って言っただろ。妖怪だろうとなんだろうと普通の兎は狼に勝てない。だからあいつは、異常なんだよ」
 てゐは少女を見つめたまま答える。背後には相変わらず激しい戦闘音が響いていた。てゐはチャンネルを閉鎖し、改めて驚きと不安の入り混じった顔を見つめる。半開きの唇に指を当て、てゐは問うた。
 「一応聞くが、お前。人間じゃないな」
 息を呑み、少し躊躇った後に少女は頷いた。




 ◇◇◇


 「てゐ。その子は無事?」
 「落ち着け、鈴仙。命に別状は無い。後、パンツをしまえ」
 肩で息をしながら鈴仙は少女をまじまじと見る。その肩は大きく上下している。その瞳の端から赤黒い光を垂れ流している。横髪は頬に張り付いたままだった。びくりと震える少女をてゐは優しく抱きしめた。
 「鈴仙、落ち着け。後、パンツをしまえ」
 呆れるてゐの顔で自身のありさまに気がついたのか、すぐに瞳から溢れる紅は収まった。
 「相変わらずお前は。デタラメに強いな」
 「そんなことない」
 地面に横たわる巨体を前に、なんでもない顔をして鈴仙は告げた。その狼は死んでいない。その証拠に腹はゆっくりと上下している。ただ意識を失い眠っているだけだった。
 「強制的神経干渉<>を使っている間は集中しないといけないから無防備になる。さっきは初手でほとんどが眼を合わせてくれたから上手く行ったけど、本格的に囲まれてたら危なかった。運が良かっただけ。それに、私は中枢神経系を持つ生物に対する干渉法しか学んでない。もっと原始的な生物種ベースの妖獣だったら危なかった」
 「通信手段としてどうなんだそれ」
 「そんなことよりも。その子は無事なの?」
 「大丈夫だ。命に別状はない。だから、パンツをしまえ」
 「嘘。血だらけよ」
 鈴仙に押しのけられ、てゐは少女を手放す。そして鈴仙の手先へ鋭い眼を向けた。裂創が三箇所、切創が十箇所、擦過傷が無数。的確に少女の体を探る鈴仙は蒼白な顔で告げた。
 「失血量が多過ぎる。この子には助けが要る」
 「いいや大丈夫だ」
 怒りに満ちた眼がてゐを突き刺した。
 「あんたは医者じゃない」
 「いいや大丈夫なんだよ、ほら」
 てゐの視線の先には少女の顔があった。そこにあるのは恐怖ではなく強い意思。その口は真一文字に口を結ばれていた。そうだよね。母を思わせる優しい声に少女は小さく。しかし、力強く頷いた。
 「お前は、強い子だね」
 呆然とする鈴仙を差し置いて、てゐは少女の頭を撫でる。そして踵を返す。
 「さぁ鈴仙。行こうか」
 鈴仙の手を掴むてゐに返事を待つつもりは無かった。渾身の力を籠めて、てゐは鈴仙を引き離した。しかし広場の終わり、茂みに足が掛かろうかという所でその腕は石像の様に動かなくなった。てゐの見上げた先にあったのは名残惜しげな瞳。それはゆっくりと背後に向けられようとしていた。
 「鈴仙。振り返るな」
 大丈夫と言った。低く押し殺したようなそれを無視して鈴仙は振り返る。
 少女は二つの脚で立ち、広場の外を見つめていた。わずかに曲がった背中には、先ほどと変わらない覇気があった。まるで怪我なんてどこにもないみたいに、大樹に片手を着いて立っていた。その体がほんの少し右に傾いている以外、変わった所はなに一つ無かった。
 「ほら言った通りでしょ。あの子に必要なのは少しばかりの休憩で。私達が干渉する必要なんて最初からないんだよ」
 「嘘よ。あの子の足は折れていた」
 「その通りだよ。だからどうした」
 「あの子には助けが要る」
 聞く耳を持たず鈴仙は少女の元へと戻り始めた。それを止めようという幾つかのてゐの足掻き――こっそり結んでおいた草や、足首に結んでおいたロープ等――も虚しく零戦は少女へ辿り着く。得られた成果はただ一つ、捲り上がったスカートを戻したことだけだった。
 「今、添え木を探してきてあげるから。いえ、その前に消毒をすべきね。ちょっと染みるけど……、我慢して」
 鈴仙が背負っていた緊急用の医療キットを開くと、瞬く間に周りは診療所へと変わっていった。水筒中の精製水を傷口へ流し、脱脂綿へアルコールを含ませる。震えるピンセットの先が患部に触れる直前。てゐは声を張り上げた。
 「鈴仙。その子は妖獣だ」
 「そうだね」
 「鈴仙。里との協定を忘れるな」
 「そうだね」
 「鈴仙。その子を助けるつもりか」
 「そうよ」
 鈴仙。鈴仙。鈴仙。
 それからてゐが何度声を掛けても、鈴仙が返事を返すことは無かった。
 その視線は少女だけに。その手先は患部と医療キットだけに。それは決して繊細とは言えない手つきだった。しかし、淀みなく続くそれは確かに少女のエントロピーを減少させていた。
 だが少女の顔は晴れていない。私は大丈夫ですから。そんな言葉で治療を拒もうとすらしていた。
 「そんな訳ない。大腿骨が折れてる。こんな状態で歩いて良いはずがない」
 いいえ。私は大丈夫です。これはちょっと打っただけです。そんなはずない。鈴仙に一喝され少女は口をつぐんだ。代わりに気丈な瞳が山奥に注がれ始める。
 鈴仙。てゐはたまらずに叫んだ。
 「鈴仙。何度言えば分かる。その子に助けは要らない」
 「出血が止まってない。内蔵が傷ついていたら命に関わる」
 「可能性だ。そうなるとは限らない」
 「骨芽細胞は無秩序に骨を再生する。正しく固定しなければ変形治癒を引き起こす。変形した大腿骨じゃ自重を支えられない。そうなったらもう脚として機能しない」
 「可能性だ。そうなるとは限らない」
 「跳べない兎がどうやって生きるのよ。走れない草食動物が、どうやって狼の牙を逃がれるのよ!」
 「だから、可能性だって言ってんだろ! そうなるとは限らない!」
 梢を切り裂く声に、ヒヨドリが飛び立った。その間にも淀みのない手つきは、傷口に入り込んだ砂粒を洗い流している。清潔な包帯が、傷口にあてがわれていく。
 少女の眼は、ただ山奥へ向けられている。
 「放っておいたら死ぬ可能性の方が高い」
 「だからどうした。私達の所属は永遠亭だ」
 それはほとんど懇願するような声だった。鈴仙にそれが届かない事は分かっていた。
 「無償での医療行為は行わない、これは里と永遠亭の取決めだ。良いか鈴仙、永遠亭は野良の妖怪を助けない。助けられない。これは守るべきルールだよ」
 包帯をまく手先が、にわかに淀んだ。無為にとどまる手は不規則に揺れていた。
 「私達はどこまで行ってもよそ者だ。個人としてはあまりにも大きく。勢力としてはあまりに小さい。そんな私達が周囲に睨まれる真似をしてみろ。取り返しの付かないことになる」
 「私は、医者で……、永遠亭は、診療所よ……!」
 「そうだ。対外的に言えば永遠亭は診療所だ。だが、診療所は里にもある。むやみやたらに手を出しては、里の医療が衰退する。それだけは避けないといけない。自覚しろ。我々はよそ者だ。技術的にも。社会的にも」
 「だから、見殺しにしろって言うの……?」
 「そうだ。私は目の前の取るに足らない兎を見捨て、次代の兎を守る。無用のリスクを背負えるほどに兎は強くない。残念だけど」
 二人の間を沈黙が満たす。鈴仙の瞳は今やてゐに向けられている。そこに籠められた怒りを読み取れないほどてゐは鈍感ではない。全身から噴き出るはずの冷や汗を心の内に閉じ込め、てゐはその場に踏みとどまる。
 玉兎と妖怪兎の力の差は歴然としている。そして鈴仙の精神は不安定だ。赤子が羽虫を潰すと同じに、てゐが鈴仙に殺される可能性は決して低くない。
 それでも退けなかった。てゐは地上の兎のリーダーだ。今逃げ出せばより多くの兎が危険に晒される。そしてなによりも、放っておけば誰が一番深い傷を負うか。てゐには良く分かっていたからだ。
 緊張を破ったのは、震える小さな声だった。
 嫌だ。歩けなくなるなんて嫌だ。
 跳びたい。まだ私は生きていたい。
 そんな生への未練を漏らしていた。そこに強い意思なんてどこにもなかった。見た目通りの少女に相応しい、純粋で裏表のない感情だった。
 鈴仙が動くよりも早く、その背中を抱きしめた影があった。少女よりも小さな影が少女を抱きしめていた。そして頭を撫で擦っていた。
 「ああそうだ。健康は大事だ。だからそれはお前自身で勝ち取るんだ。痛み止めの薬草は置いていく。これを腫れた場所に塗り込めば楽になる。後はできるだけ脚を動かすな。そうすれば、お前はきっとまた走れるようになる」
 その優しくも厳しい言葉に、少女は落ち着きを取り戻していく。間もなくして少女の瞳には強い意思が戻り、引き摺る脚は山を目指した。
 いくらかの薬草を小脇に抱える背の一部を、枯れ枝がさえぎった。
 「さぁ、帰ろう。鈴仙」
 刻一刻と小さくなる背中を鈴仙は見ていた。
 「行くぞ、鈴仙――」
 背後にその声を聞いた時、すでに鈴仙はそれを抱きしめていた。
 ぱさりと地面に薬草が落ちる。
 「大丈夫。大丈夫よ。あなたは私が、助けるから」
 「鈴仙!」
 「てゐ。協定はあくまでも里に対してのものよ。この子は里の子じゃない。だから協定からは外れるわ」
 「違う。大違いだ。私達がどう解釈するかじゃなくて、彼らの捉え方の問題だ。そうでなくても、野生の獣まで助ける余裕が永遠亭のどこにある?」
 「私だって医者よ。私が余計に働けば良い」
 「違う。違うだろ。鈴仙。もっと大きな問題があるから私達は今ここに居る」
 「いいえそれだけよ」
 そう言って鈴仙は頭上に手を伸ばし、萎れた両耳を握りしめた。その口は真一文字に結ばれている。てゐが静止する間もなく、その手は両の耳をむしり取った。
 それを籠へ放り込み鈴仙は無言で踵を返す。
 「大丈夫よ。大丈夫。こんな怪我。私が治してあげるから、もう大丈夫」
 てゐの懇願も虚しく、鈴仙は大粒の涙を流す少女を抱きかかえた。
 「鈴仙! 話を聞け! この、馬鹿!」
 その背中に声が届かないことは分かっていた。それでも叫ばずには居られなかっただけだ。玉兎はその感覚の多くを玉兎通信に依存している。生まれながらに受信機能を持たなかった鈴仙は、あの耳が無ければ音を聞くこともままならない。てゐは鈴仙からそう聞かされていた。
 「泣かないで。……もう。大丈夫だから……、私は医者だから。鎮痛剤を打ってあげる」
 だからてゐは少女に紅い瞳を向ける鈴仙をただ黙って見守るしか無かった。胸に抱かれた少女は間もなく寝息を立て始める。その安らかな横顔に手を這わせ、鈴仙は耳元にささやき掛けた。
 「あなたは怪我をしてるんだから、ゆっくりと眠っていて良い。もうなにも心配しなくて良いの」
 それは寝言かそれともわずかに残った無意識か。ぷるんと震えた唇はそれきり動かなかった。
 「だってお師匠様のお薬に。治せないものなんてなに一つ無いんだから」
 少女を抱え直し鈴仙は踵を返した。歩き始めた背中にどんな言葉を掛けようとも、鈴仙が振り返ることは絶対にない。そのことをてゐは知っていた。
 「大馬鹿……」
 しかし消えるかに見えた背中はぴたりと止まる。おもむろに振り向いた兎は冷たい目で、しかし何言かを訴えかけていた。置いていく。声はない。ただ口元だけでそう告げていた。
 その高圧的な眼は狼から守ってやると言わんばかりだった。
 「生意気言うな。お前こそ道に迷うだろうが」
 胸に湧き上がる苛立ちも鈴仙に届く様子はない。
 「そっちは霧の湖だ」
 踵を返し歩き始めた背を、てゐはただ追いかけることしかできなかった。




 ◇◇◇


 「だいたい終わったけど、どっか痛いトコとか、痒いトコとか無い?」
 「あっ……、はい」
 「やっぱ妖獣は頑丈だねぇ。あの大怪我がものの一週間でほとんど完治だもん。人間とはおーちがい」
 「いえっ、私なんて……」
 看護兎の間延びした声に、どこか上ずった声が一拍以上も遅れて続く。兎達のそんなやりとりに、てゐは思わず苦笑した。
 「やっぱり、慣れないみたいだね。ここに来て一週間じゃ、仕方ないか」
 何度か言い淀んだ後に、彼女は小さくはいと答える。空気を読まない兎の巻く包帯に、彼女はまた体を震わせた。その視線は兎の指先に。清潔に切りそろえられた白爪を凝視している。
 「タナカ~。ちょっとくらい手加減してやってよ」
 「えっ、私なにか悪いことしちゃいました?」
 てゐの指先をタナカの視線が追う。少女の怯えた瞳にようやく気がついたのか、タナカは慌ててあれこれ質問を浴びせかける。勢いに圧倒された少女は、ああとか、ううとか唸るのがやっとだった。
 「てゐさまぁ~」
 「タナカ、その子。ノウサギだよ。本当に気がついてないのか?」
 「野うさぎ? 野良だけに?」
 「知らないのか……。若いんだから。勉強しような」
 てゐのぼやきも意に介さず、タナカは呑気な返事を返す。基本的に兎とはそういう物だから、てゐもそれ自体を咎めることはしない。懐から老眼鏡を、壁際の本棚から事典を取り出すだけだ。
 「私を含め永遠亭に所属している兎はみんなアナウサギだ。アナウサギは集団生活を営む」
 「ついでに穴掘りが上手い」
 てゐの膝の上でタナカは笑う。妖獣となる程に長く生きても兎の精神は概して幼い。膝の上で頭をかき回してやれば眼を細めて喜ぶことくらい、てゐは知っていた。
 「よく分かってる。でもその子はノウサギだ。私達と違って穴は掘らない。その代わりに草原を山肌を、荒野を駆けるのさ。自分の脚で、たった一人で」
 「なるほど。元になった種族の違いですね。でもそれが、体に触れることと何か関係が?」
 「私達にとって接触は、家であり、家族であり、仲間であり、安心だ。でもこいつらにとってはそうじゃない。行き止まりであり、他人であり、捕食者であり、不安だ」
 「つまりどういうことです?」
 それに答えたのはてゐではなかった。
 「私達の肌に触れるのは乱暴な雄の性器か、捕食者の牙以外にありません……。少なくとも、これまでは」
 「あっ、分かる-。狼はめっちゃ怖い。でも、ウチの男衆は優しいよ」
 「私が睨んでるからな」
 「あの時も」
 「マジかお前避妊はちゃんとしろよ」
 てゐさま顔赤くないですか。うっせぇだまれ死ね。大きな咳払いを合図にてゐは少女へ向き直る。
 「まぁ、でも。この部屋は安全だ。永遠亭を襲うような馬鹿は――、」
 「里の科学者と博霊の巫女。後は竹林の不死人とか?」
 「あー……、まぁ、多少居るには居るが例外だ。よしんば襲われても奴らには理性がある。せいぜい――」
 「せいぜい叩きのめされてその辺に打ち捨てられるくらい?」
 「あー……、まぁ、間違っても殺されはしない」
 「そ、それって安全なんですか?」
 「安全って言うんですか? てゐさ――、あだっ?! いっ、痛いですよてゐさま」
 「うっせー黙ってろ、タナカ」
 タナカのこめかみをえぐっていたてゐは奇妙な視線に気がつく。少女はさも不思議なものを見るように、二人を見ていた。
 「お二人は……、親子なんですか?」
 「違うよ。言っただろ、私達はアナウサギだ」
 「そうですよ、てゐさまに子供なんて居る訳ないじゃないですか。そもそも相手が――」
 「タナカ、お前は黙ってろ。そう思うのは自然だよ。それはノウサギにとっては唯一の苦痛を伴わない接触だろうから。実際こいつを取り上げたのは私だよ。産後が良くなくてね。子育てをできる状態じゃなかったから、私が母親代わりみたいなもんだ」
 永遠亭に所属する兎の繁殖は完全に管理されている。そうでもしなければ繁殖力が強く、生命力の弱い兎たちを制御できなくなるのは目に見えているからだ。
 最も、それ程明確な組織として動き始めたのは月人との同盟結成以後であり、それ以前は有象無象のコロニーと大差の無い存在である。その頃は生まれるだけ死んでいたのでそのようなことを気にする必要が無かった。
 現在の永遠亭では、てゐを筆頭とする第一世代――同盟後に組織化を推し進めた世代――が中心となって管理及び仔兎の世話をしている。新世代の兎も育っている今、てゐが直接世話をする理由はほとんど無いのだが、それでも続けているのは単に責任感の様なものだった。
 「みんな言ってますよ。てゐさまには頭が上がらない。って」
 「そりゃそうだ。私がリーダーなんだから」
 「そんなだから男衆から避けられるんですよ~」
 タナカはからからと笑いながら言う。
 「タナカ。お前の良い所は臆すること無く意見を言えることだ」
 「へへへ。それしか取り柄ありませんし」
 「悪い所は、思ったことを全て言ってしまうことだ」
 「あははー。昔からよく言われます。……えっ、これ。お仕置きされる流れです?」
 「時と場合を選べるようになろうな……」
 ラジャー。ため息の後に続く気の抜けた敬礼と小さな笑い声。そこにあったのは小刻みに上下する肩と少しだけ歪んだ口元だった。少女が見せる初めての一面にてゐはもう一度息を漏らす。この少女とて兎なのだ。長い野生での暮らし故に張り詰めた部分はあれど、その本質はアナウサギのそれと大差はない。
 気を張ったままでは治るものも治らない。医療の知識に乏しいてゐでも、それくらいは知っていた。
 「でも分かんないなぁ。皆で暮らせば楽しいし安全だってわかりきってるのに」
 タナカが口を尖らせる。諫めるようにてゐが頭を撫でた。
 「妖獣にとって元来の生き方を変えるのはとても難しいことだ。人化の術を身につけた者であってもね。そして私は変わるべきじゃないとも思っている。妖獣に限らず妖怪にとって在り方を変えるというのは、存在意義を揺るがしかねない危険な行為だから」
 「でも、……だとすれば鈴仙さまはどうなるんでしょう?」
 鈴仙。それが聞こえた時。てゐは自然と顔を険しくしていた。すみません。軽率でした。しゅんと項垂れるタナカを見て初めててゐはその事に気がつく。
 「らしくないのは分かってるんだ。ただ、タイミングが掴めなくてな」
 「取り持ちましょうか?」
 「余計なことはしなくても良い。話を戻すが、あいつは――」
 引き戸の開く音に言葉は遮られる。戸口に立っていたのは、白衣を身に纏う兎の姿だった。
 「おはよう。体はどうかし……、ら」
 てゐを見つけた兎は、くたびれた耳と同じくらいのシワを寄せて視線を逸らす。なんとも言えない居心地に、てゐは事典に顔を伏した。
 「あ、鈴仙さま。今日は様子を見に来られただけですか? 患者さんの包帯なら取り替えておきましたよ」
 「うう、ん。いや、それだけじゃないのだけど……。ようやく起き上がれるようになったと聞いたから。そろそろ検査をしようかと」
 そう言いながら少女の頭を撫ぜる鈴仙は、肩の震えに気がつかない。身勝手な愛撫を終えた鈴仙は言葉を続けた。
 「それがね、ちょっと気になることあって。私は神経感染症<>の専門家なのだけど、あなたの症状の幾つかに思い当たるところかあってね。念の為に調べておきたいと」
 「へ。なら髄液抜かなきゃ。ロープロープ……、っと」
 ベットから跳ね上がった少女にようやく自身の失態を悟ったのか、慌てたように鈴仙は首を振った。
 「だっ、大丈夫、大丈夫。今日の検査にそういうの、必要ないから。だいじょ……、うぶ」
 「どういうことです?」
 「玉兎通信を使おうかと思って」
 タナカは心底不思議と言った様子で顎に指を当てていた。全く同様にてゐも首を傾げる。てゐの記憶にある限り、鈴仙がそんな事を言い出すのは初めてだった。
 「事情が事情で……、ね」
 鈴仙の玉兎通信。その能力の一つに麻酔作用があることは永遠亭でも広く知られている。需要の多い薬剤を代替できる可能性があるとして、何度か永琳から打診が行われたが、鈴仙が首を縦に振ることはこれまで無かった。
 どうして急に。タナカの素朴な疑問に鈴仙は苦い顔で答えた。
 「できるなら使いたくないっていうのが本音。これは本来医療用じゃないからね」
 それはいつも鈴仙が断りの理由として口にしていたものだ。
 「こんな事を言うのは失礼かもしれないんですが。安全性とかって大丈夫なんですか?」
 「だっ、大丈夫なはず。ほとんどはオートでやってくれるし、基本的には簡単な信号を送るだけだから。ちょっと軸索に穴を開けたりするけど、接続切る前にちゃんと閉じるし」
 「穴……、ですか」
 「玉兎通信はそういう物よ。異常でもない限り閉じ忘れるなんて、あり得ないから」
 だから大丈夫。少し怯えた様子の少女に、鈴仙は慌てて笑顔を見せる。それじゃ、検査の説明するね。その声が上ずっていることに。おそらく鈴仙は気がついていない。
 「私の玉兎通信には通常の通信機能以外にも二つ程機能があってね。一つが生体内微細構造体<>の遠隔操作。そしてもう一つが分子構造解析<>。特定電磁波を当てることで、体内を構成する分子ネットワークを解析、可視化できるの。この二つを組み合わせたものが神経干渉なんだけれどね。構造解析機能の応用で末梢神経・中枢神経問わず、細胞の変異やウィルスの増殖を観測できる」
 「へぁー。便利ですね。私達の仕事無くなっちゃいそう」
 「そんな事無いわ。可視化と言っても、受信器官<>で観測した中枢神経や末梢神経系の膜電位情報と合算して解析したものだから神経系しか見ることはできない。言ったでしょ。私は神経感染症<>の専門家だって」
 「はぁー。なるほどー」
 ついぞタナカの疑問符に気がつくこと無く、鈴仙は少女の瞳をまっすぐに見つめた。赤黒い光がその端から漏れる。
 じ……、じじ。じぃ……、じ。脳髄を這うようなそんな音にてゐは顔をしかめた。それはインプラントの駆動音に酷似しながらも遥かに弱い。おかしい。間違えて起動したのだろうか。そんな疑念がインプラントのスイッチを押し下げた。
 じじじ。じりりり。じぃじぃ。じじじ―。じぃ……、じぃ。てゐが先程までとは比べ物にならないノイズに閉口し、再び電源を切るまでにそう時間は必要なかった。
 「気のせいか……」
 「ねぇ。集中してるから。静かにしてて」
 「……悪かったよ」
 その赤黒い輝きはますます強まっていた。釣り上げられた眼からは怒りとも真摯ともつかない意思が漏れていた。その視線の先にあるのは少女の眼ではない。少女はすっかり怯えた様子で白目をむいている。
 「ねぇ、この傷。いつ頃の?」
 「い……、一ヶ月ほどですが」
 一分程の間を置いて少女は返事をする。その間も鈴仙は少女の襦袢をまくり上げ、それを凝視していた。雪のように白い肌にその痕跡は残っていた。それがなにであるか、てゐは一目にして理解した。
 「狼に襲われたのね。怖かったでしょう」
 「いえ、よくあることですから……」
 襦袢から覗くのは雪の様に白い二の腕と、わずかに残る傷跡だった。位置は腕の付け根から二十センチと言った所だろうか。牙跡の間隔から比較的若い個体であると予想できた。
 てゐのまぶたに浮かんでいたのは、めくれ上がった表皮と抉れた筋組織だった。過去に同様の傷を何度手当したのかてゐは覚えていない。兎にとって傷や死は残酷なほどにカジュアルだ。
 「情報は十分集まったかな。分析して……、お師匠様とも相談してくるわね」
 足早に去ろうとした背を止めたのは、タナカだった。
 「あの、鈴仙さま」
 「なに。私、忙しいのだけど」
 「ねっ、てゐ様が話があるって――」
 「タナカ。黙れ」
 脚を止めた鈴仙は、言葉を返すこと無く立ち去る。後に残ったのは、遠方から轟く発電機の駆動音だけ。帰って一週間、てゐは鈴仙と口を聞いてない。
 「大馬鹿者だよ」
 驚き振り向くタナカと少女を無視して、てゐは言葉を続けた。
 「兎に誰かを守る力はない。私達に許されるのは、自己防衛のためのささやかな足掻きと、逃げることだけ。だから、あいつはただの大馬鹿だよ。本気で誰かを助けられると思ってる」
 「てゐ様……」
 「ごめんね、二人とも。でも、覚えておいて欲しい。幸福でありたいと願うなら。分相応に生きるべきだよ。獣には元来そのように生きる以外の機能が備わってないのだから」
 だからこそ。てゐは続ける。健康とは尊い。その呟きに籠めた思いが伝わるとは思っていなかった。それを軽い調子で言えるほど大人ではなかっただけだ。
 「でっ、でも。私はみなさんのおかげで助かりました。お薬、本当に良く効いて。噂通りでした」
 「当然だよ。永遠亭で消費される薬は全てお師匠様が作ってる。全てはあの方のおかげ。私達はそれを手伝っているだけ。自分たちが生きるために」
 生合成によって作られる西洋薬のほとんどは永琳でなければ作り出せない。兎が手伝えるのは漢方製剤のみである。それは、最も近くで製剤作業を見ているはずの鈴仙ですらも例外ではない。
 「早く元気になろうな」
 「は――」
 絶叫そして、廊下を駆ける音。少女はそれに言葉を切り。タナカは耳を立てる。てゐはそんな二人を静かに見つめた。勢い良く開いた扉から現れたのは、看護服を身に纏う兎だった。
 「タナカ! 手、足りない。来て!」
 「サトウ。どこの患者さん?」
 「東第二病棟の患者さんよ、早く!」
 慌てて駆け出すタナカにに驚き、少女はようやく動き出す。
 「てゐ様。今のは一体……?」
 無感情な眼をしたてゐは答えない。だからその口から紡がれるのは、誰にも向けられていない。
 「そう。うちのお薬はお師匠様にしか作れないの」
 それが私達の相応なんだ。てゐの呟きは、続く叫びがかき消した。




 ◇◇◇


 最初からそうだった訳ではない。
 永遠亭が停滞を脱してしばらくは小さな診療所と配置薬を生業とする有象無象の勢力でいられた。それが変わり始めたのは十年ほど経ってからのことだろうか。永遠亭の医療技術が知られるにつれ、諸勢力からのアプローチが増え始めたのだ。
 そんなアプローチの結果として生まれたのが里との協定であり、山との交易でもある。それらの結果が、現状の永遠亭へとつながっている。
 そのどこにも理不尽や不正は無かったとてゐは記憶している。だから、間違いがあるのだとしたらもっと根本的な部分。月人の存在とかその辺りだと、てゐは思っていた。
 「タナカ! 脚、抑えてて」
 「分かった!」
 ベッドに横たわるのは枯れ木のような人間だ。その細い足をタナカは真剣な表情で押さえつけている。その額には汗が浮かんでいた。妖獣であるはずの腕が今にも跳ね除けられようとしていた。
 「ねぇ、てゐさまぁ。ケシ育てましょうよ~。ケシ。裏庭とかで。土地なら幾らでもあるじゃないですか。アヘンくらいなら私らでも作れますし」
 「そうは言っても、ケシの生産は山が独占しているからねぇ。ウチで作ったら後でなに言われるか分かったもんじゃない」
 「そんなこと言ったってもう無理ですって。鎮痛剤の在庫はゼロ。自転車操業も限界ですよ」
 「手は打った、もう少しだけ頑張れ」
 涙目のタナカを手で制し、てゐはあたりを見やる。
 そう広くない部屋に並べられたベッドは六つ。その全てに病人が横たわっていた。状態は様々。年齢も様々である。共通しているのは、誰もが苦しげに呻いているということだけだ。
 「ここに居る患者はね。もう、治らないんだ」
 東第二病棟。兎達の間でホスピス棟と呼ばれるそこには、治癒が見込めない病に侵された患者が集められており、死神が訪れるまでの時を穏やかに過ごすための終末看護を行っている。そこまで説明をして、てゐは言葉を切る。再び紡いだ言葉の語尾は過去形に変わっていた。
 「永遠亭はね。あらゆるものが不足しているんだ。薬も。兎も」
 永遠亭は元より研究施設としての側面が強い。八意永琳は確かにあらゆる薬を作り出す能力を持っているが、それはあくまでも彼女が持つ膨大な知識によるものであり、無から薬剤を生み出すような魔法ではない。それを理解しない里から運び込まれる患者によって、永遠亭がオーバーフローするのにそれ程の時間は必要なかった。
 その状況に追い打ちを掛けるのは、ほぼ同時期に結ばれた妖怪の山との協定だった。広大な土地を有する彼らは、薬剤の原料となる植物や資源等を独占し各勢力との交易を始めたのだ。永遠亭は今や仕入れの五割以上を山に依存している。
 「これが偽らざる永遠亭の現状よ。この先なにかあればウチを頼れば良いなんて。間違っても思わない方が良い」
 蒼白な顔を見せる少女をそっと抱き寄せようとして、手を止めた。
 「ごめんね。怖がらせるつもりは無かった。ただ、知っておいて欲しかったんだ」
 代わりに掛けるのはできるだけ優しい声。少しばかり強すぎたかもしれない警告を内省しつつ、てゐは少女を見つめた。
 「まぁ、あれだよ。健康というのはなによりも尊い。体は大切。私が言いたかったのは、それだけ」
 「……はい」
 頭上に伸ばした手に、少女が眼を伏す。行き場を失った手のひらを頬を掻いてごまかした。
 「あなたが言うと、重みがあるわね」
 奥のカーテンから落ち着いた声が響いたのは丁度そんな時だった。
 「そりゃね。健康だけが取り柄なもので」
 「お師匠様。居られたんですか」
 それに向けられるのは、輝く瞳が二つと怪訝な瞳が二つ。八意永琳はタナカとサトウの抑えつける患者へと歩み寄る。そして木箱から出した注射器を枯れ木に突き刺した。
 「鎮痛剤ですね、それ。原料在庫は底を突いていた気が」
 「てゐが気を利かしてくれてね」
 八意永琳のウィンクに、てゐは苦い笑みを返した。
 白狼天狗の一部。哨戒等の公職に就いていない低層の一族は生活のために野盗まがいの行為に手を染めている。てゐは彼らにとっては法外な、永遠亭にとっては安価な金額を提示することで、ケシの仕入れルートを新たに開拓した。
 「バレるのは時間の問題だろうけど。まぁ、問題はない。白狼天狗の代わりなんて腐るほど居るし、私達は正当な取引をしているだけだ」
 嘘だった。因縁を付けられれば分が悪いのは永遠亭だ。永遠亭と山では組織の規模が違い過ぎる上に、山以上の取引先は他にない。そして、縦社会の山で下っ端天狗の証言など蚊程の価値もない。危ない橋であることを理解した上で、てゐはそう言った。
 「頼りにしているわ。てゐ」
 「お互い様さ」
 そして永琳は踵を返す。疲労の色一つ無い横顔にてゐは恐怖すら覚えた。鈴仙への教育と薬剤の調合、そして患者への対応。里からの患者受入が増加して以来、まともな休息を取っていないはずの彼女が未だ疲労を見せない。
 それが示す事実がてゐを恐怖させていた。
 「今のは、八意永琳様ですか?」
 「あぁ、そうだが」
 停滞を解いてから八意永琳の名が幻想郷中に広まるまでにそれ程多くの時間は必要なかった。今の幻想郷で八意永琳の名を知らない者は無く、野良の妖怪も例外ではない。
 「思ったよりも、優しそうな方ですね。噂を聞くにもっと冷徹で底知れない人なのかと」
 「そうだね。お師匠様は誰にでも優しく見える。でもね、決して油断しちゃいけない。私達は兎で、あの人は……、妖怪。そう妖怪だ」
 「私達の尺度で測るなってことですか?」
 てゐは無言で頷く。月人にとっての善意が兎にとっての善意である保証はどこにもない。依存の先にあるものが、決して明るい未来ではないとてゐは知っている。
 「少女よ。お前は傷が治ったら外へ出るんだ。自分の脚で走ってね。それで、できるだけ長く生きるんだよ」
 「はい。私、走れなくなるなんて絶対に嫌ですから」
 満面の笑みで、少女は頷いた。




 ◇◇◇


 「てゐ様、お客様が」
 「珍しいな。患者ではなく客とは」
 部屋を訪れたのはてゐの知る顔だった。分厚いメガネと無造作に束ねた長髪。初老に差し掛かろうという所だが、整った顔立ちと力強い瞳は年齢を感じさせない。いつもと違うのは、白衣ではなくコートを着ていること位だろう。
 「ハロー。てゐちゃん、元気してた?」
 「思ったよりも早かったな。朝倉。朝倉家当主ともあろうお前が、自らこんな所まで何の用だ」
 「遊びに来ただけよ、いやねぇ」
 「嘘つけ。出不精のお前がこんな所まで来るなんて何年ぶりだ」
 「二十年? 十年? まぁ、子供の時はよく遊びに来てたじゃん」
 「これだから人間って奴は。見た目ばかり成長しやがる」
 勝手に座布団に腰掛ける朝倉に、てゐは仕方なしに茶を振る舞った。
 今でこそ朝倉家は里の技術研究の要として高い地位を誇っているが、その昔は霧雨と並ぶ魔法の大家であった。魔法技術開発競争に破れ落ち目にあった朝倉を立て直したのが、誰であろう理香子である。
 理香子が科学者として駆け出しだった頃。様々な面でサポートしていた――正確にはさせられていた――のがてゐだった。危険地帯とはいえ永遠亭の倉は技術の宝庫である。噂を聞きつけて訪れた好奇の瞳と、片手では数えきれない倉庫への侵入を忘れることは生涯無いだろう。
 「当主になってからは忙しくて来られなかったけれど。ここは変わらないわね」
 「そうでもないさ。姫様が術を解いて以来、少しずつだけど変化してる。姫様が盆栽を育てるようになったり。鈴仙が医者を志したり。……人里の患者を受け入れたりね」
 最後の言葉に付けられたアクセントに、朝倉は苦い笑みを浮かべた。
 「遊びに来たのは本当。そのついでに、世間話をしようかなと」
 「あの妖怪のことか」
 朝倉は何度か言い淀んだ後にあさっての方向を見やる。関係ない話なんだけど。そんな前置きの後に言葉を続けた。
 「最近とある依頼で無人航空機<>を作ったの。プログラムされたコースを飛んで映像を記録し続けるやつね。これがまた面白くて色々撮れるのよ」
 「へぇ、面白そう。古明地の妹でも映ってた?」
 「いろいろよ。建造中の巨大人型ロボットとか。氷精と仲良く門番してる紅とか。後はそう……、狼を叩きのめす兎とか」
 「そりゃぁ……、面白いね」
 「あなた達の置き薬ね。すごく評判良いのよ。すぐに効果が出るって。だから、妖怪が作っただなんて噂が流れたらとても困るわ」
 「確かに。まぁ、そうなったらそうなったで耳を隠さなくて良くなるから、楽かもしれないけど」
 「私は嫌だなぁ」
 「あら、あんたにそんな人間らしい感覚があったなんて意外」
 「私以外にモフモフされるのは、面白くない」
 「ああそうかい。ほら、ぶぶ漬け食うか」
 「ダイエット中でね。ご遠慮させてもらうよ」
 てゐの冷たい視線をものともせずに、朝倉は机の煎餅をかじる。所在なさげに辺りを見回したかと思えば、徐ろに机の上のそれを手に取った。
 「おーっ、使ってくれてるのね。ウチの携帯電話」
 それは昔となに一つ変わらないマイペース。そんな調子にてゐはただ苦笑するしかなった。
 「大分汚れてるね。ちょっと待ってて」
 鼻歌交じりにポシェットから精密ドライバーを取り出すと同時に机上は工房へ早変わりした。淀みのない手つきで携帯電話は解体され細部の汚れまでも取り除かれていく。
 「すぐ壊れるしバッテリーが切れるし。不便な所もあるけどね。玉兎通信は鈴仙相手にしか使えないし、なんだかんだで重宝してるよ」
 「そうでしょそうでしょ。あんたんとこの倉庫で拾った資料と月の賢者様の話から色々推測して作ったけど、まぁ悪くないと自分でも思ってるわ。汎用性を重視して色々ダウングレードしてあるから個人的にはちょっと不満なんだけど」
 「うへぇ。これだから科学オタクは」
 「科学は素晴らしいよ。魔法のようなアバウトさがない。精密で正確で最高よ。精密過ぎて手順を踏めば誰でも受信できてしまうのは、困りものなんだけどね。暗号化も考えてはいるのだけど」
 「はぁ、それはまぁ頑張ってくれ。と言うか、お前。ほんとなにしに来たんだよ……」
 「言ったでしょ、遊びに来たって。息抜きよ。たまにはうるさいお付きの居ない場所で昔の知り合いと話したいって思うじゃない」
 里じゃ誰が聞いてるか分からないから。手元から視線を外すこと無く朝倉はそう続ける。手入れが終わり差し出されたそれは、少しだけ手に馴染むようだった。
 そろそろ帰るわ。おうさっさと帰れ。手早く荷物をまとめた朝倉はふすまに手を掛けそう言った。
 「魔法といえば、あんたの所の魔法使いによろしくね。置き薬。うちの所員が昔結構お世話になったって。最近来てくれなくて寂しいって言ってたわ」
 「だから魔法使いって誰だよ」
 その返事を待つことなく朝倉は足早に去ってしまう。
 入れ替わるように一人の妖怪兎が部屋に入ってくる。その潜められた眉から、朝倉の案内役であることは容易に想像できた。
 「感じの悪い人ですね」
 「いいや。感謝すべきだよ。おかげで手が打てる。言ってただろ一人で来たって。携帯でも里でもなくここで話をしたかったって。だから、あれは少なくとも朝倉にとって後ろめたい話なのさ。里にはこれから情報が伝わる。だからそれまでにもみ消せば良い」
 「とりあえず、彼女の医療記録は隔離しておきます。……どうして私達がそこまで譲歩しなければならないんです? 医療技術は圧倒的だと言うのに」
 「お前、狼に襲われたことあるか?」
 「いえ……、生まれた時から永遠亭に居ました」
 「私は襲われたことがある。あの牙を、あの唸り声を思い出すだけで今でも震えるほど怖い。あんな思い、もう私は誰にも味わって貰いたくない」
 「ええ。そうですね」
 「彼らも同じなのさ。私達が強大であればある程、私達は己が無害であると証明し続けなければならない。そうでないと私達は、無自覚な狼になってしまう」
 「それは、嫌です」
 「ああ。私も嫌だ。多分、鈴仙もお師匠様も同じことを言うだろう。だから私は譲歩するんだ。どれだけでもね」
 笑顔で頷く兎に、てゐは釣られるように笑った。




 ◇◇◇


 その視界は真っ暗だった。
 起き抜けの頭脳はこの上なく淀んでいた。自身が紙の束に突っ伏しているのだと理解するのに零コンマ五秒。一度窒息死したのだと気がつくのに一秒。直前に行っていた作業を思い出すのに三秒が必要だった。
 ああとかううとか二度三度呟いた後、それはおもむろに顔を上げてかすれたインクを睨みつけた。
 「あんの糞天狗共め。また釣り上げやがって……!」
 そこに記されるのはどれも薬剤の合成に欠かせない物質名だった。その後に記されるのは印刷ミスを疑う幾つかの数値だった。
 仕入れ計画書の作成中に届けられた――今回に限って鴉天狗が運んできたのも偶然ではないだろう――価格改定の知らせは、疲労した彼女を倒れさせるに十分なインパクトを誇っていた。
 別に原料が山からしか仕入れられない訳ではない。各地に点在する隠れ里の人間は大抵希少な資源を保有しているし、旧地獄跡に至っては山と変わらない品揃えを誇っている。
 それでも彼らとの取引を止められないのは、彼らが本質的には真面目で態度に見合う実力を持っているからだ。つまり、許容できる供給と素材としての体を為す程度の品質を両立しているのは彼らを除いて無いということだ。
 「しばらくは鬼共の粗悪品で済ますか……、精製はこっちでやり直すとして、必要な資材は里から調達すれば多少は……。どうせ買い手は多く無い。頭を下げて来るまでの我慢よ……、我慢」
 掻き毟った毛髪が筆を持つ手に落ちる。メモ用紙踊る数式を止めたのは一筋の光だった。
 「疲れているのかしら。こんな夜更けに人が来るなんて……」
 戸口の影は動く気配を見せなかった。返ってきたのは床板を叩く音だけだった。
 「ねぇ、見ればわかると思うのだけど。今ちょっと立て込んでいてね。急患でないのなら明日にして貰えると助かるのだけど」
 「お師匠様。見てもらいたい物があります。それから……、提案が一つ」
 彼女には珍しい落ち着いた声。座りなさい。そんな永琳の勧めも断り、鈴仙はポケットから外部記憶装置を取り出した。らしくもないそんな行動が産んだ永琳の疑念は間もなくして消し飛んだ。シルクスクリーンとプロジェクタの映す画像データがそうさせたのだ。
 「観測データを解析し画像化しました。縮尺からそのサイズは幅70-80nm、長さ160-190nm程度と予測します」
 淡々と語るその顔がどことなく青白いのは、プロジェクタのビームが反射しているからに違いない。その程度に自分勝手あることは、永琳が一番良く知っている。
 そこに映しだされていたのは一つのモデル図。弾丸状の微細構造体だった。
 脂質二重膜により形作られた構造体表面はタンパクに覆われていた。それらが包む内側に存在するのは、幾つかのタンパクと螺旋状の構造体。
 背後で崩れ去るタワーを気にも留めず、永琳はファイルを捲る。その指先がたどるのは、たった数十年ほど前に外から仕入れた資料だった。
 「特異的なその形状。リッサウィルス属の特徴と合致するわね。これだけじゃラゴスかモコラかEBLか分かんないけど。でもまぁ、どれにしろやることは変わらないか。優曇華、聞きたいことがあるのだけど」
 これはどこから見つけたのかしら。兎の細く白い喉が上下した。
 「一週間程前に運び込んだ妖怪兎の少女から見つけました。彼女が襲われていた狼に違和感があったので念の為に調べたら、偶然に……」
 「そう。あなたが見つけたと言うことは、ニューロン内部で発見したのよね?」
 「はい。正確には細胞体内部で増殖していました」
 「位置は?」
 「現在のところ目立った症状は出ていませんが、早急に措置をとる必要があると思います。とりあえず病室を移すように手配はしておきました。……あのですね。お師匠様、その事について私も、」
 「優曇華」
 「お師匠様。私、自分でも少し調べてみたんですが――」
 「優曇華。位置は? 答えなさい」
 永琳はその紅を真正面から抑えつける。一回り縮んだ兎は、一拍二拍遅れて口を開いた。
 「腕の、付け根あたりに……」
 「そう。明日から精製作業を始ましょう。今日はゆっくりと休みなさい。しばらくは、寝る暇も無くなるでしょうから。よくやったわ優曇華。お手柄よ。間違いなくあなたのお陰で多くの人たちが救われる」
 「お師匠様! 私の話を聞いて下さい」
 「普段ならそうしてあげたい所なのだけど、今は一刻を争うの。あなたは休みなさい。あなたは私ほど無茶が効かないのだから」
 普段ならそうしてあげたい所なのだけど。続く言葉を、兎は物言いたげ瞳で受ける。
 「優曇華。喜ぶべきよ、これは。だってここに狂犬病ウィルスが来たって事は外じゃようやく根絶できたってことなんだから。それにねあなたが思うほど事態は深刻じゃない。狂犬病ウィルス及び関連ウィルスはワクチンさえ打てば予防できるわ。しばらくは里や山との協議が続くかもしれないけれどね」
 「違いますお師匠様。お師匠様、」
 「あぁ、ワクチンの合成? 残念ながら私も実際に作業をするのは初めてで、ここには参考になる文献も少ない。手法の確立からになるけれど、まぁ三日もあればめどが経つでしょう。頼りにしてるわよ、優曇華」
 「違いますお師匠様。私は、私がすべきなのは」
 「正しいわ。レイセン。私のやるべきことはワクチン合成。あなたがやるべきことは、それを里や竹林に配ること。それ以外になにがあるのかしら」
 今日はもう休みなさい。冷たいそんな声を前に、それでも兎は去ろうとしない。
 「あの子は。私が初めて助けられた患者なんです」
 「そうね。月でのあなたは。正真正銘のヤブだった」
 兎は言葉を返さなかった。その瞳は床を見ていた。呆れたようにため息を吐き、永琳は口を開く。優しい声だった。
 「狂犬病ウィルスには幾つかの興味深い特徴がある。その一つが逆行性シナプス末端取り込み作用。生体が持つ幾つもの防護網をくぐり抜けて脳へ到達するための作用。ニューロンのシナプス末端を逆走し末梢から中枢へ入り込む。その速度は一日15-100mm程。腕の付け根から頭まで約二十センチと考えれば、遅くとも三週間後には発症する。あの患者が運び込まれてから一週間。もう、間に合わない」
 「分かってます。ワクチンの精製に少なくとも二週間以上は必要なことくらい。でも、助けたいんです。私は、医者だから。あの子は、私が初めて助けられた患者さんだから」
 「いいえ。あなたはこの先に多くの人を救うわ。そのためにあなたがすべきなのは、ゼロの希望へ労力を裂くことではないというだけ」
 兎は黙る。そして苦しげに言葉を紡ぐ。
 「ゼロだなんて言わないで下さい。あらゆる薬を作り出す月の頭脳がどうしてそんなにも軽々しくトリアージを口にするんですか。私はお師匠様に医術を学びました。私は最大限の努力をしたいんです」
 それは鈴仙には珍しい強い口調だった。
 「そうね私はあらゆる薬を作り出せる。努力なんするまでもなく、私の頭脳を持ってすれば解明できない病はない。だからね優曇華。これは、あらゆる薬を用いても治し得ない病なのよ」
 それっきり鈴仙は項垂れてなにも語らなかった。それがどんな表情をしているのか永琳には分からない。その耳は萎れきっている。その肩はこれ以上ないほどに下がっている。だというのに、その脚だけはがんとして動こうとしなかった。
 八意永琳は天才だ。玉兎一羽の考えなど、分からないはずがない。
 「ねぇ、優曇華。あなたはこんな無駄な問答の為に来たのかしら?」
 小さく、しかしはっきりと横に振られる首に、永琳はため息を吐いた。




 ◇◇◇



 おべんとのおにぎり、多めに握ったのにな。
 死の淵で考えていたのは、そんなことだった。
 なにが悪かったのかと思えば幾つか理由は出てくるだろう。多分慢心だと思う。
 私は小さな島の生まれだ。生まれた時から腕っ節で誰にも負けたことはないし、誰かの背を追った記憶もない。
 体が育ちきる頃にはもう、島の中でなに一つ知らないことは無くなっていた。私は一番かしこい。私は一番強い。そんな根拠薄弱な自信を持ってしまったのも、自然なことだったのかもしれない。
 その思いが島の外へと向かうのにそう多くの時間は必要なかった。
 いくつかの問題はあった。海を渡らねばならない。だが、その海には多くのワニが住んでいる。海に近づいてはいけない。ワニに喰われてしまう。それは、子供の頃から聞かされていた常識である。
 だから私は思ったのだ。私は強い。私は賢い。だから、ワニになんて喰われる訳が無い。そうだ、あいつらを騙して海を渡ってやろう。
 だから、今の状況は当然の報いだった。
 原因は本当にくだらないことだった。一族の数比べをしよう。そんな嘘でワニを騙し、海に並べて背を渡る。そこまでは問題なかった。だが最後の一匹で油断をして騙していることがバレてしまったのだ。
 私は喰われなかった。私はまだ生きている。私は海を渡りきった。
 でも、それは私が強かったからじゃない。ワニから見ればあまりに弱くて。食いでがなかったから、遊びで皮を剥がれて打ち捨てられただけ。
 私はたった一人地面に伏していた。助かる見込みはない。昔の退屈ながら楽しかった思い出に浸り現実から眼を背けていた。
 ばかな奴め。島の中なら俺達が守ってやれたと言うのに。
 ワニの下卑た笑い声と頬を伝う水に、私は初めて知ったのだ。兎はか弱い生物だ。他人に騙され、奪われるだけのか弱い生物だ。
 だからこれは、当然の結果なのだと。私は思ったのだ。


 「……夢か」
 障子から差し込む日差しはいつもより少しばかり高い。ぼさぼさの髪をかき上げ、てゐは布団から身を起こした。
 肌寒さが身を震わす。小鳥のさえずりもどこかわざとらしい。肌着を変えようと服を脱ぐ。何気なく見やった姿見には、貧相な肢体と無数のケロイドが写り込んでいた。
 「私は今日も元気ですよ。大国主様」
 てゐが今生きているのは偶然に大国主が通りかかったからだ。天孫降臨より前から国を治める偉大な神だ。そんな神がただ一匹の兎を救ったのは奇跡にも近い出来事だった。故に、てゐは強く思う。
 「奇跡は二度、起こったりしない」
 ぱぁんと頬を叩いて気合を入れる。手早く身支度を済ませたてゐは、永遠亭の東へ向けて歩を進めた。
 「おはよう。調子はどうだい?」
 「変わりありません。昨日までと、なにも」
 「そうか」
 ベッドに横たわる少女は、唇だけをわずかに動かして答えた。
 少女の容態が急変したのはそれから間もなくしての事だった。最初は軽い発熱から。それはいつしか麻痺へと変わり、寝たきりへ至るのに時間は掛からなかった。
 「私は死ぬんでしょうか」
 「分からん。私は医者じゃない。お前がなんの病に侵されているのか、私に判断する権限はない」
 突然に激しく咳き込んだ少女にてゐは水を差し出す。しかし少女は、揺れる水面に身をすくめるばかりで一向に飲もうとしない。そんな様子をてゐはただ静かに見つめていた。
 「狂犬病は発症すれば絶対に助からない。棚に置いてあった本に書いてありました」
 「……そうだね。私は医者じゃないから。理由なんてしらないが」
 少女の体が狂犬病ウィルスに冒されている事が判明したのは数日前のこと。原因は恐らく二の腕の傷跡。鈴仙の言う検査結果が出てまもなく少女は狂犬病を発症した。
 隔離された個室の中。ベッドに縛り付けられた少女は、ただただ死を待つだけの存在だった。
 「あー、子供作っとけば良かったなぁ」
 「あまり希望的な話はしたくないけど。お師匠様や鈴仙が今ワクチンを作っている。あと数日でなんらかの成果はあると思う」
 「無理ですって。お話は聞いてます。発症後じゃほとんど助からないって」
 「勉強したな。お前」
 「自分のことですから」
 力ない笑い声の響く部屋の中。突然に開いたドアから現れたのは、白衣を纏った鈴仙だった。肩で息をする鈴仙は一目散に少女へと向かっていく。
 「ねぇ、あなた。助かるわ」
 「おい、鈴仙。どういうこと――」
 「もっと喜んで! 助かる方法が見つかったって言ってるの」
 協力して貰えるかしら。真っ直ぐに伸びた手を少女は最初怪訝な目で見る。一分か二分か。迷う様子を見せる少女に鈴仙はただ笑顔だけを返していた。そんな鈴仙に安心したのか、やがて少女も手を延ばす。小さく首を縦に振る。
 感動的であるはずの光景を前に、てゐは頭の一部が冷えていくことを感じていた。少女の手を握る鈴仙の横顔に硬いものを見出してしまったからだ。それが決して気のせいではないと確信していたからだ。
 しかし、そんなてゐの不安は見事に空振る。数日後、鈴仙により行われた手術は無事に成功し少女は生還した。
 「本当に治っちゃいましたねー。絶対に助からないって話だったのに。まるで奇跡みたい」
 それは手術から二日後、ある休日の昼下がり。縁側に座るタナカは無邪気な笑顔でそう言った。事実としても少女は回復へ向かっていた。タナカの言によるならば、現在は上半身を起こして自分で水が飲め程に回復したとのことだった。
 「奇跡……、か。確かにそうなのかもね。私の勘も鈍ったかな」
 「歳ですね」
 無言でそのこめかみを抉り、てゐは湯のみを傾ける。
 「私に言わせれば狼の群れに襲われて助かった時点で。十分に奇跡と思うのだけどな」
 「ラッキーなんですよ。あの子」
 それは無垢な笑みだった。まだ短い時しか生きてない兎にはありがちな楽観的思考が浮かんでいた。それは戒めるべき感情だった。兎が長く生きるには警戒心と思慮深さはいくらあっても足りることはない。
 「……そうだと良いな」
 その口元が緩んでいたのは、てゐが歳を取り過ぎていたからだ。




 ◇◇◇
Runaway Rabbit


 何日も変わらない天井を見ていた。
 それは幾重にも重なる木質と泥で作り出された一つの大地だった。
 だから、無数に走る溝の一つ一つに確かな生命が宿っている。そこで蠢く黒点の一つ一つには目的があり意思があり命がある。それらの狙いは数日前に死んだクモの死骸だった。子供の拳程はあろうかと言うそれに、もう何日もアリが集っていた。
 少しずつ解体されていくそれを、彼女はただ無言で見つめていた。
 『おはよう――』
 突然に視界が赤く染まり脳の中にはそれが響く。とっさに終了するもあまりに遅い。ぽとりぽとりと落ちる彼らを、彼女はただ手のひらに受けることしか出来ない。
 しばらくは仰向けでもがいていた彼らだったが、段々と動きは小さくなりやがては完全に停止した。黒色の塊と化した彼らを彼女は無言で見つめる。間もなくして彼女は小さくうずくまった。
 そしてゆっくりとまぶたを下ろす。
 もう、なにも見なくて良い様に。音だけの真っ赤な世界に閉じこもるために。
 『おはよう――』
 彼女は瞳を閉じた。




 ◇◇◇


 泥のような疲労が湯の中へ溶けていく。縮れた毛先を指に絡め、てゐは長い長い吐息を漏らした。ぴとんと言う水音に続いて二つの耳が跳ね上がる。真っ黒なびいだまが見上げた先にあるのはびっしりと張り付く露。そして見慣れた木目。てゐはそこにある線の数から紋様のパターンまで全てを記憶している。永遠亭に住み始めて以来毎日眼にしているのだから当然だった。
 押し殺したような笑い声が反響した。いつの間にか桶に腰掛けていた兎がばさりと湯を被った。
 「てゐ様。お疲れ様です」
 「なんだヤマモトか。おつかれさん。お前が居るってことは、七班は無事帰って来たんだね」
 「怪我人はゼロですよ。収穫はそこそこって所ですが」
 垂れ目の兎は舌っ足らずな声でそう告げた。幼い訳ではない、単にそう言う癖であるとてゐは知っている。なぜなら彼女は古参の部類に入る兎だからだ。
 「そっか。ありがとう。皆ゆっくり休ませてやってくれ」
 「見ての通りに」
 それは見慣れた光景だった。
 ぞろぞろと後ろに続いて若い兎達――中にはタナカの姿もある――が入ってくる。その肢体に怪我こそ無いものの、髪の毛や手先は泥やほこりに塗れていた。彼女らはヤマモトをリーダーとする薬草採取部隊の第七班だった。
 談笑しながら湯浴みを始める彼女らをてゐは湯船から眺める。薬草採取部隊は七名以上の妖怪兎で構成され、そのリーダーを第一世代の兎が務めることになっている。年長で老獪――あくまでも比較的な話ではあるが――な者が多い第一世代にあって、ヤマモトは最も若く経験が浅い。彼女をリーダーとすることには反対の意見もあった。
 だから、続く光景がてゐには予想できた。
 タナカぁ。勝手に人の髪洗うなって何度言えば分かる。おい、サトウ。お前はなんで手ぬぐいを構えてるんだ。おいまて。みんな落ち着け。
 「人気だな。ヤマモト」
 「てゐさまぁ~。笑ってないで助けて下さいよ……」
 「さてはて悪戯兎に助けを乞うとはこれいかに……、ってね。私は先に上がるよ。ゆっくり疲れを落としといで」
 元気な声が背中に届いた。数多の危惧を受けながらも七班の生還率が最も高いのは、あの辺りに所以するのだろう。
 そんなことを思いながら脱衣所で濡れた肌を拭う。ぶおんぶおんと重低音が鼓膜を揺らす。つけっぱなしだった扇風機を切ると後には静寂だけが残った。
 少しだけ違和感のある光景だった。
 当たり前だ。そこには自分しか居ない。ふと所在のなさを感じて棚へ眼をやると、一つの書類が無造作に置かれていた。

 『
 ●被害状況
 死者一、怪我ゼロ、内訳:カノウ(妖狐の強襲を受け死亡、現場からの退避を優先し遺体は放棄)

 ●探索結果
 魔法の森西部を中心に採取。冬虫夏草を中心とした在庫僅少の原料を確保することに成功した他、人参の群生地を発見。しかし、妖狼のテリトリーが近く採取作業の際は護衛として白狼天狗を雇用する必要があると考える。
 』

 備え付けの冷蔵庫――正確には停滞庫――から牛乳を取り出し、丸椅子へ腰掛ける。また値上げしてる。瓶に張られた値札を眺めてゐは独り言ちた。
 「あらてゐ様。まだ居たんです? 素っ裸じゃ湯冷めしますよ」
 ヤマモトだった。ヤマモトは早風呂だ。
 「ああ。ちょっと考え事をね。山から買うよりはずっと安く済むだろう。とか」
 「白狼共にボラれなきゃ、ですね。奴らも生活掛かってるから仕方ないんでしょうけど」
 「全く。あんな無頼者に頼らなきゃならんのは業腹だな」
 どんな社会にもはみ出し者は居るもので、下層の白狼天狗はその典型例だ。天狗だけあって横柄でガメつく、弱者に容赦しないロクデナシであるが、契約には忠実な事で知られていた。支払った分の仕事は確実にこなすことから、永遠亭は度々彼らに護衛を依頼していた。
 「ふぅ、それじゃてゐ様。私はお先に。早くしないと、あの子らも上がってきますよ」
 「もみくちゃは御免だねぇ」
 からからと笑うヤマモトの背をてゐは見送る。ガラス戸の向こうではかけ湯の音が響き始めていた。ヤマモトの言葉が正しければもう数秒もしない内にガラス戸は開く。手早く襦袢を巻きつけたてゐは脱衣所を後にした。
 それは拍子抜けするほどいつも通りの日常だった。
 ワクチンの精製に追われる少しだけ忙しい毎日に思えた。
 だから、てゐはそこに脚を運ばずに居られなかった。
 そこは真っ暗な部屋だった。物音一つしない静かな部屋だった。その部屋に一歩足を入れると、ひやりとした感覚がてゐの肌にまとわりついた。
 部屋には幾つかのベッドが置かれていた。ベッドに横たわる患者は誰も静かに眼を閉じ眠りについている。てゐは淀みのない足取りでその内の一人に歩み寄った。
 「久しぶりだな。元気に、してたか」
 ベッドに眠るのは少女だった。静かに眠る彼女は起きる気配も見せない。
 「つまらない冗談だったな。気を悪くしたらすまん。冗談だったんだ。お前に聞きたい事があって。気でもほぐしてくれたらと思って。だから――」
 その影は口を開く様子も無い。その能面のような顔が怒っているのか、笑みを堪えているのか。てゐには分からなかった。
 「だから教えてくれよ……。なにがあったんだ。お前の手術は、成功したんじゃなかったのか……?」
 柔和な。それでいて張り詰めた笑みを浮かべたまま、てゐはそれの頬に手を添える。ひやりとした感触。その首筋にはあまりにも生々しい痣が残されていた。
 「なぁ、名もないノウサギよ」
 閉じられたまぶたが開くことは二度と無い。この部屋を出ればたちまちに土へと還る存在であると、てゐは知っている。
 少女が死亡したのは二週間程前のこと。つまり、鈴仙・優曇華院・イナバが消えてから今日で二週間と言うことだ。
 それは突然の事だった。手術が成功してから三日目の夜。当直の兎が部屋で首を吊っている少女を発見したのだ。
 状況から見て自殺なのは間違いなかった。部屋に争ったような形跡はなく、そも殺す動機が生まれる程、永遠亭で彼女が過ごした時は長くない。もしも少女が自殺した理由を知るものが居たとしたら、それは一人を除いて他にない。
 鈴仙・優曇華院・イナバ。
 狼から少女を救い、少女の病を見つけ、少女の手術を行った当人。
 鈴仙ならばなにかを知っているに違いない。鈴仙に事情を聞いてみよう。鈴仙が姿を消したのは、まさにそんなタイミングだった。
 それから二週間。
 迷いの竹林へ、魔法の森へ、妖怪の山へ、無明の丘へ。てゐはたった一羽足を運んでいた。当然のように収穫はゼロだった。
 配下の兎を使うことはできなかった。幻想郷の全てを庭の如く知り尽くしているてゐならいざ知らず、普通の妖怪兎を捜索に出せば少なくない犠牲が出る。それはたった一羽の兎のために受け入れて良い犠牲ではない。
 「頼むよ……。私じゃ無理なのは、分かってるんだ……」
 てゐの呟きに答える者は無い。
 鈴仙を物理的に探しだすのは不可能だ。少なくとも逃走と隠匿に関して鈴仙の右に出る者はない。よしんば見つけられたとしても、視線を交わした瞬間に認識を書き換えられてしまうだろう。
 だから、彼女を探そうとする者は他に居なかった。
 翌日から永遠亭は何事もなかったかのように再稼働した。当然だ。永遠亭の要は八意永琳であり、それ以外は換えの効く代替部品でしか無い。
 霊安室から自室へと続く廊下。
 見慣れたはずのそれに、てゐは胸の閊えを覚えずには居られない。
 「鈴仙。お前はどこでなにをしている。お前はなにから逃げてるんだ」
 風呂上がりの廊下。月明かりの差す縁側にぴんと伸びた背筋は無い。




 ◇◇◇


 三週の時が流れ、しかし手掛かりはなに一つ得られなかった。日に日に募る焦りに、てゐの視線を外から内へと歪めたのは自然なことだった。
 だからてゐはそこに居た。
 「何度言えば分るのかしら」
 「私はあなたの部下じゃない」
 無機質な声に振り向きもせず、てゐはファイルを捲る。
 「どこでなにをしようが。私の勝手でしょ」
 「ここ、私の部屋」
 てゐの目前にあるのは壁一面の書架と、隙間なく詰められたファイル。足元にあるのは、身長ほどに積み上がった書籍の山。
 怒涛の勢いで続くため息を気にもとめず、てゐはまたファイルを捲った。
 「あー……、教えてくれないのが悪い」
 「あなたは医療スタッフじゃないわ。本人の同意もなく患者のカルテを見せるのはねぇ。コンプライアンス上色々と問題が」
 「先生! ちょっと、先日の患者さんについて勉強しておきたいところがありまして」
 「研修生が増えてた……。記憶にないわ……。歳かしら……」
 手術の前夜。鈴仙が少女に説明した手術の概要をてゐは聞いていない。
 だからてゐが探すのは少女のカルテだ。少女の死と鈴仙の失踪は決して無関係ではない。行方を探せない以上、その理由を探るしかない。その考えに至るまでにそれ程多くの時間は必要なかった。それが期待的観測に基づく行為であることは、てゐ自身も理解していた。
 「調べるのは構わないわ。でも私は手伝えない。薬の調合があるからね」
 「えー、冷たいですよぉ。せーんせ? こーんな可愛い教え子の頼みじゃないですか?」
 「それ、言ってて辛くない?」
 「いや。多分お師匠様の方がダメージありそうだったから」
 机と書籍の山を挟んで向かい合うのは赤ら顔が二つ。そして咳払いが一つ。至極真面目な顔で永琳は口を開いた。
 「あの子の治療は優曇華が提案から実行まですべて取り仕切った初めてのケース。だから、どんな結果であれ全てあの子の責任よ。少し厳しい言い方をするならば、術後のケアを怠り、患者を自殺させたのは重大な過失」
 何度も言ったはずよ。さも当然のように永琳は言った。
 「承認したのはあなたでしょうが……!」
 「そうよ。私が随所でチェックと指導を行い。計画の修正をした。施術中の補助もした。だけど、責任者はあの子。だから、なにかすべきことが残っているのだとしたら。あの子自身がやらなければならない」
 殴りかかろうという衝動をすんでの所で抑えられたのは、てゐが賢かったからだ。腕力で蓬莱人に挑むことの愚かさを知っていたからだ。
 だからてゐは手を握りしめることしか出来なかった。
 「似たもの同士ね。あなた達は」
 押し殺したような笑いに、てゐは顔を上げる。どういう意味だ。てゐの問いに永琳は呆れたような吐息を返す。
 「私思うのよね。藁と言うのは、溺れを自覚するのには役立つと。自覚すれば対策が打てる。だけどね、藁にすがった所でバランスと酸素を失うだけなのよ」
 「なにが言いたいの?」
 その笑みに悪意は感じられなかった。だが、その内に秘められた意味を理解できると楽観するほど、てゐは自惚れていなかった。
 「溺れた時に必要なのは冷静な心。ただそれだけということよ」
 「諦めろってこと……?」
 「それは他人の決めることじゃないわ。言ったはずよ。私は手伝わないし、あなたの邪魔もしない。私が害するのは他者の自由を奪おうとする意思。それだけ」
 だからそれは私の優しさよ。そう続けて永琳は座椅子に座った。
 「それは強者だけに許される考え方だよ」
 その言葉に返事はない。待てど暮らせど返ってくるのは紙が筆を撫でる音ばかりだった。結局、それっきり永琳が口を開くことはなかった。
 そして資料を漁ること三十分。ようやく見つかった少女のカルテは、当然のようにてゐが理解できるものではなかった。分かるのはウィルスらしき弾丸状の図と、施術に参加した兎の名前程度。恥も外聞も捨てて背後の宇宙人を頼るべきなのか。てゐが偶然にも足元に落ちるドイツ語辞典を見つけたのは、そんな事を考えていた時だった。
 苦笑しながらてゐはカルテと辞書を指でなぞる。散文的なそれは、やはり意味らしい意味は見いだせなかった。咳や熱、そして外傷等を指す一般的な用語が並ぶだけだった。
 しかし欄外に記された一つの単語に、てゐの目は留まる。
 『ミルウォーキープロトコル』
 幾ら辞書を辿れど、単語の一部が米国の工業都市を指す以外に分かる事は無い。それでも手帳に書き留めずには居られない。
 「私達は弱い生物なんだよ。あんたと違って」
 背に掛けられた視線に、てゐは気がつかない。






 ◇◇◇


 「全く。変だと思ったんですよ。てゐさまが私一人を連れ出すなんて」
 「悪かった。悪かったよ、ほら。あんみつ食え。他にも食べたきゃ好きなだけ頼んで良いぞ。今日の私は大蔵大臣だ」
 膨れた面が白玉を口に運ぶ。二度三度咀嚼すると、それは見る間に蕩けた笑みに変わった。
 「大嫌いでございますよ。てゐさま」
 これだからタナカは扱いやすい。心の中でしめしめと笑い、財布を覗きこんで涙を流す。多分、大丈夫。一息を吐いててゐはタナカと向かい合った。
 そこは里の甘味処。和菓子はもちろんのことバターやクリームを使った洋菓子までも扱う人気店であるが、平日の昼間と言う事もあり客はまばらだった。
 今日のタナカは非番であり、てゐに休日や出勤日と言う概念はない。
 「あの日鈴仙さまが行った手術について話せだなんて……。ていうか、私が助手やってたってどこから知ったんです? 業務に関わることはてゐさまにも話すなってキツく言われてるんですが」
 「まぁ、人の金であんみつ食いながら言うことでは無いよな」
 「お仕置きですよ。これバレたら間違いなく! お師匠様、約束事には厳しいんですから!」
 「でもあんみつは食うんだな」
 「当たり前です! 滅多に食べられないんですから!」
 永遠亭の妖怪兎は衣食住を保証される代わりにほとんどタダ働きだ。お小遣い程度の金額は貰っているはずだが、里の甘味処は頻繁に訪れられるような場所ではない。
 「吐きますよ吐きますよ。ゲローっと吐くまで食べますからね」
 「お手柔らかに頼むよ。で、だ。早速なんだけど、お前ミルウォーキープロトコルって聞いたことあるか?」
 「ミルウォーキープロトコル?」
 タナカは瞳を閉じてうんうんとうなる。みたらしを一つ。あんみつも半分ほどが無くなった頃に、ようやくそれは手を叩いた。
 「私もみたらし下さい」
 「ぶっとばすぞ」
 頬をつねられたタナカが恨めしげな目を向ける。赤くなった頬に白玉を一つ放り込み、タナカはようやく口を開いた。
 「確かに手術前の鈴仙さまはそんなことを仰られましたよ。……別に名前を付けるほど大仰な手法じゃないとも言ってたので、印象薄かったんですけど」
 「素直でよろしい」
 あっ抹茶くださいアイスで。その小さな体のどこに入るのか。届いたみたらしは見る間に半分ほどまで数を減らした。
 正直私も聞いただけなので理解はしていないんですけれど。そんな前置きと、ほっぺたに醤油ダレを付けたまま、タナカは語り始めた。
 「なんでも狂犬病による直接の死因は一時的な脳の麻痺による呼吸不全らしいんですよね。過去の記録によると、狂犬病による死者の脳を調べても目立ったダメージは見られないとかで」
 「ほぉ、それは初耳だ」
 「駄目ですよてゐさま。歳食ったからって、勉強しなくて良ってことにはならないんですから」
 「屋上へ行こうぜ……、久しぶりに……、キレちまったよ……」
 「ここ平屋ですよ。起きて下さいてゐさま」
 葛餅を一つ。アイス抹茶を啜り冷静になった頭でてゐは話を整理する。それ私の。うっせぇ支払いは私だ。
 「つまり、そのミルウォーキープロトコルって言うのは、呼吸を確保した上でウィルスへ対処する方法ってこと?」
 「そうですね。元より体には免疫機能が備わっていますから。脳だったらミクログリアとか。狂犬病の致死率が極めて高いのは、その免疫応答が起こる前に呼吸機能を侵してしまうからなんです。なので逆に言ってしまえば、時間さえ掛ければ免疫系は十分に狂犬病ウィルスに対処できるらしいんです」
 木苺のミルフィーユください。
 「つまり、あの六日間。鈴仙はずっとあの子を眠らせ続けて免疫系の応答を待ったってことか?」
 「そうですね。抗ウィルス薬も投与しましたが。基本的には麻酔を掛けて人工呼吸に切り替え、定期的に髄液を採取したくらい。後はほとんど計器を眺めているだけでしたね。多分その後はてゐさまもご存知のとおりだと思います。あの子は無事に回復して、起きて話せる程度にはなっていましたが……」
 まぶたの裏に青い痣が浮かんでいた。物言わぬ肉と化した少女が浮かべていた表情をてゐは覚えている。
 「そうか。生還したと言っても、壊れた中枢神経系が治る訳じゃない。発症した時点で、なんらかの後遺症は免れなかった、と言うことか」
 それが、脚になるか手になるかは分からないが。確かにてゐには眼を覚ました少女が立ち上がる姿を見た記憶はなかった。人間ならば多少の麻痺程度ならリハビリで克服するという選択肢もあっただろう。しかし同様の事をノウサギに求めるのはあまりにも酷だ。存在意義を失った時点で、妖怪は既に死んでいる。杏仁豆腐を一つ。
 「おそらく、鈴仙さまもそのことは承知だったと思います。手術中もその後も。気丈には振る舞って居られましたが、どこか落ち着きが無かったように思いますし」
 直接的な失踪理由が少女の後遺症であるとてゐは確信する。しかし、全く同程度に胸のざわつきも覚えていた。
 重病人を主に扱う永遠亭で、患者が退院後に障害を抱えるケースは決して少なくない。過去に鈴仙が手術以外での形で担当した患者の中に、そんな者が居たことはてゐも知っていた。
 「さぁ、てゐさま。私が知ってることはぜ~んぶ吐きましたよ。後はもう吐くまで食べるだけですね。てゐさま、一緒にメニュー全部食べつくしましょう」
 それはわざとらしい笑みだった。嘘の苦手なタナカらしい上ずった声だった。
 「いいや終わってないよ。まだ一つ。一番大事なことを聞いてない」
 悪辣に釣り上げた口元で、てゐは告げる。あんみつに突っ込まれたスプーンががちりと音を立てる。
 「じゃ、それは私が知らないことですよ。きっと」
 がたりと椅子が揺れる。のけぞるタナカの視線が泳ぐ。
 「あの手術どうやって実行した」
 白玉がぽちゃりと透き通った水面に落ちた。
 「六日間だ。それだけの間昏睡状態を維持するだけの麻酔が無いことくらい、私は知っている。なにせそれを卸してる奴らは私の知り合いだからな」
 タナカは露骨に眼を逸らす。悪辣な笑みを崩さず、てゐはにじり寄った。
 「タナカぁ。将来あるかもしれないお仕置きと。確実に目の前に迫るそれなら。どっちを選ぶ?」
 この世の終わりを目の当たりにした様な顔がそこにはあった。ねぇ、どっちが良い。その目尻に溜まる雫を指先でつつき、てゐは問う。たっぷり十秒迷った後に、タナカは小さく首肯した。
 「お前を選んでよかったよ。タナカ。大好きだ」
 「うぅ……、これはあんみつじゃ足りないお仕置きを覚悟ですよ……。こうなったら……、店員さーん! 善哉スペシャルセットください!」
 あいよ。善哉スペシャルは時間掛かるけど良いかい。じゃ、宇治金時とあんこパフェも下さい。
 「あの手術はですね。鈴仙さまの能力を使って行われた、初めてのケースだったんですよ。これ。てゐさまには絶対言うなってキツーク。キツーク言われてたんですよ。あー、これでもう私お師匠様に顔合わせられない……」
 「安心しろ。骨は拾ってやる」
 「土葬やないですか。うちら……」
 これでもかと生クリームの盛られたパフェを、タナカはもりもりと平らげる。一心不乱に小倉餡を口へ運ぶその姿は、あまりに濃厚な悲壮感を伴っていた。
 ここに来てなんとも言えぬばつの悪さを感じ、てゐは小さく咳払いをした。
 「あいつの能力と言うと、玉兎通信か」
 「ええそうです。玉兎通信の麻酔機能を使って。百時間以上も連続でしたから相当におつかれでしたが。結果は御存知の通り何事も無く終わりましたよ」
 「驚いたな。あれ程医療には使いたがらなかった瞳を、それも百時間以上。一体どんな心変わりだ」
 「分かりません。突然に鈴仙さまから申し出があっただけですから。でも、鈴仙さま。本当にかわいそう。初めて眼を覚ました患者さんだったのに……」
 どくん。跳ね上がった心臓が脳漿を揺らした。
 胸の中で膨らむ疑問にてゐは顔を歪める。
 過去に鈴仙が担当してきた患者はいずれも麻酔から目覚めなかった。その原因が麻酔の投与ミスだけであるとは考えにくい。鈴仙の手術計画には承認実行共に永琳のサインが必要だ。そんな穴を月の頭脳が見逃すはずがない。
 そんな疑問がてゐの脳を圧迫していた。
 「なぁ、そう言えば鈴仙が担当した患者の直接期な死因って、呼吸不全だよな」
 麻酔には深度がある。大脳皮質を麻痺し、痛覚が鈍化している一期。中枢の一部が麻痺し、意識が消失するが外見上は興奮状態となる二期。脊髄等が麻痺し手術に適した状態となる三期。そして、延髄が麻痺し自発呼吸が停止する四期である。患者の状態や手術の内容によって適切な深度は異なるが、自発呼吸の停止を伴う四期を永遠亭で選ぶことはない。
 「はい。大体が四期まで進行した後に戻って来られなくなるので仕方なく」
 「ガソリン代も馬鹿にならないしな……」
 自発呼吸が停止すれば人工呼吸器をつけていても一週間程度で死に至る。そして、膨大な電力を消費する生命時装置を長期間動かせるほどの財力は永遠亭に無い。
 故に延命処置を行わない。酒に酔った鈴仙がそうボヤく姿を、てゐは一度ならず見た記憶があった。
 「いくら待っても、眼を覚まさないのか?」
 「一度経過を観察したことはありますけど、そんな様子はありませんでしたね。間違いなく麻酔薬の投与は停止していたはずなんですけれど」
 麻酔とはあくまでも一時的に中枢神経の機能へ干渉するものであり、投薬を中止すれば覚醒へ向かうのが道理である。もちろん麻酔による死亡事故が無いわけではない。しかしそれらは主にアナフィラキシーや腎不全といった要因で死に至る。
 故に、ただただ眼を覚まさないというのは通常なら考えられない事態だった。
 どくん、とまた心臓が跳ねた。
 それは湧き上がる悪寒だった。それは長年の経験が告げる勘だった。なにを示すのかは分からない。ただただ碌でもないなにかであると言う確信だけがあった。
 正体不明のそれに困惑するてゐを、タナカは不思議な眼で見つめる。
 声をだすことも出来ず、不意に生まれた沈黙を破ったのは無機質な電子音。タナカの胸ポケットに入った携帯電話だった。
 すみません。そう言って店の外に出たタナカは、間もなくして戻る。少しだけ慌てた様子に、てゐは事情を尋ねた。
 「すみませんてゐさま。急患が入ったみたいで、私先に帰りますね」
 「あっ、あぁ。済まなかったな。送っていくよ」
 「大丈夫ですよ。妹紅さんに話は付けてあるそうで。あんみつ美味しかったです」
 慌ただしく荷物をまとめたタナカは食べかけのあんこパフェに目もくれず店を出て行ってしまった。後に残されたのは、皿に残ったみたらし団子と新たに運ばれてきたスペシャル善哉セット。
 「一口で良いんだよ、一口で。こういうのはさぁ……」
 出されたものを残すのは不義理である。そんな信条の下にてゐは必死で善哉を胃袋に収めるも、丼の三分の一も減らない内に限界を迎える。トイレと丼の前を往復するだけの不審者と化したてゐの眼に映ったのは、見覚えのある顔だった。
 「昼間っから一人で甘味処なんて。相変わらず寂しいやつね」
 「お前も大概にキツくないか……」
 そこに居たのはカウンターで抹茶アイスとスペシャル善哉セットを堪能する朝倉だった。当然のように付き添いは一人も無い。
 「息抜きよ。息抜き。一人になりたいの。私は。たまには」
 「いつも一人じゃないか、お前……」
 「天才は孤独なのよ。あんたこそ。あの魔法使いはどうしたの?」
 「だから魔法使いって誰だよ」
 「あのアイロン掛けたい耳の、背の高い兎」
 「鈴仙は……、ちょっと忙しくてな」
 あー、ちょっと待って。またしても鳴り響く無機質な電子音に続いて、朝倉は通話を始める。それは夕飯の献立に関する他愛もない会話だった。
 「朝倉。あんたって、玉兎通信に詳しかったよね」
 「まぁ。あんたんとこの賢者様に色々資料貰ったし」
 「ちょっとだけ、時間を貰えない?」
 訝しげな眼が、てゐを見返した。




 ◇◇◇


 朝倉の開発した携帯電話は、玉兎通信の機能を解析し再現したものだ。送信できるのは音声とテキストデータに限られるものの、誰にでも利用可能で携帯性に優れていることから里を中心に広く普及した。
 そんな記憶を引っ張りだしながら、てゐは朝倉のそれを改めて眺めた。
 「この小さな箱によく詰め込んだもんだな」
 「逆よ。会話とテキストデータの送受信だけだから小さくなったの。それ以上の機能なら多分ショルダーバッグ型になってた」
 「うわぁ、売れ無さそう」
 「そう思ったからよ」
 朝倉は無造作に椅子へ腰掛けた。よっこいしょ。一息をつく姿に、てゐは相応の年齢を感じ取る。
 「あんたのせいだからね。ワクチン生産ラインの確保でまともに休んでないのよ」
 「おばさん臭いな。……なるほど」
 そこは朝倉邸内に創られた研究スペース。朝倉の言葉を肯定する様に、数名程の研究員は忙しくラボ内を駆けまわっていた。
 「現在までに罹患者五名。発症者二名。死者一名。でもまぁ、助かったわ。永遠亭からのデータ提供があったから。今のところ里の被害は驚くほど少なくて済んでいる」
 「礼を言われる様な事じゃない。疫病に関する情報の共有は協定に定められているし何より、それはウチの施設じゃ量産できない」
 「そんなことないわ。生産ラインの設計とスケールアップを考案したのは私。私の頭脳」
 「そうだね。お師匠様はそう言うの、苦手そうだ」
 「謝礼は後で届けさせるわ。そう言う協定だから……、って。今日はそう言う話じゃ無んだっけ」
 「分かってもらえて嬉しいよ。玉兎通信について。教えて欲しい」
 「あんたんとこの賢者様に聞けよ」
 「ちょっと、事情があってね……」
 「ふぅん……」
 舐め回すような視線。隠す気もない品定めにてゐは苦い笑みを返す。らしくもないそんな表情に呆れたのか。朝倉はにやりと笑ってから口を開いた。
 「まぁ、事情は聞かないであげる。だから、ね。分かるよね?」
 「分かってる。後で部下の兎達にジャンクを――、」
 言の葉も途切れない内にてゐの体は宙に浮いた。気がつけば白衣の中に抱き込まれていた現実に、てゐは眼を白黒させた。
 「モフらせろー、疲れてんのよぁー。ワクチン量産と配布の準備でぇ。稗田はトロくて仕事おそいし、小兎は話通じないしさぁ!」
 「へいへい……」
 朝倉と小兎の仲の悪さは有名だ。その間を稗田が取り持つことで、バランスを取っているのだが、今回のように朝倉が主導のプロジェクトとなるとそうも行かないのだろう。
 朝倉が増長し過ぎないよう、小兎が拗ね無いよう、稗田は奔走しているに違いない。後で稗田の様子も見てやらなければ。両耳をこねくり回されながら、てゐはそんなことを考えていた。
 「で、答えは」
 「答えられない」
 「おい、ふざけんな。金返せ」
 「モフっても良いのよ」
 誰が。腕と膝の間をくぐり抜け、てゐは白衣から脱出する。もう良い自分で調べる。いやそれ無理じゃね。言葉の通り壁一面の背表紙にてゐは目眩すらも覚えた。
 「大雑把すぎるのよ質問が。あなた一日中私の所で電磁気学の講義を受けたいの?」
 「絶対嫌だ」
 だったら、もっと具体的に言え。呆れたように朝倉は言った。
 「つまり、玉兎通信も無線通信も原理的には同じってこと?」
 「まぁ、どっちも電磁波を利用して情報を送受信するって所は同じよ。利用する器官に多少の違いがあるというだけで」
 素っ気のない返事にがっくりと肩を落とした。朝倉が研究者らしく、深くはあるが非常に狭い領域の知識しか持ち合わせていないと確信したからだ。それは玉兎通信のほんのわずかな部分を示す情報でしかない。てゐの知る玉兎通信は遥かに多機能であり、携帯電話とは全く似つかない。
 「でもなんで今更そんなことを? 私はてっきり、あの少女について聞かれるものと思ってたけど」
 「あ、あぁ。それも調べてはいるんだ」
 鈴仙が失踪していることはまだ永遠亭の外には漏れていない。ただしそれは隠しているのではなく、単に連絡するほどの価値がないと言うだけだ。
 「聞いたわよ。助かったんでしょ。すごいわね。医療記録の報告、楽しみにしてるわ」
 「結局は自殺してしまったけれどね」
 「あっ、やっぱりそうなんだ。まぁ、人間と違って妖怪だし仕方ないか。それよりさ、よくそんな手術ができたね。私も興味半分で調べたことがあるのよ。狂犬病発症後、ワクチンの摂取もない場合の実験的治療法で。実際にはミダゾラム等で安定な昏睡状態を誘導して抗ウィルス薬を投与する奴でしょ。だけど今の幻想郷じゃ、そんなのは不可能だと思ってた。生還例でもたった数日の施術に一億円以上の費用が掛かっている。こんなのまともにやったら山や里が傾くと思うんだけど。で、どんな魔法を使ったのよ? ただとは言わないから、教えてよ」
 邪気の無い笑顔だった。知的好奇心に溢れた残酷なまでに純粋な笑顔だった。そしてなによりも、人生の中盤に差し掛かってなおそんな表情を浮かべられると言う事実が、朝倉に他意が無いことを証明していた。
 「私も詳しくは知らないよ。多分、鈴仙がやったんだ。あいつの瞳で患者に麻酔を掛けて、後はありったけの抗ウィルス薬を突っ込んだ。それだけだ」
 朝倉は信じられないものを見るような眼でてゐを見ていた。どうした。そう聞くと朝倉は首をひねりながら答えた。どうやってだ。そんな単純な疑問だった。
 「嘘はつかないでよね。あなたの所の兎。鈴仙だっけ。あれの魔法も精神感応系っぽいけれど、魔法じゃそんなの無理よ。てゐさん。言ったでしょ。科学っていうのは精密だけど、魔法は大雑把。出力は出るけど、中枢神経網みたいな複雑な系への干渉は得意じゃない。百時間以上も継続して昏睡を誘導するなんて。魔法じゃ絶対に無理よ」
 「待て待て待て。何度言えば分かる。あいつは魔法使いじゃない。ただの玉兎だ」
 「嘘をつかないで。そんなことはあり得ない。妖術や魔術の類じゃないならどうやって神経干渉を実現しているってのよ」
 「そんなの言うまでもない。あいつは麻酔も無しに百時間以上の手術をこなしてみせた。魔法じゃないなら、玉兎通信以外にあり得ない」
 「初耳よ。私はずっとあれが魔法使いだと思ってた。いい? 玉兎通信っていうのは、ミリ波の発生・受信器官を核とする生体情報網<>よ。受信器官を通して伝達できるのは簡単な電気信号。つまりはテキストデータ位で、決して神経を操るようなものじゃない。だってミリ波は生体を透過する。神経への干渉はおろかその構造を探ることもできない。正直にはっきりと言わせてもらうなら、それは異常よ」
 気を悪くしたらごめん。最後の言葉はてゐに届かない。早鐘を打つ心音がそれをかき消していたからだ。加速度的に増す不安感に、吐き気すらも覚えていた。
 「あいつの玉兎通信には欠陥があるって。前に言ってたよね」
 「ああ。あいつは受信機能が死んでいる。だから、アンテナを補助として使ってやっと能力を使えるんだ」
 「私はずっと、あいつが自称してる狂気の瞳って言うのは魔法だと思ってた。私が賢者様から供与された資料と、丁度地上に遊びに来てたレイセンとか言う玉兎をふんじばって解析した結果からは、そうとしか思えなかった」
 国際犯罪クラスの告白もてゐには届かない。ただぐるぐると回り始めた頭に、嘔吐感を抑えるので精一杯だった。
 「あいつの眼。赤黒いよね」
 やっとの思いで小さく頷いた。
 「仮定の話よ。あいつの欠陥って言うのが、受信ではなく送信側なのだとしたら。例えばあれが、テラヘルツ波みたいな高エネルギー波長発生の余波なのだとしたら」
 「そんな訳ない。あいつは受信機能を持っていないから。私達はインプラントを埋め込んでまであいつと通信しているんだ」
 「あいつの眼を不用意に見た誰かが体調を崩したりとか。過去に無かった?」
 「そんなことある訳――、なくは、ないけど。でも、だとしてもありえない。だって。現に私達には何の影響も――。あいつは、インプラントが無いと通信も使えないくらい能力も弱くて――。だって、あいつはただの弱い兎で――」
 「私、前から疑問に思ってたんだ。あいつに近寄られると、頭にノイズが走る。そんな気がして。そんな経験は無い? ねぇ。そのインプラントって、本当に」
 通信補助機械なの?
 腹の底に響く朝倉の声に、また心臓が跳ねる。
 「そんな訳ない!」
 気がついた時には叫び声をあげていた。何故叫んだのか。それはてゐ自身にも分からなかった。単純に理解が追いついていなかったのかもしれない。まとまらない思考を抱えたまま、てゐは部屋を出る。
 「おかしいじゃないか。それじゃまるで……、まるで……、」
 あれの瞳が、障害であるみたいじゃないか。
 ポケットから滑り落ちた携帯電話が、がしゃりと音を立てた。




 ◇◇◇


 『おはよう。レイセン』
 何度目の朝かも分からない。その日も機械音声から一日が始まった。
 無機質な音に続いて、その背が跳ねる。震える声がそれに続いた。
 選択。
 終了処理。
 流れ行く数値と文字列を、それは懇願する瞳で凝視する。ゆっくりと進むプログレスバーが全体の九割を指した時、それは停止した。
 エラー。
 真っ黒い画面を文字列が逆しまに流れ行き、緑のバーは見る間に縮む。瞬く間に戻る赤い画面に、彼女は狂乱した。
 止まれ、止まれ、止まれ。
 お願いだから、止まってよ。
 度重なる彼女の指示にも関わらず、エラーログは止まらない。でこぼこの虚を満たすのは、赤黒い光と無機質な機械音声。それ以外になにも無かった。
 『おはよう。レイセン』
 『おはよう。レイセン』
 『おはよう。レイセン』
 たまらず眼を開き、立ち上がる。頭を強打し地面に倒れる。びしゃりびしゃりと水音が響いた。酸っぱい臭いが鼻を突き、更なる嘔吐を呼ぶ。
 たまらず逃げ出した。
 外に飛び出して初めて、雨が振っているのだと気がついた。肌を刺すような冷たい雨だったが、そんなことは気にならなかった。
 行く宛ては最初から存在しない。逃げ場は幻想郷中の何処にもない。
 ただただ、走り続けていたかった。




 ◇◇◇


 「なにを、しに行くつもりかしら?」
 「ちょっと散歩に」
 予想通りそこには彼女が居た。どこまでも続く長い廊下の途中。地平の向こうに佇む玄関との間に。それは立っていた。
 「散歩にしては、荷物が多いんじゃないかしら?」
 「最近夜道は物騒だからねぇ。色々と準備をしておいた方が良いかと思ったんだ」
 てゐの背中に担がれた巨大なリュックを指差し、八意永琳は言った。
 「お師匠様こそ、こんな夜更けにどうしたんですか。廊下に突っ立って」
 「最近夜中は物騒なのよねぇ。ネズミが這い回ったりしてて」
 動けない患者にとってネズミは脅威なのよ。そう言って永琳はくつくつと笑った。ネズミ退治用の短弓が静かに揺れる。
 「そうですか。お気をつけて。お耳を齧られないように気をつけて下さいね」
 「言っておくけど、熱線暗視装置なんかじゃ、あの子は見つけられないわよ」
 額のゴーグルを握りしめ。てゐはそれを真正面から睨みつけた。いつも通りの張り付いたような笑み。しかし、その眼は大きく見開かれている。ネズミの一挙手一投足すらも見逃さない。そんな意思が瞳から放たれていた。
 「お師匠様には関係ない。言ったじゃないか。なにをしようが私の自由だって。だから私は私の勝手にやらせてもらう」
 「いいえあるわ。大有りよ。だって言ったじゃない。他人の自由を脅かす一切は私の敵だって」
 そう言って永琳は体をずらす。てゐの行き先を塞ぐように、真正面に陣取った。
 「私はただの一度もあの子に医者へなる様に促したことは無い。鈴仙は自らの意思で医者になった。自分であの子の手術を選択し、そして逃げ出した。全てあの子の自由で。全てはあの子の責任。だから、私達はその一切に関知すべきではない」
 だから下がりなさい。低い声と共に空気が凍りついた。頬の薄皮がはじけ飛ぶことを感じた。それが錯覚であることは理解した時既に、てゐの体は半歩後退っていた。
 「あ、あんたは知っていたんでしょ。あいつの玉兎通信がどう壊れているのか」
 「当然よ。私が与えた力だもの」
 「だったらどうして。あいつが手術をした患者の行く末を、あんたが予想できない訳ない」
 「なんの問題もないわ。あの子に任せていたのは元から助かる見込みの無い患者ばかり。死因と時期が少し変わっただけ。ロクな治療も受けられず、苦痛とロープに縛り付けられるよりはよっぽど上等な死に方よ。あの子は間違いなく患者を救った」
 「それを決めるのは鈴仙だ。お前じゃない」
 怒気を孕んだ声が廊下を反響する。それが地平の彼方へ消え去っても、永琳は眉一つ動かすことは無かった。
 湧き上がる血液にまかせて永琳に掴みかかる。息の掛かる様な距離に冷たい瞳があった。
 「お前の寿命は無限だ。どれだけの失敗をしようと死ぬことはない。どんな心的外傷を植え付けられようと、時間がそれを薄めてくれる。だけど、私達は違う。兎の寿命は短い。お前から見れば刹那にも満たない」
 無感情な瞳は天井を見上げていた。
 「私達は一つのミスであっさり死ぬ。孤独に心を殺されて死ぬ。心的外傷が薄まるよりも早く寿命が来て死ぬ。どうして理解できない。どうして理解しようとしない。あなたほどの賢者が、どうして自分が他者と異なることが分からない。兎は……、鈴仙は一人じゃ生きられない。私達はそんな風に作られていない。お前の基準をあいつに押し付けるな。蓬莱人」
 懇願にも近い声だった。噛み付くようなそれを前にしても、永琳は眉の根一つ動かさない。ただ優しくてゐを押しのけ、冷たい視線を送るだけだ。
 「あなたはもっと、賢いと思っていた」
 揺れる行灯が矢尻の先が鈍く光らせる。逃げるべきだ。てゐの本能は明確にそう告げていた。当たり前だ。蓬莱人と兎ではあまりに差が大き過ぎる。勝負にすらならないことは、理解していた。
 「私は……、私は……、ただあいつを。迎えに」
 地面に這いつくばっていた。尻もちを突いていた。後退っていた。
 無意識の内にそれらは行われた。
 「大丈夫よ。きっとあの子は帰ってくる。帰ってきた時に家が空っぽじゃ寂しいでしょ? だから、待つの。ただ、それだけの話よ」
 「そんな可能性に期待できるほど、私達は強くない……」
 「そうね。二度と帰ってこない。その可能性が決して低くない事は理解しているわ。でも――」
 続く言葉はてゐの耳に届かなかった。二度と帰ってこない。胸の内でそれだけを反復していた。それ以外のなにも考えることはできなくなっていた。
 「さぁ、戻りましょう」
 「嫌だ」
 間髪をおかず返された返事に永琳はほんのわずか眼を見開く。それから呆れたように目を細めた。
 「ねぇ、てゐ。私達はどうして個体性を獲得したのかしらね。個が無ければ生も死もないというに。寿命の発生と絶え間ないエネルギーへの渇望。それを受けれてでも個であることを選んだのよ、貴方達は。だというのにあなたはそれを奪おうと言う。あの子が決めたことをあなたは曲げようと言う。それを容認するなんてことは絶対にできない。ねぇ、てゐ。自由とはなによりも尊く、なによりも儚く、なによりも残酷よ」
 「なにが自由だ。なにが個体性だ。永遠亭は。あんたはどうなんだ。協定に縛られ、職務に忙殺され、山の不合理に振り回される。そんな状態でよく言う」
 「当たり前じゃない。それは全部私が選んだことよ。自由と義務はワンセット。私と姫が停滞を捨てることを選んだ。それに対する代償よ。全て私達が決めたこと。ねぇ、てゐ。自由があるからこそ。貴方達は個体として成立できる。成立した意味を忘れずに居られる。だから私はそれを守るわ。なにを犠牲にしたとしても。たとえ、姫の友人を殺すことになったとしても」
 引き絞られた弦と、冷たい矢尻をてゐはただじっと見つめていた。
 「残念よ。因幡てゐ」
 正気とは思えないわよ。冷静な声もてゐにはもう届かなかった。
 それが馬鹿な行為であることは理解していた。本能と途方も無い生で堆積した経験は止めろと告げていた。それら一切合財を理解して尚、押さえる術が無かった。
 「あいつは医者なんて目指すべきじゃなかった」
 懐の中、サイコロ状のそれをつかみ取りスイッチを入れる。
 不思議なことに、恐怖心はどこかに飛んでいた。
 「長く生き過ぎたのよ。あなた」




 ◇◇◇


 走って走って。
 枝や刺で肌は傷だらけになって、乳酸の溜まりきった筋肉は悲鳴を上げて、冷えきったから体に刺す雨は針のように痛かった。だが、それは全部好都合だった。
 頭のなかに響き続ける機械音声を、至らぬ自らを。一時だけ忘れさせてくれる。
 走り続けていたかった。
 だというのに、気がつけば彼女の体は地面に伏していた。体力の限界だと、機械音声が告げていた。
 そこは大きなブナの林床だった。幾重にも重なった葉と枝が辛うじて雨を防ぐ。雨宿りの場。傾いた視界の中には先客の姿があった。
 葉先から滴る水に怯え、涎を垂らす兎がそこには居た。
 彼女はもう医者ではない。
 彼女はもう軍人ではない。
 彼女はただの罪人だ。
 死神の姿に怯え、彼岸での浄罪に一縷の望みを掛けるだけの存在だ。
 そして彼女は瞳を閉じた。
 これ以上の罪を重ねたくなかった。それが罪を償う力ではないと知っていた。己にとっての相応がなににも干渉せずに生きることなのは、壊れた玉兎通信が証明していた。
 だというのに、彼女は玉兎通信を自ら立ち上げていた。気がつけば胸の内に兎を抱えていた。なぜなら彼女にはそれ以外になにも無かった。
 赤黒い光で照らしだされた体毛を前に、彼女は諦めたように息を吐く。
 彼女はなにかに縋らずには生きられない。
 なぜなら彼女は、弱い兎なのだから。
 『おはよう、レイセン』




 ◇◇◇


 脇腹からずるりと腸が落ちた。生臭い香りが部屋中を満たしていた。赤に浮かぶ茶の粒は夕食に出た筍ご飯だろう。
 その光景をてゐは無感情な瞳で見ていた。
 「あなた達はいつもそうだ。知った風な口を聞いて。なにもかも悟った顔をして。万能のふりをする。まるで自分は次元が違う存在だとでも言わんばかりに。それがずっと、気に食わなかったんだ」
 「そうね。私は月人だから。そう見えてしまったなら。ごめんなさい。それで、メスなんか取り出してどうするのかしら」
 てゐは無言でそれを永琳の右腕に突き立てた。ぶちりぶちり。生々しく響く健を断つ音に、てゐは笑った。
 「体が再生しないでしょ? あなたの作ったECMだ」
 「そうね。量子サーバーと全くアクセス出来ない。大気中の分子組換機<>は生きてるみたいだけど、DNA式プロセッサじゃ処理能力不足かしらね。それで、なにが言いたいのかしら?」
 「あなたはもう不死じゃない」
 「そうね。それがどうかしたの」
 「あなたを殺す。鈴仙をあなたから開放する。でないと、あいつは完全に壊れてしまう」
 「私はあの子を縛ってなんかいない」
 抜かせ。首筋に突き立てようとしたナイフは。しかし直前で動きを止める。メスの突き刺さった右腕が刀身を握りしめていた。
 「てゐ。もう止めなさい。地上で最も長い時を生きるあなたが。こんなつまらない事で命を落とすの?」
 「つまらないこと? 目の前で壊れようとしている奴を守ろうとするのが、つまらない?」
 「ええ。思い上がりで二度も死にかけるのは。十分につまらないと思う」
 腰から引き抜かれた拳銃は、構える前に宙を舞っていた。地面に突き刺さるのは短い矢。目前にあるのは短弓を構える月人。最早言葉にもならない叫びを上げて、てゐは地面のそれを引き抜いた。無謀な突進はほんのわずかに振るわれた弓により、遥か後方へと吹き飛ばされる。その体が起き上がるよりも先に、みぞおちへ拳打が突き刺さった。
 小さなうめき声に水音が続く。
 「まだ続けるの? 私はあなたが死んだら悲しいわ」
 返せ。返せ。鈴仙を、私に返せ。朦朧とした意識の間で、てゐはうわ言のように繰り返す。その視界は、既に霞で覆われていた。
 「馬鹿ね。あの子はあなたの玩具じゃない」
 「嫌なんだよ……、もう。一人で取り残されるのは。一人は寂しくて。とても怖いんだ……」
 「どうして。あなたにはたくさんの仲間が居るはずだけど」
 「違う。違う。あいつらは……、部下で。でも、あいつは……、あいつは。私のたった一人の――」
 口走りかけた言葉の意味を理解し、てゐは困惑した。到底許容できる言葉ではなかった。兎は弱い。全ての兎は守らねばならない。その身を神たらしめる概念に、例外などあるはずがないからだ。
 「違う。あいつは、私の部下だ。だから、守ってやらなきゃ駄目なんだ」
 それだけだ。飛び起きたてゐはしかし、その場に立つのがやっとだった。
 「笑ってしまうくらいの大馬鹿ね。あなたは。昔のあなたはもう少し冷静だったわ」
 頭二つ分は上から、絶対零度の瞳がてゐを見下ろしていた。それを睨み返そうとした瞬間。ぐらりと視界が揺れた。迫る地面に瞑った瞳。しかし、どれだけの時が経とうと衝撃がてゐを襲うことは無かった。
 「だけど私はそんな地上の民が好きよ」
 その無機質な声で、てゐは自身が抱きとめられたのだと理解した。頭を愛撫されているのだと気がついた。
 ふざけるな。その体を振り払おうとした手は寸前で止まった。
 「お師匠、さま……。あんた……」
 ふくよかな胸を通して伝わる心音が早鐘を打っていたからだ。
 「最初から分かってた訳じゃない。多分、全部は分かってない。停滞を解いて幻想郷に溶け込んで。あなた達と同じものを見るようになってから。少しだけ理解できるようになった、今はそう思う」
 どくん。どくん。冷たい声とは対照的に、焼けるようなそれがてゐの傍にあった。
 「地上での暮らしは長くないけれど、同じ長い時を生きる者として。多少は分かっているつもりよ。嫌よね。長い間生きるって。経験は一周して、物事の因果を大体理解してしまう。大抵の物事が焼き増しにしか見えなくなる。だからこそ、分からないが分からなくなる。見えすぎてしまうのよね。私達には間違いが」
 「そう。だから、私はあいつに間違った道を歩かせたくなかった」
 それは遠い昔の記憶だった。兎であることを諦めた兎が通った、果てない吊り橋の記憶だった。他にも道はあった。なだらかな畦道もあった。
 現在に至るまで、てゐは吊り橋を選んだことを後悔していなかった。しかし、似た道を通る兎が無事に歩み切ったケースを見たことも無かった。だから止めたいと思うようになった。それは、ある種自然な流れだった。
 「そうね。あの子はまだ幼い。やっとよちよち歩きを覚えた赤ん坊みたいなものかしら。でも、いつまでも歩行器に乗せていたら。決して歩けるようにはならない。間違いだと分かっていても。進ませてやるしかないのよ。私達は」
 「どうして、どうしてそんな事が言い切れるの? 現にあいつは行方不明なのに。兎は弱いのに」
 地上に住む多くの生物よりも兎は弱い。それを、てゐは誰よりもよく知っていた。だから、そう思うことは当然だった。
 「ずーっと。何万年も。何十万年も。何百万年も兎を見守り続けたあなたはそう思って当然よね。兎に限るなら間違いなくあなたのほうが詳しいわ。だけどね、てゐ。聞いて欲しい。私は、あなたより少しだけ長くあの子を見てきた。だから一つだけ分かる。自信を持って言えることがある」
 それは優しい笑みだった。本質的には無機質で、それでも生き物らしさを出そうという努力が見られる。柔和な笑みだった。
 「あの子は、あなたが思うほど弱くない」
 ただそれだけよ。それは拍子抜けするくらいに軽い声で、これまでに見たことのない表情だった。そんな様子にてゐはただただ困惑した。
 制御を外れた感情に発狂する寸前。がらがらと言うガラスの揺れる音が廊下に響いた。雨音がにわかに強くなった。行灯に揺れる影が、地平の向こうに見えていた。
 てゐは無我夢中で駆けていた。疲労を忘却して出された脚は、数メートルも進まない内にもつれて床に転がった。四度か五度かそんな事を繰り返した後、ようやくてゐは玄関に辿り着いた。
 立ち眩みと疲労で霞んだ視界は目の前の人物のシルエットを移すのがやっとだった。
 しかし、てゐには確証があった。獣らしくない伸びた背筋。アイロンを掛けたくなる萎れた耳。そして、紅に光る力強い瞳。
 「てゐ、墓穴の掘り方、教えて欲しい」
 胸に抱えられた兎の死体に、てゐは笑うことしかできなかった。




 ◇◇◇
epilogue


 『
 花果子念報 第■■■期 霜月の八
 永遠亭診療所にホスピス開設。院長に鈴仙・優曇華院・イナバ氏が就任。

 この度、永遠亭にホスピスが開設する運びとなった。これは不痔の病、寿命等で治癒の見込めない状態にある患者を収容する施設であり、その生活の質を高めることが主な目的である。
 院長に就任した鈴仙・優曇華院・イナバ氏(以下鈴仙氏)は次のように語る。
 「当院は全ての患者様が穏やかな余生を過ごせる様、最先端の設備・スタッフが揃えられています。また、里から直通の地下道も設けておりますので、ご家族の皆様も安心してご来院頂けます。当院の特徴は玉兎通信を利用した医療システムであり――」
 』



 「なーにやってんだ、こいつは」
 てゐは大げさにため息を吐きながらそう言った。時刻はお昼前。兎通りの少ない縁側で鈴仙が眠りこけていたからだ。
 「まーたモデルガンのカタログか。好きだねぇ。ほんと」
 分厚い本に突っ伏す鈴仙の口元からは、だらしなく涎が垂れていた。見慣れた光景で、それでいて懐かしいそれにてゐは肩をすくめる。そして、手ぬぐいを片手に近寄った。そして、優しく筋を拭いそのまま鈴仙の隣に腰掛けた。
 「本当に相変わらずだな。お前は。まぁ、私も暇だ。茶でも飲ませて貰うかね」
 懐から水筒を取り出し、中身を湯のみへと注ぐ。ラテン文字と顕微鏡写真の踊る図鑑を撫でながら、てゐは湯呑みを傾けた。
 「壊れてくれるなよ。お前は私の大切な――、」
 庭を抜ける秋風がぶるとてゐの言葉を切る。陽が差しているとはいえ、縁側で眠るのに適切な気温とは言えなかった。
 「全く手の焼ける。ブランケットあったかな」
 よっこらせと。重ねた歳を思わせる動きでてゐは立ち上がる。自室へ向けて出された足を止めたのは、太腿に感じる振動だった。小さな電子音に続いて、脳天気な声が鼓膜を震わせる。
 『おはろー、元気してた?』
 「うっせー黙れ。お師匠様は留守だから掛けて来んな」
 赤いボタンを押し込むと同時に、耳元の音声は途絶える。小さくため息吐いた後、首を傾げた。
 「あ……。ブランケットを取りに行く手間、省けた……、かな」
 眼下に眼をやりてゐは小さく舌を打つ。その人影がもぞりもぞりと動いていたからだ。
 「おはよう、鈴仙。休日まで熱心だね」
 「うにゃ……。おっしょー……、さま?」
 「そうよ。偉いわね、ほら撫で撫でしてあげる」
 「えへへ……。ごほーび、ごほーび……、欲しーな……」
 「プレゼントは用意してないなぁ。だから優曇華。きっとあなたは幸運よ」
 「らっきー……?」
 「ええ。ほら、庭の真ん中を見てご覧なさい?」
 蕩けた瞳をこすりごすり、兎は身を起こす。
 「にわとり」
 「そう。二羽のニワトリの隣よ」
 「うーん。シャスポーモデル1866が落ちてる……」
 ゆっくりと背筋が伸び、それに従ってまぶたが開く。完全にそれが見開かれた時、兎はカタカタと肩を震わせた。
 「えっ、マジ? 普墺戦争においてプロイセンが使用したドライゼ銃に危機感を抱いたフランスが第二帝政が持つ技術の粋を集めて製造し、見事ドライゼの倍の射程を得るに至ったにも関わらず、旧態依然とした軍事思想故に大敗北を記した普仏戦争で使われたあのシャスポーモデル1866?! 激レア品じゃない」
 そうよ。肯定の言葉も終わらぬ内に鈴仙は宙を舞っていた。美しいムーンサルト――永琳曰くは月の軍隊に古くから伝わる伝統的技術――にてゐは感嘆の息を漏らす。庭の中心へと降り立ったそれは、錆びついたバイヨネットとチェスナットブラウンのストックへ震える手を伸ばした。これ、貰っても良いのかな。もちろんよ。落ちてるんだからそれは拾ったあなたの物よ。甘い言葉に誘導されて、鈴仙の腕は伸びる。
 その指先がくすんだ銀を撫でる。節くれ立った手のひらが銃を掴む。兎の姿が庭から消える。二羽のニワトリがこけこっこと鳴いた。
 「ふがぁっ?!」
 潰れた蛙のような声が巨大な穴から響いた。
 「大丈夫かい、鈴仙。こんな所で地盤沈下だなんて、あなた余程の不運なのね」
 「人工的にな」
 「わたしゃ兎さ。鈴仙ちゃん?」
 当然と言うべきか強情と言うべきか。くつくつと笑いながら伸ばした手は何時まで経っても取られない。返ってくるのは、恨めしげな瞳だけだった。
 「ケガがないようでなによりだよ? 鈴仙ちゃん」
 ふてくされた頬は膨らんだまま。泥だらけの腕はシャスポー銃を抱き込んだまま。
 「……そんなこと言って、また私を騙す気でしょ。同人誌みたいに」
 「や、やだなぁ。私がそんなことするわけないじゃん……?」
 疑いの色を増す一方の鈴仙に、てゐは少したじろいだ。
 因幡てゐは知っている。
 本気キレた鈴仙はワリと怖い。そして鈴仙がキレるタイミングはてゐですら予想がつかない。サプライズにしては少々の――本当にわずかではあるが――やり過ぎがあった事に反省を覚えつつ、てゐは短い両手を精一杯に伸ばした。
 「ほっ、ほら! それ見てよ。本物でしょ? 苦労してお師匠様の倉庫から見つけたんだよ?」
 いぶかしげな眼が、双丘に埋もれるそれへ向けられる。大きな溜め息と共に、鈴仙の腕が伸ばされた。
 「まぁ、ありがとね」
 ぽんぽんとてゐの頭を叩いてから鈴仙はホスピスへ続く渡り廊下に足を向ける。
 「鈴仙どこ行くんだよ。今日は休みだろ」
 「休みの日だって患者さんは居るんだよ。様子くらい見に行ってあげなくちゃ」
 ぴんと伸びた背筋がわずかに揺れていることに、てゐは気がついていた。
 てゐは長い時を生きる兎だ。休むべき時に休まないことの愚かさを知っている。
 だから次にどうなるかわかっていた。
 睡眠不足で疲労した体は、渡り廊下の途中で立ち眩みを起こすだろう。そして、霞んだ視界は、廊下と診療所の繋ぎ目にある段差を見逃すだろう。中庭に落ちる兎の姿を見ながら、てゐは大きなため息を吐いた。
 「鈴仙」
 てゐは長い時を生きる兎だ。無謀なことに挑む兎の行末を知っている。
 だから、鈴仙がこの先何度も逃げ出しその身を危険に晒すと知っている。一度の失敗で全てを悟れるほどに鈴仙が聡くないことを知っているからだ。鈴仙と似たことをする兎を数えきれないほど見てきたからだ。
 「なによ。止めたって聞かないからね」
 土まみれの鈴仙がてゐを睨みつける。その膝にはわずかに血が滲んでいた。その手には薄い痣ができていた。
 「なんでもないよ。バーカ。好きなだけ倒れちゃえ」
 しかし、てゐはそれを助けようとは思わない。
 どれだけ苦しもうと助けるつもりはない。目の前で倒れていても手を伸ばしてやらない。ただ真横でその姿をずっと見ていてやろうと決めていた。
 なぜならてゐは性悪兎なのだから。
 「鈴仙!」
 起き上がった鈴仙の背を見送りながらてゐは思う。
 こんな生活をしているのだ、遠くない未来に寿命を迎えるだろう。その墓穴に向かって、ざまぁと叫ぶ準備がいつでもある。
 なぜならてゐは長生きなのだから。
 「なによ」
 だが、できるならば無事のその生を平穏無事に終えて欲しいと願っていた。十中八九は行き止まりか途中で自ら落ちるのだとしても、自らと同じ様に渡りきって欲しいと願っていた。だからてゐは笑顔で手を振った。
 「いってらっしゃい」
 なにより彼女は、友人なのだから。